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目の前できゅっ、と制服のスカーフを結ぶ翔子の姿を、由井は、どこか呆然とした表情で見上げていた。
いつもポニーテールにしている髪は、自分一人では結えないのか、そのまま肩に落としたままにするらしい。パーマもあてていないのにフワフワと波打つその髪を軽く整えると、翔子は学生鞄を手にし、由井を振り返った。
にっこり、と翔子が微笑むと、部屋の温度が一気に春になった気がする。なのに由井は、瞬間、嫌な感じの寒気を覚えた。
「じゃ、由井君。明日10時に、駅の改札ね」
「―――…」
「あ、そうだ。蕾夏も誘わない? 誘うなら私、帰りに蕾夏のとこ寄ってくけど…」
「い、いや、いい。オレ、電話するから」
「そう? じゃあ―――また、明日ね」
再度にっこりと笑うと、翔子は弾むような足取りで、由井の部屋を出て行った。
***
「なんかこう、パッとする俳優さんが出てない映画だったわよねぇ…」
蕾夏の手元にあるパンフレットを見ながら、翔子は眉をひそめた。
つい今しがた、3人で観て来た映画のタイトルは“羊たちの沈黙”。由井は、その映画の基となった“FBI心理分析官”の本がお気に入りだったし、蕾夏は、主演のジョディ・フォスターが以前扮していた役に、ちょっとした思い入れがあった。が、翔子には何もなかったので、ひたすら「怖い上に俳優陣が地味な映画」だったらしい。
「…まぁ、出てくる男性陣、全部おじさんだし…辻には向いてなかったかもな」
「主役の女の人も、あんまり綺麗じゃなかった。あ、キリッとしてて、カッコイイとは思ったけどね。…ああ、やっぱり食べきれない。由井君、食べる?」
多くのアレルギーを持つ翔子が今食べているのは、和風ドレッシングがかかったサラダだ。こうして友達同士でファミレスに入るようになったのはここ最近だが、翔子はサラダ以外口にしない。何が混じっているか、パッと見分からないからだ。
まだのんびりパスタを食べている蕾夏とは違い、由井は既にピラフを食べ終わっていた。翔子に、残り4分の1になったサラダを勧められた由井は、素直にそれを自分の前に引き寄せておいた。
「蕾夏、この後どうするの?」
レモンスカッシュに手を伸ばしてそう訊ねる翔子に、蕾夏はちょっと考えるように眉を寄せた。
「んー…、参考書買いに行きたいかなぁ。希望大学、まだ絞れてないから、そのガイドブックも欲しいかも」
「じゃあ、この後、本屋さんね?」
翔子はそう言って、バッグを手に立ち上がった。突然立ち上がったことにキョトンとする由井と蕾夏に、翔子は薔薇の花みたいな笑顔を返した。
「化粧室行きがてら、まーちゃんに電話してくるわ」
「そっか。行ってらっしゃい」
多分、食べたものの報告と、この後の予定を知らせるための電話なのだろう。そういう業務連絡をしに行くとは思えないほどウキウキした顔で歩き去る翔子の様子を、由井と蕾夏は、一応笑顔で見送った。
そして、翔子の姿が消えると同時に。
蕾夏の顔から笑顔が消えた。
「―――ちょっと、由井君っ」
フォークを投げ出した蕾夏は、周囲を気にして声をひそめ、向いの席に座る由井を軽く睨んだ。その理由を十分分かっている由井は、ちょっと済まなそうに首を竦めた。
「駄目じゃん、私なんか呼んじゃあ」
「…ごめん」
「これって、デートでしょ? デートになんで友達が付いてくるのっ。しかもこれまで3時間半、由井君より私の方が翔子と話してる時間長いじゃん」
「…分かってる。でも、今日はちょっと、どうしても辻と2人きりは辛かったんだよ、オレ」
「だから、なんで」
眉をひそめる蕾夏に、視線をテーブル上のサラダに落としていた由井は、チラリと目を上げた。
言うべきかどうか迷うように、由井の視線が少し泳ぐ。が、決心がついたのか、由井はまっすぐに蕾夏を見据えた。
「―――実は昨日さ、辻に言われたんだよ」
「うん?」
「“付き合って2ヶ月経つけど、友達の時とあまり変わらない気がする”って」
「……」
「なんかこう、ああ、彼女なんだなー、と実感できることをして、って」
その言葉にキョトンと目を丸くしていた蕾夏は、やがて眉をひそめ、軽く首を捻った。
「…まぁ確かに、一緒に映画観てもお茶しても、今までずっとやってきたことだよね。ただ、私が抜けてるだけで」
「うん、そう言われた」
「彼女だって実感できること、かぁ…。じゃあ、例えば…ええと、手を繋ぐとか、肩を抱くとか?」
一応、そんな提案をしてみる。
「…それは、もうやった」
「…あ、そうなんだ。え…えーと、えーと、じゃあ―――キス、する、とか」
蕾夏としては、ちょっと口にするのも恥ずかしいのだが―――ついでに、由井と翔子のそんなシーンを想像するのは、もっと恥ずかしいのだが―――少々頬を赤らめながらも、そう言ってみる。
そんな蕾夏の反応に、由井もちょっと顔を赤らめる。が、返ってきた答えは、蕾夏の予想とは違っていた。
「―――それも、もうやった」
「え?」
「1週間位前に」
「…そ…そうなんだ」
―――ああ、もう、居心地悪いなぁ。
この手の話は、極端に苦手だ。特にその内容が、物心ついた頃から知っている翔子と、異性では一番仲のいい由井のことだけに、余計に。蕾夏は、うろたえているのを誤魔化すように、慌ててアイスティーの入ったグラスに手を伸ばした。
「そ、そこまでしてても、実感できないのかぁ…。こ、困ったね。あはは…」
深刻になりたくなくて、笑ってみる。が、ますます居心地が悪くなっただけだった。妙な沈黙が流れ、蕾夏は黙ってアイスティーに突っ込んだストローを弄び続けた。
「…え、えっと、それで―――どうすればいいか訊きたくて、由井君、私のこと呼んだの?」
なんとか話を繋げようと、蕾夏はそう言ってみた。
すると由井は、これまでで一番顔を赤らめたかと思うと、口元に手を置いて目を逸らしてしまった。
「どうしたの?」
「―――い…いや…だからさ」
「うん」
「その、キス、でも実感できないんじゃあ…って話に、辻ともなってさ」
「うん」
「…それで、昨日…」
「昨日?」
ほとんど消えかけの声で、語尾を曖昧にぼかしてしまう由井は、意味が分からない様子の蕾夏の方に、ちらっとだけ目を向けた。言わなくても分かれよな、という、自分の気まずさを誤魔化してるみたいな、ちょっと怒ったような目で。
「……」
「―――…」
10秒ほど、沈黙が続いた後。
由井の言わんとする所に思い至った蕾夏の目が、大きく見開かれた。
「…え…っ、え、えええええええっ!? そ、それって―――」
店内に響き渡りそうな蕾夏の声に、由井は慌てて蕾夏の口元に手を押し付けた。
「ば、ばかっ、声大きすぎるって」
由井の手で、「ごめん」という蕾夏の声が遮られる。由井が手をどけると、蕾夏は極力由井の方へと身を乗り出し、隣の席にも絶対聞こえないだろう程に小さな声で続けた。
「ちょ、ちょっと、待ってよ―――いくら“彼女だって実感したい”からって、それは…」
「…オレも、そう思う。けど、仕方なかったんだよ。辻のたっての希望だから」
「…って、翔子からその…誘われた、ってこと?」
「うん…まぁ、そんなとこ」
頭がグラグラする。
結構大胆なところのある翔子だが、さすがに今度ばかりは、蕾夏の理解の範疇外な行動だ。というか…今、目の前にいるこの由井と、あの翔子が―――キスシーンですら想像がつかないのに、それより先なんてもっと想像がつかない。
「…さ。私、参考書買いに行ってこようかな」
現実逃避気味に席を立とうとする蕾夏のTシャツの袖を、由井はひしっと掴んだ。
「ちょ…っ、藤井っ。頼むから、今、オレと辻を2人きりにしないでくれよっ。オレ、ほんとに困ってるんだから…」
「そんなこと言われたってっ! 私にどーしろって言うのよっ」
「何もしなくていいから、とりあえず、2人きりにするのだけは勘弁して」
「そんな弱気な事言わないでよっ。翔子は由井君の“彼女”なんでしょ、“彼女”っ!」
「お前だって、オレと辻の“親友”だろっ。見捨てるなよ、頼むから…!」
押し問答は、1分ほど続いた。
結局蕾夏は、その場から逃げ出す訳にもいかず、疲れ果てたようにファミレスの固めのソファに、ドサリと座り込むしかなかった。
***
由井と翔子は、2年生の3学期も間もなく終わる、という頃に、一応付き合い始めた。
しかし、そうなった事情が、普通のカップルとは少々異なっている。
『男の子と付き合ってみたいのね。それで、まーちゃんの次に好きな男の人って言ったら、由井君なの。由井君、私のこと好きだって言ってたわよね―――ねぇ、試しに付き合ってみてもいい?』
何故翔子がそんな事を言い出したのか、由井にはよく分かっている―――寂しいからだ。
正孝を独占できなくなった今、独占できる腕が欲しくなったから。そして、たまたま一番身近にいて、その腕に飛び込んでも嫌悪感を抱かない相手が、自分だっただけ―――そういうこと。
まるで、兄に対するあてつけのように、自分と交際したいという翔子に、一瞬、馬鹿にするな、と言ってしまいそうになった。好きだからこそ余計、腹が立つ部分があった。
それでも由井は、付き合うことにした。
正孝しか見えていない、翔子。その翔子の憤りが、今正孝の目を独占している蕾夏に対して向けられるのが、一番嫌だから。過去の傷に苦しみ、正孝の想いにすら心を痛めている彼女に、これ以上の負担はかけたくないから。
だから、承諾した。少しでも翔子の気持ちが正孝から離れてくれるなら―――そう思って。
…でも。
さすがに昨日の一件は、きつかった。
『由井君、私のこと、好き?』
『…好きだよ?』
『蕾夏よりも? 蕾夏よりも私の方が大切?』
『―――…』
『証明して。蕾夏じゃなく、私の方が好きなんだってこと―――私が由井君の彼女なんだって、実感させて』
少し落ち着きを取り戻したのか、アイスティーを大人しく飲んでいる蕾夏を見遣り、由井は溜め息をついた。そんな由井の様子に、蕾夏が眉を寄せる。
「溜め息つかないでよ…」
「…ごめん…でも、なんか、疲れちゃって。今日待ち合わせてから今まで、もの凄く気まずい思いしてたから」
「―――翔子の方は、あんまり気まずそうじゃなかったね。なんかなぁ…。知らないうちに、翔子だけ成長しちゃった感じがして、ショック」
そんなことないぞ、と由井は心の中で反論した。
大好きなお兄ちゃんを取られそうになって、駄々を捏ねている子供と同じだ、翔子は。そういう子供っぽい所も由井からすれば翔子の魅力だが…それも、度を越すと、疲れる。
特に、昨日みたいに、蕾夏に対する想いと翔子に対する想いを、はかりに掛けられてしまうと。
どうしようもなく、苛立つ。全然別の種類のものなのに―――比較すること自体出来ないものなのに、と。
「…なぁ。藤井。大丈夫?」
ふいに心配になり、由井は、躊躇いがちに声をかけた。
「え? 何が?」
「その…オレが辻にそういう事したって分かって―――オレの友達、続けられる?」
はっとしたように、蕾夏の顔が強張る。
多分、その言葉を聞いて初めて、意識してしまったのだろう。目の前にいる友が、彼女を傷つけた“彼”と同じ、“男性”であることを。
言うんじゃなかった、と、由井が半ば後悔しかけた時、蕾夏がフワリと微笑んだ。
「…大丈夫。佐野君が私にしたことと、由井君と翔子の件は、全然違うものだって、私、分かってるから」
「―――…」
「それに由井君は、私の友達だもん。“男の人”ではあるけど―――そこに友情だけがあるって信じられる相手だから、怖くないよ」
そこに、友情だけがある。
男と女だけれど、そういう関係だってある。
大丈夫―――蕾夏だけは、分かってくれている。そしてそれは、由井と翔子の関係が変わった今も、由井と蕾夏の間では変わらないのだと、分かってくれている。
由井はホッとして、思わず安堵しきった笑みを浮かべてしまった。実を言えば、翔子との気まずさ以上に、蕾夏との間がギクシャクしないか、そちらの方が心配だったのだ。
由井の安堵が分かったのだろう。蕾夏もにこっと笑う。彼女もまた、自分と由井の間にあるものが変わらないことに、心から安堵しているようだった。
「…あ、翔子、おかえり」
ちょうどその時、電話を終えたらしい翔子が戻って来た。由井も振り返り、歩み寄る翔子の顔を見上げる。が、その表情が真っ暗なのに気づき、蕾夏と2人して眉をひそめた。
「辻? どうしたんだ?」
「……」
気分最悪、という顔をした翔子は、チラリ、と由井の顔を見、黙って由井の隣に座った。憮然とした態度で、レモンスカッシュのグラスを引き寄せる。
「…翔子? 何、電話で辻さんにでも怒られた?」
「―――違うわよ」
蕾夏の質問に、翔子のテンションが更に下がる。
「まーちゃんてば、すっかり変わっちゃったわ。私と由井君がデートしてる、って言っても全然平気な癖に、蕾夏も一緒だ、って言った途端、心配するんだもの―――蕾夏の」
「…は?」
「あんまり悔しいから、昨日のこと話しちゃった」
「え!!!!!」
蕾夏と由井の声が重なる。2人揃って、顔面蒼白だ。
「は、は、は、話したって…」
「なのにまーちゃん、“まぁ、翔子も17歳だしね、最近の高校生はませてるねぇ”って―――“その話、藤井さんにはきっとショックだから、黙ってなさい”だって。ねぇ、酷いと思わない!?」
「……」
「ああもうっ。ねぇ、早く食べて、早く本屋さん行きましょ。その後カラオケね。今日は暗くなるまで絶対帰らないからっ」
由井に譲った筈のサラダをまた自分の手元に引き寄せた翔子は、ヤケ食いのような勢いでそれを食べ始めた。そんな翔子を唖然とした顔で眺めた由井と蕾夏は、ゆっくりと顔を見合わせ、同時にうな垂れた。
わがままお姫様は、兄の自分に対する態度以上に、自分が由井に対してやってる事の方がはるかに酷いとは、思っていないようである。
なのに、こんな翔子の親友を、彼氏を、やめられない自分達―――案外、似たもの同士なのかもしれないなぁ、と、2人はうな垂れたまま、溜め息をついた。
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