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「痛っ!!」
指先に走る、痛み。
その瞬間―――遠い、遠い、セピア色したシーンが、脳裏に蘇った。
***
セーラー服のスカーフをなびかせながら走っていた透子は、ふと、名前を呼ばれた気がして、振り返った。
「透子ーっ」
「あ、ユウちゃん」
一番仲の良い友達の、ユウだった。ポニーテールに結んだ白いリボンが、走るユウに合わせてふわふわ揺れている。
「委員会、今日中止になったんやて。一緒に帰ろ?」
追いついたユウは、肩で息をしながらそう言って笑った。透子も頷き、2人は並んで歩き出した。
「透子、随分急いでたみたいやったけど…何か用事でもあったん?」
「うん、あー……、ううん」
「あはは、どっちやの」
「用事ってほどでもないけど。弟がね、今朝から風邪ひいて寝込んでるから、ちょっと心配なだけで」
「え、コータ君、寝込んでるの?」
「うん。ランドセル買ってもらって、はしゃぎ過ぎたのがいけなかったのかもしれへんわ」
明らかに大きすぎるランドセルを背負って、寝る時間直前まで「1年生になったら」の歌を歌ってた紘太を思い出して、透子はクスクス笑った。
「いいなぁ、ちっちゃい弟。うちの弟なんて、1つ下やから可愛くもなんともないわ」
「ユウちゃんとこの弟君は、体もおっきいもんね。最初、お兄さんかと思った」
「うちが妹に見えるんやったら、透子はもっと年下に見えるんちゃうの」
「うー…、うるさいっ」
同じ14歳でも、全国標準より僅かに体格の良いユウと、制服を着なければいまだに小学生と間違われる透子は、パッと見同い年には見えない。頬を膨らます透子に、ユウはあははは、と明るく笑って、その頬を指でつついた。
「あっ、そーや。明日、シンジョー先輩の最後の練習があんねんて。透子も見に行く?」
シンジョー先輩は、サッカー部のキャプテンで、女の子に広く人気のある先輩だ。受験のため、とっくに部を引退しているが、学校生活も残すところあと僅かなので、ファンサービスのつもりなのかもしれない。
ユウは熱狂的なシンジョー先輩のファンだし、透子も憧れている。でも透子は、ユウの言葉に困ったように眉を寄せた。
「うーん…私は、やめとく」
「ええ、どうして?」
「前からね、約束してたの、紘太と。明日、学校から帰ったら、お母さんの誕生日プレゼント買いに、一緒に三ノ宮に行ってあげるって」
「またコータ君? まるで透子がコータ君のお母さんみたい」
「だって…」
これだけ歳が離れていると、弟といっても、まるで子供か何かみたいな感覚に陥るものなのかもしれない。
もっと大きくなれば、また別なのだろうけれど―――誘ってくれるユウには申し訳ないが、今の透子には、シンジョー先輩よりユウより…もしかしたら、両親よりも、紘太が優先なのだ。
「まー、でも、仕方ないかぁ。可愛いもんなー、コータ君…」
「えへへ」
「…透子が嬉しそうにするんも、ちょっと変やと思うけど」
「ユウちゃんだって、弟君をアホアホ言われるよりは、しっかりした優しい弟さんやね、って褒められた方が嬉しいんと違う?」
「そりゃそーやけどぉ…」
口を尖らせたユウは、面白くなさそうに、胸に抱いていた鞄をぽん、と叩いた。
「うちの場合、うちが率先して弟にアホアホ言うてるから、誰も弟のこと、褒めたりせーへんわ」
何となく想像がついてしまい、透子は可笑しそうに笑った。
***
「ただいまー」
時計店のドアを開け、透子が明るく声を掛けると、店の奥のカウンターに座っていた母が顔を上げ、ニコリと笑った。
「おかえり」
「紘太は?」
「まだ熱があるけど、ちっとも大人しく寝てくれなくて」
「もぉ…しょーがないなぁ、あの子は」
いつもそうなのだ。水疱瘡をやった時も、幼稚園に行くと言ってきかなくて、実際、母の目を盗んでこっそり途中まで行ってしまったりした。活発なのはいいことだが、病気の時は大人しくしていて欲しいものだ。
「分かった。なんとか寝かしつけるね」
「あ、それと、おじいちゃんの時計。少し遅れてるから、気がついた時にでも直しといてね」
「はぁい」
おじいちゃんの時計、とは、居間に掛かっている古い壁掛け時計のことだ。祖父の一番のお気に入りで、祖父の死後、透子が毎日ネジを巻いている。今晩、ネジを巻く時に直しておこう…と考えながら、透子は店と家の廊下とを区切るクロス張りの扉をくぐった。
紘太がちっとも大人しくしていないのは、居間に入るより前に分かった。
ガーッ、ガーッ、という特徴的な音は、間違いなく、居間のテーブルの上でミニカーを走らせている音だ。
勢い良く居間のふすまを開け放つと、そこには、F1会場も真っ青という、豪華絢爛な光景が広がっていた。紘太は、持っているミニカー全てを子供部屋から運び込み、全部テーブルの上にぶちまけていたのだ。
「コータっ!!」
こらっ、という声色で透子が戒めると、一番お気に入りのランボルギーニを走らせていた紘太が、パッと顔を上げて笑った。
「あ、トーコ! おかえり〜」
「アカンよ、もうっ。お熱あるのに遊んでちゃあ」
「平気やもーん」
透子の睨みなどものともせず、紘太は上機嫌でミニカーに囲まれている。が、熱のせいか、その丸い頬はいつもより僅かに赤味を帯びている。風邪がちっとも良くなっていないのは明らかだ。
「お父さんがねぇ、今度のお休みに、フェラーリのプラモデル作ってくれるってー」
「うんうん、分かったから、ちょっとこっち来て」
足元のミニカーをどかしてペタン、と畳の上に座ると、透子は紘太を引き寄せ、その額に手のひらを押し当てた。
「―――ほらぁ。やっぱり熱がある。紘太、お薬は? 飲んだ?」
「お昼食べた後に飲んだよ」
そう言いながら、紘太は2、3度、咳をした。コンコン、というより、ケンケン、という風に聞える乾いた咳に、余計心配が募る。
「トーコも“F1ごっこ”しよーよー」
「だーめ」
「じゃあ、抱っこ」
「だーめ。もうすぐ小学生やろ? お布団ここに敷いてあげるから、ちゃんと寝なさい」
「いややー、膝に乗るのー」
「…もー…しょうがないなぁ」
観念した透子は、崩していた足を直し、きちんと座りなおすと、紘太に向かって「おいで」と手を広げた。えへへ、と笑った紘太は、ランボルギーニのミニカーをポイと投げ捨て、透子の膝に乗っかった。
「う…お、重い…。紘太、またおっきくなった?」
「そんなにおっきくならないよーだ」
「うーそーだ。あとで体重計で測ってやろっと。お姉ちゃんより大きくなってたら、紘太がお姉ちゃんを抱っこしてくれるやろ?」
「なってないもーんっ」
―――で、でも、ほんとに重い…。
紘太が生まれて間もない頃から抱っこをしてきた透子だが、ここ1年ほどでの紘太の成長には、正直、ビックリさせられている。ほぼ成長が止まったに等しい透子なのに、紘太はどんどん大きくなる―――前は簡単におんぶも抱っこもできたのに、最近は、手加減なしに膝に乗られると、その勢いで透子がひっくり返ってしまうほどだ。
なかなかじっとしてくれず、近所の友達にもらったというミニカーの自慢話を始める紘太に、透子は適当に相槌を打ちながら、落ち着かせるように背中をトントンと叩いてやった。紘太を大人しくさせるコツ位、透子はとっくに習得済みなのだ。
案の定、背中を叩くリズムに合わせるように、紘太は次第に大人しくなり、5分後には、少し眠そうな顔で透子に抱きついているだけになった。
本来、紘太は、もっと手の掛からない子供だった。それが、こんなに甘えん坊で寂しがりやになったのは、4つになって間もない頃―――祖父が亡くなった時からだ。
でも、変なところでやたら聞きわけが良く、妙に遠慮したりするところのある紘太は、両親にはあまりわがままを言わない。店番をする母の邪魔をしちゃいけない、とか、仕事で疲れて帰ってくる父に飛び乗っちゃダメ、とか思っているようだ。
その分、透子に甘える。
物心ついた時から、いつも遊んでくれた透子に、遠慮なしに甘える。
―――怖かったんやね、紘太。おじいちゃんが急にいなくなって。
小さく息を吐き出しながら、紘太の背中を撫でてやる。半分眠りかけている紘太は、またコンコン、と、乾いた咳をした。
…透子も、怖かった。
もう、誰も失いたくない―――祖父の葬儀の時、そう、思った。
***
結局紘太は、夕飯の直前まで、ぐっすり眠り込んだ。
そのおかげで、まだ咳は出るものの、熱はかなり下がった。でも、食欲はあまりないらしく、母は紘太のためにおかゆを作ってくれた。
「どうだー、紘太。元気になったか?」
会社から帰宅した父が、透子にスプーンでおかゆを食べさせてもらっている紘太の顔を覗き込む。食べることに真剣な紘太は、口では答えず、目の動きだけで父に頷いてみせた。
「透子が寝かしつけてくれたから、ちょっとは良くなったんよ。ほんまに、一時もじっとしてへんから、この子は」
夕飯をテーブルに並べながら、母がクスクス笑う。父も、部屋の片隅に寄せられたおもちゃ箱に気づき、昼間の様子を想像して可笑しそうに笑った。透子だけが、少し憮然とした顔をする。
「…笑い事と違うわ。私だって、紘太くらいの歳に、風邪こじらせて肺炎になりかけたやろ?」
「心配性だなぁ、透子は」
「しんぱいしょーだなー、トーコは」
父の口調を真似して、紘太が得意げに繰り返す。
「コラっ、お姉ちゃんを呼び捨てにしたらダメだろ、紘太」
「お父さんの真似やもーん」
そう、最近の紘太は、すぐ父の口真似をするのだ。どうやら父はそのことを知らなかったらしい。本気で眉をひそめているが、透子はあまり気にしていないので、笑って流した。
「とにかく! ご飯食べたら、ちゃんとお薬のんで、大人しく寝なさい」
「えー、いややー、もっと遊ぶー」
そんな父と紘太の攻防戦を眺めつつ、スプーンに新たなおかゆをすくっていた透子は、ふと、父の足元に置かれている買い物袋に気づいた。
「あれ? お父さん、それ、何?」
透子がそう言うと、父は足元を見下ろし、ああ、と顔を綻ばせた。
「紘太の大好物を買ってきたんだよ」
「大好物?」
透子と紘太の声が重なった。紘太のその声は、期待を滲ませている。父はニッと笑うと、ビニールの袋の中から、紘太の大好物を取り出した。
「ほーら、これだ」
「やあったぁ!」
出てきたのは、黄桃の缶詰だった。最近の紘太のお気に入りなのだ。
「あら、桃缶? 良かったね、紘太」
お椀を持って来た母が、父が掲げる桃缶を見つけて、笑顔になった。
「紘太が、今日はいい子で寝るって約束するんやったら、それ、これから食べてもええよ?」
「ほんとっ?」
「ほんと」
母の申し出に、紘太の目が輝いた。さすがは母だ。紘太の弱点を実によく知っている。
「…いい子にする」
「じゃあ、お姉ちゃんが開けてあげるね」
あまりにもすんなり術中に嵌ってしまった紘太に苦笑しながら、透子はスプーンとお茶碗をテーブルに置き、席を立った。台所に向かう透子の背後では、紘太が上機嫌に、即興の“桃缶のうた”を歌っていた。
「ご飯、全部食べさせてからにした方がいいのに…」
缶切りとデザート皿を用意する透子に、母が少し困ったような顔で、小声で囁く。透子も、困ったような顔を返した。
「けど、好物が目の前にあったら、絶対おかゆなんて食べへんもん、あの子」
「…全く、うちのお姉ちゃんは、随分弟に甘いこと」
「えへへ…ゴメン」
母が怒っている訳ではないのは、口調や表情で分かる。結局、透子だけじゃなく、家族全員紘太には甘いのだ。
居間に戻ると、父は隣の部屋で着替えをしていた。
紘太は、案の定、テーブルの上に置かれた茶碗など完全無視で、まだ“桃缶のうた”を歌っている。透子が缶切りを持って戻ってきたのを見ると、さっそく「早く〜」と急かしてきた。
「透子、あんまり沢山食べさせたらあかんよ?」
「たくさん食べるー」
「こらっ」
今度は母と紘太の攻防を耳にしながら、透子はゴトリと大きな缶を置き、缶切りで開け始めた。
―――沢山、て、どの位やろ? 放っておいたら、紘太、1缶まるごとでも食べるもんなぁ…。
おかゆをちょっと残しちゃったから、2切れは食べさせても大丈夫かな、なんてことを考えながら、手を動かしていたら。
「…痛っ!!」
缶切りが缶の縁を外れた直後、右手の指先に、鋭い痛みが走った。
賑やかだった食卓が、一瞬にして静まり返る。缶切りを投げ捨てた透子は、痛む指を慌てて口に含んだ。
「ど、どうしたの? 透子」
「き…切ったぁ…」
急いでいたのもまずかったのだろう。不必要に力を入れすぎたらしく、缶切りが缶から外れた瞬間に、その刃の部分で切ってしまったらしい。
半ば涙目になりながら、口に含んでいた指を恐る恐る確認してみると、人差し指の先から、みるみる赤い血が滲み出していった。
「…どうやったらそんな場所が切れるんだ?」
「ううう、どうせ不器用やもん」
父の呆れる声に、そんな風にしか返せない。どうやったら切れるのやら、自分でも分からない。
絆創膏絆創膏、と救急箱を取りに行く母の声を聞きながら、また指を口にくわえていたら。
「お姉ちゃん、痛い?」
紘太が、心配そうな顔で、透子の顔を覗き込んできた。
本当は凄く痛いけれど、透子はなんとか笑顔を作った。
「大丈夫、たいしたことないよ」
「僕に貸してっ」
「あ、あいたたたた」
身を乗り出した紘太は、透子の右手を掴むと、かなり強引に自分の方に引っ張ってきた。そして、また新たな血の滲む指先を、その小さな手で撫でるような真似をすると、真剣な顔で、呪文を唱えた。
「イタイのイタイの、とんでけ〜っ」
「……」
「イタイのイタイの、とんでけ〜〜〜〜っ」
紘太が、「とんでけ〜」と言いながら、あさっての方角に手を振りかざす度―――本当に、痛みが飛んでいく気がした。
いや。
もの凄く真剣な顔でその呪文を唱えてくれる紘太を見ているだけで、指の痛みなんて、どっかに消えていく気がした。
「ほーら。もう大丈夫。…お姉ちゃん、もう痛くない?」
「―――…うん。もう、痛くないよ」
透子は、微笑んでそう答えた。
すると紘太も、ちょっと自慢げに、そして満足そうに、ニッコリと笑った。
***
「―――…透子?」
透子の悲鳴に慌てて駆け寄った慎二は、手を押さえたまま動かない透子に、心配げに眉を寄せた。
透子は、どこか遠くを見ていた。
どこか、遠く―――ずっとずっと遠い世界。透子がこんな目をするのを、慎二はこれまでにも何度か見てきた。
「…切った? 見せて」
透子の表情を窺いながら、そっと押さえている手を外す。
見ると、缶切りか、缶の切り口で切ったらしく、透子の右手の指先からは血が滲み出していた。その様子から、結構ざっくりやってしまったのは明らかだ。
思わず、傷ついた透子の指先を口に含むと、鉄サビのような味が口の中に広がった。慎二は僅かに眉を顰めると、傷口に口をつけたまま、手探りでシンクの引き出しを開けた。前に包丁で怪我をした時、ここに絆創膏を放り込んだのを思い出したのだ。
案の定、記憶していた場所に、それは入っていた。ほっ、と安堵した慎二は、ある程度血の味がしなくなるのを待ちながら、透子の顔をチラリと見遣った。
遠くを彷徨っていた透子の意識が、ゆっくりと、この場に戻ってくる。
やっと、透子の目が慎二の目を捉えた時、慎二は傷口から口を離し、手早く絆創膏を傷口に貼り付けた。
「大丈夫?」
そっと訊ねると、
「―――…うん…、ごめん」
酷く弱々しい声が、返ってきた。絆創膏の巻かれた指を見下ろした透子は、その手を胸に押し付けると、完全に俯いてしまった。
透子が遠い目をする時―――透子が見ているのは、とても辛かった時の思い出。もしくは…思い出すのも辛い位、幸せだった思い出。
今、透子が見つめていたのは、どちらの思い出なのだろう? …それは、分からないけれど。
失われた風景を思い出し、言葉を失って立ち尽くす気持ちは、慎二にもよく分かるから。
慎二は、声もなく肩を震わす透子を、そっと抱きしめてやった。
「―――慎二…」
「うん」
「お願い…ここに、いてね」
「…うん」
「慎二だけは、いなくなったりしないで―――ずっと、一緒にいて。お願い…」
「…大丈夫。オレは、ずっと一緒にいるから」
思い出は、気まぐれに訪れては、鈍い痛みを胸に残していく―――たとえ、どれだけの時間が経とうとも。
こんな日は、苦しくて、苦しくて……涙が、止まらない。
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