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  だれもしらない - rai side -

 今日は解放の日だ―――蕾夏はそう、思った。
 卒業式とは、級友と別れるセンチメンタルな気持ちに浸りきる日だと考えていたが、こと、自分に関しては違うのだと、当日を迎えてみて嫌というほどに実感した。
 今日は、長かった1年から解放される日―――明日からは、少しはマシな日々が待っている。


 「ねーねー、藤井さんもサイン帳に書いてよ」
 クラスメイトの一人が、そう言って市販のサイン帳を蕾夏に手渡してきた。
 3年になっても、蕾夏はやっぱり同性の中では浮き気味ではあった。けれど、蕾夏だってそれなりに学習する。彼女らとの距離の取り方は、2年生の時より数段上手くなっていた。結果、こうして卒業記念の言葉を求められる位には友好的な態度をとってもらえるようになったのだ。
 渡されたサイン帳のページの右下には、小さな字で「ふじい」と書いてある。どうやらこのクラスメイトは、クラス全員分のページを予め決めているらしい。蕾夏のページの右隣のページには、案の定、「つじ」と書かれていた。やっぱり自分達はセットと認識されてるんだな、と思い、蕾夏はクスリと笑った。
 「サイン帳って、何書けばいいの?」
 「んーと、イラストでもいいし、プロフィールでもいいし…。この前に何人か書いてもらってるから、それ見てよ。あ、終わったら、辻さんに回してね。よろしくー」
 友達とのお喋りに忙しいらしい彼女は、そう言い残して、女の子の輪の中へと戻って行った。
 ―――イラストなんて、描けないよ…。
 そういう特技でもあれば、簡単にページが埋まるのだろうが―――仕方なく蕾夏は、他のクラスメイトの書いたものを参考にしようと、数ページ前を開いてみた。
 女の子は、可愛らしい動物の絵や、いかにも少女漫画という絵を入れているケースが多いようだ。男の子の方は、でかでかと「めでたい!」とか「祝・卒業」とか書いているものが多くて笑えた。こういう誤魔化し方もあるよなぁ、と妙に納得しながらページをめくった蕾夏は、自分の2ページ前のページを見て、その手を一瞬止めた。
 メッセージもプロフィールも、当然イラストもないページ。ただど真ん中に、意外な程達筆な字で、フルネームが記されているだけのページ。
 微かに微笑んでいた蕾夏の口元から、笑みが消える。

 ―――見たくなかった。

 それでも蕾夏は、表面上は何も感じなかったようなふりをして、静かにサイン帳を閉じた。

***

 「翔子…いい加減、泣き止みなよ…」
 「うっうっ、だってぇ…」
 卒業式も終わり、最後のホームルームが終わってもなお泣き止まない翔子の頭を、蕾夏は宥めるように撫でた。
 もうほとんどの卒業生は帰宅の途についている。蕾夏たちにしたって、既に教室は出て、正門の辺りまでは出てきている。それでも翔子の涙は止まらず、今も蕾夏の胸に縋るようにして泣き続けているのだ。
 「ほんっとに、女の子ってよく泣くよなぁ…」
 呆れたように言う由井に、蕾夏は苦笑を返した。
 「しょうがないよ。女の子の方が、感情の起伏が激しいんだもの」
 「そう?」
 「そう思わない? 翔子だけじゃないよ。クラスの女子の半分は泣いてたじゃない」
 それ以外の女子生徒も、泣いてはいないにしても、結構神妙な面持ちでいた。その中にあって、終始ニコニコと笑顔でいる蕾夏は、ちょっと周囲の目には異様に映ったかもしれない。
 「にしたってさぁ―――辻がこんなに泣き虫とは知らなかったよなぁ」
 ほらほら泣き止め、と翔子の頭をつんつんと小突きながら、由井はちょっと疲れたような顔をした。
 由井の気持ちも分からなくはない。実はこの後、卒業祝いを3人で辻家でやることにしているのだ。翔子が泣き止まない限り、家に帰れない。早く帰ってぱーっと騒ぎたい由井の気持ちは、多分、今の蕾夏の気持ちに近いだろう。卒業式は悲しくない。嬉しい―――それは、蕾夏にとっても、由井にとっても同じ。
 「私が普通なのよ。蕾夏も由井君もクールすぎるのっ」
 ハンカチで目を押さえながら、翔子はそう言って軽く2人を睨んだ。そんな翔子に、蕾夏と由井は、困ったように顔を見合わせる。
 「そう言われても…オレも藤井も、辻と同じ高校行くしさあ…」
 「それでも“卒業式”って響きだけで、なんだか胸がキューンとするじゃない。由井君てば、デリカシーないっ」
 「そ、そんなことないってっ」
 そんな2人の会話に、蕾夏はほのかに温かい感情を覚えた。
 1年前の由井と翔子では考えられないような、“友達”らしい気さくな会話―――蕾夏は、それぞれの親友として、由井の恋を応援している。こうして気さくに会話する2人を見ていると、そんな日が来るのもそう遠くはないのかもしれない、と思えて、自然と口元が綻んでしまうのだった。

 「あー、いたいた! 藤井ー! 由井ー!」
 とその時、正門のところで固まっている3人を見つけて、遠くから誰かが声をかけてきた。
 猛ダッシュといった勢いで走ってきたのは、友人の原田と小山だった。
 「あっ、辻さんもいる。何、まだ泣き止んでないの?」
 卒業証書の入った筒を振り回しながら、小山が珍しいものでも見るような目で翔子を見る。すると翔子は、不愉快そうに眉を顰め、顔を背けてハンカチを目に当ててしまった。兄である正孝を「理想の男性」としている翔子からすると、小山のような賑やかで子供っぽいタイプは、断然苦手なタイプなのだ。
 「…ごめん、小山君。翔子にそのキャラは向いてないみたい」
 「がーん。藤井、最後まで厳しすぎ!」
 「あはは、ごめん。2人共、もう帰るの?」
 「帰るよー。ほら、原田も、別れを惜しまなきゃ」
 少し距離を置いて立っている原田に、小山は意味深な笑みを向ける。それに気づいた由井の眉が、警戒するようにひそめられた。
 そんな由井の表情の変化に、蕾夏も少し身構える。彼がこんな顔をする時は、蕾夏を危険から庇おうとする時だと、過去の経験から分かっているから。
 一方の原田は、そんな2人の変化に気づかず、ちょっと照れたような笑みを浮かべて、一歩進み出た。
 「高校、同じとこ受けれなくて残念だったけど―――2年間、ありがとう」
 そう言って差し出された右手に、蕾夏はちょっと戸惑った顔をした。
 原田や小山とは、3年になってクラスが分かれてしまった。けれど、蕾夏たちのクラスを挟んで両隣のクラスに分かれたということもあり、昼休みや放課後には蕾夏たちのクラスに遊びに来て、2年の時のように映画や音楽の話で盛り上がったりした仲だ。決して楽しかったとは言えない中学生活だったが、彼らがいたことで、少しは楽しいと感じる時間が持てたと思う。
 彼らは、何も知らない―――だからこそ、変に気を遣わずに、楽しめる。そのことが救いだった。
 「…うん。私も、2年間ありがとう」
 そう言って微笑み、蕾夏はゆっくりと手を差し出し、原田と握手をした。
 小山と比べると大人びたタイプだった原田だが、照れまくって頭を掻く姿は、隣に立って愉快そうに笑う小山よりも子供っぽい。蕾夏もその様子に、ちょっと吹き出しそうになった。
 「原田ぁ、握手だけにしとけよ? 感極まって抱きついたりしたら、またえらい騒ぎになるからさぁ」
 おどけたような小山のセリフに、蕾夏の笑みが凍りかけた。
 「バカっ、余計なこと言うなよ」
 由井が即座に小山の頭をコツンと叩く。ごめん、と舌を出す小山に、蕾夏は何ともないような笑みを返し、極自然な感じで原田の手を離した。
 空いている手は、今も宥めるように翔子の頭に乗せている。きっと翔子には伝わってしまっているだろう―――蕾夏の手の、微かな震えが。
 「…あ。ごめん。私、忘れ物しちゃった」
 いささか唐突にそう言った蕾夏は、翔子の体を軽く押して、体を引いた。キョトンとした目を男子生徒3名と翔子に向けられ、蕾夏は、すっかり板についてしまった、本音を誤魔化すための笑みを浮かべた。
 「やだな、最後までうっかりしちゃってて。すぐ戻るから―――ここで待ってて?」
 にこやかにそう告げる蕾夏に、誰も反論はしなかった。蕾夏は、学生鞄を由井に託すと、校舎の方へと走り出した。

***

 蕾夏は、教室には戻っていなかった。
 蕾夏の本当の目的は、校舎の裏側に回ったところにある、中庭―――蕾夏は、正門からは見えない場所まで来ると、その歩みをゆるめ、そっと校舎の裏側へと回った。
 渡り廊下を横切ると、そこは、1、2年生の校舎と3年生の校舎の間に設けられた、ちょっとした中庭。そしてそこには、1本の桜の木が植えられている。
 この学校に転入して以来、蕾夏はこの桜の木が大好きだった。辛かったり苦しかったりすると、季節に関係なく、この桜の木に抱きつき、エネルギーを貰ってきた。
 桜の木に対するお別れは、数日前に既にしていたけれど―――もう一度、会っておきたいと思ったのだ。今、ちょっと辛いことを思い出してしまったから、余計に。
 「…こんにちは」
 ふわっと柔らかい笑みを浮かべた蕾夏は、ほぼ満開に近い桜の枝ぶりを見上げ、小さく声をかけた。
 ピンクというよりは白に近い桜の花びらは、春先の風に吹かれても1枚も落ちてこない。儚げに見える桜の花だが、実は満開になるまでは雨に打たれても散らない程強いのだと、父から聞いた。やっぱり桜の木は、強い生命だ―――蕾夏は、尊敬と憧れの想いを持って、間近から桜の木を眺め続けた。


 2年生の2月頃だっただろうか。小山がふざけて抱きついてきて、酷い“発作”を起こしてしまったのは。
 訳が分からなかった。
 体の奥底から冷たいものがせり上がってきて、心臓は暴れ、脂汗が背中を伝った。背中の傷跡が、まるで今切り裂かれたかのように鋭く熱く痛んだ。気づけば蕾夏は、大きな悲鳴を上げ、自分で自分の腕を抱いて床の上にうずくまって震えていた。
 呆気にとられるクラスメイト達を、由井や翔子がどう誤魔化したのか、蕾夏は知らない。そんなことを考える余裕も、あの頃の自分にはなかった。
 弱い―――由井に、翔子に、辻に支えられて、やっと立っているような、弱い自分。あの頃より、今の自分は少しは強くなっただろうか? …そうであると、信じたい。

 「―――うん…、大丈夫…」
 桜の幹にコツン、と頭をもたせかけ、蕾夏はぽつりと呟いた。
 きっと、大丈夫。
 この先―――もっとずっと、強くなりたい。由井にも翔子にも、そして辻にも、もう頼りたくはない。一人でちゃんと立てるようになりたい。きっと、大丈夫―――きっと、なれる。
 目を閉じ、そう自分に言い聞かせた蕾夏は、決意を新たに目を開けた。


 途端。
 視界に入った人影に、心臓がドクン、と大きな音を立て、止まった。

 ―――な…んで…。
 唇が、震える。
 何故、こんなタイミングで会ってしまうのか。
 あれから1年と数ヶ月、同じ教室に、彼はいた。3年のクラス替えでも同じクラスになったときは、神様を呪いたくなった。それでも耐えて来られたのは、日々、視界から彼の姿を追い出していたからだ。
 なのに―――最後の最後で、目が合ってしまうなんて。

 渡り廊下で足を止めた彼は、蕾夏と目が合った途端、顔を強張らせた。
 剃刀のように鋭い目が、僅かに丸くなる。彼にとっても、この偶然は歓迎すべきものではなかっただろう―――それを証明するように、直後、彼の顔が苦しげに歪められた。
 「―――…」
 何故か、目を逸らしたら負けだと思った。
 互いに一言も発しないまま、見つめ合う。桜の木の幹に添えられた蕾夏の指先が、無意識のうちにその幹をひっかく。硬い桜の木に爪を立てれば痛みを伴う筈だが、その痛みすら、その瞬間は感じなかった。
 校舎の谷間を吹き抜ける風が、蕾夏の髪をいたずらに乱す。顔にかかってしまったそれを、蕾夏が手ではらう。それを合図にしたように、彼の方が目を逸らした。
 彼は一見、無表情に見える。けれど―――蕾夏が知る普段の彼は、こんなにきつく唇を引き結んではいなかった。

 ―――佐野、君。

 何故か、心の中で、ずっと口にしていない名前を呼ぶ。
 けれど、彼は逸らした目を戻そうとはせず、そのまま、蕾夏とは反対方向へと歩き去ってしまった。


 遠ざかっていく佐野の背中を少し見送った蕾夏は、小さく息を吐き出すと、また、満開の桜の木を見上げた。

 蕾夏がこの時、どんなことを思って桜の花を見つめていたのか―――それは、だれも、知らない。


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