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― 丸の内アナクロニズム ―

 

 咲夜に拾われた猫は、“ミルクパン”と名づけられた。

 「はぁ? なんで黒猫なのに、ミルク沸かす鍋の名前なんだよ」
 「うーん、なんでかな。フィーリング?」
 名づけ親である咲夜は、そう言ってハハハ、と乾いた笑い声をたてた。

 幸いにしてオス猫だったので、子猫が増える心配はとりあえずない。が、マリリンがオーナーに相談したところ、オーナーの返事は後ろ向きなものだった。それには、オーナーの苦い経験がある。
 新築当初、犬をこっそり飼っていた住人がいたのだが、1年ほどの間に動物臭や汚れが部屋中に染み付いて、大変なことになったのだそうだ。退去時のクリーニングを巡って随分トラブルになったこともあり、オーナーも懲りてしまったらしい。以来、ペット禁止にはしていないが、犬猫のような部屋の中を歩き回るものは勘弁して欲しい、という方針になっているのだという。
 とはいえ、この辺りのマンションはどこもペット禁止。一軒家も少なく、捨て猫を引き取ってくれる人を探すのは難しそうだ。とりあえずは里親募集の貼り紙はするが、引き取り手が現れるまで何ヶ月もかかる覚悟は要りそうだ。
 諦めて保健所に引き渡すしかないのか―――重苦しい空気になりかけた時、必死にアイディアを出したのは、優也だった。

 「あ、あのっ! 階段下の物置を利用して、僕が飼っちゃダメですか? あそこなら、扉が格子状になってるし、水洗いもできるし。あまり冷え込みが厳しい時は、一時的に僕の部屋に入れさせてもらうとか、ヒーター引っ張っていくとか…」

 箒とちりとりしか入っていない物置なので、まあいいか、という話になり、そのアイディアは採用された。
 結果、一番物置に近い部屋の住人であり、また猫を長年飼っていた経験もあるマリリンが責任者となって、“ベルメゾンみそら”全体でミルクパンを飼うこととなった。

 「僕、ずっと猫が飼いたかったんです」
 優也はミルクパンを抱き上げて、嬉しそうに言った。
 「実家では飼えなかったの?」
 「父が動物アレルギーで。毛の散るタイプのものは駄目だと言って、金魚を1匹飼うのが精一杯だったんです」
 「ふーん…。うちは弟が亀飼ってるけど、私はなんにも飼ってないなぁ」
 「オレは日本にいた頃鳥飼ってた。桜文鳥だっけ。餌食うと餌袋が膨らむやつ」
 出勤・通学前の朝のひと時、階段下の僅かなスペースに集まって、年末の誕生日会のメンバー4人がミルクパンを囲んでそんな雑談していると。
 「―――あの」
 唐突に割り込んできた新たな声に、優也が、ミルクパンを落としてしまいそうになった。

 4人が振り向くと、そこには、奏にとっては初対面の住人が立っていた。
 奏の感想を一言で言うなら、「先月号のファッション雑誌の記事を、そのまま切り抜いたような感じ」。
 今時のOLに多い、肩にかかる明るい色のレイヤーカット。その整え方も、カット後に美容師がブローした時の状態を忠実に再現している。スーツも雑誌で紹介されていた流行のものだと思うし、バッグもヴィトンのモノグラムミニ、時計もカルティエと「いかにも」なチョイスだ。
 そんなマニュアル通りの女を前に、年上に弱いお年頃の優也は目に見えて赤面し、理不尽な冷戦状態を強いられている咲夜は冷ややかな顔になり、大人なマリリンはまるっきり表情を変えなかった。実に分かりやすい三者三様である。

 「あ、友永さん、おはようございます」
 マリリンがにこやかに挨拶すると、102号室の住人・友永由香理は、少し不機嫌そうだった表情を社交辞令程度に和らげ、軽く会釈した。が、すぐにまた表情を険しくし、見たくないものを見るような目で、優也の腕の中にいる黒猫をチラリと見下ろした。
 「あの、その猫ですけど―――飼うのにはOKしましたけど、私の部屋には、絶対近寄らせないで下さいね」
 「え?」
 「猫、嫌いなんです。ずうずうしいから」
 「……」
 “猫、イコール、ずうずうしい”。
 呆気にとられた咲夜が「何それ」とポツリと呟いたが、本人には聞こえなかったようだ。
 「じゃ」
 ポカンとする4人に構うことなく、彼女はツンとそっぽを向き、さっさと立ち去ってしまった。「ずうずうしい」と言われたことへの抗議なのか、優也の腕の中のミルクパンが、去って行く背中に、みーみー、と小さく鳴いた。
 「…近寄るのすら寒気がするんなら、ドアの前に有刺鉄線でも仕掛けときゃいいんじゃないの」
 元から印象の良くない咲夜が、けっ、といった口調でそう言い捨てる。憧れの人に対する辛口コメントに、優也は気まずそうに視線を落としたが。
 「なあ、優也」
 そんな優也の背中を、奏がトントン、と叩いた。
 「え?」
 「その道のセミプロとして言わせてもらうけど」
 キョトンとして奏を見上げる優也に、超真面目な顔で、奏は、こう言った。

 「今の女、間違いなく“メイク美人”だから。騙されんなよ」


***


 「あーあ、引っ越したいなー」
 紅筆に口紅を取りながら、由香理はうんざり顔で眉を顰めた。
 「大体、私にはああいう所は似合わないってのよ。同じ家賃でどっかいいマンションないかなぁ」
 「そんなに嫌なら、家賃に糸目つけずに引っ越せばいいじゃない」
 由香理の隣で化粧直しをしていた同期が、そっけなくそう言う。が、由香理は、とんでもないとでも言いたげに大袈裟に肩を竦めた。
 「あー、駄目駄目。家賃はこれ以上は無理」
 「無理、って―――私とそう変わらない給料で、私よかずーっと安いとこ住んでる癖に」
 「考えても見なさいよ。人間の基本は? 衣・食・住! そのうち衣は絶対削れないでしょ。ファッションと美容に金かけなくなったら、女は終わりよ。それに食。これも今は無理。気前のいい男が捕まれば苦労はないけど、それまでの投資は必要よ。飲み会代けちってチャンスを減らす気なんてさらさらないわ。となると、削れるのは住だけでしょ」
 「……あんたねぇ」
 はーっ、と大きなため息をついた友人は、パチン、とコンパクトを閉めると、呆れたように鏡の中の由香理を睨んだ。
 「“大手企業に勤めるイケメンなヤング・エグゼクティブをひっかけて、優雅でカッコイイ、ドラマみたいな暮らしをゲットする”なんて、時代錯誤な野望を、まーだ持ってるわけ?」
 「あーら、いけない?」
 「バブル全盛時代のトレンディ・ドラマじゃあるまいし、今時流行んないって、そんな夢。これからの女はね、リッチな生活は自分の力で手に入れるもんなの!」
 「…ま、智絵なら、そう言うわよね」
 鏡の中の由香理が、そう言って眉を上げる。“職場の花”である由香理とは違い、智絵は総合職のキャリアウーマン―――定時退社なんて入社以来ほとんど経験がないし、コンパにも興味なし。男に構ってる暇があったら契約の1件も取ってこい、という感じで、ひたすらバリバリ働いているのだから。
 「確かに、智絵位にやる気と才能のある女なら、それもいいと思うわよ? でもね、そこまでじゃない普通の女は、最後には、自分自身じゃなく“結婚した相手”で評価されるのよ。借金男と結婚した東大卒の才女より、大手商社のやり手のビジネスマンと結婚した短大卒の女の方が、最終的には“勝ち”なの。分かる?」
 「……」
 「で、私は、どっちかというとその“普通の女”の側にいる女だから。見込みのないキャリアをちまちま積む努力よりも、確実に勝ちの見込める男をゲットする努力をする方が賢い選択って訳よ。 だから、住む所位は多少我慢してでも、お肌の手入れとファッションに―――あー! もう昼休み終わっちゃう!」
 時計の長針の角度に気づいた由香理は、大慌てで紅筆を唇の形に走らせ、鏡の前で右、左、右、と3回角度を変えてメイクを確認した。
 「じゃ、私、もう行くから!」
 「あ、ちょっと由香理! 今夜はどうするの!?」
 「パスー! 合コン入ってるからー!」
 「…あっそ」
 頑張ってね、と言う智絵の声は、呆れかえってしまったせいで、すっかり抑揚がなくなっていた。

***

 友永由香理、25歳。
 彼女の人生観は―――まあ、先に本人が述べたとおりである。

 現在彼女は、丸の内にある大手総合商社に勤めており、ここに就職した動機は、当然、彼女の望む通りの結婚相手を見つけるためだ。
 由香理は、某女子大を卒業しているが、その大学の友達の中には、アナウンサーやスチュワーデスを目指す者もいた。華やかな職業の人と結婚する人の多い職場だが、由香理はそっち方面には興味がなかった。スポーツ選手も芸能人も、結局は潰しのきかない人気商売。恋をするにはいい相手だが、結婚相手には向かない、と思うからだ。
 理想は公務員だが、そこまでいくと地味すぎてイヤ。医者は看護婦との浮気が多いともっぱらの噂だ。
 で―――結果、選んだのが、総合商社だった。
 実は、就職の際、証券会社にするか総合商社にするかで、かなり迷った。証券に行った友達が、就職1年目で職場結婚したが、その給料を聞いた時にはちょっと後悔したりもした。
 でも、大手金融機関がバタバタ倒れ始めてからは、やっぱり自分の選択は正しかった、とホッとした。
 総合商社は、扱っているジャンルが幅広い分、リスクも分散されているように思う。実際、由香理の会社も、鉄鋼が落ち込んでも石油が順調だったりして、総合的にはなんとなく安定している。リストラの可能性はどこでもつきものだが、とりあえず、最悪の倒産という危険だけは、今のところないようだ。

 由香理に唯一、後悔があるとすれば、それは配属された部署だろう。
 女子社員で最も華やかな部署といえば、やはり、秘書課だ。容姿端麗な女性が多く、その中でやっていくのは大変そうだが、なんといっても秘書課ブランドは凄い。秘書課の女の子だ、というだけで、他社からでもお呼びがかかるのだ。
 勿論由香理は、入社した際、秘書課を希望した。けれど、語学力が足りなかったのか、容姿があと一歩だったのか、その願いは叶わなかった。配属された部署は、総務。無難だが、地味だ。
 こんなことなら、もっと英語を勉強しておけばよかった―――舌打ちした由香理だったが、秘書課にはメリットが多い分デメリットも多いことが、入社1年目で早くも分かった。
 「秘書課の子は、みんな頭が良くてプライド高いから、扱いにくそう」という男性社員の声を、コンパの時に聞いたのだ。
 なるほど。男はプライドの生き物だ。優秀な女より、自分よりちょっと下の可愛い女の子の方がいい、という男性の方が、特に日本では多いかもしれない。
 以来、由香理は、総務という自分の肩書きを武器にしている。

 「秘書課の皆さん見てると、優秀な女性って凄いなー、って思いますよ。上司より英語ができちゃう人とかいますもんね。やっぱりできる女って憧れます。あ、私? 私は総務なんです。アハハ、地味ですよね。でも、男の人と仕事で張り合うより、男の人の仕事を陰で支える方が、私には合ってるかなー、なんて」

 こんなわけで、由香理は、秘書課の女からもの凄く嫌われている。


 ―――でも、お茶くみなんてバカらしい、ってのも本音よねー…。
 営業から戻った社員のためにお茶を淹れながら、由香理は疲れたようにため息をついた。
 と言っても、お茶くみが総務の仕事、という訳ではない。社内の慣習のようなもので、総務の女子社員がやるものと、いつの時代からか何となく決まってしまっているのだ。
 これが、第一線で活躍している若手営業マンの机に運ぶお茶であれば、そりゃもう喜んで淹れてしまうのだが、重役連中の会議に出すお茶ときているからうんざりする。

 「友永さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
 総務の1年先輩の女性が、急須を置いた由香理にこっそり耳打ちしてきた。彼女も由香理と同じタイプの人間で、今夜のコンパの話も、彼女が持ってきたものだった。
 「なんですか?」
 「あのね、今日って7時集合だと思うけど―――ほら、今日が提出期限の書類、あれの提出が遅れてる営業が1人いるのよ。営業1課の下村君なんだけど、今、携帯に連絡入れたら、もう書き上げてはあるらしいの。6時半帰社予定になってるから―――その書類、受け取って処理してあげてくれない?」
 「え…っ」
 「ほら、私、今日のコンパの幹事だから、遅れる訳にはいかないじゃない?」
 その書類の処理は、由香理とこの先輩の担当だ。だから、どちらが受け取っても問題はない。先輩の言っていることに矛盾はない―――のだけれど。
 ふーん、そういうこと、と内心思いながらも、由香理は表面上ニッコリと微笑んでみせた。
 「分かりました。やっておきます」
 「ありがとう。友永さんが遅れることは、みんなに伝えとくから」
 「はい、よろしくお願いしますね」
 由香理の快諾にホッとした様子の先輩は、上機嫌で席に戻って行った。その背中を見送りながら、由香理は、片方の眉を皮肉っぽく吊り上げた。
 果たして“下村君”は、うっかり書類提出を忘れていただけなのか、それともあの先輩から「帰ってきてからでいいわよ」と言われていたのか―――下村とあの先輩が同期で親しい仲であるだけに、邪推せずにはいられない。
 ―――焦ってるなぁ、先輩も。
 前のコンパで、先輩が5分遅刻してきた間に、先輩が狙っていた男と由香理が意気投合してしまっていたのが、よほど癪に障っていたらしい。頭数あわせのために由香理には出て欲しいが、でしゃばった真似はするな、ということだろう。

 …ま、いいけど。
 それならそれで「先輩の代わりに仕事を片付けていたため遅刻してきた、頑張りやで健気な後輩」をアピールしよっと―――気の乗らないまま淹れたお茶をお盆に乗せながら、由香理は、今日の路線は決まったな、と心の中で呟いた。

***

 お茶を配り終えて会議室を出た由香理は、直後、一番聞きたくない声を耳にして、思わず足を止めた。

 「こんにちはー、カフェストックでーす」

 ―――また、来た。
 忌々しい思いで振り返ると、先ほどの総務の先輩に挨拶をしている彼女の、チェック柄のシャツを着た肩の辺りが見えた。
 クリーム地にベージュのチェック柄が入ったシャツに、モスグリーン系統のキュロットパンツ。多分、“カフェストック”の制服なのだろうが、彼女があれを着ると、まるで学生のようだ。
 「定期メンテに伺いました。作業させていただいてよろしいですか?」
 「はい、お願いします」
 じゃ失礼しまーす、と言いながら、彼女は、肩から提げた重たそうな四角いケースをよいしょ、と持ち直し、オフィスの奥へと向かった。彼女が由香理に気づくことはなかったが、由香理はなんとなく、振り向かれることを恐れるように、そそくさとパーティションの陰に身を潜めてしまった。

 “201号室の如月さん”―――それが、由香理が知る、彼女の全て。
 初めて会ったのは、アパートの階段下。「おはようございます」と挨拶する彼女の声で、最近、時々上から聞こえる歌声の主が彼女であることが分かった。でも、特に騒音になる歌声ではなかったので、苦情を言う気にはならず、由香理も「おはようございます」と挨拶しただけだった。
 1階の集合ポストに貼られたネームステッカーで“如月”という名前が分かったが、下の名前までは分からない。由香理は歌声のおかげで201号室と分かったが、向こうは由香理がどの部屋の住人か分からないだろう。でも、大体そんなものだろう。集合住宅の人間関係なんて。
 以来2人は、互いを「同じアパートの住人」と認識し、出勤や帰宅が重なると目で挨拶するだけの間柄だった。
 そう―――2ヶ月前、彼女が、コーヒーデリバリーサービス・“カフェストック”の担当者として、このオフィスに現れるまでは。

 イライラを抑えつつ席に戻った由香理は、マウスを動かしてパソコンのスクリーンセーバーを解除しながら、チラリと画面の向こうに目を向けた。
 ―――なんだってこう、絶好のポジションにあるんだろう。
 由香理の席からよく見える位置に、“カフェストック”が設置しているコーヒーメーカーがある。201号の住人は、さっそく荷物を下ろし、仕事に取り掛かっている。
 そして、案の定―――そんな彼女に、由香理が最近一番気に掛けている男性が、声をかけてきた。
 「…腹たつー…」
 思わず、呟いてしまう。

 総務部と同じこのフロアに併設されている、営業3部。そこの一番の若手である彼は、由香理の同期である。
 入社当時は、さほど気に掛けていなかった。先輩社員で、もっと目立つ人はいくらでもいたし、由香理の理想からすると彼の容姿は少々平凡だったから。けれど、入社から間もなく3年―――ビジネススーツが板についた彼は、今では若手ホープとして注目されている存在だ。相変わらず外見は地味めだが、3年でそれなりに遊びも覚えたのか、最近では人事の女の子とデートした、なんて噂も耳にする。
 これ以上目だってしまう前に、一度、ツーショットで食事でもできないかな、と由香理は焦るのだが、なかなかその機会に恵まれずにいる。
 そんな中―――彼が突如興味を示したのが、担当替えで2ヶ月前からここの担当となった、コーヒーデリバリーの女の子だったのだ。
 きっかけは、単純だ。彼がコーヒーを飲もうとカップを手にコーヒーメーカーに歩み寄ったら、ちょうど彼女がコーヒーの補充作業をやっている最中だったので、作業が終わるまで待ちながら立ち話をした、という訳だ。
 話していたのは、5分ほどだろうか。その時は気にしなかったが、次のメンテの時、彼は作業中であることを知りながら、わざわざ彼女の所に出向いた。そして、作業する彼女と、なにやら談笑していた。
 もう、今日で4回目だ。こう度重なると、「コーヒーが飲みたいから作業が終わるのを待っている」とは考え難いだろう。間違いない、彼は、彼女に興味があって、それでああして話をするために席を立っているのだ。

 ほんと、腹立つ。
 これが秘書課の女の子なら、まだ理解できるし、納得するわよ。悔しいけど「うわ、負けた」って子が何人もいるし、そういう子達はエステにかける費用だって私の比じゃないから、努力の賜物よね、って諦めるわよ。
 なのに、なんで201号室!?
 絶対その子、エステなんて行ったことないわよ。メイク用品もドラッグストアで千円台で買えちゃうやつなんじゃない? 美容室も、カリスマ美容師のいる美容室なんて1度も行ったことなさそう。高校生位からずーっと同じ店通ってて、「いつもと同じだけ切って」って言ってる姿、簡単に思い浮かぶわよっ。
 仕事にしたって、“カフェストック”なんて、大手商社と釣りあわないどころか、まだ出来て10年経たない小さな会社じゃないの。そりゃ、秘書より総務の方が地味っぽいし大学のランクも下っぽいけど、「大手商社の総務」の方が「弱小コーヒーデリバリーの社員」よりは、彼女として紹介する時、聞こえがいいんじゃないの?

 日頃、一部上場企業の名前と、エステサロンで磨き上げた肌と、練習に練習を重ねたメイクの三段重ねで、男たちからの評価を勝ち取っている由香理ならではのイライラだ。
 智絵のように男の人生を歩むタイプでもないし、手入れをしなくても誰もが振り返るような究極の美貌の持ち主でもない。なのに、何もしていないのがミエミエな201号室の彼女は、「女として全然努力してないタイプ」である。努力する・しないは本人の勝手だから、努力しない彼女を非難する気などない。でも―――努力している自分より、努力していない彼女の方が男の目を惹くのは、どうにも納得がいかない。その男が、自分が興味を持っている相手なら、尚更だ。
 そのイライラ故に、最近は、出勤時に彼女と鉢合わせしてしまうと、無意識のうちに目つきが悪くなってしまう。
 相手も、気づいているのだろう。今朝、猫の件で声をかけた時、由香理に向けられた彼女の目は、猫を見ていた時とは別人のように険悪だった。
 ―――こっちだって、喧嘩売りたい訳じゃないのよ。でも、ムカつくんだからしょうがないじゃない。
 なにやら楽しそうに話している2人から目を逸らし、由香理は、いつもより乱暴なキータッチで、見積書に数字を打ち込み始めた。
 だが。
 「……ッ! いたっ!」
 長い爪が、キーボードの隙間にひっかかり、パキン! と音を立てた。

 きゃーっ! ス、スカルプチャーがーっ!!

 すんでのところで、悲鳴を呑み込んだが、誰もいなければ絶対叫んでいただろう。指10本で合計1万円もした凝ったデザインのスカルプチャーのうち、1本が、爪から剥がれて完全に真っ二つに割れていたのだから。
 ネイルサロンのオリジナルデザインだから、これから1本分だけ買ってくる、なんて真似は不可能だ。一番気に入っていたやつなのに―――コンパのことを考えると、予備で持ち歩いている地味目のやつをつけ直すしかない。

 ―――…厄日かも。
 コンパをパスして、気分転換にフットマッサージにでも行った方がいいのかもしれない。割れてしまったスカルプチャーを丁寧にティッシュに包みながら、由香理は、はあぁ、と大きなため息をついた。

***

 「友永さん」
 見積書が出来上がった頃になって、例の営業3部の彼が、由香理の席にやってきた。
 つけ爪の取れてしまった左の人差し指を無意識のうちに隠しながら、由香理は「デリバリーの女なんてぜーんぜん気にしてません」という笑顔を作って顔を上げた。
 「はい?」
 「これ、今日提出の書類。ごめんよー、ギリギリになっちゃって」
 「ああ……はい」
 ―――もっとギリギリに提出する奴もいるから、気にすることないわよ。
 所詮、総務に関する書類なんて―――特に社内業務なんて、会社の業績には全然関係のない、成果の求められないものばかりだ。雇用保険のこと、税金のこと、先月の残業申請のこと―――大半の社員が、そんなの総務で適当に作っといてよ、というのが本音だろう。“社内の潤滑油”と呼んで上司はその重要性を主張しているが、専門職や営業との間につけられた賃金格差を見ると、やっぱり会社の営業業務に携わる仕事こそが花形なのだと実感させられる。
 ……つまんない仕事。
 でも、それで構わない。仕事に遣り甲斐なんて求めていないのだから。
 「? 友永さん?」
 「えっ」
 どうやら、珍しく自嘲気味なもの思いに陥っていたようだ。不思議そうな顔をする彼に慌てて誤魔化し笑いを返し、由香理は彼から書類を受け取った。
 「珍しいね、いつも笑顔の友永さんが」
 「あ、あははは、そうかしらー。ちょっと疲れてるのかも」
 「コーヒー、今日から新しい豆も入ったらしいよ。まだ沸いてないみたいだけど、気分転換にどうぞ」
 まるで“カフェストック”の営業マンのように彼にそう言われ、せっかく隅っこに追いやっていたイライラが、またぶり返す。一瞬、僅かに眉をひそめた由香理は、出来る限りさりげなさを装いながら、思い切って彼に訊ねた。
 「…あのぉ…。この間からちょっと気になってたんだけど」
 「ん?」
 「“カフェストック”の女の子と、やたら親しそうに話をしてたみたいだけど…」
 え、見てたの、と少し目を丸くした彼は、バツが悪そうに笑いながら、由香理の想像もしなかった言葉を発した。
 「ハハハ、いや、実はさ。あの子、俺の大学の後輩なんだよ」
 「えっ!?」

 大学?
 大学の後輩、って―――…。

 「…ちょ、ちょっと、待ってね。大学って、確か…」
 「うん、一城だよ」
 「―――…」

 一城といえば、由香理が高校の模擬試験段階で、合格率ランクで“C”をつけられ、受験そのものを断念した大学である。目の前の彼も一城卒だが、秘書課にも一城卒がチラホラいる。ネームバリューはあまり無いものの、偏差値だけ比べたら、六大学の内いくつかは、下手すると一城より下かもしれない。
 「こんにちはー、カフェストックでーす」が、自分が受けることすら出来なかった大学の卒業生だったとは。
 これは―――スカルプチャーが真っ二つになった以上の、大ショック。

 「俺は経済で、あの子は英語だから、あんまり接点はなかったんだけどね。ただ、当時から彼女、よく路上ライブとかやって歌を歌っててさ。それがプロ級だったから、結構有名だったんだよ。てっきり音楽関係に進むかと思ってたら、いきなり“カフェストック”だろ? ビックリしたよ、この前会った時は」
 「……」
 「今は、“カフェストック”に勤めながら、ジャズ・バーでのライブもやってるんだってさ。就職しても続けてるって凄いよなぁ。俺も大学時代はバンドやってたけど、今じゃたまーにギター触るだけだよ。あの頃から全然真剣さが違ってたけど、ほんと、頭下がるよ」
 「…………」

 ―――面白くない。
 もの凄く、面白くない。大学のレベルだけの話じゃなく―――もっと、大きな意味で。

 いかにも平凡そうな相手だと、思っていたのに。
 そう―――“私”とそう大差ない平凡さだと思っていたのに。

 由香理は、引き攣った笑いで「ふぅん、そうなの」と相槌を打ちながら、久方ぶりに胸に広がる真っ黒なコンプレックスに耐えるように、スカルプチャーの取れた人差し指をぐっと握り締めた。


 この日から、“201号室の如月さん”は、由香理にとって今まで以上に気に食わない存在となった。


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