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「翔子、大丈夫? 鞄持とうか」
蕾夏が心配げに顔を覗きこむと、翔子は微かに微笑み、小さく首を振った。
「大丈夫。前ほど酷くないもの」
その言葉を証明するように、翔子の頬は、気分が悪いと言って保健室へ行った時に比べると、うっすら桜色に染まって元気良く見えた。それを見て、心配そうだった蕾夏の顔も、ホッとしたように笑顔になった。
「あー…、暑いねぇ」
セーラー服の襟にかかる髪を後ろにはらった蕾夏は、手をうちわ代わりにして、喉元を扇いだ。
夏は、嫌い。体を取り巻く熱気に、体力が吸い取られていく気がする。高校に上がって随分体が丈夫になった翔子が、こんな風に久々に倒れてしまったのも、きっとこの暑さのせいだ。早く秋にならないかな、と、蕾夏は秋のあの凛とした空気に思いを馳せた。
「蕾夏、今日、寄ってくでしょ?」
「え? あ、うん」
2年になって、蕾夏は翔子と同じクラスになった。今日の数学の授業で、ひどく頭の痛い宿題が出されてしまったので、数学が得意な翔子と一緒にやらせてもらおうと思っていたのだ。
「英語のテスト対策に協力するから、数学の宿題に力貸して欲しいなー、と思ってるんだけど―――なんか、予定あった?」
翔子が、ちょっと浮かない表情をしているのが気になって、蕾夏は、半歩下がって歩く翔子を振り返った。すると翔子は、言おうかどうしようか迷っているように視線を泳がせた。
「…何? 何かあったの?」
「―――うん…どうしようかな。今日、まーちゃんいるし、今喋っておかないと、チャンスないかも」
「何なの?」
まーちゃんいるし、という言葉に、ちょっと気が重くなりながらも、蕾夏は先を促した。
まだ迷っているような顔の翔子だが、やはり話したほうがいいと思ったらしく、やっと視線を蕾夏に据えた。
「…あのね。実は今日、蕾夏が保健室来る前に、由井君が来たの」
「うん」
「それで、あの…つまり、ね。…告白、されちゃったの」
消え入るような声。蕾夏は、一瞬キョトンと目を丸くした後、その小さな声の意味を理解して、久々と言える程の輝くような笑顔を見せた。
「そ―――そうなんだ! うわー、そうなんだ、やっと由井君、一歩踏み出したんだ」
「蕾夏、知ってたの?」
「うん」
「酷い。教えてくれたらよかったのに」
「そんな訳にはいかないよ。親友同士の約束だもん。…で? 翔子は、どう答えたの?」
当然、そう訊ねる。すると翔子は、蕾夏から視線を逸らし、ぽつんと呟くように答えた。
「…何も答えてない」
「―――えっ」
思わず、足が止まった。
どういう意味、という風に眉をひそめる蕾夏に、翔子も足を止め、ちょっとだけ目を上げた。
「…というより、答えようがなかったの。だって由井君、“オレは辻が好きだから、それだけ覚えてて”って―――それだけ言って、出てっちゃったんだもの」
「……」
―――由井君…どうしてそういうややこしい真似を…。
頭が痛くなってくる。彼がシャイであることは十分蕾夏も知っているが、告白までしておいて、返事を聞かずに逃げたのでは、ただ気まずくなるだけではないか。
「でも―――ちょっと、ホッとしてる。何かちゃんと返事しなきゃいけないんだったら、私、困るもの」
「…そっか」
困る、ということは、由井が翔子を想うようには、翔子は由井を想えない、ということだ。蕾夏は、少し気落ちしたように視線を落とし、また正面に向き直ってゆっくり歩き出した。
翔子もそれに倣い、蕾夏の斜め後ろを歩き出したが、暫し後、また口を開いた。
「―――蕾夏は、私と由井君が付き合うようになればいいと思ってる?」
妙に真剣な翔子の声に、思わず振り返る。
「…え?」
翔子は、まるで蕾夏の本音を探るような目をして、蕾夏を見つめていた。綺麗な眉を僅かに顰め、瞬きすらせずに、一瞬たりとも蕾夏の心の変化を見逃すまいとしているかのように。
「私が…私が、由井君と付き合うようになれば―――そうしたら、蕾夏は…」
「…私が、何??」
言わんとする所が分からず、眉をひそめる。そんな蕾夏の反応に、翔子は、ホッとしたような、でもどこか落胆したような複雑な表情になり、また視線を地面に落としてしまった。
「―――ううん。なんでもないの」
「……」
「この話、まーちゃんには内緒にしといてね」
翔子はそう言うと、蕾夏の顔を見ずに、その肩に触れそうな位近くを追い抜いて行った。
まるで、付け足すみたいに慌しく告げられた、最後のセリフ。その一言に、蕾夏は、翔子が言わんとしたことを見た気がした。
“―――もし私が由井君と付き合うようになったら、蕾夏は、まーちゃんと…”
あり得ないことなのに―――蕾夏は、ちょっと疲れたような溜め息をつき、翔子の後に続いた。
***
階下からピアノの音が流れてくる。
翔子のピアノのレッスンが始まったらしい。
「―――だから、この証明問題の場合、この公式を使わせるのが出題目的と相場が決まってるんだ。それをとりあえず頭に叩き込んでおけば、そっち方向に向かってコツコツ計算を積み重ねればいいだろ?」
正孝の指が、参考書のあちこちを指す。それを目で追いながら、蕾夏は眉根を寄せた。
「……」
「…わかるかな」
シャープペンをテーブルの上に転がして、蕾夏はノートに突っ伏した。
「―――ダメだ…私には数学の才能がゼロみたい」
「…うーん…2年生になってから、急激に苦手になったよなぁ、数学」
「頭が拒否するんだもの。授業中も、脳が“さぁ眠れ”って命令出すし」
「仕方ないね。じゃあ、翔子が戻ってから、改めてやろうか」
苦笑した正孝は、参考書を閉じて眼鏡を外した。
せっかく淹れた紅茶が、かなり冷めてしまっている。蕾夏はむくりと顔を上げると、溜め息と共にティーカップに手を伸ばした。
翔子が弾くピアノの音をBGMに紅茶を飲めば、神経がほっと緩む。今練習しているのは、何という曲だろう? 蕾夏の知らないメロディが、ゆったりしたテンポで流れてゆく。
思わず、欠伸が洩れる。口元を手で覆った蕾夏は、視線を感じ、正孝に目を向けた。
正孝は、ティーカップを片手にしたまま、うっすら微笑んで蕾夏を眺めていた。
「…何?」
「いや。随分、リラックスしてるな、と思って」
「んー…、昨日、あまり眠ってないからかなぁ」
「翔子来るまで、眠っててもいいよ。僕は本でも読んでるし」
そう言った正孝は、床に転がっていた巨大なクッションを蕾夏に放った。
受け取った蕾夏は、座高と同じ位の大きさのそれを胸に抱え込むと、そこに頭を乗せるような格好になった。制服を着ていて床に寝転がれない時の、蕾夏のお決まりのポーズだ。クッションを抱きしめながら正孝を眺めていたら、彼は、ライティングデスクの上に置いていた単行本を手に取り、栞を挟んだ部分を開いて、読み始めてしまった。
こんな時間は、とても、心地良い。
何をするでもなく、それぞれ、好き勝手にこの空間を漂う。こんな時間は、ずっとこうしていたい位に、心地良い。
「あの日」以来、この正孝の部屋は、蕾夏が唯一ほっと息抜きができる場所になった。日頃つけている“藤井蕾夏”の仮面を取り、素の自分に戻れる場所―――守ってもらえるんだ、ここは安全なんだ、という気持ちが、蕾夏を眠りに誘ってくれる。
「…ああ、そうだ。藤井さん」
半分、眠りに落ちかけていた蕾夏は、正孝の声に、眠たげに顔を上げた。
「夏休み、予定は立てた?」
「えー…。ううん、別に…」
「どこか行きたい所があれば、連れてってあげるよ。車も出せるし、結構遠出が出来ると思うから」
「行きたい所かぁ…」
ぼんやりした思考の中、いくつかの景色を思い浮かべた蕾夏は、ふと昔の思い出が甦り、口元を綻ばせた。
「そういえばさ。私が10歳かそこらの時、辻さん、夏休みの間中、うちにホームステイに来たよね。“初めての一人きりの海外旅行だー”って言って」
「ああ…、あったね」
「あの時、後から翔子やおばさん達も来て、辻さんと翔子と私の3人だけで、夜の国立公園に星見に行ったよね。あれ、楽しかったなぁ…。一晩で流れ星3つも見たし」
「…僕は、胃が痛くなったけどね」
思い出に顔を綻ばせる蕾夏とは対照的に、正孝は思い出に眉を顰めた。
当時高校生だった正孝は、子供2人を連れての夜歩きに、もし悪い奴らに2人をさらわれたりしたらどうしよう、と、始終気を張っていたのだ。家に帰り着いた途端、神経性胃炎が限界に達してその場にぶっ倒れてしまったほどに。
「あはは、確かに、辻さんにはあんまり楽しくない思い出かな」
「星は綺麗だったけどね。…何、藤井さんは、星見に行きたいの?」
「ううん、別に。ただ、空気のいい所だったら、翔子の体にもいいかな、と思っただけ。私はどこでもいいよ。辻さんと翔子で決めて」
当然のようにそう蕾夏が言うと、正孝の顔から、微笑が消えた。
突然の正孝の変化に、蕾夏は少し目を丸くし、クッションに預けていた頭を起こした。一方の正孝は、少し硬い表情で蕾夏を凝視していたが、やがて小さく息を吐き出し、手にしてた単行本をパタンと閉じた。
「…僕は、藤井さんを連れてく話をしてただけで、翔子の話はしてないよ」
「―――…」
胸に、チクリと、針で刺したような痛みを覚える。
最近、時々感じる痛み―――それを感じた瞬間に、この部屋も「自分を守ってくれる安全な場所」ではなくなってしまう。蕾夏は、丸くしていた目を、ちょっと悲しげに細め、俯いた。
「翔子の療養のためなら、今年も家族で那須に行く予定になってるし。…僕は、藤井さんの気分転換のために、藤井さんをどこかのんびり過ごせる所に連れて行きたいと思ったんだ。日頃、ずっと気を張ってるから…」
「……」
「…それとも、翔子も由井君も抜きで、僕と2人で遠出するなんて、藤井さんには考えられない…?」
―――お願い、やめて。
耐え切れず、目を伏せた。
わかってる。正孝が欲しがっているものは、もう、とっくに気づいている。
あげられるなら、どれだけ楽だろう。けれど…蕾夏には、それを正孝にあげることはできない。
いや、正孝に限らない。誰に対してもそうだ。育むことができる感情は、仲間や友人としての“好き”だけ―――正孝が望むような感情は、どうしても生まれてこない。
それなのに―――正孝が求めていて、自分はそれに応えられないと分かっているのに、それでもまだこの部屋に来てしまうのは、自分の弱さのせいと、正孝に対する罪悪感のせいだ。
他に、何もできないから。
正孝に散々救われておきながら、いざ正孝に必要とされた時、自分には何もしてあげられないから。
だから、せめてこうして、何にも気づいていないフリをして、一緒にいる“時間”を正孝にあげることで、その罪悪感を誤魔化している。
こんな風に、少しでも彼の本音を垣間見てしまえば、途端に拒否感で一杯になる癖に。
かつては縋っていたその手を、今すぐ振り払いたくなってしまう程、彼を“男”として求めることは出来ない癖に。
「―――ごめん。つまらないこと言って」
辛そうに俯いてしまった蕾夏に、正孝は、力なくそう呟いた。
蕾夏は、俯いたまま、何度か首を横に振った。正孝は、悪くない―――彼は、努力している。“男”ではなく、“親友の兄”、“幼馴染”として接しようと、常に努力している。それでも、微かに感じるものに怯えてしまう自分がいけないのだ―――そう思いながら。
「…ねえ。もっと前みたいに、翔子を優先してあげて」
「―――…」
「辻さんが私の心配ばかりするから、翔子、寂しがってると思う。…翔子が行きたい所に行こう? 由井君も誘って、4人で」
「…うん…そうだね」
正孝は、穏やかな声でそう相槌を打ってくれた。それを聞いて、蕾夏も少しだけホッとできた。
ちょうどそのタイミングで、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。はっとして顔を上げると、部屋のドアがカチャリと開いて、翔子が入ってきた。
「お待たせ。宿題、できちゃった?」
にこやかに言う翔子に、蕾夏は苦笑を返した。
「全然ダメ。眠くなる一方だから、夏休みの計画立ててたの。由井君も誘って、4人で遠出するのもいいね、って」
「ふぅん…。でも、由井君、誘っても来るかしら。まーちゃんと親しい訳じゃないのに」
やっぱり、今日告白されたことが引っかかっているのだろう。翔子にしては珍しく、そんなネガティブなことを言う。すると正孝が、思ってもみなかったセリフを口にした。
「大丈夫。由井君は、翔子が誘えば絶対来るよ」
「え」
蕾夏と翔子の声がダブる。
まさか話したの!? と眉を上げて睨んでくる翔子に、蕾夏は慌ててぶんぶん首を振った。
―――っていうか、翔子…由井君の気持ちに今まで気づいてなかったのって、多分、翔子だけだよ…。
日頃、蕾夏を「鈍い」と言ってはばからない翔子のあまりの鈍さに、蕾夏は呆れたような顔をしてしまった。
蕾夏が知る限り、3年。由井は、ずっとずっと、翔子を見ていた。
あまり接触のない正孝ですら気づいた程に、翔子を見る由井の目は、いつもとても愛しげで、憧れに満ちていた。
由井は、強引に彼女を振り向かせようとはせず、その手で抱きしめたいと思える人が自分の存在に気づいてくれるまで、手を差し出したままずっと待っていた。そんな風に想ってもらえる翔子が、蕾夏はいつも、羨ましかった。
強くありたい。
誰の支えも必要としないほどに、強く生きていきたい。それが、蕾夏のポリシー。
でも―――時々、優しく抱きしめられて、穏やかにその甘さに陶酔したいと思う瞬間がある。
蕾夏にとって、日々は、とても生きづらいから―――時々、強く生きていくことが、酷く難しくなる。そんな時、誰かに抱きしめてもらいたくなる。…でも、そのことは、誰にも言っていない。
いつか自分にも、抱きしめて欲しいと思えるような人が現れるだろうか―――正孝の手を振り払う自分の残酷さに胸を痛めながら、蕾夏はそんなことを、ぼんやりと思った。
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