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  Escape - rai side -

 それまで眠っていた翔子が、僅かに身じろいだ。
 単行本の文字を追うことに没頭していた由井も、それに気づき、慌てて顔を上げた。
 「辻さん…?」
 「―――ん…」
 眉を顰めた翔子は、目覚めようとする頭に抵抗するように、目元を手の甲で覆った。
 「まぶしい…」
 「目、覚めた?」
 「うん―――今、何時?」
 「もう4時近いよ。あ…保健の先生、呼んでくる。目を覚ましたら呼ぶように言われてたから」
 「うん。…ねぇ、蕾夏ちゃんは?」
 席を立ちかけた由井は、そのセリフに、動きを止めた。
 甘えたような、舌ったらずな声で、彼女を呼ぶ声。わかっている。これがこの2人の関係だって。けれど―――今までもずっと繰り返して来たそのセリフが、ここ1ヶ月ほど、どうしても我慢できなくなる瞬間がある。
 「…わかった。先生呼びに行った足で、探してくるから。辻さんはここで待ってなよ」
 言い慣れたセリフを由井が口にすると、翔子は、その美しい顔いっぱいの艶やかな笑みを浮かべ、小さく頷いてみせた。見る者の心をわし掴みにするような、魅惑的な笑顔―――それにすら、何故か、苛立つ。
 単行本をベッドの上に置いた由井は、翔子に曖昧な笑みを返すと、今度こそ立ち上がって保健室を出た。

***

 職員室に行って、養護の先生に声をかけた由井は、そのまま階段を駆け上がり、3階の一番奥の教室へと向かった。
 そこは、いわゆる「生徒会室」―――副会長である由井は、日頃よく出入りしている場所だが、生徒会の人間以外にとってはほとんど生活とは無関係な教室だ。
 音を立てないよう、静かに引き戸を引いた由井は、そっと中の様子を窺った。
 「藤井―――…?」
 予想通り、蕾夏は、そこにいた。
 一番窓際の席に座り、机に突っ伏すようにして、眠っている。机の上にボールペンとノートが無造作に置かれているところを見ると、また何か書こうとしている最中だったのかもしれない。嬉しいことや悲しいことがあると、蕾夏は時々、詩のような俳句のような、不思議な文章をノートに綴るから。
 由井は、足音を忍ばせて生徒会室の中に入り、蕾夏が目を覚まさないよう、ゆっくりと扉を閉めた。
 蕾夏が、校内で居眠りをするなんて、この教室以外では、まずない。でもそれは、緊張を強いられているからだ。蕾夏は、夜だって、ほとんど眠っていない。慢性的な寝不足だ。
 今、眠れるのであれば、ゆっくり眠らせてやりたい。由井はそう、思ったのだ。

 

 由井にとって、藤井蕾夏は、人生初めての“親友”だった。
 由井は、圧倒的に「大人しい少年」というタイプである。運動はあまり得意ではなく、昼休みも、他の生徒のように校庭に出てドッジボールなどに興じることはあまりなく、静かに本を読んでいることが多い。そういう生徒が由井ひとりだとは言わないが、そういうタイプは積極的な性格ではない場合が多く、必然的にひとりきりでいる方を選ぶ羽目になる。由井は、小学生の頃から、ずっとそんな少年だった。
 そんな彼には、中1の頃から、密かに憧れている女子生徒がいた。
 辻 翔子。隣のクラスの生徒で、由井とは違う小学校から上がって来た少女だった。
 頬も唇も肩の線も、全てが曲線で出来たような感じ。ふわふわとした柔らかそうなブラウンのポニーテールも、やっぱり優しい感じがする。だから、驚くほどに綺麗な顔立ちをしているのに、全く冷たい感じがしない。見ていて幸せな気分になる、美しい少女―――それが、辻 翔子だった。
 その翔子と2年で同じクラスになった時は、人知れずガッツポーズを作ったほどだった。実際、そういう男子生徒は多かったと思う。病弱で学校をよく休む彼女ではあるが、あれほどの美貌を持っているのだ。彼女を崇め奉っているのは、何も由井ひとりに限らない。
 そして、彼女と同じ教室に初めて足を踏み入れた時―――翔子の傍らにいる、全く見覚えのない少女に目を止めた由井は、一瞬、息を呑んだ。
 彼女は、笑っていた。
 翔子との会話の中で、よほど面白いことがあったのだろう。半ば目に涙を浮かべながら、あはは、と楽しそうに笑っていた。
 まるで、何も知らない子供のような、無邪気で純粋な笑顔。そろそろ異性の目なども意識して、取り澄ました笑顔が増えてくる同世代の女生徒の中にあって、その笑顔は酷く新鮮で、酷くピュアだった。
 その笑顔で、一瞬、翔子しか目に入らない由井の目を釘付けにした少女。それが、藤井蕾夏だった。

 同じ教室で数日間を過ごすうちに、由井の耳にも、見慣れない少女に関する情報はぽつぽつと入り始めた。
 見慣れないのは当然だった。蕾夏はずっとアメリカで育っていて、この春、帰国して、幼馴染の翔子がいるこの学校に転入したばかりだという。当然、英語はペラペラらしい。日本語と全然違う英語の文法に頭を混乱させている中学2年生の間に、その情報は羨望を伴って伝えられた。
 そもそも、蕾夏は、外見だけでもかなりの人の目を惹いた。
 光をも吸い込んでしまいそうな、真っ黒で真っ直ぐな長い髪。アメリカ育ちというプロフィールとは酷くミスマッチなその髪と絶妙なコントラストを描く、驚くほど真っ白な肌。白人の白さとはまた違う、光の粒子を集めたみたいな白さ。友人の原田が、茶化すように「ありゃあ“白雪姫”だね」と口笛を吹いてみせた。実際、その通りだと、由井も思ったほどだ。
 小柄な蕾夏は、比較的体格の良い翔子の傍にいると、その小ささが際立ってしまう。そのせいもあって、ひとりでいる時ほど、目立たない。とはいえ、5月にもなる頃には、クラスの中にもチラホラと、彼女の一挙手一投足に心をざわめかせる男子生徒が現れ始めた。そう―――かく言う由井も、実は、その一人だった。
 翔子は、絶対的な存在として心の中に居るけれど。
 それでも―――蕾夏のことは、気になる。外見とは違いむしろ中性的で、それ故に同性の中では浮いた存在になってしまっている蕾夏だが、楽しげに翔子と映画の話などをしている蕾夏を見ていると、何故か見ている由井の方まで笑顔になってしまうのだ。不思議な子だな、と、由井は遠くから、蕾夏のことを見ていた。

 たまたま、翔子がいない時、由井が友達に借りた映画“ウォー・ゲーム”のパンフレットがきっかけとなって、由井と蕾夏はあっという間に友達になった。
 自然と、由井と友達だった原田や小山とも、蕾夏は仲良くなった。付き合ってみると、いかにも海外育ちというか、びっくりする程自立心が強く、カラッとした性格であることがわかった。いい奴だなぁ、と、一瞬感じた恋心とは別の次元で、由井はどんどん蕾夏を好きになっていった。それは、原田や小山も同じだと、ずっと思っていた。
 でも、それは間違いだった。
 そのことに気づいたのは、夏休みの補習授業の時だった。

 「なぁ、由井。今度さ、俺と藤井との間、取り持ってくれないかな」
 隣の席の原田が、ひそひそ声で、そんなことを言ってきた。
 驚いた。まさか、いつも蕾夏と“スター・ウォーズ”ネタで盛り上がっている原田が、心の底ではそんなことを思っていたなんて。原田にとっても、蕾夏は性別を超えた大切な友達―――そう思っていたのに。
 「お前、そんな目で藤井のこと見てたのかよ」
 「なんだよ…お前だってそうだろ? 小山だってそうだよ」
 呆れたような顔をする原田に、由井の目は更に丸くなった。まさか、小山まで―――由井の丸い目は、直後、不機嫌そうに細められた。
 「オレはそんなんじゃないよ。藤井は大事な友達だ。そんな下心で友達やってる訳ないだろ」
 「…ふーん。そうなんだ。まぁいいけどさ。でも俺は、藤井とはただの友達で終わりたくないな。あんなに話してて楽しい女っていないし、見た目だって辻さんみたいな派手さはないけど、清楚じゃん。辻さんが大輪の薔薇だとしたら、藤井は…散り始めた時に見る夜桜みたい、っていうのかな。儚い感じで、でも、息を呑むみたいに綺麗な瞬間があってさ」
 それは、否定しない。でも―――…。
 由井は、不愉快だった。
 人一倍本を読む由井は、当然、恋愛小説の類もかなりの量読破している。実生活は別として、知識の上では、そこいらの中学生よりもずっと成熟した頭を持っている。
 遠くから見ているような恋ならば、悪くはない。蕾夏にはよく似合う。
 でも…原田のように、ただ見ているだけではなく“付き合う”ような恋愛の世界に、蕾夏を置きたいとは思わない。なんだか、嫌だ。理屈なんかじゃない。ただただ、嫌だった。
 「―――藤井には、好きな奴、いると思うけど」
 気がつくと、そんな嘘が、口をついてこぼれだしていた。
 「え…っ、だ、誰だよ」
 「…辻さんの、兄貴。大人だよ。医者目指してる超エリート」
 ―――なんでオレ、こんな嘘ついてるんだろう。
 本当かよ、詳しく話せ、と食い下がる原田を無視しつつ、由井の心臓は、意図せずついてしまった嘘に、極限までドキドキと音を立てていた。

 今なら、わかる。
 あれは、一種の独占欲―――蕾夏という友達に対する、独占欲だ。蕾夏に特定の彼氏ができてしまったら、もうこれまでのように気さくに接してはくれないかもしれない。その可能性に、由井は強い抵抗感を覚えたのだ。
 …いや、本当にそれだけだろうか? その事を考える時、いつも、自分で自分の気持ちに混乱を覚える。
 でも、どんな気持ちがそこに隠れていようとも―――蕾夏は、かけがえのない友達だ。男とか女とか、そんなこととは関係なく。

 間違いなく、そうだった。
 ―――「あの日」までは。

 

 薄く開いた窓から吹き込んだ風で、蕾夏の髪が、一筋、フワリと靡いた。
 その髪が、こちらに向けられた蕾夏の顔にかかるように、落ちる。くすぐったいのか、蕾夏は僅かに身じろいだ。蕾夏の寝顔を見下ろしていた由井は、それに気づき、落ちてしまった髪を指でつまんで、そっとはらった。
 途端。
 蕾夏の肩が、ビクリ、と緊張する。
 「―――…っ!」
 唐突に眠りから目覚めた蕾夏は、はっとしたように顔を上げ、強張った顔で由井を見上げた。―――その手に、無意識のうちに、机の上に転がっていたボールペンをきつく握り締めて。

 こんな表情、多分、由井か翔子しか知らないだろう。
 他の人間に言っても、まず信じはしないだろう―――あの蕾夏が、こんな風に殺気と恐怖心を露にして身構えるなんて。
 「あの日」から、蕾夏の中に芽生えてしまったもの―――それが、蕾夏に、こんな表情をさせる。普段通りの藤井蕾夏の仮面を外すと、そこに隠れているのは、この表情なのだ。

 「…あ…、なんだ、由井君…」
 自分の髪に触れたのが、一番信頼している友人であると気づいた蕾夏は、その緊張を解き、手にしていたボールペンを放した。
 何事もなかったかのように微笑んだ由井は、そんな蕾夏の頭にポン、と手を乗せた。
 「―――辻さん、目を覚ましたよ。藤井のこと呼んでる」
 「あ、ほんと? どう、少しは顔色良くなってた?」
 「もうすっかり元気だった。全く…いつまでも藤井を頼っちゃダメだって言ってるのに…」
 つい愚痴ってしまうと、蕾夏は困ったような笑みを見せた。
 「そんなこと言わないで。翔子ちゃんも、心細いんだよ、きっと。ついこの前も、酷い発作起こして救急車で運ばれたばっかりだし…」
 「…まあ、そうだけどさ…」
 「あーあ、よく寝た。…さ、帰ろっ」
 まだ続きそうな由井の苦言を遮るように、蕾夏はいささか唐突にそう言うと、さっと立ち上がって、筆記具を鞄にしまい始めた。その後姿を見ながら、由井は複雑な心境になった。


 もし、今目の前に立っていたのが、自分ではなく、「あいつ」だったとしたら。
 蕾夏は、手にしたそのボールペンを、自分に触れた「あいつ」の手の甲に突き立てていただろうか?


 毎夜訪れる、悪夢―――それを見ることは、由井にはできない。でも、どんな夢が彼女を苛んでいるのかは、想像に難くない。
 そしてまた、由井も、悪夢を見ている―――今、この瞬間も。

 かつて、由井の目を奪った、蕾夏のあの笑顔。
 あの笑顔が、蕾夏の顔から完全に消え果ててから、既に3ヶ月の月日が経とうとしていた。


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