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  秘密。 - HAL side -

 「…なぁ。あの子、ずっとついて来てると思わへん?」
 「え?」
 下校途中、木村にそう言われ、瑞樹は後ろを振り返った。
 振り返って、ぎょっとした。
 瑞樹と木村の背後20メートル程の所をトコトコと歩いているのは、ジーンズのオーバーオールを着た3歳児。瑞樹が振り返ったのに気づくと、もの凄く嬉しそうに笑った。
 「にーちゃ」
 「……」
 ―――なんでここにいるんだよ…。
 頭が痛くなってくる。思わずガクリとうな垂れる瑞樹の隣で、木村が不思議そうな顔をした。
 「なんや、成田、あんなちっこい弟おったんか」
 「…バカ、両親離婚してんのに、そんな訳あるか」
 「あ、そうか。ありえへんか。じゃ、何?」
 「知り合いの子供」
 「ふーん。“知り合い”なぁ。まさかお前の子とは違うわな。ハハハハハ」
 「…殺すぞ」
 ギッ、と瑞樹が睨むと、木村の笑いがピタリと止まった。
 詳しく説明したら余計誤解を生みそうな気がするので、瑞樹はそれ以上の説明は避けた。大きな溜め息をひとつつき、ニコニコ笑う3歳児に手を差し出す。
 「…おいで。家まで連れてってやるから」

***

 「イズミ。お前、一体どうやって学校まで来たんだ」
 「ひとり〜」
 瑞樹と手を繋いで歩く3歳児・イズミは、最高レベルに上機嫌だ。しかも、質問と答えが微妙にずれている。
 「…歩いてきたのか?」
 「バス〜」
 「…あっそ」
 確かに、学校の正門の目の前にバス停があるにはある。が、こんな子供がひとりでバスに乗って来たとは思えない。また誰か見知らぬ大人に頼んだな、と察し、瑞樹は少し目を吊り上げた。
 「お前な。知らない大人についてくな、って、何度も何度も言ってるだろ。それに、ママはどうした」
 「台所〜」
 家、とか店、じゃなく、台所という返答が妙だが、まぁいい。とっとと送り届けて、さっさと帰ることにしよう。瑞樹はそう決め、もう何も訊かずに歩くことにした。
 ところが、瑞樹が黙ってしまうと、今度はイズミの方が喋り出す。
 「にーちゃ。きょうね、ぼくね、みかちゃんとちゅーしたの」
 「…はぁ?」
 「みかちゃんが、ぼくの頭カッコイイって。それでね、ちゅーしたの」
 ―――なんじゃそりゃ。
 瑞樹は“みかちゃん”を知らない。が、“ちゅーした”が何なのかは、分かる。イズミの頭がカッコイイとは、おそらくこのメッシュを入れたような2色の髪のことだろう。どういう遺伝子の悪戯なのか、イズミの髪は、全体が暗い茶色なのに、ところどころ金色の束が混じっている。最近は子供の髪を染めてしまう親もいるらしいが、イズミもそんな風に見えたのかもしれない。つまり、幼児にしてはオシャレなのだ。
 しかし…髪を褒められたことと“ちゅーした”のとが、どうも繋がらない。どうせ質問しても、意味不明な言葉しか返ってこないので、瑞樹は黙って話を聞き流した。
 「でも、ママ、きっと怒るから、ぜったいナイショね」
 「…なんで怒るんだよ」
 「ママとしかちゅーしないって約束したから」
 「…はいはい」

 左手に学生鞄、右手にイズミ、という状態で、30分ほどの道程を歩く。
 その間、イズミはずっと“みかちゃん”の話をしていた。それにしてもませた子供だ。3歳児なのに話題が全部女の子のこととは。
 ―――まぁ、大人ばっかりに囲まれて育ってるからな、こいつ…。
 イズミの自宅を前に、瑞樹はちょっと眉根を寄せた。
 イズミの祖母が経営するスナックの裏手にある、古いアパートの2階。それが、イズミの家。三ノ宮の繁華街のど真ん中にあるそのアパートは、瑞樹の両親が離婚する少し前から、瑞樹も時々訪れたことがある部屋だ。いつ来ても、すぐ近所にあるパチンコ店の呼び込みの声が部屋の中にまで入り込んできて、かなりうるさかった。もっとも、当時の瑞樹には、その喧騒が必要だったのだが…。
 「にーちゃも一緒にくるの」
 「あとは階段上がるだけだろ」
 「だめー。一緒にくるのっ」
 言い出したら絶対きかない。ぐいぐいと手を引っ張るイズミに負けて、瑞樹は仕方なく2階へ上がった。

***

 …騙された。
 一歩、部屋の中に足を踏み入れた瞬間に、瑞樹はそれを察した。
 「よかったねー、イズミ。お兄ちゃんがお誕生日祝いしてくれて」
 「うんっ」
 ―――してねーだろっ! てめーらが勝手に俺をここに連れ込んだんじゃねーかっ!
 と叫びたいのを我慢して、瑞樹は憮然とした表情のまま、小さな食卓の傍らに胡座をかいた。
 食卓の上には、とびきり甘そうなバースデーケーキと、鶏の唐揚げに、シーザーサラダ。ケーキの上にはろうそくが3本立っていて、波打ったような字で“Happy Birthday”とチョコレートで書かれている。
 すっかり忘れていたが、今日は、イズミの誕生日だ。
 「…俺を嵌めるとは、いい根性してるな、お前ら」
 調子の外れた“Happy birthday to you”を歌い終えた親子を睨む。
 「仕方ないじゃない。イズミ、誕生日プレゼント何がいいか訊いたら、“にーちゃとパーティーがしたい”って言うんだもの。成田君、普通に招待したって絶対来ないでしょ」
 イズミの母・舞が、そう言って平然とケーキを切り分ける。その隣で、イズミはフォーク片手に、まだ歌を歌っていた。
 「ママー、今日ぼく、にーちゃと一緒に寝るのー」
 「そう、良かったねー」
 「勝手に決めるなっ!」
 「はい、成田君の分のケーキ」
 甘い物は一切食べられない瑞樹の目の前に、真っ白なケーキが置かれる。それをじっと見つめた瑞樹は、疲れ果てた表情で「いらねぇ」と呟いた。


 舞は、瑞樹の2つ年上。中学時代の先輩にあたる。
 つまり、舞はまだ20歳―――いや、誕生日が来てないから、まだ19歳。17歳の誕生日を目前に控えてイズミを出産した、筋金入りのシングルマザーである。
 舞は、昼はファーストフード店で働き、夜は母親が経営するスナックを手伝って、女手ひとつでイズミを育てている。その事情を知ると、大半の人間が「イズミの父親は何をしてるんだ」と憤る。
 しかし、イズミの父親に何かを期待することはできない。何故なら―――イズミの父親が誰なのか、舞本人にも分からないからだ。
 当時、家庭的にあまり恵まれなかった舞は、その寂しさから、いろんな男性と関係を持った。舞と瑞樹との間にも、一度だけそんな事があった。が、その一度きりだ。
 瑞樹は舞にとって、体の関係なしに付き合っていけるたった1人の異性だった。子供が出来たと分かった時、イズミの父親の可能性がある男たちではなく瑞樹に相談をしたのは、舞にとって瑞樹が“特別”だからだろう。
 そんな経緯もあり、また“イズミ”という名前をつけたのが自分だということもあって、瑞樹は今でも、時折この未熟な親子の様子を見にこの家を訪れる。女性に囲まれているから、男性が珍しいのだろう。イズミはやたら、瑞樹に興味を覚え、妙に懐いた。そう―――いきなり、瑞樹が通う高校の前に姿を現してしまうほどに。

 「にーちゃ。ミニカー壊れた」
 食後、ミニカーを畳の上で走らせていたイズミが、半分泣きそうな声で訴えた。
 「…分かった。貸せ」
 ―――もう帰りたいんだけどなぁ…。
 午後7時。イズミは8時には寝かしつけられる習慣らしいので、あと1時間の辛抱だ。瑞樹は、タイヤが取れてしまったミニカーを受け取り、黙々と修理し始めた。
 瑞樹の分もケーキを平らげたイズミは、ちょっと眠そうな顔をして、瑞樹の手元をずっと見ていた。が、ふいに目をしっかりと見開くと、イズミは膝歩きで瑞樹の方へとにじり寄った。
 「ねぇ、にーちゃ」
 「何だ」
 「ママのこと、好き?」
 イズミのひそひそ声に、瑞樹は顔を上げ、思い切り眉を顰めた。
 「なんだそりゃ」
 「ママとちゅーしたいって思う?」
 台所で片付け物をしている舞には絶対に聞かせたくないのか、イズミは極力瑞樹に近寄って囁く。その目は、今日3歳になったばかりとはいえ、思わず姿勢を正したくなる程、真剣だ。
 「なんでそんな事訊くんだ」
 「ママはにーちゃが好きなんだ。絶対そうだよ」
 「……」
 「僕もにーちゃが大好きだ。だから、にーちゃもここに住めばいいのにって思う」
 「…そっか」
 子供は子供なりに、いろいろ悩んでるらしい。特にイズミは、大人の中で育って、頭だけは早熟だ。喋り始めるのも早かった。普通の3歳児が悩まないような悩みを、この小さな体の中に抱えているかもしれない。
 自分が3歳の時なんて、あまり覚えていない。
 覚えているのは強烈な出来事だけ―――叩かれた記憶とか、泣き止まない妹と2人、子供部屋に押し込められた記憶だけ。あの頃の自分は、どれだけの事を考えるだけの力を持っていただろう? …きっと、一生懸命考えているつもりで、その実、ほとんど何も考えられなかったのではないかと思う。
 でも、だからと言って、子供の言葉を軽んじてはいけない。嘘をついても仕方ないので、瑞樹は正直に答えた。
 「俺は、イズミのママのこと、嫌いではないけど―――イズミがみかちゃんを好きだって思うみたいには好きじゃない」
 「……」
 「意味、わかるか」
 「…うん」
 自分の願いが叶わないと悟り、イズミの大きな目が、ちょっと悲しげに潤んだ。ガッカリしたように俯いてしまうイズミに、瑞樹はその金色が混じった髪をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
 「ごめんな」
 頭を撫でられたまま、イズミはぶんぶんと首を振った。
 「にーちゃ。これも、ナイショにしてね」
 掠れた声で、イズミが呟く。舞には、自分の願いを知られたくないらしい。
 本当に―――たった3歳でも、いろいろ、難しいことを考えるのだ。子供というものは。
 「…わかった。約束する」
 俯くイズミの目の前に小指を差し出すと、イズミは無言で、その小さな小指を瑞樹の指に絡めた。
 イズミも、指きりは知っていたらしい。絡めた指を何度か上下させたイズミは、途中を丸ごと省略して「…針千本飲〜ますっ」とだけ言った。

***

 30分後、イズミは、タイヤの直ったミニカーを抱いて、すーすーと静かな寝息を立てていた。
 このチャンスを逃す手はない。瑞樹は、イズミを起こさないように、ブレザーを羽織って学生鞄を掴んだ。
 「ごめんね、成田君。騙すような真似して」
 玄関先まで見送りに出てきた舞は、珍しく済まなそうな顔で苦笑していた。
 「…まぁ、誕生日だし。でも、イズミひとりであんな所まで来させるのはどうかと思う」
 「あたしが行かせた訳じゃないわよ。イズミが自分で行っちゃったの。本当に好きなのよ、成田君が」
 舞の言葉に、さっきのイズミの内緒の話を思い出して、一瞬、言葉に詰まる。
 そんな瑞樹をじっと見上げた舞は、ゆっくりと目を逸らすと、彼女らしくない気弱な声で告げた。
 「本当はね―――あの子、誕生日プレゼント、何がいい? って訊いたら…最初、“お父さん”って答えたの」
 「―――…」
 「困っちゃう。そんなもの欲しがられても、デパートで買って来る訳にもいかないじゃない」
 クスッと笑った舞だったが、直後、その目元が悲しげに細められた。
 「あたしだけじゃ、足りないのかな…」
 「―――別に…そんなんじゃないだろ。自分が“父親”知らねーから、憧れるだけで」
 瑞樹自身にも、覚えがある。昔よく遊びに行った友達の家の母親は、妹の海晴のためにいつもクッキーを焼いてくれた。ああ、あんなお母さんていいな、と、密かにその友達を羨ましく思った時期もあった。…もっとも、瑞樹の場合、そんな感傷は小学校入学のはるかに前に、完全に捨て去っていたが。
 「かもね。…でも、さすがにへこむなぁ…。こんな時、誰か寄りかかる人が欲しくなる」
 「…いるだろ。その気になりゃ、いくらでも」
 「―――残酷ね、相変わらず」
 疲れたような笑みを浮かべてそう呟いた舞は、小さく溜め息をつき、瑞樹を見上げた。
 「…ねぇ。キスしていい?」
 「……」
 「それ以上は、今更期待しない。…お願い。今、本当に苦しい―――限界なの」
 舞の言葉に、困ったように眉をひそめた瑞樹だったが、舞の縋るような目に負けて、軽く頷いた。


 知っている―――彼女が、ずっと欲しがっていたもの。
 知っていて、瑞樹は絶対、それを与えない。彼女には渡すことができない。どうしても。
 だって、心が動かないから。
 舞に限らない。誰に対しても、心が動かない。ずっと死んでいる―――どんな感情も。
 期待を持たせて落胆させるよりは、期待すら持たせない方がマシだと思う。だから、残酷と言われようが、冷たいと言われようが、優しさは極力あげたくない。誰に対しても。
 こうしてここに来るのも、舞に僅かながらも期待を持たせてしまう行為かもしれない。それでも、イズミに請われるとつい来てしまうのは、実は瑞樹の身勝手のせいだ。

 空いてしまったこの腕が、寒いから。
 ずっと守ってきたものが居なくなった、この腕が、寒い。誰かを守りたい―――そんな自分の庇護欲を満たすために、イズミを利用しているに等しい。イズミが自分を慕っているのをいいことに。

 本当は、探さなくてはいけないのだ。瑞樹自身が抱きしめたいと思える相手を。
 でも―――そんな存在が、本当に見つかるんだろうか?


 背伸びしてきた舞の唇が、軽く触れ、離れる。
 こんな時、他の男なら、何を感じるのだろう―――瑞樹が感じるのは、欲しくないものを与えられた、曖昧な嫌悪感だけだ。
 「…イズミには、内緒にしてね。あたしの、こんな弱い顔」
 きまりが悪そうに笑う舞に、瑞樹も、微かな笑みで応えた。


 縋りつく手は払いのける癖に、恋愛なんてバカげてると軽蔑している癖に、抱きしめる相手を必要としている―――そんな、矛盾した顔を持つ、自分。
 舞が弱い顔を隠しているように、瑞樹もまた、無表情の奥にそんな顔を隠し持っていた。


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