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13

: 明日、見つけた。 (3)

 それは、とても奇妙な時間だった。


 「ちょうど良かったわ。今日は、秀一さんが大好物のクリームシチューだったから。透子ちゃん、だった? あなたも食べていきなさいね。おばさんのクリームシチュー、凄く美味しいって食べた人はみんな褒めてくれるのよ」
 …違う。クリームシチューはあまり得意じゃないって言ってた。
 「それにしても、全然連絡もくれなくて―――まあ、秀一さんのことだから、元気でいるだろうって安心はしてたけど。ほんとに秀一さんは、子供の頃から手がかからなくて、風邪ひとつひかない元気な子だったから…」
 …そんなことないよ。長野から帰ってきた翌日、思いっきり風邪ひいて寝込んだもの。

 ―――そんなことより。
 由紀江さん。今、あなたの向かいに座ってるあなたの子供は、秀一さんじゃないよ…?

 混乱した頭のまま、条件反射的に、クリームシチューを掬ってはスプーンを口に運ぶ。朝から作っておいたというそのシチューは、市販のルーを使ったものより、確かに数段おいしかった。それでも―――舌は味を感じていても、それを脳が認識していないような…そんな、変な気分だ。
 ―――慎二…。
 名前を、呼びたかった。
 けれど、それはできないから、黙ったまま隣に座る慎二の横顔をこっそり窺う。そんな透子の視線に気づいた慎二は、食事の手を止め、透子の方へと目を向けた。
 戸惑い、不安を訴えている透子の目に比べて、慎二の目は、静かだった。まるで―――この奇妙な時間が、彼にとっての日常であるかのように。

***

 何なのだろう、これは。
 親子3人の奇妙な食卓に加わりながら、透子の頭は、ずっと混乱していた。

 一番最初、透子は、慎二の父から「秀一の知り合いの娘さん」と由紀江に紹介された。
 透子も、慎二との約束を肝に銘じ、「秀一さんにはいつもお世話になっています」と挨拶した。由紀江は、その言葉を一切疑おうともせず、笑顔で透子を迎え入れてくれた。
 でも、透子は秀一を知らないし、彼がどんな顔をしているのかさえ知らない。何故なら彼は、もうこの世にいないのだから。
 慎二の兄・工藤秀一が亡くなったのは、もう15年近く前のことだ。
 急性白血病で、家族の骨髄提供を待たずしての他界だったと聞いた。先生の言葉なのだから、それは決して作り話ではないだろう。
 フォト・ジャーナリストを目指していた彼は、永遠に21歳のままだ。大学を卒業することも、夢を叶えることもあり得ない。そして…透子と知り合うことも、こうして家に帰って来ることもない―――それが、工藤秀一の現在の真実だ。
 なのに、母の由紀江の中で、秀一は、まだ生きていることになっているらしい。
 フリーのジャーナリストとして世界中を取材して回っていて、家には滅多に帰ってこない―――それが、由紀江の中の「現在の秀一」像。そして、今日、数年ぶりに家の玄関に姿を見せた息子は、彼女にとっては「久々に取材先から帰ってきた秀一」と映っているらしい。

 慎二は、「秀一」と呼ばれれば、躊躇なく返事を返す。
 慎二の父も、ついさっきまで慎二の名を呼んでいたその口で、慎二を「秀一」と呼ぶ。
 もしかして2人は、秀一が他界したことを母に隠し続けているのだろうか―――そんなことを一瞬思った透子だったが、そんなことは無理だと、すぐに分かった。21歳の秀一が、制服姿で高校に通う訳がない―――慎二と秀一の5歳という年齢差は、成人した今ならまだしも、秀一が他界した当時は誤魔化しようのないものだ。
 となると、残る可能性は、ただ1つ。
 この人は、心を病んでいる―――それが、工藤家に迎え入れられてからの30分あまりの間に、透子が唯一分かったことだ。

 

 「最近は、どの辺りを取材して回っているの?」
 由紀江は、食事の合間に、こんな質問もしてくる。慎二の答えは、毎回曖昧だ。
 「うん、まぁ…色々。あちこち」
 「秀一さんは東欧諸国が好きだったわねぇ。ドイツなんかは風景が綺麗で、写真撮ってても楽しいでしょう」
 「そうだね」
 あっさりそう相槌を打つ慎二は、当然、ドイツに行ったことなんかない。それに、秀一が目指していたのは、綺麗な風景写真を撮る類のカメラマンではなく、内戦や紛争を撮る類のカメラマンだ。由紀江の言葉は、その辺りでも微妙にズレている。
 「透子ちゃんは、いつ頃秀一さんと知り合いになったのかしら?」
 「えっ」
 前後の脈絡なく、いきなり自分に質問を向けられて、透子はスプーンを持ったまま固まってしまった。どうしよう、と思う間もなく、すかさず慎二の父が口を挟んだ。
 「由紀江、悪いが水持ってきてくれるか」
 「あ、はいはい」
 機嫌よく席を立った由紀江は、父のためにコップに水を注ぐ。はい、とそれをテーブルの上に置くと、童女のようなその笑顔が、ふっと虚ろな表情に変わった。
 「…ねえ、あなた。今日って何曜日だったかしら」
 「木曜日だよ」
 「秀一さん、あなた、今日は家庭教師のアルバイトの日じゃなかったかしら」
 「…由紀江。いいんだよ、秀一はもう大人だから、お前がそんな心配をしなくても」
 宥めるような落ち着いた夫の声音に、虚ろな表情の由紀江は一瞬眉を寄せた。けれど、小さな溜め息を一つつくと、「そうね」と小さな声で答えて、大人しく自分の席に座った。

 由紀江の中で、時間は、過去に飛んだり現在に戻ったりしている。
 話題の前後に繋がりがないのは、由紀江の記憶の中に散りばめられている秀一に関する情報を、ランダムに拾ってきているかららしい。そして、曖昧に誤魔化しておく分には、たとえ質問に対する答えになっていなくても、由紀江は特に気にしない。再び笑顔で、別のことを話し出す。
 ―――なんて、無垢な、子供のような笑い方をする人なんだろう。
 多分、元々、こういう幸せそうな笑い方をする人なのだろう。それは、慎二が時折見せる柔らかで綺麗な笑顔とリンクする。2人は親子なんだな、と感じるのは、顔立ちより何より、その笑い方だろう。けれど―――やっぱり、違う。あどけない笑顔は、正気であることをやめてしまった人のそれだ。
 この人の目は、今、現実の世界を何ひとつ見ようとしていない―――聞いていてるこちらの頭がおかしくなってしまいそうな奇妙な会話を黙って聞きながら、透子の胸はギリギリと痛んだ。

 何故なら。
 ここに来てから一度も、耳にしていないから―――工藤家のもう1人の子供である筈の、「慎二」の名前を。
 一体、慎二は、どこへ行ってしまったのだろう? すぐ隣にいる慎二が…見つからない。どこにも。


 「秀一さん、最近、どこか具合が悪くなったりしてない? きちんとご飯食べてる?」
 どうやら、体調のことが常に心に引っかかっているらしく、この質問は既に3回目だった。慎二も、前の2回と同じ返事を繰り返した。
 「大丈夫。どこも具合悪くないし、食事もちゃんととってるよ」
 「そう」
 ホッと安心したような笑みを浮かべる母に、慎二も微かな笑みを返す。その目は、母を憐れんでいるようにも、もう秀一がこの世にいないことを哀しんでいるようにも見えた。
 「まあねぇ…秀一さんはほんとに、子供の頃から丈夫だったから。慎二とは違って」
 「……っ」
 突如現われたもう1人の子供に、透子の手が止まった。
 息を呑み、慎二や、慎二の父の表情に目をやる。2人も、少し顔を強張らせ、続く由紀江の言葉を待って耳に神経を集中しているようだ。
 「そうそう、透子ちゃん。知ってる? 秀一さんの弟の慎二はね、昔、“奇跡の子”だって言われたのよ」
 今日学校であった面白い話を母に聞かせる子供みたいな笑顔で、由紀江は透子にそう言う。戸惑ったような顔をした透子は、なんとか形ばかりの笑みを口元に作り、小刻みに首を横に振った。知らない…聞いたことがない、そんな話は。
 「秀一さんと違って、慎二は生まれた時から体が弱くてね。3歳の時には、健康診断の血液検査でとっても大変な病気が見つかって―――あら、ねえ、あなた。あれってどういう名前の病気だったかしら」
 「由紀江…その話は、もういいだろう?」
 「何だったかしら」
 キョトン、と目を丸くして、再度訊ねる妻に、慎二の父は言葉を詰まらせた。今回ははぐらかせないらしいと悟った彼は、小さく溜め息をつきながら、呟きにも似た声で答えた。
 「…小児白血病だろう?」
 「―――…」

 心臓が、止まりそうになった。
 これは、事実なんだろうか。それとも、秀一と慎二を混同した由紀江が作り上げた偽りの思い出話だろうか。急激にズキズキと脈打ち始めるこめかみに思わず眉を顰めながら、透子はグラグラ揺れる瞳を慎二の方に向けた。
 慎二は、硬い表情のまま、動かなかった。
 スプーンを持つ手が、中途半端な位置で止まっている。視線は、母の方も、透子の方も見ていなかった。ただじっと、テーブルの真ん中辺りを見据え、じっと動かずにいた。

 「そうよ。それよ。偶然それが見つかったの。入院して、すぐに治療が始まって―――でも、完全に治る見込みは薄いでしょう、って言われて、私、随分泣いちゃったのよ」
 「……」
 「慎二はずーっと無菌室に閉じ込められてたんだけど、1ヶ月目に、一旦外に出されてね。30分位かしら、病院の庭にも連れてってもらっての。そうしたら慎二、“絵が描きたい”って突然言い出して。クレヨンと落書き帳を差し入れてあげたら、その日からずっと絵を描いてるのよ。病院の庭で見た花や木の絵を、ずっと」
 ―――作り話じゃ、ない。
 話がここに至って、透子はそう確信した。秀一と慎二を混同している訳じゃない。由紀江が語っているのは、まぎれもない、弟の慎二のことだ。
 「そしたらね。奇跡が起きたの」
 「奇跡?」
 「―――白血病細胞が、ゼロになった、ってことだよ」
 慎二の父が、透子の方に顔を向け、そう言って静かに微笑んだ。
 「当時、完全治癒はまだまだ難しい状況でね。慎二の場合も、1度目の治療で大半の白血病細胞を叩くことができたんだが、それでも数パーセント残っていたから、今後も化学療法を続けないと再発する、って言われてたんだよ。それが―――絵を描くことを覚えた時から、見る見るうちにその値が減っていって…1ヶ月後、検査してみたら、完全治癒してたんだ」
 「……」
 「世界中で、そうした奇跡が報告されてる。憧れのスターに会って危篤状態から生還したとか、大好きな山に登ったら癌細胞が消えてなくなっていたとか―――人間の免疫システムは、時々、そうした奇跡を起こす。慎二もそういう奇跡を体験した1人なんだよ」

 『1人でいると、立ち上がるのも歩くのも無理なんじゃないか、って、時々思う。…世界中、生きてるエネルギーが氾濫してて、そういうパワーがオレのこと生かしてるんじゃないか、って―――森も、海も、空も…その辺に転がってる石も、オレにはないパワーを一杯持ってて、何のパワーもないオレにちょっとずつ力を分け与えて、生かしてくれてるんじゃないか、って』

 ―――そっか…。そういう経緯があったから余計、あんな風に思ってたのか、慎二は…。
 もう一度、慎二の方に目を向ける。スプーンをシチュー皿の中に置いた慎二も、その視線に応えるように透子の方を見た。
 けれど…その目は、やっぱり寂しげで、哀しげだ。まるで、奇跡なんて起きなければ良かったとでもいうように。

 「ねぇ、秀一さん。どこか痛いところとか無い?」
 また、頭の中のスイッチが切り替わったのだろうか。由紀江は、つい今しがたまで話していたことなど忘れたみたいに、慎二に向かって心配そうにそう声を掛けた。
 慎二は、ふわりと微笑む。一見、幸せそうに―――けれど、とても哀しそうな目をして。
 「うん―――大丈夫。オレは元気だよ、いつだって」
 「そう…良かった。秀一さんは大丈夫よね、昔から元気だもの」
 ホッと安心したようにそう言う母の口から、その後、慎二の名が出ることは、二度となかった。

***

 泊まっていけばいいのに、という母の勧めを、慎二は「仕事があるから」とやんわり断った。
 「秀一、病院からもらった薬、お前が持ってるんじゃないか?」
 「あ、ごめん。忘れてた」
 リビングでくつろいでいた父の言葉に、帰りじたくをしていた慎二は、慌てて父の元へと駆けて行った。母はダイニングで、のんびりと紅茶を飲んでいる。
 ―――何も言うな、と言われたけど…。
 チラリ、と、リビングで父と話を始める慎二の様子を確認した透子は、おずおずと由紀江の傍に歩み寄り、躊躇いがちに声をかけた。
 「…あの…」
 「はい?」
 ティーカップを置いた由紀江は、子供みたいな笑顔で透子を仰ぎ見た。その笑顔にたじろぎながらも、透子はなるべく腰を折り曲げ、リビングにいる2人には聞こえないように気を使いながら訊ねた。
 「あそこにいるのは…秀一さん、ですよね?」
 「ええ、そうよ?」
 「あの―――慎二さん、は?」
 由紀江の目が、キョトン、と丸くなる。そんなこと、今まで一度も考えなかった、とでも言うように。
 表情が、次第に戸惑いを帯びる。何かを思い出そうとするように、眉間に深い皺が寄る。やがて、ああ、と納得したような顔になった由紀江は、苦笑に似た笑みを透子に返した。
 「いやだわ、透子ちゃん。 さっきお話したのに、忘れちゃったの? おばさん、説明したでしょう? 慎二は3歳の時に死んだって」
 「……」
 「私のせいなのよ。私がもっと丈夫に産んであげてれば…」
 そう言って溜め息をつき、ずれかけたヘアバンドを直す。その手首が目に入った時、透子は息を呑み、言葉を失った。

 由紀江の左手首に、真一文字に走る、生々しい傷跡。
 “私のせいなのよ”―――その言葉が、その手首に走る傷跡の意味を、教えてくれていた。

 


 パタン、と扉が閉まると同時に、玄関から漏れていた光が遮断され、工藤家の玄関先は暗闇の中に飲み込まれた。
 全身から、力が抜ける。歩き出すと同時にグラリと傾いた透子の体を、慎二が咄嗟に支えてくれた。
 「―――大丈夫? 透子。歩ける?」
 「…うん…」
 本当は、全然大丈夫じゃない。
 今すぐ引き返して、由紀江に掴みかかって怒鳴り散らしたかった。死んだのは慎二じゃない、秀一だ、と。今日一緒に食事したのは、怪我をした父を送ってきてくれたのは、秀一じゃない―――慎二なんだ、と。
 けれど、言えなかった。
 あの手首の傷の意味が、分かるから―――慎二や父が、何を恐れて由紀江の幻想に15年も付き合っているのか、分かるから―――どうしても、言えなかった。最後まで。

 『オレは、得意だったよ、かくれんぼ。…一度隠れると、誰も見つけられない。そうして、ずっとずっと、誰も見つけてくれないとさ―――そのうちオレも、かくれんぼしてる事自体、忘れちゃうんだよな…』
 高2の秋、1枚だけ散り残った紅葉を見上げながら聞いたあの言葉が、ふと耳の中に甦ってくる。あの時感じたのとは、全然違う意味を伴って。

 ―――見つけてあげてよ、お母さん。
 慎二は、ここにいるじゃない。見つけてくれるのを待ってるじゃない。どうして? なんで慎二だって分かってくれないの―――…?

 「………っ…」
 堰を切ったように、涙が溢れてきた。もう歩けなくて、透子はその場に立ち止まってしまった。
 「…透子?」
 透子を支えるようにして隣を歩いていた慎二も、自然、立ち止まる。今にも泣き出しそうな透子の顔を見ると、戸惑ったようなその顔が、悲痛な表情に変わった。
 自らも涙を耐えるように唇を噛んだ慎二は、震え始めている透子を、無言のまま抱きしめた。それまで秋風に晒されていた背中がフワリと暖かくなって―――その暖かさに、透子はもう、堪えることができなくなった。
 「慎二…」
 「…うん」
 「…慎二―――…」
 しがみついて、泣いた。
 何度も何度も、呼べなかった名前を呼んだ。
 本当は、慎二を抱きしめてあげたかったけれど―――それができない分、何度も慎二の名前を呼び続けた。

 

***

 

 記憶の片隅にある風景は、無機質な窓に切り取られたチューリップの花壇。
 それが、3歳の時、病室の窓から見た風景であることを、慎二は長いこと、ずっと知らずにいた。
 「ああ、それは、お前が入院してた時に見た、病院の庭の花壇だよ」―――10歳になった慎二にそう教えてくれたのは、5つ離れた兄だった。

 秀一という名の、兄がいた。
 明るくて、活発で、スポーツも勉強も優秀で―――秀一という名前のとおり、努力を惜しまない秀才。そして、慎二にとっては、父より母より自分を理解してくれる、たのもしい兄だった。
 穏やかでありつつも厳しいところでは厳しい父、少女のような愛らしさをいつまでも失わない母、そして頼りになる兄―――秀一と過ごした日々は、毎日が幸せだった。その幸せはずっと続くものと、慎二も、そして秀一もそう思っていた。

 その兄が、突然病に倒れるなんて。
 しかも、倒れてから僅か1週間で、この世を去るなんて。
 誰が、想像できただろう? 幼い頃から風邪ひとつひかない健康優良児だった兄が、あまり頑丈とは言えない慎二よりも先に死んでしまうなんて。しかも、かつて慎二が生還できた病から、あの秀一が生還できないなんて。
 気が違ったように秀一の亡骸に取り縋って泣き叫ぶ母の様子を、そんな母の背中をずっと抱いてやっている父の様子を、慎二は、病室の隅っこの方から呆然と見ていた。涙も出てこない。言葉も出てこない。まるで魂の抜け殻になったみたいになって、ずっとその場に立ち竦んでいた。
 つい先週、慎二に大学のキャンパスを案内して回ってくれた兄が、もう、この世にいない。
 どう理解すればいいのか―――慎二には、分からなかった。

 母が自殺を図ったのは、秀一の葬儀が終わった3日後。押しかけてきていた親戚が、全員いなくなってからだ。
 母は、兄の死後ずっと、自分を責めていた。
 母の叔母にあたる人と従姉妹が、やはり白血病で若い時分に亡くなっていたせいか、慎二に続き秀一までもが同じ病に侵されたことを「私のせいだ」と言って責めていた。白血病は遺伝する病気ではない、と父が何度も言って聞かせた。けれど、そんな病気になるような体に産んでしまったのは自分なのだから、と言って、ますます自分を責めていた。
 風呂場で手首を切った母を見つけたのは、父だった。
 幸い発見が早く、一命は取り留めた。けれど、2日間昏睡状態に陥り―――3日目の朝、やっと、目を覚ました。

 あの瞬間のことを、慎二は、今も決して忘れられない。
 無事でよかったと泣き縋る父と慎二を、母の虚ろな目がぼんやり眺める。そして、その目に光が戻ってきた時―――母は、目を大きく見開いて、慎二に向かってこう言ったのだ。

 「―――ねぇ、秀一さん。慎二は、どこへ行ったの…?」


 2人いた筈の子供が、1人しかいない。
 その現実を理解するために、母の脳は、秀一ではなく慎二を消し去った。
 それまで母は、慎二と秀一を分け隔てするような真似はしなかった。慎二には慎二のいい所があるのよ、と言って、慎二のことを認めてくれていた。なのにこうなったのは、健康優良児だった秀一よりも、昔から病気がちだった慎二の方が、いないことを理解しやすかったからではないか―――と、専門家は言った。

 誰が、母を責められるだろう?
 ある日突然、我が子を失って…自分を責めに責め抜いた果てに正気を失った母を、一体誰が責められるだろう? 正気を失うことで精神のバランスを保とうとしている母に、一体誰が「お前が秀一と呼んでるその子は、弟の慎二だよ」などと言えるだろう?
 慎二は、母を責めなかった。「秀一」と呼ぶ母に、ふわりとした微笑を返し続けた。
 ただ―――もう二度と、母が自分を「慎二」とは呼んでくれない。その事実が、どうしようもなく哀しかった。

 ―――何故、神様は、オレなんかに奇跡を起こしたんだろう?
 どちらか一方が死ぬ運命にあるのなら、オレにしてくれればよかったのに。オレなんかじゃなく、秀兄に奇跡を起こしてくれればよかったのに。
 自分は、何のために生き残ったのだろう―――ただ、秀一という名前の器として生き残ったのではないか。そんな風に思えてきて、この先、どう生きていけばいいのか、分からなかった。


 慎二が、学校を抜け出しては、渋谷の雑踏の片隅でぼんやり座り込むようになったのは、その頃から。
 “幽霊ごっこ”―――そう名づけた、逃避行。でも…何から逃げていたのか、慎二自身、よく分からなかった。
 まるで、幽霊か路傍の石にでもなったかのように、道端に座り込み、目の前を通り過ぎる人の波を眺める。自分に気づくことなく流れて行く人々を見送りながら、いつも思っていた―――オレってやっぱり、母さん以外の人にも見えないのかもしれないな…と。
 自暴自棄になっていた訳ではない。ただ、道に迷っていただけで。
 その気分は、かくれんぼをしていて、いくら待っても誰も見つけに来てくれない時の気分に似ていた。寂しくて、不安で―――なんで自分がここにいるのか、分からなくて。
 だから、慎二を見つけて立ち止まってくれる人は、どんな人でも愛しかった。
 バカなことも随分したし、悲しい思いもしたけれど―――幸せだった。いつだって。


 「…ねぇ、キミって、なんでそんなにふわふわ微笑むの? こんなとこで幽霊ごっこしてて、幸せ?」
 「幸せだよ」

 だって、気づいてもらえたから。オレが、ここに、いるって。


 ―――誰か、オレを、見つけて。
 誰の代わりでもなく、オレを、オレ自身を必要として。

 慎二が、ずっとずっと、心の中で叫び続けていたもの―――それは、ただそれだけの、小さな願いだった。

 

***

 

 眠れずに部屋を出ると、慎二の部屋の扉が、半分開いていた。
 ―――慎二も、眠れないのかな。
 声を掛けようかと思った透子は、少し、迷った。まだ完全に普段の自分を取り戻した訳ではない。また泣いたりしたら、慎二を困らせるばかりだ。でも―――…。
 「慎二…、起きてる?」
 扉の向こうを覗き込むように声を掛けてみると、扉の間から漏れるデスクライトが、僅かに揺らいだ。
 「起きてるよ」
 どうやら、仕事をしているようだ。迷った末、透子は慎二の部屋の中に1歩踏み入れた。
 机の前の椅子に腰掛けていた慎二が、透子の方を振り返る。眠気を欠片も感じられない透子の顔を見て、眠れなかったんだな、と察したのか、くすっと笑った。
 「大丈夫?」
 「…慎二こそ、大丈夫?」
 「オレは大丈夫」
 慣れてるから、という無言の返事が聞こえた気がする。数時間前感じた痛みをまた感じて、透子は思わず眉をひそめた。
 「…邪魔しないから、傍にいてもいい?」
 「いいよ」
 そう返事をした慎二は、落ちてきた髪を掻き上げながら、また机の方を向いた。
 躊躇いがちに座っている慎二の方へ歩み寄ると、机の上には描きかけのイラストが広げられていた。どうやら雑誌の仕事らしい。急ぎの仕事ではない―――やはり、慎二も眠れなかったのだろう。
 本棚に寄りかかるようにした透子は、暫く、静かな表情で無心に鉛筆を動かす慎二の様子を眺めた。
 ―――髪、やっとまた伸びてきたなぁ…。
 慎二は、髪が邪魔になるのが嫌なのか、後ろ髪が結べる長さに達すると、すぐに一つに束ねる。元々激しくレイヤーの入った髪なので、纏まりきらない短い髪が、頬や額にかかる―――そういう中途半端な時の慎二の髪型が、透子は好きだった。でも、今はまだ、後ろ髪を結える長さには全然足りない。
 ―――春までに、どの位まで伸びるかな。
 ふと、そんなことを思った途端―――胸が、締め付けられた。

 ―――来年の、春、まで―――…。

 …そんなの、無理。
 10歳も年上の人に使う言葉としては、似つかわしくないのかもしれないけれど―――愛しくて。抱きしめたいほど、愛しくて、どうしようもない。

 本棚から背中を離し、恐る恐る、慎二の横顔へと手を伸ばす。デスクライトの灯りの逆光を受けて、本来の色より明るく見える、その髪の輪郭へ。
 指先が髪に触れた瞬間、慎二の鉛筆を握る手が止まった。
 戸惑い、息を呑む気配を感じる。その気配に目を瞑った透子は、そのまま指を滑らせ、慎二の肩に腕を回した。そして―――座っている慎二の頭を自分の肩の辺りに押しつけるようにして、抱きしめた。

 幾度も、慎二に抱きしめられてきたけれど、慎二を抱きしめるのは、これが初めてかもしれない。
 普段なら、絶対できない。身長差がありすぎて。慎二が座っていて、透子が立っているからこそ、できること―――その感触は、想像していたよりずっと穏やかで、抱きしめられている時と同じ位、ふわふわと優しい気持ちになれるものだった。
 「…慎二…」
 名前を口にすると、慎二の髪が唇に触れて、余計たまらない気持ちになった。
 「慎二―――…好き…」
 「……」
 「慎二は?」
 「―――オレも、好きだよ」
 慎二の声は、少し、掠れて聞こえた。
 「…透子に出会って…オレ、嬉しかった。透子のために何でもしよう、って思える、自分が。それに…肉親でもないオレを心の底から必要としてくれる、透子が。…透子と一緒にいた間、オレを生かしてたのは、透子だよ。恋愛感情抱く前も、後も」
 「…だったら、これからもずっと、死ぬまで一緒にいさせてよ…」
 そう言う透子の声も、掠れていた。
 慎二は、自分を抱きしめる透子の腕に手を掛けると、その腕を少しだけ押しのけた。透子の肩に埋めていた額を上げ、透子の目を見つめる―――僅かに、透子の目の高さの方が上だから、少しだけ見上げる形になった。
 「―――オレは、透子には、世界で一番幸せになって欲しい」
 「……」
 「余計な心配せずに、家族からも友達からも祝福されるような相手を選んで欲しい。そりゃ、1度の恋愛で結婚まではいけないかもしれないけど―――最後には、そういう相手と結婚して欲しいんだ。…だから、オレは駄目。恋人になった透子を、他の人に譲るだけの度量、オレにはないから」
 そのセリフに、ドキン、と心臓が高鳴った。
 理性の上では透子を手放そうとしている慎二だけれど、本音では手放したくないと思っている―――その事実を、今の言葉の中に見つけた気がして。
 「譲らなければいいじゃない。慎二が私の“最後の相手”になればいいんだから」
 「…オレは“最後の相手”にはふさわしくないよ」
 「どこが?」
 「―――親に内緒にしなきゃいけないような結婚を、透子にさせろって?」
 慎二の目が、哀しげに細められる。
 「それとも、“兄貴”と透子を結婚させろって言うの? …母さんがあのままなら、そのどちらかしかないんだよ?」
 「―――…」
 それは…そうかも、しれない。でも―――…。
 「それにさ。…白血病の化学療法って、副作用があるんだ」
 「え?」
 突然飛んだように感じる話に、透子は少し目を丸くした。
 「…遺伝子が傷ついて、子供が出来なくなるケースが多いんだ。兄貴が発病した時、初めて知って、ちょっと驚いたけど」
 そう言った慎二は、透子の視線を避けるように、ついっ、と視線を逸らした。
 「透子には、家族がいない分、賑やかで、子供の笑い声が聞こえるような家庭を作って欲しい。もう二度と、透子が寂しい思い絶対しないように」
 「……」
 「だから―――オレは、駄目だ。最後の相手にはなれないよ」


 ―――何故、だろう。
 不思議な位に、気持ちは凪いでいた。
 どんな事実を突きつけられても、どれだけ説得の言葉を重ねられても―――波ひとつ立たない。穏やかに、慎二の言葉を受け止められる。

 だって、もう、答えを見つけてしまったから。
 透子が欲しい未来―――ずっとずっと望んできたものの正体を、透子は、見つけた。今日、その一端に気づいた瞬間から今までの、短い時間の中で。
 その見つけたものは、慎二の事情を知った今でも、変わらない。いや―――むしろ、もっと大きな望みへと成長している。決して揺るがない、1つの想いに。


 「―――ねぇ、慎二」
 逸らされた視線を追うように少し体を屈めた透子は、慎二の明るい色の瞳をじっと覗き込んだ。
 「私も、お母さんに秘密にするのも、“秀一”さんと結婚するのもイヤ。でも、もっとイヤなのは―――お母さんが慎二を“秀一”さんって呼ぶこと。私が聞いていない所でも、慎二が見つけてもらえないのはイヤだよ」
 「…えっ」
 「寂しいのは大嫌いだから、子供もいたらいいな、って思う。でも…子供が何人いても、慎二がいなければ、同じことだよ。世界中の人集めてきても、慎二がいなければ寂しい―――慎二がいないだけで、それだけでもう笑顔でいられないの」
 慎二の目が、うろたえたようにグラついた。その隙をつくように、透子は口元を綻ばせた―――これ以上ない位、幸せそうに。
 「私、幸せになりたい。…それができるのは、慎二だけなの」
 「……」
 「でも、私だけ幸せになるのはイヤ。慎二にも、幸せになって欲しい。…ねぇ、もう私、一方的に幸せにしてもらうだけの、子供じゃないんだよ?」
 その言葉に、慎二の目が大きく見開かれた。
 グラついていた瞳が、驚いたように真っ直ぐ透子の目を見つめる―――信じられない言葉を聞いたかのように。
 「ずっと…ずっと、子供の頃から思ってた。沢山のものをくれた慎二に、何かしてあげたい、って。でも、子供すぎて…思いばっかり空回りして、いつも苛立ってた。自分の力のなさに憤ってたの」
 「……」
 「慎二に、“家族”を取り戻してあげたい。慎二が1人きりにならないように、傍にいてあげたい―――他の人じゃ駄目、私がやりたいの。慎二を幸せにする役だけは」
 「…透、子…」
 「慎二を、幸せにしてあげる」
 言葉と同時に、そっと、慎二の頬に唇をつける。そのまま、吐息が触れるほどの距離から、慎二の目を見つめた。
 「だから、慎二―――私を幸せにしてよ。この先も、ずっと」
 「―――…」

 慎二の目が、何かに耐えるように、一瞬、細められる。
 直後―――慎二の手が透子の頭を引き寄せ、唇が重ねられていた。

 熱かった。
 体温が、なのかどうか分からないけれど、とにかく…触れ合った唇が、とてつもなく熱く感じた。
 息が、苦しい―――ただ唇を重ねるだけのキスしか知らない透子には、ひたすら未知な感覚。求められるままに舌を絡めるのが怖くて、まるでしがみつくみたいに、慎二の背中に回した手で慎二のシャツを握り締めた。
 怖い、けれど。
 嬉しくて―――涙が、溢れてきた。

 「…透子」
 唇を離し、額と額をつけるようにして、慎二が囁くように言った。
 「透子―――世界中で一番、愛してる…」
 「…うん」
 「透子は?」
 「―――宇宙で一番、慎二のこと、愛してる…」

 負けたな、という苦笑混じりの呟きに、思わず笑みがこぼれた。
 慎二も笑っていた―――フワリと柔らかな、透子が一番好きな、あの笑い方で。


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