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― Family Ties ―

 

 “オレ、活動拠点を日本に移すから”。

 いきなりの、奏の宣言に。

 基本的に「犯罪と自殺行為以外なら、息子の意志を尊重」という方針の父は、しっかりやりたまえ、という感じだった。
 ほんの少しだけ事情を知っている弟は、不服そうに眉をひそめ、あまり口をきいてくれなくなった。

 そして、唯一、全ての事情を知り尽くしている母は―――“あんたがそこまでマゾヒストだったとは、知らなかったわ”、と言い放った。


***


 「そーうー!」
 階下からの呼び声に、奏は、ドアの隙間から顔を覗かせた。
 「何?」
 「下りてらっしゃいって言ったでしょー? ランチが冷めるわよ!」
 「……らじゃー」
 もうちょっとで、キリのいいところだったんだけどな。
 抱えていた缶の蓋を閉めて床に置き、一度大きく伸びをすると、奏は、かつて自分が暮らしていた部屋を出た。
 トントン、と階段を下りると、1階のドアで遮られていた歌声が次第に大きくなる。タイトルは知らないが、あれは有名なオペラのクライマックス部分だ。
 ―――あの音量で“鼻歌”だって言うんだから、絶対基準値おかしいよなぁ…。
 咲夜の歌声がまるで苦にならないのは、やはり、こういう特殊な父親のもとで成長したせいかもしれない。
 「おっ、奏、やっと下りてきたのか」
 奏がダイニングに顔を出すと、“鼻歌”を歌いながらペリエを用意していた父が振り向いた。
 ダイニングテーブルの上には、既に昼食のパスタが並んでいる。なるほど、時間が経つと硬くなるメニューだから、早く来いと急かしていたらしい。
 「一体何してたんだ? 上で」
 「ロフトに上がる階段の手すりが剥げてたから、ペンキ塗ってた」
 「気がきくなぁ」
 「何言ってるの、私が頼んだんじゃないの」
 頼んでる母の隣に父も確かにいた筈なのだが―――興味のないことはまるっきり聞いていない人なので、こんなことは日常茶飯事だ。仕事でストレスを溜め込む分、家では緊張感ゼロになるらしい。一流雑誌の編集長も、なかなか辛い仕事のようだ。
 「で、塗れたの? 奏」
 「いやー、まだ。なんか変な場所も結構剥げまくってたし、ペンキの色が微妙にもとの塗料と違ってたり、気になりだすと止まらなくて」
 「まー、大雑把な奏なのに、なんだか(るい)みたいなこと言うのねぇ。メイクの仕事を始めて、前より神経質になったんじゃないの?」
 「……」
 累、の名に、奏の視線が、空席の隣に既に腰掛けている人物に向けられる。
 咲夜にも話したとおり、奏と累は、双子の兄弟である。
 血気盛んで社交的、喜怒哀楽の激しい兄・奏。ちょっと内気で優しい、思慮深いタイプの弟・累。同じ顔をしているのに、2人の印象はまるで正反対だ。けれど―――休日モードでぼんやり気味の奏と、現在不機嫌真っ盛りの累は、日頃よりもそれぞれに相手側にメモリ1つ分近づいてる気がする。
 目が合った累は、わざとらしい位にそっぽを向き、無言でペリエをグラスに注いだ。自分の分だけ。
 ―――可愛くねー…。
 むっとした奏は、これまたわざとらしく累の目の前からペリエのボトルをひったくり、自分のグラスに注いだ。


 波乱万丈だった2001年は幕を下ろし、明けて、2002年―――新しい年。奏は、イギリスの自宅に帰省していた。
 一宮家は、ロンドン中心部から少し離れた町にある、2階建ての一軒家だ。かつては家族4人で暮らした家も、息子2人が成人して一人暮らしを始めたため、2階の2部屋が余ってしまっている。現在は、一方を双子が帰って来た時のための部屋として、もう一方を学生などの下宿として使っている。
 1年ほど、とある事情から空き部屋となっていた“下宿部屋”にも、奏が日本に行って間もなく、新たな下宿人が迎え入れられたらしい。アイルランドから来た音大生だそうだが、奏は会っていない。下宿人は下宿人で、やはり年末年始はふるさとに帰省中なのだ。
 こっちにいる間も、数年間、実家を離れて一人暮らしをしていた奏だが―――やはり、国をも離れていると、帰って来た時の感じがちょっとばかり違う。
 ああ、ここが自分のふるさとなんだなぁ―――という、どこかホッとできる空気を感じる。


 「へーえ、いいわねぇ。今時、そんな風にご近所づきあいのあるアパートがあるなんて」
 奏から“ベルメゾンみそら”の話を聞いた母は、パスタをフォークに巻きつけながら、感心したように言った。
 「うちが日本に住んでた時は、奏や累が小学生だったから、子供繋がりで結構同じマンションの人と顔を合わせたりしてたけど―――単身者じゃ、ほんとに顔見ることすら稀なんじゃないの?」
 「僕が一足先に単身で日本に行った時は、隣は空き部屋だとずーっと信じてた位だからねぇ。よほどフレンドリーな人が集まってるアパートなのかな?」
 父にそう言われ、奏は、うーん、と天井を仰いで眉根を寄せた。
 「いや、そういう訳でも―――実際、住人の半分、姿さえ見てないし」
 「じゃ、オーナーさんが世話好きとか」
 「……多分、マリリンさんのせいだな」
 改めて考えて、そう思い至った。
 「マリリンさんのパーソナリティが、なんていうか、いい意味で昔よくいた“おせっかい焼きの近所のオバサン”なんだよ。初対面のオレに客用組布団貸したり、優也に夕飯作ってやったり。咲夜が引っ越してきた時も、荷物運びまで手伝っちゃったらしいし―――そういう“おせっかいオーラ”で、古き良き下町のご近所みたいなことになってるんじゃないかな。一部分だけ」
 「…なんだか、千里を彷彿とさせるなぁ、そのマリリンさん」
 千里、とは母のことである。ボソリと父が呟いた一言に、母の眉がピクリと上がった。
 「…あら、そう。淳也さんから見ると私は、“おせっかい焼きの近所のオバサン”なのね」
 淳也、とは父のことである。50になっても母にベタ惚れの父は、母のご機嫌を損ねたことに気づき、慌ててフォークもスプーンも投げ出して母に取り縋った。
 「い、いや! そんなことはないっ! 僕が言いたかったのはだね、おせっかいとかオバサンとかそういう部分じゃなく、つまりは“面倒見がとてもいい”という部分なんだよ」
 「ふぅん、そう」
 抑揚のない相槌に、父は更に焦る。父の名誉のために言っておくが、父がこんなダメ人間になるのは、母の前だけである。日頃はこれでも鬼編集長で通っているのだ。
 「そうだとも! 奏の単語の選び方が悪いから、誤解を与えるようなことになっちゃっただけだ。誤解だよ」
 「おいおいおい、オレに責任転嫁すんなよっ」
 「でも母さんも人が悪いよ」
 冷ややかな声が割って入り、3人の会話がぴたっと止まった。
 ぎこちなく視線を向けた先には、淡々とパスタを食べる、累の姿があった。
 「父さんがこの世で一番怖いのは、地震でも雷でもなく母さんのこめかみの青筋だってこと、嫌ってほど分かってるくせに―――怒ったふりして、目が笑ってるんだから」
 「―――…」

 ……不機嫌度、200パーセント。

 日頃穏やかな筈の累の反乱に、両親と兄は、さすがに途方に暮れた。

***

 「あんまり気にすることないわよ、奏」
 食後も席を立たずぼんやりしている奏に、母が苦笑しながらそう言った。
 勿論、「気にするな」の対象は、あまり口もきかずに2階に上がってしまった累のことだ。
 「…気にするな、って言われてもなぁ…」
 「まあ、自分自身の気持ちもあるんだろうけど―――カレンのこともあるから、余計過剰反応してるのよ、きっと」
 「カレン?」
 累の彼女の名前が出てきて、奏は思わず眉をひそめた。
 「もしかして、上手くいってないの、あの2人」
 「ああ、そうじゃないのよ。この前、2人してうちに遊びに来たんだけど―――その時カレンも、“もしかしたら奏は、もうこっちには戻らないんじゃないか”って、寂しそうに言ってて」
 「……」
 「そういうカレン見てるから、累もイライラしちゃうんでしょう。…奏が思う以上に、奏がいなくなった穴は大きいってことよ。カレンにとっても、累にとっても」
 「そっか……」
 カレンは、奏のモデル仲間だった。
 単身イギリスにやってきた無鉄砲な日本人の女の子を、奏の叔父が偶然拾ってきたのがきっかけ。奏がモデル事務所を紹介し、累が英語を教えてやり―――あれから7年? 8年だろうか。一時は奏とはセックスフレンドと呼ばれる関係にあったりもしたカレンだが、2人の間には恋愛感情は微塵も生まれなかった。そこにあったのは、アジア系モデルが極めて少ない中で励ましあって仕事をしてきた、いわば戦友のような友情だった。
 身寄りのないカレンの精神的な支えは、奏ではなく、渡英当初からずっと好きだった累の方だと思う。ただ、仕事に関しては、やはり奏が支えとなっていた部分があっただろう。面と向かって言われたことはないが、奏と累、両方がいてバランスが取れていた部分は、確かにあったのかもしれない。
 「ま…、そのうち、落ち着くでしょう。あんまり気にしないで、自分の事を優先しなさい」
 「…サンキュ。そうする」
 「せっかく帰省したんだから、話したいことがあれば、聞くわよ?」
 母がそう言って、少し姿勢を正す。表情が、“休日のお母さん”から、僅かに“スクールカウンセラー”としての顔に切り替わった気がした。
 「母親には話せなくても、カウンセラーには聞いて欲しい話もあるんじゃないの?」
 「―――いや」
 母には―――というより、カウンセラー・一宮千里には、これまでも随分と話を聞いてもらったし、相談にも乗ってもらった。けれど。
 「もう、大丈夫。オレひとりで解決していけるから、きっと」
 奏が微かに笑ってそう言うと、母は、少し安心したような、けれどもどことなく寂しげな笑みを浮かべて、そうなの、と呟いた。


 多分、この世で一番尊敬している人物は、と言われたら、奏は迷わず母を、そして2番目には父を挙げると思う。
 どう見てもハーフとしか思えない奏と累の両親なのに、父の名も母の名も明らかに日本人の名であることには、まあ、それなりの理由がある。その理由故に、奏は、両親に感謝し、深く尊敬している。
 でも、家族の中で誰が一番大事か、と言われたら、多分―――弟を挙げると思う。
 一番傷つけたくない相手。一番嫌われたくない相手。だから、奏は時々、累が怖くなる。真っ直ぐな道を歩んできた累とは違い、奏には、累には言えない過去がいくつもあるから。
 こんな風に険悪なムードのまま、日本に戻るのは嫌だ。でも…自分が日本にいる理由を本当に累に理解してもらいたかったら、一番累には知られたくない過去を話さなくてはいけなくなる。それだけは―――どうしても、できない。

 ―――かといって、このままもなぁ…。
 ため息をつきながら階段を上った奏は、少々重苦しい気分で、累と共同で使っている左側の部屋のドアを開けた。
 開けた途端―――ベッドの上に正座してこちらを睨んでいる累を見つけ、思わず一歩後退った。
 「っ、な、なんだよっ」
 「―――そこ座って」
 目が据わっている累は、奏を睨み据えたまま、手で目の前の椅子を指し示した。ご丁寧に、累と向き合うように、きっちり真ん前に置いてある。
 普段穏やかな奴がキレる様子は、短気な奏がキレた時の数倍、恐ろしい。そろそろと後ろ手にドアを閉めた奏は、降参して、累が用意したキャスター付の椅子にきちんと腰掛けた。
 「…なんでございましょうか、累君」
 「……」
 少しでも空気をやわらげたくて、軽い調子でそう言ってみたが、累は、握りこぶしを膝に置いたまま、じっと奏を睨み据えている。
 「話があるから、こんなセッティングしたんだろ?」
 「……」
 「っつーか、お前、いい加減その不機嫌顔、直さない? お前はイギリス国内にずーっといるから知らないだろうけどな、去年の同時多発テロのせいで、今、空港のセキュリティとか結構大変なんだぞ? 日本出る時も、イギリス入る時も、8月ん時の倍以上の時間かけて手荷物検査やら金属探知機やらでチェックされて、オレなんて一見国籍が分かり難いから、検査官にすぐ目ぇつけられて、」
 「だから、何」
 低い声で言われ、一瞬、言葉を飲み込む。累のピリピリするオーラで、こっちまでピリピリしてしまいそうだ。
 「―――だから、そんだけいつもより苦労して帰ってきたんだから、もうちょい愛想良く出迎えて欲しかった、ってことだよ」
 奏が、少しトーンを落としてそう言うと、累は、僅かに視線を落とし―――そして、落ち込んだように呟いた。
 「……ごめん」
 「…や、ま、いーけど」
 素直に謝られると、あっさりこうなってしまう。この単純さが奏の長所であり、弱点かもしれない。気まずそうに奏が頬を掻くと、気を取り直した累は、再び目を上げた。
 「…あのさ、奏」
 「ん?」
 「奏が日本に活動拠点を置くことにしたのって―――ほんとに、仕事の問題だけ?」
 「……」
 「…違うよね」
 僅かに反応を見せた奏の目を見て、累は、少し悲しげに目を細めた。
 「あの2人が、日本にいるから―――だよね」
 「……」
 「なんで? 奏、辛い思いするだけじゃないか。なんでわざわざ、あの2人の傍に行こうとするんだよ」
 「累……」
 「あの2人に会ってから、奏、変わっちゃったよ。昔は、どんな時だって自信満々で、自分の信じた道を、周りのことなんてお構いなしでどんどん進んでただろ?」
 「…お前、昔からオレを美化し過ぎなんだよ。それに今だって、オレは、オレの信じた道を歩いてるし」
 「でも、なんだか奏、痛々しい」
 “痛々しい”。
 知らず、息を呑む。痛々しい―――それは、母にも、佐倉にも、そしてあの2人自身からも言われた形容詞だ。
 「今の奏、昔より刹那的じゃなくなったし、真面目になったし、人のことをよく考えるようになったけど―――その分、痛々しくなった。いい方向に変わった、って思うし、そのことは嬉しいけど……僕は、昔の奏でも十分誇らしかったから。うじうじ悩んだり、弱気になって一歩踏み出せない僕とは違って、奏はいつも、思うままに生きてて、いつだって僕より輝いていて―――そういう奏が誇らしかったから、だから…痛々しい奏は、見るのが辛いんだ」
 「……」
 「手に入らない恋に、いつまでも傷ついてる奏を……見たくないんだ」
 「―――…」

 輝いてた? オレが?
 自嘲的な笑みが、口元に浮かぶ。
 そう、確かに―――奏はずっと、スポットライトの中で生きてきた。一時の快楽を追い求め、それを求めても誰からも非難されず、それどころか多くの人に慕われ、満足した日々を送っていた―――心の中に、ほんの僅かな違和感を、ずっとずっと抱えたまま。
 気づかなければ、そのまま生きていったかもしれない。
 けれど―――その違和感に気づいてしまった今は、もう、あの頃の自分には戻れない。たとえどれほど、今の自分が痛々しくても。

 「…心配してくれて、サンキュ」
 ふっ、と笑った奏は、手を伸ばし、累の頭をくしゃくしゃ、と撫でた。
 「でもオレは、別に、自分を痛めつけるために日本にいる訳じゃないよ」
 「……」
 「虚構ばっかりの世界に、飽きただけ。イミテーションとして1カラットの輝きを放つより、本物として小さな輝きを放つ方が、本当のオレらしい生き方だ、って分かったから―――仕事も、友情も、恋愛も」
 「…そのためには、あの2人が必要?」
 「…うん。少なくとも、今は」
 「僕らより?」
 「は?」
 「僕や、カレンや、父さんや母さんより―――家族より、あの2人の方が必要?」
 「…バ、ッカ、」
 累の頭を軽く小突き、奏は苦笑を浮かべた。
 「極論過ぎるっつーの。オレは何も、二度とロンドンには戻らないとか、あいつらが日本にいる間は日本にしがみつくとか、そんなことは一言も言ってないだろ?」
 「……」
 「―――“今は”、あいつらが必要。でも、家族が要らないって訳じゃない。いつだって心の支えになってるし―――家族がいるから、こうやって帰って来る場所があるんだし。あいつらと比較するような問題じゃなく…、さ」
 「……うん。ごめん」
 少し安心したように微笑んだ累は、大人気のない駄々の捏ね方をした、と思っているのか、ぐしゃぐしゃになった頭を照れたように直した。
 「奏が、前向きな気持ちで2人の傍にいるんなら、いいや。それに、なんか…ちょっとさ。半年しかここにいなかったあの2人に、おなかの中から一緒にいた奏を取られちゃった気がしてたんだ。情けないけど」
 「はぁ? なんだそりゃ」
 「…もし、さ。万が一、奏が日本にいる間に、僕とカレンが結婚とかしたら―――何をおいても、来てくれるよね?」
 ―――なるほど。そういう心配もしてたのか。
 古い知り合いだし、交際からも既に1年。そんな話も、そろそろ具体的に出始めているのかもしれない。家族のいないカレンに安心できる居場所をあげたいと、前から累は言っていたから。
 微笑ましさにくすっと笑った奏は、わざとらしくあさっての方向を向いた。
 「さーねー。どーしよっかなー。オレがずーっと彼女もいないまんまだったら、拗ねて欠席するかもなー」
 「…奏…自虐的になるのはよそうよ」
 「人の幸せが胸に突き刺さる季節だから」
 「…来るよね?」
 累が本気で心配そうな目になったところで、やっと奏は、ニッ、と笑った。


***


 ―――やっぱ、帰って来るんじゃなかった…。
 居心地の悪さの中で、咲夜はぎこちなく椅子に座りなおし、目にかかった髪をはらいのけた。

 「でね、3日は、みんなチカちゃんの家に遊びに行くのに、パパが“三が日のうちはダメだ”って言うの」
 「ふーん…。大変だね」
 「大変だね、じゃないよっ。お姉ちゃんもパパ説得してよっ」
 ぐいぐい。
 食事をしながらでも、容赦なく姉の腕を引っ張る妹に、咲夜はぐらぐら傾きながら、落としてしまいそうになったかずのこを、すんでのところで箸でキャッチした。
 「お、おーい、かずのこ位普通に食べさせてくれー」
 「お姉ちゃん、あたしよりかずのこが大事なのっ」
 「…んー、それ、微妙」
 「ひっどーい!」
 酷い、と言いつつ、顔は笑っている。なんだかんだ言いながら、姉が相手をしてくれるのが嬉しいらしい。
 ―――でも、子供なりに気を遣ってるんだろうな。
 妹も、もう10歳だ。去年より今年の方が賑やかなのは、きっと、この気まずい空気を感じ取っているからだろう。
 チラ、と、妹の斜め前に座る弟を見ると、淡々と黒豆を口に運んでいた。妹より3つ年上な弟は、そろそろ反抗期に差し掛かっているのかもしれない。
 「咲夜ちゃん、お雑煮のおかわり、いらない?」
 母に訊ねられ、咲夜は微かに微笑み、
 「ううん、もういい。ありがと」
 と答えた。母の方を向いたせいで、見たくもないのに、その隣に座る男の顔も、ついでに見てしまうことになった。
 でも、目は合わない。
 合わなくていい―――それでいいのだけれど、じゃあ何のために帰ってきたんだ、と思うと、やっぱり虚しかった。


 テーブルの上のたくさんの重箱、お屠蘇のセット―――それを取り囲む5人家族。
 一見、ありふれた家庭の正月風景。…いや、恐らくは、本当にありふれた家庭の正月風景なのだろう。浮いているのは、自分だけで。
 マリリンの言葉に少しばかり心を動かされたのが、間違いだったのかもしれない。斜め前で、憮然とした表情でお屠蘇を口に運ぶ男―――父、を見ていると、後悔ばかりが襲ってくる。口を開けば、目が合えば、きっとまた馬鹿げた親子喧嘩になるのだろうと分かるから、どちらも目を合わせないし、口もきかない。そんな2人の空気が分かるから、他の家族も緊張している。

 ―――なんだか、正月早々、家族団欒をぶっ壊しに来たみたいじゃん、私。
 本当に、来なければ良かった―――咲夜は、雑煮を飲み干したその陰で、他の家族には気づかれないよう、小さくため息をついた。


 「ね、ママ。今年って拓海(たくみ)おじさん、来ないの?」
 「……ッ」
 妹の口から突如飛び出した名前に、食べかけていた黒豆が喉に引っかかりそうになった。
 冷静になれ、冷静に―――5回ほど心の中で繰り返しながら目を上げると、案の定、母の顔にも困ったような表情が浮かんでいた。
 「あ…ええ、拓海おじさんは、今ロサンゼルスに行ってるから、今年は無理ね」
 「なんだぁ。あたし、おじさんのピアノ聴きたかったのになぁ。次っていつ来るの?」
 「さあ、ねぇ…。いつかしら」
 「今月中には、帰って来るよ」
 隠すようなことでもないので、咲夜は、答えられない母に代わって、さらりとそう答えた。
 「え、ホント?」
 「うん。でも、忙しいからなー…。こっち寄れるとしたら、来月入ってからかも」
 「じゃあお姉ちゃん、おじさんに言っといて。暇になったら絶対、うちに来てピアノ弾いて、って。あ、それと、あたしのピアノも聴いてね、って」
 「あ、そっか。ピアノの先生替えたんだったね。ちょっとは腕上がった?」
 「―――拓海君に連絡なんぞするんじゃないぞ、咲夜」
 姉妹の会話に、低い声が割って入った。
 反射的に父の方を見た咲夜は、無意識のうちに眉根を寄せた。喧嘩の始まる核ボタンであることは、自分が一番分かっているだろうに―――なんでわざわざ割って入るのだろう、この親父は。
 「いい歳をして結婚もしないで、フラフラ遊び歩いてるような男は、教育上良くない。来たくなけりゃ、来なけりゃいいんだ」
 「……」
 「全く―――ああいうヤクザな世界に足を踏み入れた人間は、いくら元が真面目な人間でも、結局は毒されてそういう人間になるんだ」
 「言っとくけど、」
 我慢しろ、という方が無理だ。咲夜は、鋭い目で父を見据え、言い放った。
 「お父さんが“くだらん、くだらん”と言い続けているその仕事で、拓海はお父さんの数倍、稼いでるんだけど」
 「……」
 父と、今日初めて、目が合った。その目は、当然ながら、激昂寸前の目だ。
 プライドの高いこの人は、収入や社会的地位のことを出されるのを、非常に嫌う。それに、子供が親の収入のことを口にするなんて、生意気で恩知らずで許されない行為だと考えている。勿論、そういう父の性格を知った上で、咲夜はあえてそれを口にする。
 「世界中の大多数がお父さんの名前は知らないけど、拓海の名前は、日本のジャズ・ファンなら大抵知ってる。アメリカにもファンがいるしね。人の職業バカにするんなら、バカにできるだけの大物になってからにしたらどうなの」
 「ちょ…っ、さ、咲夜ちゃんっ」
 焦ったように母が止めに入ったが、時既に遅し。パチン! という音を立てて箸を置いた父は、既にキレてる状態だ。
 「咲夜! お前、親をバカにするのもいい加減にしないか!」
 「私は誰もバカになんてしてない! お父さんが拓海をバカにするから、そんな資格はお父さんにない、って言ってるだけじゃないっ!」
 「バカになどしておらん! お前は拓海君に毒されすぎて、ああいう世界の薄汚さが分からなくなってるだけだ!」
 「何よ、ああいう世界、って! 芽衣(めい)にはピアノ習わせておいて、ジャズピアノはいけないって、理論おかしいんじゃないの!?」
 「芽衣には教養としてピアノを習わせてるんだ! 才能があればちゃんと音大に通わせて一流のピアニストにしてやる。あんな薄汚れた飲み屋で、酔っ払い相手に低俗な音楽を聴かせるような輩には絶対させん!」
 「て―――…」

 …低俗な音楽?
 低俗な音楽って、何!? ジャズのこと!?

 「お…音楽に、低俗も高尚もあるわけないじゃない! ジャズもクラシックも、弾き手や歌い手の魂を伝える…」
 「あああ、うるさい。お前は音楽のことになると理屈っぽくなるからな、いつも。もういい。この件でやりあうのは、もう沢山だ」
 「お父」
 「とにかく!」
 もうこれ以上の議論は結構、とでも言うように、父は鋭くそう言い、忌々しそうにずれた眼鏡を直した。
 「お前もいい加減、目を覚ませ。拓海君にどんな甘い夢を吹き込まれたか知らんが、ああいう世界で食っていける人間なんぞ、限られた一部の人間と、人に言えない方法で業界に取り入った人間だけだ。よほどの天才か、そうでなければ人間の屑がいる所だぞ、芸能界なんてものは」
 「…芸能界じゃないよ」
 「似たようなもんだ。せっかく大学も出してやったんだから、真面目に働け。一城大卒の肩書きが泣くぞ」
 「―――…」

 “大学も出してやったんだから”。
 この言葉に―――完全に、キレた。

 叩きつけるように箸を置いた咲夜は、冷ややかな表情で父の頭の辺りを睨むと、ガタン、と席を立った。ハッとしたように眉をひそめる母に、咲夜はなんとか、微かな笑みを返した。
 「咲夜ちゃん…」
 「…ごめん。やっぱ、帰る」
 「姉ちゃん」
 ずっと黙っていた弟が、少し不安げな声を上げた。妹の芽衣の方は、父と姉の言い合いが怖かったのか、ちょっと泣きそうな顔になっている。
 「ごめん。新年早々、あんた達にまで嫌な思いさせて」
 「…姉ちゃんの歌聴くの、楽しみにしてたんだけどな、おれ」
 「…あたしも」
 ―――うん。だから、帰って来たんだよ。
 でも、多分―――帰って来るべきじゃなかった。この2人にとっては優しい父・理解のある父なのだ。ただ1人、咲夜に対してだけ、“あんな父”なだけで。そして、その責任は、父だけにある訳じゃない―――咲夜自身にもある。
 本当は、泣きたい気分だった。
 けれど咲夜は、2人を安心させるようにニコッ、と笑い、大きく息を吸い込んだ。

 「When you wish upon a star, Makes no different who you are. Anything your heart desires will come to you...」

 小中学生でも分かる、『ピノキオ』の『星に願いを』。
 その最初のフレーズだけを歌い終えた咲夜は、妹の頭をぽんぽん、と撫で、食卓を離れた。

 

 「咲夜ちゃん!」
 玄関で靴を履いていると、追いかけてきた母が、咲夜のジャケットの裾を掴んだ。
 「ま…待って。もう一度戻って、お父さんと話し合いましょ? このまま帰っちゃったら…」
 「…ううん、話し合っても、もう無駄だから」
 もう何度も繰り返してきた事だ。無駄だということは、とうの昔に悟っている。
 それに―――問題は、ジャズだけではない。父と咲夜の間には、音楽とか拓海の問題よりもずっと根深い問題があって―――でもそれは、決して触れてはいけない問題で。だから、父とは多分、一生分かり合えない。咲夜が、咲夜でなくならない限りは。
 「ごめんね、お母さん。あんな奴で」
 「え?」
 「…弟をボロクソ言われて、ムカつかない?」
 「……」
 拓海は、母の弟だ。いかに夫の発言でも、いい気分ではなかっただろう。姉の前でよくあそこまで言えるな、と、我が親ながら本当に呆れる。もしかしたら、拓海が自分の妻の弟であることを、父は記憶の外に締め出しているのかもしれない。
 母は、暫し複雑な表情をしていたが、やがて苦笑のような、少し悲しげな笑みを浮かべた。
 「―――お父さんは、咲夜ちゃんが拓海の近くにいるのが、ただ嫌なだけなのよ。口で言うほど、拓海の仕事を軽蔑してる訳じゃないし、拓海の私生活で迷惑を被ってる訳でもないんだと思うわ」
 「……」
 「一種の嫉妬よ。あまり、気にしないで―――ね?」
 「…気色悪い」
 吐き捨てるように、短く呟く。
 気色悪い―――心底、気色悪い。まるで、恋人の新しい男をボロクソに言う未練がましい男みたいで、寒気がする。
 「拓海が日本に戻ったら、一度、咲夜ちゃんから連絡ちょうだい。うちに来るって言うと、お父さんがまたいい顔しないから、どうしても、って言うならあの子達を拓海の所に行かせるから」
 「ん…、分かった」
 「それから―――…」
 言いかけて。
 母の言葉が、止まった。
 躊躇うように、瞳が揺れる。何が言いたいのか、分かるから―――咲夜は静かに微笑を返し、スニーカーを履いた爪先で、玄関の床をトン、と1回蹴った。
 「―――お母さんのせいじゃ、ないよ」
 「……」
 「芽衣のせいでも、(わたる)のせいでもない。…これは、私の気持ちの問題だから」

 ―――うん。そうだ。

 これは、誰の問題でもない―――私の気持ちの問題だ。

***

 どこかで、みーみー、という鳴き声がした。
 「……」
 アパートの階段下で、咲夜は四方を見回し、鳴き声の主を探した。すると―――側溝の中に、まだ子猫と思われる黒い猫が、うずくまって鳴いていた。
 「あれぇ…、お前、どうしたの?」
 よいしょ、と側溝から猫を抱き上げる。
 やはり、まだ子猫だ。随分小さい。捨て猫だろうか? それとも野良猫が産んだのだろうか? 黒い毛は、野良猫にしては艶がいいようにも思えるが、首輪の類はついていない。
 「お前、お母さんは、どこ行っちゃったの?」
 みーみー。
 まるで咲夜の質問が聞こえたみたいに、子猫が鳴いた。でも、猫語など咲夜に分かる筈もない。

 ―――死んじゃったのかな。この子のお母さん。

 「あらら? 咲夜ちゃん?」
 がらっ、と101号室の窓が開き、マリリンが顔を出した。どうやら、年末年始もここで過ごしたらしい。
 「あ…、マリリンさん。Happy New Year」
 「おめでとう。…どうしちゃったの? 帰省したもんだとばっかり思ってたのに」
 「んー、まあ、いろいろ。それより、この子」
 適当に言葉を濁した咲夜は、たった今拾った猫を、マリリンの方に掲げてみせた。
 「あらー、綺麗な黒猫だこと。どうしたの」
 「そこの側溝に埋まってた」
 「捨て猫?」
 「よく分かんない。首輪も鈴もついてないから、飼い主いなそうだけど。…どうしよう?」
 「そーねぇ」
 腕組みしたマリリンは、うーん、と首を捻った。
 「一応ペット禁止にはなってないけど、ペット可、でもないのよねぇ。…とりあえず、アタシが預かるわ。昔飼ってたから、慣れてるし」
 「ほんと? じゃ、お願い―――」
 さっそく、窓越しに猫を手渡そうとした咲夜だったが。
 「―――あ、ごめん。やっぱ、後で連れてく」
 「え?」
 「1時間位、この子部屋に連れてっていいかな」
 「いいけど―――どうしたの?」
 「なんか、離れ難くて」
 手の中にいる子猫のぬくもりが、なんだか、妙に愛しかった。
 弱ってるのかな―――我ながら、苦笑してしまう。今更、弱ることも悲しむこともない筈なのに。
 「あらら。今日の咲夜ちゃんは、随分と寂しがりだこと」
 「―――ねえ、マリリンさん」
 子猫の喉の辺りを指先で撫で、咲夜は、マリリンを見上げた。
 「この前、マリリンさんが言ってたこと、確かに一理あるけど―――帰って来ない方がいい子供ってのも、この世には存在するんだよ」
 「……え?」
 「帰らなきゃよかった」
 言葉とは反対に、咲夜はニッ、と笑った。
 「じゃ、また後で」
 「―――…」

 くるりと踵を返し、階段を上がる。
 いつもの数倍重い足取りは、手の中にいる子猫の温もりの分だけ、僅かながら軽くなったような気がした。


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