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― アンタッチャブル ―

 

 「あれぇ、一宮君じゃない?」
 店に入ってきた客が、開口一番、そう声をあげた。
 誰だっけ、と記憶を手繰り寄せる。そして、年末の某ファッションブランドのショーの仕事で一緒に舞台に立ったモデル仲間だと分かり、奏の顔が、お客様用笑顔からプライベート用の笑顔に変わった。
 「あー、あの時の! うちのお客さんだったんだ。知らなかった」
 「フェイスマッサージの横田さん目当てで来てるから、まだ2回目なのよ。前の時は、たまたま一宮君いない時だったのね、きっと」
 「そっか。じゃあ、さっそく―――コートとお荷物、お預かりします」
 奏が元の接客用スマイルに切り替えてそう言うと、彼女は可笑しそうに吹き出した。
 「あっはははは…! 一宮君がやると、似合わなーい! なんか、王様が下僕にご奉仕してるみたいな違和感あるわー」
 「…なんだよそれ。何気に失礼な」
 むっとして眉を上げる奏に、彼女はまだ笑いながらコートとバッグを預けた。すると、すぐに担当者である横田がやってきて、彼女を席へと案内していった。
 ―――顔で仕事する訳じゃないだろっ。ちくしょー、ムカつくなぁ。
 番号札をコートを掛けたハンガーとバッグに結びつけながら、口の中でぶつぶつ愚痴る。羨ましがられたり褒められたりした経験の多いこのルックスだが、今の奏にとっては、むしろコンプレックスだ。外見に合わせて中身もクールを装っていた頃は楽なものだったが、今は、中身と外見のギャップを埋めるのに毎回苦労しているのだから。
 「なあなあ。今の人って、いっちゃんの仕事仲間?」
 つつっ、と寄ってきたテンが、こそっと奏に訊ねた。
 「ああ、仲間っていうか、この前やった仕事ん時に一緒だった人」
 「やっぱモデルさんやんな?」
 「見てのとおり」
 彼女のルックスは、典型的モデル体型、プラス、メイクの必要などないのではないか、と思う位に整った目鼻立ちである。モデルになったのも、奏同様、街中を歩いていてスカウトされたのがきっかけらしい。つまり、見るからに「華やかな世界の人」なのだ。
 「そうやんなぁ。あー、やっぱり全然ちゃうわぁ、本物は」
 ほーっ、と、うっとりしたようなため息をついて彼女の後姿を眺めるテンに、奏は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「本物?」
 「一般ピープルがめっちゃ頑張ってメイクしたところで、結局、ああいう“天然状態で既に別物”な本物のスーパービューティーには敵わへん、てことやんか」
 ―――この仕事してて、その言い草はないだろ、こら。
 絶対、他の客には聞かせられないセリフだ。なんとも相槌が打ち難く、奏は気まずさに咳払いをひとつした。
 「ああ、けど、いっちゃんが超美人のお客さんからの誘いも、ぜーんぶ笑顔で断ってる理由、よう分かったわ」
 「は?」
 「ほら、いっちゃん、時々自信ありそうなお客さんから“店が退けたらお茶でもどう?”って誘われて、全部断ってるやん? 女のウチから見ても勿体無いような美女もおるのになぁ、と思ってたけど―――あのお客さんと並んだいっちゃん見てると、“ああ別世界”って感じやもん」
 「……」
 「いっちゃんの隣が似合うレベルの美女なんて、そうそうおらへんもんなぁ…。美形も大変やなぁ」
 ―――オレの隣が似合う美女…、か。
 皮肉な笑みが、口元に浮かぶ。けれど、テンはそれに気づかず、星に呼ばれて仕事に戻っていった。気づかれなくて幸いだったかもしれない―――我ながら、惨めで情けない笑い方だと思うから。
 「一宮、サブ入って」
 「はい」
 先ほどの横田に呼ばれ、奏は、一瞬浮かんだ暗い感情を即座に呑み込んだ。


 「うわ、一宮君が化粧落としするの?」
 フェイスマッサージ前のメイク落としに奏が取り掛かると、モデル仲間は、露骨に嫌そうな顔をした。
 「心配しなくても、どんな素顔かはここだけの秘密にしますよ、お客様」
 「…眉毛がほとんどないことは、墓場までの秘密にしてよね」
 「はいはい」
 なるほど、知り合いが客になると、こういう反応を返されることもあるんだな―――顔見知りが来たのはこれが初めてなので、なかなか新鮮だ。仲間でもあるが、ある意味商売敵でもある相手に素顔を晒すのを嫌がる彼女に、奏は、クレンジングジェルを手に取りながら笑いを噛み殺した。
 「それと、多分今日、眉間の皺がいつもより深いと思うから、その部分は割引しといて」
 「? 何か嫌なことでも?」
 「あったのよー。もー、聞いてよ。昨日の仕事の話」
 言いながら、早くも彼女の眉間に深い縦皺が寄る。
 「仕事自体は良かったのよ。ポスター撮りだけど、いいムードで撮れたし。ただ、カメラマンがねぇ…」
 「カ…カメラマン?」
 「それが、美形とかじゃないんだけど、なんかこう、男の色気があるタイプっていうか、ちょっと影のあるいい男だったのよ」
 「…へーえ…」
 嫌な予感―――相槌を打ちつつ、早くも奏の手元がおろそかになり始める。
 「でね、撮影終わって、クライアントが“良かったら皆さんで打ち上げでもどうですか”って言ったんだけど、その人、“早く戻って写真の確認がしたいから”って言って、あっさり断っちゃったのよ。その辺のストイックさもカッコ良かったから、柄にもなく、これっきりじゃ惜しくなっちゃって―――他の人には気づかれないように、“じゃあ2人っきりで打ち上げしない?”って誘ったんだけど、“酒飲みたいならあの連中と行けば”ってそっけなくて。“そういう誘いじゃないこと位、分かってるんでしょ?”って言ったら、そいつ、どうしたと思う?」
 「……いや」
 「サイッテーよ」
 鏡の中の彼女の目が、きっ、とつり上がる。
 「“そんなに飢えてんのか。100万くれるんなら考えてもいいけど、タダでやらせてくれる男選んだ方が賢いんじゃねぇの”ですって!!」
 「―――…」
 嫌な予感が、ほぼ、確信に変わった瞬間。
 「そりゃ、ちょっとだけ、ちょーっとだけ、しつこくしちゃった部分はあったわよ? でも、人を男に飢えた淫乱扱いするなんてサイテー! 第一100万って何よ、100万って! そんな金出して素人買う位なら、高級ホストクラブで散財するってのよっ!」
 ―――いや、値段の問題じゃないだろ。
 10万なら払ったのか、と訊いてみたい気もしたが、そんなことよりも。
 奏は、今の話が、今のところ彼女以外では唯一の客である3つ向こうの席にいる客に聞こえてないかをチラリと確認しつつ、少し腰を屈めて、彼女の耳元に口を寄せた。

 「…なあ。そのカメラマンって、もしかして―――…」

***

 「ああ、そんなこともあったな」

 涼しい顔で放たれた一言に、がっくりとうな垂れた。
 頭が痛い。奏は、拳でこめかみを押さえ、呆れたようなうんざりしたような顔で、隣を歩く男を睨んだ。
 「…あんたさ。もうちょい穏便に断れない? いちいちキレてボコボコにしてたら、そのうち、どっかの女に刺されて死ぬよ?」
 「失礼な。最初は穏便に断ってるんだ。あんまりしつこいと、キレるけどな」
 「…その割に、噂をよく耳にし過ぎなんですけど」
 「噂?」
 「佐倉さんの後輩の女子高生モデルが、あんたにしつこく電話番号訊いて、やっと教えてもらった番号に電話したら、警視庁少年育成課に繋がって冷や汗かいたとかさ。あんただけ誘ったのに、スタッフ全員引き連れて現れて“じゃあ俺はこれで”って1人だけ帰っちゃったとか」
 「へえ。よく知ってんな」
 おい。全部実話かよ。
 サラリと肯定されて、余計頭が痛くなってくる。でも―――それだけしつこいタイプにばかり興味を持たれている、ということなら、断り方云々ではないのかもしれない。
 「成田ってさ、昔から、そんな女にばっかり声かけられる訳?」
 「まあな」
 “女難の相”なのかもしれない―――過去の災難のあれこれを思い出しているのか、僅かに眉を寄せている彼の横顔を一瞥し、奏は深くため息をついた。


 成田瑞樹(みずき)―――彼を「瑞樹」と呼べる者は、奏が知る限り、非常に限られた一握りの人間だけである。
 奏自身、出会った頃の流れのままに今も「成田」と呼んでいるが、本当は「瑞樹」という名前で呼んでみたいと、時々思う。その名前を手に入れることは、とても特別なことのように思えるから。
 奏のような人間にそう思わせるほど、瑞樹という人は、誰に対してもニュートラルで、かつ、距離のある存在だ。
 遠い人なのに、酷く人を惹きつける。惹きつけておきながら、要らねぇ、と突き放す。本人には惹きつけている自覚がまるっきりないから、その突き放し方は容赦ない。容赦ないが故に、余計に相手を燃え上がらせている―――そういう、難儀な人物である。
 ただ、彼のその難儀な宿命は、カメラマンという彼の職業に、一役買っている気もする。
 どんな時も、静かに、かつ真っ直ぐに相手を見つめる、瑞樹独特の艶のあるダークグレーの瞳―――あの目でファインダー越しに見据えられたら、女ならきっとゾクゾクするに違いない。男の奏ですら、一瞬ファインダーから離れた彼の目を見て、思わずドキリとしてしまうのだから。
 結果、被写体の女性は、まるで彼を魅了しようとするかのように、より輝きを放つ。挑戦的な女性であればあるほど、カメラの向こうの彼に挑むように、より美しい表情を作るのだ。不思議なことに。「女のモデルは疲れるから好きじゃない」といつも言っている瑞樹だが、本人の意向とは逆に、彼の商業写真で一番評価が高いのは女性モデルの写真だ。…そういう意味では、これも一種の“女難の相”かもしれないが。

 この世で一番、“一宮 奏”を魅力的に撮ってくれるカメラマン。
 名を呼ぶほどに懐深くへは近寄らせてはくれないが、隣を歩く位には気を許してくれる、大切な友人。
 そして―――遠い、遠い、永遠に追いつけない存在。決して超えられることのない高い壁。…それが、奏にとっての瑞樹だった。


 「……っと、」
 突然、僅かに前を歩いていた瑞樹が立ち止まったせいで、奏の腕に瑞樹の肩がぶつかった。
 どうしたんだ、と、立ち止まった瑞樹の視線を追って目を移した奏は、その理由をすぐに察し、表情を険しくした。

 待ち合わせ場所として指定した、洒落たデザインの看板前。1人佇む小柄な人影を、大柄な男2人が取り囲んでいる。その雰囲気から、街頭アンケートの類でも客引きの類でもないのは一目瞭然だ。
 男2人を前に、“彼女”の態度は、「完全無視」の4文字だ。下心だらけの笑顔で話し掛ける男の姿などまるっきり視界に入っていないみたいに、つまらなそうに前を向いている。あと残り数メートルまで近づいている瑞樹と奏には、まだ気づいていないようだ。
 「ライ―――…」
 思わず奏が声をかけようとすると、それを遮るように、瑞樹がポン、と奏の肩を叩いた。そして無言のまま、ナンパ男2人の背後に歩み寄り、2人のうちの体格の良い方のスーツの背中を、ぐい、と掴んだ。
 「! っな、なんだよ!?」
 驚いて、2人が振り返る。
 そして―――振り返った途端、その表情が、固まった。
 「―――何か、用か?」
 「……」
 ナンパ男だけじゃなく、奏までもが、凍りつく。
 静かで、感情を一切感じさせない、低い声。その声と矛盾しない、口元に浮かんだ魅惑的とすら思える微笑。なのに―――自分より大柄なその男を見据える瑞樹の目に、全員、ゴクリ、と唾を呑み込んだ。
 『逆らえば、殺す』
 明らかに、そう脅してる目だった。
 過去に絶対4、5人殺してるだろ、と言いたくなるほどの、殺気。笑ってるから余計に怖い。身長差など、まるっきり意味がなかった。ザリッ、と音を立てて、ナンパ男2人は、思わず後ろに1歩足を引いていた。
 そんな氷点下50度のシーンの中、瑞樹に気づいた彼女だけが、場違いに表情を綻ばせる。
 「早かったね、瑞樹」
 「写真の選定が思いのほか早く終わったからな」
 男2人に殺人オーラを向けたまま、瑞樹はそう彼女に答え、パッ、とスーツを掴む手を放した。
 途端、罠を外されたウサギよろしく、男2人はそそくさと立ち去った。捨て台詞すら残さず。みるみるうちに遠ざかる2つの黒い背中を見送りながら、ガタイの割には気の小さい奴らだな、と奏は呆れた気分で髪を掻き上げた。
 「…何ともなかったか? 蕾夏(らいか)
 ナンパ男どもが消えると同時に、瑞樹の殺気も消えた。少し心配したように眉を寄せた瑞樹は、蕾夏の顔を覗き込むように、僅かに身を屈めた。
 が、当の蕾夏は、彼の心配などどこ吹く風、という笑顔を返した。
 「別に? 名前は伏せとくけど、某有名銀行の社員さんだよ、あの2人。やたらそのことをアピールするから、飽きるまで自慢させとけ、って放置してたら、本題に入る前に瑞樹が来ちゃったんだもの。指一本触れる暇もなかったよ。ちょっとでも触ってきたら、速攻でぶん殴ってやろうと思ってたのに」
 「そりゃ惜しいことしたな。伝説のストレートパンチが出るまで、見守ってりゃ良かった」
 見守るなよ、コラ。
 心にもない事を言いやがって―――腕組みをした奏が、イライラと地面を爪先で蹴っていると、ふいに、蕾夏の目がこちらに向いた。

 日本人独特の儚いような白さを持つ手が、肩に掛かった艶やかな黒のストレートロングを、サラリとはらう。
 相手の心を見透かすかのような、黒曜石に似た、真っ黒な瞳。その瞳に見つめられ―――奏の心臓が、一瞬、止まった。

 「あれ? 奏君も来てたんだ。いつの間に?」
 「…駅で、成田と偶然、一緒になったんだ」
 掠れてしまいそうになる声を意識しながら、努めてさりげなくそう答える。落ち着け―――たかだか1ヶ月会わなかっただけで、こんなに乱されてどうするんだ、と自分を窘めながら、奏はなんとか、ぎこちなくないレベルの笑顔を作った。
 「そうだったんだ。じゃあ、さっそく行こっか。そこの路地入ってすぐなんだけど」
 瑞樹を見上げて蕾夏が言うと、瑞樹も「そうだな」と答えた。目にかかったダークグレイの前髪を無造作に掻き上げた瑞樹は、一度、ゆっくりと瞬きをすると、軽く首を傾けて奏の方を流し見た。
 「行くぞ」
 「…うん」
 口元だけで笑い、先に立って歩き出した2人の、1歩後ろを歩く。が、すぐに、唯一今日行く店の場所を知っている蕾夏が1歩先を歩くようになり、自然、瑞樹と奏が並んで歩く形になった。

 2人は、奏の前では、あまり並んで歩かない。
 元々、人前であまりベタベタする方ではない。だから、いまだに多くの人が、2人をただの仕事仲間だとか友人同士だとか思っているほどだ。けれど…奏の前では特に、恋人というスイッチを意図的に切っている気がする。そうする理由はただ1つ―――奏を、(いたずら)に苦しめないために。

 さっき、一瞬、見惚れた。
 人の目を惹きつける、不思議な間合いを持った、瑞樹の仕草に。そしてそれ以上に―――初めて会った瞬間からまるで変わらない、真っ直ぐな黒い瞳に。

 ―――瑞樹の隣には、なんて、蕾夏が似合うのだろう。

 会うたびに、思い知らされる。奏は、ポケットの中で握り締めていた拳を、更に固く結んだ。

***

 「千里さんと淳也さん、今でもあの調子で仲良くやってた?」
 蕾夏が会社の先輩から教わったという和風ダイニングカフェで、サラダを取り分けながら、蕾夏が訊ねた。
 「あー…、うん。オレ達から見ても、相変わらずのおしどり夫婦ぶりだった。もしかしてオレ達って邪魔? ってマジで訊いた位」
 「あはは。そうだねぇ、下手するとお邪魔虫だよね、息子といえども」
 「そう言やぁ、新しい下宿人、会えたのか?」
 はい、と蕾夏に手渡されたサラダの入った皿を受け取りつつ、今度は瑞樹が訊ねる。
 「いや、それが―――あいにく。向こうは向こうで、クリスマス休暇から帰省してて」
 「ああ…そうか。考えてみりゃ当然だな」
 「どこの人だったっけ」
 「アイルランド人。音大通ってる女の子だって」
 「え、1人だけ? 1人には広いよね、あの部屋って」
 「…いや、向こうじゃあれが1人に適当なスペースなんじゃねぇの」
 「そっか。日本って1部屋が小さいもんね。ああ、でも、懐かしいなー…。なんか、あの部屋に他の人が住んでると思うと、ちょっと不思議な感じ」
 ―――オレだって違和感ありまくりだよ。
 懐かしそうにため息をつく蕾夏に、蛸のマリネをもぐもぐ食べながら、奏は、心の中でそう呟いた。
 でも、考えてみると、瑞樹と蕾夏があの“下宿部屋”に住んでいたのは、たった半年間だ。
 たった半年―――その半年で、奏にとってあの部屋は「瑞樹と蕾夏の部屋」になってしまった。だから、2人が日本に戻ってからも、2人の部屋に別の人間が住むという違和感にどうしても耐えられず、1人、頑なに下宿人の受け入れを拒み続けた。結果、1年もの間、あの部屋は空き部屋のままになってしまったのだ。
 自分の妙なこだわりに、ガキだったな、と、今では恥ずかしくなる。でも…違和感は、まだ消えない。あそこは、やっぱり2人の部屋だ。他の誰が忘れても…奏にとっては。
 「累って、蕾夏や成田に手紙出してる?」
 「俺んとこには、滅多に来ないな」
 「うん。私宛に来るよ。また性懲りも無く小説書いてるみたいだから、さりげなく“そろそろ辞めない?”って言ってあるけど」
 「…まだ書いてんのかよ」
 瑞樹が呆れ顔をする。残念ながら奏は、弟がどういう小説を書くのか見たことがないのだが、読んだことのある2人は、何故かその件については妙に口が重い。ライターという、文章のプロとも言える仕事をしている累だが、瑞樹や蕾夏の表情から察するに、小説に関する文才はあまりないのだろう。いい加減目を覚まして欲しいものだ。
 「…そういや、うちの1階に、都合良く小説家が住んでるんだよな」
 ふと、マリリンのことを思い出して、ポツリと呟く。
 途端―――何故か、2人の表情が、ギョッとしたような顔になった。
 「ま、まさか奏君…」
 「え? あ、いや、だからさ。累のやつ、小説の文才ないんだったら、一度本物の小説家に読んでもらって、そのダメさ加減をボロボロに指摘してもらえば、」
 「やめとけ」
 全部言い終わる前に、即座に、瑞樹がぴしゃりと言い放った。
 「悪いことは言わない。やめとけ」
 「……なんで?」
 「あれは、他人様に読ませる内容じゃねーから」
 「???」
 「…あのね、奏君」
 憮然とした表情の瑞樹の代わりに、蕾夏が、苦い表情で説明を付け足した。
 「私達がロンドンにいた頃、累君が書いた小説ってね。カメラマンとモデルが、ある1軒のお宅に下宿してる話だったの」
 「……」
 「で、その話で公募を2回落ちて―――ついこの前送られてきた最新作は、カメラマンと雑誌ライターが、周囲の目を欺きながら同棲してる話」
 「…バカか、あいつ」
 ロンドンにいた頃、瑞樹と蕾夏は、ある意味「カメラマンとモデル」という関係であり、奏の実家に下宿していた。そして現在は、瑞樹はプロカメラマンに、蕾夏はライターという職業に就き、いわゆる同棲生活をしている。蕾夏が記事を書いている雑誌に瑞樹の写真が掲載されることもあるが、多分、蕾夏の会社の人間は、瑞樹が蕾夏と同じ家に住んでいることなど知らないだろう。
 つまり―――累は何故か、この2人をモデルにして、小説を書いている訳だ。毎回毎回。こうなると、文才以前の問題かもしれない。
 「…分かった。今度、厳重注意しとく。“次書くなら、お前自身とカレンをモデルに書け”って」
 「うん、お願い」
 「つーか、もう書くな。中世の抒情詩みたいな恋愛小説じゃ、モデル変えても絶対通らねーよ」
 「…それを言っちゃおしまいだよ、瑞樹」
 ―――中世の抒情詩みたいな恋愛小説、って……一体どんなの書いてんだよ、累。
 自分のことではないが、なにせ、すっかり同じ顔をした弟がしでかしてる事なだけに、冷や汗が背中を伝う。明日にでも電話して、何がなんでも辞めさせよう―――ビールをぐいっ、とあおりながら、奏は心の中で誓った。


 その後も、話すことは尽きなかった。
 ロンドンのこと、新しく移り住んだアパートのこと、職場のこと、それに瑞樹にとっては大学時代の先輩でもある、共通の知人・佐倉のこと―――食事をしながら、そうした事をポツリポツリ話す。そんな姿は、傍目には多分、仲の良い3人組に見えるのだろうし、それは決して嘘ではない。
 唯一、奏の胸の奥の奥―――絶対に覗かれてはいけないほど奥底の部分で、今もまだ燻り続けている、この想いを除けば。

 ―――やっぱり、なんか、綺麗になった気がするよなぁ…。
 向かい側に座り、ウーロン茶のグラスを片手に軽やかに笑う蕾夏を眺め、つくづく、そう思う。
 白い肌と黒髪のコントラストは、以前から綺麗だと思っていた。素顔なのではないかと思うほどナチュラルなメイクも、平凡な顔ながら、逆に肌の綺麗さを際立たせていて良いと思っていた。けれど―――そういう、言葉に出来る部分じゃなく、蕾夏は、変わった気がする。ここ半年ほどで、一気に。
 まるでその名の通り、蕾がほころんで、淡い色をした可憐な花を咲かせたかのように。
 箸の運び方、髪の掻き上げ方、視線の流し方、笑い方―――全てが、優しい白い光を纏ったみたいに、以前より一段、輝いて見える。そう……“愛”っていう光で、キラキラ輝いてるみたいに。

 「―――…」
 意識、しだしたら。
 呼吸すら―――苦しく、なった。


 カタン、と、グラスを置く。
 視線を逸らした奏は、テーブルに置いた携帯に表示されている時計に目を落とし、軽く唇を噛んだ。
 ―――やばい…。今日、ちょっと壊れてるかも、オレ。
 決断すれば、行動は早かった。携帯を掴んだ奏は、それをジーンズのポケットに突っ込みながら顔を上げた。
 「あ―――ごめん、オレ、ちょっと電話してくる」
 「え?」
 「仕事のことで電話入れるって言って、忘れてた。…すぐ戻るから」
 キョトンとする蕾夏の視線を無視し、奏は席を立ち、そのまま外に向かった。勿論、嘘八百だ。今から電話をするのは嘘ではないけれど。
 レジ前を通り、店の外に出ると、奏が携帯の番号を押し始める前に、奏に続いて誰かが出てきた。
 「奏」
 驚いて振り向くと、そこに、瑞樹がいた。
 「…成田…」
 「―――大丈夫か」
 何が、とは、どちらも訊かない。
 奏も、その問いには答えなかった。大丈夫とも、もう限界だ、とも。ただ視線を僅かに落とし、開いた携帯をパチンと閉じただけで。
 「“仕事の用事で”もう帰るんなら、今のうちに言っておこうと思って」
 この後の奏の行動が読めているらしく、瑞樹はそう前置きした。何を? と奏が目で問うと、瑞樹は僅かに口の端を上げた。
 「鈴村さんとこの広告代理店。4月以降、チェックしとけ」
 「え…っ」
 「鈴村さんが、4月からかなり重要なポストに昇進が決まった」
 鈴村という広告マンは、瑞樹と奏共通の知人で、瑞樹が素人の頃から彼の才能を高く買っていた人物だ。別の代理店から移籍したばかりで、立場があまり強くなかったので、瑞樹を起用したいと思ってもゴリ押しが無理で涙を呑んでいたのを、奏も知っている。でも…昇進すれば、話は別だ。
 奏の目が、知らず、真剣みを帯びる。瑞樹と仕事がしたい―――それは、奏が日本に主軸を移した動機の、かなりの部分を占める気持ちだから。
 「分かった―――サンキュ、教えてくれて」
 奏が微かに笑ってそう言うと、瑞樹はニッ、と笑って、奏の髪をぐしゃっと掻き混ぜた。そして、それ以上の干渉をする気はない、とばかりに、スルリと身をかわして店内に戻ってしまった。

 ―――何が不満だ?
 これだけ認められて、受け入れられておきながら――― 一体、何が。

 微かな音をたてて閉まるドアを見つめ、奏は、今度はきつく唇を噛み締めた。


***


 テーブルの上に置かれたマグカップに気づき、奏は、ジャケットを脱ぐ手を一瞬止めた。
 キッチンでオンザロックを作っている佐倉は、このマグカップを使わない。来客用のカップだから。何故奏がそれを知っているかというと、前回奏が路頭に迷って佐倉の部屋を訪ねた時にも、このカップを使わせてもらったからだ。
 「なあ…。もしかしてさっきまで、誰か来てた?」
 脱いだジャケットをソファに放り出しながら、訊ねる。カラン、と、もう1つのグラスに氷を入れた佐倉は、顔を上げ、奏の視線の先に目をやった。
 「―――ああ、来てたわよ。可愛い子猫ちゃんが」
 「…子猫ちゃん、ね」
 「元気そうで、安心したわ。彼氏とも順調そうだし」
 「……」
 「どうやら、恋愛面では、もうあたしはお役御免のようよ。ま…、4月からは社会人だから、仕事面でいくらでも力になれる部分はあるけどね。ちょっと寂しくもあり、ホッとした気分でもあり…」
 「…ふーん」
 佐倉の“子猫ちゃん”を、奏は、1度だけ見たことがある。
 佐倉を訪ねて事務所にやってきた、小柄な女の子―――ペルシャ猫を思わせる大きな目が印象的な、キュートな女の子だった。あの子が、現在、佐倉が一番愛している存在―――自分の中の恋心を押し殺してでも幸せにしたい、大切な存在だ。

 他人事とは思えない、佐倉と自分の類似点。
 とても大切な人。その人の最愛の人に―――報われない恋をしていること。

 「でも―――久々なんじゃない? 一宮君が、ここに逃げ込むほど追い詰められるなんて」
 オンザロックのグラスを奏の前に置き、佐倉がくすっと笑う。
 「最後はいつだっけ? ああ…、確か10月だったかな」
 「…いちいち覚えてんなよ」
 「おあいにく様」
 奏の隣に腰掛けた佐倉は、少し自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。
 「キミと“こうなっちゃった”時は、大抵、あたしの方も精神的にキテる時だから、嫌でも覚えてるのよ」
 「…てことは、今日もキテるのか」
 「んー、今日はなんだろう? キテる感じは、ないわねぇ…。どっちかって言うと、卒業式みたいな気分」
 「卒業式?」
 「やっと、焦らずに済むようになったから」
 そう言ってオンザロックを口にする佐倉は、確かに、以前以上にサバサバとした表情だ。大事な“子猫ちゃん”の恋人に、密かに好意を抱いている、という話を奏に語って聞かせた頃は、笑いながらも、どこかに後ろめたさとやるせなさを滲ませていたのに。
 「なんかねぇ…、あの子の幸せそうな話を聞いても、前はちょっとばかし疼いてた恋心が、今日は全然疼かなかった。なんか、あの子の母親にでもなった気分で、むしろあの子を独占しつつある彼に嫉妬しちゃった位」
 「ハハ…、なんだよ、それ」
 「娘をとられる父親と同じよ。まあ、それでも…多分、本人の顔見れば、またちょっとときめいたりするんだろうけど―――そこに痛みはないんじゃないか、って思う。2人纏めて、1つのカップルとして愛していけるのが実感できたから、今日はかなりいい気分なのよ」
 「…2人纏めて、か」
 オレだって、そうしているつもりなのに―――オンザロックをあおりながら、言い訳のように呟く。
 佐倉は“子猫ちゃん”の彼氏を、奏は瑞樹の最愛の人―――蕾夏を。同じように横恋慕を経験しながら、佐倉はそれを、2人を見守る母性愛にそれを昇華していけたのに、奏は……そう、できない。
 まだ時間が足りないから?
 それとも―――やはり、自分が罪を背負っているから、だろうか。佐倉にすら言う事のできない罪を。
 「…なんでオレって、こうなんだろう」
 泣き笑いのような笑みを浮かべ、奏は、グラスを置いた。
 「蕾夏が……蕾夏が幸せそうだと、泣きたくなる位、安心する。良かった、本当に良かった、って、オレも嬉しくなる。けど―――心が、ズタズタになる」
 「……」
 「幸せだけ感じられるようになりたいのに…なれない。成田に嫉妬するとか、そういうんじゃなくて―――ただ、痛い。…痛くて、気ぃ狂いそうになる」
 「…そんなもんよ」
 佐倉の手が、宥めるように、奏の髪を梳いた。髪に触れる温かさに、痛みが、涙となって奏の目に浮かんでくる。
 「特に、男はね。恋愛感情と性衝動が直結してる分、一度欲しいと思った相手を対象外に置くのが難しいんでしょうよ、きっと。…一宮君は、頑張ってるわよ。十分過ぎる位に」
 「……」
 「あの2人の傍にいたい、っていう心の叫びにも、あの2人の傍にいると苦しい、っていう心の叫びにも、嘘をつくことなく忠実に生きてるじゃないの。よき友人として傍にい続けられるよう、痛みを癒してくれる新しい恋を、真剣に探してるでしょ? 他の適当な女で誤魔化すことなく」
 「…あんたとのことは、どうなるんだよ」
 褒められた話じゃないが、佐倉と奏の間には、恋愛感情なんてまるでない。なのに―――お互いの満たされない想いから、酔った勢いを借りて何度かベッドを共にしている。それでも以前はただのモデル仲間だったが、今はビジネスパートナーだ。立場的に見ても、やっぱり褒められた話ではない。
 「アッハ…、あたしとのことは、別問題よ。あたしからすれば、よしよし、って頭撫でてあげる延長線上だもの」
 「…よしよし、の延長線上が、セックスかよ。モラル疑うぞ、マジで」
 「あら、疑ってくれて結構よ」
 どこか投げやりな口調でそう言うと、佐倉はオンザロックをくいっ、と流し込み、音を立ててグラスをテーブルに置いた。直後、奏の頬に手を添えると、奏の顔を自分の方に向けさせた。
 「! ちょ…っ!」
 オレ、酒はそんなに強くないんだって。
 と言いたかったが、無理だった。閉じる暇のなかった唇に、佐倉の唇が押し付けられ、自分なら絶対一気飲みしないであろう量のウィスキーが、一気に口の中に流し込まれた。
 ごくん。
 飲み込まざるを得ないから、飲み込む。チリチリ喉を焼くような熱さが、胃の辺りまで一気に駆け下りていった。
 「―――でも、ま、キミをよしよしするのも、今日が最後にしときますか」
 嫣然と笑った佐倉は、そう言いながら、奏を押し倒した。その弾みで、置いてあったコンポのリモコンが押されてしまったらしい。やがて、洒落たジャズの調べが、小さな音量で流れてきた。
 「…やっぱ佐倉さん、ジャズ聴くんだ」
 「たまーに、ね」
 「…ジャズって、失恋に似合うよな、腹立つほど」
 アルコールが急激に回って、思考能力が鈍ってきているのかもしれない。我ながら、馬鹿げたことを言っている。
 けれど佐倉は、奏の意味不明な言葉に、不思議な位真摯な表情で、
 「―――…そうね」
 と呟いた。


 手を伸ばしても、手を伸ばしても、届かない。
 触れることすら許されない、真っ白な天使―――抱きしめることができるのは、傷ついた天使の羽根を癒す力を持つ、自由気ままな“風”だけ。

 天使の光に照らされ、穏やかな風に吹かれながら、幸せだけ感じたい。

 早く、見つけなければ。
 新しい恋―――この痛みを誤魔化すためじゃない、心から愛せる“誰か”を。


***


 まだ夜が明けきらない藍色の空が、窓の外に広がっている。
 始発から2本目の電車に揺られながら、奏は髪を掻き混ぜ、大きなあくびをした。

 ―――うん。やっぱ、今回が最後にしよう。
 あくびのせいで浮かんだ涙を指で拭いながら、改めてそう思う。
 過去数度の佐倉との関係は、奏だけじゃない、佐倉も満たされない想いを抱えていたからこそ、成り立った。でも、佐倉はもう、淡い片想いをふっきってしまっている。想いを断ち切れずにもがいているのは、今では奏だけだ。
 一方的に佐倉に“よしよし”されるのは、フェアな関係じゃない。ずるずると佐倉に“飼われて”しまうのは、奏の性格上無理だし、佐倉も「男を囲う余裕あるなら、家事が得意な可愛いお嫁さんが欲しい」なんて言ってる人だから、そもそも年下の男を“飼う”気なんて、はなから無いだろうし。
 佐倉が甘えさせてくれるから、つい甘えてしまうが―――やはり、これが最後にしよう。これ以上続けたら、どんどん自分が嫌いになりそうだ。

 ほとんど揺れることなく、電車がホームに滑り込む。
 弾みをつけて立ち上がった奏は、ドアが開くと同時に、電車を下りた。
 日曜日の早朝、下り方向に向かうこの電車に乗る人など、誰もいなかった。下りる人もいないよなぁ―――と思った奏だったが。
 「……あれ?」
 ホームの端に、なんだか見たことのある人影を見つけて、目を丸くした。

 奏とは別の車両に乗っていたのだろう。彼女は、ちょうど電車を下りたところ、といった様子だった。
 ドアが閉まり、電車が静かに動き出す。それを暫し見送った彼女は、だるそうに髪を掻き上げながら、何故か空を見上げていた。それが、実はあくびをしていたのだと分かったのは、再び前を見た彼女が、さっき奏がやったみたいに涙を拭う仕草をみせてからだった。

 「おーい」
 手をメガホン代わりにして、声をかける。
 人気のないホームで、その声は、簡単に届いたらしい。改札に向かいかけた足が、ピタリと止まった。

 「―――…あれ? 奏?」
 驚いたように目を丸くしてそう言ったのは―――やっぱり、咲夜だった。


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