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09: Fluere

 「え? 落ち込んでる?」
 「うん」
 ティーカップを口に運びながら、困ったように眉をひそめる慎二に、向かいに座った佐倉は、少し首を傾げるような仕草をした。
 「透子が浮き沈み激しいのは、いつものことじゃない? 慎二君があーしたこーした言っちゃあ、その度に幸せ一杯に喜んだり、地の底まで落ち込んだりしてるじゃないの」
 「…いや…その、オレは関係ないんだけど、今落ち込んでるのには」
 「あらま、恋愛面じゃない訳? でも…学業面であの子が落ち込むなんて、まずないでしょ?」
 「学業でもないよ」
 「てことは…」
 「―――そう。就職面なんだ」
 ますます眉をひそめる慎二に、
 「…それは、難しいなぁ…」
 紅茶をかき混ぜる手を止めた佐倉も、同じく眉をひそめた。


 透子の希望する就職先は、気象関係の会社である。
 しかし、現在のところ、気象関係の会社で新入社員の募集をしているところは、まだ1つも見つかっていない。
 諦めない、と透子は言っている。“とりあえず”どこかに入社する、という考えは全くない。希望する仕事に就けるまで、アルバイトなどをしながら根気強く就職活動をしていく―――慎二も、そういう透子を応援している。
 が、しかし、である。
 そういう選択を、誰もが支持する訳じゃないのは、当然で。

 『何!? フリーターになる、だぁ!?』
 数日前の電話で、透子の就職活動の状況を聞いた尾道の先生は、受話器を握る透子の傍にいた慎二の耳にも届くほどの大声で怒鳴った。
 「う、うん…どうしても見つからない場合は、そうするつもり」
 『おいおいおい…、そこまで工藤に影響されることはなかろうが』
 ―――オレの影響、って…。
 そうじゃないんだけどなぁ、と、心の中で反論する慎二の隣で、透子もムッとしたように口を尖らせた。
 「慎二の影響じゃないよ。私が、自分自身で考えて決めたことで、慎二がフリーターだったこととは何も関係ないもん」
 『いいや、影響がゼロとは言えんだろう。身近にそういうお手軽な道に進んだのがいるから、疑問を感じる感覚が鈍っとるんだ』

 先生の主張は、こうだ。
 自分がやりたい仕事をはっきり思い描ける大学生なんて、そうたくさんいる訳じゃない。思い描けてるつもりでも、現実を知らずに夢見ている場合が大半である。そして大多数の大学生は、やりたい仕事なんてなくても、成人した大人の義務と責任を背負って、ちゃんとどこかしらに就職すべく、就職活動をするのである。
 しかし、景気の先行きが不透明な時代、どんな仕事でもいいから就職したい、と願って努力している学生でさえ、簡単には就職できない。それが現実だ。
 透子が気象の仕事をしたいのは分かる。そういう会社が求人しているのがベストだというのも分かる。けれど、求人してなかったらフリーター、はよろしくない。透子なら面接も筆記も不足なくクリアできる資質を持っているのだから、多少希望とは異なっても、どこかしらにちゃんと就職すべきである。

 『大体、気象の仕事なんて、とんでもなく狭き門だろうが。フリーターになったって、一体いつ就職できるかわからん。5年経っても人員に空きが出なかったら、5年間フリーターで通す気か?』
 「……」
 『ちゃんと就職して、社会人としてのキャリアを積んだ上で、本当にやりたかった仕事に就く、という手もあるんだぞ。透子だって、早く大人になって、ちゃんと働きたい、っていつも言っておったじゃないか。学校が協力してくれる新卒の方が、中途より就職活動は楽なんだ。よく考えなさい』


 「―――で、落ち込んじゃったわけ?」
 「…そういうこと」
 「なるほどねぇ…」
 うーん、と天井を見上げた佐倉は、ため息とともに、ソファに深く沈みこんだ。
 「そういう点では、透子の周りにいる大人って、ダメよねぇ。慎二君にしろあたしにしろ、いわゆる“会社勤め”の経験がない上に、“就職活動”の経験もないんだから」
 「そうなんだよなぁ」
 そこが、慎二としても、なかなか辛い部分なのだ。
 慎二が、進学も就職もしないでフリーターになったのは、透子がフリーターになるかもしれない事情とは、全く異なる。先生の言う“安易な選択”に、限りなく近い。「進学にも就職にも特に意義が見出せなかった」という、酷く消極的理由なのだから。
 だから、そんな自分が「フリーターでも構わないよ」と言っても、あまり説得力がない。崇高な目的意識でもあってフリーターで通してたのなら、胸を張ってアドバイスもできるだろうに―――こういう時、ふらふらと社会の中で泳いでいた20歳前後の自分が、少々情けなくなる。
 「でも、あたしは、透子の言い分て結構好きだな。透子らしくって」
 天井を見上げたまま、佐倉はそう言って、くすっと笑った。
 「就職して、合わなければ転職しちゃえばいいんだ、なんて子も結構いるらしいし、今更終身雇用もあったもんじゃないけど―――透子にとっては、正社員になるのって、凄く重い選択なんだと思う。他にやりたい仕事があるのに、“とりあえず”入社、なんて、あの子には無理なんでしょうね。“とりあえず”が、全部悪いことだとは、あたしは思わないけど…うん。いかにも、透子らしいと思う。慎二君も、そう思うでしょ」
 ニッ、と笑って慎二の方を流し見る佐倉に、慎二も笑みを返した。
 「でもって、“そういう不器用な生き方しかできないところが好き”とか思ってるでしょ」
 「―――…」
 さすがに、これには反応のしようがなく、慎二は、ちょっとだけひきつった笑いを維持するだけにしておいた。

***

 出版社からの預かり物を佐倉に渡し、佐倉のマンションを後にした慎二は、腕時計を確認してみた。
 そして、ちょうど透子が科学館でアルバイトしてる時間だな―――なんて考えた慎二は、ちょっとした気まぐれを起こして、科学館に足を運んだのだが。


 ―――ちょっと、後悔してるかも…。
 背後から突き刺さる視線を感じ、冷や汗が背中を伝う。

 「もしかして、あの人がそうなのかな?」
 「そうなんじゃないの? だってさっき、井上さん、凄く照れた顔してあの人と話してたじゃないの」
 「へえぇ…。学生じゃないよね。どういう関係の人だろー?」
 「結構、綺麗な顔立ちしてるけど、癒し系ー。意外ー。思いのほかレベル高いじゃん、井上さんの趣味って」
 「ねー。無骨で堅実そうな男選ぶかと思ったのに」

 という、遠慮ゼロのひそひそ話を展開しているのは、多分、透子と同じゼミの、女の子2人。
 そして、その隣―――ひときわ、険悪なオーラを放っている視線が、1つ。
 「あっ、でも、あたし達は露村君の方がダンゼンいいからっ。ねっ」
 「そうそう。井上さんは、きっと年上好みなんだよ」
 「―――お褒めに預かり、どーも」
 慌てて取り繕う女性2名に、恐らくはかなりモテるタイプであろう露村は、憮然とした声を返した。当然ながら、背後から突き刺さるその視線の鋭さが緩むことは、全くなかった。

 慎二にしたって、透子に一切断りなく、突然科学館を訪れたのだが、彼らゼミ仲間の3人の来訪も、完全な抜き打ちだったらしい。「なんで露村君と女の子たちって組み合わせなんだろう?」と、突然の来訪者に赤くなったり青くなったりする透子は困惑気味にしていたが、慎二にはなんとなく事情が分かる。
 多分、露村は、これが初めての見学ではないだろう。日頃からちょくちょく、透子にさえバレないように密かに見に来ていたところを、女性2名に見つかってしまい、半ば無理矢理くっついてこられたのに違いない。遠くから見て、満足して帰るつもりだったのに、余計なのが2匹ついてきたせいで、透子にも見つかってしまった―――まあ、そんな感じだろう。
 露村と慎二が顔を合わせたのは、過去に1度限り―――ゼミの飲み会帰りに、透子を駅まで送ってきた、あの時だけである。その後の展開を、透子はあまり詳しく話したがらないのだが、「一応、彼氏だってことは信じてくれたらしい」とだけは聞いている。
 ―――でも、この視線からすると、諦めたようには思えないなぁ…。
 振り返ってないから、露村がどんな顔をしているのかは、分からない。けれど、想像はつく。荘太といい、露村といい…どうも透子は、不屈の精神の持ち主に惚れ込まれるタイプなのかもしれない。まいったなぁ、と、慎二はため息をついた。

 「はい、じゃ、いいですかー。お姉さんの方、ちゃーんと見てねー」
 透子の明るい声に、慎二ははっと我に返った。
 見れば、小学生らしき一団が、“雨の降るしくみ”という展示の前に10人ほど集まっていた。学校の授業にしては遅い時間だから、自由研究とか、そういう類のものかもしれない。
 科学館の職員の制服を着た透子は、学校の先生よろしく、子供達の前で説明を始めた。
 「はい、ここにある水槽を、海だと思って下さいねー。今、この水槽は、だんだんあったまってきています。どうしてかというと、ほら、ここにあるライト。ちょっと手を出してみて? …そうそう。ね? あったかいでしょう? このライトが、空で輝いてる太陽です。海もね、太陽の熱で、いつも少しずつあっためられてるの。みんなは、やかんとかでお湯沸かしてるのを見たことってあるかな? ある人ー」
 10人全員、バラバラに手を挙げた。それを確認する透子の目が、一瞬、慎二の姿を捉え―――ちょっと恥ずかしそうに、眇められた。
 「…はい、みんな見たことあるのね。じゃあ、その時のことを思い出してみて? やかんの口から、湯気が出てきてたでしょう? そう、水は、温めると、湯気になって上にのぼっていくの。今、この水槽の水もね、目に見えない位少しの量だけど、お水が湯気になって、上にのぼっていってるんだよ。じゃあ―――ちょっと見やすいように、もっともっとあっためてみようかな」
 ―――うーん…上手くできた実験装置だなー…。
 どこかに温度を上げる装置がついているらしく、水槽の水は、間もなく、湯気を出す程度にまで温度を上げた。
 透子は、この湯気を“水蒸気”と呼ぶことや、水面が温まるとその上にある空気も温まることなどを、子供たちに手や温度計で実感させていた。そして、水槽の上に透明な袋をかざして、説明を続けた。
 「上にのぼっていった暖かい空気は、のぼれるだけのぼった所に、こうやって溜まっていきます。…ほら、ビニールが曇ってきたでしょ? 上にのぼっていった水が集まると、こんな風になるの。これが、“雲”。とっても軽いから、風が吹いたりすると、簡単に飛んでいきます。ほらねー」
 今時のうるさい子供だと、「そんなビニール袋は空に浮いてない」とか言いそうでビクビクものだが、下に広がるジオラマなどが可愛いせいもあって、そういうにくたらしいツッコミを入れる悪ガキはいなかった。
 「もしこのまま、暖かい空気がどんどんどんどん溜まっていっちゃったら、どうなるかな? ―――あ、ほら。この辺。大きな水滴になってるでしょ。よーく見ててね」
 そうして―――ビニール袋の端に浮いた大きな水滴は、やがて、その重みに耐え兼ね、ポタリ、と下に落ちた。
 「はい。これが、“雨”です」
 へー、そうなんだ。
 小学生と一緒に感心してる自分が、ちょっと情けない。
 天気予報などで、「大陸からの乾いた空気が」とか「南からの暖かい湿った空気が」とか言ってるのをボンヤリ聞いていた覚えはあるし、湿った空気が増えると雨雲が発生して雨になるのも、感覚的になんとなく理解していたが―――ああして模型にされると、なるほどなぁ、と感心してしまう。
 「他にもねー、ほら、こうやって、こっちから冷たい空気を送り出すと―――ね? 溜まってた水蒸気が、どんどん水になっていくでしょう? これも、そのうち落ちてきて、“雨”になります。このように、雨が降る仕組みには、水が増えすぎて落ちてくるパターンと、暖かい空気が冷やされて水に戻るパターン、2つあります」

 ―――面白いなぁ。
 透子が、気象の世界にのめりこんだ理由が、なんとなく分かる。
 太陽の熱で海が暖められたり、その空気が山にぶつかって雨を降らせたり―――台所で起きてるのと同じ現象が、地球という、とてつもなく巨大なスケールで繰り広げられている。なんとも不思議な話だ。
 そして、その台所で再現できるような現象の結果…四季が、生まれる。
 地軸の傾きが、太陽との距離が、海水や空気を暖めるエネルギーの量を変え、季節を作る。そして、宇宙における地球と太陽の位置関係なんて考えたこともないものが―――みのむしや、銀杏木や、向日葵が、その季節を感じ取って花を咲かせ、葉を枯らせ、眠りにつく。

 「このまま、科学館の職員になるのかな、井上さん」
 「えー、無理無理。空きが出ないよ、こんないい職場」
 「でもあの子、地学関係の仕事以外、つく気ないっていうじゃない? 無理だよねぇ…。ゼミの連中だって、みんな普通の企業で就活やってるじゃん」
 「じゃ、このまま、就職せずにここでバイトし続けるとか? それはないよねー」
 「でも向いてんじゃないの? 子供相手にお天気教室ー、なんてさ。あたしは、うるさいガキども相手に小難しい地学の話するなんて、絶対嫌だけど」

 背後で、例の2人が、ひそひそ話とはもはや言えないレベルの音量で、そんなことを話していたが。

 「嫌、っていうかさ。お前らには無理だろ。分かりやすく説明するだけの頭がないから」

 露村があっさり言った一言に、背後の空気が一気に5度位下がった。

***

 「…うわ、降ってきたかー…」
 パラパラと空から落ちてくる雨粒に首をすくめた慎二は、科学館の入り口脇のひさしの下に入った。
 着替えを終えた透子が出てくるまで、まだ暫く時間がかかる。みるみるうちにアスファルトを黒く染めていく雨を見ながら、慎二はぼんやりと、さっきまで見ていた透子の働く姿を思い浮かべた。

 『…私、慎二みたいに、子供に何かを教える仕事をしてみたい』

 いつだっただろう? 透子が、そんな話を、慎二にしたのは。多分…まだ高1か高2の頃。

 『私が教えられるものなんて、まだ何もないんだけど、でも…慎二が絵の苦手な子に絵の楽しさ教えてるみたいに、私も何かの楽しさを教えて、それを好きになってもらえるような仕事がしたいの』

 「…“お天気教室”、か…」
 透子のゼミ仲間が発した言葉が、頭をよぎる。
 本人は皮肉や嫌味のつもりで言っていたらしいが―――案外、透子には本当に似合うかもしれない。

 ふいに、脳裏に浮かんだ光景。
 ずっとずっと先の未来―――どこか遠い、自然がいっぱいある所で。慎二は子供達に、絵を描く楽しさを教えている。そして透子は―――空のこと、草花のこと、森のこと…地球の営みのことを、子供達に教えている。実験装置じゃなく、本物の自然のど真ん中で。
 ―――ペンションとかやって、サマースクールみたいに子供達が泊まりに来るってのも面白いよなぁ…。絵と自然を学ぶ1週間、なんてね。
 夢みたいな話だけど、と、慎二は、御伽噺じみた自分の想像に、つい笑みを浮かべてしまった。


 「―――っとっとっとっとー」
 急に、慌てたような陽気な声が聞こえてきて、慎二はぼんやりしていた視線を、その声の方へと向けた。
 「ひゃー…、降られちゃったなぁー…」
 どうやら、急な雨に、慌てて雨宿り場所を求めて駆け込んできた人らしい。
 年の頃は40代後半から50代といった感じの男性で、白髪混じりの髪が、雨に濡れてぺたんと頭に張り付いていた。170に届くか届かないか微妙な身長に、コックさんの役などが似合いそうなふくよかな体型―――どことなく、漫画のキャラクターを思わせる風貌だ。
 「いやいやいや、参りましたよ。すみませんが、ちょっと一緒に雨宿りさせてもらっていいですかね」
 「え? あ、ええ、どうぞ」
 別にここは、慎二のテリトリーでも何でもない。慎二は当然、そう答えた。
 「朝から雲ゆきが怪しいとは睨んでましたが、ここまで本格的な降りになるとは、少々予想外でしたなぁ。こんなことなら、傘を準備してくるんでした」
 喋るのが好きなタイプなのか、突然の来訪者は、眼鏡についた水滴をせっせと拭きながら、そんなことを慎二に話しかけてきた。
 「まだ梅雨入り宣言は聞いてませんが、最近ぐずつき気味ですよね」
 無視するのも変なので、慎二も一応、言葉を返した。すると相手は、やたらオーバーに頷いた。
 「今年もそろそろ…今日にでも出ますよ、梅雨入り宣言。このところ、南西モンスーンが随分と強まってきましたからね」
 「南西モンスーン?」
 「赤道付近の季節風ですよ」
 「はあ…」
 何か、気象関係の仕事でもしている人なのだろうか。南西モンスーンに慎二が首を傾げた途端、そのふくよかな顔が、突然いきいきと輝きだした。
 「梅雨というと、日本の上空のことだけ考えてしまいがちですがね。実は、物凄く広い範囲の気象現象なんですよ。梅雨前線発生のメカニズムをご存知で?」
 「え、えーと、いえ」
 「この時期、インドや東南アジアの地域では、暖かく湿った空気がどんどん生まれてましてね。熱帯モンスーン気団、ていう気団になって、日本にやってきてるんです。一方大陸の方では、チベット高原辺りで暖かく乾いた空気ができてまして―――この、乾いてる気団と湿ってる気団の境目に、梅雨前線ができるんです」
 「…はあ…」
 「凄いと思いませんか」
 ずい、と詰め寄られ、思わずのけぞる。
 「スリランカからの風と、チベットからの風の、せめぎあいですよ。日本の上空で、北半球アジア地区の空気の攻防戦が繰り広げられてるんです。なかなかエキサイティングな催しだと思いませんか、梅雨って」
 エキサイティングな催し―――…。
 じとじとした梅雨を、こんな風に表現する人は、初めて見た。
 でもまあ、確かに、日本海と太平洋位しか頭にない状態で天気を語るより、チベット高原とスリランカの攻防戦の方がエキサイティングだ。日常生活に無関係な南の海から流れてきた空気と、行ったこともない北の大地から流れてきた空気が、日本上空で押し合いへし合いしてる、というのだから。
 「…は…はあ…凄いですね」
 逆らうと大変そうだし、逆らおうにもどう逆らったらいいか見当もつかないので、慎二は笑顔を作り、そう相槌を打った。
 すると、お天気博士風紳士は、非常に満足した笑みを浮かべ、バン! と慎二の肩を叩いた。
 「いやー! ありがとう! ありがとう!」
 「……」
 「毎日の天気の移り変わりを見てると、地軸の傾きと豊富な海水量、そして日本が島国であったことに感謝したくなりますよ。やー、本当に面白い! いい国です、日本は!」
 「…そ…です、ね」
 この世に、地軸の傾きに感謝しながら生きている人がいたとは―――少々、いや、かなりの、カルチャーショック。
 呆れるとか感心するとか、そういうレベルの問題ではない。慎二は、彼のその徹底した姿勢と存在感に、ひたすら圧倒された。
 「おっと。少し、雨足が弱まりましたね」
 慎二が圧倒されてるうちに、博士もどきは、早くも天気の変化に気づいていた。
 外していた眼鏡をかけ、雨を吸ったポロシャツの裾を軽く引っ張ると、彼はおもむろに、ズボンのポケットから何かを取り出した。
 「“袖振り合うも他生の縁”と申しますからね。お近づきのしるしに、どうぞ」
 「え?」
 そう言って差し出されたのは、名刺だった。
 「…あ、どうも。すみません、オレ、今名刺は持ち合わせてなくて…」
 「いやいや、お気になさらずに。では!」
 よほど、雨足の弱まっているうちに、早くどこかへ行きたかったのだろう。彼は、慎二が挨拶を返すのを待つこともなく、猛ダッシュで小雨の中へと飛び出していった。

 ―――うーん…。気持ちがいいほどに、ゴーイング・マイ・ウェイだなー…。
 自らも、一般的に見て相当なゴーイング・マイ・ウェイだと思うが、あの域には達していない。面白い人だなぁ、と、ぐんぐん遠ざかる背中を見送りながら、慎二は大きく息を吐き出した。
 何者だったのだろう? 気になった慎二は、手にした名刺に視線を落とした。

 『天気のことなら気軽にご相談を! お天気屋 江野本一馬(えのもとかずま)

 「…???」
 なんだそりゃ、と思いつつ、名刺を裏返す。裏返した筈だが、実はそちらが、正式な表面だったらしい。

 『四季気象サービス株式会社 代表取締役 江野本一馬』

 「―――…」
 “代表取締役”。…ああいう人が社長の会社って、どんな会社なんだろう?
 “四季気象サービス”。…ここまでストレートな社名というのも、なんだか、凄い。
 でも。
 「…気象関係の会社…だよな…」
 しかも、透子が書き出していた、気象関係の会社の一覧表に、こんな目立つ名前の会社はなかったように思う。勿論、ちらっと見ただけなので、慎二が見落とした可能性はあるが。

 まさに、袖振り合うも他生の縁。
 なんて偶然―――就職に四苦八苦している透子にこれを見せたら、きっと喜ぶこと間違いなしだ。
 ―――って言っても、さすがに、何も分からない会社を無責任に紹介するわけにもいかないよな。
 ちょっと、調べてみるか―――そう考えつつ、慎二は名刺をポケットの中に押し込んだ。

 「慎二ーっ」
 名刺をしまい終わったところへ、着替えを終えた透子が出てきた。
 「お待たせー。凄く待った?」
 「いや、それほどでも。…ゼミの仲間は?」
 周囲にあの連中の姿がないのに気づいて慎二が訊ねると、透子は、ちょっと引き攣った笑みを返した。
 「あー、うん、露村君が“帰りにケーキでも食べに行こう”って誘ってくれたけど、女の子達が、問答無用で露村君のこと連れてったから」
 「そっか。…ちょっと気の毒だな」
 「うん…でも、私は“助かっちゃった”ってのが本音。―――あ、やっぱり雨、降ってきちゃったね」
 「小降りになったけどね。どうする?」
 「傘、持ってきてるよ」
 そう言って透子は、大きなトートバッグの中から、濃紺に薄く花柄模様の入った折り畳み傘を取り出した。
 「用意周到だなぁ」
 「ふふふ、なんとなーく、夕方ごろには雨になりそうな予感がしたから、念のため。ちょっと小さいけど、相合傘でもいい?」
 「いいよ」

 受け取った傘を広げてみたら、確かに、小柄とはいえ大人2人が入るには小さめなサイズだった。
 少しだけ、迷った末―――慎二は、透子の肩に腕を回し、ぴったりと寄り添うようにして歩き出した。
 「……」
 唐突に肩を抱かれた透子は、びっくりしたように、僅かに肩を強張らせていたが―――チラリと見上げてきたその目は、照れてはいるが、困っている様子ではなかった。
 そんな透子を見下ろして、ふわりと微笑んだ慎二だったが。
 ―――あれ?
 ふいに、あることに引っかかりを感じ、首を傾げた。

 ―――江野本一馬…。
 えのもと?
 …なんか、聞き覚えがある気がするんだけど…どこで、聞いたんだっけ??

 「? どうかしたの、慎二」
 「ん? ああ、いや、別に」
 不思議そうにする透子に、曖昧な笑みで答える。
 それから暫く、記憶を色々と辿ってみたものの―――慎二は結局、“えのもと”について思い出すことはできなかった。


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