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  異邦人 - rai side -

 図書委員である由井は、時々こんな会話を偶然耳にしてしまう。

 「藤井っていいよなぁ…」
 「お前もそう思う? あの笑顔がいいよなぁ。見てて癒される感じがする」
 ―――あんなもんじゃないんだけどな…藤井の本物の笑顔って。
 貸し出しカードを整理しながら、心の中でそう呟く。
 図書室の隅っこでぼそぼそと喋っているのは、蕾夏のクラスメイト3名だ。そのうちの2人が、蕾夏に興味があるらしい。誰もが知っている「藤井さんの親友」がここに居るのには気づいていないようだ。
 「そうかなぁ。なんか俺、ちょっと苦手かも」
 もう1人がそんな事を言う。
 「なんで?」
 「いや、いつもニコニコしてるけどさ。笑顔で相手とさりげなく距離を置いてる気がして」
 おや、と思い、由井は顔を上げてその言葉の主の顔を確認した。
 見覚えのある顔だ。確か蕾夏のクラスの委員長だったと記憶している。「勉強が出来るって言うより、駆け足が速いタイプの子だよ」と蕾夏が言っていたが、確かにそういうタイプに見える。
 ―――ふーん、勘のいい奴なんだな。
 由井は、ちょっと眉をひそめている彼の顔を、興味を持って眺めた。
 「そうかぁ? 森島、考えすぎなんじゃない?」
 「だよな。超清純派って感じだし、素直で気さくで、そんなややこしい態度取るような子じゃないよ」
 「ダメダメ、森島は3組の辻さんみたいな華やか系美人が好みだから、藤井の良さがわかんないんだよ」
 翔子の名前が出て、さすがに由井もドキッとする。
 ―――うまくいかないもんだなぁ…。
 今度映画に誘ってみようかなぁ、などと盛り上がる2人を前に、なんだか浮かない顔をしている森島を眺めながら、由井は複雑な心境だった。
 蕾夏に全く興味なさそうな森島が、蕾夏には一番、合うんじゃないか―――何故か、そんな気がして。

 一番好きな女の子は、翔子。けれど――― 一番大切な女の子は、蕾夏。
 そんな矛盾した自分の気持ちにも、由井はそろそろ、慣れてきていた。


***


 数メートル先に見える小さな背中に、森島は足を止めた。
 肘のあたりまである、真っ直ぐな黒髪。後姿でも、すぐに誰だか分かった。午後の最後の授業で使った地図資料を運んでいるらしいが、5本もある上1本1本が結構大きいので、運ぶのに苦労しているのは明らかだ。
 「藤井」
 森島が声をかけると、なんとか体勢を立て直そうと四苦八苦していた蕾夏が、くるんと首を回した。
 「あ、森島君」
 「さっきの地図だろ。なんで藤井が運んでるの」
 「今日の日直、私と鈴木君だから。鈴木君、部活忙しそうだから、私が運ぶことにしたの」
 「藤井一人じゃ無理だよ。貸して。俺も運ぶから」
 「えっ、大丈夫だよ」
 と言っているそばから、蕾夏の手に余ってしまった地図がスルリと抜け落ちて、廊下に転がった。
 「きゃーっ、やだっ!」
 「…ほらみろ」
 呆れた顔をした森島は、転がってしまった地図を拾い上げ、ついでに蕾夏が持っている地図のうち1本だけを残して、残りを全部強制的にその腕から奪い取った。大丈夫、という言葉とは正反対な結果に、蕾夏は済まなそうな顔をした。
 「…ごめんね」
 「いいから、早く運んじゃおう。どこ?」
 「資料室だって」
 声をかけてよかった。資料室は3階だ。蕾夏の体格では、これだけの荷物を持って階段を上がるなんて無茶だ。森島は、蕾夏と並んで、放課後の廊下を歩き出した。
 初めて肩を並べて歩く蕾夏は、日頃遠くから見て認識しているよりも、意外と背丈があった。あらゆるパーツが小さく出来ているので、実際の背丈より小さく映っていたらしい。隣のクラスにいるアイドル・辻 翔子も多分この位の背丈だろうが、親友同士でもある翔子と蕾夏が並んでいると、間違いなく蕾夏の方が小さく見えた。
 「森島君って、身長いくつ?」
 視線を感じて隣を見ると、蕾夏がじっと森島を見上げていた。真っ黒な瞳でじっと見られると、さすがにドギマギする。森島は、慌てたような早口で答えた。
 「えっと…170ないよ、まだ。167か8か、そこいら」
 「ふーん。10センチしか違わないのか―――そんなに大きな差なのかなぁ、10センチって」
 「え?」
 「だって、楽々持ってるじゃない。私が抱えきれてなかった地図」
 「…まぁ、仕方ないんじゃない? 背が違えば、腕の長さも違うだろうし、まず筋力が違うしさ、男と女じゃ」
 「―――そうだよね」
 なんだか落ち込んだような顔をして、蕾夏はまた前を向いてしまった。自分に持てなかった荷物が森島には軽々持てたことが悔しいのだろうか? よくわからない。
 変な子だよなぁ―――若干視線を下げ気味にして歩く蕾夏の横顔を見ながら、森島は内心、首を傾げた。
 「そう言えば森島君、“インディ・ジョーンズ”のシリーズって観た?」
 沈黙が苦手なのか、蕾夏はすぐに顔を上げ、そんな話を振ってきた。
 「一応観た。今年3作目だろ?」
 「うん。でもあのシリーズって変だよね。普通、1作目より2作目の方が後の話でしょ? なのに、逆なんだもん。1作目の“レイダース”に出てくるインディが一番おじさんなんだって。今年の“最後の聖戦”のインディが一番若いの」
 「…変だね。確かに。演じてるハリソン・フォードはどんどん歳食ってくのに、実際にはどんどん若い役やってるのか」
 「ねー。なんでそんな変な設定にしたんだろう」
 小さな笑い声を立てる蕾夏に、森島も笑った。
 蕾夏と親しい友人たちから、蕾夏の映画好きについてはちょくちょく聞かされていたが、その話から受けていた印象以上に蕾夏は映画が好きらしい。資料室までの道のりの間、蕾夏は、今年公開された映画の裏話について、柔らかな笑みを浮かべたまま、楽しげに語って聞かせてくれた。そこそこ映画を観る森島にとっても、それはなかなか興味深くて面白い話で、地図の重たさも忘れて話している間に、資料室に着いてしまった。
 両手の塞がっている森島に代わり、蕾夏がドアを開けようとしたが、直後、その表情が曇る。
 「あれ? 鍵かかってる」
 「えっ」
 いつもなら、学生がいる時間帯は鍵が開いている筈だ。多分、社会科の教師が、この地図を出す時に無意識のうちに鍵をかけてしまったのだろう。森島は軽く舌打ちした。
 「俺、職員室行って取って来るよ。藤井、悪いけどこれ、見張っててくれる?」
 抱えていた地図を、資料室の横の壁にせっせと立てかけながら森島が言うと、蕾夏はニッコリ微笑んで「うん、わかった」と答えた。
 「ごめんね、森島君の仕事じゃないのに」
 「別に藤井の仕事でもないじゃん」
 それに俺、足速いしね、と言い足して、森島は職員室へと走り出した。


 ―――なんだ。やっぱりあいつらが言う通り、俺の考えすぎなのかもしれないな。
 階段を駆け下りながら、森島はそう考えて、くすっと笑った。
 初めて二人きりで話をしてみた蕾夏は、本当に気さくで、楽しそうで、素直な感じのする女の子だった。のびのびしてて、おおらかで―――友人たちが語った通りの人物像だった。

 じゃあ、単なる勘違いだったのだろうか。
 時々彼女に、見えない“壁”のようなものを感じていたのは。

 蕾夏が一人きりでいるシーンを、森島はこれまでに何度か目撃している。
 ぼんやりと外の景色などを眺める蕾夏は、なんだか不思議な存在に見えた。まるで、外国人が一人、日本人の集団に混じってしまったような感じ―――帰国子女だという話を聞いて、ああそのせいか、と勝手に納得していたが、それは、それだけでは説明のつかないような浮き方だった。そこだけが、異世界―――学校の一角に居ながらにして、全然違う世界に足を踏み入れているみたいな、妙な感じ。
 だから、友達と談笑している蕾夏を見ても、その姿を思い出して、なんとなく違和感を感じていたのだ。
 あの不思議なムードを醸し出している蕾夏が、本当の蕾夏だとしたら―――クラスメイトにもの凄く気を遣ってるんではないだろうか、と。あの笑顔は、本当の自分を隠すための仮面なんじゃないか、と。

 根拠も何もない、単なる直感―――そんなもので、蕾夏をなんとなく苦手と思っていた自分を、森島はちょっと恥ずかしくなった。

***

 資料室の鍵を手に戻ってきてみると、そこに蕾夏はいなかった。
 資料室のドアの横には、森島が置いた地図のほかに、蕾夏が抱えていた地図も置かれていた。どこへ行ったのだろう―――森島は、ぐるりと辺りを見回した。
 そして、資料室の隣の教室の中に、その姿を見つけた。

 誰もいなくなった教室の窓際に、蕾夏はいた。
 彼女は、窓を開け放ち、そこからまるで卵でも包み込んでるみたいな形に合わせた両手を、その窓際に少し差し出している。どうやら手の中に、何かを閉じ込めているらしい。
 森島からは、蕾夏の横顔しか確認できない。でもその顔は、今まで森島が見たことがない表情を浮かべていた。穏やかな顔―――何の“壁”も感じさせない、柔らかで、自然な笑顔。
 「もう、大丈夫」
 手のひらの中の物にそんな言葉をかけた蕾夏は、その手を引き寄せ、指の辺りにそっとキスをした。
 窓から射す午後の光が、逆光となって蕾夏を映し出す。大事な雛でも守るようにした手に、目を閉じて唇を寄せる蕾夏は、まるで映画のワンシーンのように見えた。
 思わず、息を呑む―――なんだか、全てがスローモーションになったように見えて。
 「…もう二度と、迷い込んじゃダメだよ。綺麗な羽根が見つかったら、きっと誰かが捕まえちゃうから…」
 そう呟いた蕾夏は、直後、窓から手を差し出し、ぱっと手を開いた。
 蕾夏の手の中から、何かが飛び出し、空に舞った。鮮やかな青い羽根をした蝶―――アオスジアゲハだ。
 アオスジアゲハは、しばし別れを惜しむみたいに蕾夏の目の前に浮いていたが、やがて秋の空へと舞い上がり、飛び去った。それを見送る蕾夏の笑顔を見た時―――森島は、呼吸が止まりそうになった。

 全身が、優しい光に包まれてしまったみたいな、透明でキラキラと光る、笑顔。
 いつもの蕾夏の静かで優しげな笑顔ではない、原石のような無垢で純粋な笑顔。絶対、クラスメイトの前では見せない類の笑顔だ。これは。
 こんな笑顔、見たことがない。
 こんな笑顔ができるのは、生まれたばかりの赤ん坊か、天使だけだ。蕾夏の正体が実は天使だと言われたら、今の森島なら信じてしまうかもしれない。そう思うほど、その笑顔は衝撃的だった。

 足元がふらつき、ドアにぶつかる。がたん、と音を立てたら、驚いたように蕾夏がこちらを見た。
 うわ、まずった―――森島がそう思った瞬間、蕾夏の笑顔は、一瞬にして消えていた。
 気まずい空気が、2人の間に流れる。距離にして、ほんの2、3メートル―――けれど、何故かひどく遠くに蕾夏がいるように感じられる。
 「…あ、あの…」
 思わず、手を伸ばす。
 すると蕾夏は、微かに怯えたような表情をして、さっと顔を背けた。
 黒髪が、蕾夏の動きに少し遅れてついていく。蕾夏は、身を翻すと、森島がいるのとは別のドアから、その教室を出て行ってしまった。
 廊下を走り去る、パタパタという足音が、背後から聞こえる。けれど、それを確かめる気には、森島にはなれなかった。ただ呆然と、蕾夏がいた窓際を眺め続けるだけだった。


 ―――もう二度と、迷い込んじゃダメだよ。
 綺麗な羽根が見つかったら、きっと誰かが捕まえちゃうから―――…。


 逃げたのは、羽根をもがれるのを恐れた天使。
 そんな気がして、森島は、一歩も動くことができなかったのだ。


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