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13

: 明日、見つけた。 (2)

 週に1度、水曜日にのみ開けるそのドアを開けると、途端に廊下に流れ出してきたのは、激しい子供の泣き声と罵声だった。
 「せんせーっ、ここ、どうやって描けばいいのかわかんないー」
 「あー、よしくんが水こぼしたぁ」
 「うわああぁあん、しずかちゃんがいじめるーっ」
 「うるさいうるさいうるさいっ! とにかく黙れ! さっさと描けっ!!」
 「―――…」
 前もって聞いてはいたが…あまりにも、酷い。
 「…まあ、こういう状況なんで。予定より早く旅行から帰って来られたんでしたら、今日からでも復帰お願いしますよ」
 ドアノブを握ったまま固まっている慎二の肩をポンポン、と叩いたセンター長は、誰に対する怒りなのか分からない怒りをその笑顔の奥にひそませながら、酷く穏やかな声で続けた。
 「それと、半月以上の長期旅行は、もう差し控えてもらえますか。子供クラスの講師は、代講頼むにも人選が難しいもんですからねぇ」
 「…も…申し訳ありませんでした、ご迷惑おかけしまして…」
 ―――いくら人選難しいったって、もうちょい他にいそうなもんだけどなぁ…。
 この2ヶ月、一体どんな授業をやっていたんだろう。それを想像すると、この先、元の穏やかなクラスに戻れるのかな、と少々心配になった。

***

 「え? じゃあ、子供絵画教室って、今日から即復帰する羽目になっちゃったの?」
 「うん。見た目、優しそうな女の先生だったんだけどなぁ…。別人のように鬼の形相になってて、参ったよ」
 昼間見た代講の先生の姿を思い出したのか、さやえんどうの筋を剥く慎二は、そう言って眉根を寄せた。
 「それとさ。なんか、週1から週2に増やしてみないか、って相談されたんだ。センター長から」
 「へーえ…。よっぽど気に入られてるんだね、慎二は。良かったじゃない」
 「うん。でも…実は、断ろうかどうしようか、迷ってるんだ」
 今度は、透子が眉を寄せる番だった。卵を解きほぐす手を止め、居間の床にあぐらをかいている慎二の方を振り返った透子は、軽く首を傾げた。
 「なんで? ちょうど仕事探してるところだったんじゃないの?」
 東京に戻って、既に1週間と少し。暦も9月に入り、慎二も、長期休業していた各方面の仕事を再開しつつある。
 月刊誌の表紙と挿絵の仕事と週1の絵画教室は、今まで通り続けることになっている。が、昨年いっぱいで辞めた編集部のアルバイトは、さすがに「もう一度やらせて下さい」とは言えなかった。
 単発の仕事も入っていない以上、アルバイト分だけ収入が減るのは確実だ。大きな仕事をこなした後なので、暫く生活に困ることはないと思うが、それでも定期的な収入という意味で考えると、どうしてももう1つ、仕事を入れなくてはまずい。そんな訳で、ちょうど慎二は、新たな仕事を探している最中なのだ。
 「もしかして、イヤなの? 絵画教室の仕事」
 「いや、そんなんじゃないよ」
 少し心配そうな顔をする透子に、慎二は笑みを返し、まだ筋のあるさやえんどうに手を伸ばしながら続けた。
 「…実はさ。まだ本決まりじゃないけど、もう1つ、月イチの仕事始めるかもしれないんだ」
 「えっ」
 「読みきり短編とか詩とか絵を扱った月刊誌で、かなり古くからあるやつなんだけど―――そこに毎月短編を載せてる作家の先生が、例のグループ展に出したひまわりの絵見て、直接声掛けてきてくれてさ。作品のカラー扉絵とモノクロ挿絵2枚、毎月一緒にやってみないか、って。留守にするんで保留し続けてたけど…昨日電話したら、まだその気でいてくれてさ。一度出版社交えて詳しい話をしよう、ってことになったんだ」
 月刊誌の仕事は1本で限界だ、と常に言っていた慎二なので、この話は少々意外だった。驚いた透子だったが、ふと、民宿で慎二が寝転がって読んでいた本を思い出し、ピンときた。
 「もしかして、この前読んでた、あの本の作者?」
 エッセイなどを好んで読む慎二にしては珍しく、ショートショートを多く集めた本を読んでいたので、ひっかかるものを感じていたのだ。透子のその勘は正しかったらしく、慎二は微笑み、軽く頷いた。
 「読んでみて、この人の世界を絵にしてみたいな、と思ったんだ。決まるかどうか分からないけど―――決まるの待ってたら、絵画教室の方に迷惑かかるからね」
 「…そっか。生徒募集する兼ね合いあるもんね」
 複数の仕事をしてると、色々と調整しなくてはいけない部分があって大変らしい。自由のきく分会社勤めより気楽だ、なんて思っていたら怒られてしまいそうだ。
 「うん、絵を教える仕事も悪くないけど、やっぱり慎二は、絵を描いてこその慎二だもん。その仕事、本決まりするといいなぁ…」
 そう言って透子が微笑むと、慎二も、嬉しそうな、どこか照れたような笑みを浮かべた。
 「―――…」
 その笑顔が、なんだかもの凄くキラキラして見えて―――ちょっと顔を赤らめた透子は、慌てて慎二にくるりと背を向け、再び卵の入ったボウルの中身を掻き混ぜた。

 ―――困るなぁ…もう。
 多恵子に対する後悔や罪悪感を、今回の旅で多少癒したからなのだろうか。慎二は、2ヶ月前よりも更に、ふわふわと柔らかで綺麗な笑顔を見せるようになった。そういう笑顔を見せられるたび、透子は酷く狼狽し、困ってしまう。
 しかも、そうやって困っているのは自分ばかりで、慎二は全く困っていないように見えるところが癪に障る。もしかして、あの夜聞いたセリフは夢か都合のいい聞き間違いなんじゃないか…時々、そう思えてしまう。

 東京に戻る前の夜、慎二の気持ちを初めて聞いて。
 両思いだったことに喜びを感じる間もなく、駄目だと突っぱねられて。
 慎二は、透子を好きだと言うその口で、透子を手放すと言う。いずれ他の男のものになる透子に自分が手を出す訳にはいかない、とばかりに、あの日から1週間あまり、これまでと何ら変わらない態度しかとってくれない。多分、慎二の言う“取り返しのつかないこと”になるのを危惧しているのだろう。“取り返しのつかないこと”―――それがどういう事態か、いくら恋愛経験の乏しい透子でも十分すぎる位分かる。
 何がいけないの―――それが、透子の本音。
 好きな人に、触れたい。触れて欲しい。当たり前の感情だ。しかも、相手も自分を好いてくれているのだと分かっていれば、尚更。そして、その好きな相手が、前以上に魅力的になれば―――余計にそう思うのが当然だ。
 魅力的になったのは、慎二が変わったせいかもしれないし、透子が慎二の中の恋愛感情を知ったからかもしれないけれど、とにかく―――東京に戻ってきて以来、前以上に、慎二のちょっとした表情に、ぐらぐら心が揺さぶられる。
 何が、いけないの―――揺さぶられるたび、そう思う。お互いに好きならいいじゃない、と。

 ―――どうすれば、慎二の決心を変えられるんだろう。
 私は慎二がいいって言ってるのに―――慎二が何者でも、どんな事情を抱えてても、今ここにいる慎二がいいって言ってるのに。何故、突き放そうとするんだろう? どうすれば、その理由を見つけられるんだろう…?

 「…透子。メレンゲでも作ってるの?」
 「えっ」
 ハッと我に返り、声のする方を仰ぎ見る。見れば、えんどうまめの下ごしらえが終わったらしく、ボウルを手にした慎二が、透子のすぐ右隣に立っていた。
 「いや、ずーっと卵掻き混ぜてるから。…はい、これ」
 「あ、ありがとう。あははは、やだなー。ちょっと、考え事してて」
 いくら何でも卵を掻き混ぜすぎだった。誤魔化すように慌てて笑った透子は、卵の入ったボウルを置き、慎二からえんどうまめのボウルを受け取った。
 「課題が難航してるせい? 最近、遅くまでやってるみたいだけど…無理すると、体壊すよ?」
 少し心配そうな顔をした慎二は、そう言ってくしゃっ、と透子の髪を掻き混ぜた。
 全然、慎二が考えているような理由じゃないのに―――見当違いな慎二の心配への苛立ちと、実際夏休みの課題が難航してるのにこんなことばかり考えている自分への恥ずかしさから、透子の顔が赤くなる。こんな子供扱い、嫌だなぁ、と思いながら慎二を上目遣いに軽く睨むと、髪を掻き混ぜる慎二の手が、止まった。
 「……?」
 なかなか髪から手を離そうとしない慎二に、透子は軽く眉をひそめる。慎二の表情は、少しうろたえているようにも見えたが、よく分からなかった。
 躊躇ったように髪を弄んだ手は、やがて、ぽん、と一度透子の頭を軽く叩いて、離れた。
 もどかしいような切ないような感覚を残して離れた手に、透子も気まずい思いを抱えたまま、視線を逸らしてしまった。


***


 透子が突き出した色紙を見て、それまでフィルムの装填作業に集中していた横顔が、怪訝な顔になる。
 「…何、これ」
 「江野本先輩からの頼まれ物なの。成田さんのサイン、貰ってきて欲しい、って」
 「は!?」
 「あ、先輩から伝言ね。“僕が1年の時、大学祭の写真展にいらっしゃった時にお会いして、学食で1時間ほどご一緒させていただきましたが、覚えていらっしゃいますか。プロになられたそうで、同じ部の後輩として感激の極みです。是非サインをお願いします。部の宝にします”だって」
 実際に江野本から託されたメモを透子が読み上げると、瑞樹の顔が一気にうんざり顔になった。
 「…思い出した。やたらヒョロヒョロした奴だ。名前は覚えてねーけど」
 「そうそう。江戸の江に、野原の野、本で、江野本先輩」
 「地球のマントルまで潜れる地底探査機が作りたいとか、馬鹿げたこと言ってる奴だろ」
 「…今は、地震雲のデータベースを作って、広い空から地震雲を見つけ出す装置を作りたい、って言ってるけど…」
 その前には阪神大震災の揺れを再現する装置を作りたいって言っていたのだが、それは割愛した。とにかく江野本は、昔から色々なものを思いついては、その技術の実現を夢見ていたような人物だったらしい。
 「私が地学に転部するきっかけになった人でもあるから、断りきれなくて―――お願いっ、サインしてあげて」
 「無理。サインなんてしたことねーし」
 「“江野本君へ”とでも書いて、名前書けばそれでOKだから。お願いっ」
 「…なるほど。何か恩を売られた訳か」
 執拗に食い下がる透子の様子にピンときたのか、瑞樹はそう言って片眉を上げた。と同時に、透子の笑顔が引きつる。…実際、その通りだ。夏休み課題のミニレポートがどうしてもうまくいかず、研究室に駆け込んで江野本に知恵を拝借した、その見返りがこのサインなのだから。
 これは無理かな、と透子が諦めかけた矢先、瑞樹は色紙とサインペンを抜き取った。憮然とした表情のまま何かを殴り書きすると、あっという間にそれを透子に突っ返した。
 キョトンとした顔でそれを受け取った透子は、書かれた内容を読んだ途端、固まった。

 『江野本へ  “下手の考え休むに似たり”    / 成田瑞樹』

 ―――ど…毒舌…。
 こういう人だったのか、と、もうサインの話は終わったとばかりに隅田川の川面にカメラを向けている瑞樹を眺めつつ、透子は頭を押さえた。前回、結構気さくに話してくれたから、佐倉などの話から想像するよりずっとフレンドリーな人だな、などと思っていたのだが…。
 ―――それとも、蕾夏さんと離されちゃったのが不満なのかな。
 チラッと、遠く離れた所にあるベンチに目をやる。
 そこには、ウーロン茶と缶コーヒーを片手に何やら話している慎二と蕾夏が座っていた。ちょうど透子と瑞樹がいる方を見ていたのか、振り返った透子に気づき、蕾夏の方が手を振っている。透子も、控え目に手を振り返した。
 …ちょっと、複雑な気分だ。自分でセッティングしたこととはいえ、2人は、こうして見ると結構お似合いに見えてしまうから。
 「自分で並ばせておいて妬いてるんじゃ、馬鹿丸出しだな」
 皮肉っぽい声が後頭部から突き刺さる。ぐ、と言葉に詰まった透子は、恨めしそうな目で瑞樹を振り返った。
 「成田さんは、平気なんだ?」
 さっきから何度もあっちを振り返ってたくせに―――という皮肉をこめて言ったのだが、瑞樹は軽く肩を竦めただけだった。川面の撮影が終わったのか、透子の質問など無視して、ぶらぶら歩き出してしまう。瑞樹の後を慌てて追いながら、透子は、受け取った色紙とサインペンを、持っていた紙袋の中に押し込んだ。

 9月も、もうすぐ終わる。
 前回、蕾夏や瑞樹に誘われてここを歩いた時は、夏の始まりを思わせる梅雨の晴れ間だった。まだ、あれから3ヶ月弱―――なんだか、遠い日のことのように思えてしまう。
 「…成田さん。1つ、訊いていい…?」
 瑞樹の背中に訊ねると、前を歩いていた瑞樹は、少しだけ透子の方を振り返った。
 「自分は幸せだ、ってことを相手に証明したいと思ったら―――どうすればいいのかな」
 「…なんだそりゃ」
 「今、私は幸せなんだ、って…それを、相手に分かって欲しいの。でも、“幸せだよ”って言っても、信じてもらえない場合…どうしたらいいのかな」
 怪訝そうに眉をひそめた瑞樹は、視線を隅田川の方へと逸らすと、暫し黙って川面を見つめていた。そして、目だけを透子の方に戻すと、実にシンプルな答えを返した。
 「幸せそうにしてるのが、一番いいんじゃない」
 「……」
 「幸せそうに笑ってる奴見ると、こいつ今幸せなんだな、と思うのが普通だろ」
 「…なんか…妙にストンと腑に落ちるなぁ…」
 言われてみれば、確かに。シンプル・イズ・ザ・ベストとは、このことかもしれない。
 「蕾夏に、大体の話は聞いたけど」
 風に舞った髪を掻き上げた瑞樹は、拍子抜けしたような顔をしている透子に、どことなく意味深な笑いを見せた。
 「お前の頭からも、慎二さんの頭からも、1つ、抜け落ちてるよな」
 「…えっ」
 パチパチ、と目を瞬いた透子は、思わず瑞樹の方に1歩詰め寄った。
 「な、何?」
 「“慎二さんの幸せ”、だよ。お前の、じゃなく」
 「―――…」
 「…ま、頑張んな、後輩」
 ぺしん、と軽く透子の頭を叩くと、また瑞樹はぶらぶらと歩き出してしまった。

 ―――慎二の、幸せ…?
 どういう意味で言ったのだろう、瑞樹は。離れて暮らすことが、慎二の幸せだと言いたかったのか。それとも―――…。

 分からない。…でも、何かを感じた。事態を引っくり返せるかもしれない、何かを。

 


 「…なんか、意外だよなぁ…」
 河川敷をぶらぶら歩きながら時折瑞樹と会話を交わす透子を遠くに眺め、慎二がそう呟く。それを聞いた蕾夏は、ウーロン茶を口に運ぼうとした手を止め、不思議そうな顔をした。
 「意外?」
 「あ、いや、その―――成田君、女の子とあんな風に喋ったりするようなタイプじゃなかったから」
 実際、慎二の知る大学生の頃の瑞樹は、女と見れば相槌以外の言葉は一切発しない、と言っても過言ではないほど、女性と話すのを嫌っていたのだ。何故なのか昔訊ねたことがあったが、返って来た答えは「女とは会話にならない」だった。
 「オレの留守中にも、成田君から随分色々話を聞いたって言ってたし―――やっぱり成田君も、彼女が出来たりして変わったのかなぁ」
 「あはは、あんまり変わってませんよ」
 瑞樹を変えたのであろう筈の彼女は、笑顔で慎二の言葉をあっさり否定した。
 「瑞樹も長いこと神戸に住んでたんで、透子ちゃんには幾分親身になってるんだと思います。それに―――前回は、私がずっと睨みきかせてたし」
 妙な言葉に、慎二は少し目を丸くした。
 透子の話では、透子が瑞樹と話をしている間、透子を誘った張本人である筈の蕾夏は、2人の間でずっとうたた寝をしていた、とのことだったが―――…。
 「…ええと、眠ってたんだよね?」
 恐る恐る慎二が確認すると、蕾夏はニッコリ笑った。
 「眠ってるフリするのが得意なこと、透子ちゃんにはナイショにして下さいね」
 「―――やっぱり」
 「実は、最初の方は、フリするだけのつもりが本当に眠っちゃったんで、後で瑞樹に随分呆れられましたけど」
 そう言ってちょっと舌を出す蕾夏に、慎二も少々呆れ顔になってしまった。
 「意外と策士なんだなぁ…」
 「…透子ちゃん曰く、そんな策士の私は、雰囲気が慎二さんと似てるらしいですよ?」
 「え?」
 「似てるから、慎二さんが絵に託したものもすぐに分かったんじゃないか、って。…似たもの同士なら、透子ちゃんには理解しがたいことも分かるのかもしれない、って昨日、電話であんまり透子ちゃんが落ち込むから―――それで今日、思わず来ちゃったんです」
 「……」
 さっきより遠くへ行って、瑞樹が何かを撮影しているのを斜め後ろで興味深そうに見ている透子へと、思わず視線を向ける。
 ―――それで、こんな妙な真似をしたのか…。
 突然、瑞樹と蕾夏が写真を撮りに来るから、と透子に誘われ、何だかよく分からないうちに蕾夏と2人きりにされてしまったので、一体何がどうしたんだ、と首を傾げていた慎二だったのだが―――透子の真意が、やっと分かった。苦笑した慎二は、まいったな、という風に溜め息をつきながら、風で乱れた前髪を掻き上げた。
 「透子に、説得して欲しいとでも頼まれたかな?」
 蕾夏を流し見て慎二がそう言うと、蕾夏は小さく首を振り、静かに微笑んだ。
 「いえ―――ただ、昨日私が電話で話したことを、私の口から慎二さんに話して欲しいって」
 意外な返答に、慎二は怪訝な顔をした。
 「藤井さんが話したこと?」
 「瑞樹と私が、瑞樹がプロカメラマンになるための足掛かり作るために、5月の末までロンドン行ってたって話、聞いてますか?」
 「え…あ、一応」
 「その時の話を、透子ちゃんにしたんです」
 照れたような苦笑のような笑みを浮かべると、蕾夏はそう言って、瑞樹がいる方へと視線を向けた。
 「瑞樹をロンドンに誘ってくれた写真家の先生は、瑞樹がいい写真撮るには私が一緒にいる必要がある、よければモデル兼アシスタントとして一緒に来ないか、って誘ってくれたんです。ただ、契約期間は半年なんで、もしこの誘いを受けるなら、システムエンジニアの仕事は退職するしかなくて―――もし慎二さんが私の立場だったら、どうします?」
 突然話を向けられ、慎二はキョトンと目を丸くした。
 ―――オレが、藤井さんの立場だったら…?
 どうするだろう? 半年という時間は結構微妙な長さだが、耐えられない長さではない。半年すれば相手は戻ってくるのだ。安定した、しかもやりがいのある仕事を持っている立場で、果たしてそれを捨ててまでついて行こうと思うだろうか?
 答えあぐねている慎二の様子を横目で見た蕾夏は、くすっと笑って、質問を変えた。
 「じゃあ、もし慎二さんが瑞樹の立場だったら、どうします?」
 「そりゃあ…日本に残った方がいい、って言うと思うよ?」
 「あはは、今度は即答ですね」
 「だって、そりゃ」
 そう言うでしょ、普通は―――そう言いかけた慎二の目の前に、蕾夏がそれを制するように手をかざし、人差し指を立ててみせた。
 「―――“だってそりゃ、普通、そう言うでしょう?”」
 「……っ」
 「“普通”―――社会通念からいけば、そう答えるのが当然、ですよね」
 いたずらが上手くいったような笑い方をした蕾夏は、楽しげに目を細めると、言葉を失っている慎二の目の前から手を下ろした。
 「…瑞樹もやっぱり、最初はそう言いました。感情に流されて人生棒に振る気か、よく考えろ、って。親も同じこと言ってた。でも私―――どれだけ考えても、一緒に行く以外の選択肢はないとしか思えなかったんです」
 「…どうして?」
 「仕事より、家族より、友達より―――瑞樹と一緒にいることが、私にとっては大事だったから」
 「……」
 「イギリスに行くことでたとえ幾つのハンディを負うことになっても、瑞樹が私を必要としている時に一緒にいられない不幸に比べたら全然安い―――“普通”不幸だとされることを何個足していっても、日本に残る不幸には絶対及ばない。…そう思ったからです」

 “―――…慎二が言う“幸せ”って、何…?”

 揺るぎない蕾夏の目に、あの日、透子が言った言葉が重なる。
 「…その人にとってだけの“幸せ”ってものがあるんだと、私は思うんです。その“幸せ”に対して、“普通の不幸”がどれだけ対抗できるか―――そのキャパシティもそれぞれだと思う。簡単に覆る“幸せ”もあれば、世界中の“普通の不幸”を持って来ても覆らない“幸せ”もある。そのキャパシティは、他人には分からない―――決めるのは、本人だけなんだと、そう思うんです」
 その言葉に、動揺したように少し瞳を揺らした慎二は、蕾夏の視線を避け、手元の缶コーヒーに目を落とした。

 よく分かる―――透子が言いたいことも、蕾夏が言わんとしていることも。
 透子が、あの日の説明で納得していないのは明らかだ。ならば、全ての手札を見せて、透子に判断させればいい。…それは、慎二にも十分分かっていた。
 けれど―――…。

 「…なぁんて言ってる割に、私もいまだに、同じようなことで何度も瑞樹と言い合いになっちゃうんだけど」
 最後にそう付け加えた蕾夏は、はーっと大きく息を吐き出すと、黙ったまま俯き加減でいる慎二の顔を覗きこんだ。
 「以上、“昨日電話で話した話”、終わりです。…どうしましょう? 話すこと、なくなっちゃいました」
 「……」
 ちょっと困ったような顔でそう言う蕾夏の顔を、慎二は一瞬、目を丸くして凝視した。
 本当に“話をしただけ”―――それについて慎二がどう思うか、どういう結論を出すかは、後はどうぞご自由に、といった感じだ。拍子抜けすると同時に、なんだかしてやられたような気分になる。
 あの成田君の彼女だけあって、ちょっと常識破りだよな―――そう思ったら、なんだか可笑しくなって、思わず吹き出してしまった。
 「じゃあ、そろそろ、透子と成田君に合流しますか」
 「そうですね。向こうも、話すことなくなって、困ってるみたいですから」
 にこっと笑って立ち上がる蕾夏に続いて、慎二も立ち上がった。
 この続きは、どうぞご自由に―――投げかけられた課題に対する答えを、頭の片隅で無意識のうちにずっと考えながら。


***


 10月に入ると、透子の生活は、途端に忙しくなった。
 透子は、江野本の関係で写真部に時々出入りをするようになっていたのだが、その写真部の中でも空や雲、自然などをテーマに撮っている数名が、大学祭に共同で企画展を出さないか、と地学科の数名に持ちかけてきたのだ。

 「“コンクリートの四季”? なんじゃそりゃ」
 学食で透子に企画書を見せられた荘太は、ホットドッグを齧りながら首を傾げた。
 「東京で見つけた四季、をテーマに、これまで撮り溜めた写真で写真展を開くんだって。で、私達地学科の有志には、その写真に対する解説を作って欲しいって。ほら、空の写真なら雲の種類とか、こういう現象は冬の朝によく見られますよ、とか」
 「ふーん…。透子の好きそうな企画だな」
 荘太の頭を押しのけるようにしながら企画書を覗き見た千秋の呟きに、透子はニッ、と笑った。
 「でしょ。私の他に2人、やってみたいって子が名乗り出たんで、今3人で撮り溜めた写真の選定作業やってるんだ」
 「なるほど。じゃあ私は昨日、写真選定に負けたのか」
 昨日、透子を誘って断られた千秋が、不満そうに眉根を寄せる。それを見て、透子は慌てて首を振った。
 「違う違う。昨日“用事がある”って言ったのは、その話じゃないよ?」
 「なんだ、違うのか。じゃあ、何?」
 「……」
 一瞬、言葉に詰まる。その一瞬の間に、千秋は、ああ、という顔をした。
 「同居人の“用事”か。…だったら仕方ないな」
 「…おい。なんでそこでお前が引いちゃうんだよ」
 あっさり引いてしまった千秋に、今度は荘太が不機嫌な顔になる。
 「こいつの言う“用事”なんて、どうせ工藤さんが風邪引いて寝込んでるとか、仕事の納期に追われて食事作る暇ないから帰って夕飯の支度しないといけないとか、そんな話ばっかりなんだぜ。要するに、工藤さんの“面倒を見る用事”! そんな用事で友達づきあいを断る透子を、気の毒とか可哀想とか思わねーのかよ」
 「小林は女心を分かってないな。女ってのはな、どうでもいい男の面倒なんてこれっぽっちも見たくなくても、好きな男の面倒だったら、寝食忘れて見るような生き物なんだぞ」
 「…ほほー。てことは、橋本もそうやって面倒みたいと思ってた訳か」
 「「は!?」」
 透子と千秋の声が重なった。透子のは「それって何の話?」という意味。そして千秋の方は「何を言い出すんだこいつは」という意味。
 「想像つかねーなー、橋本のそ…むぐぐぐぐぐぐ」
 「小林、お前、透子をゲットできる可能性が限りなくゼロになって混乱してるんじゃないか? 男のお喋りは嫌われるぞ。余計なこと言わずに黙ってホットドッグを食えっ」
 荘太の口にホットドッグの残りを無理矢理突っ込みながら、千秋は引きつった笑顔でそうまくしたてた。もごもご言う荘太は、ギブアップという意思表示のためか、必死に学食のテーブルを叩いている。
 「…あのー、千秋…」
 「なんでもない、なんでもない。小林の世迷言だ」
 ―――世迷言、かなぁ…?
 荘太から手を離して何事もなかったかのような顔をする千秋と、解放されてゲホゲホと咳き込んでいる荘太を横目で見ながら、透子はテーブルの上に放り出された企画書を引き寄せた。
 千秋が面倒を見たいと思った相手が誰なのか…いくつかの可能性が考えられる。けれど、今の話の流れからすると―――その対象は、1人しか考えられない訳で。
 ―――そう言えば千秋、慎二と会ったのってたった1回だけなのに、その割にはあれだけ荘太が駄目人間扱いしてる慎二のこと、結構庇うシーンが多かった気がするなぁ…。
 冷や汗が、背中を伝う。実は自分は、結構千秋に対して酷いことをしてたんじゃないだろうか―――なんだか、そんな気がして。
 「…言っておくが、私はここ2、3年恋愛とは縁がないし、透子の想像が何かは知らんが、それは絶対間違ってるぞ」
 サンドイッチのセロファンを剥がしながら、千秋が無表情にそう付け加える。まだむせている荘太は、それを聞いて、千秋には聞こえないほど小さな声で「…馬鹿…逆効果だよ」と呟いた。確かに逆効果だ。透子の中の「もしかしたら」が、「間違いない」に変わってしまったのだから。
 でも―――さっきの荘太のセリフからも、それがもう過去の話であることは分かるから。
 そして、千秋の日頃の言動から、その恋がとても淡いもので、一種の憧れみたいなものだと、なんとなく察しがつくから。
 「…そっか。うん、そうだよね」
 だから透子は、そう答えて、その話を終わりにした。

 千秋は、こんな逆効果なフォローを入れてしまうような、意外とドジで真っ正直な人間だ。
 だから―――今まで親身に相談に乗ってくれた千秋の気持ちに嘘はなかったと、透子は信じることができる。
 千秋が知られたくないと思っているなら、もう何も訊くまい―――いつも透子の力になってくれた千秋の努力に応えるためにも、ここは気づかないフリして流すのが大人な対応だと、透子はそう思ったのだ。

***

 その日も講義の終わった後暫く写真選定の作業があって、昼までしか講義がない上にバイトのない日だというのに、帰宅は少々遅めになってしまった。
 近所のスーパーからアパートまでの道のりを急ぎながら、透子はチラリと腕時計を確認した。午後4時―――打ち合わせに出ている慎二は、まだ戻っていないだろう。

 もう、10月も半ば―――あれから既に2ヶ月近く。透子は、まだ慎二が隠している“何か”を見つけることができずにいる。
 糸口すら、見えない。どうすればいいのか―――刻々と迫り来るリミットに、焦りを覚えないと言ったら嘘になる。それでも透子は、比較的落ち着いた日々を送っていた。
 最近、ずっと考えているのは、半月ほど前に瑞樹に言われた一言―――“慎二の幸せ”についてだった。
 慎二にとっての幸せは、何なのだろう?
 透子が幸せになることだよ、と、慎二なら答えそうだ。予想がつくから、訊かない。けれど、本当は―――幸せ、という曖昧な言葉で言うのが適当でないならば―――慎二の“望み”は、何なのだろう? 透子の望みは、分かりきっている。慎二と一緒にいることだ。…では、慎二は?
 慎二が望む未来は、どんな未来なんだろう―――…?

 ―――私と一緒にいることだ、って言ってくれればなぁ…。私、即座に慎二のこと幸せにできるのに…。

 何気なくそんな言葉を心の中で呟いた時―――頭の中で、何かがチカッ、とサインを出した。
 「……」
 部屋の鍵を開けようとしていた透子は、息を呑み、その場に立ち竦んだ。
 ―――何、だろう?
 何か今、重要なことに気づいた気がする。
 形は違うけれど―――ずっとずっと、それこそ、慎二に引き取られてた15歳の頃から、透子も望んでいたこと。なのに今まで、それを恋愛の中で一度もきちんと見つめなおしたことがなかったこと。それに今、気づいた気がする。
 でも、それは、何―――…?

 とその時、玄関扉を隔てた部屋の中から、電話の呼び出し音が聞こえた。
 我に返った透子は、慌てて鍵を開け、玄関の中に飛び込んだ。玄関の電気をつけ、靴を脱ぎ捨てて受話器に手を伸ばした時、留守番電話に切り替わる8回目の呼び出し音がちょうど鳴り始めたところだった。
 ギリギリセーフで、受話器を掴む。弾む息をなんとか誤魔化しながら、透子は電話に出た。
 「は…はいっ、工藤ですっ」
 『工藤慎二さんのお宅ですか?』
 電話から聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。どこかの施設からなのか、バックに館内放送のような音が混じっている。
 「は…い、そうですが」
 『わたくし、大手町中央病院の石原と申します。慎二さんはご在宅でしょうか』
 「え…っ、い、いえ、今仕事に出ていて留守なんですが…」
 『そうですか…。あの、失礼ですが、同居されている、井上さんでしょうか?』
 自分の名前を出されて、透子の背筋が緊張した。大手町中央病院の名前にも、石原という名前にも、全然覚えがない。何故慎二の家に自分が同居していることを、この聞き覚えのない声の主が知っているのだろう?
 「…はい…そうです。私が井上です」
 『そうですか。良かった…。でしたら、工藤慎二さんにお伝え下さい』
 「は?」
 『実は、お父様が―――工藤基裕さんが、今日の午後交通事故に遭われまして、今、こちらで精密検査を受けられているんです』
 「えっ!」
 脳裏に甦るのは、たった1度だけ会ったことがある、慎二の父の姿―――仕立てのいいスーツを着た、優しげで落ち着いたムードの紳士。受話器を握る手に、思わず力が入った。
 「そ、それで、工藤さんは…」
 『今のところ大きな怪我はありませんが、頭を打たれている可能性もありますので、それで精密検査をしているんです。ご自宅に連絡したんですが、あいにくとお留守のようで―――異常がなければ帰宅していただくことになると思うのですが、交通事故は後から症状が出ることもありますので、できましたらご家族の方に迎えに来ていただければ…と』
 電話の主がそこまで言ったところで、透子の背後で、ガチャガチャと鍵を開けようとする音がした。
 ハッとして振り向くと、ほどなく玄関のドアが開き、その向こうから慎二が顔を覗かせた。
 まだ透子が帰ってきてないと思っていたのか、思いがけず開いていた鍵に、ちょっと驚いた顔をしている。その顔が、受話器を手に蒼褪めてうろたえている透子の様子に、瞬時に緊張した表情に変わった。
 「あ、あの…今、本人が帰ってきましたので、代わります」
 早口でそう告げた透子は、部屋に上がってきた慎二に受話器を差し出した。
 「慎二―――お父さん、事故に遭ったんだって」
 受話器を受け取る慎二の目が、大きく見開かれた。

***

 病院に着いたのは、午後5時を少し回った頃だった。
 「悪かったよ。ちょうど留守の時で、医者が“誰か他に連絡のつく家族はいないか”って言うから、慎二の所を教えるしかなくて…」
 「そんなこと言うなよ。…でも、良かった。大したことなくて」
 ほっとしたような慎二の言葉通り、工藤氏の怪我の状態は、バイクと接触事故を起こした割には軽いものだった。左腕を骨折していたのが一番大きな怪我で、それ以外は捻挫や打撲、擦り傷の類ばかりだったのだから、不幸中の幸いと言っていいだろう。
 精密検査も一応異常なし、ということで、慎二の父は帰宅を許された。
 「透子ちゃんも、悪かったね。急にこんな呼び出し食らって、びっくりしただろう?」
 斜め後ろを歩きながら心もとない顔をしている透子に、慎二に支えられながら歩く慎二の父は、そう言って笑いかけた。慎二より骨太な感じのするその笑みに、透子もなんとか笑顔を返した。
 こうして元気な笑顔を見ると、電話をもらってからずっと感じていた言いようのない不安がゆっくりと消えていく。自分に家族がいないせいか、家族の事故や不幸というシチュエイションがどうにも怖くて仕方ない。家で待っていろと言う慎二を強引に説き伏せてついてきてしまったが、やっぱり来て良かった、と透子は思った。
 「オレ、実家まで父さんをタクシーで送ってくけど…母さん戻るまでいないとまずいし、何時になるか分からないから、透子はここで帰った方がいいよ」
 タクシー乗り場の手前で、慎二がそう言う。が、透子は小さく首を振った。
 「慎二はお父さん支えてて手が空いてないから、荷物持ちの私は必要でしょ? 私も行く」
 「でも…」
 「それに、慎二が生まれたとこ、私も見てみたいもん」
 屈託なく透子がそう言うと、一瞬、慎二の表情が僅かに曇った。けれど、頑なに拒むのもおかしいと思ったのか、それでも帰れとは慎二も言わなかった。
 ―――何か、私が一緒だとまずいことでもあったのかな。
 小さな不安が、胸の奥にぽつりと染みを落とす。けれど、タクシーに乗り込む頃には、透子はその不安を忘れてしまっていた。

 

 渋滞に巻き込まれたこともあって、通常、病院からは45分程度で着くその家に着くまで、30分近く余分な時間がかかってしまった。
 タクシーを降り、初めて見る慎二の実家を目にした透子は、なんだか不思議な気分になった。
 その家は、どこか洋館を思わせる造りの、2階建ての家だった。豪邸と言うには慎ましやかだが、建売住宅とは明らかに違うそれは、なんとなく慎二にしっくりくる佇まいで、また慎二の父にも似合う家だった。
 ―――生まれてから高校を卒業するまで、慎二はここに住んでたんだ…。
 お世辞にも緑豊かな土地じゃなかった、と言っていたとおり、周辺に緑は少なく、整然と家が並んでいるだけ、といった感じがする。けれど、工藤家の玄関脇には、大きな金木犀の木が植わっていて、ちょうどシーズンを迎えたオレンジ色の花が、あたり一面に何とも言えない香りをふりまいている。ああ、なんとなく、慎二の家って感じがするな―――と、透子は口元を綻ばせた。
 「なんか、慎二の家っぽいね」
 鍵を開ける父の斜め後ろに佇んでいるこっそりと慎二にそう耳打ちすると、慎二はほんの少し照れたような笑みを見せた。が―――その笑みは、慎二の父の言葉に、一瞬にして消えた。
 「…しまったな。入れ違いで、由紀江が帰ってきているらしい」
 「―――…」
 父の言葉に息を呑んだ慎二は、少し険しい表情で父の方を振り返った。
 「母さん、いるの」
 「中から音がする。今日は銀座で買い物をして少し遅くなると言っていたのに…全く、タイミングが悪い」
 渋い顔でそう言った父は、小さな溜め息をついて、慎二の顔をじっと見た。どうする? ―――そんな、問いかけるような目で。

 …話が、見えない。
 事態は、分かる。つまり、由紀江というのは慎二の母の名で―――今日は銀座に行っていて留守だったので、病院からの電話に出ることはできなかった。そして、病院が慎二と連絡を取れてから今までの間に、予定より早く帰宅した。そういうことだろう。
 そのことに、何故、慎二がこんな戸惑ったような顔をしているのかが、分からない。
 何故、慎二の父が、こんな渋い顔でいるのかが、分からない。
 忘れかけていた小さな不安が、一気にその勢いを増す。胸の中に急速に広まるその冷たい感触に、透子は不安げに眉を寄せ、預かった鞄を持つ手に無意識のうちに力を入れていた。

 問いかけるような父の目を、暫し無言で見つめ返していた慎二は、やがて大きく息を吐き出すと、傍らに立つ透子を見下ろした。
 透子と目の高さを合わせるように、少し身を屈める。真っ直ぐに透子を見つめる慎二の目は、今まで見たことのない、不思議な表情をしていた。何というか―――諦めと決意が入り混じったような、そんな不思議な表情を。
 「透子―――1つ、約束して」
 「…え?」
 「この先、何を見聞きしても…絶対、何も言わないで」
 「……」
 ―――どういう意味?
 分からない。この先、何が起きるというのだろう? なんだか、怖い―――けれど、そんな約束はできない、なんて言う訳にもいかず、透子は戸惑いながらも黙ってコクリと頷いた。

 慎二の父が、インターホンのボタンを押すと同時に、ピンポーン、という軽快な音が薄闇の中に響く。
 『はい』
 インターホンから聞こえた声は、慎二の母にしては若い、けれど中年輩と分かる女性の声だった。
 「ただいま」
 慎二の父がインターホンにそう呼びかけると、ほどなくして、ドアを隔てた向こう側で、人の動く気配がした。カチャカチャと鍵を開ける音がして、やがて重厚な造りのドアが、内側から押し開かれた。
 「お帰りなさい、あなた」
 その声と同時に顔を覗かせたのは―――童女のような微笑を持つ、優しげな女性だった。
 慎二の兄の年齢を考えれば、少なくとも50代半ばであろうと推測されるその女性は、透子の目には40代半ば程度までにしか見えなかった。栗色の艶やかな髪を顎のラインで切りそろえ、邪魔にならないよう簡素なヘアバンドで留めているその人は、慎二と顔立ち自体はあまり似ていなかったが、その笑い顔が醸しだす柔らかなムードが、やっぱり慎二とそっくりだった。
 「あ、あら…、あなた、一体どうしたの? そんな怪我して」
 骨折した腕を吊っている夫の姿に驚いたのか、彼女の笑みはすぐに消えた。そして、戸惑ったようなその目が、夫の背後に移った時―――彼女の目が大きく見開かれた。

 慎二の姿を、見て。
 彼女は、それまでより3音ほど高い声で、叫んだ。

 「しゅ…秀一さん―――…っ!」

 ―――え…?

 驚いて目を丸くする透子をよそに、慎二はいたって冷静だった。
 ただ、どこか寂しげな、何かを諦めたような目をして―――それでもフワリと微笑んでみせた。
 「―――ただいま…母さん。久しぶり」


 “この先、何を見聞きしても―――絶対、何も言わないで”。
 慎二と交わした約束に言葉を封じられながら、透子は、一体今目の前で何が起きているのか分からず、呆然とその場に立ち尽くしていた。


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