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― 周りは何をする人ぞ ―

 

 窓を開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた奏は、その冷気で残り5パーセント目覚め切れていなかった部分が覚めていくのを感じつつ、大きなあくびをひとつした。
 すると、少しタイミングをずらして、隣の部屋の窓も開いた。
 「おはよ」
 顔を覗かせた咲夜に、奏も、あくびのせいで出てきた涙を指で拭いつつ、返した。
 「……はよー」
 「何、随分眠そうじゃん。どーしたの」
 「…眠いんじゃなく、二日酔い」
 「二日酔い?」
 「店の連中と飲みに行って、失敗した。あー…、あいつ、ほんと酒癖悪いよなー。氷室さんもまたダウンさせられてたし」
 「え、酒癖悪いの分かってて、なんで一緒に飲みに行ったの」
 「忘年会」
 「へー、ああいう業界にもあるんだ、忘年会。…あれ、ちょっと待って、昨日ってクリスマスじゃない? わざわざクリスマスに職場の忘年会? ひえぇ…、物好きぃ…」
 「先輩方は“イブは避けてやったんだから、全員参加しろ”ってさ。イブが関係ない奴にも、その論理を押し付けるんだからなぁ。ああ、だるぅ…」
 「…じゃ、今日の発声練習はお休みにしとくか。二日酔いの頭に歌声が突き刺さったら大変だし」
 窓枠に縋ってぐったりしている奏を見て、咲夜はそう言って苦笑した。


 シングルにはただの嫌味なイベントでしかないクリスマスイブが終わり、こっちがメインなのに子供以外にはほぼ忘れられているクリスマス本体も終わり、世間はいよいよ年末―――仕事も、プライベートも、慌しさを増しつつある。
 “Jonny's Club”で、それまで正体不明だった隣人の正体が分かってから、10日あまり。朝、こうして下らない話をするのは、別に毎日という訳ではない。
 咲夜が朝、窓を開けて歌を歌うのは、天気のいい日や気分のいい日、なんとなく歌いたい気分の時だという。雨の日は歌わないし、今日の奏のような状態の日も無理。この前、粉雪がちらついた日などは、あまりの寒さに、さすがに2人とも窓すら開ける気にならなかった。
 奏にしたって、窓を開けるのは、早く目を覚ましたい日だけだ。つまりは、開店前から店に出る時だけ―――午後からのシフトの日などは、遠くで聴こえる歌声を子守唄代わりに、結構遅い時間まで寝ていたりするのだ。
 都合、窓と窓を隔てての会話は、初日を入れてこれが5回目。
 人間関係の渇き気味な都会にあって、短い時間でもご近所づきあいがあるというのは、なかなかいいものだと思う。


 「あ、そーだ」
 咲夜は少し身を乗り出すと、手に持っていたスプーンを振ってみせた。コーヒーとかココアとか、そういうものを淹れている最中なのだろうか。
 「今日って、帰りは遅い? 早い?」
 「は?」
 「一般的な夕飯時に間に合う位かな。もしそうなら、ご招待するけど」
 「ご招待、って、何に」
 「誕生日会」
 「はぁ?」
 予想もしなかった単語に、奏は、二日酔いで開き難かった目を軽く見開いた。
 「って言っても、主催者は私じゃなく、下のマリリンさんだけど」
 「……」
 奏の脳裏に、やたら背の高い、やたら派手派手しい姿が蘇る。…いい人なのだが、なんかどうも、苦手である。
 「…誕生日会って、その、マリリンさんの、かよ」
 「ううん。優也君の」
 「ゆうや?」
 「103の住人だよ」
 当然ながら、奏は全く知らない。というより、半月ここに住んでいるが、マリリンと咲夜以外の住人に会ったことがない。
 反対側の203号室にだって住人がいる筈なのだが、夜中にゴトゴト動く音は聞くものの、姿はまだ見たことがなかった。下の102の住人位は挨拶に行こうと思ったのだが、初日は不在で、2度目は明らかな居留守。そんな訳で、面倒になってやめてしまったし。
 でも―――そんなものなのだろう、単身者用集合住宅なんて。咲夜と知り合いになって話してるのが、むしろ特殊なケースな位で。
 「誕生会開くほど親しいの? その、ゆうや、とかいう住人」
 「うーん…、そうでもないかな。マリリンさんは結構、たまにご飯食べさせてあげたりしてるみたいだけど。進学で親元を離れてまだ1年未満だし、色々心配してるのかも」
 「進学―――ふーん、大学生か」
 「ちょっと、特殊だけどね」
 「特殊?」
 意味深にニッ、と笑った咲夜は、気を持たせるように一言だけ言った。
 「なんたって、天才少年君だからね」

***

 「―――…いえ、あの…、天才少年、じゃないんですけど」
 咲夜曰く“天才少年”は、おどおどした様子で、そう言って体を縮こまらせた。
 「え、でも、」
 「天才、なんて失礼よねーぇ」
 怪訝そうにする奏の言葉を遮るように、マリリンがそう言い、小さなテーブルのど真ん中に大きな皿をドン! と置く。その上には、色とりどりなオードブルが並んでいた。
 「天才って、努力しなくてもホイホイお勉強できちゃう、ってニュアンスじゃないの。その点、優也君は努力の人だもんねぇ」
 「…は、はぁ…」
 「けどさ、」
 ケーキを運んできた咲夜が、“天才”説を主張するかのように、ちょっと唇を尖らせて反論した。
 「いくら努力の人でも、2年で高校課程修了して大学に合格しちゃう、ってのは、やっぱり“天才”の域と言ってもいいんじゃないの?」

 少年の名は、秋吉優也、といった。
 見るからに弱気。見るからに臆病。奏に会った瞬間など、ビックリしすぎて1メートルも後退(あとじさ)ったほどだ。「ぼ、僕、外国人に免疫ないんです」と言われてしまい、実際外国人であるところの奏は、勘違いだ、と言いたいけど言えない、なんとも複雑な気持ちになった。
 咲夜が言う通り、優也は、今日で18歳になったばかり―――本来なら高校3年生だ。なのに、現在、大学1年生。そう、飛び級で大学に進んでしまったのだ。天才、は言いすぎにしても、やはり日本では稀なケースだろう。
 でも、優也は、極一般的な高3にすら見えない。
 背丈は、まあ、高くはないが低すぎるという訳でもない。でも、そういう問題ではなく、なんというか―――全体的に、未発達な感じがする。中学生位の体型のまま、背だけが数センチ伸びた、という感じ。それに、あまりイケてない眼鏡も、まずい気がする。そして何より、おどおどした表情。これが、優也を「弱そう」に見せている。
 総合して、奏が感じたのは―――「爆発的に頭が良くなった“のびた君”」だ。

 「…ほんと、天才とかじゃないですから」
 優也は俯き加減でそう言い、ずれていた眼鏡を直した。
 「んじゃ、どーやって飛び級で大学に合格できちゃったの?」
 「え、どうやって、って―――僕の場合、勉強したから、というか、勉強させられたから、というか…」
 させられた?
 大人3人が、その一言に引っかかる。未成年の優也用のシャンメリーを開けていた奏も、ケーキにろうそくを立てていた咲夜も、グラスを持ってきたマリリンも、ピタリと手を止め、優也の顔を覗き込んだ。
 その視線に気づいた優也は、慌てたように顔を上げ、付け足した。
 「あ、あの、でも……ぼ、僕、無趣味で、勉強が趣味みたいなものだから」
 「……」
 「たまたま、唯一好きだったことが、勉強だっただけで―――だから、勉強しなくてもできちゃう天才とも、苦しいことを努力した秀才とも違うし…」
 「……」
 なんとなく、気まずい空気が流れる。
 “させられた”という単語が、うやむやに消された背景が、なんとなく想像がつくから―――気まずい。
 けれど。
 「はいはい。じゃ、“楽しめちゃう秀才”ってことでいーんじゃない?」
 コツン、と優也の頭を軽く小突き、咲夜がぶっきらぼうに言ったことで、空気が和んだ。
 小突かれた頭をノロノロと撫でる優也の様子を見て笑ったマリリンは、話題を払拭するように、音をたててワインのボトルをテーブルに置いた。
 「じゃあ、優也にはもっともっとお勉強を楽しんでもらって、将来のノーベル賞を目指してもらいましょっか。一宮さんもワインで良かったぁ?」
 「え? ああ、うん」
 実は午前中一杯、二日酔いでフラフラだったのだが―――ワイン1杯程度なら大丈夫だろう。

 ケーキにろうそくを18本立て、優也が一気に吹き消すと、拍手が沸き起こった。
 「じゃ、ハッピー・バースデー!」
 ワイン3つとシャンメリー1つで乾杯をして、ご近所さんの誕生日会は始まった。

 

 ほぼ初対面に近い者が4人で顔を合わせているので、食事をしながらの話題は、自然、それぞれの自己紹介になった。

 優也の実家は、岐阜というところらしい。
 「…ごめん、オレ、分かんないかも」
 「あ、えーと……名古屋の北、です」
 「ああ、名古屋は分かる。札幌に似てる所だろ」
 「…テレビ塔だけなら、似てますね」
 一人っ子の優也の学費と生活費のために、両親は現在、共働きだという。月に1度、休日を選んで母親が優也の所に泊まりに来るのだが、優也の口調は、それをあまり歓迎している様子ではなかった。
 学部は、理学部らしい。奏にしろ咲夜にしろ、理系な人間ではないので、理学部がどういうことを学ぶところか、いまいちピンとこなかったのだが。
 「将来は、数学者を目指してるんです」
 そう言われて、理解した―――いや、理解したような気分に、少しだけなった。

 一方のマリリンは、多くを語らなかった。
 「年輩者は、話を聞く立場にあるから、自分のことはペラペラ喋らないのよ」
 とふんぞり返るマリリンの口から語られたプロフィールは、せいぜい「優也の両親よりは若いけど、一宮さんよりははるかに年上」という話だけだ。…30そこそこでは「はるかに」とは言わないから、多分、30代半ばより後ろ―――恐らくは後半、だろう。万が一40代だったら、相当メイクが上手いことになるなぁ、と、奏は方向違いなことをチラリと思った。
 小説家だ、と言われれば、やはり気になるのが「どういう話を書くのか」、なのだが。
 「そぉねぇ。一言で言うなら、恋愛小説ね」
 「恋、愛……」
 「……ですか」
 聞いた途端、奏も咲夜も、どんよりした表情になった。
 「あらあらあら、なぁにぃぃ? 何うんざりした顔してんのよ、2人とも」
 「…いや、オレ、あんまり得意じゃないから。てゆか、男が読むもんじゃないし」
 「え、僕、読んでますよ? マリリンさんの本」
 奏の言葉を受けて、優也がキョトンとした様子でそう言った。恋愛小説は女の読み物、と漠然と思っていた奏は、勉強一筋になったのびた君のような風貌の優也のその言葉に、愕然、という表情で後退った。
 「マジで!?」
 「…変ですか? マリリンさんの書く恋愛小説、とっても文学的で、言葉も叙情的で、いいと思うんですけど…」
 「あらー、ありがとー」
 当然、褒められたマリリンは上機嫌だ。が、隣に座る咲夜は、どんより顔のまま、ワインの入ったグラスを弄んでいる。
 「咲夜ちゃんも苦手なの? 恋愛小説。ティーンズ文庫なんか、恋愛ものまっさかりなんだから、学生時代にいくらでも読んだんじゃない?」
 「…読んでない。私、恋愛小説キライだから」
 短く答えた咲夜は、くいっ、とワインをあおった。が、マリリンが、
 「ひ、酷いわっ、2人してそんなに毛嫌いしなくたってっ」
 と、よよよ、とくず折れてみせると、さすがに済まないと思ったのか、慌ててフォローに回った。
 「あ、いや、でもさ。ええと―――主人公がだれそれとくっついてハッピーエンド、って話じゃないのがあったら、読んでみたいんだけど。マリリンさんの本」
 「ん、よろしい。じゃあ貸しましょう。短編集だけど」
 「ありがとー。奏も借りてみたら? ベタベタ恋愛じゃなきゃ、読めるんじゃない?」
 ホッとしたような軽い調子で咲夜にそう言われ―――実は小説自体ほとんど読まないんだけど、とは今更言えない奏だった。

 奏と咲夜は、それぞれ、この前話したレベルの話位しか出てこなかった。
 唯一、新たに分かったのは、咲夜が昼間やっているコーヒーデリバリーの会社の詳細だ。
 「ドリップコーヒーの機械をオフィスに設置しといて、2週間に1回位、コーヒーの補充とかメンテナンスに行くのもあるし、ポットコーヒーの配達もあるし。黄色いボディで、天井の高い箱みたいな軽が走ってたら、多分うちのデリバリーだよ」
 ちなみに、近場だと、原付で行くこともあるらしい。
 「ただし私は、近場ならポットと食器抱えて走るけどね」
 肺活量と体力を鍛えるためなのだそうだ。…どこまでいっても、歌のことしか考えていないらしい。


 「あ、そういえば、」
 一通り、お互いの日常についてのネタが切れた頃。
 「オレんとこの反対隣の203って、どんな人が住んでんの?」
 夜中の音でしかその存在を感じたことのない隣人が気になって、奏はついでに訊ねてみた。それに最初に答えたのは、咲夜だった。
 「木戸さんていう男の人だよ。40過ぎてるかどうか微妙、って感じの。でしょ?」
 咲夜にめくばせされ、マリリンも頷いた。
 「そ。木戸さんは、単身赴任者よ。奥さんと子供を秋田に残して、東京の建設会社で仕事してるってわけ。いつもジャケットの代わりにカーキ色の作業服羽織って歩いてるわよ。まだ見たことない?」
 「ないなぁ。仕事の時間帯、違うのかも」
 「奏も見てると思うよ。木戸さんだ、って知らないだけで。だって、私がジャズ・バーで歌わない日は、10メートル位前を木戸さんがよく歩いてるもん」
 ジャズ・バーのない日の咲夜の帰宅時間は、早く帰る日の奏の帰宅時間とほぼ被る。なるほど、と思っていると、咲夜が更に付け加えた。
 「ただ、顔はあんまり見られないんだよね。凄い勢いで歩いてるから、私がここ着く頃には木戸さん、部屋に入っちゃってて」
 「…そんなに歩くのが速いのかよ」
 「うん。競歩みたい」
 「……」
 暗闇の中、作業服姿の中年男が、猛スピードですたすた歩く姿を想像してみる。
 ―――すげぇ、変。

 「じゃ、オレの下の人は? 居留守使われたんだけど」
 「―――ああ、友永(ともなが)さんね」
 何故か、咲夜の眉が微妙につり上がった。その意味が分からず奏が「は?」という顔をしていると、マリリンが、引き攣った笑いを浮かべながら説明してくれた。
 「と、友永さんは、一宮さんと同じ年頃のOLさんなのよね」
 「あ、なんだ、女だったのか。だから居留守使われたのかなー…」
 「多分そうなんじゃないかな。アタシも挨拶する程度で、あんまり話したことないんだけど」
 「…で、なんで咲夜が、こういう顔になんの?」
 むぅ、という顔をしている咲夜を指差して奏が問うと、マリリンは、ちょっと困った顔になった。
 「う、うーん―――あー、アタシにもよく、分からないんだけどねー」
 「は?」
 「…なんか知らないけど、咲夜ちゃんを敵視してるのよね、友永さん」
 「敵視?」
 これはまた、随分穏やかじゃない単語が出てきた。が、友永嬢と咲夜の部屋の位置関係を考えた時、ふと頭にある推理が浮かんだ。
 「もしかして、朝の発声練習が気に食わなくて、怒鳴り込んできたとか?」
 「ちーがーいーまーすーぅ」
 即答。
 友永嬢のことを思い出してか、咲夜は腕組みをし、むっとしたように眉根を寄せた。
 「私の歌声、直下に住んでるマリリンさんにだってあんまり届いてないよ。大体、音って下から上に上がっていくもんだし、それに1階の窓の上にも、コンクリの(ひさし)がついてんじゃん」
 「ああ、そっか。…じゃ、なんでだよ」
 「知らない。知らないけど、なーんかここ1、2ヶ月、朝出かけるのが重なったりすると、こっちが“おはようございまーす”って挨拶しても、向こうはツン! てそっぽ向いて、わざと私を追い抜くようにして行っちゃうんだよね。前は一応、おはよう、位は返してたのに。酷い時は、あからさまにギロッて睨んだりするしさ」
 「…やっぱ、歌が聴こえてんじゃない?」
 「違うってっ!」
 ムキになって咲夜は否定するが、それ位しか思い浮かばない。でも―――咲夜が歌うのは入居当初からだというし、何故今になって、という疑問は確かにある。
 「ふーん…。なんかよく分かんないけど、面倒そうな奴だなー…」
 咲夜につられたように、奏が眉根を寄せると―――それまで黙っていた優也が、ぽつりと、呟くように一言言った。
 「…けど、美人ですよ?」
 「!!!」
 優也以外の3人の目が、その一言に、一斉に大きく見開かれる。2秒後、3人は、ケーキをぱくぱく食べている優也にずいっ、と詰め寄った。
 「も、もしかして優也君、あのツンケン女が好みなの!?」
 「えっ?」
 「ちょっと待て、オレと同じ年頃ってことは、10近く上だろ!?」
 「え、あ、あの、」
 「ちょっとぉ、アタシも知らなかったわよ!? みずくさいじゃないの、恋愛小説家に恋愛の相談しなくて、誰に相談するのっ!」
 「あの、ちょっとっ!」
 叫ぶと同時に、優也の眼鏡がずり落ちた。
 焦ったような顔で眼鏡を直した優也は、しどろもどろながらも、なんとか答えた。
 「そ、その、別に、好きとか、そういうんじゃ―――ただ僕は、毎朝出勤する姿を見て、結構美人だなぁ、と、そ、そう純粋に、」
 「純粋に見惚れてるんだろ?」
 奏がさくっと指摘すると、優也はあっけなく、言葉に詰まった。みるみる赤くなっていく顔は―――どう考えても、奏の指摘を肯定しているようにしか見えない。
 「可愛いわねぇ。この年頃の子って、年上に弱いのよねぇ」
 ヨシヨシ、とマリリンが頭を撫でると、優也はまた体を縮こまらせて、残りのケーキを無言で食べ続けた。
 だが。
 「あ、そーだわ。今度の短編、そういう設定にしようかな」
 恋愛小説家が呟いた一言に、小説のモデルにされかけた当人は、大慌てでブンブン首を振った。

***

 そして、パーティー開始から2時間ほど経った頃。

 「…あれ、優也君、眠っちゃってる」
 オーナー夫妻の親族が定宿代わりに使っている、という104号室の話をしていた3人は、咲夜の言葉に、さっきまで相槌を打っていた筈の優也の方を見た。
 壁に寄りかかるようにして座っている優也は、起きているとは思えない角度にまで頭を下げた姿勢で、時折上下に揺れていた。明らかに眠ってしまっている状態だ。
 「賑やかな大人に囲まれて、疲れちゃったんじゃない?」
 くすっと笑ったマリリンは、背後の椅子に手を伸ばし、掛けてあった大振りのカーディガンを取って、それを優也に掛けてやった。
 「でも…優也君、誕生日なのに、友達とかと約束なかったのかな」
 「大学って、もう冬休み入ってんじゃない? 優也の大学だったら、地方から出てきてる奴多いだろうから、もう帰省してんのかも」
 「あ、そうか」
 「そうなのよねぇ……」
 カーディガンを、優也の肩の上まで引き上げたマリリンは、そう相槌を打って、小さくため息をついた。
 「クリスマス前から、もう冬休みだったのに―――帰ろうとしなかったのよねぇ、この子は」
 「……」
 「訊いたら、ギリギリまでこっちにいたいから、30日に帰る、って。具体的には何も聞いてないけど……あまり愉快な実家ではなさそうだこと」

 確かに―――そんな気がする。
 教育熱心、と言えば聞こえはいいが、優也がぽつりぽつりと漏らす両親像は、むしろ、自分達の価値観を息子に押し付け、その通りに生きることを強いているようにすら感じられる。多分“よい子”で来た優也は、親は自分のためを思っているんだから、と頑張ってその期待に応えてきたのだろうが―――親元を離れたことで、これまで耐えてきたものが限界にきつつあるのかもしれない。
 そもそも、人より1年早い大学進学は、果たして優也の望みだったんだろうか?
 周りからは嫌でも注目されるし、妬んだりやっかんだりする輩も少なくないだろう。目立つのが苦手そうで、人の後ろに隠れているタイプの優也が、キャンパス内で快適に過ごせているとは、到底思えない。同級生と一緒のタイミングで進学して、優秀ながらも他の学生とは何ら違いのない“いち大学生”になった方が、優也にとっては幸いだったのではないだろうか。
 ―――親に支配されて育ったから、やたら気弱でびくびくする奴になっちゃったのかもしれないなぁ…。
 天才少年―――いや、秀才少年もどきも、周りが思うほど楽じゃないんだな、と、奏もため息をついた。

 「…だったら、無理して帰ることないのに」
 暫しの間をおいて、咲夜が、呟くようにそう言った。
 「帰省して、余計疲れて戻ってくるんじゃ、意味ないじゃん。窮屈な思いしに帰るんなら、こっちでのんびり正月過ごせばいいのに」
 棘を含んだ咲夜の言葉に、奏はちょっと驚き、マリリンは苦笑を漏らした。
 「んー、確かに、“優也が羽根を伸ばせない”ってことだけ考えれば、咲夜ちゃんの言う通りかもしれないけど、」
 「…けど?」
 「でも―――どんな親であれ、遠く離れた我が子の元気な顔がちょっとでいいから見たい、って親心は、みんな同じなもんよ。その気持ちだけは、子供として酌んであげるべきなんじゃないかな」
 「―――…」
 咲夜は、チラリと目を上げ、眠っている優也の頭の辺りを眺めた。
 が、やがて、目を逸らすと―――そのまま、そのことについては、一切口にしなくなった。

***

 マリリン宅を辞したのは、結局、日付が変わる少し前だった。
 「ねえ」
 2階に上がる階段を上りながら、背後から咲夜が話しかけてきた。
 「んー?」
 「奏って年末年始、実家に帰るの? イギリスの」
 「ああ、一応。8月頭にこっち来てから、まだ1回も戻ってないし」
 「…そっか」
 「咲夜は?」
 当然のような口調で、奏はそう訊ね、振り返った。
 奏と目が合った咲夜は、僅かに瞳を揺らし、立ち止まった。
 「この前の佐倉さんの話じゃ、咲夜の実家も、都内とか千葉とか神奈川とか、とにかくこの近辺だろ?」
 「…ま、ね。都内だよ。だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。でも―――…」
 言葉が、途切れる。
 考えを巡らせるように押し黙った咲夜は、数秒後、はぁっと息を吐き出すと、うんざりした顔で髪を掻き上げた。
 「あーあ。気がすすまないなー、帰るの」
 「なんか、問題でもあんの」
 「ねえ、奏の家族って、両親だけ?」
 奏の質問に被さるように、咲夜の質問がぶつけられる。
 わざとだな、と、本能的に分かる。どうやら、触れてはいけない話題らしい。自分から振ってきた癖に―――ちょっと面白くない気もしたが、奏はあえて突っ込むのはやめ、再び階段を上り始めた。
 「いや、弟がいる。双子の」
 「双子? …ええ!? この顔が、もう1人いるの!?」
 「いるよ。まるっきり、コピー機にかけたみたいにそっくりなのが、もう1人。ただし、性格が正反対だけど」
 「ひえぇー…、並べたら壮観だろうなー」
 「…って毎度毎度言われるよ。この顔だろうが、どの顔だろうが、同じ顔2つ並んだら大抵は“すげー”って思うもんじゃない?」
 「いや、そりゃ、そーだけどさ。平凡な顔が2つ並ぶより、超ド級美人が2つ並ぶ方が、なんか圧巻じゃない?」
 「…そうかなぁ…」

 と、そこまで言ったところで、咲夜の部屋の前に着いてしまった。
 「あ、じゃあ、おやすみ」
 「ん、おやすみ」
 あっさり挨拶を交わした2人は、咲夜の部屋の前で別れた。奏が自分の部屋の前に立ち、ポケットから鍵を探り当てて顔を上げた時には、咲夜はもうドアを閉め、鍵を掛けているところだった。

 ―――あいつ、この年末年始、実家に帰るかな。

 咲夜も優也のように、帰るとそこには窮屈すぎる檻が用意されているのかもしれない―――“帰らなければいいのに”と言った時の咲夜の冷たい口調を思い出して、奏は、そんなことを思った。


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