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ロンドンで半年間一緒に暮らしていた頃、瑞樹は、蕾夏のある特徴に初めて気がついた。
それは、時田の撮影のためのロケハンに、湖水地方へ行った時のこと。
相当、寒い夜だった。当初予定していたホテルが手配ミスで移動になってしまい、本来より1ランク上のホテルに泊まることができたのは良かったのだが、名門老舗ホテルの暖房はあまり効きが良くなかった。
「寒いねぇ…。瑞樹、大丈夫?」
「……なんとか」
コッツウォルズの北風に晒された瑞樹は、風邪をひきかけていた。昼間の疲れもあいまって、フラフラ状態である。
早々にベッドに入ったが、高級羽毛布団に慣れていない身には、心もとない軽さしかないそれに包まっても、あまり暖かくは感じられなかった。
「こんなことなら、ツインを取っておきゃよかったな…。なるべく離れて寝ろよ。風邪うつるから」
「大丈夫だって。それに、くっつていた方があったかいでしょ」
瑞樹の心配をよそに、蕾夏はそう言って、できるだけ瑞樹にくっつくようにして眠った。せっかく日本の標準サイズより大きなダブルベッドなのに、2人して、その中央に丸まって寝ているのは、ちょっともったいない図かもしれない。が、蕾夏の言う通り、お互いの体温のおかげで、ほどなく寒さは解消され、瑞樹はなんとか眠りにつくことができた。
ところが、真夜中。
「……」
寒い。
もの凄く、寒い。
あまりの寒さに、瑞樹は目覚めた。
だが、布団はちゃんと被っているし、蕾夏もすぐ隣に眠っている。なんだってこんなに寒いんだ、と、寝ぼけた頭で暫し考えた末、どうやら熱が出てきたらしい、と瑞樹は判断した。
―――やばいな…。
明日も、スケジュールはびっしり入っている。しかも旅先だ。寝込んでいる場合ではない。布団から腕を出した瑞樹は、布団の上に掛けておいた筈の上着を手探りで探した。
すると。
「……どうしたの? 寒い?」
突然、すぐ隣に寝ている蕾夏が、囁くようにそう言った。
眠っているものとばかり思っていた瑞樹は、驚き、少し体を引いて蕾夏の顔を覗き込んだ。
「起きてたのか?」
瑞樹が訊ねると、常夜灯の中、微かに見える蕾夏の顔が、くすっ、と微笑んだ。
「ううん、瑞樹が起きた時、目が覚めたの」
「……」
白い手が、瑞樹の額に伸びる。布団の中にあった筈の蕾夏の手が、瑞樹には冷たい位に感じた。
「―――…やっぱり、熱い」
「…ちょっと、な」
「もう1回、薬飲んでおいた方がいいかもね。今、何時かな…」
そう言うと、蕾夏は枕もとの電気をつけ、最後に薬を飲ませてから十分な時間が経っているのを時計で確認し、いそいそと起き出した。そして、水を汲んできたり薬を用意したりと、てきぱきと動き回った。
初めて気づいたのは、多分、この時だ。
その後も、瑞樹が何かで起き出すと、蕾夏は決まって目を覚ました。
目を覚ます時に、無意識のうちに腕を伸ばすなどして蕾夏を起こしてしまっているのか、と思ったが、そうでもないらしい。僅かに体を動かした振動が、寝ているベッドを通じて蕾夏に伝わり、それで目覚めているのかもしれない。だがその振動は、恐らく瑞樹なら起きていてもほとんど気づかないレベルだ。
こうしたことは、ロンドンを離れ、日本に戻ってからも、何度かあった。
瑞樹の部屋で一晩過ごした時、偶然、真夜中に小さな地震が起きたことがあったのだが、瑞樹はそれを、翌朝蕾夏に聞かされるまで、全く知らなかった。
「地震? そんなの、あったか?」
「あったよ。瑞樹も起きたかな、と思ったけど、すっごい気持ちよさそうにすーすー寝てた」
「…なんか、俺だけ鈍いみたいで、むかつく…」
「あはは、そんなことないよ。私がちょっと変なだけで」
蕾夏のこの言葉は、謙遜ではなかった。昨晩の地震のニュースは、ネットの地域ニュースにやっと載っている程度のもので、その震度は、瑞樹が住む辺りでは震度2だったのだ。事務所で会った溝口に訊いてみたら、案の定、瑞樹より高い階に住んでいるにもかかわらず「は? 地震? いつ?」という反応だった。
なんでそんな少しのことで目が覚めるんだ、と訊いたところ、蕾夏は首を傾げつつ、答えた。
「うーん…なんでかなぁ? 昔からそうなんだよね。お父さんもお母さんも気づかなかった地震で、私だけ目を覚ましたりとか。私が眠ってからお父さんが帰ってきたりすると、ドア閉めてても“あ、帰ってきた”って気づいてたし」
「いつ頃から?」
「いつかなぁ。覚えてないけど―――ああ、高校生の頃に、お母さんに言われた。“蕾夏は、ちょっとしたことで、すぐ目を覚ます”って。眠りが浅いのか、って訊かれたけど、自分では熟睡してるつもりなのに、パッ、と目が覚めたりするんだよねぇ…」
瑞樹も、実は、神戸で父と暮らしていた頃は、少しのことで目を覚ましていた。
その原因は、はっきりしていた。母が残した傷跡だ。殺されそうになった時の経験から、心から安心して眠る、なんてことは、とてもできなかったのだ。
多少マシになったのは、一人暮らしに慣れてから―――ここには自分しかいない、誰も来ない、その安心感から、悪夢にさえ邪魔されなければ、外界の刺激で目を覚ますことはまずなくなった。
多分……蕾夏のケースも、“あのこと”が無関係ではないだろう。直接トラウマと繋がることがなくとも、人の気配や周囲の異常に、病的なまでに敏感になってしまう―――自制というストッパーの外れている時だからこそ、その傷がそのまま、意識しないうちに出てくるのだろう。
一緒にいる時間が増えても、まだ悪夢を見る恐怖心を完全には克服していない2人は、相変わらずあまり寝つきは良くない。それでも瑞樹は、滅多なことでは目を覚まさなくなった。蕾夏の体温が傍にあるだけで、安心して熟睡できる。
寝つきが良くなった、という点では、蕾夏の方が良くなったように思うが―――やっぱり、こういう所で少しずつ、過去の傷跡がちらほらと顔を出すものらしい。
「きっと、野生の本能が退化せずにちゃんと残ってるんだよ。火事とか起きたら、瑞樹は相当危ないけど、私はすぐ気づいて逃げられると思うもん」
蕾夏自身は、自分のこの癖をあまり悪くは思っていないらしく、むしろ自慢げにそんなことを瑞樹に言ってみせた。
「…寝つきはお前の方がいいから、眠りばなの火事なら、俺の勝ちだな」
「えー、何それ。そういう時は起こしてよ」
「お前こそ起こせっ」
ポイントのずれた部分でそんな文句を言い合ったりして、茶化したこともあったが。
でも、蕾夏がほんの少しのことで目を覚ますたび、いつになれば自分の傍で100パーセント心を休められるようになるのだろう―――と瑞樹は少し胸を痛めた。
***
ドーン! という衝撃に、瑞樹はさすがに驚き、目を覚ました。
何だ? と、慌てて目を開け、起き上がる。暗闇で辺りを見回すが、何が起きたかさっぱりわからなかった。
途端、カーテン越しに、鋭い光が部屋の中を照らした。
「うわ、」
ドーン!!
雷だ。
しかも、衝撃で地面が揺れるほどの、迫力の大音量。
ガラガラゴロゴロいう雷鳴に、思わず耳を塞ぐ。眠りつく前、確かに雨が降っていたが、今窓の外から聞こえる雨音は、いわゆる「バケツをひっくり返したどしゃ降り」状態だ。このうるささで、よく眠っていられたな―――自分の呑気さに呆れた瑞樹は、そこでハッ、とあることに気づき、枕もとの電気をつけた。
「…………」
大慌てで起き上がったのだから、与えた振動は結構なものだった筈だ。それに、この雷鳴と雨音―――以前の蕾夏なら絶対、余裕で目を覚ましていただろう。
なのに。
見下ろした先。瑞樹の、すぐ隣で―――蕾夏は、すやすやと熟睡していた。
ちょうど雷雲が頭上を通過中なのか、ピカッ、と光ると同時に、バリバリバリ、という、独特の破壊音を伴った雷鳴が轟いた。
だが、蕾夏の寝顔は、1ミリたりとも動かない。幸せそうにすら見える表情で、静かに枕に片方の頬を埋めている。
周囲の状況と、なんてミスマッチな表情。よく、こんな中で、眠れるな―――半ば呆れつつ、瑞樹は、変な感慨のようなものを感じた。
―――しかし、よく寝てるなぁ…。
ふいに、いたずら心が起きてくる。
再び寝転び、頬杖をついて蕾夏の寝顔を覗き込んだ瑞樹は、眠ったままの蕾夏の頬に軽く触れた。当然、この程度では、蕾夏の寝顔はピクリとも動かない。
そのまま、蕾夏の頬を指でつまむ。
更に、ぎゅー、っと引っ張ってみる。
それでも、蕾夏は全然、起きなかった。
―――…お……面白い……。
頬を引っ張られたままの蕾夏の寝顔そのものも相当面白いが、ここまでしても本人は幸せそうに眠っている、という、この妙な状態もかなり可笑しい。こみ上げてくる不謹慎な笑いがかみ殺しきれず、瑞樹の肩が小さな笑い声に合わせて震えた。
あまり引っ張りすぎてはまずい、と思い、蕾夏の頬から指を離し、ぽんぽん、とその頭を軽く撫でる。それでも蕾夏は、すやすや眠ったままだった。
可笑しいのに―――なんだか、泣きたい気分だ。
気づいたのだ。考えてみれば、一緒に住み始めて、半年ほど経った頃から―――以前のように蕾夏が目を覚ますことは、ほとんどなくなったな、と。
雷のピークを過ぎるまで、瑞樹は、飽きることなく蕾夏の寝顔を眺め続けた。
そして、5分ほど経っただろうか。雷鳴が、「ドーン」という衝撃音から「ゴロゴロ」という雷らしい音に変わっていき、雨音も幾分弱まった。この分なら、10分も経てば遠雷程度にまで収まるだろう。
そろそろ、寝るか―――息をついた瑞樹は、電気を消そうと、蕾夏の頭に置いていた手を離した。
すると。
「―――……んー……」
よく眠っていた筈の蕾夏が、眠そうな声を上げた。
ライトのスイッチに手を伸ばしかけていた手を止め、驚いて振り返る。見ると、蕾夏は眉根を僅かに寄せ、瑞樹が今さっきまで手を置いていた辺りを手で探っていた。
うっすらと、蕾夏の目が開く。3秒後、照明の光に気づいたのか、その目が驚いたようにパチリと開いた。
「あ…、れ? どうしたの、瑞樹」
パチパチ、と目を瞬く蕾夏は、瑞樹が何故起きているのか不思議でしょうがない、という表情だ。雷のせいで、と答えようとする瑞樹の先手を取って、カーテン越しに、稲光が部屋に射し込んだ。
5秒弱して、雷鳴が轟く。勿論、瑞樹を起こしたあの音の数分の1の衝撃だ。だが、蕾夏は、その音にびっくりしたように、びくっ、と大きく体を跳ねさせた。
「! なっ、何、雷!?」
「……大分、マシになったけどな」
「えっ、そうなの? これでマシって……じゃあ、さっきまでって、どんなだったの?」
「そりゃもう、地響きがするほど」
「うそっ。うわー、全然知らなかったよ」
なんで気づかなかったんだろう、と首を捻りつつ、蕾夏はごそごそと起き上がり、身を乗り出すようにして窓の方を覗き込んだ。そして、窓を叩く雨音や、またすぐに射し込んできた青白い稲妻の光を確認し、「凄いねぇ」と感心したように言った。
―――ほんとに、まるっきり気づいてなかったんだな。
改めて、蕾夏の熟睡度を見せられ、くすっ、と笑ってしまう。
スプリングが僅かに軋んだだけで目を覚ましていたのと同じ人物とは、到底思えない。心の安定は、ここまで人を変えるものなのだろうか―――たったこれだけのことだが、なんだか奇跡を見せられたような気分だ。
「……あれ?」
雷雨に納得したのか、再び寝転がった蕾夏が、ふいに不審げな声を上げた。
どうしたのだろう、とその顔を覗き込むと、蕾夏は、声同様の不審げな表情をしていた。
「どうした?」
「え? あ、ううん、たいしたことじゃないけど……」
眉をひそめた蕾夏は、そろそろと手を動かし、自らの頬に触れた。
「なんか、ほっぺたが、痛い」
「……」
「変だなあ……。何かやったっけ、私」
言える訳がなかった。
大騒音でも起きない蕾夏が面白くて、蕾夏の頬を引っ張って、その無反応を面白がっていたなんて。
「なんだろう。虫にでも刺されたのかな。ねぇ、何かなってる?」
事情を何も知らない蕾夏は、そう言って瑞樹に、鈍い痛みを訴える頬を心配げに向けた。だが、そこにはいつもと同じ白い頬があるだけで、虫に食われた跡などある筈もなかった。
―――っつーか、虫に食われたら、普通は痒いんだろ。なんで痛いんだよ。
窓の閉まった部屋で、蜂に刺されたとでも思ったのだろうか。妙な方向に想像を働かせる蕾夏に、瑞樹は思わず吹き出した。
「いや、何ともなってない」
「ほんと? うーん、じゃあ、どうしたんだろう…」
「ま、深く考えるな」
そう言って、さっき引っ張ってしまった頬に軽く唇を落とす。
「ほら、治っただろ」
「―――なんか、怪しいよ、瑞樹」
ここでようやく、瑞樹が何かした、という可能性に気づいたのだろう。蕾夏の片方の眉が、不審げに上がる。まあまあ、と適当に誤魔化した瑞樹は、それ以上の追及を避けるように、枕もとの灯りを消し、蕾夏を抱き寄せた。
外は、大雨。
雨音と雷鳴の中、瑞樹と蕾夏は、灯りを消して3分後には、静かな寝息をたてていた。
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