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11: アルタイル

 明け方の室内を、足音を忍ばせて横切る。
 少し緊張した面持ちの透子は、ドアの前で暫し躊躇った後―――静かに、慎二の部屋のドアを開けた。

 慎二が眠るベッドの上に、カーテン越しに、うっすらと朝の光が射し込んでいた。
 そっと覗き込んだ慎二の寝顔は、こうして見る限り、普段の慎二とまるで変わらない。表情は穏やかだし、夢も見ずに熟睡しているのか、閉じられた瞼も1ミリも動かない。額にかかった前髪を指先で軽く摘んでみたが、慎二が反応を示すことはなかった。
 ―――うん…、よく、眠ってる。
 本当に、いつも通りの慎二。
 その様子に、透子はやっと、安堵の息をつく。
 安堵の息をつきながら―――少し、胸を痛める。


 透子にとっては7度目の、慎二と過ごす、7月5日。その朝は、不思議なほどいつも通りに―――穏やかに、訪れた。


***


 「あ……」
 花束を抱きしめた透子は、そこに先客がいることに気づき、足を止めた。
 遠目にも分かる、がっしりとした体格。会ったのはただ1度だが、そのスーツ姿にははっきりと見覚えがあった。そして、何よりも―――今日、ここに来る人がいるとしたら、それは彼と、彼の愛する女性(ひと)だけであることを、透子は知っていた。
 「久保田さん!」
 透子が声をかけると、十数メートル先に佇む大柄のスーツ姿が、驚いたように振り返った。
 「あれっ、君…」
 「透子です。去年お世話になった」
 透子が笑顔でそう答えると、久保田は、ああやっぱり、という風に顔をほころばせた。
 「奇遇だなぁ。君も墓参り?」
 「ええ」
 「1人で?」
 慎二の姿を探してか、久保田の目が、透子の背後を彷徨う。透子は、曖昧な笑いを返した。
 「私は講義がないから時間とれるけど、慎二は、仕事あるから。…久保田さんも、1人なんですか?」
 「まあね。俺は、外回りの途中で、ちょっとだけ立ち寄っただけ。時計見りゃ分かるとおり、普通なら今は業務時間内だから」
 久保田の勤める会社がどこにあるのかは知らないが、偶然この墓地の近所である確率は低いだろう。水曜日の午前中に、勤め人が墓参りをしているのは、本来はおかしな話なのだ。
 「あの人は、来ないんですか?」
 昨年、喫茶店で佐倉と一緒に待っていた時、窓ガラス越しに見た女性を思い出す。ショートヘアのよく似合う、健康的な美女だった。
 毎年7月5日は―――多恵子の誕生日には、久保田と彼女の2人で、多恵子の墓参りをする。それが、彼らの決めたルール。聞いた話によれば、多恵子に対しては久保田以上に思い入れが深いらしい彼女なのだから、そのルールはきちんと守っているだろう。それならば、久保田も彼女と一緒に来ればいい筈なのに…。
 少し不思議そうな顔をする透子に、久保田は、気まずそうな笑みを見せた。
 「ああ…、今年は、ちょっと、一緒はやめようってことになって、な」
 「え?」
 「いや、俺はいいんだけど―――あいつの方は、多恵子に色々と複雑な感情があるらしくて」
 「…ええと…」
 どういうことだろう? 意味が分からず透子が眉をひそめると、言い難そうにしていた久保田も、思い切って結論を口にした。
 「―――結婚、するんだ。俺達」
 「えっ」
 「ちょうど来月が式だし、2人で多恵子に報告に行くか、って誘ってみたんだけどな。“だからこそ、今年は1人で行きたい”って言って聞かなくて―――ああ、女って難しいよなぁ」
 「……」
 結婚―――あの人と。
 パチパチと目を瞬いた透子は、突然突きつけられた事実に、佐倉が“佳那子姫”と呼んでいたあの女性の気持ちを、なんとなく理解した。言葉にするのは難しいが、もっと根本的な―――本能的な部分で。
 彼女は多分、感じ取っていたのだろう。多恵子の、久保田に対する想いを。だからこそ、彼の伴侶になる、という事実を、仲良く2人揃って報告に行くのが、なんだか罪深いことのように思えるのだろう。それがどれほどの恋愛感情を含んでいたかは定かではないけれど―――多恵子にとって久保田は、慎二とはまた違った意味合いで“大切な人”だったのだろうから。
 けれど、そういう女心を、本人以外が口にするのはまずいだろう。
 「…多恵子さんに冷やかされると思ってるんじゃないかな、彼女さん」
 何気ない口調で透子がそう言うと、久保田も「そうかもなぁ」とのんびりした口調で相槌を打った。
 「おめでとうございます」
 「ハハ、ありがとう」
 「多恵子さん、祝福してくれましたか?」
 久保田の背後に、視線を向ける。
 綺麗に掃除された墓―――真新しい線香が供えられた跡と、多分、彼女のためのスペースを空けているのだろう、通常より少な目の本数備えられている花。久保田はちょうど、墓参りを終えたばかりらしい。
 「“一体何年待たせるんだ、気ぃ長すぎ”って怒られた」
 多恵子を振り返り、肩を竦めた久保田は、そう言って苦く笑った。

 

 退社後に来るという“佳那子姫”のことを考え、透子も、花器に2、3本の花を挿すだけにした。

 ―――多恵子さん。
 線香を供え、手を合わせながら、“飯島家之墓”と書かれた墓石を見上げる。
 人は、どんどん変わっていく。
 多恵子の死に涙した人達も、いつまでもうな垂れたままではいない。それぞれの人生を歩み、幸せを掴み、多恵子の死は“受け入れ難い現実”から“苦しい記憶”へと変わっていく。いや…、変えていかなくてはいけない。生き続けていくためには。
 透子にとっての家族の死が、そうであるように。
 久保田や慎二にとっての多恵子の死が、そうであるように。
 ―――だから、現実が思い出に変わることに、罪悪感なんか感じちゃいけないんだよね。
 分かってる。
 分かっていても―――…。

 胸を過ぎるチクリとした痛みに、透子は唇を引き結び、そっと墓前に手を合わせた。


***


 いつもよりちょっと重たい気分でバイトをこなし、帰宅したのは、6時を過ぎてからだった。

 「おかえり」
 既に仕事から戻っていた慎二が出迎えるその背後で、何やら、ガサガサという音がした。
 「? 何の音?」
 「ああ、これ?」
 目を丸くする透子に、慎二はちょっと笑い、玄関先から体をずらした。
 するとそこには、靴箱に立てかけるように、1メートルほどの高さの笹が置かれていた。
 「えぇ? どうしたの、これ」
 「今日、教室で使ったんだけど、余ったから貰ってきたんだ」
 「“子供絵画教室”で、なんで笹?」
 「ほら、明後日が七夕だろ? 色紙使って、七夕飾り作ったり、短冊作ったり」
 「へえぇ…。いいなー、そんなこともやるんだ、絵画教室って」
 そういえば小学校でもそんなことをやったな、と思い出して、透子は笹の葉を指先で軽くつついた。
 「懐かしーい。七夕飾りなんて、小さい頃やって以来、ずーっとやったことないし。せっかく笹貰ったんなら、後で作ろうかなぁ」
 「そうだね。気象予報士試験もあるし」
 笑顔で放たれた言葉に、うっ、と言葉に詰まる。そう、8月の後半に―――奇しくも透子の誕生日と同じ頃に、気象予報士試験があるのだ。
 慎二はどうだか分からないけれど、透子に関しては、短冊に書く願い事なら、まさに星の数ほどあるかもしれない。
 「…ちょっと、気合入れて作ろっと」
 思わず呟く透子に、慎二は楽しげに笑った。

 

 食後、2人して、教室で使った余りものの色紙と“作り方”の説明書を出してきて、笹に飾りつける七夕飾りを作った。
 静かな部屋に、パチンパチン、と、色紙にハサミを入れる音が響く。慎二が折った色紙に入れる細かな切り模様に時折見惚れながら、透子も短冊にする色紙に紐を通したりした。
 「…あ、また降ってきた」
 窓を叩く雨音に、透子は少し眉を寄せ、窓を振り返った。
 「明後日って、晴れるかなぁ…。せっかくの七夕なのに」
 「どうかなぁ」
 切り込みを入れ終わった色紙を丁寧に広げながら、慎二がくすっと笑う。
 「未来の気象予報士さんの予報では?」
 「…う…、い、痛いなぁ」
 「あはは…。でも、いずれは透子が“七夕の夜は晴れるんでしょうか”って訊かれる方の立場になるんだろ?」
 「…そーなんだけど。うーん――― 一応、私の予報では、願望も込めて“晴れ時々曇り”」
 「願望か…。そうだよなぁ」
 小さく息をつき、慎二は、綺麗に広げられた七夕飾りを、手の中でぽん、と弾ませた。
 「1年に1度きりの、織姫と彦星の逢瀬なんだから。その日を選んで雨を降らせたら、神様も相当意地悪だよなぁ」
 「―――…」

 天の川に隔てられた恋人同士の、1年に1度きりの、一夜の逢瀬。
 川の、こちら側と、向こう側。越えることのできないものに隔たれて―――会いたくて、会いたくて、でも会うことができなくて。

 やっぱり…日付が近いせいだろうか。織姫と彦星は、誰かと誰かを彷彿させた。

 「…慎二、も?」
 言うつもりなど、なかったのに。
 ふと気づけば、短冊につけた紐を結ぶ手を止めて、そう訊ねていた
 七夕飾りを手で弾ませていた慎二は、その言葉に目を上げ、不思議そうな顔をした。
 「オレも、って…、何?」
 「その……」
 しまった。
 言うんじゃなかった―――早すぎる後悔と共に、透子は言葉を濁して、気まずそうに俯いた。
 「透子?」
 「……」
 「…どうしたの」
 ―――なんで、私って、こうなんだろう。
 激しい自己嫌悪に陥りながら、心の中でだけ、ため息をつく。顔を上げた透子は、まだ不思議そうにしている慎二の目を真っ直ぐに見つめ、少し眉根を寄せた。
 「…慎二も、会いたくならない?」
 「え?」
 「多恵子さんに」
 「―――…」
 微かに、息を呑んで。
 慎二の目が、その一言で、全てを悟ったような目に変わった。
 「…ごめんね」
 「……」
 「ごめんなさい。慎二が、せっかく…」
 …せっかく、この日を、こんなに穏やかに過ごしていたのに。

 苦しい記憶を蒸し返すみたいに、多恵子の名前をまた出してきて―――自己嫌悪。どうしようもなく、自己嫌悪。
 慎二の言葉を信じてる、慎二の気持ちを信じてる、と言いながら、まだ“多恵子”の3文字にだけは、心をかき乱されてしまう、そんな自分がどうしようもなく嫌いだ。
 どれだけ慎二の中に占める自分の割合が増えたとしても、多恵子を上回ることはできない―――そう感じてしまうのは、多恵子が既にこの世にいない人だからかもしれない。
 透子にだって、親と意見が対立して大喧嘩になったことや、弟に迷惑をかけられてうんざりしたことがあった。でも、両親と弟を失った今、蘇ってくるのはどれも楽しい思い出ばかり―――辛かったことや腹立たしかったことでさえ、全てが、もう二度と手に入らない楽しい思い出へと昇華されて、蘇ってくる。
 死というフィルターをかけると、思い出は美しく、優しくなってしまう。
 だからこそ…多恵子には敵わない、と思ってしまうのかもしれない。

 「…なんで、泣くの」
 困ったような、でも苦笑しているような慎二の声で、視界が滲み始めていることに気づいた。
 「今年は透子の方が情緒不安定か…。困ったなぁ」
 「……っ」
 宥めすかすように、頭をぽんぽん、と撫でられる。堪えきれなかった涙が零れ落ちた。
 情緒不安定―――そうなのかもしれない。
 日頃なら考えもしないことを、今日は、何故か考えてしまう。父のこと、母のこと、紘太のこと…多恵子のこと。もういない人のことばかり考えて、心が一杯になってしまう。考えても考えても、どうにもならないことだと分かっているのに。
 「きょ…今日、ね。多恵子さんに、会ってきたの」
 もう多恵子の話はやめようと思っているのに、駄目だった。透子は、俯いて涙をポロポロ零しながら、胸のつかえを吐き出すように続けた。
 「慎二は元気にしてるよ、とか、今年は悪い夢にうなされたりしてないから安心して、とか…そういう風に言おうと思ってた。なのに―――な…なんで、だろ。出てきたのは、“ごめんなさい”だったの」
 「ごめんなさい?」
 「うん。ごめんなさい…ごめんなさい、って、泣きながら、繰り返してたの」
 「……」
 「…何が、申し訳なかったんだろ。多恵子さんは、自分で死を選んだのに―――紘太みたいに、生きたくても生きられなかった訳じゃなくて、自ら望んで生きるのをやめたのに。多恵子さんが死んじゃってること知らなかった頃は、多恵子さんに申し訳ないなんて思ったこと、一度もないのに…なんか…」
 「……」
 「なんか…私が、多恵子さんから、慎二を取っちゃったような気がして」

 去年の今頃、慎二は、多恵子のものだった。
 7月5日がくるたびに、多恵子に思いを馳せ、心の全てを持って行かれてた。
 でも、今年の慎二は、7月5日がきても穏やかに過ごしていられる。多恵子の名前を出すこともなく、悪夢にうなされることもなく、まるでいつもと変わらない1日のように過ごせる。それでいいのだし、そうあって欲しいと透子だって思った。
 でも…1年に、たった1日だけの逢瀬。
 多恵子のための1日だった今日を―――何故か、自分が奪ってしまったような気がして。
 自分がいるから慎二が多恵子を忘れてる、なんて、そんな自惚れたことは思っていない。思っていない、けれど…きっとかつては多恵子のものだった筈の慎二との穏やかな時間を、今は自分が当たり前のように手に入れている。そのことに、時々、まるで多恵子からその時間を横取りしたような罪悪感を覚える。

 多恵子には敵わない、という思いと、多恵子に対する罪悪感。
 矛盾している、けれど、矛盾していない。どちらも、透子にとっては偽らざる真実だ。

 「なんだか、多恵子さんのことが、天の川の向こうで現れない彦星を待ってる織姫のように思えて」
 「……」
 「じ…自分のことが、行かないで、って、彦星の腕を引っ張ってる、我侭な星みたいに…思えて…」
 「…透子…」
 ため息混じりの、苦笑を滲ませた声。
 「…天の川を三途の川に見立てるなんて、ロマンチストなのかそうじゃないのか、微妙だなぁ」
 膝歩きでテーブルを回り込んできた慎二は、顔も上げられずに涙を零す透子の頭を、そっと胸に抱きとめた。
 子供をあやすみたいに、ゆっくり頭を撫でられると、ギリギリになっていた心が少しずつ凪いでゆく。ああ、やっぱり私って、慎二から見たらまだまだ子供なんだな―――と頭の片隅で思い、少し悲しくなった。
 「透子さ。1つ、勘違いしてること、あるよ」
 「…勘違い?」
 「うん」
 「何?」
 「多恵子にとっての彦星が、誰か、ってこと」
 「……」
 少し眉をひそめ、透子は、慎二の腕の中で体を捻り、慎二の顔を見上げた。
 見下ろしてきた目が、優しく細められて、微笑む。
 「多恵子の彦星は、ずっと前から、陸ただ1人だよ」
 「…リク?」
 「そう、陸。大陸、の、陸。…まるで冗談(ジョーク)だよね。海で命を落とした人の名前が、陸、だなんて」
 陸。
 その名は初めて耳にするが―――慎二が誰の事を言っているのかは、分かった。

 “―――多恵子にはね。オレより、隼雄君より、もっとずっと愛してた人がいたんだ”。
 “隼雄君と出会うよりもっと前から―――ずっとずっと、その人だけを愛してた。その人も、多恵子を愛してた。けれど2人は、この世では結ばれない関係だったんだ。だから、2人して、別の世界に行こうとした。そして―――彼だけが行ってしまって、多恵子だけが取り残された。多恵子が15歳の時だって”。

 多恵子が、その命を捨ててでも、会いたくて会いたくて仕方なかった人。
 透子の知らない多恵子の不幸を、唯一、多恵子と一緒に背負うことのできた人―――それが、陸。

 「…オレが毎年、この時期におかしくなってたのは、多恵子に会えないからじゃない。多恵子が生きてるか死んでるか分からなかったからだよ」
 「……」
 「苦しんでるんじゃないか、泣いてるんじゃないか、せめて傍にいて、一時でも陸を忘れさせてあげればよかったのに…なんて考えては、気を揉んだり後悔したり―――それが、去年までのオレ」
 「…今は?」
 「今は、もう、大丈夫」
 くしゃっ、と透子の髪を撫でて、慎二は微笑んでみせた。
 「多恵子は、多恵子の彦星に会いに、川を渡って行ったんだよ。それを見届けたから―――オレの役目は、そこで、終わり。これから先…生きている人を幸せにしたり、自分自身が幸せになったりするために生きるって、決めたから。だから…もう、大丈夫」
 「……」
 「…生き残ることは、罪じゃないよ、透子」
 それは、今までにも何度か、慎二から言われたこと。
 額にフワリと落ちてくる温かい唇に目を閉じた透子は、こみ上げてきた涙に、口元を手で覆った。
 「オレにも、透子にも、もうこの世にはいない人のためじゃなく、今ここにいる人のために生きる権利がある―――生きて幸せになることは、罪なんかじゃないよ」
 「…うん―――…」


 『忘れたら可哀想だ、と、何年も何年も死んだ奴のことばっかり考えて生きていくのは、死んだ奴のためじゃない。自分のためだ。死を受け入れられないから、生かし続けちまうんだよ―――自分の中でな』

 ―――うん…そうだよね、成田さん。
 瑞樹に言われたことを思い出し、それを強く、実感する。
 もういない人のために生きるのではなく、今ここにいる人のために、生きる。そのために、もういない人達を、少しずつ、辛い現実から優しい思い出へと変えていくのは、自然の摂理。生き残った者が、この先も生き続けていくためには仕方のないこと―――人は、ただ嘆き悲しむだけの人生なんて、生きられる筈もないから。
 慎二は去年、多恵子を思い出へと変えるために、旅に出た。
 そして―――多恵子は、思い出になったのだ。

 …でも。
 でも、それって、少しだけ…切ないね。慎二。


 慎二の胸に頬を預けて目を閉じる透子の脳裏には、今は、彦星を待っている織姫の姿はなかった。
 浮かんでいたのは、天の川のほとりに行きたくても、そこへ行くための道順を忘れてしまって、苦笑いを浮かべている―――でも、どこかホッとしているようにも見える、彦星の姿だった。


***


 「透子ー…?」
 シャワーを浴びて出てきた慎二は、居間の定位置に座っている筈の透子の姿を探して、ちょっと視線を彷徨わせた。
 求めた姿は、床に転がっていた。
 「……」
 15分前、短冊数枚を目前に並べ、何を書こうかと首を捻っていた透子は、今は、床に寝転がって小さな寝息を立てていた。
 ―――気が張ってたんだなぁ…今日1日。
 いや、もしかしたら、ここ数日ずっと、気を張りっぱなしだったのかもしれない。今年は大丈夫だろうか、慎二はいつも通りでいてくれるだろうか…そんな不安を、ひたすら笑顔で隠し続けていたのかもしれない。全ては、過去6年間の自分のせいだ―――無関係な透子に知らず負わせてしまうことになった7月5日の重荷に、慎二は申し訳ない気持ちになった。
 まだ寝入ってから大して経っていないだろう。起こしてしまうのは酷だと思い、慎二はそのまま眠らせておくことにした。

 透子の傍らに腰を下ろし、まだ水を含んだ髪をタオルで拭こうとした慎二だったが。
 「…あ、」
 さっき、透子の前にズラリと並んでいた短冊が、全部裏返して一纏めに置かれているのを見て、その手を止めた。
 どうやら、短冊に願い事を書き終わったところで、力尽きて眠ってしまったらしい。くすっと笑った慎二は、何を書いたのだろう、と短冊の束を手に取った。
 透子の可愛らしい外見とは反対の、大人びて達筆な文字が、短冊に並んでいる。合計4枚の短冊には、それぞれ、こんなことが書いてあった。

 “慎二が元気でいられますように”
 “お父さん、お母さん、紘太が、天国で幸せに暮らしてますように”
 “由紀江さんが1日も早く、慎二と再会できますように”

 そして―――最後の1枚。

 “多恵子さんが陸さんに会えますように”

 「―――…」
 思わず、床に寝そべる透子の寝顔に、視線を向ける。
 出会った15歳の頃と、寝顔はほとんど変わらない。手足を少し丸めたその姿は、温かいこたつの傍で丸くなっている子猫みたいだった。
 「…肝心の自分のこと、書き忘れてるんだもんなぁ…」
 落ちても知らないぞ、気象予報士試験。
 苦笑した慎二は、透子の頬を軽くつつき、転がっていたペンを手に取った。そして、まだ書いていなかった自分の分の短冊に、願い事を綴った。

 “透子が気象予報士試験に合格しますように”
 “透子が本当に行きたいと思える会社と巡り会えますように”
 “ユウちゃんと透子が、仲直りできますように”

 そして最後の1枚は―――唯一、慎二自身の願い事だった。

 “この先もずっと、透子と一緒にいられますように”


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