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24: 月冴ゆ星冴ゆ  

 「―――透子」

 その声に、現実に引き戻された。
 ぎこちなく、首を回す。思いのほかすぐ近くに、透子の顔を覗き込んでいる慎二の顔があった。
 「…大丈夫?」
 「……」
 暗い車内で、車窓を流れる外の街灯やネオンの灯りだけが、時折慎二の表情を映し出す。透子を心配しているようなその表情に、透子の胸は、ズキリと疼いた。
 慎二の心中は、透子にも到底推し測れない。でも―――言葉で表現できないほどの不安と苦悩を抱えているだろう。それだのに、まだ自分のことを気遣う慎二の優しさに、胸が痛む。
 「慎二こそ、大丈夫なの?」
 慎二の問いには答えず、透子は、眉を寄せてそう訊ねた。すると慎二は、微かに微笑み、透子の手をそっと握った。
 「…不安、だけどね。でも…そこそこ落ち着けてると思う」
 「……」
 「…大丈夫だよ」
 透子の手を握る慎二の手が、強くなる。微笑は僅かの間で消え、硬い表情に戻った慎二は、自分に言い聞かせるようにもう一度、
 「……大丈夫だよ、きっと」
 と呟いた。


 病院へ向かうタクシーの中、交わした言葉は、それだけだった。
 慎二は、透子の手を握ったまま視線を落とし、透子はじっと、前を見つめたままでいた。

 勿論、慎二は、大丈夫でなどなかった。
 過去に2度、母の自殺未遂は経験しているが、回数をこなせば慣れる、というものではないし、衝撃が軽くなるものでもない。大人になった分、少しは冷静なふりをすることも出来るようになったが、やはり心は乱れ、不安のあまりじっと座っていることすら苦しくなり、思考は悪い方へ、悪い方へと傾いてしまう。
 けれど慎二は、もっと冷静でいなくては、と自分に言い聞かせていた。
 父からの電話の内容を聞いた時の、あの透子の表情―――血の気を失い、唇を震わす透子の様子は、自分が支えなくては立ち上がることさえままならないのではないか、と思ったほどだった。無理もない。透子は、つい数時間前、母と笑顔で別れたばかりなのだ。顔を合わせていた分、慎二以上にショックだろう。
 自分が取り乱せば、余計、透子を不安にさせる。
 冷静にならなくては―――より強く透子の手を握り、慎二は、軽く深呼吸をした。

 強く握った透子の手は、微かに震えている。
 思いつめたように、じっと1点を見据えたままの、少し青褪めた透子の横顔―――その横顔を時折見ながら、慎二は、頭の片隅で思った。ああ…こんな透子の顔、前にも一度見たことがあるな、と。
 けれど、やはり、冷静さを欠いていたのだろう。
 それが“いつ”のことだったのか―――その時の慎二には、分からなかった。

***

 タクシーは、病院の表玄関に横付けされた。が、診療時間をとうに過ぎた病院は、灯りが落とされ、鍵もかけられている。2人は、玄関脇の案内図をたよりに、緊急外来用の入り口へと走った。
 緊急外来の入り口には、救急車が横付けされていた。どうやら、また新たに急患が運び込まれたらしく、緊急外来には白衣の人々が慌しく行き交っていた。
 「あ…あの!」
 慎二が、忙しなく動き回っているナースの1人を呼び止めると、運良く彼女は立ち止まり、振り返ってくれた。
 「何か?」
 「すみません、今から1時間ほど前にこちらに運び込まれた、工藤由紀江は…」
 「工藤……ああ」
 どの患者かすぐ分かったらしい。ナースは、小刻みに2度ほど頷いた。
 「ついさきほど、病室に移されました。ご家族の方ですか?」
 「はい」
 「でしたら、そこを右に曲がって、階段を上がってすぐの病室です。ご主人が先生と廊下にいらっしゃる筈ですから」
 「ありがとうございます」
 慎二と透子は、2人揃って軽く頭を下げ、即座に病室へと急いだ。

 消灯前だったのは、幸運だったかもしれない。
 昔、自殺を図った母が病院に運ばれた時は、消灯後だった。多恵子が手首を切ったと連絡を受けて駆けつけた時も、消灯後だった。灯りの消えた病院は、ただそれだけで死を予感させる。けれど、今、白い壁や床に、蛍光灯の光が眩しい。そのことに少しだけ、救われた気がする。
 ともかく。
 ―――病室に移されたんだったら…手遅れではなかった、ってことだよな。
 ナースの短い言葉から、それだけは確信して、僅かに安堵した。気が動転しているせいか、いつもより少し慎二に遅れをとってしまっている透子を気遣いつつ、慎二は、焦る気持ちをなるべく抑えて階段を上った。


 階段を上りきった所で、すぐに、廊下に佇む2つの影に気づいた。
 「父さん」
 慎二が声をかけると、父らしき後姿が振り返った。仕事から戻った時のままなのだろう。ビジネススーツの上にコートを羽織った姿だった。
 「慎二―――ああ、透子ちゃんも来てくれたのか」
 少し息を切らして慎二の後ろから現れた透子を見て、父の表情が一瞬だけ和らいだ。けれど、透子の青褪めた硬い表情は変わらず、整わない息のまま、小さく頭を下げただけだった。
 「由紀江さん、は」
 慎二が訊ねるより早く、透子が訊ねた。
 「失礼ですが、ご家族ですか」
 答えようと父が口を開く前に、医師が、僅かに眉をひそめて、父に問いかけた。
 「あ…、はい。息子と、その―――…」
 「婚約者です」
 2人の関係をどう表せばいいか、迷ったのだろう。父が一瞬言葉に詰まったのに気づき、慎二が先に答えた。え、という顔をする父と、斜め下からの透子の視線を感じたが、嘘ではないので、慎二はそのまま続けた。
 「だから、家族同然です。…どうか、母の状況を説明して下さい」
 「そうですか…。すみませんね。事情が事情ですので、ご家族以外の方がいる所では、あまり詳しいお話は、と思いまして。…では、続きは、こちらのナースセンターで」
 人通りは少ないとはいえ、やはり廊下ではまずいのだろう。医師は、周囲にチラリと目をやってそう言い、少し先にあるナースセンターへと3人を促した。

 ナースセンターの入り口をくぐるとすぐ、医師は、壁際にあるベンチを3人に勧めた。が、誰も座る気になれず、なんとなくベンチの辺りに佇む形になった。
 「まず、運ばれてきた時の状況ですが―――由紀江さんは、左手首をかなり深く切っていまして、相当量の出血をしていました。ただ、幸運なことに、自殺を図ってから比較的早い段階でご主人が帰宅されたため、一命は取り留めました。咄嗟の判断で、ご主人が腕をきつく縛って止血を試みたことも幸いしました。意識不明の状態ですが、自発呼吸もあります」
 「じゃあ……命に、別状はないんですね?」
 慎二が確認すると、医師は、僅かにだが頷いた。
 「しかし、“今のところは”としか申し上げられません。まだ血圧が安定せず予断を許さない状況です。あまり心臓が丈夫ではないようですし、年齢的にも楽観視できませんし…」
 「…そうですか…」
 今現在、生死の境を彷徨っている、という状態ではないが、本人の体力が持たなければ、容態が急変する可能性も残されている、といった状況らしい。少しの安堵と不安と苛立ちが入り混じり、呟く声が掠れた。
 「でも、血圧が安定してくれば、安心して大丈夫でしょう。今はまだ、看護師がつききりで経過を看ています。ほぼ安定した状態になったらお呼びしますので、こちらでお待ちいただくか、ご連絡先を…」
 「ここで、待ちます」
 間髪入れず、父がきっぱりと言った。勿論、慎二や透子も同じ気持ちだ。医師も、納得したように頷いた。
 「分かりました。少しでも変化があれば、すぐお呼びします」
 「宜しくお願いします」
 深々と頭を下げる3人を残し、医師は、忙しない様子でナースセンターを後にした。


 医師が出て行って間もなく、父が、母がかかりつけになっている心療内科に連絡を入れてくる、と言い出した。
 「この時間じゃ、もう閉まってるんじゃないかな」
 「…かもな。それでも、留守電だけでも入れておこう。経過次第では、先生の指示を仰ぐ必要が出るかもしれないだろう」
 その通りだ。母の容態が安定したとしても、意識が戻った後の問題が残っている。あらゆる可能性が頭の中に浮かび、慎二は、一気に重苦しい気分になった。
 「オレが電話してこようか?」
 疲れ果てた父の表情を心配して、慎二がそう訊ねたが、父は微かに笑って首を横に振った。
 「いや―――何かしていた方が、気が紛れるんだよ」
 「…そっか」
 「ついでに飲み物でも買ってこよう。透子ちゃん、何かリクエストはあるかい?」
 父が訊ねると、ベンチに腰を下ろしていた透子は、未だ青褪めたままの顔をうつろに上げた。が……、すぐに視線を落として、小さく首を振った。そんな透子を見下ろして、父も慎二も、心配げに眉を寄せた。
 「―――お前は、あの子についててやりなさい」
 「…ん。心配しないで」
 父の耳打ちに、慎二がなんとか微笑んでそう返す。ポン、と慎二の肩を叩いた父は、足早にナースセンターを出て行った。

 静寂が、やってくる。
 ベンチコーナーを隔離するように置かれた衝立(ついたて)越しに、ナースセンターの様子を窺うと、年輩のナースが1人、事務処理らしきことをやっているだけだった。他の者は、遅めの食事の時間なのか、それとも巡回の時間なのか、全員出払っているらしい。静寂の中、名前の分からない機器が上げる低い唸り声のような音が、かえって不安感を煽った。
 「…透子」
 慎二は、うな垂れている透子の隣に腰を下ろし、透子の顔を覗き込んだ。
 それでもなお、透子は顔を上げない。自分のつま先をじっと見つめたまま、何かに耐えるように、頑なに動こうとしない。
 「…大丈夫だよ。一命は取り留めたんだし、ちゃんとプロが看てくれてるんだから」
 「……」
 「透―――…」
 ベンチに置かれた透子の手を取って―――慎二は、そこで初めて透子の異変に気づいて、表情を変えた。
 「透子?」
 透子の手は、冷たかった。
 自宅からここまで、外気にはほとんど触れずに来た筈なのに―――まるで、氷水に浸したかのように、冷たかったのだ。
 慌てて、透子の肩を掴んでこちらを向かせる。何の抵抗も手ごたえもなく、小さな体はあっさり慎二の方を向いた。
 ガクン、と、首を仰け反らせるようにして向けられた顔は、怯えたような瞳が僅かに揺れて、いつもより色を失った唇が微かに震えていた。その表情は―――昔、1度だけ、慎二も見たことのある表情だった。
 「と…うこ…」

 …そう。
 この、表情―――これは、透子が、あの日見せた顔。
 両親と弟の遺体確認のために、薄暗い霊安室に向かった時。
 見ない方がいい、と言う係員に、生き残った自分の責任だから、と硬い声で答えて―――3人の待つ部屋への廊下を、半ば倒れかけながら歩いていた時の、透子の顔だ。

 「…も…う…誰にも、いなくなって欲しくない」
 涙が、透子の目の縁から溢れ、留まりきれずに流れ落ちた。
 「生き残るのは…もう、やだよ。慎二」
 「……」
 「置いていかれるのは―――…もう…嫌なの…」
 「……うん…」
 15歳のままの透子が、そこにいた。
 堪らない気持ちになった慎二は、透子の肩を抱き寄せ、精一杯の力で抱きしめた。


 ―――私が、死ねばよかった。
 なんで…なんで、私だけ生きてるの…? コータは死んだのに、お父さんやお母さんも死んだのに、なんで……。
 私が死ねばよかったんだ。
 コータを見殺しにする位なら―――まだ、7つだったのに。
 コータ…こーた…
 紘太―――…。


 尾道での最初の夜―――悪夢にうなされて目覚めた真夜中、うわごとのようにそう叫びながら慎二の腕の中で泣いた透子を思い出す。
 もう、7年。
 ……まだ、7年。
 透子は今、由紀江を通して、あの日の父を、母を、紘太を見ている。タクシーに乗っている間も、そして今も……記憶は、残酷なまでに透子の中に蘇り、透子を苛んでいる。あの日感じた絶望、恐怖、孤独、喪失感―――そんなものを呼び覚まして、透子の心を侵食する。
 慎二も、それを、知っている。
 多恵子が自殺を図った時―――瞬時に蘇った記憶。兄を失った時の、母を失いかけた時の、あの恐怖。そう、慎二もまた“生き残り”だ。だから、透子の言葉の意味が、痛いほど分かる。「生き残るのは、もう、嫌」―――あんな思いは、もう二度と、したくない。

 目を伏せた慎二は、自らの不安をもぶつけるように、ただ、透子を抱きしめ続けた。
 言葉より、何より、そうすることで伝えたかった。

 もう、絶対に、ひとりきり置いていかれることはない、と。
 自分だけは―――自分達だけは、お互いの傍に、絶対にいるんだ、と。


***


 紘太の声を、聞いた気がした。

 “トーコ”
 麦藁帽子を被った紘太が、虫取り籠を抱えて、手を振っていた。


 紘太―――守れなかった、大切な大切な、小さな命。
 私はもう22になったのに……永遠に7つのままの、私の弟。
 …ごめんね。
 お姉ちゃんだけこんなに大人になっちゃって…ごめんね。
 一緒に寝て、ってぐずってたのに…どうして一緒に寝てあげなかったんだろう。もし私も一緒に寝ていれば、紘太やお父さんやお母さんと一緒に、天国に行けたのに。
 そうすれば―――たったひとり、生き残らずに済んだのに。

 …ねえ、紘太。
 お姉ちゃんもね、そっちへ行きたかった。ずっと。
 紘太の所に行けるものなら行きたい、って思ってた。ずっと。平気な顔しながら、笑いながら…夜になるとね、紘太の夢を、いつも見てた。1年? 2年? …どの位かな。多分―――慎二のこと、本当に好きになるまで、ずっと。

 でもね、紘太。
 でも、もう……お姉ちゃんは、そっちへは、行けないの。


 “透子”
 柔らかな声が、どこかで、呼んでいる。
 生きようよ、と―――この世界はこんなにも美しくて、生きるということはこんなにも奇跡に満ちたものなんだよ、と、呼んでいる。

 死を引きずったまま、人は、生きられないよ。
 紘太を、忘れない。お父さんもお母さんも、忘れない。けれど……生き残った私は、紘太や両親のために生きるんじゃ駄目なの。
 今、ここにある命のために。
 生きて、私を愛してくれる人のために生きなくては―――本当に生きてることにはならないの。


 だから、ね。

 だから、由紀江さん―――…。

 

 廊下を走る足音に、透子は、うたた寝からハッと目覚めた。

 反射的に、壁にかかった時計に目をやる。午前1時―――うたた寝は、ほんの5分ほどのことだったらしい。
 抱きとめてくれていた慎二の胸に手を置き、透子はベンチから立ち上がった。それに少し遅れて、慎二と、その向こうに座っていた慎二の父も立ち上がった。直後、ナースセンターに、見覚えのあるナースが半身だけ入って来た。
 「工藤さん! 奥様が目を覚まされましたよ」
 「……っ」
 目を、覚ました―――…!
 ああ、神様。透子がそう心の中で叫んだと同時に、慎二の父が、真っ先にナースセンターを飛び出した。
 「も…もう、大丈夫なんですか?」
 慎二の問いに、ナースはニッコリと微笑み、大きく頷いた。
 「まだ血圧は低いですが、危険域は脱しました。早く行っておあげなさい」
 「……」
 慎二が言葉に詰まったのが、透子には分かった。
 けれど、ナースはそれに気づかなかったらしい。また忙しない足取りで、病室へ戻ってしまった。
 「―――…良かった」
 ナースが去って行った方向を黙って見ていた慎二は、暫しの間の後、フワリと微笑んで、そう呟いた。
 「良かった―――本当に」
 「……」
 「…本当に…」

 慎二―――…。
 …顔を見に行こう、とは、絶対に言わないんだね。

 その理由が、透子には、痛いほど分かる。
 その昔、由紀江が自殺を図った時。意識が戻った由紀江は、無事でよかった、と泣き縋る慎二に、こう言ったのだ―――「秀一さん、慎二はどこに行ったの?」
 その日から、15年―――由紀江は、一度として、慎二を「慎二」とは呼ばない。だから……慎二は、顔を見たくても、見られないのだ。由紀江の脳は、きっと「秀一」ではなく「慎二」を消しているから。
 生きるために。
 死んでしまいたくなるほどの罪悪感や絶望感から、自らを守るために。

 「…慎二…、行かないの?」
 それでも透子は、そう訊ねてみた。
 慎二は、その問いに透子の方へと視線を向けた。が、少し悲しげな笑みを浮かべると、静かに首を振った。
 「オレは―――行けないよ」
 「でも…慎二を、慎二と認識できるかもしれないじゃない」
 「…無理だよ」
 そう答える慎二の目は、どこか諦めにも似た色をしていた。
 「現実に耐えられなかったからこそ、自殺を図った人なんだ。オレという現実を、自殺未遂直後の今、受け入れられるとは思えない。オレをオレと認めたら…兄貴の死も、受け入れるしかなくなる。万が一、兄貴が死んだって認めることができたとしても…また、自殺を図りかねない」
 「……」
 「そんなリスクは、今は、冒せない」
 慎二は、そう言って、静かに目を伏せた。
 「今はただ、生きてくれれば―――オレは、それだけでいい」
 「慎二……」

 生きていてくれれば―――…。

 そのために、慎二が消されてしまっていても?
 こんなに由紀江さんを想っている、たった1人生き残った息子が、ここにいるのに―――それを無視して、もうこの世にはいない秀一さんに執着しながらでも……生きてさえいれば、それでいいの?

 …優しい慎二は、そう言うのかもしれない。
 でも。

 私は―――私は、絶対に、嫌だ。

 きゅっ、と唇を引き結んだ透子は、意を決し、慎二の腕を掴んだ。
 「? 透子?」
 「来て」
 「え……っ」
 驚く慎二の腕を、ぐい、と引く。ふいを突かれた形になった慎二は、透子に引っ張られるまま、透子の後について、ナースセンターを出る羽目になった。
 「ちょ…っ、と、透子。オレは、会うことは…」
 「会わなくていいから」
 戸惑う慎二の言葉を制して、透子はきっぱりとそう言い、慎二を振り返った。
 「会わなくていいから、ドアの外で、待ってて欲しいの」
 「……」
 「お願い」
 病室の前で足を止め、ドアを前にして、透子はしっかりと慎二に向き直った。
 「お願い―――1度だけ、私にチャンスを欲しいの」
 「透、子…」
 「今、由紀江さんをまた夢の世界に戻しちゃったら―――また現実に引き戻すのは、もっと難しくなる。でも、まだ混乱してる状態の由紀江さんを、ちゃんと“こっち”に引き止めることができたら…」
 「それは…」
 「私が、耐えさせてみせるから!」
 透子は、必死に慎二の胸に取り縋った。
 「引き止められた現実に、由紀江さんがちゃんと耐えられるように、私が由紀江さんを生かしてみせる! 慎二が…慎二が私を生かしてくれたように、必ず、私が。だから―――お願い」
 「……」
 「お願い…っ」

 慎二のセーターを掴む透子の手が、小刻みに震える。
 決死の覚悟の様子の透子に―――透子を見下ろす慎二の目が、戸惑ったように揺れた。

***

 「秀一は、どこなの…?」
 病室のドアを開いて、一番に聞こえてきたのは、その言葉だった。
 医師と看護師は、慎二の父が来た時点で、気を利かせて一旦席を外したらしい。狭い個室の中に、白衣の姿はどこにも見当たらなかった。
 慎二の父は、半分起き上がりかけている由紀江の背中を支え、なんとか横にさせようとしていた。ドアの開いた気配にハッと顔を上げ、透子の姿を確認すると、少し悲しげに眉を寄せた。
 「…今は、難しいことは考えなくていいんだ。とにかく、ゆっくり眠りなさい」
 宥めるように夫がそう言っても、由紀江はきかなかった。
 「誤魔化さないで。ねえ、知ってるんでしょう? 秀一は、どうしたの? 私、どうしてこんな所に―――…」
 由紀江の声は、以前、一瞬正気に戻った時の興奮した声とは異なり、どこかうつろで、不安定だった。意識が戻って間もないから、あまり頭が回らないからかもしれないが―――それでも、由紀江の不安と焦りは、その緩慢な声のトーンの中にも聞き取れる。掛け布団の上に出された左手首に、しっかりと包帯が巻かれているのを見つけた透子は、その痛々しい姿に顔を歪めた。

 ―――怖い。
 怖い、けれど。
 覚悟を決めた透子は、ピン、と背筋を伸ばした。

 「由紀江さん」
 寝かせようとする夫に緩慢な抵抗を見せていた由紀江は、その声に、一瞬、動作を止めた。
 血の気を失った、憔悴しきった顔が、こちらを向く。
 つい半日前にも見た筈のその顔は、まるで別人と言える顔に変わっていた。現実に戻った由紀江は、こんな顔になってしまうのか―――そう思うと、自分が、酷く残酷なことをしようとしている気がする。けれど……。
 怯んでは、いけない―――透子は気を取り直し、いつも工藤家を訪れる時と同じ笑顔を、なんとか由紀江に向けた。
 「……だ…れ…?」
 「透子です」
 混乱した目をしている由紀江に、歩み寄る。一瞬、慎二の父と視線がぶつかったが、薄く開いたドアの向こうに慎二の気配を感じて、これが慎二も了承済みのことであると察したのだろう。咎め立てすることなく、父は、話がしやすいように由紀江の背中を支えた。
 由紀江の右手をそっと取った透子は、やせ細ったその手を、両手で包んだ。まだ戸惑った顔をしている由紀江の顔を、ほぼ真っ直ぐに見据えて、透子はニッコリと微笑んだ。
 「ほら。今日の昼間、一緒にチョコレートケーキを焼いたでしょう…?」
 「……」
 「おいしいビーフシチューの作り方を、由紀江さんから教えてもらったり、庭のパンジーを一緒に植えたり―――月に1度、一緒に過ごしたでしょう? 覚えていない?」
 「―――…透子、ちゃん?」
 「はい」
 「…ほんとだ。透子ちゃんだわ」
 思わず、ほっ、と息を吐いた。良かった―――ショックのあまり、逆に“夢見ている状態”の時のことを忘れてしまっていたら…と、そのことを一番懸念していたのだ。
 大丈夫。少なくとも、“ここ”にいる由紀江と、これまで透子と接してきた由紀江は、ちゃんと繋がっている。繋がりながら―――正気に戻りかけている。
 「何故透子ちゃんが、ここにいるの…」
 「…由紀江さんが大変なことになった、って聞いて、慌てて駆けつけたんです」
 「私、が」
 「無事で、良かった…」
 ―――本当に。
 心からの安堵が、由紀江にも分かったのだろう。由紀江の表情が、少しだけ和らぐ。そして、空いている左手で透子の手を緩く包もうとして―――そこで、凍りついた。
 「―――…」
 由紀江の目は、自らの左手首に、釘付けになっていた。
 真新しい包帯を、何重にも巻かれた、痛々しい左手首―――それが、記憶の何かに触れたのだろう。由紀江の唇が、小刻みに震え始めた。
 「由紀江、もう…」
 「秀一は?」
 由紀江の異変に気づいて、その思考を遮ろうとする慎二の父の声を、由紀江は、震える声で制した。
 正気と狂気の(はざま)に狼狽した目が、落ち着きなく揺れる。透子は、不安に心臓が痙攣を起こしそうになりながらも、由紀江の右手を握る手の力を一層強くした。
 「あなた、秀一は…!? 私…っ、私、は」
 「由紀江さん!」
 ぐっ、と手に力をこめると、その力に引かれたように、由紀江がこちらを見た。透子は、唾を飲み込むと、ゆっくりと告げた。
 「秀一さんは―――もう、いません」
 「と―――」
 「いないんです」
 慎二の父の言葉を遮り、もう一度、繰り返した。
 「いないんです―――秀一さんは」
 「……」
 「もう…どこにも、いないんです」
 愕然とした目をした由紀江は、完全に、言葉を失った。
 その目に、深い深い絶望を見つけ、胸が、痛む。けれど―――透子は、精一杯の力で、祈るような思いで笑顔を作ってみせた。

 「でもね、由紀江さん―――慎二は、いるの」
 「……っ」
 慎二の父が、息を呑む気配がした。
 それと同時に、由紀江の絶望しきった目も、ほんの少しだけ、何かを感じたように丸くなった。
 「…慎、二?」
 「そう……慎二」
 「…慎二、が…?」

 お願い。
 お願い、届いて―――少しでもいいから。

 「ほら……今日渡した絵、覚えてる? 真っ赤な実をつけた南天の絵」
 「……」
 「その前は、銀木犀の絵―――あれは、由紀江さんが、庭に咲いてた銀木犀を、私に一枝くれたものを、慎二が描いたの。その前は彼岸花、その前は向日葵、その前は夕顔―――…私、全部覚えてる。慎二が由紀江さんのために描いた絵、全部」
 「……」
 「慎二はいつだって、由紀江さんのために描いてるの」

 涙が、自然と、浮かんだ。
 視界が滲む。けれど透子は、精一杯の笑顔を作ったまま、由紀江の手を握り続けた。

 「秀一さんがいなくなってからも、ずっと、ずっと、ずっと―――慎二は、ここに、いたの。いつもいつも、待ってたの。由紀江さんが自分の方を向いてくれるのを。だから、由紀江さんのために、ずっと絵を描いてたの。見つけて欲しくて―――ここにいるんだよ、って伝えたくて」
 「……」
 「秀一さんは、もう、いない」
 ―――紘太や両親が、そして多恵子が、もういないように。
 「でも、由紀江さん―――由紀江さんを愛してる人は、まだ、ここに、いるの。秀一さんがいなくなっても、その人達は消えないの。今日も、明日も、その先もずっと…ここに、いるの。あなたに振り向いてもらえなくても」
 「…慎二、も?」
 やっと返ってきた問いかけは、少し、掠れていた。揺れる瞳を見つめ返し、透子は微笑みながら、頷いた。

 零れ落ちた涙を、指ではらう。
 おもむろに由紀江の手を放し、少し横にずれて場所を空けた透子は、大きく息を吸い込むと、思い切って背後のドアを振り返った。

 「慎二」
 ドアの影で、人影が、僅かに揺れた。
 けれど、躊躇うように、その人影はなかなか動かなかった。
 「…慎二」
 もう一度、名を呼ぶ。
 それで、覚悟が決まったのだろう。ゆっくりとドアが開き―――慎二が、病室に1歩、足を踏み入れた。


 枕元の灯りだけ点けた病室の中、由紀江は、少し眉をひそめるようにして、ゆっくりと近づいてくる人影を見つめた。
 1歩、1歩―――近づくのを恐れるように、けれど少しずつ近づいてくる人影は、記憶にある少年より背が高く、体つきもしっかりしている。

 「―――…」

 これは……、誰?
 …秀一、さん? …いえ、違う。透子ちゃんも、何度も言っていた。秀一さんは、もういない―――もういない。だから―――…。

 薄暗くてよく見えなかった顔が、次第に、はっきりとしてくる。
 明るい色をした、柔らかな髪。少し線の細い輪郭。
 記憶にある中性的な少年の顔とは、似ているけれど、どこか違う。大人の線の太さも持ち合わせたその顔は、少年ではなく、立派な大人の顔だ。
 けれど。
 戸惑ったような、不安げな表情―――まるで、迷子が、右も左も分からない状態で立ち竦んでいるような、曖昧な表情。
 …知っている。
 こんな表情は、よく、知っている。
 秀一が病に倒れた時、ベッドの脇に。自分が命を絶とうとした時、夫の背後に―――いつも、こんな顔をして立っていた少年がいた。そしていつだって、自分が彼に目を向ければ、少し悲しそうに、けれど優しげに、微笑を浮かべてみせていた。

 『かあさん』

 振り返り、そう言って微笑む少年の、フワリとした幸せそうな笑顔。
 ほら、これは、昨日見た銀杏の木だよ―――…そう言って、スケッチブックを掲げて見せたのは―――…。


 「―――…慎、二…?」

 真っ直ぐに、慎二を見上げて。
 目を見開いた由紀江の唇が、その名前を紡いだ。
 刹那―――驚いたように、慎二は、足を止めてしまった。

 「慎二、よね?」
 「……か…あさん」
 「慎二―――…」
 慎二に向かって伸ばされた手を、信じられないような面持ちで取った慎二は、か細いその手を、両手でしっかりっと握った。
 途端、由紀江は、泣き笑いのような表情を浮かべた。
 「…ああ…やっぱり、この手は、慎二だわ―――…」
 慎二の顔も、泣き笑いのような表情になった。慎二は、由紀江の手を包んだ両手に額を押し付け、こみ上げてきそうになる涙を耐えた。


 長い、長い年月を越えて。

 慎二は、やっと、見つけてもらえた。ずっと見つけてもらいたかった、その人に。

 

***

 

 「由紀江さん」
 透子が声をかけると、遊歩道脇の1本の木を見上げていた由紀江が、振り向いた。
 「何、見てたの?」
 「―――あの、枯葉を」
 薄く微笑んだ由紀江は、そう言って、1枚だけ散り遅れた枯葉を指差した。
 「なんだかね。命って…凄く、儚いものに思えて」
 「……」
 「…ごめんなさいね。考えないようにしようとは、思っているんだけど」
 「―――寒いでしょ? もう病室に戻りましょう」
 透子は笑顔を作り、持ってきたショールを由紀江の肩に掛けた。


 あれから、1週間。由紀江は、まだ病院に入院していた。
 慎二を「慎二」と呼んだ由紀江だけれど、15年間封じてきた現実を、簡単に受け入れられる筈もなかった。また、何がきっかけで夢の世界に引きこもらないとも限らない。一番怖いのは、また自殺を図る可能性だが―――そのため、今も経過観察ということで、心療内科に入院しているのだ―――少なくともこの1週間、自傷行為などは見られなかった。
 毎日続く、入念なカウンセリング。その結果、精神安定剤などを使いながら通院すれば大丈夫だろう、ということになり、明日の退院が決定した。だから、入院患者用の遊歩道を散策するのも、これが最後だ。

 『当面は、良くなったり悪くなったりを繰り返すでしょう。透子さんを由紀江さんの中に構築していったように、“今の慎二さん”も更に構築していく必要があります。1年経った今でも、透子さんが誰か分からない時がある位ですので―――慎二さんも、同じ思いをする時は、しばしばあると思います』
 主治医に言われ、慎二の父も、慎二も、透子も、頷いた。
 たとえ慎二の顔を忘れることがあっても、秀一としか認識できないよりは、はるかにマシだ。3人は、事態が大きく前進した手応えを実感していた。
 『投薬とカウンセリングを続けながら、少しずつ、少しずつ、現実に慣らしてあげましょう。きっといつか―――全てを受け止められる日が来ますよ』


 「…生きるのって、難しいわね」
 立ち止まった由紀江は、花壇に植えられたパンジーを見下ろし、呟くように言った。
 「自分を責めても仕方ない、って、何度も何度も思うんだけど―――どうしても、考えずにはいられないの。何故秀一が……まだ未来のいっぱいあった秀一が、何故、って」
 「……」
 「秀一がいないのに、何故…私が生き残っているのかしら。秀一より先が短くて、秀一より才能もない私が」
 「由紀江さん―――…」

 まるで、7年前の自分を見ているような言葉だ。
 そして―――それはそのまま、慎二の言葉でもあった。


 ―――…オレもさ、思ったよ。
 兄貴が死んだ時―――あの兄貴が死ぬ位なら、オレが死んだ方がマシだった、って。
 兄貴の病気治すのに、オレの血が全然役に立たないって分かった時、自分が凄く情けなかった…兄貴が助かるためなら、骨髄液だろうが全身の血だろうが、なんでもあげたのに、って。


 「…私もね、思ったの」
 ポツリと、透子がそう言うと、由紀江は、少し不思議そうな顔をした。
 その視線に気づいてニコリ、と笑った透子は、冬の寒さの中に可憐に花をつけるパンジーを、遠くに思いを馳せるような目で見下ろした。
 「家族が全員死んでしまった時…何故、私だけ生き残っちゃったんだろう、って。紘太なんて、まだ7歳だったのに―――紘太を死なす位なら、私が死にたかった、って」
 「…今も、そんな風に思っているの?」
 由紀江は、少し心配そうに、そう訊ねた。
 不思議だ―――その問いは、透子が慎二にしたのと同じ質問だ。くすっと笑った透子は、僅かの間、目を閉じた。

 「―――生きなきゃ、って、思う」

 “兄貴が生きられなかった分、オレは生きなきゃ、って思う。”

 「…紘太が、お父さんが、お母さんが生きられなかった分…、私は生きなきゃ、って思う」

 “きっと神様は透子に、生きろ、って言ったんだよ。生きられなかったお父さんやお母さんや紘太の分…3人分も幸せになれって言って、透子だけは助けたんだよ。”

 …だからね。
 生き残った人間は、幸せにならなくちゃいけないんだ。
 失った命のためにではなく、生きている人のために―――そう、誰よりも、今生きている“自分”のために、生きなくちゃいけないんだ。

 「…辛いけど」
 透子は顔を上げ、由紀江に、柔らかな笑みを向けた。
 「生き残るのは、とっても辛いけど―――…頑張って生きよう。由紀江さん」

***

 出版社に原稿を届けに行った慎二と待ち合わせた頃には、日はすっかり沈み、濃紺の空が頭上に広がっていた。

 「星がよく見えるなぁ…」
 「うん…、空気が澄んでるんだね」
 白い月が、煌々と輝いている。夜空を見上げる2人の息は、透明な冷たい空気に触れて、見る間に白くなった。
 「こういう晴れた夜空の日は、凄く冷え込むんだ。慎二、寒くない?」
 歩き出しながら慎二を見上げて訊ねると、慎二は微かに笑い、透子の手を握った。
 そして、掴んだ透子の手ごと、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そう―――子供の頃から、よくそうしていたように。
 「こうしてれば、寒くないよ」
 「…な…なんか、改めてやると、照れるなー、これ」
 「今更」
 「そうなんだけどー…」
 まだ子供扱いされているようで、ちょっと、恥ずかしい。
 だけど、恋人同士になった分―――同じことでも、また違った風に見える気がして、ちょっと、くすぐったい。
 ポケットの中で繋いだ手は、温かかった。空いた手に白い息を吐きかけ、透子は、その心地よさに口元を綻ばせながら歩いた。

 月は冴え、星は冴え―――冬の夜空は、こんなにも綺麗。
 よく、死んだ魂は星になって天に昇ると言われる。だとしたら―――冬は、たくさんの魂を見ることが出来る季節だ。

 この満天の星の中に、紘太や両親はいるだろうか。
 秀一は、多恵子は、陸は、いるだろうか。

 「…ねえ、慎二」
 「ん?」
 「私―――今年の1月17日は、神戸に行こうと思う」
 透子が唐突に告げた言葉に、慎二は、少し驚いたように透子を見下ろした。
 「…なんで、急に?」
 「ん……、春からは社会人だから、行けるとしたら今年が最後だ、って思いもあるけど―――…」
 言葉を切った透子は、考え込むように首を軽く傾けると、暫し黙って空を見上げていた。が、いい言葉が見つからなくて、降参した笑いを見せた。
 「…よく、わかんない。ただ、なんかね。今なら、受け入れられる気がする」
 「何を?」
 「“今”の神戸を」
 「……」
 「もう、あそこには、紘太もお父さんもお母さんもいないけど―――私の家も、私が好きだった風景もないけれど―――それでいい、って思える気がする。…生き残った人は、次の日も、その次の日も、生き続けなくちゃいけない。誰がいなくなっても、何がなくなっても、地球は回ってる―――そして、今の神戸があるんだったら、それでいいや、って」
 「…そっか」
 ポケットの中で繋いでいた手を、きゅっ、と握り締められた。
 その力に促されるように顔を上げた透子に、慎二は、フワリと柔らかな笑みを返した。
 「オレも、行っていい?」

 ―――優しいんだもの、慎二は。
 行ってもいい? なんて。本当は、逆なのに。

 くすっ、と笑った透子は、そっと手を握り返した。
 「お願い―――慎二も、一緒に来て。…ね?」

 


 月は冴え、星は冴え―――たくさんの魂が、空で輝く。
 紘太の命、両親の命、秀一の命、そして…多恵子の、陸の命。たくさんの命を思い出に変えて、生き残った人達は、季節をわたっていく。春を、夏を、秋を、冬を―――季節の移ろいの輝きを見つけながら。

 今、ここにいて、自分を愛してくれる人のために。

 そして、誰よりも―――こうして生きている、自分のために。


 季節は、冬。
 もうすぐ、慎二と出会って7度目の“あの日”がやってくる。

――― "24-s ―二十四季・24のストーリー ―" / END ―――  
2006.2.24  


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