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10: シロフォン

 雨が、庇を叩く音がする。
 窓越しに見る雨は、悪くない。空気が洗い流されるような気がして。でも…この季節は、あまり好きじゃない。
 雨音は、去年知った寂しさを思い出させる。
 いつ帰るか分からない慎二を待つ心細さを思い出して―――泣きたくなる。

 今年ももうすぐ、やって来る。
 透子にとって、1年で一番憂鬱な日が。


***


 「今日は、工藤さんは留守なのか」
 透子以外の気配のない室内の様子に、千秋は、さっそく台所に立って紅茶の準備を始めている透子に訊ねた。休日に、あの優しげな透子の同居人が不在とは、少し珍しいことに思えたから。
 が、振り返った透子は、何を今更、とでも言いたげな笑いを千秋に向けた。
 「やだ。いないからこそ、千秋を呼んだんじゃない?」
 「…まあ、考えてみれば、そうか。仕事か?」
 「んー…、よく、知らないの」
 そう言って、透子は不服そうに唇を尖らせた。
 「最近、慎二、なーんか行動が怪しくって。仕事じゃない平日に、何故だかスーツ姿で出かけて行ったり、江野本先輩のこと訊いたり」
 「江野本…って、あれか」
 一時期、荘太を追っかけていた、気象オタクでカメラが趣味の先輩だ。
 透子が地学に興味を持つようになったのは、勿論慎二が原因ではあるが、きっかけは江野本の地震雲写真だ、と考えている千秋からすると、あまり好きな相手ではない。透子の転部は、勿論本人にとっては良いことだと理解してはいるが…やっぱり、透子と同じ科だった千秋からすれば、ちょっと寂しい出来事だったから。
 「なんで工藤さんが、江野本先輩のことを? 会ったことあったか?」
 「記憶にないなぁ…ただ、折に触れて話には出してたけど。一番お世話になってる先輩だから。なんで急に江野本先輩に興味持ったりしたんだろう、慎二ってば」
 「…ううむ…」
 「あ、適当に座ってね」
 多分、透子も既に、散々この件について首を傾げまくったのだろう。千秋の回答を待つでもなく、そう言ってお茶の準備に戻った。
 千秋にしても、慎二とも江野本とも大した関わりはないのだから、透子にも思いつかないような推理が浮かんでくる筈もなく―――透子の勧め通り、床の上にすとんと座った。

 外は、雨。
 梅雨のただ中、じとじと中途半端な勢いの雨は、歩くにもバイクをとばすにも不都合だ。さすがの千秋も今日はバイクはやめて、歩きでここまで来た。
 「鬱陶しい季節だな」
 「ほんとにねー」
 紅茶を淹れながら、透子が相槌を打った。
 「千秋、せっかくの教育実習期間だったのに…。随分雨に祟られちゃったけど、部活動とか、大丈夫だった?」
 「大丈夫。私が臨時副顧問をやってた部は、室内ばっかりだったからな」
 「そっか。…ね、中学校の先生、やっていけそうだった?」
 「まあ、なんとかな」
 「なら、良かったね」
 そう答える透子の声が、どことなく寂しさを滲ませている気がして、千秋は気まずい気分になった。

 千秋は昨日まで、母校の中学校での教育実習だった。
 実習中の1ヶ月、透子と疎遠気味になっていたことに、千秋は友人として、少し罪悪感を覚えている。
 教育実習中は、ずっと実習先の中学校に行きっぱなしだったので、透子と会う機会もほとんどなかった。授業の予習に1日のレポート、研修の筈が実際の顧問より目立ってしまった部活動(女子柔道部がなかったし、空手部もなかったので、剣道部になった)等々―――大学に通ってる以上にやるべきことが多かった。
 と言っても、電話したり友人に会ったりする時間が全くなかった訳ではない。同じく別の中学で実習中の荘太には「そっちの実習、どんな感じ?」と電話する時間はあったのだ。なのに…透子には、電話1本入れることすらしなかった。
 「―――情けない」
 「え?」
 千秋が、知らず呟いてしまった一言に、透子がキョトンとした顔をする。千秋は、苦々しそうな顔をして、眉間に皺を寄せた。
 「何が?」
 「…実は、かなり自信喪失してたんだ。実習始まってからずっと」
 いつにない千秋の言葉に、透子が余計、目を丸くする。自信がない、なんて、千秋には一番似合わない言葉のように思えた。千秋はいつだって、自分の進むべき道をしっかり見据えていて、そのための実力も自信も常に兼ね備えている、しっかり者のイメージがあるから。
 「自信喪失、って…千秋が? なんで?」
 「―――自分では、教職員向きな性格だと思っていたんだ。実際、授業はよくやれたし、部活も上手くやれたと思う。先生方の評価も悪くなかった。でも…」
 「でも?」
 「…生徒の評価は、低いんだな。これが」
 「……」
 「堅苦しい、馴染めない、厳しそう、怖い。女子生徒だけならまだしも、男子生徒からもそう言われて、他の実習生が生徒に混じってワイワイやってる中、私だけどうにもそのムードに溶け込めなかったんだ。実習1週間で、かなりへこんだ。これだけ余裕なくしたのも久しぶりだ、って位に」
 「…それは…生徒が、千秋をなめてかかっていない証拠なんじゃない?」
 千秋の落ち込みも分かるが、なんだか納得のいかない気分だ。透子は眉をひそめた。
 「私が中学生の時も、教生さんが何人か来たことあったけど―――学生っぽい人ほど生徒には人気あったよ。友達とか先輩とか、そういう目でしか見てないから、先生として信頼したり尊敬する訳ないもん」
 「…まあ、それは、小林にも言われた。学生気分で来てる奴ほど生徒ウケする、教師適正とは無関係だ、って」
 「でしょ?」
 「だから、それはもう、いいんだ」
 そう言って、千秋は、大きなため息をついた。
 「今“情けない”って言ったのは、別の件」
 「えっ?」
 「去年の今頃だっただろう? いきなり工藤さんがいなくなったの」
 「……」
 「それに、神戸で会った透子の同級生の件もあったし、就職で悩んでいることもあったし―――透子が一杯不安を抱えてるのを知ってたのに、自分に余裕がないからといって、連絡ひとつ入れなかった自分が、情けない」
 「―――…」
 透子の大きな瞳が、少し、揺れた。
 でも、それは一瞬のことで。
 「やだなぁ、そんなことで落ち込むなんて」
 透子はそう言って小さく笑い、ほど良い色合いになった紅茶をティーカップに注いだ。
 「ユウちゃんのことは、お互いに立場が違うんだから仕方ないって分かってるし、就職のことも、もう先生達が何言ったって妥協はしないぞって覚悟決めたし。千秋が心配するようなこと、何もないよ?」
 「…そうか」

 ―――嘘をつくのが下手な透子。
 工藤さんのことについてだけは、「何もない」とは言わないんだな。

 気丈すぎるほどに気丈な透子が一瞬だけ見せた動揺に、千秋の胸が小さく痛んだ。

***

 紅茶が入り、千秋がお土産に持参したクッキーを白いお皿に並べて、2人は他愛もないおしゃべりを始めた。
 教育実習のこと、透子のバイトのこと、ゼミで相変わらず怪しいムードを漂わせている露村のこと―――そんな話の流れの中で、いきなり、透子が思わぬ話題を千秋に振った。

 「そういえば、前から訊こうと思ってたんだけど」
 「ん?」
 「千秋って、荘太のこと好きなの?」
 ちょうど口に運んでいたケーキを、落としそうになった。
 思いっきり眉間に皺を寄せた千秋は、睨みつけるような勢いで、向かいに座る透子の顔を凝視した。
 「い…一体、どこをどう押せば、そういう話になるんだ?」
 「え、だって、仲いいじゃない。最近」
 「仲がいい、イコール、恋愛対象か? そうじゃないことは、透子が一番良く知ってるだろうに」
 「…そ…そりゃ、そう、だけど」
 この件は、透子も突っ込まれると痛い。ちょっと不服そうにしながらも、透子は反論せず、ぱくっ、とケーキの上の苺を口の中に放り込んだ。
 「でもぉ…、私から見ると、お似合いなんだけどなぁ。千秋と荘太って」
 「…どこが」
 「2人ともバイクが好きだし、同じ教員目指してる同士だし、どっちも根は真面目だし。でも、千秋が常識重んじるタイプなのとは反対に、荘太はどこまでも自分に忠実で本能的な部分があって、そういう対照的な部分で、お互い補い合えてるっていうか、何ていうか」
 「……」
 「さっきの教育実習の話でも、荘太は先生から叱られてへこんでて、千秋は生徒にビクつかれてへこんでて―――お互い、へこむな、って励ましあってたんでしょ?」
 気まずさに、千秋の視線が微妙に落ちる。
 正直、荘太に愚痴って慰めてもらったことは、千秋にとってはかなり恥ずかしい話なのだ。透子を諦められずに、未練がましくウジウジしていたあの荘太に、この橋本千秋が慰められるなんて―――先日、道場の件で“目からウロコ”なアイディアをあっさり口にした荘太にもちょっと悔しい気分になったが、教育実習の本質を自分より理解している荘太には、あの時以上に悔しい気分になった。
 「…確かに、小林は意外に頼りになる部分もあるが、私から見れば恋愛対象じゃない。男同士の友人関係に限りなく近いな」
 「男の人って感じはしないのかぁ…」
 「ついでに、小林にとっても、私は女じゃないと思うぞ」
 「そうかなぁ?」
 「女に“首都高バトルやろうぜ”なんて誘う訳がないだろう」
 「荘太は、女は大人しくしてなきゃ可愛くない、なんて思うタイプじゃないもん。バイク乗りの彼女が出来たら、多分、2人で首都高バトル繰り広げて楽しんじゃう方だと思うよ。挙句に事故ったら、ちょっと洒落にならないけど」
 「…やめろ」
 はぁ、とため息をつき、千秋は頭を押さえた。
 「意識させるな。男とか女とか。小林とは、今の距離感が、一番楽しく過ごせるんだから」
 「…そういう事言うのって、もう既に、荘太を男として意識してるからじゃ…」
 「絶対に、ない!」
 びっくりするほど大声で怒鳴る千秋に、さすがに透子も慌てて口を噤んだ。
 口を噤んで―――やがて、その肩が、小刻みに震え出す。笑いを堪えるように、口元がむずむずと歪み出す。
 「…何だ、その顔は」
 「だ…だって…」
 「何!」
 「千秋、顔、真っ赤になってる」
 「―――…」

 自分で自分を、殴りつけたくなる。
 そうなのだ。ここ最近―――はっきり言えば、この前、荘太を初めて道場に入れ、はからずもあの愚弟と対峙させてしまった日から、千秋はどうにも、調子が狂い気味なのだ。
 荘太に、恋愛感情などない。それは、はっきり断言できる。
 恋愛感情を抱いた相手など、これまでに片手で足りる程度にしかいないが―――その中には“あの人”もいるし、今目の前で笑っている透子の現在の恋人もいるが―――それらの男に感じたものを、荘太には感じない。胸が締め付けられるような思いも、まともに目を見られないような気まずさもないし、変に意識しすぎてぶっきらぼうな口調になることもない。
 けれど、唯一、どうにも自分で自分が分からない部分。
 へこんで、落ち込んで、苦しくなった時――― 一番仲が良くて信頼している透子ではなく、何故、普段ガキっぽくて諦めが悪くて直情的過ぎると評価している荘太に、電話してしまったのか。
 所詮透子とは夢が違う、だから透子に相談しても、ただの愚痴吐きになるだけだ―――だから、同じ道を目指している荘太に電話した。そう言ってしまえば、それで通るのだろう。
 でも―――…。

 「…言っておくが、私の好みは、大人の男だ」
 こほん、と咳払いをひとつし、紅茶を口に運ぶ。
 だから、ガキっぽさ丸出しの荘太はお呼びじゃない、と暗に言ったつもりだったのだが。
 「なら、尚更ピッタリだよ。荘太って結構、大人だよ?」
 笑顔で透子にそう言われ―――千秋は、返す言葉を完全に失った。

***

 ―――全く…思わぬ展開になったな。
 透子の家を辞し、駅までの道を傘をさして歩きながら、千秋は内心、舌打ちをした。
 本当は、慎二との仲の進展のほどを聞き出そうと思っていたのに―――逆に、延々、荘太をどう思っているのか、なんて話を透子に向けられて。結局、慎二と今どんな関係にあるのかは、ほとんど分からないままだ。
 それに……。
 ―――やっぱり、情緒不安定気味…かな。
 時折、透子が見せた、どこか寂しげな、なのに心ここにあらずな表情。
 透子は今、就職のこと、過去のこと、様々な面で迷ったり躓いたりしている。その中で唯一、千秋が指摘しても触れようとはしなかった話題―――去年の今頃、突如いなくなってしまった、慎二のこと。

 慎二以外、本当に頼れる相手を持たない、透子。そんな透子にとって、突然慎二がいなくなる、という去年の事件が、どれほどの衝撃だったか、どれほどのトラウマを透子に残したかは、千秋も理解しているつもりでいた。
 去年のあの憔悴振りを目の当たりにしていたから―――この、ジトジト降る雨に、あの頃のことを重ねて、透子が気鬱になるかもしれないことは、千秋だってちゃんと予想していたのだ。
 なのに。

 『なあ…橋本。最近、透子に電話してる?』
 数日前、教育実習の終わりも近づき、それぞれの状況を電話で話し合っていた時、荘太がぽつりと切り出してきた話。
 『俺から電話してもいいんだけどさ。ほら、俺ってちょっと、立場的に複雑で…あいつに、変に未練ありげで鬱陶しいとか思われるのも嫌だしさ。だから、橋本から電話してやってくれよ。…そろそろだろ。去年、工藤さんが失踪しちゃった時期って』
 言われて―――心臓が、ドキン、と音を立てた。
 『…あいつって、強そうに見えて、実はもの凄い弱いところがあるんだよ。でも、それを隠そうとして、無理して無理して―――無理しすぎて、時々、どうしようもなくダメになる時があるからさ』

 「…あーあ、自己嫌悪」
 荘太から指摘されるまで、自分のことで精一杯で、透子の不安定な状況のことなんてすっかり忘れてたなんて―――短く呟いた千秋は、ため息をつき、水に濡れたアスファルトを蹴る爪先に視線を落とした。

 悔しい、と、思った。
 荘太に、透子の弱さを指摘されて、悔しいと思った。
 悔しいと思ったのは、自分が失念していた親友の危機を、荘太に指摘されたこと、だろうか。
 同じ教育実習生として目一杯の生活をしながらも、荘太の方には、まだ透子を気遣うだけの余裕があったこと、だろうか。

 それとも―――…。

 バタバタと傘を叩く雨の音が、鬱陶しい。
 本当に、この季節は1年で一番嫌いだ。早く夏にならないか―――千秋は、近づきつつある7月が、待ち遠しくて仕方なかった。


***


 うとうとする中で、透子は、どこかで木琴(シロフォン)の音を聞いていた。
 ぽん、ぽん、と、軽やかな音を奏でる木琴―――やがて、目が覚めるに従って、その音は微妙に色合いを変え、不思議な音色となって、耳に伝わった。
 ―――なんだろう、この音。
 なんだか、綺麗な音階のようにも聞こえる。ドとミとソ―――それが、不規則に奏でられている。

 「透子」
 ふいに、慎二の声がした。
 机に突っ伏してうたた寝していた透子は、その声に驚き、ハッと顔を上げた。
 ねぼけ眼の先に、帰宅したばかりらしい慎二が、ドアを開けて顔を覗かせていた。透子が顔を上げたので、ふわりと微笑んでいる。
 「ただいま」
 「し、慎二…? どうして…」
 「こっちの窓叩いても反応なかったから、眠ってるかな、と思って、チャイム鳴らすのやめて鍵を自分で開けたんだ」
 そう言って慎二が指差したのは、透子の部屋の窓。アパートの裏庭に面しているその窓は、帰宅路には面していないので、わざわざ裏庭に回りこまなくては叩ける筈もない。
 「…なんでわざわざ、裏庭になんて回ったの?」
 ぽかん、として透子が訊ねると、慎二は、ちょっと楽しげな笑みを見せ、部屋の中に入ってきた。そして、意味が分からず呆けている透子の横をすり抜け、透子の胸の高さにあるその窓を、よいしょ、と開けた。
 途端、雨の音が、一層強まる。
 と同時に―――夢の中で聞いた、あの、どこか木琴に似た優しげな音も、よりはっきりと耳に届いた。
 「これ、仕掛けてたんだ」
 「え?」
 慎二が窓の外を指差す。慌てて立ち上がった透子は、その指差す先を覗き込んだ。
 そこにあったのは、水の入った、ワンカップ大関のガラス瓶だった。
 全部で、3本。それぞれ、入っている水の分量が少しずつ違っていて、ちょうどトタン製の庇に穴が開いて雨が漏れているその下に、1つずつ置いてある。雨漏りした雨水がガラス瓶の中に落ち、その水音が、それぞれちょうとド、ミ、ソの音階になっているのだ。
 「ほら、お隣さんて、よくアパートのゴミ捨て場にワンカップ大関の瓶を捨ててるだろ? ちょうど3つ捨ててあったから、どんな音するかな、と思って、試してみたんだ」
 「へーえ…。結構、綺麗な音が出るね。楽器みたい」
 「気に入った?」
 「うん!」
 透子が満面の笑みで答えると、慎二も嬉しそうに微笑んでくれる。その笑顔に、不安が、少しだけ和らいだ。

 雨の季節も、慎二の手にかかると、こんなに楽しくて、素敵。
 雨が落ちるたび、味気ないガラス瓶の中で奏でられるハーモニーは、去年の悲しかった思い出を少しだけ塗り替えてくれる。

 だから、今日も、訊けなかった。
 “今日、一体どこに行ってたの?”―――なんて。


 雨が降る。
 しとしとと、心を濡らすように、雨が降る。

 この季節は、嫌い。
 雨音が、あの日が―――7月5日が近づいてくる足音のような気がして。

 透子は、近づいてくる7月が、今でも不安でたまらなかった。


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