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『ほんと、ごめん。どうにもこうにも、時間取れなくてさぁ…』
受話器の向こうの声は、心から恐縮していた。その表情までが見えるような気がして、蕾夏は苦笑とともに首を振った。
「大丈夫、こっちはそんなに場所とってないし。黒川さんがいいって言ってるなら、落ち着くまでは使わせてもらえばいいじゃない」
『う…、まあ、そうなんだけど…』
それでも電話主は、まだまだ恐縮している。
『技能研修が終われば、もう少し時間取れると思うからさ、最悪でも年明けにはなんとかする。なんとかならなくても、こっちで引き取らせてもらうようにするから』
「無理しなくていいよ?」
『うん。じゃあ…』
「あ、ちょっと待ってね」
受話器を手で押さえた蕾夏は、背後を振り返った。
「代わる?」
小声で訊ねると、背後の瑞樹は、無言のまま手でバツ印を作った。「そんな暇ねーよ」という迷惑顔だが、写真整理をしているその手元は、少々疎かになっているようにしか、蕾夏には見えない。
―――疎かになる程、電話が気になるなら、代わればいいのに。
「あー…、っと、ごめん、瑞樹は手が離せないみたいだから、また今度ね」
『あ、うん。それじゃ、また』
そうして、用件のみの短い電話は終わった。
「奏のやつ、何だって?」
蕾夏が戻ってくるや否や、ライトボックスの上のフィルムをルーペで睨みつつ、瑞樹が訊ねる。
「なんか、忙しいみたい。今日もまた仕事になっちゃって、不動産屋さん行けなかった、って」
「まだ行けないのかよ。もう9月だろ」
「お店が終わった後にも技術研修やってたり、日曜日をモデルの仕事に当ててたりして、大変みたい。恐縮してたよ、冷蔵庫とレンジのこと」
そう言いつつ、部屋の片隅に目をやる。そこには、コンセントに繋がっていない中古家電2点が、居心地が悪そうに鎮座していた。瑞樹が使っていた1ドアの冷蔵庫と、蕾夏が使っていたレンジである。
8月頭頃から、日本に拠点を移し、本格的にメイクアップ・アーティストへの道を歩み始めた奏だが、現在、師匠である黒川のマンションに居候状態である。本人はちゃんと部屋を借りたいと思っているのだが、その部屋を探す暇がないまま、1ヶ月以上経っているのだ。
冷蔵庫とレンジは、そんな奏に譲るために、不要となっても保管されているのだが―――気軽に移動できるようなサイズの物ではないため、奏の部屋が決まらないことには、運び出すことができない。ものすごく邪魔、という訳ではないが、さして広くないこの家からすると、やはり目障りは目障りだ。それを奏もわかっているから、恐縮しているのだろう。
「居候でも何でもいいから、さっさと引き取れっつーんだよ。長引くようなら、リサイクルショップに売るぞ」
フィルムの確認をする手を止めず、そう言って瑞樹が眉を顰める。そんな瑞樹を、蕾夏は少し呆れたような目で流し見た。
―――って言いたいなら、電話、代わればよかったのに。
「…サボテンと違って、冷蔵庫とレンジ持参で人様の家に転がり込むってのは、さすがにまずいんじゃない?」
「ああ、サボテンの時もなかなか来なかったよな、あいつ。…ったく、厚かましい奴」
余計、瑞樹の表情が険しくなる。その表情を見て、蕾夏は、瑞樹がこの件についてやたら面白くなさそうな理由が、なんとなくわかった。
預かっていたサボテンを、奏がなかなか引き取りに現れなかった時も、瑞樹は「さっさと引き取りに来い」と言っていた。が、あれは、サボテンが邪魔だったからではないだろう、と、蕾夏は思っている。それが証拠に、預かっていたサボテンの世話を率先してやっていたのは、むしろ瑞樹の方だったのだから。
多分瑞樹は、奏がなかなか来ない理由を察して、苛立っていたのだ。
忙しいからではなく―――瑞樹と蕾夏に対して、まだ、会うのを躊躇うほどの後ろめたさを残しているからだ、と。
つまり。入っていいぞ、とドアを開けてあるのに、廊下でウロウロと迷っている奏に「何してやがる」と苛立っているのだ、瑞樹は。まあ―――それだけ、奏を気に入っている、ということなのだろう。
育ての親の愛を信じて疑わず、己の感情をストレートに表に出すことができる、まっすぐな人間―――多分、瑞樹にとって奏のような人間は、とても羨ましい、眩しい存在なのだろう。蕾夏のこととなると、法律も倫理も関係ないほど人が変わってしまう瑞樹が、あれだけのことをした奏をあの直後でも憎み切れなかった理由は、そこにあるのだと思う。
そして、奏も、瑞樹のようなストイックさと強さを持った人間に、憧れている節がある。だからこそ、恋敵である瑞樹に対して、最後まで憎しみだけは抱くことができなかったのだし、憎めないから余計、苦しい恋になったのだろう。
もっと他の時期に、出会っていたら。
出生の真実を知り、時田に受けれてもらえない渇きに屈折しきってしまっていた、あの頃の奏に出会ったのでなければ―――きっとあんな事件は起きなかっただろうし、2人は、何のわだかまりも持つことのない、信頼しあえる友人になっていたかもしれない。
そう考えると、自分たちはあまりにも不運だったとしか言いようがないのだが―――…。
「で? 結局、いつ頃落ち着くって言ってた?」
次のフィルムをライトボックスに乗せつつ、瑞樹がまた訊ねる。目線は相変わらず、フィルムの上だ。
―――…だから、気になってるんなら、電話、代わればよかったのに、ってば。
出会ったのが別の時期でも、多分、瑞樹の奏に対するこういうスタンスは、あまり変わらなかったかもしれない。
どうやら瑞樹は、蕾夏以外に対する好意は、徹底してストレートに出ないタイプらしい。天邪鬼だなぁ、と、蕾夏は瑞樹の顔を眺めて、くすっ、と笑った。
***
「じゃあ、45分まで休憩しまーす」
代理店の担当者の声に、現場の空気が緩んだ。
アシスタントやモデルも、それぞれにその場を離れ、ばらけ始める。ほっと息をついた瑞樹は、ちょっと外の空気でも吸いに行くか、と、ボルヴィックのペットボトルを手に、スタジオの外に出た。
9月ともなると、夕方になると、さすがに真夏より風が涼しく感じる。が、ライトだらけのスタジオから出たばかりの身には、その風がちょうど心地よかった。
「あ、成田さん、これ食べます?」
通りかかったアシスタントが、スタジオのドアにもたれている瑞樹を見つけ、何やら差し出してきた。
「甘いもんなら、パス」
「いえ、バラエティパックだから、色々入ってますよ。差し入れで貰ったんで、よかったらどうぞ」
バラエティパック、と言われても、中身がいまいちイメージできない。とりあえず貰っておくか、と考え、瑞樹は差し出された袋を受け取った。
透明な袋に入ったそれは、その名のとおり、なんだかいろんな物が入っていた。柿の種、ソフトさきいか、チョコレート、スナック菓子の小袋―――酒の肴なのか、子供用なのか、なんとも微妙な品揃えだ。一体どういう用途を考えて、こういうアソート品を作っているのだろう? 謎だ。
振り返ると、通り過ぎていったアシスタントは、手に提げた紙袋から、瑞樹に渡したのと同じ袋を次々取り出し、スタッフ一同に渡して回っている。…そもそも、あんなものを誰が差し入れしたのだろう? ますます謎だ。
まあ、ちょうど小腹が空いてきたところなので、何か口に入れておいた方がいいかもしれない―――ボルヴィックを小脇に抱え、瑞樹は、バラエティパックの袋を破いた。何を食べるか少し迷ったが、結局、無難なところでアーモンドやピスタチオが入っているらしいミックスナッツのアルミ小袋を取り出した。
スタジオの入り口は、人の出入りが激しくて、落ち着かない。瑞樹は、スタジオの裏に回り、そこにあったベンチに腰掛けた。
撮影に使うこともあるのだろう、スタジオの裏は、なかなか洒落たイングリッシュ・ガーデン風になっていた。あいにくと花の季節ではないが、植え込まれたハーブの類は、手入れが行き届いているようだ。
―――ふーん…、ここのスタジオも、結構使えそうだな。
今年できたばかりで、使うのは今回が初めてであるこのスタジオについての情報を、無意識のうちに頭の中に書き留める。休んでいるつもりでも、つい撮影のことを考えてしまうのは、一種の職業病かもしれない。後で屋外撮影の使用料をチェックしておこう―――そんなことを思いつつ、瑞樹はナッツを口に放り込み、ボルヴィックの蓋を開けた。
と、その時。
「……?」
何か、聞こえた気がして、ボルヴィックを口に運びかけた手を、止める。
―――何だ? 今の。
風に乗って聞こえた、微かな音……いや、声?
ぐるりと、辺りを見回す。が、庭に瑞樹以外の人影は見当たらない。何なんだ? と、眉をひそめた。
気のせいか―――そう思って、ペットボトルに口をつけると。
「……」
今度は、はっきり聞こえた。
ミィ、と、明らかに猫の鳴き声が。
改めて、視線を辺りにめぐらすと―――高さ1メートル弱もあるガーデンポットの上に、まるでハーブの陰に身を潜めるようにして、黒猫が1匹、うずくまっていた。
毛並みは整っており、黒い体は、まるでビロードのような艶を持っている。子猫、と呼ぶには大きいが、年老いた猫とも思えない。多分、人間で言えば20代、30代といったところだろう。飼い猫だろうか? その割に、首輪の類はついていない。
その猫が―――うずくまったまま、瑞樹のことを、じっと見つめていた。
「―――…」
なんだよ、と、見返す。
猫は、まるで怯む様子もなく、じっと瑞樹を見据える。
双方、譲らず。1人と1匹、ほぼ同じ高さの目線で、暫し睨み合いが続いた。
動いたのは、猫の方だった。
なぁーご、と、どこか甘えたような鳴き声を上げた猫は、スルリとガーデンポットから降り、何故か瑞樹の足元まで歩いてきた。そして、瑞樹が履いているスニーカーに尻尾を掠らせながら、すとん、と瑞樹の座るベンチの上に上がってきた。
―――おいおいおい。
野良猫だか飼い猫だか知らないが、随分と人懐こい猫だ。動物なんて人間の想像し得ない行動を取って当たり前、と思っている方な瑞樹だが、この事態にはさすがに驚く。
行儀良く座った黒猫は、呆気にとられている瑞樹を見上げ、黒い尻尾をまるで指揮でもしてるみたいに軽やかに揺らした。もしかして、尻尾を振っているのだろうか? 犬が感情表現に尻尾を振るのは知っているが、猫の場合、どういう時に振るのだろう?
なんだかよくわからないが、変な猫だ。関わりあいにならない方がいいのかもしれない―――そう考え、瑞樹はとりあえず、猫を見るのをやめ、袋の中のナッツを口に入れた。
と、それを見た猫が、また、なぁーご、と鳴いた。
「……」
要するに、腹が減った、と。
そういうことですか。
チラリと猫を横目で見る。
黒猫は、相変わらず、行儀の良い姿勢で瑞樹を見上げていた。
…まあ、いいか。
ただじっと見られているのも、落ち着かない。瑞樹は、バラエティパックの袋を漁った。
まず目についたのは、ソフトさきいかだ。でも、どう考えても消化が悪そうに見える。知り合いの猫ではないが、自分があげたさきいかで苦しまれたのでは困る。柿の種もナッツ類も、猫が食べるとは思えない。チョコレートも論外―――…。
で、結局残ったのは、たまごボーロだった。
―――っつーか、なんでこんなもんまで入ってんだ、バラエティパック。
ますます、どういう使用を想定して販売されているのか、謎だ。
とりあえず、キャットフードやドッグフードにも、こういうボーロ状のものはあった気がする。これなら大丈夫だろ、と考え、瑞樹はたまごボーロの袋を破った。
ぽい、と、中身のたまごボーロを、猫の前に転がす。すると猫は、ボーロを鼻先で確認し、すぐにパクッ、と食いついた。
―――へぇ、猫にも食えるんだな、たまごボーロ。
案外あっさり口にする猫を見て、こりゃ人間が食べるものも結構食べてる猫だな、と推測する。よほど空腹だったのか、完全にボーロに夢中になっている猫に苦笑しつつ、瑞樹はまたボルヴィックを口に運んだ。
蕾夏が好きそうだよな―――休憩しつつ、時折猫に目をやって、そう考える。
瑞樹自身は、あまり動物に思い入れはない、というか、飼いたいとか可愛がりたいとか思ったことがない。が、蕾夏は無類の動物好きだ。今この場に蕾夏がいたら、目を輝かせて、
『うわー、綺麗ー! ねぇねぇ、飼い猫かなぁ、この子? 毛並みがすごい綺麗じゃない? 丁寧にブラッシングしてそう…。もし野良だったら、どうやってこんな綺麗な毛並みを保ってるんだろう? あ、毛づくろいとか? 毛づくろいで、こんな綺麗な毛並みが維持できるんだとしたら、この子、毛づくろいの達人なんだろうなぁ…。あ、ボーロ食べてるー。可愛いー。あああ、ずるいなぁ、同じ動物なのに、猫ってなんでこんなに綺麗なんだろう』
……と、言うに違いない。
細かなニュアンスまで思い浮かび、喉の奥でつい笑ってしまう。猫1匹でそこまで感動できるのだから、ある意味羨ましい。
―――…っと、そろそろ、戻るか。
思わぬ珍客のせいで、あまり休憩した気分になれなかったが、なかなかいい気分転換にはなった。伸びをした瑞樹は、まだボーロに夢中になっている猫を置いて、ベンチから立ち上がった。
***
撮影が終わったのは、すっかり夜になってからだった。
「お疲れ様でしたー」
機材の片付けもほぼ終わったので、後はスタジオの人々に任せ、瑞樹も帰ることにしたのだが。
―――邪魔だな、これ。
どう考えても趣味じゃないものばかり残った、バラエティパック。持って帰れば蕾夏が食べるかとも思ったが、あまり蕾夏が好きそうな内容でもない。わざわざ捨てるために持ち帰るのも変なので、傍にいたスタッフに全部あげてしまった。
なかなか順調な撮影だったな、などと思い返しつつ、スタジオを出た瑞樹だったが―――玄関を出て数歩歩いたところで、その足は、いきなり止まった。
「―――…」
目の前に、行儀良く座った黒猫が、1匹。
まるで、瑞樹の行く手を阻むかのように、歩道のど真ん中に座り込んでいる。そう。正体は勿論、夕方にボーロをあげた、あの黒猫だ。
呆気にとられ、3メートルほど先にいる猫を見たまま、固まる。そんな瑞樹の顔を見て、猫は、にゃあ、とどこか嬉しそうな声を上げた。
―――もしかして、また何か貰えるとでも思ってんのか?
「…もう何も持ってねーよ」
だから諦めろ、という口調で、猫にそう言う。が、人間の言葉など解さない猫は、まだその場を動こうとしない。
だからといって、どうすることもできない。ま、誰かまた親切な奴にでもたかってくれ―――心の中であっさりそう言い、瑞樹は猫を追い越した。
それにしても、変な猫だ―――駅に向かってすたすた歩きつつ、首を傾げる。
たった1回、たまごボーロをあげただけの人間を、忠犬ハチ公みたいにおすわり状態で待っているなんて……猫のくせに、犬のようなことをする。いや、たまたま目が合ったからそう思ってしまったが、もしかして瑞樹の顔なんて識別していなかったのかも―――道行く人全員に、ああしておすわりをしてみせている可能性もある。そうだとしたら、なかなか世渡り上手な猫だ。
そうして歩いているうちに、仕事のことや家に帰ってからのことなどに考えが流れて行き、猫のことなどすっかり忘れてしまったのだが。
駅に到着し、改札を抜け、いざ電車に乗ろうとしたところで、瑞樹は、嫌でも猫のことを思い出さざるを得なくなった。
「わぁ、可愛いー。猫だよ、猫」
「あ、ほんとだ。どうしたんだろ、こんなとこで」
「!!」
背後から聞こえた、女子高生らしき女の子たちの声に、ギョッとする。
慌てて振り返ると、後方数メートル向こうにいる制服姿の女の子3人ほどの視線が、瑞樹の方に向けられていた。しかも、瑞樹の顔の高さではなく、足元の辺りに。
「……」
恐る恐る、視線を下げる。
すると―――瑞樹から5、60センチの間隔をあけて、ちょこん、とホームに座っているあの黒猫の姿が、そこにあった。
―――何なんだ、お前は。
まさか、スタジオの外からここまで、ずっと瑞樹の後をついて来たのだろうか。…ちょっと変だとは思っていたが、相当変だ。
唖然としているうちに、電車がホームに滑り込んできた。
電車が停車し、開いたドアから、ぱらぱらと客が降りてくる。我に返った瑞樹は、客が降り終えて行く手が空くのを待ちつつ、背後に座る猫を時折牽制した。
猫は、相変わらず行儀良く、おすわりの姿勢で座っている。降りてきた客の何人かも、その存在に気づき、不思議そうに振り返ったり立ち止まったりしている。あいにくと、この乗車口で客が降りるのを待っている乗客は、瑞樹ただ1人だ。故に、まず猫に行った客の視線は、当たり前のように、次には瑞樹に向けられる。その視線が、背中や後頭部に突き刺さるのを感じた。
―――…全然知らねー猫なのに…。
甚だ、迷惑である。苛立った瑞樹は、くるりと振り返り、足元の猫を殺気を帯びた目で睨んだ。
“ついて来るな”。
和臣あたりなら、これだけで震え上がって大人しくなるであろう視線に、猫が返したのは、にゃあぁ、という平和な鳴き声だった。
―――にゃあ、じゃねぇっ!!!!
猫相手に、本気でキレそうになる。が、ちょうどそのタイミングで、ドアが閉まる直前の発車ベルが鳴った。
こんなものの相手をしていたせいで、電車に乗りそびれたのでは大笑いだ。カメラバッグを肩に掛け直した瑞樹は、慌てて、目の前のドアの内側へと飛び込んだ。
『ドアが閉まります』
アナウンスの声に、ホッとしたのもつかの間。
「あ、猫!!」
車内の一角から上がった声に、ハッとして振り返る。
見ればちょうど、例の黒猫が、閉まり始めたドアの間を、いとも簡単に滑り込んできた瞬間だった。
「!!」
冗談じゃない。慌てて蹴り出すことを考えたが、時既に遅し―――猫がまたおすわりの姿勢をするのと同時に、猫の背後で、ドアが完全に閉まった。
「―――…」
動き出した電車の中、猫は、瑞樹に向かって、妙に嬉しそうに鳴き声を上げた。
多分、周囲の客から見たら、完全に「飼い猫と飼い主」の図だろう。違う、こいつは俺とは何の関係もないんだ、と弁解したいが、興味津々の視線ばかりで誰一人「その猫、どうしたんですか?」とは訊いてこないので、弁解をするチャンスすらない。
…勘弁してくれ。
パタパタと尻尾を振る妙な黒猫を見下ろし、瑞樹は頭を抱えたくなった。
***
ドアチャイムの音を聞き、蕾夏はコンロの火を止め、小走りに玄関に向かった。
「はーい」
「……俺」
疲れているのか、ちょっと沈みがちな返事が返ってくる。が、今週は撮影続きで疲れ気味であることを蕾夏も知っているので、さして気にも留めなかった。ガチャガチャと鍵を開け、ドアを開ける。
「お帰りー。ごめんね、予定より帰ってくるの遅くなったから、まだご飯が―――…」
機嫌良く出迎えた蕾夏だったが―――ものすごく「うんざり」な顔をした瑞樹を見て、さすがに眉をひそめた。
「…ど、したの?」
「……」
「撮影で、何かあった?」
違う違う。
疲れ果てたように手を振った瑞樹は、無言のまま、自分の足元を指差した。
「?」
カメラバッグが邪魔で、よく見えない。蕾夏は、ドアを支えたまま、瑞樹が指差す方向へと身を乗り出した。
そして―――そこに、真っ黒な毛並みをした猫がちょこんと座っているのを見つけ、目を丸くした。
「ほら、ご飯だよー。どうかなー、食べられるかなー?」
そう言って、蕾夏が猫の目の前に差し出した皿には、シーチキンをお湯で軽く洗ったものが乗っかっていた。
現在、猫は、そこそこ大きさはあるが深さはあまりない、段ボール箱の中に一時避難させられている。引越しの際、衣類を詰め込んでおいた箱で、ついさっきまで、シーズン外の衣類を入れたまま、寝室の床に放置されていたものだ。
箱の中に皿を置いて様子を見ると、猫は、シーチキンをぺろりと舐めた。そして、いける、と思ったのか、すぐにモグモグと食べ始めた。
「ふふふ、食べてる。可愛いー…」
一心にシーチキンを食べる猫を、蕾夏は床にしゃがんで眺め、嬉しそうに目を輝かせている。想像通りの反応に、傍で見ている瑞樹は、ちょっと苦笑してしまった。
「でも、よっぽど瑞樹のこと気に入ったんだね、この猫。瑞樹追いかけて電車に乗るわ、ダッシュで逃げても追いついてくるわ―――凄い根性じゃない?」
「…そんな迷惑な根性、いらねーよ」
ものすごく、迷惑である。が、蕾夏の言う通り、この猫の根性は半端ではない。
大体、あのスタジオからこのマンションまで、電車で1本ではない、という事実が恐ろしい。そう、猫は、電車の乗り換えまでもやってのけたのだ。
貴様、切符買ってねーだろ、と睨みつけたが、自動改札だらけのご時世、猫が足元を通り抜けても、誰も気づかない。重たい機材を担いで階段を駆け上がっても、点滅信号の横断歩道を必死に渡っても、所詮こっちは人間、向こうは猫―――運動神経で勝てる筈もなかった。結局、自分が猫から逃れようとすればするほど、周囲の人間が「何だろう?」と興味を持ってしまうので、最終的には諦め、猫の好きなようにさせておいた。が、まさか、本当に家までついて来るとは……。
「でもここ、犬猫禁止だろ? 一時預かりとはいえ、ケージなしで家に置いちゃまずいんじゃねーの」
明日もあのスタジオに用があるので、とりあえず今夜は預かり、明日、適当なバッグに入れて瑞樹が連れて行く、ということにはなったのだが―――相手が野良らしき猫なだけに、このまま大人しく箱に入っていてくれるか、少々不安だ。
が、瑞樹の方を向いた蕾夏の顔は、瑞樹の言葉には賛同しかねる様子だ。
「でも、外に放り出しておく訳にもいかないじゃない? 雨降ってきたし、この猫にとってはこの辺、土地勘もない場所だろうし」
「…土地勘とか、関係あるのか? 野良猫に」
「あると思うけどなぁ。なわばりとかもあるんじゃない? 可哀想だよ、知らない土地で放り出しちゃったら」
気の毒、という顔で眉を寄せる蕾夏を見ていると、いまいち反論し難いものがあるのだが、
―――でもこいつ、自力でなわばり出て来たんだぜ? しかも、電車乗り継いで。
そこのところが、どうにも、納得がいかない。
「あ、すごい、全部食べたんだ。偉い偉い」
すっきりしない表情の瑞樹をよそに、蕾夏は、シーチキンを平らげた黒猫に、至極ご満悦のようだ。ぺろぺろと毛づくろいをしている猫の様子に、嬉しそうに目を細めている。
―――…ま、蕾夏を喜ばすために連れて帰った、と考えれば、いいか。
結果オーライ、だ。息をついた瑞樹は、仕方ないな、と、この妙な猫に一晩宿を貸すことを納得したのだった。
***
猫にシーチキンを与え終え、ようやく人間2人も夕飯にありついた。
その間、猫は、廊下とリビングダイニングを繋ぐドアのすぐ傍に置いた段ボールの中で、じっと黙って丸くなっていた。爪を研いだり、箱から出ようとしたりするのでは、と思ったが、随分と大人しい猫のようだ。そして、おなかいっぱいになって眠くなったのか、ほどなく眠り込んでしまった。
動物の中でも、猫はかなり好きな方である蕾夏は、食事の間も、時折猫の方を見て、つい顔を緩めてしまっていた。
―――かーわいー…。野良だとしたら、随分毛並みが綺麗だよなー。いいなー。
「…まぁた、見てるし」
軽くむっとした表情で、瑞樹に睨まれる。
「だぁって、可愛いんだもの」
「あんまり情を移すなって。明日にはスタジオに返すんだから」
「わかってるけどさぁ…」
瑞樹はあの猫を、可愛いとか思わないのだろうか。こんなに可愛いのに―――自分を慕ってくっついてきた(多分)猫に対して、随分と冷たい態度を取る瑞樹に、蕾夏はちょっと不満げに唇を尖らせた。
結局、猫は、2人が食事をしている間ずっと眠り続け、洗い物が終わった頃になって、ひょっこり目を覚ました。どうやらウトウトしていただけらしい。
食後の時間、蕾夏はまた段ボール箱の傍にしゃがみこみ、飽きることなく猫を眺めた。が、瑞樹はさっぱり興味がないらしく、昨日届いた、自分の写真が掲載されている雑誌ばかり眺めていた。
「あ、そういえば、昼に奏からメールあった」
今思い出した、という口調で、瑞樹が雑誌をめくりながら呟いた。
「何て?」
「今日、午後から時間が取れそうだから、近くの不動産屋に行ってみる、って」
「へーえ。決まるといいよねぇ…。いくら黒川さんがイギリス行っちゃったまんまでも、やっぱり居候状態って、自分の部屋じゃないみたいで落ち着かないもんね」
「普通はな」
「……」
―――普通はそうだけど、奏君なら気にしないんじゃないか、って意味かな、今の。
たった5文字の意味を、暫し、考える。が、考えている途中で、猫が起き上がり、うーん、と伸びをしたせいで、蕾夏の考え事は中断してしまった。
ひとしきり伸びをした猫は、おすわりのポーズをとり、チラリと蕾夏の顔を見上げた。が、あまり蕾夏には関心がないのか、すぐに目を逸らし、段ボールに敷き詰めた新聞紙の端っこを、足でちょいちょいと弄って遊び始めた。
「ね、撫でてみてもいいかな」
健康な猫かどうかわからないから、と、瑞樹に言われ、さっきは一切触らせてもらえなかったのだ。でも、この光沢のある毛並みの手触りがどうしても気になる。
だが、蕾夏の言葉に雑誌を置いた瑞樹は、少々渋い表情だ。
「噛まれたり、引っかかれたりしたら、まずいかもしれないだろ」
「…さっき瑞樹、さんざん触ったじゃん、この子に」
「…気をつけろよ」
それを言われると、反論できないらしい。渋々了承する瑞樹ににっこり笑い返し、蕾夏は猫の方に向き直った。
「猫ちゃん、ちょっとだけ、ごめんね」
そう言って、猫に手を伸ばしたのだが。
蕾夏の指が猫の喉の辺りに触れたその刹那、猫は、パッ、と警戒したように顔を上げ、蕾夏の顔をじっ、と見つめた。
―――あ、あれ?
なんだか、さっきと態度が…。
でも、引っかいてくるとか、威嚇するとか、そういう態度を取る気はないらしい。恐々、猫の喉を撫でてやる蕾夏に対し、猫は、警戒レベル3、といった感じで身構え、ただただ蕾夏の顔を見つめ続けた。
「……なんか、凄い警戒されてるんだけど」
「? そうか?」
「さっき、瑞樹が抱っこして段ボールに入れた時とは、全然態度、違ってない?」
蕾夏のセリフに眉をひそめた瑞樹は、仕方なさそうに立ち上がり、様子を見にやって来た。
「ほら」
「…確かに、警戒してるな。どれ」
手を引っ込めた蕾夏の代わりに、今度は瑞樹が、猫の喉を撫でてやる。
すると。
「!」
ごろごろごろ。
明らかに喉を鳴らして、猫は瑞樹の手に擦り寄ってきた。もう、どこからどう見ても、蕾夏の時とは180度正反対だ。
「―――…」
異様な空気が、2人と1匹の間に流れる。
「…この子、絶対、メスだと思う」
「はぁ!?」
「だって、どう考えても変だよ、この差! 自慢じゃないけど、私も結構動物には懐かれやすい方なのに。なんでこんなに差が出る訳?」
「知らねーよ。前の飼い主に似てるとか、なんかそんな事情でもあるんじゃねーの?」
「えー…、絶対、女の子なんだよ、この子ー…。瑞樹のこと気に入っちゃって、それでついて来たんだよ、きっと」
面白くなさそうに蕾夏が唇を尖らせてそう言うと、むっとした顔をしていた瑞樹が、ちょっと表情を変える。そして、蕾夏の顔を覗き込んで、意味深に笑った。
「……ふーん。お前、猫に妬いてんのか」
「! ちっ、違うってば! 妬いてるんじゃなくて、猫が、」
「猫なんて、どーでもいいのに。面白い」
「だから違うって……!」
蕾夏の抗議を無視して、瑞樹の手が、蕾夏の後頭部に回る。
え、と思う間もなく、ふざけたように唇に軽くキスをされた。顔を真っ赤にした蕾夏は、慌てて瑞樹の肩を押した。
「っ、ちょっと!」
「何、」
「猫、が、見てるのにっ!」
「は? 見てても、相手は猫だろ」
「それでも気になるの!」
「俺は気にならねー。見せつけてやれ」
「そ―――…!」
そんな、と更に抗議しようとした唇を、簡単にさらわれる。
今さっきのふざけ半分のキスとは違い、今度は深く、唇を重ねられる。まさか本気で猫に見せつける気なんじゃないでしょうね、と焦る頭の片隅で、蕾夏がちょっとだけ思った時。
みゃーっ! みゃーっ! みゃーっ!
猫の大ブーイングが、熱烈キスシーンを妨害した。
ぎょっ、として、思わず唇を離し、2人して猫の方に目を向ける。すると猫は、半分段ボール箱から身を乗り出し、その角の辺りをバリバリ引っかきながら、警戒レベル5で鳴きまくっていた。
「……………………」
多分―――嫉妬に狂った女の抗議行動に見えたのは、蕾夏だけじゃないだろう。
蕾夏の目が、瑞樹の顔を流し見る。瑞樹も、疲れたように蕾夏の方を流し見た。
―――…やっぱり、メスだったのかもしれない。
あまりの剣幕に2人が呆然とする中、猫は、軽々と段ボール箱を抜け出すと、ぴたりと鳴きやんだ。
そして、くるりと踵を返すと、開いていたドアから廊下へと出て、玄関の方へとトコトコ歩いて行った。
「あ、あれ?」
ようやく、事態が思わぬ方向に動き出したことに気づいた2人は、立ち上がり、猫の後を追った。
猫は、玄関のドアの前に、ちょこんと座り込んでいた。そして、2人の方を振り返り、みぃみぃ、と鳴いた。
「…出せ、ってことなんじゃねーの」
「えぇ? でも、外、雨だよ?」
なわばり外の場所で、しかも雨の中、日も落ちた真っ暗闇に出すなんて―――躊躇する蕾夏に、瑞樹は少し目つきを険しくした。
「じゃあ、何か。キス1つで大ブーイング起こす猫を、一晩置いておけってか。あの分だと、絶対寝床にまで潜り込んできて、俺らの邪魔するぞ」
「…別にいいじゃない、2人と1匹で川の字で寝れば」
「…実行したら、ロフトからバカ猫放り投げるからな」
そんな2人のやり取りに焦れたように、猫がまた、みぃみぃ、と鳴き声を上げた。
本人にねだられては、蕾夏が心配の押し売りをする訳にもいかない。ため息をついた蕾夏は、鍵を開け、ドアを押し開いた。
数十センチ開いたドアの隙間から、黒猫はスルリ、と実に優雅な動きで、外へと出て行った。
ドアから顔を覗かせ、その行く末を見ていると、廊下に出た猫は、全くこちらを振り返る様子もなく、軽やかな足取りで廊下を進んで行った。そして、まるで勝手知ったるマンションであるかのように、ちゃんと階段の方へ向かい、階段を下りて行ったようだった。
「…大丈夫かな…」
眉をひそめる蕾夏に、
「大丈夫だろ」
とあっさり言い、瑞樹は、もう興味をなくしたように、さっさと部屋の中に引っ込んでしまった。
―――瑞樹に懐いて来た子なのに、つれないなぁ…。
まあ、勝手について来られて迷惑した部分もあるのだろうから、仕方ないのかもしれないが―――無事でいてね、と心の中で祈りつつ、蕾夏はドアをパタン、と閉めた。
―――せっかく段ボール箱空けたのになぁ。
空っぽになってしまった段ボール箱を見下ろし、蕾夏は、ちょっと寂しそうに眉を寄せた。
「ねぇ、瑞樹、この段ボール箱―――…」
畳んじゃった方がいいよね、と言いかけて―――蕾夏は、その続きをピタリと止めた。
「……」
先に部屋に引っ込んでしまった瑞樹。
それなのに、見れば、ベランダに続く掃き出し窓を少しだけ開け、外の様子を眺めていたのだ。
こんな時間、小雨のパラついている外を見たところで、見えるのはお向かいのアパートの窓の灯り位のものだ。瑞樹が何を気にして窓を開けたのか―――それは、ついさっき出て行った猫以外、考えられない。
―――…可愛いと思ったんなら、もっと構ってあげればよかったのに…。
と、その時、テーブルの上に投げ出してあった瑞樹の携帯電話が鳴った。
振り返り、眉をひそめた瑞樹は、窓をぴしゃりと閉めて、携帯電話を手に取った。液晶画面で、電話主の名前を確認したのだろう、その表情が、僅かに変わった。
「はい。……ああ、お疲れ」
抑揚のない、第一声。念のため、「誰?」と蕾夏が訊ねると、瑞樹は声に出さず、唇の動きだけで「奏」と返してきた。
「いや、今は別に、何も。……ああ……それで? …………はぁ!?」
どういう話の流れなのか、瑞樹が突如、酷く憤慨したように眉を上げた。
「外国人お断りの不動産屋!? ……ああ、そういう所は、どうせ偽造パスとオーバーステイが怖くて“外国人NG”にしてるんだろ。 …は? 知らなかった? ちょっとは考えろよ。で、お前、反論したんだろうな? ―――バカヤロウ、すごすご帰って来るんじゃねーよっ」
―――ああ、つまり、奏君が部屋探しに行った不動産屋さんが、外国籍の人お断りの店で、イギリス国籍の奏君は追い返されてしまった、と。で、奏君は反論せず、すごすご帰って来ちゃった、と。
「バカ、開き直るな。……あああ、だからって落ち込むなっ! ……ああ、それは、気にするな。もう1ヶ月以上、冷蔵庫とレンジに生活スペース圧迫されて生きてきたから、あと2ヶ月続こうが3ヶ月続こうが大差ねーよ。遠慮なく俺たちの新居を侵略し続けろ」
気にするな、と言いつつ、淡々とした表情で奏の罪悪感をグサグサ刺激しまくっている。
そんな瑞樹の様子を、暫しぽかんと見ていた蕾夏は―――堪えきれず、吹き出してしまった。
本当に、天邪鬼だなぁ、瑞樹の愛情表現って。
でも、本音を見抜いている蕾夏から見ると、そういう瑞樹は、ちょっと可愛いかもしれない。
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