←21:瑪瑙24-s TOP23:末端冷え性→

22: カノープス  

 「ふーん…それが噂の指輪か」
 さすがは女の子、千秋が感心したような目で指輪をじっと見つめるのとは対照的に、荘太の方の評価は、異様に厳しかった。
 「女に指輪贈るなんて、普通じゃん。普通過ぎて、工藤さんらしくない」
 直後、荘太は、向かい側に座る千秋に頭をスパーン! と小気味良く叩かれた。
 「! いってぇ!」
 「大馬鹿者だな、小林は。オリジナルデザインの指輪を贈るなんて芸当、逆立ちしても自分にできないからって、そんな風に僻むのは、男として醜いぞ」
 「失礼な! 僻んでなんかいないぞ。オリジナルだけが価値じゃないだろ。俺は、女に宝石を送るなら、1カラット以上のダイヤと決めてるんだ。上質なものを贈れるのは、男の甲斐性の証明だからな」
 「もっともな意見だが、実体験を伴ってないのでは説得力に欠けるな。悔しがる前に、まずは高級ジュエリーをプレゼントする相手を見つけろ」
 「なに―――…」
 その言葉に更に反論をしようと荘太が口を開いたところで、透子の笑い声が割って入った。
 「あはははは……、お、おかしー。荘太と千秋見てると、なんか、漫才みたい」
 「……」
 「同じ家で暮らすようになって、余計、掛け合いに磨きがかかったんじゃない? 同じ中学の配属になったら、きっと人気者になれるよ。いっつも漫才みたいな喧嘩してる新米先生コンビ、って」
 透子の言葉に、千秋は「それは悪くないな」とほくそえみ、荘太は「冗談じゃねぇ」と不貞腐れたようにそっぽを向いた。

 1:00P.M.
 ファミレスの窓の外は、クリスマス直前の賑やかな色で彩られていた。
 千秋が、日頃お世話になっている荘太の祖父母に「何かクリスマスプレゼントを渡したい」というので、そのプレゼントを探すため、3人で集まった。今は、探しに行く前に腹ごしらえ、ということで、ファミレスのランチタイムを満喫中である。
 「いいって、プレゼントなんて。“クリスマスって、キリシタンの行事だろう?”程度の認識しかない人達なんだし、お礼ならお前、日頃から十分してるじゃん」
 と、荘太はあまり乗り気ではない。
 荘太の祖父母には、裏協力している千秋の母が何度か“お礼”と称して金品を持参しているのだが、気のいい老夫婦は全部断っているらしい。その分、千秋は、廊下を乾拭きしたり夕飯を手伝ったりと、それはもうせっせと働いて“タダ飯”のご恩に報いている。それは、荘太の目から見ても、ほとんどホームヘルパーに近い状態らしく―――かえって申し訳ないと思う位なのだそうだ。
 けれど千秋は、それでは気が済まないらしい。
 「日頃の手伝いは、居候としての当然の義務で、お礼ではないだろう。高価なものでは気を遣わせるからまずいが、とにかく、感謝の意を形にしたいんだ」
 さすが、千秋。日頃のピンの張った背筋同様、きっちりしている。

 「でも千秋、社会人になったら、どうするの?」
 食後のコーヒーが運ばれてきたため、会話が途切れた。ミルクを入れながら、透子が改めてそう訊ねると、千秋は、少し眉根を寄せた。
 「うん…、本来なら、自活できるようになった時点で自力で部屋を借りる予定だったんだが―――小林に反対された」
 「え、そうなの?」
 「当然だろ」
 ブラック派の荘太は、早くもコーヒーに口をつけつつ、少し千秋を睨んだ。
 「一人暮らしじゃ意味ないっての。あのバカ武留が押しかけて来た時、橋本1人じゃ埒が明かないだろ。俺なりじーちゃん達なりの目があればこそ、暴走を食い止められるのに」
 「…うーん、確かに、そうかも」
 「武留の目が覚めるまで、申し訳ないが、まだお世話になるしかないらしい」
 そう言う千秋は、あまり嬉しそうではなかった。
 ―――まあ…千秋の性格だと、そうかもなぁ…。
 好きな人と一緒に過ごせるなんて楽しい、と考える人がいれば、だからこそけじめをつけたい、と考える人もいる。千秋は間違いなく、後者だ。勿論、楽しくはあるのだろうが、恋愛感情があればこそ早く出て行かなくては、と思うのだろう。
 私なら絶対、好きだからこそ離れられないだろうな……なんて考えて、ついため息をついてしまった。
 「…偉いなぁ…千秋は」
 無意識のうちにそう呟く透子に、千秋が不審げに眉をひそめた。透子は笑って首を振り、スプーンを置いてコーヒーを口に運んだ。
 「ところでお前、工藤さんにはクリスマスプレゼントとかあげるのかよ」
 「あー、うん。一応ね。本当はセーター編んであげたかったけど、卒研が思ったより長引いちゃって、結局買っちゃった」
 「マメだな、透子も」
 また感心したように千秋に言われ、透子は困ったような笑みを返した。
 「そうでもないと思うんだけどな」
 「いや、マメだろう。小林なんぞは、これまでにクリスマスプレゼントという物を、あげたことも貰ったこともないらしいぞ」
 「ふん、キリスト教信者じゃないからな、俺は。それに、彼女いない歴22年だし」
 自虐的な荘太のセリフには、さすがに、千秋も透子も何も返せなかった。確かに―――この年齢にとってのクリスマスとは、家族イベントというより、恋人同士のイベントかもしれない。
 「なんかムカつくよなー。橋本ですら、彼氏にド下手なマフラーをプレゼントしたような経験を持ってるっつーのに、俺にはそういう経験が1度もないなんて。陸上の見学に来てる女の子からなら、手袋だのマフラーだのと貰った経験は掃いて捨てるほどあるけど、本命からはいっっっつも貰えねーんだよなー。なんか虚しー」
 「あー、そうそう、透子」
 荘太の抑揚のない自虐ネタを封じようとするように、千秋が荘太のセリフを無視して勝手に話題を切り替えた。
 「言い忘れてたが、見たぞ。工藤さんが出してた絵画展」
 「えっ、ほんと?」
 慎二があの向日葵畑の絵を出した公募展だ。千秋や荘太にも、入賞したことや展示期間を連絡しておいたが、行くかどうかは本人達の自由なので、透子は特に確かめていなかったのだ。
 「どう思った? 慎二の絵」
 「うん、なんていうか―――優しい絵で、心が和んだ。…だよな、小林」
 「工藤さんらしい絵だったな」
 尾道時代から時折慎二の絵を見ていた荘太は、そう言って腕組みし、頷いた。
 「あの金賞取ってた怪しい絵に比べて、色は綺麗だし、優しいし―――でも、なんかどこか、ノスタルジックというか、少し物悲しいというか」
 「なんだ、小林。意外に造詣が深いな」
 「長年、工藤さんの絵を見る度に、透子があれこれ懇切丁寧に説明してたからな。頼んでもいないのに」
 「…ごめん」
 確かに、その通りだ。顔を赤らめた透子は、ちょっと体を縮めた。それを見て、肩を揺らして笑った荘太だったが、ある事を思い出して、ポン、と手を叩いた。
 「あ、そう言えば。俺と橋本が見に行った時、なんか、どっかの画廊の人達が、工藤さんの絵の前で長い時間話し込んでたよな」
 「画廊?」
 「ああ、そうだった」
 キョトンとする透子の隣で、千秋もその時の事を思い出し、頷いた。
 「前の部屋の作品見てた時、銅賞のリボンつけた人が、その2人になんか売り込みみたいなのを掛けてるのを見たから、それで画廊の人だって分かったんだ。自分の絵を置いてみないか、とか、何とか。あっさりあしらわれていたから、トップ4だからって簡単に売れるもんでもないんだな、と小林とヒソヒソ話してたんだが―――その2人が、工藤さんの絵の前で、ずっと立ち止まって話してたんだ」
 「あれって多分、工藤さんの絵に目をつけたんだろうな。後で会場の係員に何か質問してたし。銅賞蹴った画廊が、その下の入賞作品を選ぶこともあるんだな、って橋本と言ってたんだ」
 「へーえ…」
 あの会場でその後、そんなやり取りがあったとは、透子も初耳だ。が、しかし、透子は、特に驚いた顔をしなかった。
 「…多分それ、今日、慎二が会うことになってる画廊さんだと思う」
 「えっ」
 思いがけない話に、荘太も千秋も、ちょっと目を丸くした。
 それを見てくすっと笑った透子は、カチャン、とカップを置き、詳細を説明した。
 「昨日、慎二に電話があってね。なんか、慎二の個展をうちで開かないか、って」
 「個展!?」
 「なんだか、唐突だな」
 「でしょ。でも、ゴッホ展とかピカソ展とは違って、個展てのは絵を売るためにやるものだから、画廊側も“いい値段で全作品売り捌けそうな画家”の個展の方がおいしいんだ、って先生が言ってた。高すぎても売れなくて儲けがないし、安すぎると売れても場所提供代プラスアルファ程度にしかならないから、って。だからたまーに、そうやって見込みのある画家を画廊側が発掘する場合もあるみたい」
 「なるほど…つまり工藤さんの絵は、適度な価格で全作品売れるタイプの画風と見なされた訳だな」
 「…それって、誉めてんのかよ、それとも貶してんのか?」
 眉間に皺を寄せて荘太が言ったセリフは、ある意味、透子もその時思ったことだ。絵を売ることを商売としている以上、売れるという評価は最大の評価だろう。が…芸術家としては、売れやすいことより、高い価格がつくことの方がステイタスかもしれないのだ。
 「まあ、でも、画廊ってそういうもんだから。先生の画廊でも、大御所の絵っていつまでも売れずに、画廊の客寄せパンダ状態になってたじゃない?」
 「…確かに、なぁ」
 「じゃあ、絵で生計を立てている工藤さんにとっては、誉めてるとか貶してるとかいう次元は別として、とにかく“いい話”なんだな? その話は」
 千秋に問われ、透子は一瞬迷った末、小さく頷いた。
 けれど。
 「―――…でも、慎二は、断ると思うなぁ」
 頷きつつも、透子は、そう呟いた。

 は? なんでだ? と目を丸くする2人に、透子は「なんとなく」とだけ答えた。けれど、透子は、確信していた。
 きっと慎二は、この個展の話を蹴るだろう―――と。


***


 1:45P.M.
 透子の予想は、とある画廊の一角で、見事的中していた。

 「…すみません、せっかくのお話なんですが…」
 画廊の支配人を前にした慎二は、一通りの説明を受けて、済まなそうにそう返した。
 当然ながら、支配人は、酷く意外そうな顔をした。当然だろう。無名画家にしては、かなり好条件を提示したのだから。
 「な…何か、ご不満な点でもありましたかね。うちとしては、最大限のことをさせていただくつもりなんですが」
 「いえ、不満なんて、そんなことは」
 「じゃあ、販売価格帯の見積もりが、低すぎましたか」
 「そんな、とんでもないです」
 慎二は、慌てて首を振った。
 実際、画廊が提示してきた1号当たりの販売価格の見積もりは、今慎二が他の画廊に置かせてもらって売っている絵よりも高い。その価格でも売れる、商売になる、と見積もってくれたのだから、慎二にとってはありがたい評価だ。
 そもそも、無名の新人画家に、売れた絵の価格の数パーセントを画廊に払う形で個展を開かせてくれる画廊など、まずほとんどないだろう。大抵は売れないものと見込んで、絵の売上とは無関係に高額の場所代を取る方が多い。そして、絵は大半が売れ残り、結果、多くの個展が画家の持ち出しになってしまうのだ。
 それを、極標準的なパーセンテージのバックマージンで個展を開いてくれるというのだから、これは破格の提案だろう。出品する作品の8割以上が売れる公算でなくては、提案できない筈だ。それだけ慎二の絵を評価してくれているのだから、感謝しなくてはならない。
 でも、それでも。
 慎二の答えは、やっぱり「ノー」だ。
 「…本当に、申し訳ないです。とてもいいお話なのに」
 「何故です? これは、工藤さんにとってもチャンスでしょう? 個展を開きたい新人アーティストは、うんざりするほど多いんですよ? 実際、うちにも売り込みに来る人が週に1人は必ずいるんですから」
 理解に苦しむ、という顔の支配人に、慎二は同情の笑みを返した。
 「―――だと、思います。恩師が経営する画廊にも、よく新人画家が個展の相談に来てましたから」
 「じゃあ、何故…」
 「それは、最初にもお話したとおり、僕は今、手放せる絵がほとんど無いので」
 「その話でしたら、必要な点数を描き上げていただいてからで構わない、とお答えした筈ですよ?」
 確かに、支配人はそう答えた。
 今、慎二の手元にある“売っても構わない絵”は、2点しかない。まさか2点で個展を開ける筈もなく、展示スペースを埋めるだけの作品を用意する必要がある。その事情に対し、支配人は、それだけの作品が集まった時点で構わない、と言ってくれたのだ。
 「勿論、何年も待つ、なんて悠長なことは言えませんが……。第一、手放せない、とおっしゃってる絵のうち何点かを売る決心さえしてくだされば、1年以内に個展は開けるんですよ。工藤さんは絵を売って生計を立てていらっしゃるんでしょう? 愛着のある絵があるのは分かりますが、その絵を愛好家に譲り渡してこその画家なんじゃないですか?」
 「…おっしゃる意味は、よく分かります。でも…」
 少し言葉を切った慎二は、上手い説明を頭の中で模索し―――そして見つからないまま、視線をテーブルの上に落とした。
 「でも―――それなら僕は、多分、画家として失格なんだと思います」
 「失格、ですか?」
 驚いたように、支配人が目を見張る。慎二は少し頷き、目を上げた。
 「…売るための絵なら、確かに今も、描いてます。必要とされる絵を、期限通りに、一定のクオリティを保って。ただ、本当に納得のいく絵は―――特に、油絵は、いつでも描ける訳ではないです。1ヶ月に2枚描ける時もあれば、何ヶ月も絵筆を執れない時もあります。昨日湧いたイメージが今日すぐにカンバスに表現できる場合もあれば、何ヶ月、何年温めたイメージが、ある日一杯になって、とうとう絵筆から出てくる時もあります。それは、モチベーションとかそういう問題じゃなくて、なんていうか―――…天啓、みたいなものなんです」
 「…天啓…」
 「…まだ描くべき時ではないのなら、描くことは出来ません。描いたところで、その全部に納得できる訳でもありません。ただ…そうやって生まれた絵で“手放せない”と感じてしまったものは、僕は、どうしても売れないんです。それが画廊に並べた作品よりいい作品でも―――たとえ、それを売れば豊かな暮らしができる、もっと評価される、と分かってても―――…売れないんです」

 先生に「個展をやらんか」と言われた時も、散々迷った末に断った。今、絵を置かせてもらっている画廊から、置く作品数を増やしてはどうか、と言われた時も丁重にお断りした。
 ただお客さんに見てもらうだけの趣味の個展なら、できるかもしれない。ただ画廊に絵を飾るだけなら、何点飾ろうが問題はないだろう。でも、プロである以上、展示した絵を売ってナンボの世界だ。非売品だらけの個展や展示作品など、画廊側が許す訳がないのだ。
 絵を金に換えることが画家という職業であるならば―――自分は、画家失格だ。
 納得のいく絵、評価して欲しい絵であればあるほど、手放せない、金に換えることができない。それが、自分という人間だから。

 「無欲な方なんですねぇ…」
 半ば呆れたような、けれど、どこか感心したような声で、支配人がため息混じりに呟いた。
 「今後、よほど大きな賞でも取って知名度が上がらない限り、こんな好条件で個展は開けませんよ? わたくしどもは、将来性のある絵だと思うからこそ―――10年後、20年後に値の上がる絵だと思うからこそ、今の時期からお付き合いさせていただきたいんですけどね」
 「…ありがとうございます」
 その言葉をそのまま受け取るほど、慎二もおめでたくはない。お礼を言いつつ、苦笑した。

 おそらく、この前金賞を取ったあの画家の作品は、今後値が上がるだろう。ただし、そう簡単には売れないだろう。ほぼ無名の慎二の絵が10枚売れて、やっと1枚売れるだけかもしれない。なのに、彼の作品の値段は、慎二の絵の10倍にはまだ及ばない―――芸術性とは、案外、そういうものだと思う。
 そして、10年後、20年後……彼の作品は、慎二の作品よりやっぱり高いままだと思う。量産されるものの値段は上がらないのが常識であること位、慎二だって知っている。そして、金賞を取ることが、ただのラッキーではないことも。売れるか売れないかの将来性なら慎二が上でも、画家として名を残せるか、という将来性なら、彼の方が上だ。

 名を残したいとは、全然思わない。
 売れっ子画家になって、描きたくもない絵を量産する気もゼロだ。
 ただ―――誰かの記憶に残ってくれれば、それでいい。金は、後から申し訳程度についてくれば、それでいい。描きたいものを描く自由を得るために、自分は、毎日頭を抱えながらも、雑誌の表紙の仕事や挿絵の仕事をしているのだから。

 「個展を開くなら、金貯めて、ただ見てもらうだけの個展にします」
 慎二がそう言うと、支配人は、降参したように笑って「分かりましたよ」と答えた。


***


 「え、千秋にクリスマスプレゼント買うの?」
 「…ま、な。本人には内緒な」

 4:00P.M.
 この後、家庭教師のアルバイトが控えている千秋は、駅で1人だけ離脱した。ここで解散、とするつもりだったが、荘太が突如、もう少し買い物に付き合って欲しい、と言ってきた。
 何買うの? という問いに対して返ってきた答えが、これだ。
 「さっきは、クリスマスプレゼントなんて、って乗り気じゃないこと言ってたのに」
 雑踏の中を並んで歩きつつ、透子が少し驚いたように訊ねると、荘太は困ったように眉を寄せ、うーん、と唸った。
 「そりゃ、そうなんだけど―――…あいつさ、マジで、家のこと色々やってんだよ。ばーちゃん手伝って炊事やったり、結構古い家をそこいらじゅう磨いて回ったり、じーちゃんにくっついて裏の畑の手入れまで手伝ったりさ」
 「千秋らしいよね」
 「確かにな。あいつからすりゃ、タダで家と飯を提供してくれてるお礼として、当然なんだろうけど―――その上、“お礼にクリスマスプレゼント”とこられちゃうとな。俺から見ると、むしろ、俺やじーちゃん達がお礼しなきゃいけない立場なんじゃないのか、って」
 「おじいさん達は、何て言ってるの?」
 「…だから、あの人らは、クリスマスはキリシタンの行事だ、っていう頭だからさ」
 「ああ、そっか…。うーん、そうなると、荘太が代表して感謝の気持ちを表すしかないか」
 「しかも、明らかにさっきの夫婦茶碗より安いもんをな。高かったらまた恐縮してお返しをしかねないぞ、橋本ってやつは」
 「…分かる気する」
 千秋が荘太の祖父母のために購入した夫婦茶碗は、非常識な値段ではなかったが、結構高い品物だった。100円ショップの湯のみを使っている透子が、湯のみ1つにその値段!? とめまいがくるほどには。
 千秋も律儀だか、荘太もかなり律儀なタイプだ。日頃の細々としたことで十分家賃と食事代相当のことはしてもらっている、と感じているのに、ご贈答品レベルの価格の品物は、結構精神的に負担だろう。本当なら同等品を贈ってイーブンにしたいが、もしそうしたら……荘太の言う通り、お返し合戦になってしまいそうだ。
 さて、どうしよう―――と首を捻った透子は、やがて、いいアイディアが浮かんで、ぱっと顔を上げた。
 「ね、同等の値段でも、お花や食べ物ならいいんじゃない?」
 「花や食べ物?」
 「うん。ほら、いわゆる“消えもの”って、相手に負担にならないって言うじゃない? 日頃絶対手が出ないような高級和菓子に、千秋が好きそうなお花を添えてあげるとか」
 「…あ、なるほど」
 荘太も、そのアイディアには賛成らしい。困り顔が、一気に明るくなった。
 「そーか、そーだよな。なんか、クリスマスとか言うとアクセサリー類贈るイメージあって、正直焦ってたんだ。あー、良かった」
 「そ…それは、カップルの話だと思うし、お菓子を交換してるカップルもいると思うけど…」
 荘太の偏った感覚に、ちょっと呆れて透子がそう言うと、荘太は何故か、一瞬、言葉に詰まったような様子を見せた。
 前を向いたまま、荘太の視線が、少し泳ぐ。どうしたんだろう、と透子が首を傾げていると、荘太は、曖昧な表情で透子を見下ろしてきた。
 「―――な、透子。…これからもずっと、橋本をうちに置いとくのって……お前から見て、やっぱ、まずいかな」
 「…えっ」
 「今は、まだいいけど―――分かんねーじゃん。俺はこんなだし、橋本もあんなだけど、その…一応、男と女だし」
 「……」
 「実際…透子と工藤さんは、そういう関係になっちまったし」
 千秋の話ではあるが、ちょっと、胸がドキドキした。千秋の気持ちを知っているだけに。
 「…千秋が、気になるの?」
 思い切って透子が訊ねると、荘太は、難しい表情になった。
 「―――よく、分かんねー。付き合い方が、ほとんど、男の親友同士と変わらないからな。ずっとそれで問題ないと思ってたけど…最近、いいのかよほんとに、と思い始めた。同じ家にいると、どんどん距離が狭まるし、関係もなんか、微妙になってくるし」
 「…そっか」
 つまり、まだ荘太は、千秋の中の“女性”を意識し始めたところなのだろう。それまで、男友達と何ひとつ変わらないと思っていた千秋の中に、異性の部分を日々見つけるようになってしまって、焦っているのかもしれない。
 慎二と透子のような、スローな恋がしたい―――千秋の望みは、いい形で実現しつつあるように、透子には思えた。うろたえ、焦っている荘太には、事情を知っている分ちょっと申し訳ない気もするが、透子は、素直に嬉しかった。親友の恋の行方に、一筋の光が射し始めていることが。
 「いいんじゃないかな、って、私は思うけど」
 結局、透子はそう答えた。
 「荘太は、千秋を武留君から守りたい、って思ってるんでしょ? それが最優先事項なら、それに従えばいいんじゃない? その結果、千秋とどういう関係になるかは、神様任せでいいと思う」
 「…そうか?」
 「そうだよ」
 「…そうだよな」
 「うん」
 「そうか。良かった」
 晴れやかな表情になった荘太は、何か吹っ切れたように前を向いた。
 ―――なんか、変なの。私が荘太の恋愛相談に乗ってるなんて。
 荘太との関係には、この7年間、様々な変遷があった。だからこそ余計、なんだか不思議で、くすぐったい。そして…そうした変遷を経てもなお、こうして話し合えることが、なんだか嬉しくもあった。


 とりあえず、千秋が好きそうな和菓子屋が入っているデパートに行くことになった。
 ガツンと甘いより、微かなまろやかな甘みの方が千秋は好きだよね、なんて話をしながら、ちょっとのんびりした足取りで歩いていたのだが。
 「…あ、この画廊」
 「え?」
 「慎二が絵を置かせてもらってる画廊なの」
 「へーえ」
 日頃、友達同士でこの界隈に来たことはなかったから、荘太に教えるのは初めてだ。荘太は、ショーウィンドウ越しに画廊内の様子を窺い、「あ、ほんとだ」と呟いた。
 「あるある。あの正面にかかってるのが、そうだろ」
 「へー、さすが。門前の小僧で、ちゃんと見分けられるんだね」
 「お前のせいだろっ、分かるようになっちまったのは」
 「アハハ、ごめんね」
 「尾道いた頃より、値段、ちょっとは上がってるのか?」
 「うーん…、どうかな。ここって結構一等地だから、画廊側の取り分を尾道の時より多く設定してる分、販売価格は高くなってる筈だけど―――慎二の取り分自体は、あんまり変わってないか、むしろ少し下がってるかも」
 「おいおい…、いいのかよ、それで」
 あっけらかんと答える透子に、荘太は、少し呆れたように言った。が、透子の方は、その言葉にもキョトンと目を丸くするばかりだ。
 「いいのかよ、って?」
 「いや、なんていうか―――お前ら、いずれ、結婚するんだろ?」
 荘太の目が、バッグのストラップを握っている透子の手に向けられる。慎二から贈られた指輪が、中指に輝いていた。
 「…ん、色々あって、まだ暫くは無理だけど……いずれは、ね」
 「だろ? さっきの、個展を開く、開かない、の話もそうだけど―――結婚して家族を養う立場の男として、それでいいのか? って、俺なら思っちまうんだよな」
 「そう?」
 「そうだろ。自分の信念貫くのは、芸術家として立派なのかもしれないけど…やっぱ、どの世界でも、評価されて売れてこそ、意味があるんじゃないか? 売る気もないし、評価もされなくていい、って、カッコイイ反面、画家としては失格な気する、俺からすると」
 「……」
 「あ、いや、別に工藤さんを非難してる訳じゃないからな?」
 透子が黙ってしまったことに焦り、荘太は、慌ててそうフォローした。
 「ただ、その―――俺は、さ。透子が苦労しないか、って、それが心配なだけなんだ。なんか、将来、透子が工藤さんを食べさせてるような構図になる気がしてさ」
 「それはそれで、私は、いいと思うんだけどなぁ」
 くすっ、と笑った透子は、少し背伸びをして、ガラス越しに慎二の絵を眺めた。この位置からじゃ、半分位しか見えないけど―――それでも、分かる。慎二の色だけは。
 「荘太も、慎二と同じだと思うな、私は」
 「え?」
 「アスリートなら、実業団入って、形ばかりの社員になって、あとはトレーニングに明け暮れて、金メダル狙うのが“正しい道”なのかもしれない。世界的評価を受けた選手が、その道ではトップだもの。でも…荘太は、教師になって、子供達に陸上の楽しさ教える方の道を選んだでしょ。…慎二にとっての絵も、それにちょっと、似てるような気がする」
 「…絵描きと陸上選手じゃ、ちょっと、話違うだろ」
 荘太は、バツが悪そうにしながらも、そう反論した。
 「陸上選手は、一生の仕事じゃない。走ってるだけじゃ金貰えないし、体力の限界が来たら終わりだ。でも、絵描きは死ぬまで―――いや、死んでもまだ続く仕事だろ。死んだ後に爆発的に評価されて、何十億で絵が取引されたりするんだから。なら、不遇の人生より、評価されて裕福に暮らす人生を選んだ方がいいんじゃないか?」
 「…うーん…確かに、ゴッホなんかは、生きてる間は不遇だったよね。描いても描いても全然評価されないし、ゴーギャンには捨てられるし、最後まで貧乏で、正気まで失くしちゃってたし」
 「いや、ま、ゴッホは極端だけどな」
 「でも―――そういう人生じゃなかったら、ゴッホの晩年の傑作は、生まれなかったと思う。売るために、描いて、描いて……疲れ果てて、辞めてたかも。そうしたら、印象派の数ある画家の1人、で納まっちゃって、これほど有名な画家にはならなかったかもね。もっとも、私も慎二も、慎二がゴッホになれるとは、微塵も考えてないけど」
 「……」
 「ね、荘太」
 おもむろに荘太を見上げた透子は、ニコリと笑って、唐突な事を訊ねた。
 「カノープスって、知ってる?」
 「かのーぷす? …いや。画家か?」
 「ううん、星」
 「…そんな星、あったっけ。俺、地学って全然駄目だったからなぁ…」
 「結構有名なんだけどなー」
 ふふっ、と笑うと、透子はくるりと身を翻し、ショーウィンドウ脇の壁に寄りかかった。

 「カノープスはね、りゅうこつ座って星座の一部で、全天で2番目に明るい星なの。1番は、おおいぬ座のシリウス。どちらも冬、南の空にあがる星なんだけど―――シリウスはみんな見つけられるのに、カノープスって見つけられないの。何故だと思う?」
 「ええと―――いや、全然、分かんねー」
 「東京辺りだと、2度の角度にしか上がらないの。つまり、地面スレスレの所にしか見えないの、カノープスは。九州でも確か5度位までしか上がらないんじゃなかったかな。地面に近いと、町の明かりとか水蒸気とか、色々なものに邪魔されて、本当の明るさほどは明るく見えないの。低い上に、明るさも減って見えちゃうから、凄く見つけるのが難しいんだって」
 「ふぅん…」
 「―――慎二は、カノープスみたいな人だと思う」
 冬の空に目を向けて、透子は、どこか呟くような口調で、そう言った。
 「明るく輝くシリウスは、たくさんの賞を取って、マスコミにも取り上げられて、国立美術館なんかに絵が飾られるような、そういう華々しい画家だと思う。周りにいる星たちも、きっと、シリウスになりたくて頑張って輝いてるんだと思うけど―――慎二は、本当はシリウスの次に明るい星なのに、あまりに地面に近くて控え目にしか顔を出さないからなかなか気づいてもらえない、カノープスだと思うの」
 「……」
 「私は、多分…シリウスより、カノープスみたいな星が、好きなんだと思う」
 そう言う透子は、無意識のうちに、左手に嵌った指輪を、右手の指先で撫でていた。
 「誰にも気づいてもらえなくてもいい。地味で、本当の輝きと同等の人生を歩めなくてもいい。無理に高い空に昇って、シリウスと肩を並べて競い合って欲しくない。ただ…カノープスは、カノープスらしく、私の傍で光ってて欲しい。やっと見つけた綺麗な星を、大事に大事に守りたい。…そういう人間なんだと思う。私は」
 「…だから、透子が工藤さんを食わせてく、って未来も、アリな訳か」
 「うん。…私って、ちょっと捻くれてるのかもね。見つけ難いものほど価値がある、って、ちょっと思ってる部分もあるもの」
 透子がそう言って肩を竦めると、荘太も苦笑を漏らした。
 「俺も結構、その傾向強いから、なんともいえねーよなー」
 「あはは、そうかも」
 ―――千秋も、シリウスとカノープスに分けるなら、カノープスかもしれないなぁ。
 道場長という表舞台から一歩退き、別の道を模索している。一見、少年のような姿だけれど、女性らしい部分を沢山持っていて、愛の葛藤もよく知っている。千秋に恋をする男性は少ないかもしれないけれど―――だからこそ、千秋という女性には、価値がある。
 「…見つけてあげてよね」
 「は?」
 思わず呟いた一言に、荘太が、何だそりゃ、という顔で眉をひそめた。
 やっぱり、荘太と千秋は、お似合いかもしれない―――頭の片隅でそう思いつつ、透子は「なんでもない」と笑いながら首を振った。


***


 0:00A.M.

 「……慎二?」
 お風呂からあがった透子は、居間のテーブルに突っ伏して寝ている慎二に、声をかけた。
 風邪ひいちゃうよ、と思い、起こしてベッドに行かせようと思ったけれど―――やめた。思いなおした透子は、慎二の部屋から毛布を引きずってきて、寝ている慎二の背中にそっと掛けてあげた。

 眠っている慎二の傍らには、描きかけのスケッチが数枚、散らばっている。多分、雑誌の表紙用の絵の下絵だろう。
 なかなかアイディアが纏まらず、毎回苦労している。思いのまま、天啓に従って絵を描いてきた慎二にとって、仕事としての絵を描く作業はかなり苦痛な筈だ。実際、締め切りが迫ると、食欲は落ち、一気に顔色も悪くなる。それでも…慎二は、描き続けている。編集部の求める絵を、職人として。
 それで十分だ、と、透子は思う。
 甲斐性がどうのこうの、家庭を支える男としてああだこうだ。正論はいっぱいある。でも、透子は、そんな生活は望まない。慎二は、苦労しながらも、プロとして求められた絵をちゃんと描いている。慎二は、生活を保つための最大限のことは、ちゃんとやっている。絵と切り離した仕事を選んだ方が楽だろうに、そうしなかった分、慎二は絵描きとしてのプライドを保っているとさえ、透子は思っているのだ。
 慎二が描く世界を守るため―――透子も働き、慎二も働く。その方が、慎二の世界を切り売りするよりずっと、賢い生き方だ。
 誰にも分かってもらえなくてもいい。認めてもらえなくてもいい。ただ、自分達がその大切さを分かっていれば―――それで、いい。

 ―――シリウスになんて、ならなくていいから……私の傍で、ずっと変わらないでいて。
 明るい色の慎二の髪を梳いた透子は、起こさないようそっと、僅かに覗く目元に唇を落とした。
 そして、「秀兄にもよく、“お前は変に分かりやすい奴になんかならなくていいぞ”って言われたなぁ」と慎二が言っていたのを思い出して―――案外自分は、どこか秀一と共通する部分を持っているのかもしれない、と考えて、苦笑した。


 見つけられた人だけが知る、カノープスの、本当の輝き。
 たとえシリウスに及ばなくても―――その輝きを愛しく思うのは、誰も知らない素敵なものを見つけた人間特有の、ささやかな独占欲なのかもしれない。


←21:瑪瑙24-s TOP23:末端冷え性→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22