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: 五年目の向日葵(ひまわり) (2)

 絵を抱えた慎二は、初めて来るスタジオ内をキョロキョロ見回しながら、依頼主の姿を探した。
 「慎二君!」
 窓越しに見える、庭の花壇に咲くサルビアに気を取られていたところに、待ち兼ねた、という声が飛ぶ。慌ててその方向に目を向けると、まさしく“衣装”といった服を着た佐倉が、こっちこっち、と手招きしていた。
 「凄い服だね。一体何の撮影?」
 佐倉の元に歩み寄りながら、思わず頭のてっぺんからつま先までを眺める。すると佐倉は、腰に手を当てて不愉快そうに眉を上げた。
 「…あのね。この衣装見たら、普通は理解できるもんじゃないの? ブライダルに決まってるでしょう。有名ブライダルブランドの新作用のポスター撮りよ」
 佐倉が着ているのは、真っ赤なドレスだった。どうやら、お色直し用のドレスらしい。慎二のイメージの中では、お色直し衣装といったらスカート部分がフランス人形のドレスみたいに大きく膨らんでいるドレスなのだが、佐倉の着るそれは、裾がストンと自然に床に流れている、あっさりしたドレスである。
 「今って、そういうドレスで披露宴やったりするんだ」
 「色々よ。貸衣装屋なんて、客のニーズに合わせて、クラシカルなものから現代的なものまで細かくラインナップしてるんだから。どう? 似合う?」
 「うーん…なんか、ブライダル用だって分かった途端、佐倉さんには似合わなく見…」
 言いかけた慎二の脇腹に、佐倉のストレートパンチが食い込んだ。
 「げほげほ…に、似合うよ。さすがにプロだね」
 「最初からそう言えばいいのよ。ところで、それが頼んだ絵?」
 佐倉の視線が、肩から掛けたカンバスバッグに移ったところで、慎二はまだ咳き込みながらも、その中から頼まれた絵を取り出した。
 それは、シンプルな額装を施された、薔薇の花の絵―――かなり昔に慎二が描いた絵だ。「真紅の薔薇が、花瓶に活けられてるか花束になってるような絵が欲しい」と言われて、それならば手持ちがある、と言って持ってきたものだった。前もって写真に撮って佐倉に送ってはいたが、実物を見るのはこれが初めての筈だ。
 「ああ、いいじゃない。写真で見るよりイメージに合ってるみたい」
 「どうやって使うの、これ」
 「ほら、こうやって、絵を持って撮影する訳よ」
 佐倉はそう言って、ポスターと同じポーズを取ってみせた。それは、絵を“持ってる”と言うよりは“提げてる”という感じ―――無造作な感じだが、絵柄はしっかりと正面を向いていた。
 「普通、ブーケとかを持つんでしょうけどね。今回のコレクション、ドレス1着1着に花の名前がついてて、あたしが着てるのは“スカーレット・ローズ”―――本物の花より、こうして薔薇の絵を持つ方がインパクトがあるでしょ」
 「なるほど…」
 「写実な薔薇じゃなく、ちょっとポップな感じのがアート・ディレクターの希望だったから、イメージぴったりじゃない?」
 そう言って口の端をつり上げる佐倉に、慎二も微笑を返した。

 撮影現場は、今、スタッフミーティングに入っているらしく、人があまりいなかった。一応ディレクターとカメラマンとは顔を合わせておかなくてはいけないので、慎二は暫しその場に留まらなくてはいけなかった。佐倉もモデルとしての打ち合わせは既に終わっているらしく暇そうだ。2人は、現場の片隅に置かれた椅子に腰掛けてミーティングが終わるのを待つことにした。
 「ところで、慎二君。この先って、どうする予定?」
 「この先?」
 「8月末で、あの子、20歳でしょ」
 「…ああ、その話か」
 未成年後見人は、その名のとおり、被後見人―――つまり透子が未成年の間だけ後見する役。20歳になったら、未成年ではなくなり、慎二は自動的に透子の後見人ではなくなるのだ。
 最近、バタバタしてて、そのことをあまり考えられずにいた。2週間ほど前、はるかが無事出産したとの連絡が本間から入ってからこのかた、それでも態度を変えないはるかの父と先生が大喧嘩になったり、先生とはるかの上司を保証人に立てて勝手に婚姻届を提出してしまったりと、尾道方面が慌しかった。そして慎二は、日々の仕事をこなしながら、あの震災絵画展にどんな絵を出すかをずっと模索している。気づけばもう暦は7月―――透子の誕生日まで、2ヶ月を切っている。
 「まさか、いきなり追い出したりしないでしょう?」
 「まさか。そんな真似しないよ。後見人て名目がなくなっても、透子の手助けはしてくつもりだし。ただ…」
 「ただ?」
 「20歳になったらいきなり、ではないにしても…やっぱり、このまま一緒に住み続けるのはまずいよな、とは思ってる」
 「まずい?」
 それを聞いて、佐倉は頬杖をつき、ちょっとからかうような目をした。
 「大人になったあの子に手を出しそうで怖いとか? それとも他に一緒に住みたい女が現れたとか?」
 「下世話だなぁ…そんなんじゃないよ」
 「じゃあ、何よ」
 「―――透子にはこれから、恋人だってできるだろうし。何の名目もない他人と同居してるってのは、誤解を招きやすいと思うんだ」
 本当はもう少し、慎二の心情は複雑なものなのだが―――これも理由のひとつであることは間違いない。佐倉もこれには同意見らしく、納得したような顔で頷いた。
 「そうねぇ。確かに、自分の彼女が血の繋がらない男と一緒に暮らしてたら、普通は嫌よねぇ。まあ、全然対象外な年齢ならまだしも、10歳違いって結構微妙だし、それ以上に慎二君、年齢不詳だから。案外、周りの人達、キミたちのこと同棲カップルだと思ってるんじゃないの」
 そう言って佐倉は面白そうに笑ったが、実際、近所の人にそれらしきことを言われた経験がある慎二は、あまり笑えなかった。
 「でも、逆のことも言えるね、それは。最近の透子、随分大人びてきたから、誤解する女は誤解するだろうし」
 「いや…オレのことは、どうでもいいんだけど」
 「悠長な…。あ、そういえばキミって、高校、こっちだったね。じゃあ実家って東京にあるんじゃない? なら、透子連れて実家戻ればいいのに―――ふたり暮らしじゃ誤解も多いだろうけど、親兄弟が一緒なら誤解されずに済むし」
 「……」
 これは、ちょっと、不意打ちだった。
 言葉に詰まった慎二は、曖昧な笑みを浮かべて、テーブルの上に置かれた小さな籠の中のキャンディに手を伸ばした。その反応に、佐倉は訝しげに眉をひそめた。
 「なんか、訳あり?」
 「……」
 「…結構キミって、謎の人物よねぇ。昔からよく分かんなかったけど、今ってもっと正体不明な感じ。多恵子ですら言ってたものね。“シンジってああ見えて結構謎の男だよ”って」
 「…ハハハ、そっか」
 恐らく、慎二の周辺では、誰の目にも多恵子が一番謎と矛盾に満ちた人物だったに違いない。その多恵子に“謎の男”と言われたとあっては、思わず苦笑してしまう。慎二は、まいったなという顔で苦笑いを浮かべると、手にしたキャンディを口の中に放り込んだ。

 多恵子の名前が出たことで、なんだか会話が途切れてしまった。
 佐倉は話し出すと口数の多いタイプなので、慎二からすると聞き役に徹することができて楽な相手だが、いざこういう沈黙に陥ると途端に困ってしまう。
 ミーティングが終わる気配もない。何か話すことないかな…と考えを巡らせた慎二は、何気なくテーブルの上の書類に目を向けた。
 そして、書類にクリップ留めされたメモに目を留めた時、慎二は一瞬、息を呑んだ。
 ―――そうか…明日って、5日か…。
 それは、撮影後のスケジュールが書かれたメモだった。「4日スタジオ撮影」に続いて「5日ロケ撮影」と書かれている。それで改めて認識した。明日が7月5日だと。
 明日が5日―――この沈黙の意味が、それでなんとなく理解できた。
 チラリと、向かいに座る佐倉の顔を窺う。佐倉は、手持ち無沙汰になったせいか、日頃ならまず手を出さないキャンディを1つ摘み、包みを剥いていた。煙草の代わりなのだろう。
 “何も訊かないで”―――無言の中に込められた言葉に、慎二は微かに苦笑した。訊く気などない。佐倉の立場は、去年この日の対応で、ほぼ察しがついている。
 クールな外見とは違い、思いのほか人の面倒をよく見る佐倉。あんたなんか知らないわよ、という顔をしながら、密かに友達のために動いていたりすることもしばしばだ。慎二にしたって、さして親しい訳でもないのに、こうやって声をかけて仕事を紹介してくれたりする。佐倉はそういう、姉御肌の女性だ。
 だから―――釘を刺されたのだろう、多恵子から。たとえ何があっても、慎二には何も言うな、と。放っておけば佐倉は、その人脈を駆使してでも慎二を探して、連絡をつけようとする筈だから。

 ―――でも、意外と嘘をつくのが下手なんだよな、この人は。
 卒業以来連絡を取ってない、多恵子のことは忘れた―――それが事実なら、あんなに動揺する訳ないのに。

 佐倉が、多恵子の居場所が言えない理由は、ただひとつ。それは、もう、とっくに察している。けれど…残り1パーセントの可能性を潰す役を、佐倉に求める気は、もうない。可哀想だ―――誰よりも、恐らくは慎二よりも多恵子を愛してやまなかった佐倉に、その役をさせるのは。
 蒼褪めた顔をして、震えを誤魔化しながら煙草をくわえた去年の佐倉を思い出し、慎二は静かに視線を逸らした。可能性がほとんど消えた分、今年の7月5日はむしろ穏やかになりそうだ―――そう考えながら。

***

 ―――おかしい…。
 自分の目覚まし時計を止めた透子は、平日の朝なら毎日必ず聞こえてくる筈の慎二の目覚まし時計が聞こえないことに、言いようのない不安を覚えた。
 カレンダーで確認する。7月最初の月曜日―――今日は、5日だ。
 目覚ましを放り出し、ベッドから抜け出ると、部屋を出て慎二の部屋のドアをノックしてみる。ノックごときで慎二が起きないことは分かっているが、念のため。
 「慎二…?」
 「んー、起きてるよ」
 「えっ」
 意外にもしっかりした声が部屋の中から返ってくる。透子は慌てて、慎二の部屋のドアを開けた。
 慎二は、ベッドにはいなかった。机に向かって、スケッチブックの上に絵筆を走らせていた。ベッドの上には、何枚もの描き損じたスケッチ―――スケッチブックから破り捨てられたものらしい。
 「慎二…随分早起きだね」
 「いや、実は、寝てないんだ」
 「え!?」
 「昨日の夜から描き始めて、ごちゃごちゃやってるうちに、朝になっちゃって」
 昨日は日曜日だったが、慎二は仕事だった。佐倉に頼まれた絵を撮影現場に持って行ったのだ。送り返してもらうのも悪いから、と撮影が終わるまで待っていたのだが、これが結構時間のかかる撮影で、結局慎二が帰宅したのは午後10時を回った頃だった。スタッフに飲みに連れて行かれたが、必死に逃げてきたのだそうだ。
 結局、それぞれの部屋に引っ込んだのは午前0時頃だっただろうか。ということは…もう7時間以上描いているということだ。
 「一体、何の絵?」
 「グループ展の絵」
 「ええっ。あれって、この1ヶ月のた打ち回って考えてるのに何も浮かばなかったんじゃなかったっけ? どうしたの急に。いきなり天啓が来た?」
 真っ白なスケッチブックを前にうなっている慎二を何度も見ていた透子が思わずそう言うと、振り向いた慎二は困ったような笑いを見せた。
 「いや、天啓、って言うか…寝ようと思って寝転がったら、突然、描きたいものが思い浮かんだからさ」
 「…見ていい?」
 返ってきた笑顔にOKの意味を汲み取った透子は、おずおずと慎二の傍に歩み寄り、慎二の背後から描きかけの絵を覗き込んだ。
 それは、不思議な絵だった。
 荒れ果てた荒野のような、無機質な灰色の地面。それが、どこまでも続いている。スケッチ段階なので、細かな起伏などはよく分からないが…とにかく、その地面は、慎二の絵とは思えないほどに、暗く沈んだ色をしていた。
 そして、その中央に―――ひまわりが1本、真っ直ぐに、立っていた。
 大輪のひまわりは、真っ青な青空を見上げている。夏の日差しを浴びて背筋を伸ばすその花は、周囲の荒野とは対照的に、のびやかで、生命力に溢れて見えた。青空には、真っ白な雲が浮かんでいる。これは、夏の雲・積雲かもしれない。眩しい白と青のコントラストも、やっぱり生命を感じさせるものだった。
 「これが…震災の絵?」
 「うん」
 ―――ありえない、こんな光景。
 そう…あの場所に、こんな風にひまわりが咲く筈がないのだ。焼け焦げたあの地面に根を下ろせるのは、せいぜい生命力の強い雑草だけだろう。こんな綺麗な花なんて咲かない…これは、メルヘンだ。
 そのことは、慎二だって知っている。慎二はあの時、あの場所にいた。透子が見たあの光景も、誰だか判別不能になった両親と弟の遺体も、慎二は透子と一緒に見ている。なのに…何故こんな花を描くのだろう?
 「もっと悲惨な絵、描くのかと思ってた…」
 「ん…、多分、他の仲間は、結構深刻な絵描くと思うよ。特に本間さんはね」
 「なのに、どうしてこの絵にしたの?」
 「…なんで、かなぁ…」
 眉をひそめる透子に、慎二はふわっと微笑んだ。
 「兄貴ならさ。ジャーナリスト志望の兄貴なら、きっと、もっと悲惨さを訴える絵を描くと思う。はっきり言うなら、“死”を―――透子が直面したあれを描くと思う。けど…オレが伝えたいのは、悲惨な現実の記録じゃないから」
 「……」
 「現実を知らない人達や忘れちゃった人達に、悲惨さを訴えて、それに同情してもらって寄附を集めるってのは…確かに、こういうチャリティーではスタンダードな方法なんだと思う。でも…透子は、同情って大嫌いだろ?」
 この世で一番嫌いなもののだ。透子はコクン、と頷いた。
 「オレも、あんまり好きじゃない。可哀想がられるのって。…それよりは、頑張ってる姿を見せて、応援してもらう方がいい。たった1本でも、こんな荒れてる土地でも、こんなに頑張って綺麗な花を咲かせてるよ、って…このひまわりが、雨にも風にも倒れないように、みんなで支えて下さい―――って訴える方が、オレが伝えたい事に近いと思ったんだ」
 「…そ…っか…」
 もう一度、彩色の施されたスケッチに目を移し、透子は口元を綻ばせた。

 …慎二は、不思議な人だ。
 慎二の目には、何か特殊なフィルターでもかけられているのかもしれない。慎二の目を通すと、どんなものも優しい色合いに変わってしまう。
 それは、ただ単に心が弱いから、とか、現実を直視するだけの勇気がないから、とか言う人もいるけれど…違うということを、透子は、透子だけは知っているから。
 悲惨な絵に目を背ける人も、もう終わったことと冷めた目で見る人も…きっとこの優しい絵には、一緒に応援しようという気持ちになってくれるかもしれない。…こんな時、優しさが、大きな力となる。

 ―――やっぱり、好きだなぁ…。


 慎二の絵でなければ、偽善だ、ただの御伽噺だ、と反発したかもしれないこの絵を、透子はとても気に入った。
 だから、今日が7月5日であることも忘れ、慎二が何の異変もなくこの日を過ごしたことに疑問も感じず、1日を幸せな気分で送ることができた。


 この絵が大嫌いになる日が来るなんて―――この時の透子は、夢にも思わなかったのだ。


***


 「お前…日に日に逞しくなってくなぁ…」
 実習から戻ってきた透子を見て、荘太は、ブリックパックをすすりながら感心したような呆れたような声を出した。
 「今日の実習って、どこだったんだよ」
 「…利根川上流」
 「なるほど…川で石拾いか」
 「鉱物採集!」
 透子が今、講義室の隅っこを利用してせっせと机の上に並べているのは、利根川上流で拾ってきた様々な石だ。透子が専門としたいのは空関係の気象学だが、2年生の今はそればかりを履修できる訳ではない。こんな風に鉱物採集もやらなくてはならない。石1つ1つは軽いのだが、纏まると結構重い。これを持ってバイトに行く訳にもいかないので、種分けをここでしてしまおうという訳だ。
 「早く、お天気一色な生活になりたいよなぁ…。やっぱり、転部試験でちょっと遅れたのが敗因だよね。気象学関係、結構人気あるんだもん。定員オーバーで入れなかったとこあったし」
 「今更ながら後悔してるとか?」
 「まさか。今、すっごい楽しいもん」
 ちょっと目を上げて笑う透子に、荘太も笑い返す。既に9月も終わり―――2人の間の空気は、次第に、昔と同じものへと変わりつつある。
 「地学って面白いよね。天気もそうだけど、こういう鉱物学にしても地質学にしても…あー、地球って生きてるんだなー、って実感する。あの震災にしても、地面なんて動かなくて当たり前と思ってる私達の方が傲慢だったんだな、って最近思うもん。生きてる地球なんだから、動いて当たり前だよね」
 「まあ…確かになぁ。象の背中の上で昼寝してたら、象がちょっと身震いしただけ、って感覚に近いものはあるかも」
 たとえとして正しいかどうか不明だが、荘太はそう相槌を打った。
 「そうそう。今同じ講座にいる子で、将来、気候をコントロールするような技術ができないだろうか、って思ってる子がいるの。ほら、温暖化とか色々言われてるじゃない? ああいうのを、人間の技術力でなんとかできないか、って。オゾンホールを再生するとか、海に無尽にパイプを張り巡らして海水温度を調節するとか。荘太、どう思う?」
 「…俺は、好きじゃないな、そういう考え方。他の動物は、そんな真似しないだろ。自然を自分らの都合よく操作しようなんて、それこそ傲慢なんじゃないか?」
 「だよねー! 自然をコントロールするなんて、間違ってるよねぇ!?」
 「…さては、そいつと喧嘩したんだろ」
 妙に憤慨したような声を出す透子にそう突っ込みを入れると、透子は、石を並べながらも肩を竦めてちょっと舌を出した。
 「ま、ね。利根川で石を選り分けながら、結構なバトルをやらかしちゃった」
 「お前、絶対血ぃ多いって。献血しろよ献血」
 「まだ体重が足りないんだもーん」
 「もっと食え! 太れ! 工藤さんにレバー食わせるより先に、自分の食いもんちゃんとしろ!」
 「荘太は逆に太らないように注意しないとまずいんじゃない? 陸上辞めても食事を減らさなかったら、その分、全部贅肉に変わるよ?」
 「バイクで消化するからいいんだよっ」
 「じゃあ、早く買わないとねぇ」
 「うるせー」
 まだバイクの購入費用の貯まらない荘太は、不貞腐れたようにブリックパックを握り締めた。実は荘太は、バイク購入の件で毎朝のように千秋にチクチクと苛められているのだ。
 ―――結構、千秋と荘太ってのもお似合いかもしれないよなぁ。
 自棄になって、握りつぶした紙パックをゴミ箱に放り込む荘太をチラリと見ながら、透子はそんなことをちょっとだけ思った。
 勿論、今の時点でそんな話を自分がする訳にはいかないが―――いがみ合っているように見えて、その実、荘太と千秋は結構仲が良いのではないか、なんて時々思う。もっとも、その仲の良さは、男女の仲の良さからは程遠いものではあるのだけれど。
 「…なんだよ」
 「あ、あははははは、なんでもない。千秋が、また弟君の昇段試験の特訓だって言ってたから。上手くいってるかなー、とか思っただけ」
 「ああ、その話か。あの弟、全然見込みないんじゃない? 去年もダメ、今年の春もダメ、そんでもってまた今年だろ? 本当に道場継げんのかよ」
 「千秋の方が筋は良さそうだよね…」
 「けどあいつ、もう道場継ぐ気、ないらしいぜ」
 初耳情報に、透子は目を丸くした。
 「えっ、そうなの?」
 「この前、バイク貸してもらった時に、偶然そういう話になってさ。もう諦めた、踏ん切りつけた、って。英語の教師目指すんだとさ。怖い先生になりそうだよなぁ…“先生”じゃないけど、竹刀とか振り回しそう。俺ん時の先生じゃなくて良かった」
 「…ふーん…英語の教師ねぇ…」
 ―――荘太も、教師志望だよねぇ…。
 「…だから、なんなんだよ、さっきから。その妙な含み笑いは」
 笑うのを我慢してるみたいな透子の口元を見て、荘太が不愉快そうに眉を顰める。慌てて普通の笑顔に切り替えるが、口元がムズムズして仕方なかった。
 「…あ、そう言えばさ。お前、よく考えたら、もう20歳になったんだよな」
 座っていた机から飛び降りながら、荘太は、ふと思いついたように切り出した。
 「うん。8月だもん、もうとっくだよ」
 「工藤さんって、そしたら、もうお前の後見人じゃないんだよな」
 「……」
 「いつまで一緒に暮らす訳?」
 …なかなか、辛い質問だ。
 ちょっと、目が上げられない。荘太の質問には答えず、透子は袋の中に残っていた最後の石を机に置いた。
 「…っととと、いや、べ、別に未練があって言ってる訳じゃないぞ」
 透子が答えない意味を、まだ同居していることを非難されたと思っているから、と解釈したらしい。荘太は慌ててそう付け加えた。勿論、分かっている―――透子は顔を上げ、少しだけ笑った。
 「そうじゃないよ。答えなかったのは、答えられないから」
 「え?」
 「―――分からないの。慎二、何も言わなかったし。私も、慎二が何も言わないのをいいことに、訊かないし」
 「…そうか」
 気の抜けたような返事とともに、荘太はまた机の上に腰掛けた。くるりと背を向け、種分けの終わっていない石の種分けに戻る透子の背中を見ながら、繕うような笑顔を作る。
 「ま、まー、いいじゃん。何も言わないってことは、このままってことだろ? 大体、後見人から外れたからって、即座にはいさようなら、って、あまりにも薄情だし。あの人、あんまり難しいこと考えてなさそうで時々心配だけど、この件に限って言えばなーんも考えてない方がラッキーっていうか、好都合っていうか…」
 「…慎二って結構、難しいことかんがえてるよ。ぼーっとした顔しながら」
 「―――もうちょい、明るい方向に考えろよ。人が持ち上げてんのに」
 拗ねたような荘太の声に、透子は振り返り、くすっと笑った。
 「ん…そうだね。ちょっと不安はあるけど、私もそういう風に思ってる。慎二が何も言わないうちは、何も考えないようにしよう、って」

 考えたくない―――慎二がいない生活なんて。
 苦しくて、苦しくて…毎日、想いを奥底に飲み込みながら慎二と過ごすのは、苦しくて仕方ないけれど。それでも…耐えられない。慎二がいない毎日なんて。
 でも―――慎二は、いつまで一緒にいてくれるんだろう?
 後見人ではなくなった今、透子は、慎二にとって“何”なんだろう…?

 ―――慎二は、私と一緒にいたいって思ってくれてるんだろうか。
 そう思っているから、後見人じゃなくなっても、あの家に置いていてくれるんだろうか。

 分からない―――でも、確かめたくない。透子は、この夏から抱え始めた新しい不安から、なるべく目を逸らしていた。


***


 秋は、瞬く間に過ぎていった。

 夏休み以降始まった講義の中に、2つほど実習を伴うものがあり、透子はシャベルと袋と軍手を手に山へ海へ川へ行かされた。実習そのものも結構大変だが、それをもとにレポートを作成するのが一苦労だ。図鑑や専門書を手に四苦八苦しなければならず、そのあおりを受ける形で、透子はちょっとバイトを減らす羽目になった。
 やっとバイクを手に入れた荘太に、ツーリングに連れて行ってもらったのは10月の末。「橋本は誘うな」などと言っていた割には、その初ツーリングには、透子が誘っていないのに、ちゃんと千秋も参加していた。相変わらず毒舌の応酬を展開する2人の姿は、ちょっと先生と叔母の関係を彷彿させる。恋愛に発展するかは別として、どうやら千秋は、透子の親友であると同時に荘太の悪友とも言えそうだ。
 慎二の仕事にも、特に変化はなかった。相変わらず雑誌、絵画教室、編集のバイトの3つを掛け持ちしながら、定期的に画廊に絵を展示させてもらっている。手頃な大きさを出しているからか、絵はぽつぽつと売れる。こうした慎二の仕事ぶりを見て、佐倉が「プロの画家だって胸張りたいんなら、10万の絵を30万で売る位の度胸と交渉術を身につけなさい」と発破をかけるのだが、慎二は「そんな無茶な」と言うばかり。やっぱりのんびりした仕事ぶりを続けているのだった。

 相変わらず、慎二は何も言わない。透子も何も訊かない。
 こんな生活が、このまま続いていけばいい―――朝目覚める時と夜眠りにつく時、そう願うことが、最近の透子の日課となりつつあった。

 

 「新聞見たわよ」
 と佐倉が慎二と透子の家を訪れたのは、グループ展初日を1週間後に控えた日曜日だった
 佐倉が突きつけたのは、グループ展の記事の載った、昨日の新聞―――主旨と開催期間、NPO団体の代表のインタビューと一緒に、グループ展のポスターのカラー写真が掲載されている。
 「この絵、キミの絵でしょ」
 「…よく分かったね」
 佐倉にはわざと知らせなかったのに―――思わぬところでバレてしまったものだ。慎二が引きつった笑いを浮かべる後ろで、透子も笑顔を引きつらせた。
 「あたし、開催期間中、ずっと北海道なのよ。まだ家にあるんでしょ? 見せてよ」
 さすがにそれを断る訳にはいかない。慎二と透子は、仕方なく、佐倉を家に上げた。

 佐倉がこの家を訪れるのは2度目だと思う。1度目は引っ越して間もない頃だ。部屋に上がった佐倉は、ぐるりと家中を見回すと、呆れたように眉を上げた。
 「相変わらず狭いなぁ。透子、よく耐えてるわね、この部屋で」
 「…別に困ることないもん。入りきらない荷物は、徒歩10分とこにあるレンタルのトランクルームに入れてるし」
 お茶を淹れるためにキッチンに立ちながら、透子はちょっと唇を尖らせた。
 「だーめっ。透子がそうやって甘やかすから、慎二君、さっぱり仕事に欲を見せないんだから…。いいこと、慎二君。今度のグループ展、ポスターに使われるなんて最大のビジネスチャンスよ。じゃんじゃん売り込みなさい」
 「…いや、オレ、あんまりこれをビジネスに結びつけるつもりは」
 「何言ってんの! 大体キミは、雑誌の仕事も原稿料の引き上げ交渉もしないし、オファーが来ても“これ以上何も絵が浮かびません”て言って断るし、よく言えば無欲だけどはっきり言って甲斐性なさすぎ! こういう時に自分の絵を美術関係者にアピールしなくてどうするの!」
 「はあ…」
 ―――そういう風に言うのが分かってるから、知らせなかったんだよね。私も慎二も。
 佐倉に怒鳴られて困り果てている慎二を見るのは面白いが、慎二同様透子も、このグループ展をビジネスチャンスとはとらえていなかった。なんだか、そうした下心を持って“チャリティー”と名のつく展覧会に絵を出すのは、いけないことのような気がして。
 それに、佐倉が「甲斐性がない」と言う慎二の仕事ぶりも、透子はちょうどいい位だと思っている。贅沢は好きじゃないし、広い家に住みたいとも思わない。狭い家の方が、慎二との距離が近くて、心が和む―――決して綺麗な家ではないけれど、ここは透子にとっては楽園だ。慎二にあったペースで仕事をしてもらって、今ぐらいの生活が維持できるなら、それで十分だと、透子は思っているのだった。
 それにしても、2つ年下の佐倉に、慎二はさっぱり頭が上がらないようだ。展示会場に行くならちゃんとしたスーツを着ろ、だの、顔に貫禄がなさ過ぎるから眼鏡をかけろ、だのと一方的にアドバイスする佐倉に「はあ」しか返せない慎二をチラリと見、透子は堪えきれず肩を震わせて笑った。
 「それで、絵は? そうよ、絵を見せてもらいに来たんだったわね」
 「…思い出してくれて何よりです」
 やっと本題に入ったらしく、慎二は佐倉を自分の部屋に案内したようだ。慎二の部屋のドアを開ける音とほぼ同時に、火にかけたケトルがピーッ、と音を立てた。
 ―――気になるなぁ…。あの絵、どんな色に仕上がったんだろう。
 邪魔にならないところに置いたイーゼルの上に、いつも白い布を被せて置いてある絵―――実は透子は、完成したその絵を、まだ見ていない。グループ展当日までは見ない、と決めているのだ。楽しみに取っておきたい、と思うものの、こうして誰かが絵を見に来ると、やっぱり気になってしまう。火を止めつつ、透子はつい、慎二の部屋の方に目を向けてしまった。
 幸い、透子の位置からは、絵そのものは見えない。少し離れた位置から絵を眺めている、腕組みをした佐倉の背中だけが見えた。
 「うーん…やっぱり、新聞の写真とは色が全然違うわね。慎二君には珍しく震災なんて重いテーマだから、実物はもっと暗い色かと思ってたら―――実物の方が更に明るいじゃないの。やっぱり慎二君の絵だわ」
 「ハハ…、まあ、オレはこういうのしか描けないから」
 「しかし、メルヘンよねぇ…。会場で浮かない? この絵。他って絶対、こんな平和な絵じゃないでしょうに」
 「んー、浮くかもしれないけど…他の絵見て落ち込んだ気分が、ちょっとでも明るくなれば、それもいいかな、と」
 「ま、確かにね」
 見ない見ないと思いながらも、つい、佐倉の背中の向こう側を見ようとしてしまう。透子は、お茶の葉が入った缶を手にして、未練を断ち切るようにシンクに向き直った。
 「―――ねぇ。ところで…なんで、ひまわり?」
 僅かな沈黙の後、唐突に、佐倉が慎二に訊ねた。
 「え?」
 「題材よ。震災起きたのって、1月じゃない。ひまわりはあり得ないでしょうに…なんで夏の花にした訳?」
 「う、うーん…」
 慎二が、答えに困ったような声を漏らす。でも―――確かにそうだ。今まで疑問に思わなかったけれど、何故ひまわりなのだろう?
 「…まあ、なんとなく?」
 「ふぅん…。ま、素直そうで、いい感じだけどね、ひまわりって」
 大した意味はなさそうだと思ったのか、佐倉はそんな風に言って、それ以上の追及はしなかった。もう十分絵を堪能したのか、「ありがとう、もういいわ」と慎二に告げた。

 …ただ。
 最後に、一言。
 本当に微かな声で、佐倉は一言、呟いた。

 「…そう言えば、ひまわりが好きな子だったな、あの子も…」

 「―――…」
 ケトルを持った透子の手が、ピタリと止まった。

 それは、多分、透子にしか聞こえなかった声。
 部屋の中にいて、絵をしまっていた慎二には聞こえなかったであろう、微かな声。
 聞きたくなかった―――震えだす手を必死に宥めながら、透子は、今耳にしてしまった小さな呟きに、激しい後悔を覚えていた。

***

 「―――透子?」
 部屋の扉の外から聞こえる慎二の声は、少し心配しているような声だった。
 「入っていいかな」
 「…うん。いいよ」
 机に頬杖をついたまま、透子は、小さくそう返事をした。
 扉が開き、慎二が顔を覗かせる。声同様、その顔もやっぱり心配しているような顔だった。
 「あの…大丈夫? 何かあった?」
 「どうして?」
 「なんか―――佐倉さん帰ってからずっと、夕飯の時もその後も、元気なかったから」
 ―――佐倉さんがいる間は、無理してたからね。
 普段通りの自分を演じるのに、並大抵ではないハイテンションを保たねばならなかった。そこまでしてやっと普段の自分なのだから、その落ち込みがいかに激しいかが分かろうというものだ。
 その位、ショックだった。
 佐倉が発した、あの一言は。
 「…別に。久々にたくさんお喋りして、疲れただけ。何? 何か用事?」
 「ああ…うん」
 少し邪険な口調すぎただろうか。慎二が戸惑ったような顔をする。けれど、透子が、答えを待つようにじっと見つめると、とにかく用件を伝えようと思ったのか、少し表情を和らげて口を開いた。
 「あの―――あの絵、だけど。当日まで見ないって言ってたけど、搬入する前に、一度見といてもらえるかな」
 「どうして?」
 「うん、実は…今回、チャリティーの一環として、展示する絵に購入希望者が出れば、その収益も寄附に回すことにしてるんだ。勿論、各地の展示会場回ってから最後の引渡しだけどね」
 「…ふぅん…そうなんだ」
 「それで、もし透子があの絵を気に入るようなら、最初から非売品扱いにしとこうと思って」
 「…私のために、取っておく、ってこと?」
 「うん、まぁ…透子のために、描いたようなものだし」
 ―――本当に?
 反射的に、そう言ってしまいそうになる。すんでのところで口を噤んだ透子は、唇をきつく引き結び、ちょっと俯いてしまった。

 ―――なんで、ひまわりを題材に選んだのか。
 分からない。けれど…佐倉の言ったあの一言が、どうしても頭から離れてくれない。
 “あの子もひまわりが好きだった”―――“あの子”。透子は直感的に、それが誰を指しているかを察していた。

 多恵子―――あの人が、好きな花。それが、ひまわりなんだ…。

 「…いい」
 「え?」
 「いい。見ない。非売品扱いにしなくてもいいよ。誰かに買ってもらって、そのお金を寄附するんでいい」
 俯いたままそう言う透子に、慎二は、常ならぬものを感じ、眉をひそめた。思わず部屋の中に入ると、透子と視線を合わせるように、床にしゃがんだ。
 「透子…どうしたの」
 硬い表情のまま俯く透子の顔を、少し眉をひそめた慎二の目が覗き込む。普段とは違う角度から自分を見つめる目に、透子はこみ上げてくるものが我慢できなくなってきた。
 「…き…らい…」
 「……」
 「嫌い。あんな絵、大嫌い」
 慎二の目が、大きく見開かれた。
 驚いた、というよりは、傷ついた、という目―――その目に、胸がズキンと鋭く痛んだ。でも、止められなかった。


 慎二―――本当に、私のために、あの絵を描いたの…?
 だったら何故、ひまわりを題材に選んだの?

 ひまわり…そう、今までも何度かそのキーワードはあった。
 東京の大学を受けると決意した日、私が選んだ花。その後、マウンテンバイクのお返しに慎二がくれたひまわりの花束に、思わず泣きそうになった。嬉しくて…私が気に入った花を覚えていてくれたんだと思って、嬉しくて…本当に、泣きそうになった。
 でも―――本当に、そう?
 慎二は単に、それが多恵子さんの好きな花だから選んでたに過ぎないんじゃない?
 あの絵も、私に多恵子さんを重ねて―――多恵子さんが好きだったひまわりを、そこに描いたんじゃない?

 違う。そんなことないって思いたい。でも…思わずにはいられない。だって、思い出してしまったから。最初にひまわりの花の絵を見た日のことを。
 尾道に行った年の、春。死んだように眠り込む慎二の傍らで、机の上に投げ出されていた、描きかけの絵。あれは…ひまわり畑の絵だった。慎二の中には、あの頃既に、ひまわりという花がしっかり根づいていた。それはやっぱり―――多恵子さんが好きな花だからに違いない。
 …大嫌いだ。多恵子さんなんて。
 もう、過去の人なのに。今ここにいるのは私で、多恵子さんじゃないのに―――私にとっては泣きたいほど嬉しかった思い出まで取り上げる。
 好きな絵だったのに―――大好きな絵だったのに、その絵までもが取り上げられてしまう。そう思わずにはいられない…!


 もう、限界だった。ぎゅっ、と唇を噛んだ透子は、顔を上げ、慎二の目を真っ直ぐに見据えた。
 「そうよ、嫌いなの! 私、わかんなくなってきた―――慎二があの絵をどういうつもりで描いたか、全然わかんなくなってきた。だから、いらない。私のためになんて残しておかなくていい。あの絵見て感動できる人いるなら、その人に売っちゃって構わないからっ!」
 言い切ると同時に、涙が零れた。
 唇も手も、震える。こんなこと、言いたくない―――けれど、こうして、体の中で渦巻いているものをぶつけないと、今にも気が違ってしまいそうだ。こんな形で怒りをぶつけないと、言ってしまう、最後の一言を―――“私は、多恵子さんの身代わりでしかないの?”と。

 肩で息をしながら、透子は涙を拭うのも忘れて、慎二の目を見据え続けた。慎二も、硬い表情で、透子の目を見つめ続けた。
 沈黙が、流れる―――お互い、視線を一度も逸らすことなく、ただ相手の目を見つめ続けた。そこに、相手の本心を見つけようとするように。
 やがて―――口火を切ったのは、慎二の方だった。
 「…分かった」
 少し掠れた声でそう言うと、慎二は大きく息を吐き出し、立ち上がった。
 「分かったよ。透子の言う通りにしておく。…ごめん。余計なこと言って」
 「……」
 「でも、透子が本当にそう思ってるんなら―――グループ展は、見に来なくていいから」
 静かに告げられた言葉に、透子はハッとして、顔を上げた。
 慎二はちょうど、部屋を出て行くところだった。扉に手をかけ、こちらを向いた慎二は、少し寂しそうな目をしている。それでも、涙を零し続けながらも顔を上げた透子に、微かな笑みを返した。
 「おやすみ―――あんまり泣くと、明日大変だよ」
 そう言うと、慎二は静かに、扉を閉めた。ぱたん、という扉の閉まる音に、透子は体の中が冷たくなるのを感じた。


 ―――違う…こんなことが、言いたかったんじゃない。

 けれど、口にしてしまった言葉は、もう、取り戻せない―――あまりの後悔に、透子は暫く、動くことすらできなかった。


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