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「成田君」
使い終わったライトを片付けていた瑞樹は、背後から掛けられた声に振り向いた。
スタジオの入口から顔を覗かせている琴子は、仕事中は後ろで一つに束ねている髪を解き、腕まくりしているシャツの袖も下ろしていた。
「それ終わったら、ロビーおいでよ。安積さんがコーヒー奢ってくれるって」
「森さん達は?」
「みんな帰っちゃった。銀座でやってる写真展が今日までだから、まとまって見に行くって。ほら、成田君はおととい見たって言ってたでしょ。鍵は預かってるから大丈夫よ」
ということは、琴子と安積と自分の3人だけ―――かえって邪魔なんじゃねぇの、と、一瞬、誘いを断って先に帰ろうかと思ったが、仕事で喉が渇いているのも事実だった。
「―――じゃあ、お言葉に甘えて」
口元に微かに笑みを浮かべて答える瑞樹に、琴子はニッコリと、満足げな笑みを返してみせた。
***
琴子は、瑞樹のバイト先である六本木のスタジオに勤めているスタジオマンである。
瑞樹より2つ年上。立場上も、フルタイムで働き撮影助手も勤めるスタジオマンである琴子は、撮影そのものにはタッチさせてもらえないアルバイトスタッフの瑞樹より格上だった。それでも、周囲の人間が全員“琴子ちゃん”、“琴子さん”と呼ぶ中、自分だけ苗字で呼ぶ訳にもいかないので、仕方なく瑞樹も“琴子さん”と彼女を呼んでいた。
女性としても小柄な方の琴子は、男ばかりのスタジオの中の紅一点なので、よく他の連中が高い棚の上などに置いた物が取れなくて四苦八苦してたりする。瑞樹は偶然そんな場面に何度か遭遇していて、その都度取ってやっている。そうしたことが度重なって、なんとなくよく話をするようになった。スタジオでは一番、親しいスタッフかもしれない。
琴子には、恋人がいる。
安積という名の、さる売れっ子のカメラマンの助手をやっている男だ。そのカメラマンがよくこのスタジオを利用するので、自然、安積もよくここに現われる。噂では、知り合ったのも、恋に落ちたのも、このスタジオでの撮影現場だったらしい。
「成田君ていくつだっけ」
缶コーヒーを手渡しながら、安積が訊ねた。
「11月になったら、20歳です」
「うひゃー、若いなぁ。オレが君位の時って、ただぼーっと大学生やってたよなぁ…。こりゃすぐ追い抜かれるな」
若い、と言ったって、安積だってまだ25だ。別段、アシスタントカメラマンとして歳が行きすぎな訳ではない。何をオーバーな、という顔はして見せたものの、瑞樹は黙って缶コーヒーのプルトップを引いた。
「琴子もすぐ追い抜かれるんじゃない」
「あたしはもう追い抜かれてるかも」
一人だけロビーの椅子に腰掛けていた琴子が、眉をハの字に寄せて困ったような笑いを見せた。
「この前も、フィルムカウント間違えて撮影メモが2コマもずれちゃったし、一人じゃ機材運べないしね。才能もイマイチなのかもしれないけど、体格面ではホント、男の方が断然有利よねぇ」
「ばぁか。そんなのは、もっと腕磨いて、フィルムカウントが正確で機材もホイホイ運べるアシスタントを雇える立場になりゃ済むことだろ」
「あはは…、あたし、安積さんのそういう楽観的なとこ好き」
「そう? オレも自分のこういうとこ好き」
そんなことを言って、安積と琴子はクスッと笑い合った。そんな2人を見て、瑞樹も口元を綻ばせた。
こういうのは悪くない、と思う。
恋愛なんてアホらしい、と馬鹿にし嫌悪し蔑んでいる瑞樹だが、琴子と安積のような関係なら、悪くない。
心が、繋がっている―――ただの欲じゃなく、相手を信頼し、尊重し、大切にしている。週末には、琴子は安積の部屋に入り浸っていると言うから、それなりの関係ではあるのだろう。でも、“それ”だけではない。2人にはちゃんと周囲が見えているし、相手の体だけじゃなく、その存在自体を必要としている。こういうのなら悪くないよな、と素直に思える。
―――まぁ、もっとも、琴子さんがこういう人だから、そう思うのかもしれないけどな。
コーヒーをあおりつつ、瑞樹はチラリと琴子の方を見た。
女っぽい、とは到底言えない。確かに顔は可愛い方だし胸もそれなりにあるが、性格的にサバサバしていると言うか、男っぽいと言うか―――要するに、纏っている雰囲気に全然色気がない。男所帯にいて誰も琴子に興味を示さないのは、彼らの琴子に対する評価が総じて「がさつ」だからだ。
でも、瑞樹に言わせれば、妙に色気を振り撒いてる奴らより、琴子の方が断然格が上だ。がさつと言われながらも、琴子は結構細かいことに気を配るタイプだし、溌剌として明るく、傍にいてなんとなく笑顔になれるようなオーラを持っている。安積も、きっと琴子のそういう所に惹かれたのに違いない。
安積もいい男だと、瑞樹は思う。
琴子の良さが分かってる段階で既にポイントは高いが、それを抜きにしても好感が持てる。アシスタントも3年目になると、独立しなくちゃと焦る連中が結構いるのだが、安積はあまり焦っているようには見えない。勿論、「いつまでもアシスタントじゃねまずいよなぁ」と言ってはいるが、そのタイミングを見計らうだけの精神的な余裕と自分の力を見極める能力が備わっているようだ。撮影の合間、雑用をしている瑞樹に愚痴をこぼすアシスタントを何人か見ているだけに、いつ見てもテキパキと仕事をこなし、食い入るような目でカメラマンの様子を観察している安積は、瑞樹が唯一将来性があると見込んでいるアシスタントだった。
「…いや…あの、成田君、あんまりジッと見ないでくれるかな」
突然、少し顔を赤らめた安積にそう言われ、瑞樹は眉をひそめた。
「…え」
「なんか、成田君の目ってこう、ヤバイんだよな。ジッと見られると落ち着かないっていうか、オレってそっち傾向の趣味はなかった筈なんだけどなー、なんて焦っちゃうというか」
ハハハハハ、と焦ったように笑う安積に、今それほどジッと見つめた自覚もなければ、特に意味を込めた目つきをした覚えもない瑞樹は、更に眉をひそめた。
「…俺もそういう趣味はないですよ」
「そりゃあ分かってるって。―――うーん、でも…そういう目でジッと見られると、男でもこうだから、女はもっとヤバいんだろうなぁ。君、モテるだろ」
「いや、別に」
―――変な女がすぐ群がってくるだけで。
「嘘よぉ。成田君、すんごいモテるんだから」
間髪入れず、琴子が声を上げた。
「モデルさんとかが、結構目つけてるのよ、成田君に。森君達もそれ分かってるから、自分達が目をつけた可愛いモデルさんが来る日は、なるべく成田君にバックヤードの仕事を任せるようにしたりしてるもの」
「…はぁ!?」
なんだよそれ、と、瑞樹は眉を上げた。確かに何人かのモデルから「仕事、何時まで?」と訊かれたことはあるが―――時々、唐突にバックヤードの仕事を大量に任されたりすることもあったが―――まさか、他のスタッフ達がそんな画策をしていたなんて、全然知らなかった。自分は毎回、そうした女からの誘いは一切断っているというのに、全く迷惑な話だ。
「へー、そりゃあ凄いな。琴子も危ないんじゃない。後輩の魅力に、ついフラフラ吸い寄せられたりして」
安積がからかうようにそう言うと、琴子は顔を真っ赤にして「馬鹿っ!」と怒鳴った。
「そ、そんな訳ないでしょっ! 安積さん、言っていい冗談と悪い冗談の区別もつかないのっ」
「あはは、ごめんごめん」
本当に、冗談にもほどがある。屈託なく笑う安積を、瑞樹も軽く睨んでおいた。琴子に限って、そんなことは有り得ない―――安積という、確固たる存在がいるのだから。
琴子は、瑞樹にしては珍しく“悪くない”と思える女性。
でも案外、琴子が
***
スタジオのエントランスを出たら、外は本格的な雨だった。
予報では、夜半過ぎから雨とのことだったが、思いのほか雲の流れが速かったのだろう。瑞樹は舌打ちし、すっかり日が落ちて暗くなった空を見上げた。
「あら、雨?」
少し遅れて出てきた琴子が、スタジオの入口で空を仰ぐ瑞樹を見つけ、声を掛ける。とっくに琴子は帰ったものと思っていた瑞樹は、少し驚いて振り向いた。
「琴子さん、今日は早番だったんじゃねーの」
「その筈だったんだけどねぇ…大事なフィルムをお客さんに渡し損ねちゃって、ついさっきまで、大急ぎで事務所に届けに行ってたの」
「ドジ…」
「うるさいよ」
手にしていた傘で軽く瑞樹の背中を小突いた琴子は、それでも顔は笑っていた。瑞樹の隣に並ぶと、その傘をパッと開いた。
「良かったら駅まで入ってく? うち、ここから徒歩圏内だけど、駅のそば通るし。走って行くには、ちょっと降り方が本格的になってきてるしね」
「…そりゃ、ありがたいけど―――その体勢は、無理だと思う」
琴子が精一杯腕を伸ばして傘をさし掛けても、瑞樹の頭の上にはどうやったって届かない。瑞樹は苦笑すると、琴子の手から傘を抜き取り、琴子にさし掛けた。
「これで良ければ、駅まで貸してもらうけど」
「…そ、そうね。その方が自然ね、うん」
相合傘のような状態になったことに、琴子はちょっと顔を赤らめ、俯いて歩き出した。
琴子が言った通り、雨は結構本格的な降り方になっており、傘なしで駅までダッシュ、というのは少々厳しい状態だった。が、琴子が濡れないように傘をさし掛けると、どうしても自分の肩の辺りは傘から出てしまう。琴子らしくダークな色合いの傘ではあるが、このサイズはどう見ても女物の傘だ。大人2人が入るには小さすぎる。
まぁそれでも無いよりはマシか、と一応自分を納得させた瑞樹は、琴子と微妙な間隔を空けて並んで歩いた。
暫く、無言のまま歩く。すると琴子が、ふいに顔を上げた。
「あ…、そう言えば成田君、今月誕生日だったね。いつ?」
「もう終わった」
「えっ、そうなの? 言ってくれたらお祝いしたのに」
残念そうに見上げてくる琴子に、瑞樹は曖昧な表情を返した。正直―――誕生日を祝う気持ちなど、自分の中にはない。1年で一番呪われている日は自分の誕生日だと、半分本気で思っているのだから。
「やっぱり誕生日は、彼女と一緒に過ごしたりした?」
「…は?」
「ほら、やっぱり定番でしょ。誕生日は彼女の手料理をご馳走してもらうとか」
珍しいことを言い出す琴子を、瑞樹は、ちょっと目を丸くして見下ろした。
「―――へぇ。そういう誕生日をやるんだ、あんたと安積さんって」
「ちょっ…ち、違うわよ。一般論よ、一般論」
琴子は大慌てで、目の前で手を振ってそう否定してみせた。その必死な様子に、瑞樹は逆に、ああ図星だったんだな、と察してクスリと笑った。
「そうやってあたし達の話で誤魔化そうとしてるんじゃない? 本当はどうなの?」
瑞樹の笑みの理由に気づいているのだろう。琴子はむきになったように反撃してきた。けれど、別に瑞樹は誤魔化している訳ではないのだ。
「誕生日は、ほとんど寝てたな」
「え?」
「日曜日だったから。昼頃起きて、飯食って、読みかけの本読んで、あとはまた寝てた」
「……」
むきになっていた琴子の顔が、唖然、といった顔になる。目を二、三度瞬き、続いて眉間に皺を寄せる。解せない、といった感じで。
「…もしかして成田君って、フリーなの?」
「そう」
「―――意外。あたし、成田君がいろんな誘いを断ってるのは、ちゃんとした彼女が他にいるからかと思ってた」
「ハ…、まさか」
「成田君なら、付き合いたがる子も多いでしょうに…どうして?」
眉根を寄せる琴子に、瑞樹はふっと笑った。
「琴子さんと安積さんみたいな関係なら、悪くねーって思うけど…ただ付き合うだけなら、一人の方がマシ」
「…寂しくない? 一人なんて」
「別に」
サラリとそう言う瑞樹に、琴子が何か言おうとした。が、その時、地下鉄の駅に向かう交差点の信号が、ちょうど赤から青に変わった。それに気づいた瑞樹は、傘を琴子に差し出し、着ていたジャケットの襟元を引き上げた。
「これ、サンキュ。じゃあ、また明日」
「えっ…、あ、うん、また明日」
反射的に傘を素直に受け取る琴子に、ほんの少しだけ笑顔を返し、瑞樹は雨の中、交差点を走って渡って行った。
―――計算じゃないところが、怖いんだよね、成田君って。
日頃の無表情も、気まぐれに見せる微かな笑みも、さりげない優しさも―――そして、別に、と言いながら、やっぱり寂しそうに見えるあの目も。気づくたび、ドキリとさせられる。どうしようもなく、惹きつけられてしまう。
もしもあれが、人を惹きつけるために緻密に計算された行動だとしたら大したものだと思う。
でも、彼の場合は、あれが彼の自然な姿―――惹きつけてるのに、本人には、その自覚ゼロ。…そこが、かなり、罪つくり。
交差点を信号の点滅ギリギリのところで渡りきり、地下鉄へと降りる階段へと消える瑞樹を見送りながら、琴子は小さく溜め息をついた。
***
「ううー…、き、気持ち悪…」
「…飲めない癖に、飲みに誘うのは、なんか間違ってると思う」
真っ青な顔でよろよろ歩く琴子を横目で見遣り、瑞樹は極当たり前の指摘をした。たった1杯の水割りでこうなったのだから、指摘されて当然だ。
「ごめーん…でも、誕生月って今日が最後じゃない。なんかお祝いやらなくちゃって思って」
「いらねーっつったのに…」
「それじゃあ気が済まないの―――み、水欲しい…」
「ほら、あとちょっとだから」
スタジオのある六本木からほど近い界隈の裏通りにある、3階建てのこじんまりしたアパートが、琴子が暮らしている部屋だ。忘れ物を届けに走って行かされた経験があるので、瑞樹も場所だけは知っていた。
そう言えば、安積の現住所も、ここから車で15分位だったよな、と思い至った瑞樹は、よろけながらも鍵を取り出そうとバッグの中を掻き混ぜている琴子の顔を覗きこんだ。
「安積さん、呼んだ方がいいんじゃない」
「…北海道に撮影に行ってるから、呼んでも来るのは明日の昼以降よ」
「…あ、そ」
使えねぇ、と、本人を目の前にしたら多分言えないであろう愚痴を、心の中でこぼす。仕方ないので、この分では階段を上がるのもヤバそうな琴子の腕を掴み、階段から転げ落ちないように支えてやった。
「何階だっけ。2階? 3階?」
「2階の2号室…」
「鍵貸して」
意外と少女趣味なキーホルダーがいくつもくっついた鍵を、琴子の手からもぎ取る。2階の2号室まで琴子を引っ張って行った瑞樹は、急いで鍵を開け、部屋の中に琴子を突っ込んだ。
「ごめーん、お水…」
「…はいはい」
日頃、ここまで甘えた態度に出ない琴子だが、酔って気分が悪くて、ちょっと人格変貌しているのかもしれない。ふらふらと寝室の奥へと消える琴子を横目で見ながら、瑞樹は水を入れるためのコップを探した。
1DKの部屋は、琴子らしい、さっぱりとした部屋だった。
小さな食器棚には、食器類がどれも2客ずつ納められている。なるほど、安積がよく来るからだな、と苦笑した瑞樹は、ペアになっているグラスは避け、おそらく来客用らしい半ダースほど揃った無色透明のグラスを手に取った。
グラスに水を注ぎ、寝室を覗き込むと、琴子はベッドにうつ伏せになっていた。
「水、持ってきたけど」
「…ああー…ありがとー…」
むくっと起き上がった琴子は、瑞樹からグラスを受け取り、その水を一気に飲み干した。景気の良い飲みっぷりに、見ていた瑞樹も、ちょっと唖然としてしまう。
「はー…、落ち着いた」
「…そりゃ良かった」
苦笑しつつ空になったグラスを受け取り、さりげなく時計を確認する。午後10時…女の一人暮らしの家に長居の許される時間ではない。瑞樹は、受け取ったグラスを背後のダイニングテーブルに置き、床に置いておいたデイパックを掴んだ。
「じゃあ、俺、帰るから」
瑞樹のセリフに、ぼんやりしていた琴子が、ハッとしたように顔を上げた。
「えっ、もう?」
「時間が時間だし」
琴子の目が、少し迷うように揺れた。
「も…もうちょっと、ゆっくりしてってよ。気分良くなってきたから、お茶淹れるし」
「無理しなくていいって」
「でも、ちょっと、ゆっくり話したいこともあるし…」
「それは、明日聞くから。あんまり遅くまで上がりこんでたのバレたら、俺、安積さんに殺されるよ」
安積の名前が出た途端、琴子の顔が僅かに苦痛そうに歪む。
「…安積さんのことは、今は、あんまり言わないでよ」
「は…?」
小さな手が、微かに震えながら伸びてきて、瑞樹のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
僅かに涙ぐんだような、縋るような目で見上げてくる琴子は、瑞樹の知っている琴子ではない。まるで別人に見える。嫌な予感を覚え、瑞樹は眉をひそめた。
「…成田、君。あたしのこと、少しは好き?」
「……」
「あたしといる時、よく笑うなって思うの…あたしの自惚れ、かな。…違うんなら…今日、泊まっていって」
「―――…」
そのセリフの意味を正しく理解した時。
瑞樹の表情が、一瞬にして、険しくなった。
「―――な…に、言ってんだよ。あんたには安積さんがいるだろ。酔ってるからって、らしくねーこと言うなよ」
シャツを握って離さない手を、なんとか引き剥がそうと、掴む。すると逆に、その手をもう一方の手で掴まれてしまった。
「よ、酔ってなきゃ…こんなこと、言えない。あたしだって、ダメだって思った。何度も何度も。…でも、止められない―――好きになる気持ち、止められないの。成田君の目見ちゃうと、じっとしていられない。成田君は? あ、あたしのこと、嫌い?」
「そりゃ、嫌いじゃない―――むしろ、好きかもしれない、けど…」
「なら、今日だけでも…駄目? いくら嫌いじゃなくても、少しは好きでも、あたし相手じゃその気になれない? あたし、成田君の周りにいる子達みたいに色っぽくないし…」
「やめろって!」
聞きたくない。そんなセリフ、琴子の口からだけは。
「…好きなの。成田君に抱きしめられたいの。ねぇ…駄目?」
琴子の指が、手首に食い込む。その痛みに、瑞樹は思わず顔を歪めた。
…いや、違う。
痛いのは、手首ではない。胸だ。
あんなに信頼しあえるパートナーがいるのに。
一番大事な“心の繋がり”をちゃんと持てる相手が、既にその手中にあるのに。
なんで、その1人で満足できない? なんで俺なんかに興味を持つんだ? 安積さんに飽きた? それとも、俺に言い寄る奴ら見て自分も興味が湧いてきた? 安積さんが留守中の寂しさを紛らせたいから?
何にせよ、結局はそんなの、ただの欲だ。
“好き”―――そんな言葉は、ただその欲を美化しているだけだ。言い寄ってくる連中だって、その言葉を平然と安売りしてる。でも…そこにあるのは、恋愛という名でカモフラージュした、原始的な欲求にすぎない。
あんただけは、そんな真似しないと思ってたのに。
あんたみたいな女なら受け入れられるって、安積さんとあんたの関係が少し羨ましかったのに。
あんたと安積さんみたいな恋愛がこの世にあるんなら、こんな俺でも、いつかは抱きしめたいと思える女に出会えるのかもしれないって、本気でそう思いかけていたのに…。
琴子のセリフは、結局琴子が自分に期待しているのは、日頃言い寄ってくる連中同様、一時的な快楽にすぎないことを意味している―――少なくとも瑞樹には、そう思えた。
そして何よりも、安積がいながら自分に縋ってくる琴子は、一番思い出したくない女を、瑞樹に思い出させた。父と窪塚、どちらも切り捨てられず、瑞樹に秘密を守るよう強要した女―――かつての瑞樹の母を。
怒りに、握り締めた拳が震える。
普段ならありえないほど、冷たい感情がせり上がってきた。
このまま、馬鹿にするなと言って出て行く方がマシだ。それは、分かっている。でも、残酷になっている瑞樹は、あえてその道を選ばなかった。
「…分かった。好きにしろよ」
投げやりな口調で、吐き捨てた言葉。
琴子は、僅かに眉をひそめ、涙で潤んだ目で瑞樹を見上げた。いつもと違う瑞樹に、少し戸惑っているようにも見える顔―――可笑しい。他の連中に言わせれば、これが“いつもの成田瑞樹”の顔だというのに。
―――後悔すればいい。
どれだけ体温を分け与えてもそれに応えないような奴を、相手に選んだことを。
伏せ気味にしていた目を上げ、射抜くような目で琴子を見下ろす。軽く口の端を上げた瑞樹は、最高に冷たい笑みを作ってみせた。
見ようによっては、魅惑的な笑みにも見える、冷笑―――それをどういう意味に取ったのだろう。琴子は、戸惑った表情を見せながらも、掴んだ瑞樹の手首を引き寄せ、その背中に腕を回して、唇を重ねてきた。
瑞樹は、さしたる抵抗もせず、それを静かに受け入れた。
こんなもの、要らない―――そう、心の中で思いながら。
***
琴子と再会したのは、その日から1週間後だった。
体調不良を理由にずっとスタジオを休んでいた琴子は、1週間目に、唐突に顔を出した。悪い病気なんじゃないかとスタッフ一同心配していただけにホッと胸を撫で下ろしたが、その後に告げられた言葉に、全員面食らった。
「今日で退職することになりました。みんな、今までほんとにありがとう」
呆気にとられたスタッフ達は、いい修行先でも見つかったのか、とか、とうとう安積と結婚するのか、とか、いろいろ訊ねた。けれど琴子は、それらに具体的には答えず、適当に答えを誤魔化していた。そんな琴子とバイト先の仲間を、瑞樹はいつもの無表情で、少し離れて冷めた目で見ていた。
「…成田君」
機材を倉庫に放り込んでいた瑞樹は、一瞬、背後から掛けられた声に手を止めた。
が、振り返るには至らず、そのまま作業を続ける。最後にレフ板を放り込み、かなり大きな音をたてて倉庫のドアを閉めると、小さく溜め息をついてやっと振り向いた。
「―――何」
手を前で組み、どこか寂しそうに肩を丸めていた琴子は、瑞樹と目が合うと、その手を後ろに組みなおし、背筋をピンと伸ばした。自分は何も後悔していない、やましいことは何もない、と宣言するかのように。
―――こういうところは、嫌いじゃなかった。確かに。
それでもなお冷たい感情しか湧かないほどに、あれ以来、琴子には嫌悪感ばかりを覚えてしまう。心の狭い奴と罵られたとしても、止めようがない。こればかりは。
「あたし、北海道行くの」
「……」
「この前、ゆっくり話したいことがあるって言ったでしょ。あれが、そう。…あの日、安積さんが北海道行ってたの、暫くあっちで仕事することになって、その契約のためだったんだ」
「結婚でもすんの」
「…わかんない。でも、ついてくことにした。安積さん、あたしが必要だって言ってくれるから―――それに、この前、よく分かったから」
「何が」
「今の成田君には、あたしがどんだけ頑張っても、きっとあたしの言葉、信じてもらえないんだろうな、って」
意味が分からず、思わず眉をひそめる。そんな瑞樹に、琴子は寂しげな笑みを見せた。
「前から、なんとなく感じてた。成田君、少しはあたしに好意持ってくれてるな、って。でも…あたし、その意味を、少し取り違えてたみたい。この前、それがやっと分かった」
「…何だよ」
「あたしの成田君に対する“好き”は、恋だった。でも…成田君の“好き”は、恋じゃなかった」
「……」
「成田君、あの時、自分の方からは一度もあたしに触れてこなかった。あたしが必死に頼んで縋って…そうしなくちゃ、キス1つくれなかった。…それって、あたしに触れたいとは思わないってことだよね」
「…くだらねぇ」
笑える。瑞樹は嘲笑に似た笑いを浮かべ、嫌気がさしたように顔を背けた。
「あんた達の言う“恋”ってやつは、結局はそういうキスやセックスのことかよ」
「―――…」
「低俗。…俺は、要らない。そんなもん」
蔑むような瑞樹のセリフに、琴子の視線が、次第に床へと落ちた。
一度落ちた視線は、なかなか元には戻らない。琴子は暫く、黙って瑞樹の足元のあたりを見つめていた。けれど瑞樹も、それ以上言いたい事などなかった。投げやりな態度で、ただ無言のまま顔を背けているだけだった。
「―――成田君、恋したことないのね」
やがて顔を上げた琴子は、ぽつりとそう呟いた。
「恋をしたら、触れたくなるのは当たり前なのに。恋をした人に、抱きしめられてキスされたいって思うのは、低俗でもなんでもない―――心が欲しい相手だからこそ、余計にそう思うものなのに…成田君は、それを知らないのね」
その言葉に、瑞樹は少し表情を変え、琴子の方を見た。視線の先にいる琴子は、酷く悲しげな目をして瑞樹を見つめていた。
「あたし、安積さんがこんなに好きなのに、成田君を好きになる自分を止められなかった。どっちも本物の恋だし、どっちも真剣な恋よ。…1人にしとけばいいなんて、自分でもわかってる。でも、そんなバカな真似するのも、人間だからよ。人間の心なんて、本当は脆くて弱くて矛盾だらけで―――そんな弱い生き物だから、一人じゃ寂しくて生きられないのよ」
「……」
「成田君は、それを知らないから、強くいられるんだね」
「…別に俺は、強くなんかねぇよ」
瑞樹がそう言うと、琴子は分かってる、という風に何度か頷いた。そして、改めて姿勢を正して、瑞樹を真っ直ぐに見つめた。
「弱い成田君になれる相手、いつか、見つけて」
「―――…」
「そういう人が見つかったら、少しだけ、あたしの言葉も思い出して―――あたし、本当に、成田君が好きだったよ」
そう言った琴子は、以前と同じ、明るい笑顔をやっと見せた。
―――弱い自分になれる相手…?
脆くて、弱くて、矛盾だらけの自分になれる相手? 今自分が蔑んでバカにしているような真似を、自らせずにはいられなくなるような相手?
要らねぇよ、そんな相手。そんな自分になんか、なりたくもない。
そう毒づきがらも、瑞樹の中の一部は、既に理解していた。
弱い自分になれる相手―――それは、瑞樹がずっと求めている「自分から抱きしめたいと思える相手」と同義語だということを。
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