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  神様を感じるとき - HAL side -

 春の神戸港は、陽射しが海面に反射してキラキラ光り、目を開けていられないほど眩しかった。瑞樹は目を細めつつ、ライカM4を構えた。
 四角いフレームの中に、光に満ちた春の海が切り取られる。小さな船が右端から現われたが、すぐにはシャッターを切らない。船が、画面全体の4分の1辺りまで進むのを待って、瑞樹は静かにシャッターボタンを押した。
 「ほら、投げてごらん」
 父の声に振り向くと、ちょうど餌をつけ終わった子供用の釣竿を、イズミに握らせているところだった。その釣竿には、見覚えがあった。昔、父に連れられて渓流釣りに行った時、瑞樹が危うく川に流してしまいそうになった、瑞樹用の釣竿だ。
 「えいっ!」
 掛け声と同時に釣竿を振ったイズミだったが、掛け声の割には、釣り糸は随分手前に落ちた。無理もない。まだイズミは小さいのだから。
 そんなイズミの様子にちょっと笑った父は、慣れた手つきで釣竿を振るった。ひゅん、と小気味良い音がして、釣り糸が伸びていき、手元のリールがくるくると回る。イズミはそのリールを、手品でも目撃したみたいに、少し目を丸くして見つめていた。

***

 東京の大学へ進み、泣かれるのが嫌でイズミには何も言わずに神戸を離れた、去年の春。
 日々、タケノコのような勢いで成長しているイズミだから、これで自分のことも忘れるだろうな、と瑞樹は考えていた。だから、年末年始に帰省した時も、特に連絡もとらずにいた。ところが、帰省を終えて東京に戻って間もなく、唐突に木村から電話がかかってきたのだ。
 『ほら、たまにお前に会いに高校まで来てた、イズミとかいう子。あの子、昨日うちに現われて、えらい騒ぎになってんで』
 「え!」
 何故木村のところに、と一瞬混乱したが、すぐ分かった。瑞樹と木村が一緒にいるところを、イズミは何度か目撃している。いくら待っても顔を見せない瑞樹に業を煮やしたイズミは、多分、何かの偶然で木村の姿を見かけたのだろう。そして、尾行した訳だ。木村の家まで。
 『にーちゃの家を教えろって凄まれたけど、親父さんしかおらんマンション教えてもしゃーないわな』
 「…そりゃそうだ」
 瑞樹の上京と同時に、父は、それまで住んできた一戸建てを引き払い、一人暮らししやすいマンションに移り住んだ。勿論、瑞樹が帰省するとなればそのマンションに帰る訳だが、そこにイズミが出向いたところで、瑞樹がいるわけもない。
 『しっかし、なぁ。迎えに来た母親見て、驚いたわ。舞先輩の子やったんやな、あの子』
 「―――誤解すんなよ」
 『アホ。分かっとるわ。…なぁ、今度帰って来たら、ちょっと位会ったってや。お前が舞先輩に気ぃないのは分かっとるけど…あの子、なんやめちゃめちゃ寂しそうやった』
 そんな訳で、瑞樹は、本来帰るつもりのなかった春休みにも帰省した。
 そして、「瑞樹、暇なら久々に海釣りに付き合わないか」と言う父の言葉にふと思い立ち、神戸港での海釣りに、イズミを誘うことにしたのだった。


 ―――やっぱり、誘って良かったな。
 防波堤にちょこんと座り、父の横で釣竿を差し出しているイズミを振り返り、瑞樹は僅かに口元を綻ばせた。
 父の年齢なら、イズミ位の子供がいてもおかしくない。それに何と言っても、父は正真正銘、本物の“父親”だ。保育園に入って、また“お父さん欲しい症候群”がぶり返しているらしいイズミは、“にーちゃ”とは微妙に違う瑞樹の父のムードに、その本物の“父親”の空気を感じ取ったのだろう。父の隣に座るイズミは、とても穏やかな、安心しきった顔をしていた。
 「ねぇ、おじちゃん。にーちゃも僕くらいの時、お魚釣ったりしてたの?」
 足をぶらぶらさせながら、イズミが訊ねる。
 「ん? ああ、たまーにね」
 「上手だった?」
 「下手だったよ。全然釣れなくて面白くないから、腹いせにああやって写真ばっかり撮るようになっちゃったんだ」
 「―――事実を脚色すんなよ、親父」
 聞き捨てならない話に、瑞樹は眉を上げ、父を軽く睨んだ。そんな瑞樹に、父は苦笑だけを返した。
 事実は―――やっぱり瑞樹は、釣りはいまいち下手だった。
 でも、そんな時ですら面白くないという表情が顔に出ず、ただ黙々と釣竿を垂れているような子供だったのだ、瑞樹は。自己主張というものを一切しない子供―――子供らしい我儘もきかん気も、瑞樹とは無縁だったから。
 「腹いせってなぁに」
 「イズミ。喋ってばっかいると、魚にエサ持ってかれるぞ」
 冷たく瑞樹が言うと、イズミはぷーっと膨れて、不貞腐れたように海に顔を向けた。以前なら、ちょっと冷たいことを言われても、その意味すら分からずに無邪気に笑っていた。あと2ヶ月ほどで5歳になるイズミだからこそ、こんな顔もするようになったらしい。
 喜怒哀楽を素直に表すイズミ。
 あれが、普通の子供。あれが、当たり前の、5歳。
 父と並んで釣竿を垂れる姿は、かつての自分を彷彿させる。が―――自分はあんな風に表情豊かではなかった筈だ。
 舞は、ちゃんとイズミを“育てて”いるらしい。イズミと過去の自分の違いの中に、瑞樹はそれを察し、どこかでほっと胸を撫で下ろしていた。

***

 瑞樹が生まれ、海晴が生まれてから、瑞樹が小学校に入る位までの約6年間、父は人生で一番忙しい時期を過ごしていた。
 大学を卒業し、就職し、新人システムエンジニアとして平日は真夜中まで働いていた。瑞樹や海晴の顔を見るのは、寝入ってしまった後か、出勤前の朝だけだった。そんな生活をしていたからこそ、母の異常に気づくのに時間がかかったのだし、気づいた後も十分なケアが出来ずに取り返しのつかない状態になってしまったのだが―――当時の瑞樹は、特に父に対して不満は抱いていなかった。
 瑞樹は今、人生の修羅場を経験してもなお飄々と生きている父を心から尊敬しているが、当時の瑞樹も、純粋に父を尊敬していた。理由は簡単―――自分達を養うために働いてくれている上に、母は絶対にくれない「笑顔」を自分達にくれるからだ。
 だから、父と出掛ける海釣りや渓流釣りは、楽しかった。やる事は何でも良かった。ただ、父親という存在と何かを一緒に出来るというだけで、楽しかったのだ。
 でも、父も言う通り、今ひとつ釣りは上手くなかった瑞樹にとって、釣り自体はあまり魅力的な遊びではなかった。「釣りに行くぞー」と言われれば喜んで付いて行ったが、その目的は「父と一緒にいること」であり、それ以外の楽しみは特になかった。

 転機は、6歳の時―――それまで行ったことのなかった、沼に釣りに行った時だ。

 父がフナを次々に釣り上げる中、瑞樹は何故か、ザリガニを何匹も釣り上げた。
 魚とは違い、糸が絡んでしまうザリガニは、釣り上げるたびに糸を切らなくてはならない。3匹目までは我慢していた瑞樹だったが、4匹目がかかった瞬間、とうとうキレた。
 釣竿を投げ出した瑞樹は、その時、父の足元に置かれているカメラに目をつけた。
 大物を釣った時の証拠写真を撮るためのそれは、あまり使われることはなかったが、釣りの時には必ず持参されていて、景色のいい所だったりすると風景を撮るのにも使われたりしていた。瑞樹も1度か2度、持たせてもらって撮ったことがある。
 ザリガニを釣ってるよりは面白いと思ったのだろうか。瑞樹は、そのカメラを片手に、沼の周りを散策し出した。

 ファインダーを通して眺めた世界は、なんだか不思議な色をして見えた。
 沼のほとりに密生する葦、その中にこっそり身をひそめている名も知らぬ鳥、水際で喉を膨らましている茶色いカエル―――ここに来てから、散々目にしてきたそれらの物が、ファインダー越しに見ると、何故か全然違うものに見える。四角い視界に切り取られた世界は、どんなつまらない風景でも、全てが完璧な“1枚の絵”に見える。
 綺麗だな、とか、面白いな、と感じた瞬間に、シャッターを切る。そうやって、目に映るものを撮り続けていたら、すっかり手が疲れてしまった。まだ小さな瑞樹の手には、父のカメラは大き過ぎたのだ。
 初めて、と言っていいほど“楽しい”という感情を深く覚えつつ、瑞樹はもといた場所へと戻った。
 そこでは、まだ父が釣竿を垂れており、そんな父の斜め後ろで、することのない海晴が釣り上げたフナにエサをやったりして遊んでいた。
 父と、海晴―――それぞれ、好きなことを勝手にやっているだけの2人なのに、瑞樹の目にはその光景が、とても優しい色をして見えた。いいなぁ、と、理由もよくわからないまま、瑞樹は思わず微笑んだ。
 撮りたいな、と、漠然と思う。夕暮れを迎えつつある中、瑞樹は、すっかりだるくなった手でなんとかカメラを構え、父と海晴の姿を撮った。

 初めて自分の意志で撮った19枚の写真は、どれも構図が無茶苦茶で、酷い写真ばかりだった。
 それでも瑞樹は、それらの中に、何かを見つけていた。
 毎日、毎日、自分が失っているもの―――それが何なのかは分からなくても、確かに写真の中にはそれが写っているのだと、幼い瑞樹は漠然と感じた。

***

 「そう言えば瑞樹、バイトは大丈夫なのか」
 ローラースケートをして遊ぶ中学生の集団を撮り終えた瑞樹に、父が、リールを巻き上げながら訊ねた。
 「ああ、臨時だったから、2月で終わった。東京戻ったら、また探さねーとなぁ…」
 「DPEの店員ってのは、お前の趣味だったろうに」
 「機械にかけてガッチャンで終わりの仕事だから、面白くなかったよ」
 「そうだなぁ…お前はあくまで、撮るのが好きだからなぁ…」
 溜め息混じりにそう言った父は、少し眉をひそめるようにして振り返った。
 「お前、やっぱり、カメラを仕事にしていく気はないのか」
 「―――…」
 久々の質問に、瑞樹は一瞬、言葉に詰まった。
 離婚した直後頃は、父とそんな話を何度かした。将来、どんな仕事をしたいか―――勿論、写真を撮って生きていければ、それは素敵なことだろう。でも…無理だ。
 その理由を、父には、言えない。瑞樹は、かつてと同じ曖昧な笑みを浮かべ、軽く肩を竦めた。
 「親父だって、コンピューターが一番好きで、システムエンジニアやってる訳じゃねーだろ?」
 「…まぁ、いくら釣りや自然が好きだからって、冒険家やる気にはならなかったな。体力ないし」
 「仕事選びって、そういうもんだろ」
 言いながら、心が痛む。
 未練だ、と、感じた痛みに心の中で舌打ちする。なまじ、雑誌の投稿などで小さな賞を何度か取ってしまっているから、余計にそういう未練が生じるのに違いない。
 どう頑張っても、撮れないもの。それを克服してまでカメラに賭けるだけの勇気なんて、今の瑞樹には、ない。
 写真は、趣味―――誰に認めてもらう必要もないし、誰かの指図で撮るなんて真似をする根性もない。撮りたいものしか撮らずに済む素人が、一番いい。
 なのに―――気づけば、アルバイト情報誌でも、少しでも写真と関わっている所ばかりを探してしまう。そんな自分に気づくたび、また心の中で舌打ちする。どこまで未練がましい性格なんだ、と。
 「…ま、バイト位は、趣味と被ってるもん選んでも罰は当たらないだろうと思って、今、都内のスタジオスタッフの空きを探してるとこだけど」
 あまり頑なな態度を取るのも怪しまれるので、瑞樹はそう言って、再びカメラを構えた。それに、スタジオスタッフの空きを探してるのは事実だ。目ぼしいスタジオに出向いて、空きが出たら連絡を貰うことになっているから。
 「スタジオスタッフか…そりゃあいいな」
 「別名、雑用係だけど」
 「でも、本物のカメラマンを、間近で見られるんだろう?」
 ファインダーから少し目を離し、父の方を盗み見ると、瑞樹の方を見ている父の目は、思い切り愉しそうに細められていた。強がりを言いやがって、というその顔は、瑞樹がスタジオスタッフを希望した動機など、とっくにお見通しのようだ。瑞樹は気まずそうに目を逸らすと、再度ファインダーを覗き込んだ。


 それから暫く、瑞樹は、父とイズミの姿を確認できる範囲内を歩き回り、幾度かシャッターを切った。
 シャッターを切った瞬間、平凡な風景が、1枚の絵として切り取られる。青い空も、煌く波間も、アスファルトに伸びた黒い影も、全ては1枚の絵。世界が、いくつもの絵画の断片へと分割されていく。
 面白い―――まるでこの世は、沢山の絵で出来た寄せ集めようだ。
 ファインダーから目を離した瑞樹は、目を細め、手で春の陽射しを遮った。
 海から吹き付ける風が、髪を乱す。カメラを構えている時は、五感が研ぎ澄まされて、普段感じない小さな変化にも敏感になる。僅かに冷たさを増したその風に、時間が午後から夕方へと移行しつつあるのを感じた。
 「にーちゃ」
 ふいに、視界の下からイズミの声がした。
 ダンガリーシャツの裾が引かれる。父の隣で釣りをしてるとばかり思ったのに、いつここに来たのだろう―――瑞樹は眉をひそめ、イズミを見下ろした。
 「にーちゃ」
 「なんだよ」
 「あれ、撮って」
 妙に真剣な目をしたイズミは、そう言って遠くを指差した。
 自然、その指先に視線を移した瑞樹は、ひそめていた眉を、余計訝しげに顰めた。
 イズミが指差した先は、空だった。
 「あれって、何だよ」
 「あれ。あの、空にいるやつ。カメラで撮って」
 空にいるやつ?
 一応、目を凝らしてみる。が…そこにはただ、春独特の淡い水色をした空と白い雲が広がっているだけで、鳥も、虫も、飛行機も見当たらなかった。
 「俺には見えねーよ」
 「いるよ」
 きっぱりとした口調で、イズミは断言した。
 「天使が、いるよ、あそこに」
 「…は?」
 ―――天使が、いる―――…?
 何かを天使と見間違ったのか、と思った瑞樹は、もう一度空を見上げたが、見間違うような物すら見当たらなかった。
 「早くぅ。天使が消えちゃうよ」
 「…分かった」
 いや。本当は全然分かっていないのだが―――瑞樹はカメラを構え、レンズをイズミが指差した方向へ向けた。
 フレームの中には、空と雲の境目が曖昧な春の青空だけが切り取られている。イズミは、一体何を見たのだろう―――不思議に思いながらも、瑞樹は静かにシャッターボタンに指を乗せた。

 瞬間。

 見た気がした。何かを。

 なんだろう―――実際には何も見ていないのに、何かを、感じた。この空の先、ずっとずっと遠いところ―――そこに、何かがいるような気配を。
 ゴクリ、と唾を飲み込んだ瑞樹は、静かにシャッターボタンを押した。ライカ独特のシャッター音が響いた直後、ほっと肩の力が抜けた。
 「撮れた?」
 ワクワクした目で、イズミが見上げてくる。カメラを下ろした瑞樹は、どういう顔をすればいいのか分からず、一応笑っておいた。
 「多分な」
 「僕、よく、天使を見るんだ」
 イズミは自慢げにそう言った。
 「天使を見ると、その日は絶対、いい事があるんだ。天使って、いい事を運んでくるんだね」
 「…そっか」

 子供だけが見ることの出来る、天使―――そんなものも、この世にはあるのかもしれない。

 瑞樹はもう一度、さっきファインダー越しに見つめた先を、今度は自分の目で見つめてみた。けれど、もう何も感じ取ることはできなかった。
 あそこに、天使はいたのだろうか。
 いたとしたら、どんな姿をしていたのだろう?

 このフィルムを現像したら、そこに天使は写っているだろうか―――ありえないと分かっていながらも、瑞樹はそんな事を思い、微かに微笑んだ。


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