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どうやら隣人は、風邪をひいてしまったようだ。
「Lullaby of Birdland, that's what I always hear when you sigh. Never in my wordland could there be ways to reveal in a phrase how I feel...」
―――それでも歌うんだよな。
昨日届いたばかりの新品のベッドの上で、奏は、昨日より高音の出切らない歌声をぼんやり聴いた。
昨日も、その前の日も、隣人は毎朝必ず歌を歌う。発声練習らしきものも多少混じっているが、流れてくるメロディは、いわゆる“ジャズ”だ。
先日見た、まだ幼さの残った顔を思い出し(と言っても、やっぱり詳細は思い出せないのだが)、歳の割に随分渋い趣味だなぁ、と思う。いや、ジャズが実際に“渋い”のかどうかは、別に音楽に特別造詣が深い訳ではないので分からないが、自分がハードロックやパンクが好きな方なので、ジャズはどうもピンとこない。
―――ジャズって言うと、暗い照明の大人っぽいバーで、オンザロックとか傾けながら聴く音楽、ってイメージが先行するよなぁ。少なくとも、朝陽を浴びながら聴く曲じゃない気ぃするぞ。
風邪をひいても歌うなんて、よっぽど好きなんだな、と考えていると、枕元に放り出しておいた携帯が鳴った。
「―――はい」
『一宮君? 佐倉です。おはよ』
「あー、おはよう。何、こんな朝早くから」
と言いつつ、時計に目をやる。まだ7時台だ。
『ごめんごめん。昨日の夜電話したかったんだけど、ちょっと付き合いがあってね。…一宮君、今日って出勤は何時?』
「え? ええと、今日は昼から閉店までのシフトだけど」
『じゃあ、午前中に、こっち寄ってくれる? ちょっと緊急のオファーがあるのよ。一宮君向きかどうか、ちょっと微妙なんだけど』
それを聞いて、寝起き顔だった奏の表情が、瞬時に引き締まった。仕事の話となれば、否が応にも脳が反応してしまう。
「分かった。事務所だよな?」
『ええ。今日はあたし、11時半入りでリカコの撮影に同行するから、できれば10時までに来てくれると嬉しいけど』
「10時、ね。了解」
『じゃ、また後で』
言うが早いか、電話が向こうから切れた。
「…はやっ」
大体、佐倉からの電話というのは、こんな風に用件のみ伝えて1分で終わることが多い。事実、時計を見ると、先ほど時間を確認した時から長針がほとんど動いていなかった。全く、相変わらずだな―――苦笑した奏は、ピッ、と電話を切り、携帯をベッドの上に放り出した。
それと同時に、隣人の歌声が、途切れた。
「……」
今日はもうこれで終わりかな? と思ったのだが。
たっぷり1分間の沈黙の後―――聴こえてきたのは、自棄になった歌声だった。
「えん、だああぁーぃあぁー、うぃるおーるうぇい、らぁぶ、っゆーふうぅー」
おい。
いきなり『ボディガード』かよ。
しかも、なんてベタベタなジャパニーズ・イングリッシュ。ホイットニーが泣くぞ。
最後の「You」の言葉を高音で伸ばし続けるところで、声が180度ひっくり返った。直後、ゲホゲホゲホ、とむせている声が、窓ガラス越しでもはっきり聞こえてきた。
「…何やってんだ、あいつ」
多分、思うように声が出ないことに苛立った末の暴挙だろう。その挙句が何故、普通のジャズナンバーではなく、ホイットニー・ヒューストンの『I will always love you』なのか、その辺がいまいち理解できないが。
そこまでして歌うなって。大人しく風邪を治せよ。
という奏の心の声が届いたのか、隣人の歌声は、それ以上聴こえてこなかった。
***
佐倉の事務所は、ありがたいことに、奏の新居から“Studio K.K.”へ向かう途中にある。
いわゆる空きビルを改造してSOHOやベンチャー向けに貸し出している物件の1つ。こつこつ貯めた資金を元手にしてモデル事務所を立ち上げたばかりの佐倉には、うってつけのオフィスである。
ただし、若手企業家の支援のためにあるような貸しオフィスだから、年商が入居条件を上回れば、追い出される。自力でもっと高いオフィスを借りろ、ということだろう。家賃が安いのは嬉しいが、だからといって永遠にこのオフィス止まりは不甲斐ない。だから佐倉は「3年以内にここを出るのが目標」と言っている。
―――ま、この人なら、有言実行で本当に3年以内に出て行くんだろうけど。
昨日の接待で飲みすぎちゃって、と言いながらトマトジュースを一気飲みしている佐倉を眺め、奏はそんなことを思った。
佐倉のことは、実を言えばあまりよく知らない。
高校生の頃からモデルをやっていた、とのことだから、この春モデルを引退するまで、実に10年以上にわたって第一線で活躍していたことになる。徹底して「モデル」にこだわりがあるらしく、モデルからタレントや女優に転身、なんていうありがちなパターンにはならず、あくまでも「モデル」を貫いた。奏よりキャリアの長いモデルは沢山いるものの、日本人でこれだけ長い間モデル一本で生きている人間は、そうそうお目にかかれない。そういう意味で、同じモデルとして、奏は佐倉を尊敬している。
でも、もっと凄いのは、まだまだモデルとしてのオファーが来る身でありながら、完全にモデルから抜け、自らモデル事務所を立ち上げてしまう、そのバイタリティだ。
高校生の段階で既に「将来はモデル事務所を興すんだ」と決めていたそうで、経営者となることを視野に入れて、大学も経営学部を専攻したという。そもそも、第一線で仕事をしながら大学にも行って留年せず卒業しているのだから、そのポテンシャルたるや、相当なものだろう。
ある意味奏も、まだモデルを続けながらも引退後の道を―――メイクやスタイリストといった道へ進むための方法を模索している状態だが、佐倉の長期計画には到底敵わない。
こういう人だからこそ―――知り合って間もない間柄でも、一緒に組んで仕事をしよう、と決意できたのだ。
「あと2分待って」
もう1本飲む気らしい。既に手には、新たな1本が握られている。お好きなだけどうぞ、と促した奏は、先に椅子に腰掛けた。
「そういえば、昨日って1日休みだったのよね。ちょっとは家財道具、揃ったの?」
プルトップを引きながら訊ねる佐倉に、奏は、ポケットから煙草を取り出しながら軽く首を傾けた。
「あー…、まぁ、そこそこ。ベッド届いたし、100円ショップだっけ、テンに教えられてあそこに細々したもん買いに行って、日用品はほぼ揃ったし」
「100円ショップ、ねぇ…。所帯じみた話だこと」
「初めて行ったけど、面白いよな、あそこ。“はぁ!? これが100円!?”みたいなもんが一杯あって、気がついたらデカい袋5つ分も買い込んでて、さすがに帰りの電車で乗客の注目浴びた」
「そりゃあ、そのルックスで100円ショップの袋を5つも提げてりゃ、注目も浴びるでしょうよ」
「はぁ? ルックスは関係ないだろ」
奏に言わせれば、自分より、佐倉がスーパーのレジ袋を提げてる方がよっぽど違和感ありまくりなのだが―――奏がムッとしたように眉を寄せても、佐倉はトマトジュースをあおりながら、肩を竦めただけだった。
「けど、ゼロからのスタートって、結構お金かかるんじゃないの? あたしは一人暮らし始めたの、随分昔で忘れちゃったけど」
「うーん…。オレは、金かかってない方なんじゃない? ベッドは買ったけど、エアコンついてたし、クローゼットあるから家具もあんまり要らないし。レンジも冷蔵庫も、結構綺麗でまだまだ使えそうだし―――あとはテーブルと引き出し2個位とカラーボックスでもありゃ、十分かな」
「おや」
トマトジュースを飲み干した佐倉は、その缶をテーブルに置くと、軽く眉を上げた。
「もう搬入済みだったんだ。お下がりの冷蔵庫とレンジ」
「……」
煙草をくわえかけた奏の手が、ぴたり、と止まる。
「木曜入居で、まだ週明け月曜日じゃないの。へーえ、不便だろうってことで、さっそく運んでくれた訳ね」
「…そんなんじゃないって。ちょうど撮影で使う家具類をスタジオに運び込むのに業者を頼んでるから、ついでに積み込めばあいつらも楽だから、って…」
「ふーん。へーえぇ」
―――チキショ、面白がりやがって。
楽しげに、思いっきり含みを持たせた言い方で「へーえ」を繰り返す佐倉を、思わず睨む。奏は、煙草の煙を大きく吐き出しながら、ぷい、と視線を逸らした。
そんな奏に、佐倉はからかい笑いをやめて、ふっと和やかに微笑んだ。
「良かったじゃないの。いい付き合いが出来てるみたいで」
「……」
「キミが望んだことでしょ? 自分の立ち位置―――心地よいと思える場所。…上手くいってるように、あたしには見えるけど?」
―――…かも、な。
そっぽを向いたまま、心の中でだけ呟いた。
多分、上手くいっている―――表面上は。けれど、表面を1枚剥がしたその下はどうか、と言われたら……よく、分からない。
上手くいってる? どこが? 単にそういうフりをしてるだけだろ。―――本音を言えば、今も、苦しいことの方が多い。時々、疼く胸の痛みから逃げ出したくなるほどに。
でも、それで、構わない。
全ては、覚悟の上で決めたこと。苦しさより何より“ここ”にいることを選んだのは、自分なのだから。
「―――さて、と。じゃ、本題に入りましょ」
奏の返答は、はなから期待していなかったのだろう。佐倉は、あっさりそう言って、書類を手にして奏の向かい側に腰掛けた。奏も、何かを振り払うように最後の煙を吐き出し、多少乱暴に煙草を灰皿の中でもみ消した。
「実は、電話で言ってた“緊急”のオファーの他に、もう1件、打診ていうレベルだけど、一宮君を名指しで希望してきたクライアントがあるの」
「名指しで? どこ?」
「これよ」
佐倉がテーブルの上に置いた書類を滑らせる。簡単な企画書らしきその書類には、とある時計メーカーのロゴが入っていた。
「新製品の、ポスターの依頼。“Clump Clan”のポスターの一宮君を見て、ピンと来たんですって」
“Clump Clan”―――奏にとっては、まさに運命を決めた仕事だ。
イギリスに本社を置く有名ファッションブランド“Clump Clan”。その直営店日本第1号のオープニング・ショーと日本向けポスターが、奏が今年の春来日したそもそものきっかけだった。
あの仕事がなければ、日本に来ることはなかっただろうし、当然、そのショーで知り合うこととなった佐倉と、今、こうして仕事をしている筈もなかった。
そして、あの仕事がなければ―――“彼ら”と再会することも、多分、なかった。
「“Clump Clan”を見て決めた、ってことは、ああいうムードのポスターにする気なのかな」
「さぁ…。それは、どうかな。一宮君のノーブルなルックスが気に入った可能性もあるし、あのポスターみたいな、一種、ガキっぽさを残したやんちゃなイメージを買ってるのかもしれないし。でも、日本じゃ3本の指に入るメーカーだし、受けて損はない仕事よ」
「…損、なぁ…」
はぁ、とため息をついた奏は、組んだ脚を無意識のうちに揺らしながら、暫し考えを巡らせた。
そして、チラリと目を上げると、一言、訊ねた。
「―――カメラマン、決まってんの」
「…そう来ると思った」
今度は、佐倉がため息をつく番だ。呆れたように椅子に深くもたれた佐倉は、窘めるように奏を軽く睨んだ。
「言っていい? 気持ちは分かるけど、我侭すぎ!」
「き、訊いただけだろー? 決まってないんなら、と、ちょこっと思っただけだって」
「あのねぇ。これからもそうやって、“あいつ”の仕事以外は受けないつもりでいる訳?」
「…そんなつもりじゃないって。ただ―――ずっと、偽者の仮面を被せられてたから」
「……」
「“Frosty Beauty”なんて言って、もてはやされて―――オレの顔のパーツに、オレのパーソナリティを無理矢理合わせて、まるで人形みたいにカメラの前に立ってさ。…そこには、“一宮 奏”なんて、欠片もいなかった。あんな思いは、もうしたくない―――オレ自身を活かすことができるカメラマンが撮ったオレを、オレはもう知ってるから」
だから、撮影の仕事を受けるなら、納得のいくカメラマンの仕事しか受けない。
もしもカメラマンを選ぶことができるなら―――迷わず“あいつ”を選ぶ。
「生身の人間を撮ることで、人形を撮ることの無意味さを証明してやる」―――そう言って、奏に“Frosty Beauty”の仮面を捨てさせたカメラマンを。
佐倉は、腕組みをして、奏を真正面からじっと睨み据えていた。
が―――結局、小さく息をつくと、まいったなぁ、という顔で額にかかった前髪を指ではらった。
「キミのそういう気持ち、分からないでもないわよ」
「……」
「幸か不幸か、あたしは、そういう運命的なカメラマンと出会わなかったから。生半可な仕事じゃ納得できない分、損してるなぁ、って思う部分と、逆に…羨ましい部分と、両方あるかもね」
「…ごめん」
奏のギャラは、事務所の収益と直結している。そして、奏はこの事務所で最もギャラの高いモデルだ。さすがに申し訳なくなって奏が身を縮めると、佐倉は苦笑し、テーブルの上の書類を脇にどけた。
「まあ、まだ打診段階だから。もうちょい、クライアント側のイメージやコンセプトを聞き出してくるわ。ああ、カメラマンはもう決まってる。今お店に貼ってあるこのメーカーのポスター、全部そのカメラマンが撮ったやつだから、暇見つけて見ておいて」
「分かった。…で、緊急の仕事は?」
「そうそう、そっちが問題よ」
一転、佐倉の表情が苦々しげになった。珍しい表情に、よほど嫌な筋からの依頼なのだろうか、と奏も眉をひそめた。
「撮影?」
「いいえ。一宮君がだーい好きな、ショーの仕事よ」
「えっ」
ショー、の一言に、奏の目が輝いた。
雑誌撮影でもポスター撮影でもこなす奏だが、元々、一番力を入れていたのはショーモデルの仕事だ。日本で仕事をするにしても、ショーが最優先。だが、いかんせん、ショーモデルのオファーがなかなか来なかったのだ。まあ、ショーと撮影では、1ヶ月の間に行われる絶対数がまるっきり違うのだから、当然なのだが。
「クライアントは、中堅の服飾メーカー。なんでも、決まってたモデルが急に辞退したってんで、そこの広報担当が、前からの知り合いだったあたしに泣きついてきた、って訳よ」
「へぇ…。本番は、いつ?」
「それが、随分急で。明後日の夕方にミーティング、本番は今週の土曜日だって」
「土曜日―――…」
それで、佐倉の渋い顔の理由が分かった。土曜日は、今日撮影の仕事が入っている所属モデル・リカコも、ほぼ1日仕事の撮影が入っているのだ。
この事務所には、比較的キャリアの長いモデルばかりが所属しているが、その中でリカコは一番キャリアが浅く、撮影現場には佐倉が必ず同行している。この事務所に、マネージャーは、佐倉ただ1人―――つまり、リカコの仕事に同行しなくてはいけない佐倉は、奏がショーの仕事を受けても、そこに同行することができないのだ。
「どうする? ギャラも、ふざけるな、ってほどじゃないけど、一宮君クラスとしてはちょっと安いんだけど」
軽く眉を寄せて訊ねる佐倉に、奏はニッと笑い、当然のように答えた。
「受けるよ」
「ほとんどぶっつけ本番な上に、あたしも同行できないし、さほどメリットないわよ?」
「舞台に立てる、っていう、最大のメリットがあるだろ」
「……」
「幸い、土曜日は元々オフだったし。明後日のミーティングの時間だけ、ちょっと確認さして。もし店のシフトと被ってたら、今日これから交渉してくるから」
早速、手帳を引っ張り出して水曜と土曜の欄を埋め始める奏の様子に、まだ渋い顔だった佐倉も、やっと表情を弛めた。
「全く――― 一宮君らしいと言えば、一宮君らしいのかな。これも」
ある意味では、酷く贅沢で、わがままで、野心的で。
でも、またある意味では、酷く無頓着で、採算度外視で、理想主義で。
多分、佐倉でなければ、こんな面倒な奴のマネージメントなど買って出ないだろう―――奏もそう思い、佐倉に苦笑を返した。
***
その日の帰り、なんとか閉店ギリギリの時間に店の近所にあるファッションビルに滑り込むことができた。奏は、宝飾品や時計の売り場を探し、そこで目的のものを無事見つけた。
―――これか。
打診段階の、時計のニューモデルの仕事。打ちっぱなしのコンクリートに貼り付けられた同メーカーのポスターを見上げ、奏は腕組みしたまま眉を寄せた。
腕時計をした手首が今にも折れそうな、華奢な女性モデル。洒落たデザインの時計の、メタリックな光沢のせいだろうか―――彼女の表情は、酷く無機質に、ヒヤリと冷たいものに見えた。
その隣に貼られた、これまた同メーカーのポスター。そちらは男性モデルだ。構図も陰影の出し方も実に見事だし、モデルの表情はまるで精巧に作られたオブジェのような美しさだ。確かに、美しい。美しいが―――それだけだ。
「……パス」
よほど、今度の企画が今のこのポスターからかけ離れていれば別だが、この路線の延長線上にあるものを作るつもりで、奏に目をつけたのだとしたら―――絶対、パス。一番やりたくない類の仕事だ。低く呟いた奏は、くるりと踵を返し、早々にファッションビルを後にした。
「あれ、奏」
ビルの外で、偶然、帰宅途中の氷室と出くわした。
「もっと前に帰ったと思ったのに」
「ああ、ちょっと寄り道してた。…これから、メシ?」
もしそうなら一緒に食べようかな、と思って奏が訊ねると、氷室は悪意のない笑みをニッコリと返した。
「いや。今日は、彼女が手料理作って待ってるから」
「―――ムカツク…」
こっちがシングルなの知ってるんだから、ちっとは遠慮しろよっ。
冗談半分で奏が氷室にキックを入れる真似事をすると、声を立てて笑った氷室は、ごめんごめん、と奏のキックから逃げながら言った。
「あ、でも、ちょっとコンビニ寄りたいんだよな。奏も一緒に行く?」
「コンビニ? あー…、そうだなぁ。なんか弁当買って帰るか。オレ、ローソンがいいんだけど」
「ローソン弁当が好みか…。僕は雑誌の立ち読みしたいだけだから、別にどこでもいいよ」
早々に話がまとまり、奏と氷室は並んで歩き出した。
「そういえば―――弁当買って帰るのはいいけど、お前、どこで食べてるんだ? まだテーブルとか買ってないんだろ?」
「ん? ああ、床の上」
「ゆか!?」
「例のマリリンさんが、不用品のクッションを1つ寄付してくれたんで、それに座って、弁当とか飲み物を床に置いて食ってる。あれでも別にいいんだけど、やっぱ食い難いから、ローテーブル位は欲しいよなぁ…」
「…奏ってさ、」
「え?」
「見た目は一分の狂いもないような完璧な造作の顔をしてるのに、中身はずぼらでいい加減だよな」
「……」
「お前の顔見て、床にあぐらかいてジャンクフードを食べながらぼーっとテレビ見てる姿なんて、誰も想像しないと思うよ。一人暮らしじゃあり得ないような、洒落た丸テーブルのダイニングセットとかに座って、ワインとチーズで優雅な食事してる風景想像してる奴の方が絶対多いと思う」
「―――…げー。趣味じゃねー」
ワインもチーズも、全然趣味じゃない。うんざり、という顔で、奏は首を竦めた。
―――でも、そうなんだろうなぁ、実際。
さっき見た時計のポスターを思い出し、ちょっと憂鬱な気分になる。ぱっと見た瞬間のオレのイメージって、多分、あっちなんだろうな、と。
バーガーキングのフライドポテトが大好きだったり、バスケの1オン1になるとマジになりすぎてラフプレー寸前になったり、スノーボードで骨折してモデル業を2ヶ月も休んだり、高級スーツ1着買うならGAPのバーゲン品を大量に買う方が好きだったり―――そんな“一宮 奏”は、本人を知る人にしてみたら当たり前でも、知らない人にとっては「嘘、想像できない!」なのだろう。
―――絶対、クラシック聴きながらワインとかブランデーを傾けてる方を想像するんだろうな。
実際には、ハードロック聴きながらバドワイザーあおってたりするんだけど。
そんなことを考えながら、氷室とコンビニの店内に入った奏は、ふと、今朝のことを思い出した。
「―――…」
一度だけ見た隣人が、オンザロックを傾けながらジャズに聴き惚れる姿を、無理矢理想像してみる。
「…似合わねー…」
絶望的な似合わなさに、思わず口に出して呟いてしまった。
「? 何か言ったか?」
氷室が不審気な目で振り返る。慌てて「なんでもない」と誤魔化した奏は、雑誌コーナーに氷室を残して、ドリンク類のコーナーへとぶらぶらと向かった。
最近お気に入りの緑茶のペットボトルを掴みながら、こういうのも多分「ペリエしか飲まないんだと思ってた」とか言われるんだろうなぁ、なんて考える。小さくため息をついた奏は、何食おうかな、と惣菜コーナーに足を向けた。
その時。
ふと、日頃なら目を留めない類のものに、目がいった。
それは、アルミパックに入った、のど飴。
「……」
暫し考えた奏は、無造作にのど飴を1袋掴んだ。
***
階段を上がりきった奏は、いつもなら素通りするブルーグレーのドアの前に立った。
201号室―――廊下に面したあかり取りの窓からは、室内の光は漏れていない。どうやらまだ不在らしい。結構遅くまで働いてるんだな、と思った奏は、迷うように顎に手を置いた。
―――それにしても…。
201、の文字の下にある、ネームプレートを見て、眉根を寄せる。
実は、隣人と対峙したあの朝から、ずっと気になっていたのだ。このネームプレートが。今考えれば、昨日、マリリンに布団を返した時にでも訊ねてみればよかった。
“如月”、と、ネームプレートには入っていた。
「―――じょづき……?」
…読めない。
かつて、ある程度の年数、日本に住んでいたとはいえ、当時はまだ中学生だった。そして、同級生にこんな苗字の奴は1人もいなかった。じょづき、じょげつ、にょげつ―――無理矢理読んでみたが、どれも変な名前に思える。本当は何と読むのだろう?
まあ、読めなくても、別に問題はないが。
ぽりぽり、と頬を掻いた奏は、手帳から白紙ページを1枚破り取り、ドアを机代わりにしてそこに一言書き殴った。
『お隣さんへ:お大事に』
のど飴の入ったコンビニの袋の中に、ぽい、とそのメモを放り込む。
奏は、その袋を、隣人宅のドアノブに引っ掛け、ようやく自分の部屋の鍵を開けた。
***
翌、火曜日の朝は、恒例の朝のジャズライブがなかった。
本格的に風邪をひいたかな―――そう思いながら家を出た奏が隣人宅を確認すると、昨日引っ掛けておいた袋が消えていた。多分、隣人が持って入ったのだろう。隣人じゃない第三者が持っていった可能性も、あるにはあるが。
その日、奏が帰宅すると、今度は奏の部屋のドアノブに、白い買い物袋が引っ掛けられていた。
『お気づかいありがとう。Thank you very much!』
多分、日本語が理解できても読めない可能性を考えたのだろう。日英混在したそんなメモと一緒に入れられていたのは、バドワイザーとミックスナッツだった。
―――おおっ、すげー! 分かってるなぁ、隣人!
これでお上品にマロングラッセなんぞが入ってた日には脱力モノだったのだが。まさしく奏にピッタリな隣人チョイスに、奏はいたく感激した。シャワーを浴びた後に、ナッツを肴に飲んだバドワイザーは、久々に美味い酒だった。
風邪が完治するまでは自粛モードなのか、水曜、木曜と歌声は聞こえなかった。
奏の部屋には、テレビがない。見る機会があまりなかったので必要性を感じなかったし、小型ラジオを持っていたので無音の寂しさは十分紛れるからだ。隣人の歌声のない日、目覚めと同時に奏の耳に入ってくるのは、寝る前につけたまま消し忘れていたラジオから聴こえるJ−POPとなった。
金曜日、久々に隣人の歌が復活した。
ただ、どういう訳か、選曲はまたホイットニーの『I will always love you』だった。
あの歌ってジャンルはジャズになるんだろうか、と疑問に思いつつも、CDと間違えたあの最初の歌声にかなり近づきつつある隣人の声に、のど飴も無駄じゃなかったのかもな、なんてことを思った。
そして、翌土曜日には、歌声は無事に完全復活し、最初の日の朝に聴いたのと同じ聴き覚えのあるスタンダード・ナンバーが流れてきた。むせることも、声がひっくり返ることもなく。
―――良かったなぁ、如月さん。まだ何て読むのか分かんねーけど。
自分のことではないが、苦しそうだった声が元の調子に回復する、というのは、純粋に気分のいいものだ。
幸先いいな、と思いながら向かったファッションショーの会場で、奏は、実にいい気分で仕事を終えることができた。
***
「―――…あれ? 佐倉さん?」
楽屋から出た廊下に、人待ち顔で佇んでいたのは、今日はここに来ない筈だった佐倉だった。
奏が声をかけると、佐倉は振り向き、ニッ、と笑ってみせた。
「お疲れ様」
「どうしたんだよ。リカコの撮影に同行したんだろ? 今日って」
「同行したわよ。で、終わったから、その足でこっちに来たってわけ。ショーの最後の最後、2分位だけ見られたわよ。一宮君じゃなく、デザイナー陣がランウェイを歩いてたけど」
「…ああ、グランドフィナーレだけ見たのか」
その時、奏をはじめとするモデル陣は、舞台上に勢ぞろいして、デザイナー陣に拍手を送っていたのだった。つまりオレが仕事してるとこはまるで見られなかったってことなんだな、と、奏は苦笑した。
「ええと、クライアントに挨拶するなら、ここじゃなくて…」
多分、エージェントとして挨拶に来たのだろうと思って、奏がクライアントのいる筈の控え室に連れて行こうとすると、佐倉は笑顔で手を振った。
「あー、その必要はないの。もう挨拶はさっきしたから、会場で」
「は? あ、そうなのか」
「一宮君を待ってたのよ」
何か裏のありそうな笑みを浮かべ、佐倉は奏の腕を取った。
「いい店があるのよ。打ち上げ代わりに、ちょっと付き合わない?」
***
佐倉に連れられて行った先は、とあるビルの地下にある店だった。
レンガ造り風の狭い階段を下りると、正面に、なかなか趣のある扉がある。ガラスをはめ込んだ木製のそのドアの横には、“Jonny's Club”と書かれた真ちゅう製の看板が、壁に直接はめ込まれていた。
どういう店かも知らされずについてきた奏は、ドアの前で、問いかけるような目を佐倉に向けた。すると佐倉は、何の店か説明することなく、どうぞお先に、と身振りで示した。
―――なぁんかありそうだよなぁ…。
思い切り、疑いの眼差しになりつつも、奏はドアを引いた。
ドアは、普通の店舗のドアより、若干重たかった。よいしょ、といった感じでドアを開けると―――途端、店内から、ムーディーな音楽が流れてきた。しかも、結構な音量で。
「ほら、入って入って」
一瞬、音の迫力に足を止めたが、佐倉に急かされ、とりあえず店内に足を踏み入れる。重たい音をたてて閉まるドアを振り返った奏は、もしかしたらこの扉は、音を外に漏らさないための特殊なドアなのかもしれない、と頭の片隅で思った。
その店は、どうやら、居酒屋とかバーとか、そういう類の店らしかった。
ほど良い広さの店内は、飴色をした木製の丸テーブルと椅子が20ほども並び、結構な数の客がそれらのテーブルを埋めていた。明るすぎず暗すぎず、いいムードの照明の店内に、普通の店のBGMより明らかに大きな音で流されているのは、このところ縁づいているジャズだ。やっぱり曲目は分からないが、今流れている曲も聴き覚えのある曲だった。
迫力のある音の出もとは、すぐに分かった。
店の両端に置かれた、かなり年代モノらしい、大きなスピーカー。厨房があるらしい店の後ろの方にも、少し小ぶりの、やっぱり年代モノ風のスピーカーが置かれている。カウンター席のすぐ傍にある柱に、1枚のLP盤のジャケットが掛けられているところを見ると、今流れているのはあのLPらしい。
なんとなく、分かった。
来たのは初めてだが―――ここは、いわゆるジャズ・バーとかジャズ喫茶とか呼ばれる所だ。
「とりあえず、座りましょ」
佐倉に促され、適当な席についた。
すぐに店員がオーダーを取りにきたので、奏は懐かしの故郷の味・ギネスを、佐倉はジンライムを注文した。注文してから、しまった、ジャズにはオンザロックのイメージだったのに、と少し後悔したが―――まあ、ギネスでもいいだろう。
「なかなか、いい店でしょ」
ご機嫌顔で言う佐倉に、まだ店内をキョロキョロ見回していた奏は、半分上の空の返事を返した。
「佐倉さん、こういう趣味だったんだ…」
「そうでもないんだけどね。この店は、たまーに来るのよ。そうだな、月に1回位」
「へーえ…」
「ほら、ピアノとウッドベースがあるでしょ」
奏の腕を軽く握って、佐倉が、2人の席から数メートル離れた所を指差した。
確かに、アップライトピアノとウッドベースがある。よく見ると、その頭上には照明設備らしきものもある。一段上がってるとか、そういう仕掛けはないものの、どうやら、あのピアノがある辺りが、ちょっとしたステージとなっているらしい。
「この店、定期的に、ジャズの生演奏をやってくれるの。ピアノ、ウッドベース、そしてヴォーカル、っていうトリオなんだけどね。チャージ料取らずにサービスで聴かせてくれるなんて、ちょっといいでしょ」
「そんなんで、演奏する奴らに出演料出せるのかよ」
「その分、料理やお酒が若干高めに設定されてるんじゃない?」
「ふーん…」
と、そこまで話したところで、注文したギネスとジンライムが運ばれてきた。
一旦会話を中断した2人は、それぞれのグラスを掲げ、
「お疲れ様」
「おつかれ」
と言い合って、グラスを口に運んだ。
久々のショーで、さすがに疲れていた。気だるさの残る体に、こくのあるギネスがじんわりとしみる。暫し、その余韻を楽しんでいると―――ふいに、店内の音楽のボリュームが下がった。
「?」
フェイドアウトする音楽を不審に思い、目を開ける。完全にBGMの止んだ店内は、それでも、客たちの会話や食器のぶつかる音で多少ざわついていた。
「何、これ」
別に、音楽がなくなった位で会話が周囲に聞こえる訳でもないだろうが、つい条件反射的に小声になってしまう。少し佐倉の方に身を乗り出した奏は、ヒソヒソ声でそう訊ねた。
すると佐倉は、グラスについた口紅を指で軽く拭い、意味深にニンマリと笑った。
「ついてるわね。ちょうど生演奏タイムだったみたい」
「え?」
「ほら」
佐倉に目で示され、奏もピアノの方に目をやった。
さっきまで誰もいなかったそこには、奏と同年代だろうか、思いのほか若い男がいた。堅苦しいスーツなどではなく、シンプルなシャツにデニムという服装で、ピアノの前に座る。あの男がピアニストなのか―――ジャズは年輪を重ねた風貌の“いかにも”というピアニストが弾くもの、というイメージがあったので、奏は少々驚いた。
ウッドベースは、ピアノの男よりは幾分年上らしい。恰幅がよく、大きなウッドベースに負けない存在感だ。
そして―――ピアノとウッドベースから僅かに離れた位置に、スタンドマイクを調整しているヴォーカルがいた。
体格や髪の感じから、それが女性であることはすぐに分かる。
ピアノの男同様、ジーンズにシンプルなシャツ―――へぇ、ジャズってドレス着て歌うもんだと思ってた、と一瞬考えた奏は、パジャマ姿で歌っている隣人を思い出して、そりゃ偏見だな、とすぐに思いなおした。
肩につく位の髪は、伸ばしている最中なのか、裾を梳いたレザーカットのようなスタイルだ。若干外ハネ気味にセットされたその髪は、店内の暗めの照明でも、アジア人特有の艶のある黒髪であることが分かる。今時珍しいなぁ、と感心した奏だったが―――妙なデジャヴに、心臓が、嫌な風に跳ねた。
―――ん?
ちょっと、待てよ。
なんだか、もの凄く、見覚えがある気が―――…。
とそこまで考えた時、舞台の上にある照明が点いた。
常連客も多いのだろう。テーブル席から、拍手が起こる。ある予感に唖然としている奏の向かい側で、佐倉も拍手を送っていた。
その拍手に応えるように、スタンドマイクに手を置いたヴォーカルが、顔を上げる。
その、顔を見て。
「―――…!!!」
奏は、思わず、席を立ってしまいそうになった。
「こんばんは―――ようこそ“Jonny's Club”へ」
笑顔でそう客に挨拶したヴォーカリストは―――確かに、1度顔を見たきりの、あの隣人だった。
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