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23: 末端冷え性  

 足が冷たくて、目が覚めた。
 由紀江は、隣のベッドに眠る夫を起こさないよう、そっと起き上がり、ベッドを抜け出した。

 年が明けて、なんだかぐっと朝方の冷え込みが厳しくなったようだ。ここ2、3日、由紀江は毎朝、こんな風に足が冷たくて早くに目を覚ましてしまう。昔から、冬は苦手だ。手足が冷えやすくて、眠りが浅くなるから。
 1階に下りて、まず居間に向かう。ファンヒーターをつけ、次に向かうのが玄関だ。
 最小限、ドアを開けて、隙間から腕を伸ばしてドアの脇にある郵便受けから朝刊を引き抜く。外気の冷たさに、由紀江の手は余計に冷たくなった。
 由紀江は、あまり新聞が好きではない。新聞に書かれていることは、悲しいことや腹の立つことが多すぎて、読んでいて気が滅入ってくる。
 唯一、家庭欄は好きだ。だから、ファンヒーターにあたりながら新聞を広げた由紀江が読むのは、家庭欄の「今日の料理」コーナーだった。
 無意識のうちに、歌を口ずさむ。その歌の名を、誰も知らない。由紀江も知らない。歌詞もない短いメロディラインだけを、曖昧に、壊れたレコードみたいに繰り返す。時折、新聞をめくる音を、合いの手のように入れながら。

 今日の由紀江は、機嫌が良い。
 ハミングのように歌を歌いながら、壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。今日の日付につけられた丸印を見つめ、由紀江の口元に笑みが浮かんだ。
 最近は、以前と比べて記憶の混濁も減ってきている。日常生活に不安を感じる頻度も少なくなってきた気がする。

 だから、由紀江はちゃんと、あの丸印の意味を分かっている。

 今日は、あの子が来る日だ―――と。


***


 いつもより、気だるく、心地よい眠りだった。
 このまま眠っていたい―――と思ったら、誰かに、頬を引っ張られた。
 「……」
 「あーさーでーすーよー」
 ―――誰かに、って、“誰かさん”しかいないよな。
 そして、重たい瞼を開ければ、案の定、目の前には、慎二の頬を軽く引っ張っている透子の顔があった。
 「…随分な起こし方だなぁ…透子」
 「だって慎二、いくら呼んでも起きないんだもの」
 頬を引っ張るのをやめた透子は、そう言って、拗ねたように口を尖らせた。
 ああそうか、体を包む毛布がいつもより温かく感じるのは、透子と一緒に寝たからか、と、回らない頭でようやく思い出す。
 確か、眠る時に擦り寄るように身を寄せてきた透子は、眠りつく前に一頻り抱き合った名残で素肌でいたと思うのだけれど、目の前の透子は、まだ布団の中にいるのにパジャマを着ている。その意味をぼんやり考えたら―――こんな光景が、脳裏に浮かんだ。

 目が覚めて、暫くは慎二の寝顔を眺めていたけれど、寂しくなって起こして、でもいくら呼んでも起きなくて。
 つまんなくなって、パジャマを着込んで一旦ベッドを抜け出して、でも寒くて戻ってきて、なのに慎二は起きてくれなくて。

 それを証明するように、僅かに触れている透子の足は、ずっとここに居た割には、少し冷えている。寂しがってウロウロする透子の様子を想像した慎二は、思わず吹き出してしまった。
 「なーにー? なんで笑うの?」
 「アハハ……いや、なんでもないよ。あー…、でも、どうせ起こしてくれるなら、モーニング・キスとかの方がロマンチックで良かったかなぁ」
 「…何それ」
 ムッとしたように眉を顰めつつも、透子の頬が少し赤く染まる。その反応を見てちょっと楽しくなった慎二は、これ以上からかうのはやめて起きようかな、と思ったのだが。
 直後。
 唇に、透子の唇が重ねられた。
 まさか本当にしてくるとは思っていなかった慎二は、ただそれだけで、驚きに固まってしまった。しかも―――…。
 「……っ」
 ―――ちょ…っ、こ、これは、モーニング・キスって言わないんじゃあ……。
 朝仕様というより、夜仕様。挑戦的かつ攻撃的なキスに、ほとんど条件反射的に透子を抱き寄せてしまう。
 「…っ、ああ、もうっ!」
 何やってるんだこんな時間から、という“大人な自分”が、あっさり崩される。観念した慎二は、唇が離れた隙に体を入れ替え、透子をベッドに押し付けた。枕に頭を沈めた透子は、勝ったことに気を良くしたように、クスクスと楽しそうに笑っていた。
 「こういうキスは、“そういう時”しかしちゃダメだって」
 「知らないもーん。それに、キスで起こせって言ったのも、こういうキスを教えちゃったのも、慎二でしょ」
 「全く……。今日、約束って、何時?」
 「お昼。でも、行く前に家のこと全部片付けちゃいたいから―――…」
 慎二の髪に指を絡めると、透子は目を閉じ、慎二を引き寄せた。
 「だから、あと、少しだけ―――慎二に、くっついていさせて」


 透子は毎年、この時期、こんな風に甘えん坊に変わる。
 季節が秋から冬へと変わるにつれて寂しがり屋に拍車がかかり、年を越すと同時に、情緒不安定に陥る。昔と今では、関係が変わった分、その表現の仕方は変わったが―――このパターンは、出会った頃からずっと変わらない。
 身を切る寒さは、透子に、たくさんのことを思い出させる。
 生まれて初めてたった1人で迎えた、避難所での夜。悪夢に目を覚まし、裸足で焼け落ちた自宅まで駆け出して行った寒い夜。家族の後を追おうとして慎二に怒られた夜。どの夜も、どの夜も―――透子にとっては、全てが、冬の冷たい空気と繋がっている。
 その冷たさを忘れようとするように、慎二の体温に縋りつく。
 自分はひとりじゃないんだ、ここにちゃんと、一緒にいてくれる人がいる―――そう確かめたくて、慎二の温もりを探す。

 たくさんのキスを交わし、ただ抱きしめあう。それだけで、透子は満たされ、安心する。
 そして、慎二も……それだけで、幸福になれる。
 唇に触れた温かさ、掌に感じる鼓動―――ちゃんと、生きている。血の流れる人の温かさを腕に抱き、幸せを感じる。長い長い時間、慎二がその体に記憶してきたものは、多恵子という、もうこの世にはいない人の体温だけだったから。


 生きて、こうして、お互いの温もりを感じられる。
 当たり前のそのことが―――とても、とても、幸せだった。


 そうして―――長い1日となるその日は、始まった。


***


 インターホンの呼び鈴が鳴ったのを聞いて、ティーカップを用意していた由紀江は、小走りに玄関へと向かった。
 ドアを開けると、先月見たのと同じ笑顔が、そこに立っていた。由紀江の顔も、その笑顔に、自然と笑顔になった。
 「こんにちは」
 「いらっしゃい。寒かったでしょう? さ、入って」
 「はい。お邪魔します」
 軽く頭を下げる彼女の髪が、サラリ、とその丸い頬にかかる。冬の陽射しを受け、いつもより更に柔らかく手触りが良さそうに見えるその髪に、由紀江の笑みが深くなった。


 「あら、今日はチョコレートケーキにするの?」
 事前にケーキを焼くことは決めていたが、チョコレート味とは知らなかった。由紀江が、少し意外そうに言うと、彼女は照れたように頬を少し染めた。
 「あの…来月、バレンタインデーがあるから、その予習にしようと思って」
 「…あーあ、なるほど、そういうことなのね」
 可愛らしい理由に、由紀江はくすっと笑い、彼女の背中を軽く叩いた。
 「あげる相手は、もしかして、慎二かしら?」
 「……」
 彼女の大きな瞳が、僅かにうろたえる。けれど彼女は、誤魔化すことなく、ちゃんと頷いた。
 「ふふふ…。じゃあ、さっそく始めましょう。私はメレンゲを作るから、透子ちゃんはチョコレートをお願い」
 「はい」
 2人は、並んでキッチンに立つと、慣れた様子でケーキを作る準備を始めた。


 彼女は、名を、井上透子と言った。
 彼女のプロフィールは、まだしっかりと頭に入っておらず、時々曖昧になる。ただ、しっかり覚えているのは、彼女には家族がいないこと、慎二ととても親しくしていること、そして、由紀江が好きなものの多くを彼女も好きである、ということ。その3点だ。
 どういうきっかけか分からないが、透子は1年ほど前から、毎月1回、こうして慎二が描いた絵を持ってきてくれる。
 由紀江の息子である慎二は、このところずっと、姿を見せない。いつからこんな生活が続いているのか、記憶は定かではないが―――少なくとも由紀江の中では、慎二は線の細い少年時代で止まっている。多分、高校生位……何故そこで止まってしまったのかは分からないが、とにかく、成長した慎二は、由紀江には想像がつかない。
 透子の話では、そんな慎二も、今は立派な大人になり、絵描きとしてきちんと仕事をしているらしい。ただ、仕事の都合上、どうしてもここには来られないという。会えないのは残念だけれど、透子を通して慎二の現在の様子が垣間見えることは、由紀江にとってとても嬉しいことだった。
 そして、慎二のことを抜きにしても、由紀江は、透子の来訪を楽しみにしている。
 この正体不明の病に冒されて以来、人との会話を楽しむことも少なくなった。友人知人とどこかへ出かけても、相手に気を遣わせてばかりで、かえって申し訳なく思ってしまう。中には「また同じことを説明するの?」とあからさまにうんざりした顔をする者もいて、由紀江はどんどん内に篭るようになっていた。
 でも、透子は違う。
 透子は、まだ若いというのに、由紀江を思いやる優しい心を持って接してくれる。病気に対する理解もあって、由紀江がトンチンカンなことを言っても、笑顔でもう一度説明してくれる。そして、少しでも由紀江の状態が快方に向かっている兆候が見えると―――まるで、実の娘のように、本当に嬉しそうに笑ってくれる。
 2人は、共通の話題も多かった。2人とも花や緑が好きだし、料理が得意だ。それに、最大の共通項―――“慎二”という存在がある。慎二の幼い頃のあれこれを話すだけでも、時間はあっという間に過ぎる。透子は由紀江にとって、夫以外で唯一、共に時間を楽しむことのできる存在になっていた。


 「あら、じゃあ、植物園専門の予報士さんになるの?」
 透子から、就職先の話―――多分、これも何度目かなのだと思うけれど―――を聞いた由紀江は、面白そうな仕事だな、と思って目を輝かせた。
 「すぐに、じゃないけど。暫くは、予報士さんにくっついて、雑務やったり、色々と」
 「そう…。資格を取ったから、すぐにお仕事を任せてもらえる訳じゃないのねぇ」
 「あはは、すぐに、なんて私も自信ないなぁ。でも…凄く楽しみなんです。植物や動物とお天気がどう関係してるか、とか…そういうのが分かったら、もっと気象のことが面白くなると思うし」

 ―――こんな娘が欲しかったな…。
 楽しげに将来の話をしながら、お湯を張った鍋にチョコの入ったボウルを浮かべて丁寧にチョコを融かす透子を眺めて、そんなことを思う。
 由紀江には、子供が2人いるが、2人とも息子だ。秀一と、慎二。どちらも、由紀江にとっては可愛い自慢の息子だ。でも由紀江は、昔から女の子が欲しかった。娘と2人でこんな風にお菓子を作るのが、少女時代の由紀江の夢だったから。
 そう。ちょうど、こんな感じの女の子を、夢見てた。
 小柄で、可愛くて、よく笑って―――ちょっと寂しがり屋さんなところのある、キュートな女の子を。

 「? 由紀江さん?」
 「えっ?」
 「私の顔、何かついてる?」
 透子に不思議そうな顔をされて初めて、自分が、不審がられるほどに透子の顔ばかり見ていたことに気づいた。
 「あ、あら、やだ。私ったら。ごめんなさいね、なんでもないのよ」
 今考えていたことを思い返し、由紀江は慌てたように笑顔を作った。それでもなお、透子が不思議そうに見つめてくるので、その視線に負けて、由紀江は恥ずかしげに口を開いた。
 「ちょっと…、ね。想像してたの」
 「え?」
 「たとえば、の話よ? たとえば―――もし、ね。将来、透子ちゃんが、うちの慎二と結婚、なんてことになったら」
 透子の目が、少し、丸くなる。その表情は、何故か少し緊張しているように見えた。
 「な…ったら…?」
 「…もし、そうなったら、透子ちゃんは私の娘ってことになるんだなぁ、って―――そんなこと考えてたの」
 「……」
 「ふふ、ごめんなさいね。透子ちゃんみたいな娘がいたらなぁ、って、透子ちゃんが来る度思ってたものだから、つい…」
 「…ほんとに?」
 思いがけないほど真摯な瞳が、由紀江を見つめる。まるで思いがけない愛の告白でも耳にしたような透子の驚いた表情を不思議に思いつつも、由紀江は素直に頷いた。
 「本当よ? 息子のお嫁さん、なんて、ちょっと考えるの憂鬱だったけど……透子ちゃんが娘になるんだ、って思うと、ああ、それなら悪くないなぁ、って」
 「……」
 「…透子ちゃ―――…、っえ? ど、どうしたの!?」
 透子の目に、涙が浮かぶのを見て、由紀江は驚いてメレンゲのボウルを置いてしまった。
 「ご、ごめんなさいね。何か、透子ちゃんが辛くなるようなこと、言っちゃった?」
 そう言って、焦ったようにティッシュを2、3枚取って透子の目元に当ててやると、透子は涙を浮かべながらもちょっと笑い、小さく首を振った。
 「ち…違うんです」
 「え?」
 「ごめんなさい、泣いたりして。…違うんです。辛かったんじゃなくて―――嬉しかったんです」
 「う…れしかった?」
 思いがけない言葉を、由紀江が驚いたように復唱すると、透子はニコリと笑い、今度は大きく頷いた。
 「慎二さんの――― 一番大好きな人のお母さんに、そう言ってもらえて、凄く…凄く、嬉しい」
 「……」
 「…私、もう、お母さんがいないから……由紀江さんを、お母さん、て呼べたらどんなにいいだろう、って…いつも…」
 「…そうなの…」
 ―――なんだか…たまらない。
 胸が、痛くなる。由紀江は、透子の背中に腕を回し、抱きとめてあげた。
 宥めるように、ゆっくり背中をさすってやると、躊躇いながらも、透子も由紀江の肩に額を預けてくれた。なんだか、本当の母娘(おやこ)みたいに見える自分達に、由紀江は、少しくすぐったい気分になった。

 この病気が、いつから始まったか、由紀江にも分からない。
 気づいた時には、慎二の姿が見えなかった。やがては秀一もいなくなり―――夫と2人、時折記憶が抜け落ちたり、現実が認識できなかったりする自分に、さして疑問も持たずに生きてきた。ただ、子供達が自分のもとに姿を見せない理由は、時々自分がおかしな行動をとるからなんじゃないか、とだけは漠然と感じていて、そのことがとても悲しかった。

 こんな自分でも、必要としてくれる人がいるなんて。
 お母さん、と呼びたい―――そう言ってくれる人が、いたなんて。

 「…いいのよ、透子ちゃん。お母さん、て呼んでも。私は大歓迎よ。こんな頼りないお母さんでいいなら―――好きなだけ、そう呼んで。ね?」
 背中をさすりながら、透子にそう言った。
 その言葉に、透子はちょっとだけ顔を上げ―――そして、とても嬉しそうな笑みを、由紀江に返してくれた。


***


 ―――まだ、帰って来るまで、少しかかるかしら…。

 午後7時過ぎ。夕飯の下ごしらえを終えた由紀江は、ほっと息をつき、時計に目をやった。
 夫の帰宅時刻は、毎日まちまちだ。けれど今日は、少し早めに帰ると言っていた。何時位になるのだろう―――迷った末、由紀江は、下ごしらえの終わったものを冷蔵庫にしまうことにした。
 ボウルやタッパーを冷蔵庫に入れ、一旦、キッチンを出て居間に向かった。今夜もかなり冷え込んでいる。ぶるっ、と身震いした由紀江は、ファンヒーターのスイッチを入れた。
 ソファに身を沈めた由紀江は、暫し、ぼんやりと天井を見上げた。それから―――ふと思い立ったように、テーブルの上に置かれた1枚の絵を手に取った。
 それは、今日、透子が持ってきてくれた、慎二が描いた絵だった。
 赤い実をつけた南天―――鮮やかな赤い色を描きながらも、どことなく優しいタッチのその絵は、確かに慎二の絵だ。でも…どこか、違う。由紀江が慣れ親しんだ慎二の絵とは。
 どう言えばいいのだろう―――そう。由紀江の記憶に残る慎二の絵は、もう少し、(つたな)かった。勿論、慎二は子供の頃から絵が上手かったが、それでも、やはり学生の絵だな、というレベルの絵だった。
 比べて、透子から貰った慎二の絵の数々は、まるでプロだ。慎二独特の描き方をしながらも、そこには、長年デッサンを積み重ねたことの分かる上手さがある。由紀江自身、若い頃は趣味で絵を描いていた。だから、その微妙な違いに本能的に気づくことができる。

 最近、ふと、不安になる。
 今、慎二は、何歳なのだろう? 自分の知らない慎二は、一体、何年分あるのだろう?
 透子が来るまでは、そんなこと、考えたこともなかった。疑問にすら思わなかった。けれど……“今”の慎二の絵を見るにつけ、だんだん、その不安が積もっていく。普段は忘れているけれど、たまにふっとその不安を思い出して―――なんだか分からない胸騒ぎに、じっとしていられない気分になる。
 高校生位で止まってしまっている、記憶の中の慎二。
 でも実際には、4月には社会人になるという透子が、恋心を抱いている相手である、現実の慎二。勿論、そんな慎二が、高校生である訳がない。じゃあ―――何歳なのだろう? 透子と同い年? …いや、それなら「お世話になっている」なんて言い方はしない気がする。透子のお世話ができる年齢とは、一体…何歳だろうか。

 何年、慎二と会っていないんだろう?
 その疑問が、次の疑問を呼び覚ます。

 じゃあ、秀一とは――― 一体、どの位、会っていないのだろう…?

 「……っ」
 ゾクッ、と、背筋が寒くなった。
 暖房が入って、部屋は十分暖まりつつあるのに―――寒気がした。何故か。
 風邪かしら、と呟いた由紀江は、絵をテーブルの上に戻し、自らの腕を抱くようにさすった。

 ―――そうよ。
 秀一さんは、お仕事で世界中を飛びまわっているのよ。昔から、報道カメラマンを目指していた秀一さんだもの。世界中で活躍している秀一さんが、そんなに簡単に帰ってこれる筈がないわ。
 それに、秀一さんには、慎二よりは頻繁に会ってたような気がする。
 ほら、いつだったか―――去年? おととし? もう分からないけれど、腕を折っちゃったあの人に付き添って、秀一さんが帰ってきたことがあったじゃないの。父さん大丈夫? って気遣ってる姿、確かに覚えがあるわ。

 夫が事故で怪我をした時のぼんやりとした記憶を辿って、一旦はそう納得した由紀江だったが。


 ―――待って。
 …待って。

 あれは―――秀一さん、だった?
 …秀一さん、よね? 秀一さん、て呼んで、確かに答えたわよね? 母さんただいま、って。あれは、秀一さんよね?

 ―――…本当、に?


 ひくっ、と、喉が鳴った。
 心臓が、縮み上がる。思考が纏まらなくなり、視界が定まらなくなる。うろたえた由紀江は、両腕を抱いたまま、よろよろと立ち上がり、どうしたらいいかも分からず辺りを見回した。
 混乱、する。
 「…秀一、さん」
 ―――混乱、する。
 見つからなくて。
 秀一が、どこにも、見つからなくて。
 何故、いないのか。いつからいないのか。…何故自分は、そんな大切なことを、この瞬間まで疑問に思わなかったのだろう? その疑問にも…混乱、する。

 現実が、狂気を凌駕し始める。由紀江は、抗うように頭を振ると、秀一のことは考えないようにした。何故か分からないけれど―――本能的に、考えるのは危険だ、と感じたのだ。
 寒い。また身震いする。そういえば―――今年はまだ、あの分厚いセーターを出していなかった。まだ思考が散り散りに乱れたまま、由紀江は、おぼつかない足取りで居間を出た。

 セーターを出さなくちゃ。
 そう思って出た筈なのに、由紀江がフラフラと向かったのは、日頃足を踏み入れない和室だった。
 無意識のうちに電気をつけ、無意識のうちにタンスの引き出しを引く。ゴソゴソとその中を漁ってみて、目的のセーターどころか、洋服類が一切ないことに気づいて、我に返った。
 「…何、やってるのかしら…」
 この引き出しは、仕事関係の古い書類を入れているだけなのに。
 可笑しい―――ぼんやりするにも程がある。苦笑した由紀江は、引き出しを閉め、電気を消そうとした。
 けれど。

 「―――……」

 引き出し式のタンスの隣に置かれた、ワードローブタイプの桐のタンス。その扉が―――ほんの少しだけ、開いていた。
 普段、この扉は、いつもきっちり閉まっている。でも、無意識状態で日頃開けることのない引きダンスを乱暴に開けたから、その振動で扉が開いてしまったらしい。
 立て付けが悪くなったのね、このタンスも。
 そんな事を思いながら、由紀江は何の気なしに、そのタンスの扉を手前に引いた。
 そして、その扉の向こうから現れたものを見て―――その場に、凍りついた。

 特注品だろうか。タンスの幅にぴったり合わせた、黒塗りの独特の物体。よく見る形とは少し異なっているが、これが何かは、由紀江も知っている。これは―――仏壇というものだ。
 そこに、秀一が、いた。
 大学生の秀一が、四角い写真立ての中で、明るく笑っていた。
 由紀江の夫と似た眉、由紀江の父とどこか似た目―――母さん、という声まで聞こえてきそうな、秀一らしい笑顔。記憶のままの―――21歳の、秀一が。
 「しゅ…う、いち…」
 声が、掠れる。
 知らず、手を伸ばしていた。封印を解かれた扉の中の、秀一に。小刻みに震える由紀江の指先は、ゆっくり、ゆっくり、秀一へと伸ばされ―――やがて、写真立てに嵌められたガラス板に触れた。

 冷たい。

 ―――冷たい。

 何年ぶりか―――いや、十何年ぶりか。長い長い年月を経て、久しぶりに触れた秀一は、冷たかった。
 指先を凍らせる、ガラスの冷たさ―――その冷たさが、指先から由紀江の奥底に届いた瞬間、まるで火花が脳裏で飛び散るように、記憶が、由紀江の中で飛び散った。


 『秀一さん―――…!!』
 冷たい。
 冷たい、冷たい、冷たい。冷たい手、冷たい頬、冷たい唇―――ついこの前まで温かかったのに、冷たい。
 『いや…、いやよ! 目を開けて、秀一! 秀一…!』
 やめて、連れて行かないで。
 私の子供を、連れて行かないで。
 どうするの? そんな小さな箱にこの子を押し込めて、どうするの? お願い、連れて行かないで、連れて行かないで、連れて行かないで。
 『由紀江…! 離してやるんだ、由紀江! お前がいつまでもそうしていたら、秀一が安心して天国に行けないだろう…!?』
 『秀一は死んでない! まだ死んでない! 嘘よ、あんなに元気だった子が……嘘よ……嫌! いや!』

 その子は、私の子よ。
 やめて、連れて行かないで。そんな火の中に、置き去りにしないで―――…!!


 ガタン! と音を立てて、写真が倒れた。


 「……しゅう、い、ち」


 喉が、詰まって、
 息、が、できない。


 現実が―――由紀江に、襲い掛かってきた。


***


 「ふーん…。母さん、そんなこと言ったんだ」
 「…うん。なんか、嬉しくて―――ちょっとだけ、泣いちゃった」

 打ち合わせから帰宅した慎二と夕食をとりながら、透子は、今日あったことを、はにかんだような笑みを浮かべながら慎二に語った。そんな透子の様子を眺めながら、慎二もふわりと微笑んだ。
 事情を理解していない由紀江には、自分が口にした言葉が、透子や慎二にとってどれほどの意味があるか、想像もできないだろう。
 もし、慎二と透子が結婚したら―――それは、2人が「いつの日か必ず」と誓い合った、将来の夢だ。いつの日か、由紀江が慎二を慎二と認識できるようになり、そのパートナーとして透子をも認識できるようになったら……そう思っている2人にとって、由紀江の何気ない一言は、どんな言葉より嬉しかった。その夢へ至る道に、一筋の光が射したような気分だ。

 「最近ね、私から話を振らなくても、由紀江さんから慎二のことを私に訊くんだ。医者(せんせい)も、それだけ“今”の慎二を意識している証拠だ、って。まだ少しだけだけど…やっと、やってきた事に手ごたえを感じ始めてる気がする」
 「透子が、頑張ってくれたから」
 箸を置いて、慎二は少し姿勢を正して、透子に軽く頭を下げた。
 「本当に―――ありがとう。それに、ごめん。オレの実の親の問題なのに、透子にばっかり苦労かけて」
 「や…やだな、頭なんて下げないでよ。私がやりたくてやってることだもん」
 慌てた透子は、自分も箸を置き、頭を下げる慎二の腕を引いた。それで慎二も顔を上げ、それぞれ、くすっと笑いあって、再び夕飯に箸をつけた。
 「それに―――私、本当に、由紀江さん好きだし」
 「え?」
 「…由紀江さんといるとね、なんか、知らない人と一緒にいる気がしないの。多分…どこか、慎二と似た空気を持ってるから、かな」
 「ああ…、うちは、兄貴が父さん似で、オレが母さん似だって、昔、よく言われてたからなぁ」
 「やっぱり? 顔だちとかより、ふわーっとした空気が、よく似てると思うんだけど」
 「うーん…男があんまりふわふわしてるのもなぁ」
 「慎二はふわふわでいいよ。きっちりかっちりしてる慎二なんて、慎二っぽくない」
 「…それ、誉めてるの?」
 「勿論」
 当たり前、という顔でそう言う透子に慎二が苦笑した時、電話が鳴った。
 「ん、オレ、出るから」
 電話に近かった慎二は、電話に出ようと腰を浮かしかける透子を制して、箸を置いた。
 受話器に手を伸ばしながら、時計に目を向ける。7時45分―――仕事関係の電話とは考え難い。一体、誰だろう?

 「はい」
 慎二が電話に出ると、意外な声が、受話器から聞こえた。
 『慎二か?』
 「え…、父さん?」
 久々に聞く父の声だった。父、という言葉を聞いて、透子も気になったらしく、食事を中断してこちらの様子を窺うように首を伸ばした。
 「どうしたの、珍しい」
 『…慎二』
 のんびりした口調で訊ねる慎二とは対照的に、電話の向こうの父の気配は、どことなく緊迫していた。なんだか嫌な予感がして眉をひそめる慎二の耳に、父の、重々しい言葉が届いた。

 『落ち着いて、聞いてくれ』
 「…え?」

 『由紀江が―――自殺を図った』


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