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受験勉強中、ウトウトしかけていた木村は、自室のドアを叩くドンドンドン、という音で目を覚ました。
「お兄ちゃん! 成田先輩から電話!」
「…んあー…」
1つ年下の妹の声に、木村は、眠い目を擦りながら立ち上がり、ふらふらと部屋を出た。
築20年の木造一戸建ての木製の階段は、活発な子供2人の十数年に渡る上り下りのせいで、普通に降りてもぎーぎー音をたてる。自分の足音に合わせて軋む階段の音を聞きながら、木村はだんだん目を覚ましていった。
階段下の電話は保留状態になっていて、「エリーゼのために」が受話器から微かに流れていた。木村は、保留解除ボタンを押し、受話器を握った。
「…ふぁい…」
『木村? なんだよその声』
瑞樹の声が、受話器から聞こえる。やたら背後がガヤガヤとうるさい。
「うう…、勉強してて、つい眠ってもーた…。何、今どこ?」
『東京』
「ふぇ?」
『時間ないんで、用件だけ言う。次の中から1つ選べ。鳩サブレ、雷おこし、人形焼、草加せんべい。どれだ?』
受話器を手にした木村は、一瞬、その質問内容に思考停止に追い込まれかけた。
パチパチ、と目を数度瞬き、ついで眉を顰める。頭の中には、鳩サブレと雷おこしと人形焼と草加せんべいが渦巻いていた。
「―――鳩サブレも捨て難いけど、人形焼」
『わかった』
直後、ガチャ、という音とともに、電話は切れた。
まだ、東京名物4品が頭の中をぐるぐる回ってる状態の木村の耳に、ツー、ツー、という音だけが響いた。
***
「受験土産だ」
翌日、学校で瑞樹がそう言って木村に突きつけてきたのは、どこから見ても鳩サブレだった。
「…人形焼やなかったんかい」
「重いからやめた」
「なら訊くなっ!」
「捨て難いっつったじゃん」
細かい事を言うな、としらっとした態度で言うと、瑞樹は腕時計を確認した。休み時間を利用して木村のクラスに来ているので、残り時間が気になるらしい。
「最近見かけへん思ったら、東京の大学受けとったんか」
鳩サブレを机の中に押し込みながら、木村は訊ねた。
受験日程が集中するこの時期、学校はあるものの、クラスメイト全員が揃うことは滅多にない。瑞樹とはクラスが違うが、それでも何日間も全然見かけないのは珍しい。風邪でもひいたか、と思っていたが、どうやら複数校受験するために、数日東京に滞在していたらしい。
「まぁな。都合1週間近く、東京暮らしだった」
「何校?」
「国立入れて、3つ」
「ひえー…」
ホテル暮らしをしながらひたすら試験を受ける生活を想像し、ゾッとして自らの二の腕あたりをさすった。木村は地元しか受けないから、そんな生活とは無縁だ。一応進学校の部類に入る高校なので、瑞樹のような生徒は結構多い。大変やなぁ、と、同じ学校の生徒ながら、気の毒に思ってしまう。
「あ、そーや。時間あるんやったら、成田、今日の帰りにうちに来ぃへん?」
「え?」
「いよいよ小次郎、危ないらしい」
ちょっと眉をひそめてそう言うと、つられたように瑞樹も眉をひそめた。
「ほんとか」
「ああ。そんでな、お前に小次郎の写真撮って欲しいと思って。まだしっかり目ぇ開けとるし、今のうちに、な」
「…そっか。分かった。行く」
神妙な面持ちでそう答えた瑞樹は、少し心配げな目で、木村の目を見つめた。
「大丈夫か」
「…なぁに、平気平気。小次郎も、とっくに10歳越しとる。いい加減寿命やって、僕かて分かってるわ」
ハハハ、と軽い笑い声を立てながらも、木村の声はいまひとつ元気がない。
木村の本心は、瑞樹にも分かっているのだろう。下手に元気づける言葉をかけることもなく、瑞樹はポン、と木村の肩を叩き、自分のクラスへと戻っていった。
***
小次郎は、縁側で、半分うとうとしていた。
「小次郎、小次郎」
木村が軽くその背中を揺すると、ノロノロと目を開け、キュウ、と小さな泣き声をあげる。そしてそこに、自分の主人とその友人の姿を見つけて、一応尻尾を軽く振ってみせた。
「年食ったな…それなりに」
「そやろ。犬は人間と違って顔にあんまり出ぇへんから、分かり難いけどな」
間違いなく老犬の部類に入っている小次郎は、ここ1年、こうして寝て過ごす時間が少しずつ長くなってきていた。この冬になってからはそれがほぼ1日中になり、獣医からも春までもつかどうか、と言われている。瑞樹と初めて会った頃は、ボールを投げれば走って取りに行っていたものだが、今の小次郎にその面影はなかった。
「男前に撮ったってや」
ポンポン、と小次郎の背中を叩いてやって、木村は小次郎の傍から離れた。
縁側に丸まっている小次郎が、カメラを構えている瑞樹の方を「何が始まるんだろう」という顔をして見ている。興味が他に向いてしまわないうちに、瑞樹はシャッターを切った。
「何枚か撮っとくか」
「いや、1枚でええわ」
「…でも、もう1枚」
都合、瑞樹は、5枚ほどの小次郎の写真を撮った。
「犬にも表情があるからな。一番いい顔してるやつ、選べよ」
カメラから抜いたフィルムを木村に渡した瑞樹が、そう言って少し微笑む。
実は、小次郎が息を引き取った際には、専門業者を呼んで近頃流行りの「ペット葬」をすることになっているのだ。木村は、そういう儀式はあまり賛成できないが、木村より小次郎を可愛がっていた妹のたっての希望なのだ。貯めてきた小遣いを全部使ってでもやる、と言うので、木村も、両親も折れた。瑞樹に撮ってもらった写真も、そのためのものなのだ。
「俺がこっちいる間位は、なんとかもつかな…」
縁側に腰を降ろした瑞樹は、小次郎の首の辺りを撫でてやった。気持ち良さそうに目を閉じる小次郎を見て、木村も微笑む。
「そうやなぁ。もつとええけどな」
小次郎を挟んで反対側に腰を降ろした木村は、そう言って小次郎の頭を撫でた。そして、学校からここまで帰ってくる途中に聞いた話を思い出し、視線を小次郎から瑞樹に移した。
「なぁ、成田。さっきの話の続きやけどな」
「ん?」
「なんで英語科と英文科? そら、写真の専門学校行くとは思てへんかったけど、多少は関係ある方面を受けてると思っとったのに」
木村の質問に、瑞樹は僅かに表情を曇らせ、小次郎の寝顔に視線を戻してしまった。
これまで2人は、あまりお互いの進路について話をしてこなかった。
木村が福祉大学を希望しているのは、中学の頃から誰もが知っている事実だったので、今更言うまでもなかった。が、瑞樹の進路については、木村は何も知らずにいた。ただ、実力以上の高校にギリギリ合格した自分とは違い、瑞樹は余裕の成績で入った筈だから、どこか関西の名のある大学でも受けるのかな、と漠然と考えてはいた。そして、志望する学部は、きっと工学部に違いないと思っていた。
暇さえあればカメラを構えている瑞樹を、都合6年間見てきた。瑞樹に内緒で写真雑誌の公募に写真を送ってしまい、あわや大喧嘩になりそうになったこともあった。けれど、高校生ながら入選したところをみると、才能もそれなりにあるのではないかと、木村は思っている。
瑞樹は「プロになる気はない」と常に言っていたが、あれだけ好きな事なのだ。美術がてんで駄目な瑞樹なので美大は無理だろうが、写真工学などのある工学部を志望するだろう―――そう考えていたのだ。
ところが、事実は、木村の想像とはかけ離れていた。
瑞樹が志望したのは、全て英語科か英文科―――そして何故か、関西の大学には、1ヶ所も願書を出していない。
「…英語は、得意だしな。それに、大学行って何か学ぶんなら、どうせなら役立つもんがいい」
「役立つ?」
「言語は、役立つだろ。海外行った時とかに。物理も工学も、そっち方面に進まねーんなら役に立たない気がして、いまいち」
「うーん…なるほどなぁ。趣味より実用を取った訳や」
「お前と俺は違うってこと」
目を上げた瑞樹は、そう言ってクスリと笑った。
木村の夢は、中学の頃から一貫している。自然を守る仕事がしたい―――アバウトだが、そんな夢。日々の活動も、大学の進学も、全部その夢に向かうためのステップだ。確かに、瑞樹の選択とは、180度逆かもしれない。
「まぁ、ええわ。なんや勿体無い気ぃするけど、趣味で終わらせるからこそ楽しめるもんもあるんやろ。けどなぁ―――なんで地元を1つも受けてへんかなぁ」
納得のいかない部分第二弾。
大きく溜め息をついた木村は、がしがしと小次郎の頭を強く撫でた。迷惑そうに目を少し開けた小次郎に気づき、慌てて手を止める。そんな様子を見て、瑞樹は面白そうに笑った。
「たまたま志望校が関西になかったんか」
「いや。意図的に、外にした」
「なんでまた」
「なんで―――まぁ…一人暮らししたいから、かな」
「けど、お前んとこ、お前と親父さんの2人だけやんか」
「…2人だけだから、余計、出て行きたいんだよな」
意味が分からず眉を寄せる木村に、瑞樹は苦笑を返した。
「うちの親父、まだ40で、しかも結構もてるんだ。なのに…俺が同居してたら、やっぱりまずいだろ」
「まずいって…」
「再婚とかするならさ」
ああ、なるほど、と納得する。確かに、そうかもしれない。両親の離婚から、もう5年―――そういう可能性を瑞樹が考えるのも、当然のことだった。
「けど、気ぃ遣いすぎやない? 今、親父さんに特定の人おるんなら、まぁ分かるけど…」
「別に気を遣ってる訳じゃねーよ。それに…俺も結構迷惑なんだ」
「へっ?」
「俺と親父、瓜二つなんだよ」
瑞樹が、自分の鼻先を指さしてそう言う。
「ついでに、いまいち女に熱くなれねー性格まで似てる」
「それで?」
「…親父が、“子持ち”を理由に女と付き合うの断るだろ。すると、来る訳だ。その“子供”を確認しに、女どもが」
そのセリフに、木村の顔が、思わず引きつる。
ゾワゾワと、寒気が背中を襲った。
「―――…ああー…なんや、めちゃめちゃいやーな予感がしてきよった」
「その先、聞きたいか」
「…いや…やめとく」
「―――まぁ、そんな訳で、遠くへ行きたい」
そう言って小次郎の背中を軽く叩く瑞樹を、木村は気の毒そうな目で眺めた。彼の手相を見たら、間違いなく“女難の相”が出ているに違いない。
「それにしても―――あーあ、成田、神戸から出てくんやなぁ…。つまらん」
「つまらん?」
溜め息混じりな木村の言葉に、瑞樹が不思議そうな顔をする。
「何で」
「友達が地元におらんくなるのは、やっぱりつまらんやろ」
「そうか?」
サラリと。
もの凄くサラリとそう言われ、木村は「そらそーやろ」という言葉に詰まった。
―――いや、そら、泣いて別れを惜しめとまでは言わへんけどな…。
およそ何に対しても執着心というものがゼロな瑞樹だから、こういう反応も当然といえば当然かもしれない。が―――なんだか、自分だけが感傷に浸っているようで、ちょっと面白くない。
冷たい奴め、と憮然とした顔で木村が睨むと、それを見た瑞樹が、突然吹き出した。
「なっ、なんや、いきなりっ」
「いや…すげー分かりやすい顔すんな、と思って」
「は!?」
「寂しさ全開の顔」
―――むか。
事実なだけに、指摘されるとむっときてしまう。
「このレベルの寂しがり方は常識の範囲内や。成田のクールさの方が非常識とちがうか」
不貞腐れたような声で言う木村に、瑞樹は余計に可笑しそうに笑った。
「笑うな!」
「くくく…お、面白れー…。何、たかだか神戸と東京の距離位でうろたえてんだよ。森林伐採ストップさせるために、世界中飛び回る気でいるんだろ? 今からそんなでどうするよ」
「…そんな先の話されても、わからへん」
「俺は平気だよ」
まだ笑いを含んだ声でそう言い切り、瑞樹は小次郎の背中をまた軽く叩いた。
「木村とは多分、5年10年会わなくても、再会した時にまた同じように話せると思うから」
「……」
「四六時中一緒にいるだけが友達な訳じゃねーし。…お前には、そう思えない?」
―――あっさりと、何気に泣かせること、言わんといてくれるか。
今、むちゃくちゃ涙腺、弱ってんねんから。
老い先短い小次郎によって緩められた涙腺が、瑞樹の一言で暴走を始めそうな気がする。
でも、男が涙を見せるのは格好悪い、と思っている木村は、それを寸でのところで押し殺し、ぷいとそっぽを向いた。誰が見たって、泣きたいのを無理矢理我慢しているようにしか見えない顔で。そんな木村を、瑞樹はまだ面白そうに見ていた。
そして小次郎は、そんな2人の様子を、“まだまだガキやね”という目線で、細目を開けてずっと見ていたのだった。
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