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  神様を感じるとき - rai side -

 どちらの写真を貼ろうかと迷った蕾夏は、2枚の写真を両手に持ち、少し遠くから眺めてみた。
 「…よし、こっち」
 ど真ん中に木が立っている写真より、木の右側に空となだらかな丘が広がっている写真の方が、好みだった。蕾夏は左手に持った写真を傍らに置き、右手に持った写真をアルバムの中央に貼り付けた。
 サインペンを手にした蕾夏は、目を閉じ、この写真を父が撮った時の光景を思い出してみた。
 受験勉強に本腰を入れる前にと、自然好きな蕾夏のために両親が連れて行ってくれた、夏の北海道。飛行機恐怖症の蕾夏にとって、2時間弱のフライトは悪夢に近かったが、それでも、その後目にした光景には圧倒された。飛行機は怖かったけど、それをおしてでも来た甲斐があった、と感慨に耽った。
 どこまでもどこまでも、見渡す限りに続く、空。東京の小さな空とは違って、北海道の空は大きかった。そんな広い空間に、ぽつん、と立っていたそのポプラの木は、どことなく寂しそうで、でもとても力強く見えた。
 目を開けた蕾夏は、机の上に置いてあったカードに、サインペンを走らせた。

 ―――“誰にも支えられず、たった一人で佇んでいる。とても強くて、とても綺麗な命。”

 “あなたのように、私もなりたい”―――そう書き添えようとした時、リビングに父が顔を出した。
 「蕾夏、暇かい?」
 顔を上げた蕾夏は、父の首から、愛用のニコンが提げられているのを見て、ちょっと歯切れの悪い返事をした。
 「んー…、アルバム作ってたんだけど」
 「桜が見ごろだから、神社に撮りに行くよ。一緒に行かないかい?」
 「行くっ!」
 自分が撮られるのでなければ、父の撮影に同行するのは好きだ。蕾夏は、書きかけのコメントカードとサインペンを放り出すと、笑顔で立ち上がった。

***

 「うう…騙された…」
 「ほらほら、そんな顔しないで。にっこり笑って、にーっこり」
 「無理っ!」
 ―――桜と一緒に私も撮るなんて、一言も言わなかったじゃんっ!
 桜と神社だなんて、蕾夏が好きなものを2つも持ち出して連れ出すとは、父も学習したものだ。桜の木の下に立たされた蕾夏は、自分にカメラを向ける父を、レンズ越しに恨めしそうに睨んだ。
 多少はまともな表情になった瞬間、シャッターが切られた。
 「…もー…。今更“成長記録”って年でもないじゃん。なんですぐ私のこと撮りたがるの」
 「だって、蕾夏には桜が似合うだろう?」
 カメラを下ろした父は、そう言ってニコッと笑った。
 「1枚撮ったら、気が済んだ。後は桜だけ撮るから、好きに動いていいよ」
 「……」
 反省の色ゼロの父を見ていたら、文句を言う気も失せた。蕾夏は、小さく溜め息をつくと、桜観賞モードにモードチェンジした。
 桜の花は、五分咲きにはあと少し、という位の開花状況だった。この色合いから見て、ソメイヨシノだろう。神社のあちこちに沢山植わっているが、どれもが同じ位の開花状態だ。ソメイヨシノはクローン苗だから、咲くのも散るのも一斉なのだと聞いた。この神社中、自分のクローンが大量にいる訳だ。蕾夏は遠くでもほぼ同じ位開花している桜を眺め、それってちょっと怖いなぁ、と思った。
 「―――どうだい、蕾夏。ちょっとは元気になったかい?」
 桜の花をアップで撮ろうとしながら、父がそんな風に声をかけてきた。
 鼻先にあたる花を指先でちょいちょい、と弄んでいた蕾夏は、その言葉に、軽く眉をひそめた。
 「…え?」
 「翔子ちゃんの件。随分と落ち込んでるみたいだって、夏子が心配してたからね」
 「―――ああ…うん」
 つい、沈んだ声になってしまう。
 3日前、アメリカに旅立ってしまった、翔子―――思い出したら、また胸が痛んだ。

***

 翔子がアメリカの大学に留学することが決まったのは、去年の10月頃だった。
 辻家は代々続いた医者の家で、翔子の両親は揃って医師である。正孝も医大に進み、この春で6年間の課程を終え、資格も取れたので、この春からは一般病院の外科で働き始める。そんな家に生まれた翔子も、漠然と医療関係を希望はしていたのだが、この1年ほどで希望分野が精神衛生と決まったらしい。
 将来はカウンセラーになりたい、そのためにはよりカウンセリングの分野が進んでいるアメリカの大学に進みたい―――そう相談されてしまえば、なるほど、と納得するしかなかった。第一、あの体が弱くて依存気質な翔子が、単身アメリカに渡ろうというのだから、その決意は相当固いのだろう。蕾夏と由井は、親身になって翔子の相談に乗った。
 そして10月。受験校と、ホームステイ先の目途が立った。志望校の近所に、翔子の父の知り合いが住んでいて、しかもその職業が心理カウンセラーだと言うのだ。ラッキーな偶然を、翔子は勿論のこと、蕾夏も由井も、そして兄の正孝も喜んだ。
 ―――でも。

 「ねぇ…受験準備位、日本(こっち)でも出来るんじゃないの?」
 年始の挨拶に行った際、高校卒業と同時にアメリカへ行く、という話を翔子から聞かされた蕾夏は、さすがにそう言って眉を寄せた。
 「うん。でも…まーちゃんも病院入るから忙しくなるし。蕾夏も由井君も大学入って新しい生活始めるでしょ。私一人じゃつまらないし…」
 「そりゃ―――でも、由井君は…」
 「いいの。由井君も、それでいいって言ってるし」
 もう話はついていたらしい。翔子は、妙にさっぱりした顔をして、そう言いきった。
 「どのみち、留学しちゃえば付き合っていくのは無理なんだし…半年早まるだけよ」
 「そりゃそうだけど…」
 「…ねぇ、蕾夏」
 急に真剣な目になった翔子は、蕾夏の目を真っ直ぐに見据え、蕾夏の手を両手で握った。
 「私がアメリカに行っても―――まーちゃんからは、離れないでね」
 「―――…」
 「蕾夏しか見てないまーちゃん、これ以上見続けるの、辛いけど―――でも、蕾夏なら、許せる」
 「…翔子…」
 「お願い。まーちゃんから離れないで」
 蕾夏の手を包み込む翔子の手の力が、ぐっと強くなる。蕾夏は、戸惑ったように瞳を揺らすことしかできなかった。

 ―――もしかして、それも、アメリカに行く理由の1つなの…?

 私がいるせいで、翔子と辻さんはギクシャクしてしまうんだろうか―――思いつめたような翔子の表情に、なんだかそんな気がして、蕾夏は悲しかった。

***

 「…もう、大丈夫」
 心配そうな顔をしている父に、蕾夏は微笑を返した。
 「翔子は翔子の夢のために、自分の足で歩き出したんだもの。ちょっと寂しいけど、その位は我慢できるよ。それに…由井君も、同じ大学になったしね」
 「ああ、由井君って、中学から仲良くしてる子だろう?」
 父は直接、由井を知らない。が、平日、翔子を伴って何度か家にも来ていたので、母は由井に会っている。多分、母から噂は聞いているのだろう。
 「そう。この春で“同級生”6年目突入だよ」
 「縁があるねぇ」
 本当に、縁がある。由井が第一志望に受かっていれば、こうはならなかったのだから。新しい生活に不安はあるが、由井も一緒だと思うとちょっと安心できる。もっとも―――志望校を落ちた原因が、翔子の留学話のせいだとしたら、あまり笑顔でもいられないのだが。

 蕾夏と父は、それから暫く、特に話をするでもなく、それぞれに桜の花を楽しんだ。
 「…あ、お父さん。この角度から空仰ぐと、桜の枝ぶりが綺麗」
 蕾夏が、斜め上辺りを指差してそう言うと、父は「どれどれ」と言いながらやってきて、その方角を見上げるようにしてカメラを構えた。
 父は昔から、花や木を撮影するのが好きだった。
 アメリカにいた頃も、よくこうやって近所の公園などに散歩に行って、季節の花や新緑、冬は枯れ木の枝ぶりなどをカメラに収めた。休日の父といえば、そんな風に写真を撮っている姿ばかり見ていたので、幼い頃は父の職業をカメラマンだと思っていたほどだ。
 「…ねぇ、お父さん」
 「んー?」
 「なんでお父さん、カメラマンじゃなく新聞記者になったの?」
 なんとなく、ずっと訊きそびれていたことを、思わず訊いてしまう。
 青空をバックにした桜をカメラに収めた父は、その質問に目を丸くした。
 「変かな?」
 「だって、お休みの日はいっつもそうやって写真撮ってるじゃない。だから本当は、カメラマンになりたかったんじゃないのかなー、と思って」
 「うーん…カメラマン、かぁ…」
 ピンと来ないのか、父は難しい顔をして、首を捻った。
 「偏ってるからねぇ、僕は。花と虫と家族撮るだけでいいんなら、カメラマンも楽しい商売かもしれないけど、報道写真なんて悲惨だしね」
 「新聞記者、楽しい?」
 「いやぁ、辛いよ」
 父は苦笑し、またカメラを桜に向けた。
 「蕾夏が中3に上がる年の桜の季節にも、この神社に来たの、覚えてるかい?」
 「うん、覚えてる」
 「あの時、蕾夏、言っただろう? 日本は八百万の神が棲む国だって―――木や花や道端の石にまで神様が棲んでるなんて、素敵な国だって」
 そういえば、そんな話をしたっけ―――蕾夏は、懐かしさに顔を綻ばせた。

 あの頃は、まだ佐野の事件のショックを大きく引きずっている時期で、蕾夏の精神状態は、相当に不安定だった。
 そんな時、たまたま由井に借りて読んだ本に、“日本は八百万の神が棲む国”というフレーズが出てきた。八百万、の意味がわからず、蕾夏は父に訊ねた。そして、知ったのだ―――この国には、あらゆる物に神が宿るという信仰があるのだということを。
 路傍の石にも、朽ち果てた老木にも、神様が宿っている。草にも、小さな虫にも―――そして、人間にも。この国は、神様で溢れかえっている。なんて素敵なんだろう…蕾夏はそう感じて、嬉しくなった。

 「うん…そんな話、したよね」
 温かい気持ちになってそう相槌を打つと、父は、カメラを構えたまま、小さな溜め息をついた。
 「けどね―――新聞記者やってると、時々思うんだよ。八百万の神が棲むこの国にも、もう神様はいないのかもしれないなぁ、なんてね」
 「……」
 「特に、人間は、ね―――犯罪の記事なんかを書いちゃうと、人間なんて汚い生き物の中に、もしかしたら神様は宿らないのかもしれない、って思えてくる。悲しいけれど…新聞記者は、そういう、人間の汚さを浮き彫りにしていくような部分のある仕事だよ」

 ―――人間なんて汚い生き物の中には、宿らない…。
 蕾夏の表情が曇った。
 そうは思いたくない。人間も、この桜の木や道端に咲く花と平等な命なのだと思いたい。命のない石にすら神様が宿るならば、人間にも宿ってくれる…そう、思いたい。
 でも、蕾夏は、知っている。
 他の動物が持ち得ない、人間の闇の部分―――残酷で、凶暴で、身勝手で、醜悪な部分。

 「随分前、“新聞記者になりたい”って蕾夏は言ってたけど―――…」
 カメラを下ろした父は、軽く眉をひそめ、蕾夏を振り返った。
 「あの時は、蕾夏の文章が観念的すぎるから、って一蹴したけど、それだけじゃない。…蕾夏には、人間が信じられなくなるような仕事は、できればして欲しくないんだよ。せっかく、いろんな物に神様を見ることができる目を持ってるんだから…ね」
 「―――…」
 蕾夏の目が、どんな顔をしていいのか困っているように、戸惑う。それを見て父は、ああしまった、と言って苦笑した。
 「ごめん。蕾夏の人生は、蕾夏のものだね。余計な口出しをした」
 「…ううん」
 父は、蕾夏の表情の変化の意味を、そういう意味だと受け取ったらしい。蕾夏は笑顔を作り、小さく首を振った。
 「あっちの桜も綺麗そうだから、撮ってくるよ」
 「うん―――私、もう少しこの桜見てく」
 境内から少し離れた所にある桜へと足を運ぶ父を見送りながら、蕾夏は心の中で、ひそかに詫びた。


 ―――ごめんね、お父さん。
 私、お父さんが考えてるほど、純粋でも綺麗でもないんだよ。

 身を守るために人を傷つけ、助けてくれた人には何も返せない…なんて、身勝手で残酷な自分。そのくせ、そんな自分をお父さんやお母さんには知られたくなくて、もう4年も嘘つき続けてる―――そんな娘なんだよ。


 大きな溜め息をついた蕾夏は、桜の木の幹に、そっと耳と寄せた。
 両腕を広げて、幹に抱きつく。温かい―――この温かさは、きっと桜の木が持っているエネルギー。
 蕾夏は昔から、このエネルギーを感じ続けていた。そして、苦しい時や辛い時は、そのエネルギーを分けてもらって、乗り越えてきた。この温かさを感じると、なんとなく懐かしい気持ちになれる。蕾夏はほっと安堵し、胸の中に抱えた不安を、言葉にせずに吐き出した。


 ―――翔子が、いなくなった。
 辻さんとのバランスをなんとか保ってくれていた翔子が、いなくなってしまった。
 なんだか、逃げ場がなくなってしまったような気がして―――怖い。それを望んでもいないのに、ただ流されるように、辻さんの腕の中に閉じ込められてしまいそうで…怖い。
 流されたくない。
 翔子が自らの意思でアメリカへと旅立って行ったように、私も自分の足で、自分の道を歩みたい。
 なのに、辻さんに対する罪悪感で、手も足もがんじがらめに縛られてしまう―――動けない。どうしたらいいのか、どうしても分からない。

 だから、お願い。
 もう少しだけ、あなたのエネルギーを分けて。


 目を伏せ、更にきつく、桜の木に抱きつく。木の幹に押し付けた耳に、頑張れ、という声が聞こえてきた気がした。
 それは、もしかしたら、この桜の木に宿っている神様の声なのかもしれない―――蕾夏は、そんなことを思った。


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