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― 隣は何をする人ぞ ―

 

 短い挨拶に続き、ピアノの音が響く。
 ウッドベースとピアノ、という、いたってシンプルな演奏だが、生の音というのはやっぱり迫力が違う。生で聴くジャズってこんな風だったんだ、と、奏は、唖然呆然状態ながらも頭の片隅で感心した。
 そして、前奏に続いて店内に響いた歌声に、「他人の空似」という微かな可能性も、完全に霧散した。

 「Lullaby of Birdland, that's what I always hear when you sigh. Never in my wordland could there be ways to reveal in a phrase how I feel...」

 「―――…」
 間違いようがない。この歌は、入居した最初の朝から、何度となく耳にした歌だから。
 軽快なスウィングのリズムにのった歌声は、微妙な音の上げ下げ、発音、節回し、どれをとっても、隣人と同じだった。そして何より、風邪が完治して今朝戻ってきた、あの声―――その透明さに、奏がカナリアに喩えたあの声を、今朝聴いたばかりの奏が間違う筈がなかった。

 なんで、お隣さんが、ここに。
 凄い偶然、などとは、さすがに思えなかった。先ほどから、時折佐倉が見せていた、意味深な笑い方―――唖然状態から復活した奏は、視線をステージから、向かいの席に座る佐倉に移した。
 「……なあ、」
 奏が低く呟いた声など、隣人の歌声にほとんど掻き消されているだろう。が、視線を感じたのか、僅かにでも聞こえたのか、佐倉は奏の方に目を向けた。「何?」という目を。
 「どういうことだよ、これ」
 「え?」
 「どういう」
 「えー? 何?」
 聞こえないって、と眉を顰めた佐倉が身を乗り出す。焦れた奏も、佐倉の方に身を乗り出して、その耳元に怒鳴った。あくまで、演奏の邪魔にならない程度に。
 「どーゆーことだっつーのっ!」
 「何がよ」
 「あれが、だろっ!」
 あれ、とは勿論、現在上機嫌で歌っている、“Jonny's Club”の歌姫である。奏が舞台の方を指差して怒鳴ると、佐倉は少し身を引き、驚いたような目で奏の顔を凝視した。
 「えぇ、何、もう知り合いになっちゃった訳?」
 「は?」
 「なぁんだ…。せっかく驚かせようと思ってたのに」
 あからさまにがっかりした様子の佐倉は、意味が分からずにいる奏のことなどお構いなしに、興味をなくしたようにまたステージに目を向けてしまった。
 ―――なぁんだ、って、なんだよ。
 説明しろよ、と思うものの、この状況では難しい。勢いをそがれた奏は、仕方なく、ギネスのグラスを手にして再びステージの方に顔を向けた。

 ―――それにしても…プロだったのか。上手い筈だよ。
 朝の“あれ”が、果たして練習か、と言われると、微妙だ。ただの鼻歌に近いのかもしれない。体全体で息を吸い、おなかの底から声を出している今の彼女の声は、今朝聴いた歌声とは比べようもないほど本格的で、素人である筈がない、とすぐに分かる。朝の歌声は、ご近所迷惑を考えてあれでもセーブしてたのかもしれない。
 160前後ありそうではあるが、特に背が高い方ではない。長い手足にしろ首にしろ、隣人は決して体格に恵まれているとは思えない。あんな細い体から、どうしてあれだけの声が出るのだろう? やはり、訓練の賜物だろうか。
 凄いなぁ―――幾多の疑問や釈然としない気持ちも忘れ、奏は暫し、その歌声に聴き惚れていた。

 1曲目が終わり、2曲目のスローなバラードが始まった頃、佐倉の手が奏の腕を軽く叩いた。
 「?」
 「この店、リクエストができるわよ。あるんなら書けば?」
 「リクエスト?」
 「ほら」
 言われて、初めて気づいた。テーブルの隅に置かれた小さなメモパッドとボールペンに。
 ―――リクエスト、ったって、オレ、ジャズなんてほとんど知らないし。
 今演奏されている曲のタイトルだって、さっぱり分からない。オレは別にいいや、と、答えそうになった時―――…。
 ふいに。思いついた。
 唯一、リクエストしたい曲を。
 「……」
 あいつ、怒るかな。
 一瞬そう思ったが、奏は思いきってその曲名をメモに書き込んだ。それを2つ折にし、壁際に控えていた店員を呼んで渡すと、店員は、「かしこまりました、この演奏が終わりましたら渡しますので」と答えて引っ込んだ。
 「おや、リクエストしたの?」
 「あー、まあ、うん」
 「意外。一宮君、ジャズなんて知ってたの」
 「…いや、正確に言うと、そうじゃないんだけど…」

 2曲目は、歌ってる時間よりピアノソロの時間の方が長い曲だった。
 演奏が終わり、店内から拍手が沸き起こる。笑顔で軽く頭を下げる彼女の右斜め後ろで、ピアノの男が先ほどの店員からメモを受け取っていた。そして―――メモを見て、固まった。
 多分、意外なリクエストだったのだろう。確かに……ここでこの曲をリクエストする客などいないだろう。奏以外には。そう言えば、ピアノやベースの奴があの曲を弾けるのかどうか、ということが、奏の頭からは抜け落ちていた。まずかったかもしれない、と、奏は一瞬焦った。
 困った様子のピアニストの様子に気づいたのだろう。彼女が、マイクスタンドから手を離し、彼の手元にあるメモを覗き込んだ。

 途端―――その目が、驚いたように大きく見開かれた。

 勢いよく振り向いた彼女は、奏達がいるテーブルとは反対側から順に、店中に視線を走らせた。数秒後、奏ではなく佐倉の姿に目を留めたらしく、目の合った佐倉が笑顔で手を振ると、彼女も僅かに表情を和らげて口の端を上げてみせた。
 が、しかし。
 「―――…!」
 佐倉の向かい側に座る、なんだか見覚えのある外国人風の男を見つけて―――ギョッとしたような表情になった。
 3秒、彼女の目は、奏に釘付けになっていた。
 続いて、奏と佐倉の顔を交互に見比べる。「え? え? 一体何、どーゆーこと!?」という声が聞こえてきそうなリアクションだ。
 「…どーゆーこと、はこっちのセリフだよ」
 「まあまあ、焦らない焦らない」
 思わず奏が呟いた苦々しげな言葉に、元凶である佐倉は呑気な宥め方をした。気を持たせてんのは誰だよ、と睨んだのだが、その険悪な奏の視線を、佐倉はあっさり無視した。

 まだ戸惑った様子の彼女は、少し考えた末、ピアノの男に何事かを耳打ちした。それからベースの男にも同じように何かを告げ、再びマイクスタンドの前に立った。
 「えー…、お客様からのリクエストをいただきましたので、ここで1曲…。今日は、ちょっと趣向を変えて、映画音楽をアカペラでお楽しみ下さい」
 彼女がそう挨拶すると、ピアニストが、ポー…ン、と1つだけ鍵盤を叩いた。どうやら、出だしの音だけを伝えたらしい。その音に軽く頷いた彼女は、大きく息を吸い込むと、おもむろに歌い出した―――ピアノ伴奏も、ウッドベースも従えずに。

 「If I should stay, I would only be in your way... So I'll go, but I know I'll think of you ev'ry step of the way...」

 まるでゴスペルみたいな、ゆるやかな、速度の定まらないアカペラの歌い出し。続いて、お馴染みの歌詞が、サビの部分より柔らかなトーンで歌い上げられる。

 「And I will always love you... I will always love you...」

 『And I will always love you』―――隣人が、自棄になってサビの部分を歌っていた、あの歌だ。

 マイクの前で歌われた、3度目の『ボディガード』のテーマ曲は、この前のようなジャパニーズ・イングリッシュではなかった。ネイティブである奏が聴いてもまるで違和感のない、綺麗な発音の英語の歌詞―――その歌声が、ホイットニーより透明で柔らかいせいだろうか。彼女の歌うその曲は、ホイットニーの歌より、その歌詞の悲しさを表しているように、奏には思えた。

 「So, goodbye... please, don't cry. We both know I'm not what you, you need...」

 “さようなら、どうか泣かないで”
 “貴方も私も分かってる―――貴方に必要なのは私じゃないってことが”

 ―――“I'm not what you need”……、か。
 ……こんなに悲しい歌だったのか、この曲って。

 どことなく、自分と重なる歌だったせいだろうか。
 不覚にも―――奏は、ほんの少しだけ、泣きたい気分になった。

***

 リクエストも含め4曲を歌い上げ、生演奏は終わった。
 どういうことか説明しろ、という奏と、まあ待ちなさいよ、という佐倉が、それぞれに酒の肴や食べ物などを注文し、テーブルが埋まった頃―――…。

 「佐倉さんっ!」
 カナッペに手を伸ばしていた佐倉は、背後から迫ってきた声に顔を上げた。勿論、奏も。
 そこには、ステージに上がっていた時と同じ服装の隣人が、仁王立ち状態で立っていた。“STAFF ONLY”のドアから出て行った筈だったが、ミーティングだか何だかが終わってすぐ引き返してきたのだろう。
 「ああ、お疲れ様」
 「こ…これ、どーゆーこと!?」
 まさに、さっきのリアクション通りのセリフを吐いた隣人は、またしても佐倉と奏の顔を見比べた。オレだって知るか、という奏は、そんな彼女の視線にも憮然とした表情のままだ。
 なのに佐倉は、逆に自分の方が被害者だとでもいうような顔をした。
 「どういうこと、は、あたしの方のセリフよ。後で紹介して“実は同じアパートの人なのよ”って教えて驚かせるつもりだったのに、全く―――入居1週間でもう知り合いになってたなんて、夢にも思わなかったわよ。あの反応を見る限り、単に廊下ですれ違った程度の顔見知りじゃないでしょ?」
 「その程度だよ」
 「その程度だってば」
 奏と隣人の答えが被った。
 あまりのタイミングの良さに、思わず2人して顔を見合わせる。そんな2人の様子に、一瞬キョトンとした佐倉は、堪えきれないように盛大に吹き出した。
 「あ…あははははははは、相性良さそうだわ、キミたち2人は」
 「……」
 「まあ、とりあえず、座りましょ」
 まだ笑いに肩を震わせながらも、佐倉がそう言って自分の右隣の椅子を引く。面白くなさそうな顔をしていた隣人も、諦めたように従い、その椅子に腰を下ろした。
 「何か飲む?」
 席についてホッと一息ついた隣人に、佐倉が訊ねると、隣人は、ちょっと困ったような笑いを浮かべた。
 「どうしよっかなぁ、まだ仕事あるし―――うーん、じゃあ、とりあえずハイネケンで」
 「ハイネケンね」
 ニコリと笑った佐倉は、すぐに店員を呼んでハイネケンをオーダーした。

 「さて、と―――とりあえず、双方を知ってるあたしから、簡単な紹介ね」
 店員が去るのを待って、佐倉がそう切り出す。先に紹介されたのは、何故か奏の方だった。
 「この人は、一宮 奏さん。今年の春に、あたしがモデルとして最後に受けた仕事で知り合って、口説き落としてうちの事務所と契約してもらったの」
 「…えっ、じゃあ、この人ってモデルさん?」
 「そーよ。ロンドンじゃ結構な地位にいるモデルだったけど、今は日本で働いているってわけ」
 「ロンドン―――…」
 隣人の目が、ちらっ、と奏の方を見る。最初の日、英語で話しかけた逸話を思い出したのだろう。苦笑した奏は、佐倉が説明する前に自ら口を開いた。
 「―――オレ、日本人とイギリス人のハーフで、国籍はイギリスなんだ」
 「てことは……イギリス人?」
 「そう。ただ、家の中は日本語だったし、子供の頃は親の仕事の関係で日本に何年か住んでたから、母国語の英語より日本語の方が得意だっていう、変なイギリス人になったんだけど」
 「ああ、だから、びっくりするほど日本語が流暢だったんだ」
 なるほど納得、という顔で隣人が頷く。いきなり英語で話しかけてきたほどだから、かなり奏の日本語に驚いていたらしい。一体何者、と1週間思われていたのかと思うと、なかなか複雑な気分になる。まあ、自分だって、隣から聴こえる歌声に、一体何者なんだ、と思い続けていたのだが。
 「一宮君、夏ごろから日本で仕事をしてるんだけど、ずっとご厄介になってた家を急に出てかなきゃいけなくなっちゃって―――途方に暮れてあたしに相談したのよ。それでふと思い出したのが、“ベルメゾンみそら”だった、ってわけ」
 「じゃ、佐倉さんの紹介で引っ越して来た人だったんだ……お隣さんて」
 当たり前の話だが、隣に越してきた奴が自分の知人の関係者だとは、夢にも思わなかったのだろう。隣人は、力が抜けたように椅子の背にもたれかかってしまった。
 「そういうこと―――あ、ハイネケンも来たようだから、一旦乾杯しましょ」
 オーダーしたものを携えて店員が近づいてくるのに気づいた佐倉は、そう言って説明を中断した。
 それぞれのグラスを手に、とりあえず「乾杯」と言ってはみたものの。
 ―――何に乾杯してるんだ? これ。
 疑問に思いつつも、とにかく早く隣人の方の紹介を聞きたかった奏は、文句を言わずにグラスを口に運んだ。

 「で、今度はこちらの歌姫について、だけど」
 グラスを置いた佐倉が、そう切り出し、チラリと隣人の方を見る。
 「一宮君、あたしが言ったこと、覚えてない?」
 「は? 何を?」
 「ほら、“ベルメゾンみそら”の件で電話した時、最初に説明したでしょ。以前はあたしの後輩モデルが住んでた所で、彼女が出て行く時に、知り合いの子にその空き部屋を紹介した、って」
 「―――…ああ!」
 そう言えば、そうだった。あまり深く考えずに聞き流していたが、確かに佐倉はそう言っていた。でも、改めて考えてみれば、それは「佐倉の知り合いの子がそのアパートには住んでいる」ということだ。
 ということは―――…。
 「そ。その“知り合いの子”が、この子。如月(きさらぎ)サヤちゃん」
 「きさらぎ……」
 きさらぎ?
 あまり耳に馴染みのない苗字に、どんな字書くんだ、と一瞬眉をひそめる。が、奏を悩ませた隣人宅のネームプレートがぱっと頭に浮かんだ瞬間、奏は思わず目を見開き、隣に座る隣人に視線を移した。
 「えぇ!? あの苗字って、“きさらぎ”って読むんだ!?」
 「え、もしかして読めてなかったの」
 意外、という顔で、隣人が少し目を丸くする。
 「いや、だって―――無理だって。オレが日本にいたの小・中学生までだし、あんな苗字の奴いなかったし」
 「あー、そっか。そう言えば中学生までは、新しく知り合いになる子は大抵、何て読むの? って訊いてきてたなぁ」
 「そうか…あれで“きさらぎ”なのか…」
 どこにも“きさらぎ”な要素がない“如”と“月”で、何故“きさらぎ”と読むのだろう―――話す方では不自由のない奏だが、やっぱり漢字は難しい。英語圏ではまず起こりえない悩みだ。
 「ま、まあ、いいや。…で、如月さんと佐倉さんは、どういう…」
 「どういう―――うーん、説明難しいなぁ」
 本気で困った顔になった佐倉は、救いを求めるためか、再び隣人に目を向けた。同じく困ったように眉を寄せた隣人は、ちょっと首を傾げつつも、口を開いた。

 「―――私が佐倉さんに最初に会ったのって、佐倉さんがまだ大学2年で……私が、中1の時、かな」
 「間違いない。あたし、一番最初に紹介された時、“中学生がこんな所にいていいの!?”って説教した覚えあるもの」
 「こんな所?」
 「こういう店よ」
 つまり、ジャズ・バーに、中1だった隣人がいたらしい。…それは確かに変だ。
 「あたしの親友に、多恵子、って子がいたんだけど、その子が今のサヤちゃんみたいに、こういう店でジャズを歌ってたのよ。同じ大学の同期生がもう1人、バーテンダーとして働いてもいたから、あたしもたまーにその店に遊びに行ってたの。ジャズに興味はなかったけど、友達がいたからね。で―――その多恵子と組んで、その店でピアノを弾いてたのが、サヤちゃんの叔父さん」
 「おじ?」
 「プロのピアニストなんだ」
 隣人はそう言って、ニッ、と笑った。
 「その当時も、もうジャズピアニストとして一人前に仕事をやってたけど、お店のマスターと親しかったんで、プロになってからもずっとピアノ弾きやってたの。私を店に連れてってくれたのは、まぁ……色々、悩みの多い年頃だったから、気晴らしというか、気分転換というか」
 「でもそれで、サヤちゃんの運命の人と出会っちゃったのよねぇ」
 佐倉がからかい気味に言うと、隣人は少し照れたように笑い、小さく頷いた。
 「多恵子さんの歌声聴いたら、一発でノックダウン。もう、全身、震えた。こんな風に歌いたい―――絶対将来、ジャズ・ヴォーカリストになるんだ、って、その時決めたんだ。それからは時々、叔父に頼んで店に連れて行ってもらってた。もち、多恵子さんの歌目当てでね。それで、たまたま店に来てた佐倉さんとも知り合いになって―――…」
 「結構な回数、店で顔合わせたわよね。カルテットが解散して、全員店辞めたのが、えーと、あたしが大学卒業するちょっと前だから、それまでの間、約2年の付き合いか」
 「へーえ…」
 随分歳の離れた同士なので不思議に思ったが、隣人がその佐倉の親友がきっかけで将来の夢を追いかけ始めたのなら、納得がいく。ただの「よく行く店で時々会う人」ではそうはいかないだろうが、「多恵子の親友」という要素が加わることで、歳の差を越えて話が弾んだりもしたのだろう。
 「でも、それってもう8年も前の話だろ? たった2年、店でしか会わない間柄だったのに、よく部屋を紹介するような機会があったな」
 「ああ、それは、実を言うと偶然なのよね」
 ね? と佐倉が目を向けると、隣人は軽く頷いた。
 「高校生までは年賀状だけはやりとりしてたんだけど、大学入って、家を出たのをきっかけに、それも途絶えちゃって―――それが、今年の2月頃、佐倉さんが偶然、後輩のモデルさん連れてこの店に来たの」
 「まさか、その後輩、ってのが…」
 「そう。“ベルメゾンみそら”をもうすぐ引き払う、っていうモデルさん」
 「送別会だったのよ。その子、寿退職でモデル業辞めるから。その後輩が、彼氏とよく行くいいお店がある、って言って、連れて行かれた先が、たまたまここだったってわけ」
 「はー…。すげー偶然。でも、よく分かったな。何年も、しかも成長期に顔合わせないで」
 「そりゃあ、分かるわよ」
 当然でしょ、と眉を上げ、佐倉は自信満々に言った。
 「あたし、中学時代のサヤちゃんのこと、将来は絶対モデルにスカウトしよう! って、そりゃあ期待を込めて成長を見守ってたんだもの」
 「……は?」
 「えっ、そ、そーだったの!?」
 奏だけじゃなく、当人である隣人までもが、目が点になる。どうやら、本人には言っていなかった“8年目の真実”だったらしい。
 「サヤちゃん、中1で157あったのよね。で、見てのとおり、手足も長くて、首も細くて―――このまま順調に背が伸びてってくれれば、もー、理想的なモデル体型になるだろうな、って期待しまくってたのよ。将来はあたしのモデル事務所と契約してもらえるように、あたしが所属してるエージェントに引っ張りこまないと、って」
 「…そんな頃から、そんな具体的な計画練ってたのかよ…」
 「当たり前でしょ。でもねぇ…。悲しいかな、サヤちゃんの身長は160で止まっちゃったのよねぇ。惜しかったわ」
 「…良かった。伸びなくて」
 心底ホッとしたような様子で、隣人が呟く。どうやら、同じスポットライトを浴びる職業でも、モデル業は勘弁して欲しいタイプらしい。
 「そんなわけで、サヤちゃんだってすぐ分かって、実は送別会でこの店に来てる、って話をしたら―――ちょうどサヤちゃん、新しい部屋を探してたらしくて」
 「うん。すごいラッキーだった。一刻も早く引っ越したかったから。渡りに船、って感じで、その後輩さんの空き部屋を引き継がせてもらったの。それが、今住んでる201号室」
 「…へーえ…。なるほどなぁ」

 縁とは、不思議なものだ。
 もしその時、後輩が佐倉をこの店に連れてこなければ、隣人と佐倉が再会することはなかっただろう。再会しなければ、当然、佐倉が部屋を紹介することもなかっただろうし、紹介をすることがなければ、佐倉と“ベルメゾンみそら”の繋がりも当然なかったことになり―――必然的に、今、奏があの部屋に入居していることもなかったのだ。
 空いていた部屋が、偶然にもきっかけとなった隣人氏の部屋の隣だったことも、なんとも暗示的な話だ。面白いよなぁ―――奏は、総戸数8戸の小さなアパートを巡る不思議なエピソードに、ちょっとした運命を感じた。

 「でも、まさかお隣さんが佐倉さんの仕事仲間だったなんてなー…。全然知らなかった。知ってたら、もっと早く色々話とかできたのに」
 惜しいことしたな、という顔で呟いた隣人は、刹那、ハッと何かを思い出したように顔を上げ、改まった様子で奏の方に向き直った。
 「あ、あの―――改めて、のど飴、ありがとうございましたっ」
 「えっ」
 ぱっ、と頭を下げられて、一瞬、リアクションが出来ずに固まった。が、奏も慌てて崩していた姿勢を正し、同じように頭を下げた。
 「い、いや、オレの方こそ―――300円しない飴で、バドワイザーとミックスナッツまで貰っちゃって」
 「ハハハ、あれだって、全部足しても500円ちょっとしか」
 「…ふーん。そんなエピソードがあったのに、“単に廊下ですれ違った程度の顔見知り”?」
 冷ややかな佐倉の声に、お礼合戦がぴたっと止まる。
 でも実際、顔見たのって、最初の朝に窓開けた時だけだし―――なんて説明をすべきかどうか、2人同時に迷っていた時。

 「サヤ」

 少し鋭さのある声が、3人の空間に割って入った。
 3人が声の方に目をやると、そこには、さきほどのピアノを弾いていた若い男が立っていた。しかも、あまり機嫌の良さそうじゃない顔で。
 「早く戻ってくれないかな。次のショータイム始まる前に、スケジュール詰めときたいから」
 「あ、ごめん!」
 少し長居をしてしまったらしい。隣人は、慌てた様子でハイネケンをグラスの半分位まで一気に飲み、ガタン、と席を立った。そして、奏と佐倉の方を振り返り、済まなそうに両手を合わせた。
 「もうちょい話したかったけど―――ごめん、仕事あるから」
 「ああ、あたしの方こそごめんね」
 「じゃ、ごゆっくり」
 そう言って笑顔で軽く手を挙げた隣人は、踵を返すと、ピアノの男のもとへと駆け寄った。「誰、あの人達」と、歩き去りながらピアニストが訊ねたところまでは聞こえたが、そこから先は、BGMのジャズに掻き消されて聞こえなかった。

***

 シャワーからあがった奏は、ラジオのスイッチを入れ、冷蔵庫からバドワイザーを1本取り出した。
 が、今日は既にアルコールが入っていたのを思い出し、取り出した缶を冷蔵庫に戻した。

 ―――ああいう仕事をしてる割に、随分朝が早い隣人だよなぁ…。
 現在、午後11時―――隣の部屋は、まだ帰宅した様子がない。といっても、奏がシャワーを浴びている間に帰宅した可能性はあるが。
 片付けなくてはいけない書類がある、という佐倉に合わせて奏も店を出てしまったため、結局、彼らのステージは8時からの回の1回しか聴くことができなかった。が、あの後、あともう1回、9時半からもあった筈だ。午後11時時点で帰宅していないのは、当然かもしれない。
 そういう夜の仕事をしている割に、隣人の朝は妙に早い。店に9時半入りする奏と大差ない時間に―――いや、よく考えると奏以上に早く―――起きている。
 夕方までの長い時間、一体隣人は、何をしているのだろう―――そう思った時、窓の外で、隣の部屋の窓ガラスが開く音がした。
 「……」
 どうやら、気づかないうちに帰ってきていたらしい。一瞬迷った末、奏も窓を開けた。

 「あ、」
 「…さっきは、どうも」
 窓枠から少し身を乗り出した奏がニッと笑ってそう言うと、相手も少し体を前に傾け、笑い返した。
 「どうも。なんか、話が中途半端になっちゃって…」
 「いや。でも、びっくりした。上手いとは思ってたけど、まさかプロだとは思わなかったから」
 当然のようにそう言うと、彼女は、一瞬キョトンと目を丸くし、それから、うーん、と考え込むような表情をした。
 「プロ―――プロ、かぁ…。確かに、歌ってお金貰ってるから、プロってことになるのかな」
 「え?」
 「自分では、“セミプロ”だと思ってるんだけど」
 「…セミプロ?」
 「私、兼業なんだ」
 そう言って彼女は、苦笑のような笑みを浮かべた。
 「昼間は、コーヒーデリバリーを専門にしてる会社で働いてる。“Jonny's Club”のステージに響かないように、残業が滅多にない、って理由で選んだようなもんだけど、実際の収入はそっちの仕事が大半なんだ。あそこでの仕事は、1日2ステージで、3千円―――火・木・土曜の週3回だから、1週間に1万円いかない位だから」
 「―――…」
 知らなかった―――昼間、全く別の仕事をしていたとは。
 それに、あれだけ凄い歌や演奏を聴かせて、1ステージ換算1500円? 冗談としか思えない金額だ。
 「…そんなギャラで、よく続くな」
 思わず奏がそう漏らすと、彼女は声をたてて笑った。
 「あはは、一応、値上げ交渉中だけどね。でも、それでも、歌える場所があるのは、凄い幸運だと思う。 一成(いっせい)だって―――あ、今日ピアノ弾いてた奴だけど、あいつだって兼業ジャズメンだよ。日頃は別の仕事してて、ピアノ弾くために“Jonny's Club”にやってくる―――ギャラじゃなく、ただ、自分のピアノを、客に聴かせたいって想いのために」
 「……」
 「ベースのヨッシーにしても、いくつものライブハウスを掛け持ちしてるしね。…3人とも無名だから、ギャラなんて安くて当然だよ。だからいつかは、メジャーになって、歌やピアノだけで食っていけるアーティストになれるように、今がんばってるところ」
 「…そ、っか」
 そう言えば―――すっかり忘れてた。自分にも、それに近い時代があったことを。ふいに襲ってきた懐かしさに、奏は目を細めて微かに笑った。
 「そうだよなぁ―――オレも駆け出しモデルだった時って、雀の涙みたいなギャラで、すげー小さい写真しか載らないような仕事をせっせと受けてたもんな。学生で親元にいたから、生活のためにバイト掛け持ちなんて心配は要らなかったけど、モデル仲間ではそういう連中の方がモデル1本で生きてる奴より多かった」
 「ふーん…。モデル業界も、大変なんだね」
 「どこでも同じなんじゃない? 今、オレが働いてる所だって、そうだし」
 「え? 佐倉さんとこが?」
 事情を知らない彼女が、ちょっと不思議そうな顔をする。そうか、まだ説明してなかったな、と気づいた奏は、苦笑して手を振った。
 「ああ、違う。オレも君と同じで、兼業モデルなんだ」
 「え?」
 「モデルが本業だけど―――普段は、メイクアップ専門店で、メイクアップアーティストの見習いやってるんだ。…モデルって、外見を売る仕事だから、一生できる訳じゃないだろ? オレは、限界来る前の28でモデルは辞めよう、って思ってる。引退した後やる仕事として、今のところ考えてるのが、メイクアップアーティストって訳」
 「……意外」
 「ハハ…、よく言われる。こういう外見で、紅筆やらパフやら持ってるのって、違和感ありまくりだって。でも―――裏方の仕事って、面白いんだよな。時給なんて、その辺の高校生のアルバイトより下手すりゃ低い位だけど、それでも……いつか、その腕1本で一生食っていけるようになれるように、今は下積み時代」
 「へーえ…」
 感心したようにそう言って息をついた彼女は、同志で交わすような笑みを奏に向けた。
 「じゃ、2人揃って、二足のわらじを履いてる、ってことだね」
 「―――そういうことになるかな」

 まるでジャンルは別方向だが、ちょっとした共通項。
 それが、時として世間の「普通の社会人としての生き方」に反した生き方だから―――その共通項に、余計に親近感を覚えた。
 すぐ隣に、同じように2つの仕事を持ちながら、未来に向かって生きている奴がいると思うと、ちょっと励まされる。それは多分、彼女の方もそうなのだろう、と、その笑みから分かる。

 「…っくしゅっ」
 夜風が冷たかったのか、彼女がくしゃみをした。最初の朝を思い出した奏は、ギョッとして、慌てて更に身を乗り出した。
 「おいおい―――せっかく風邪治ったんだから、もう引っ込んだ方がいいんじゃない?」
 「うー、さぶ……。そうだねぇ。あのハスキーボイスもなかなか好評だったけど、最後には声出なくなったしなぁ」
 「…そりゃ、まずいだろ」
 「うん。早く寝よっと。―――あ、そうだ」
 一瞬、部屋に引っ込むような素振りを見せた彼女は、何かを思い出したように、もう一度窓枠から顔を覗かせた。
 「ね、お隣さん。“いちみや・そう”の“そう”って、どういう字書くの?」
 「字? ああ―――そっか」
 佐倉が名前を言いはしたが、字までは分からなくて当たり前だ。
 「演奏の、奏の字」
 「へーっ! いいなぁ、音楽っぽい名前で」
 「……歌好きの父親がつけた名前だからな。最初“歌”って名前にしようとして、母親に怒られたらしい」
 「あはははは、そうなんだ」
 「そっちは? “さや”って、どういう字?」
 「うん―――花が咲く、の咲く、って字に、夜」

 “咲夜(さや)”。

 随分、ロマンチックな名前だな、と思った。
 「へぇ…、いい名前だな」
 奏が言うと、咲夜は何故か、不思議な笑い方をした。なんだろう……どこか、悲しみを引きずったような、不思議な影のある笑い方を。
 でも、それは一瞬のことだった。すぐに明るい笑い方に戻ると、
 「ありがと。あ、そうだ、如月、って呼び難いでしょ。だから、咲夜って、名前で呼んでもらっていいよ」
 と言った。
 「あー、でも、私の方が結構年下っぽいから、私がお隣さんを名前で呼ぶのは、まずいか」
 「え? あ、いや、別に。佐倉さんが20歳の時13歳だった、ってことは、ええと―――オレより3つ下なだけだろ? モデル仲間の女なんて、5つ6つ下でも、平気で“奏”って呼んでるし、イギリスじゃ名前で呼ぶのが当たり前だから」
 「ほんと? じゃ、次からはお言葉に甘えて」
 ふふっ、と笑った咲夜は、再度、少し身を乗り出すと、
 「じゃあ―――おやすみなさい」
 と挨拶した。
 「…おやすみ」
 と奏が挨拶を返すと、咲夜は軽く手を振り、部屋の中に引っ込んだ。カラカラ…という窓ガラスを閉める音を聞きながら、奏も窓ガラスを閉めた。


 ―――そう言えば、訊き忘れたな、あのこと。
 今日聞いた話の中で、1ヶ所、不思議に思って心に引っかかったこと。

 佐倉の出身大学は、都内にある。ということは、多恵子という親友が歌っていたジャズ・バーも都内だろう。そこに、13歳の咲夜が頻繁に顔をだしていたのなら……必然的に、咲夜の実家は、東京にある、ということになる。
 そして、まだ大学生だったであろう咲夜が、送別会を開いてた佐倉とあの店で会ったのなら、咲夜の大学だって、都内だろう。なのに咲夜は、大学入学を機に一人暮らしを始めたという。
 まあ、実家が都内にあっても、一人暮らしをする奴はいる。実際奏だって、ロンドンからさして離れていない場所に実家がありながら、ロンドンの中心部で一人暮らしをしていたのだから。疑問はそこじゃない。別のところだ。

 ―――あいつ、なんで、前借りてた部屋から早く引っ越したかったんだろう…?

 釈然とはしなかったが―――さして、気にするほどのことでもない。
 ま、いずれ機会があったら訊いてみるか、と思いながら、奏は窓の鍵をカチャリ、とかけた。


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