←BACK二十四季 TOPNEXT→

11

: 五年目の向日葵(ひまわり) (3)

 『震災から5年を前に 震災を描く―――グループ・Fチャリティー絵画展』
 誰が書いたのか、手書きの立て看板がギャラリー前の路上に置かれている。
 ギャラリーの入口のガラス戸には、慎二が描いたひまわりの絵を使ったポスターが内側から貼られていた。それを見た透子は、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、ごくん、と唾を飲み込んだ。


 “あんな絵、大嫌い”―――嘘と本音が入り混じったあの言葉。
 別に、慎二が何を言った訳でもない。佐倉にしたって透子に聞かせるために言った訳じゃない。佐倉の独り言を耳にしてしまったのは、ただの偶然―――単なる不運に過ぎない。なのに、憤りをそのまま慎二にぶつけてしまった。取り返しのつかない、酷い言葉で、慎二を傷つけてしまった。
 翌朝、すぐに謝ろうと思った。けれど、朝起きてきた慎二の態度が、昨日のことなんて実は夢だったんじゃないかと思うほど普段通りだったので、その機会を逸してしまった。そして、機会を逸したまま…1週間、過ぎてしまった。
 グループ展を翌々日に控えた金曜日、あの絵は運ばれて行ったけれど、透子はその場面を見ていない。大学に行っている間に搬入されてしまったのだ。大学から戻ると、部屋の中は、大きな絵がなくなって若干広くなっていた。下絵の段階のあの絵を思い出し、やっぱり完成した絵を見てみたかったな…と胸が痛んだ。
 でも―――口にしてしまった言葉は、消えてなくならない。
 慎二だって、グループ展には来なくていいと言った。あれは実質「来るな」という拒絶の言葉だろう。きちんと謝って、その上で「来てもいい」と許可されたのならまだしも…拒絶されたままなのに、それを無視して押しかけるなんて、慎二を傷つけた自分には許されない行為だ。透子はそう思った。

 グループ展初日の日曜日。透子は、絶対に慎二に謝って許してもらおうという覚悟を決めていた。
 しかし、それはできなかった。朝、普段の日曜日通りに起きて部屋を出ると、既に慎二の姿がなかったからだ。
 『ごめん、言い忘れてたけど、初日はちょっと早めに行かないとまずいんだ。帰りは8時位になると思う。何かあったら、この電話番号にかけて下さい』
 ローテーブルの上に置かれたメモを呆然と眺めながら、透子は迷った。
 このまま、この部屋で、慎二が帰ってくるのを待つか。
 それとも―――グループ展の会場に赴くか。


 決めた筈なのに、ここまで来て決心が鈍ってしまう。逃げ帰りたい気持ちが半分―――でも、ここで回れ右をして帰れば、もう二度とチャンスは訪れないような気がする。
 ―――慎二に追い返されるかもしれないけど…でも、やっぱり行かないと。
 1週間、繰り返した自問自答の答えを胸に、透子は思い切って、ギャラリーのドアを開けた。

***

 グループ展は、新聞の効果なのか、はたまたテーマが社会的関心を惹きやすいからなのか、さして著名な画家が参加している訳でもないのに随分と賑わっていた。
 ギャラリーは、先生の画廊の3倍近い広さのある1階と、その3分の1程度の広さの2階から成っている。グループ・Fのメンバーは全部で10人なので、1人2点か3点出品しているのだろう。もっとも慎二は、あれ以上の絵は描けないから、と言って、あの絵1点しか出していない筈だが。
 室内は暖かかったが、透子はダウンジャケットを脱ぐ事も忘れて慎二の絵を探した。そして―――すぐに、見つけた。入口を入ると真っ先に目に入る、真正面奥の壁に。
 もう一度、唾を飲み込み、恐る恐る周囲を見渡す。どうやら慎二はいないようだ。透子は、小走りにその絵の方へと駆け寄ると、他の客の邪魔にならないよう、少し離れた場所からその絵を眺めた。
 その絵は、やはり、このギャラリーの中でも1点だけ異色だった。
 すっきりとした青空の下、鮮やかでありながらも優しい色合いのひまわりが立っている。その色は下絵の時以上に明るい色で、より鮮やかさが増していた。黒や赤、灰色などが目立つ周囲の絵の中で、その一角だけが、まるで別世界のように、透子には見えた。
 ―――腹が立ってくる位に、好みの絵だなぁ…。
 こんな光景、あり得ない。たった1本焼け残るなんてあり得ない。そう思っても…そう信じてしまいたくなる位に、優しい色。メルヘンだ、非現実的な絵だ、と思ってみても、そこに慎二の優しさを見つけて、泣きたくなってしまう。
 一度、床に視線を落とした透子は、大きな大きな溜め息をついた。とにかく、謝らなくては―――そう思って顔を上げた時、それまで気にしなかった人物に、透子の目が留まった。

 透子の2メートルほど前にいる、髪の長い女性。
 透子からは、その顔は全く見えない。が、ギャラリーの照明を反射してツヤツヤと輝いてる真っ黒な黒髪は、こんな髪、CMだけじゃなく実際にあるんだ、と思うほどに見事だった。厚手のシャツの下に細身のブラックジーンズというシンプルな服装だが、何故か透子は、その後姿にしばし見惚れてしまった。
 彼女は、さっきからずっと、慎二の絵を見ている。よほど気に入ったのか、ほとんど身動きすらせずに眺め続けている。もしかして慎二の知り合いだろうか―――ふとそう思った時、突然、彼女が振り向いた。
 「……」
 振り返った彼女と、目が合う。
 大学生、だろうか。どことなく少女っぽさの残る雰囲気の女性だ。黒髪と恐ろしいほどのコントラストを成す、雪みたいに真っ白な肌―――程よい大きさの目もやっぱり真っ黒で、まるで宝石かなにかみたいに、ライトを映してキラキラ輝いている。その目と目が合ってしまった透子は、別に何をした訳でもないのに、なんだか慌ててしまった。
 ―――全然知らない人なんだけど…。
 何故だろう。なんだか、見たことがある気がする。顔が、というより、この雰囲気…誰かを彷彿させる。誰だっただろう…?

 彼女と目を合わせたまま、透子が必死にそれを思い出そうとしていると、彼女は突如、フワリと微笑んだ。
 「いい絵だよね」
 まるで、透子がこの絵を気に入っていることを信じて疑わないかのような笑顔に、ちょっとうろたえる。
 と同時に、少し苛立つ。 透子と慎二の事情も知らずにこの絵を「いい絵だ」と言う彼女が、一体どういう理由で「いい絵」だと言っているのか、想像がつくから。
 暗い絵、グロテスクな絵が続く中、ここだけが別世界―――深い理由など考えなくとも、この絵に好感を持つ客は多い筈だ。明るくて優しい色で、いい絵だね―――彼女の柔らかな笑顔が、そう言っているように透子には見えた。
 「…ちっとも、いい絵なんかじゃないよ。この絵」
 視線を逸らした透子は、つい、そんなことを口にしてしまった。
 「そう?」
 「だって、こんな光景、あり得ないもの」
 「…あり得ない?」
 不思議そうに問い返す彼女に、また小さな苛立ちが起きる。あり得ない光景だということが、この人には分からないのだろうか―――報道で散々目にしているだろうに、あの惨状を。
 …でも、そんなものなのかもしれない。人の傷を見て「痛そうだね」と顔を顰める人も、別にその痛みを知っている訳ではないのだから。
 「…あなたも、やっぱり被災者じゃないんだ」
 透子は皮肉っぽい笑みを浮かべると、彼女の方を見た。
 「いい? 町中が焼け野原になったの。家は勿論、家が建ってた土の上だって、火が舐めるようにして進んでいったの。庭木はおろか、雑草だって燃えちゃったのよ。そんな土地に、どうしてひまわりなんかが咲くのよ」
 「……」
 「馬鹿馬鹿しい―――御伽噺もいいとこ」
 ―――違う。そうじゃない。
 捨て台詞のように彼女に言葉をぶつけて目を背けた透子は、心の中で自分の言葉に首を振っていた。

 この絵を描いた慎二は、あの惨状を知っている。およそ世の中の悲惨なものとは無縁そうな慎二が、あれだけの地獄絵図を散々見せられた果てに描いたのが、この絵なのだ。現状を知らない人間が描いた御伽噺なんかじゃない―――それを誰よりも知っているのは、透子自身だった。
 なのに…何故、慎二のことになると、こうも疑い深くなってしまうのだろう? 何故、たった1つの疑惑に振り回されてしまうのだろう? 普段はそんなことないのに…慎二に関してだけは、自分が猜疑心の塊になったみたいに思えて、情けなくなってしまう。好きな人を疑うばかりの自分に、心底愛想が尽きてしまう。
 挙句に、何の関係もないこの人に八つ当たりをして。
 最低だ―――これほど自分を嫌いになったことはない。泣きそうになった透子は、それを堪えるためにきゅっと唇を噛んだ。

 暫く、沈黙が流れる。
 八つ当たりされた彼女は、さぞ怒っているだろう。なんとか泣きそうな気配を抑えこむことができた透子が、謝罪しようと口を開きかけた時、彼女が先に口火を切った。
 「―――ごめん。気分悪くさせちゃったみたいだね」
 思わぬ言葉に、透子は少し眉をひそめ、顔を上げた。
 彼女は、困ったような笑みを浮かべていた。透子に対して怒ってるとか、そういう気配は微塵も見られない。
 「うん。私、震災の現場には行ってないの。行きたかったけど、足止め食らっちゃって無理だったんだ。そうだよね…ニュースで見た映像だと、こんな風にひまわりが咲くとも思えないよね」
 「…変な人」
 思わずそう呟いてしまう。
 でも、こういう変なところも、誰かを彷彿させる―――透子は視線を泳がせつつも、ちょっと彼女との間合いを詰めた。そんな透子を見てクスッと笑った彼女は、再度、絵の方に目を向けた。
 「でもさ。やっぱり私、この絵好きだなぁ…。現実にありうるか、ありえないか、それは問題じゃない気がする―――きっとこれ描いた人、あなたみたいな人に“がんばれ”って言いたくて、これ描いたんだと思うよ」
 そのセリフに、心臓がドキン、と大きく跳ねた。
 「…私みたいな人…?」
 「うん。なんかね…このひまわりが咲いている廃墟。これも、現実のものじゃないと思うんだ」
 「―――どういう事?」
 「この廃墟って、風景じゃなくて“心”なんだと思う」
 ―――現実の風景じゃなく…“心”の風景―――…?
 「…私さ、震災をきっかけに二度と会う事のなかった友達がいるけど、今一番気になるのって、彼が震災の後、ちゃんと笑って生きてるかどうかなんだ。今もまだ、この絵にある廃墟みたいに、殺伐とした心のまんまでいるんだとしたら―――それって、悲しいと思う」
 「……」
 「この絵描いた人も、きっと私と同じ思いでいると思うよ。がんばれ、挫けるな、って―――そういうエールを、このひまわりの花に託してるんだと思う。…違うとしても、私にはそう感じるの。だから、この絵は好きだよ」

 ―――がんばれ…、か…。
 “生きようよ”。“生き残るのは辛いけど、頑張って生きようよ”―――甦ってくるのは、やっぱり、あの言葉だ。
 慎二と出会った時の透子の心は、確かにこの絵のとおり、灰色の荒れ果てた廃墟だった。家族と死に別れ、たったひとり取り残されて…家族の後を追って死んでしまいたいと、本気で思っていた。もう生きるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
 それでも生き延びたのは―――慎二がいてくれたからだ。
 同情するでもなく、親切の押し売りをするでもなく、ただ静かに傍にいて支えてくれた人がいてくれたからだ。

 『オレも、あんまり好きじゃない。可哀想がられるのって。…それよりは、頑張ってる姿を見せて、応援してもらう方がいい。たった1本でも、こんな荒れてる土地でも、こんなに頑張って綺麗な花を咲かせてるよ、って…このひまわりが、雨にも風にも倒れないように、みんなで支えて下さい―――って訴える方が、オレが伝えたい事に近いと思ったんだ』

 ―――うん…そうだよね…。
 だってそれは、慎二と私の、今までの5年間の全てだもの。

 何故、ひまわりなのかは、やっぱり分からない。多恵子と透子を重ねているのかもしれないし、別に理由があるのかもしれない。
 でも、透子は、やっと確信が持てた。
 この絵は、透子のために描かれた絵だ―――荒れ果てた大地の上に根づき、こうして花を咲かせているひまわりは、慎二が雨や風から守ってきたもの―――今の透子なのだ、と。
 それを悟った瞬間、透子の中で、何かの整理がついた。そのことに安堵した途端、透子はあることに気づき、思わず「あっ」と声を上げそうになった。

 ―――やだ…なんですぐ気づかなかったんだろう。
 この人、誰かに雰囲気が似てると思ったら…慎二だ。慎二に似てるんだ。
 この柔らかいムード、緑や風が似合いそうな空気、ふわりとした柔らかな笑い方―――顔は全然似ていないのに、醸しだす雰囲気が、やたらと似ている。

 ずっと黙っている透子を不審に思ったのか、彼女が振り返る。そして、びっくり顔でいる透子を見て、彼女の方も驚いた顔をした。
 「…あの、どうかした?」
 「う…ううん、違うの」
 違うって、何が。
 何を言ってるんだろう、私は―――顔に血が上って熱くなる。慌てて俯いた透子は、また彼女の方へと1歩近づいた。意識し始めると、途端に落ち着かなくなってしまう。透子は、前で組んだ手をモジモジと組み直したりしながら、チラリと目を上げた。
 「あの…ありがとう」
 「?」
 「絵を、褒めてくれて、ありがとう。ほんとは…褒めてくれて、嬉しかったの」
 「どうして、あなたが?」
 「…この絵描いたの、私の…」
 言いかけて、言葉に詰まった。私の―――何だろう?
 家族、ではない。友達でもない。彼氏でもないのだし、ただの大家と割り切れる存在でもない。ならば…慎二は透子の、何なのだろう?
 「…私の、恋人、だから」
 「え!?」
 ―――片想いだけどさ。
 自分で自分の言葉に入れたツッコミに、自分で落ち込んだ。
 “恋人”という単語は、彼女にとっては相当意外だったらしく、彼女は目を大きく見開いた。まあ…当然だろう。恋人の描いた絵をボロクソにこき下ろしたのだから。唖然とした彼女は、慌てたように背後の絵と透子の顔を何度か見比べた。その慌て方もなんだか慎二に似て見えて、くすっと笑ってしまう。
 「…でも、不思議。あなた見てると、なんだか、彼のこと思い出す」
 思わずそう言うと、彼女は見比べるのをやめ、透子の顔を凝視した。
 「…え?」
 「困ったような笑い方とか、どうしてそんな風に思えるの、っていう位、優しい考え方とか―――顔とか全然似てないのにね。持ってるオーラが、どこか似てるみたい。あなたと彼って」
 「……」
 「似てるから…だから、どういうつもりで描いたのかが、わかるのかな…」
 そう呟いた透子は、また絵に視線を向けた。

 恋人―――こんなにも、こんなにも、恋しい人。
 なのに何故、疑ってしまうのだろう。何故、ただ純粋に、慎二がくれる優しさを受け取ることができないのだろう。

 多恵子さんの存在なんて知らなければ良かったのに―――透子は、青空の下揺れるひまわりを見つめながら、心の中で呟いた。

***

 それから、なんとなく会話も途切れてしまった透子と彼女は、それぞれに周囲の絵を見たりした。
 彼女はまだ慎二の絵を眺めているようだ。よほど気に入っているのだろう。どうせ絵を買ってもらうなら、あの人に買ってもらいたいな…などと考えていた透子は、ふいに気配を感じ、2階から続く階段の方へと視線を走らせた。
 ―――慎二…。
 どうやら2階にいたらしい慎二が、ちょうど階段を下りてきたところだった。死角に入っているのか、透子には気づいていないようだ。
 今日の慎二は、いつものラフスタイルではない。チャコールグレーのブランド物のスーツを着こなし、洒落たフレームの眼鏡をかけている。勿論、こんなものを慎二が持っている筈がない。慎二が持っているのは、透子の高校の入学式に着ていたあのノーブランドのスーツだけなのだから。
 今慎二が身につけているものは、頭のてっぺんからつま先まで、全て佐倉が送ってきたものだ。一応、佐倉からのプレゼントらしいが、靴とスーツは知り合いのスタイリストからの借り物だそうだ。さすがはプロ、測った訳でもないのに、送られてきた服は、どれもあつらえたみたいに慎二の体型にフィットしていた。
 早く声をかけて、この前言ったことを謝らなくては―――そう思って1歩踏み出そうとした透子は、遅ればせながら慎二が1人ではないことに気づき、前に出しかけた足を引っ込めた。

 少し慎二の方を振り返るようにしながら何かを話しかけている、慎二の半歩前を歩く男―――どうやら、慎二の知り合いらしい。慎二の笑顔が自然であることが、そのことを物語っていた。
 誰だろう、昔の同級生か何かかな―――そう思った透子は、初めて見るその男を注意深く観察した。
 まず、同級生の線は消えた。どう見ても、もうすぐ30歳という年齢には見えない。…勿論、慎二もそうは見えないのだが、それにしても相手の彼は、醸しだすムードが慎二以上に少年ぽい。ダンガリーシャツにジーンズというラフな服装がやたら板についているところを見ると、もしかしたら慎二同様、スーツを着ない職種なのかもしれない。
 黒とも灰色ともつかない不思議な色合いをした黒髪をしている。その顔は、慎二のような綺麗な顔立ちとは違うものの、横顔を見た限りでは結構整っている方のようだ。昔のアルバイト仲間かな、と考えて、それも否定した。その彼がコンビニの店員をやっている姿なんて、なんだか妙にちぐはぐに思えたから。
 ―――じゃあ、何だろう…? 今の仕事の関係者かな。
 大抵の関係者とは面識がある透子だが、彼には全く見覚えがない。それに、慎二と彼の間にある空気は、ちょっとビジネス関係とは思えない気さくなものだ。考えれば考えるほど、彼と慎二の関係は想像がつかなかった。

 興味を持って見守る透子の視線の先を、慎二と彼が通り過ぎる。すると彼は、先ほどの髪の長い女性に声をかけた。
 ―――え…っ、あ、あの人のお連れさんだったの!?
 思わぬ展開に、透子は思わず息を呑んだ。じゃあ、やはり彼女も慎二の知り合いだろうか? いや…違うだろう。もしそうなら、絵の作者は自分の恋人だ、と透子が言った段階で、何か言ってきそうなものだ。
 振り返った彼女は、彼の顔を見て柔らかく微笑んだ。もしかしたら、恋人同士なのかもしれない。そんな彼女に、彼は慎二を紹介した。声は聞こえないが、その身振り手振りでそれは分かる。ということは、やはり彼女は慎二を知らなかったらしい。
 慎二を紹介された彼女は、少し顔を赤らめながらも、慎二と握手を交わした。慎二も、照れたような笑みを浮かべて挨拶している。
 どうしよう―――このまま、彼らが帰るまでじっと見ていた方がいいのだろうか。でも、お茶でも飲みに連れ立って出て行かれてしまったら困る。迷った末、透子は思い切って一歩踏み出した。
 「慎二」
 透子が声を掛けると、3人の目が一斉に透子の方を向いた。

 その瞬間。
 慎二の知り合いらしいあの男の表情が、微妙に変化した。

 一瞬、凍りつく表情―――その表情の変化にいち早く気づいた透子は、反射的に身構えた。何故なら、これそっくりの反応を、かつて一度だけ見たことがあるから。
 透子と初めて顔を合わせた時の、佐倉の反応―――あの時の驚愕と、今目の前にいる彼の反応は、その顕著さには大きな開きがあるものの、全く同じものだった。
 ―――この人…多恵子さんを、知ってるんだ。
 「透子。来てたの?」
 絶句している彼の隣で、慎二が驚いたような顔をしてそう言った。その声で我に返った透子は、彼から慎二へと視線を移して、口の端を上げてニッ、と笑ってみせた。
 「こんな事でもないと、慎二のスーツ姿を拝む機会もないかと思ってね」
 「…勘弁して欲しいなぁ…。オレ、こういう服装、苦手だから。早く着替えたい」
 「だぁめ。佐倉さんにせっかくコーディネートしてもらった服なんだから、期間中はこれで通さなかったら許さないよ」
 なんで来たんだ、と突っぱねられなかったことにホッとする一方、透子の意識は、まだ困惑した表情を浮かべている彼の方に半分向いていた。彼の隣に立つあの女性は、特に表情に変化を見せない。ということは、彼女は多恵子を知らないのだろう。
 透子に歩み寄った慎二は、透子の頭にポン、と手を乗せると、彼の方を向いた。
 「成田君。この子は、井上透子。今、成田君が通ってた大学に通ってるんだ」
 「―――あの…もしかして」
 「そう。さっき話した子だよ」
 どうやら、透子を引き取った経緯か何かを、この成田という男に説明していたらしい。それを察した透子は、軽く頭を下げて会釈した。彼も、それに応えるように、軽く頭を下げる。
 「…まいったな。もっと小さな子供とかだと思った」
 まだ少し戸惑った顔をしながらも、彼はそう言って微かに笑った。ちょっと細められたその目は、なんだか妙に人を惹きつける力を持っていて、慎二以外の男性には何のトキメキも感じない透子でもさすがにドキッとしてしまった。
 「良かったな、後輩。慎二さんに拾ってもらえて」
 「…は…はい、慎―――く、工藤さんには、本当にお世話になってます」
 「ハハ…あんたが引き取ったにしては、随分真面目だな」
 硬くなっている透子の様子に、彼は苦笑し、慎二にからかうような目を向ける。それを聞いた慎二は、「人聞きの悪い…」と言って、彼を軽く睨んでいた。

 ―――多恵子さんとの接点が、佐倉さん以外にもう1人、増えた…。
 どういう関係にある人なのだろう―――ドキドキする胸を押さえながら、透子は、新たな多恵子の関係者の顔を、その後もずっと観察し続けた。けれど彼は、それ以上の動揺も見せず、多恵子という名を口にすることもなかった。

***

 成田という男性と、その彼女らしい女性は、その後慎二と二言三言話しただけで、他の絵をぐるりと見て回ったかと思うと、あっという間に帰ってしまった。
 「…ねぇ、慎二」
 ギャラリーのガラス扉の向こうへと2人が消えて間もなく、透子は、隣に立つ慎二を見上げた。
 「さっきの男の人、どういう知り合い?」
 ひまわりの絵を眺めていた慎二は、透子の問いに、キョトンとした目をして透子を見下ろしてきた。
 「東京にいた頃の友達だよ?」
 「でも、年離れてるよね。高校の後輩か何か?」
 少し食い下がってみたが、慎二は困ったような笑いを返すだけで、その問いに答えようとはしなかった。少しでも多恵子に結びつきそうな話題は、慎二はスルリとかわしてしまう―――いつものことだ。透子は小さく諦めの溜め息をついた。
 多恵子のこととなると、どうしても気分がささくれ立ってしまう。苛立ちを押さえ込むように目を逸らした透子は、ちょっと俯き加減になり、今日ここに来た一番の目的の言葉を口にした。
 「…この前、ごめん。慎二」
 ポツリと透子がそう呟くと、慎二は不思議そうな目を向けた。
 「なに?」
 「この絵のこと、“大嫌い”なんて言って」
 「…ああ、そのこと」
 本当に、忘れていたのだろうか。それとも、透子に気を遣わせないように演技しているのだろうか。慎二は、なんだ、という軽い調子でそう言うと、うな垂れる透子の頭を優しく撫でた。
 「いいよ。透子の考えてることは、よく分かってたから。オレも言い過ぎたよ。見に来なくていいなんて」

 “透子の考えてる事は、よく分かってたから”―――…。
 ―――ホントに?

 分かっていたとは思えない。佐倉のあの一言を聞いていない慎二には、透子が何故この絵を嫌いだなどと言ったのか、皆目見当はついていないだろう。
 いや、もしも聞いていたとしても、それでも理解できないに違いない。慎二は、知らない―――透子が多恵子を知っているということを。慎二が夢で名前を呼んだ女性がどんな顔をしているのかを、透子が知っている、という事実を。

 いや…それを知っていたとしても…分からないかもしれない。
 慎二は、分かっていないのだから。透子の気持ちを。
 日々、まるで妹のような顔をして慎二の傍にいる透子が、どんな気持ちでいるか―――偶然触れた手や肩に、どれほど心を乱され、どれほどの努力でなんでもない顔をしているか。

 分かってもらえないもどかしさに、透子はダウンジャケットのポケットの中に入れた両手を、きゅっ、と固め、慎二を見上げた。
 「―――慎二…」
 分かってよ。
 私は、あの絵の中に多恵子さんがいるような気がして―――嫉妬したんだよ…?
 多恵子さんがひまわりを好きだったってことを、慎二が意識してなかったとしても―――ううん、そうであるなら尚更、それほどまでに深く慎二の中に根を下ろしているあの人が、羨ましくて、妬ましくて、どうしようもなかったから…だから、嫌いだなんて心にもないことを言ったんだよ…?

 慎二を、見つめる。多恵子の名前を怖くて出せない分、せめて自分の慎二に対する想いに気づいて欲しくて。
 けれど慎二は、そんな透子の目に、困ったような笑顔を見せた。
 「…そんな目、しちゃ駄目だよ」
 くしゃっ、と透子の髪を掻き混ぜると、慎二は少し身を屈めて、透子の額に唇を落とした。他の客には気づかれないほど、素早く。
 「外、寒かっただろう? 2階にコーヒー用意してるから、一緒においで」
 「―――…うん」
 透子の頭から手を離した慎二は、柔らかな笑顔を残し、先に2階へと上がった。
 こんな優しいキスは、もう欲しくはないのに―――それでも、唇の触れた部分が熱を帯びる。もう一度、ひまわりの絵に目を向けた透子は、暗い感情から逃れるように目を逸らすと、慎二の背中を追った。


***


 結局その日、透子は、閉館時間までずっとギャラリーにいた。
 何もしないでぼーっとしているのも性に合わないので、受付に座ってパンフレットを手渡したり、募金への協力を呼びかけたりした。作品に関する説明などを求められることもあったが、そういう時は、慎二や他のメンバーを呼びに行ったりもした。東京でのグループ展には、慎二を含め、東京方面に住むメンバー3人が駆けつけていたが、他の地域のメンバーの絵のコンセプトなども既に把握しているらしく、どの絵の説明を求められてもよどみなく答えていた。
 ―――やっぱり、本間さんの絵って、一般の人には分かり難いんだろうなぁ…。
 一番説明を多く求められていたのが、本間の絵だった。実際、透子の目にも何がなんだか分からない絵だったから、本間の絵を知らない一般人には余計訳が分からない筈だ。
 その点、慎二の絵は、あまり説明を求める人がいなかった。その主旨をどれだけの人が汲み取っているかは怪しいが、それまで眉をひそめて絵を見ていた人が、慎二の絵の前に来ると和やかな表情になるのを見て、透子はなんとなく温かい気持ちになれた。

 「ねぇ、ちょっと、あなた」
 閉館まであと10分という頃になって、帰ろうとしていた年輩の女性客が、受付に座る透子に声を掛けてきた。
 「はい?」
 「あのね。あの絵―――ほら、ひまわりの。あれって、本当に非売品なの?」
 客の言葉に、透子は眉をひそめた。
 「…え?」
 「いえね。他の作品に“売約済み”って札がついてるのがあったから、ここの絵、全部売り物だと思ったのよ、私は。あのひまわりの絵がどうしても欲しくて…でも、あの絵にだけは“非売品”て札がついててね。それで、あそこにいる男の人に訊いたんだけど、“この絵だけは、作者に売る意志がないから、お譲りできないんです”って」
 客が指差した“あそこにいる男の人”は、慎二ではないグループ・Fのメンバーだった。
 ―――どういうこと…?
 売ってしまって構わない、と、慎二に言った。慎二もそうすると答えた筈だ。なのに―――非売品になっている…?
 「あ…あの、ごめんなさい。私はその辺、分からないんです。でも、グループ・Fの人が言ったのなら、多分、非売品なんだと思います」
 「あら、そう、やっぱり…。残念ねぇ。とてもいい絵なのに」
 女性客はそう言って残念そうに溜め息をつくと、透子にお礼を言って、ギャラリーを出て行った。それを見送った透子は、慌てて席を立つと、慎二の絵の掛かっている壁へと駆け寄った。
 ほとんど客のいないフロアを突っ切って、昼間この絵を見た時は目を向けなかった絵の横や下の壁に目を向ける。そして、絵の右側の壁の下の方に、本当に小さなシールが貼られているのに気づいた。
 “非売品”―――赤枠で囲まれた中に、そう手書きされている。
 「どうして…」
 絵の前に佇んだ透子は、思わずそう呟いた。

***

 ギャラリーを出た慎二は、吹きつけてきたビル風にぶるっと身震いした。
 「寒いなぁ…。透子、大丈夫?」
 ジャケットの襟を引き上げながら透子を見下ろす。透子も同じように襟を口元近くまで引き上げながら、小さく頷いた。
 なまじギャラリーの中が暖かかっただけに、歩き出すと、余計寒さが身にしみる。2分もすると、風に晒された指先の感覚が無くなってくる。ダウンジャケットの襟を押さえる手に、透子はハーッと息を吹きかけた。
 「相変わらず、手袋はしないんだな、透子は」
 そう言う慎二も、素手のままだ。くすっと笑う慎二をちょっと見上げ、透子も少しだけ笑った。すると慎二は、なんだか安心したように目を細めて微笑んだ。
 「…やっと笑った」
 「え?」
 「透子、今日、ずっと笑わなかったから」
 「……」
 意識していた訳ではないけれど、確かにそうだったかもしれない。気まずさに、透子は視線を逸らした。
 「…だって…慎二に酷いこと言ったこと考えたら、なんか、笑えなかったんだもん…」
 「オレも透子に結構大人気ない態度とったんだから、そんなに気にすることないよ」
 オレは気にしてないよ、という顔をする慎二に、透子はすぐさま「わかった」とは言えない。まだ罪悪感が大きすぎて。それに…あの、疑問。
 「―――ねぇ、慎二」
 おずおずと慎二の顔を見上げた透子は、少し眉をひそめ、首を傾けた。
 「あの…どうして?」
 「ん? 何が?」
 「あの、ひまわりの絵―――非売品になってた」
 「…ああ」
 気づいてたんだ、と小さく呟いた慎二は、くしゃっと透子の髪を掻き混ぜた。
 「だから―――言っただろ? 透子の考えてることは分かってた、って」
 「え?」
 「…あのさ、透子。オレがひまわりをテーマに選んだのは―――オレの中の透子のイメージが、ひまわりだからだよ」
 心臓が、止まりそうになった。
 透子は足を止め、大きく目を見開いた。信じられない―――そんな思いに、頭が真っ白になりかけた。
 透子が立ち止まったのに気づいて、慎二も立ち止まった。目を丸くして立ち尽くす透子を振り返り、照れたような微妙な笑みを浮かべる。
 「透子が機嫌悪くなった原因を辿ったら、佐倉さんの独り言に行き着いて―――透子があれ聞いて何を想像したのかは分かんないけど、多分、それが原因だろうな、と。あの絵を、誰か他の人へのメッセージとでも解釈されちゃったかな、ってね」
 「…き…聞こえてたんだ、慎二にも…」
 「結構地獄耳だから。もっとも…そこに行き着くまで、2、3日かかっちゃったけど」

 そんな風に、透子の豹変の理由を慎二が模索していたなんて…全然、気づかなかった。
 しかも、ちゃんと佐倉の独り言に行き着いて、部分的にではあるけれど、透子の気持ちを本当に察してくれていたなんて―――全然、考えてもみなかった。

 動揺したように大きな瞳を揺らす透子に、くすっと笑った慎二は透子の方に歩み寄ると、腰を屈めて透子と目の高さを合わせた。
 「…他にも要素はあるのかもしれないし、それはオレにも分からない。でも…オレの中の透子のイメージがひまわりだ、ってことは、本当。…花の重みに負けてクタッとうな垂れちゃう花だけど、太陽に向かってもう一度必死に顔を上げようとするとこが、透子と似てると思ってたんだ、ずっと」
 「…うん…」
 「オレは透子にもらって欲しかったし、透子が下絵の時にあの絵を気に入ってたのも分かってた。…だから非売品にしたんだよ」
 「―――うん…」

 …もう、いい―――慎二の心の中に、どんな形でひまわりが根を張っていたのだとしても。
 慎二が自分をひまわりだと思ってくれているのは、嘘じゃないと分かるから―――信じられる。あの絵はやっぱり、自分のために描いてくれた絵なのだと。慎二が、透子と過ごした5年間をあの絵に託してくれたのだ、と。

 嬉しくて、涙が出てきた。
 泣き笑いのような表情を浮かべた透子は、涙を誤魔化すように、慎二の首の後ろに腕を巻きつけ、肩に顔を埋めるようにして抱きついた。
 こんな風に慎二に抱きつくのは、いつ以来のことだろう―――抱きとめてくれた慎二の腕の温かさに、透子は久しぶりに、心から穏やかな気持ちになれた。

 

 透子はまだ、気づいていなかった。
 この日、透子の知らないところで、慎二と多恵子の物語にひとつの終止符が打たれていたことに。
 透子は知る由もない―――いつも通りの笑顔を浮かべるその裏で、慎二がこの日、密かにある決意を固めていたことなど。

 透子がその決意を知るのは、まだずっと先―――この日から半年以上後のことだ。


←BACK二十四季 TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22