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  Escape - HAL side -

 ―――まぁた、行方不明やし。
 教室の中をぐるりと見渡した木村は、そこに、探し求めている姿がないとわかると、大きな大きな溜め息をついた。
 廊下の方を振り向き、モジモジとしている下級生の女の子に済まなそうな顔を向ける。彼女がセーラー服のリボンに押し付けるようにして持っているのは、多分、昨晩眠らずに書いたであろうラブレター。それを証明するかのように、彼女の目はうさぎのように真っ赤になっていた。
 「ごめん。おらへんわ」
 「…そうですか」
 あからさまなほどガッカリした様子に、自分のことではないのに、木村は妙に罪悪感を覚える。何故なら木村は、今教室にいない人物がどこにいるのか、大体想像がついているから。
 「放課後、すぐに来れば、会えますか?」
 諦めきれないのか、彼女はそう食い下がる。でも、正直、来られてもまた面倒なことになるだけだ。3年は既に部活動からは引退している。受験まであと1ヶ月を切った時期なので、大半の者は授業が終わるとすぐ塾へ行くなり自宅に帰るなりしてしまう。それは木村も同じだ。彼がどうなのかは、ちょっと微妙だが。
 「どうやろね。僕ら、受験近いし。…あの、何なら、僕からあいつに手渡すよ、それ。ええと、名前…は、書いてあるな。何年何組?」
 「…2の3です」
 「りょーかい。ほんなら、2年3組のコバヤシさんが持ってきたって言うとくわ」
 さあ、そいつをよこせ、と言わんばかりに、手を差し出す。すると、彼女の方もそれが得策と判断したのか、仕方なさそうにラブレターらしき封書を木村の手に託した。
 ―――ごめんなあ、コバヤシさん…。これ、あいつが読むことは、多分一生ないと思うわ。
 少しうな垂れ気味に去っていく彼女の後姿を見送りつつ、木村は心の中で手を合わせた。

 彼が今居る所を教えれば、もしくはそこへ彼女を案内すれば、話は早いのだろう。
 でも、それは、できない。
 木村だけは、知っているから―――そこが、彼にとって唯一、心穏やかに過ごせる場所だということを。

***

 屋上へと出るドアの前には、これ見よがしに「立入禁止」の立て札が立っている。
 木村は、慣れた様子でその立て札の脇をすり抜けると、もう随分前から鍵が壊れたままの鉄製のドアを、静かに開けた。途端、薄暗い階段の踊り場に、真冬の冷たい空気と目を細めたくなるほどの白い光がさしこむ。
 …さて。今日はどこいら辺にいるのやら。
 広い屋上全体を見回すと、ほどなく、白いスニーカーが見えた。立てた膝の上に足を乗せる、という独特のスタイルで、それが誰なのかすぐわかった。
 「成田!」
 素早くドアを閉め、そう声をかける。が、工事用のものらしき黄色と黒のストライプ柄したコーンの向こう側に覗いている足は、ピクリとも動かない。まぁ、それも、いつものことだ。
 「なーりーたー…」
 受け取ったラブレターをひらひらさせながら、コーンの向こう側を覗き込む。
 そこには、ただいま熟睡中の、成田瑞樹の姿。
 「…お前、寝とる時は、ほんま子供みたいやな…」
 頭の後ろで手を組み、それを枕に天を仰いでいる瑞樹は、15歳にしては幼い、と思える程に、あどけない顔に見えた。木村自身が、どちらかと言うと年齢より上に見られることの多い顔だちなので、余計そう感じるのかもしれないが。
 瑞樹の隣に回りこみ、よいしょ、と腰を降ろした木村は、食べかけだったあんぱんをポケットから引っ張り出して、一口頬ばった。
 「全くなぁ…。このがきんちょ姿見ても、コバヤシさんは“そういう子供っぽいところも素敵っ”とか言うんやろなぁ…。恋は盲目っちゅーからな」
 口をもぐもぐさせながら、誰に言うともなく、そうぼやく。
 「どうせみんな、こいつのこと、“クールで大人でキレる奴”って思ってんのやろなー…。うちの母ちゃんよか綺麗にオムレツ焼くこいつの姿とか、うちの犬とキャッチボールして遊んどる姿とか、ホンマ、見せてやりたいわ」
 ―――まぁ、頼まれても、見してやらんけどな。
 そう、心の中だけでつけ加える。
 そういう、素になった瑞樹を知っているのは、木村だけだ。それは木村にとって、ちょっとした優越感でもあるのだ。

 

 木村は、極々平凡な生徒である。
 体は中学生にしては大きめで、既に175センチに達している。肩幅も広く、顎もしっかりしているので、初対面の人間は大抵高校生と見間違える。こういう体格だと、ラグビーだの柔道だのといった部活をやっていそうに見られるのだが、実は木村は、見た目に全然そぐわない「園芸部」の部員だったりする。毎日登校時と下校時、中学校のグラウンドの一角に設けられた花壇や菜園の管理・運営を行っている。つい先日、受験勉強が大詰めになったために2年生にその地位を譲るまでは、1年生の後半からこれまで、ずっと部長だったのだ。
 成績は中の上、運動はまあまあ得意な方。バレンタインデーには、下級生から毎年2個か3個はチョコレートが貰えるけど、それは同じ園芸部の女の子のみ―――彼の良さをよく知っている女の子だけ。だから、貰うチョコレートは、どれもこれも超のつく程真面目で真剣なチョコである。常識レベルで女の子に興味がある木村ではあるが、その真剣さには、ちょっと引く。つまり、彼の好みの子からは、あまり告白されないという、不幸なめぐり合わせなのだ。
 「いいよなぁ、お前みたいなの」
 2月14日が来るたびに、彼の親友であるところの成田瑞樹は、思いがたっぷり詰まったチョコを手に困り果てている木村を見て、無表情なままにそう呟く。
 かく言う彼の手には、数えるのが面倒になる位のチョコレートがある。クラスメイトからは、まず、ない。他のクラスや下級生、以前は上級生からも多かった。つまり、彼をよく知らない女の子からだけ。
 バスケ部のエースともなれば、その肩書きだけで、結構なファンがついてしまう。野球部と違って丸刈りもないし、柔道部と違って体格もスリムだから、まぁ仕方ないのだろうが。でも、それを抜きにしても、彼は、かなりもてる。もっとも、学校一もてる訳ではない。上から3番目4番目の地位―――誰もがキャーキャー言うのではなく、一部の女子の間でひそかに人気がある、というタイプだ。
 そういう、本物志向な木村と、部分的スターな瑞樹が、何故か友達になってしまった。
 元々、瑞樹には友達がいなかった。学区割の関係上、同じ小学校から上がってくる生徒が極端に少ないのがその原因の大半だが、彼が元来、無口で無愛想なタイプであることも大きな理由だろう。そんな彼が、木村と仲良くなったのは、2人に「鳥」という共通するキーワードがあったからだ。
 瑞樹はカメラを趣味としていて、中でも鳥を撮るのが大好きだった。一方木村は、動物なら何でも好き。特に鳥は、図鑑を持たせれば朝から晩まで飽きずに眺めているようなタイプだ。ふとしたきっかけで、互いのそういう趣味を知った2人は、自然と仲良くなってしまった。
 部活も違う、性格も正反対、そんな2人だが、暇があれば昼休みのグラウンドでキャッチボールをし、日曜日の神戸港でのスナップ撮影に興じたりした。2人で鳥の姿を探しに行くと、辺りが暗くなっても気づかないことすらあったほどだ。

 あの頃は、全然、何も知らなかった。
 成田瑞樹という少年が抱えている、深い深い闇の部分のことを。
 それを木村が知ったのは、2年生に上がったばかりの、新学期―――初めて彼の家に招かれた時だ。

 そこに、よく話に登場していた「甘えんぼうの妹」は、既にいなかった。
 そして、一度としてその存在について語られることのなかった母親も…いなかった。
 「この前、やっと離婚したんだ」
 やっと、と、瑞樹は言った。なんでまた、とつい訊ねてしまったら、瑞樹は、今まで見たこともない程に冷たい目をして、嘲るような笑みを口元に浮かべた。
 「ま、一応、不倫ってやつ? 親父に泣いて縋って、その都度離婚の危機を回避してきたけど、とうとう捨てられたんだ。ハハ…ざまあみろ」
 「……」
 「…だから、女なんてキライだ」
 そう口にする瑞樹の顔に、木村は、何故か殺意に近いものを感じ、一瞬震えた。
 なんだろう、これは。
 単なる、不倫をしていた母親に対する嫌悪感では済まされないような、何か―――それが何なのかは、木村にもわからない。
 ただ、わかるのは、彼はどうしようもなく母親を憎んでいること。
 そして、そんな母親に、最愛の妹を託すしかなかった彼は、とても複雑な事情を抱えているに違いない、ということ。
 そして、彼が、恋愛というものに対して激しい嫌悪感を覚えていること―――彼からすれば、その感情は、テレビドラマや小説で頻繁に宣伝されているような、甘やかで切ない感情ではない。人を狂わせ、惑わせ、破滅させるだけの、愚かな感情なのだ。
 「…なぁ、お前、お前に言い寄ってきよる子たちのこと、どんな風に思ってる?」
 その日の最後に、そんなことを訊いてみた。
 その答えは、いたってシンプルだった。
 「最低な奴ら、って思ってる」
 歪んでいる―――物静かで大人びた奴、と思っていた瑞樹の、未成熟で奇妙に捻じ曲がった部分を垣間見て、木村はそう思った。
 そして、そんな風に歪んだ原因の多くは、おそらくその母親によるものだろう―――それを考えた時、仲の良い両親の間に生まれ、生意気な妹に辟易しながらもひたすら真っ直ぐに成長している自分は、酷く恵まれた人間のような気がして、なんだか申し訳なくなってしまった。

 以来、木村は、瑞樹が下級生やら上級生やらから呼び出しを食らうたび、あの日見た瑞樹の冷たい表情を思い出すようになった。
 表面上、いつも通りの無表情を貫いている瑞樹―――けれど、その奥では、きっとあの時垣間見せた激しい嫌悪感を覚えているのだろう。もうこいつの事は放っといてやってくれよ、と、黄色い歓声を上げるバスケ部ファンたちにも、つい眉をひそめてしまう。そっとしといてやってくれ。抱えている傷が癒えるまでは、と。

 だから、この場所のことも、誰にも言わない。
 ここでは瑞樹は、誰の視線も感じることなく、静かに眠りにつける。
 家族とも離れ、遠くから見つめる女の子たちからも離れ、彼をライバル視するクラスメイトからも、彼にレギュラーの座を奪われて歯噛みする先輩の目からも離れて、たったひとりきりになれる。

 

 「ええ天気やなぁ…」
 あんぱんを全て飲み込んだ木村は、冬の凍ったような冷たい空気を吸い込み、空を見上げた。
 と、その時、隣に寝ていた瑞樹が動く気配がした。
 「…んだよ、木村か…」
 酷く眠たげな声が、背中の方から聞こえる。木村は振り返り、まだ寝転がったまま目を擦っている瑞樹を見下ろして笑った。
 「僕以外に、ここに来る奴なんておるか?」
 「…いねーよな」
 ふあぁ、と欠伸をした瑞樹は、ちょっと伸びをすると、勢いをつけて起き上がった。
 眠気を覚ますためなのか、ぶるっと頭を振った瑞樹は、乱れた髪を掻き上げながら、まだ半開きの目を木村に向けた。
 「あと何分?」
 「10分。…成田、これ、預った」
 あまり気の乗らないムードで、先ほどの下級生から渡されたラブレターを差し出す。すると瑞樹は、それを軽く一瞥し、眉をひそめた。
 「受け取っちまったの?」
 「あまりにも思い詰めた顔しとったし、お前おらへんし、そのまま追い返すには忍びなくて」
 「…そっか。迷惑かけたな」
 ちょっと乱暴な仕草でラブレターを引ったくった瑞樹は、それを無造作に学生服のポケットに押し込んだ。
 こんな場面を、木村は何度も見ているが、そのラブレターがどうなったのか、その行く末を見届けたことは一度もない。想像できるのは、家で捨ててるか、誰にも読まれる心配のない焼却炉の中に放り込んでいるか―――そのどちらかだろう。学校のゴミ箱に捨てるほど、酷い奴ではないのだ。もっとも、しつこくて大嫌いな女の子からだと、平然と校内のごみ箱に目の前で捨てたりする部分もあるのだが。
 「午後から何だっけ」
 「国語の小テスト」
 「どうせまた、受験対策の長文読解だよな。うんざり…」
 「アホやなぁ。ホンマに受験まであと少しなんやから、苦手な部分こそやっとかなアカンやん」
 「そう言うお前は、明日の英語の小テスト、自信あるのかよ」
 「…これっぽっちも」
 そらみろ、という顔をした瑞樹は、よっ、と弾みをつけ、立ち上がった。
 髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜつつ、空を見上げる。独特な色合いをした髪が、太陽の光に透けて、不思議な色のグラデーションを作る。
 「あーあ…いい天気だよなー。写真撮りてー…」
 「ほんなら、放課後、神戸港行く? ヨーロッパかどっかの大きな船が入港しとる筈やし」
 木村の提案に、瑞樹が木村を見下ろす。そして、普段の彼らしくない、ふわりと柔らかな笑顔を見せた。

 こんな瑞樹を知っているのも、自分だけ。
 そのことに、木村はやっぱり、微かな優越感を感じるのだった。


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