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― Once ―

 

 リクエストの書かれたメモを見て、ある予感に、心臓がドキンと鳴った。

 薄暗い店内の中、客の顔を判別するのは、結構難しい。それでも、ぐるりと店全体を見回した咲夜は、リクエスト主の姿をすぐに見つけられた。
 ただし―――ありがたくない“オマケ”付で。
 「……」
 「咲夜?」
 眉根を寄せそうになった時、ピアノの前の一成が小さく声をかけてくれた。
 「次、それでいいんだろ?」
 「えっ? あ、うん」
 いけない。仕事中だった。
 ハハハ、と誤魔化し笑いした咲夜は、スタンドマイクを握りなおした。

 ―――拓海、日本に戻って来たんだな…。
 前奏を奏でる一成のピアノとヨッシーのベースを聴きながら、ほんの少しだけ、口元を綻ばせる。
 リクエスト曲の、『What's New』―――2ヶ月以上日本を離れていると、戻って来た時、拓海が必ず弾く曲。「ただいま」の挨拶代わりの『What's New』だ。留守中変わりはなかったかい? という意味なのだろう、と、咲夜は思っている。
 静かに、息を吸い込む。そっと囁きかけるように、咲夜は歌い出した。

 「What's new...? How is the world, treating you?―――…」

 少し物悲しい、けれどロマンチックで感傷的なスロー・バラード。
 “最近どうしてたの? こんなこと訊いてごめんね、きっと退屈させてるわよね―――でも私は、まだあなたを愛してるの”。…多分、主人公は、久しぶりに会う「あなた」の心がもう自分にはないことを感じているんだろうな、と、咲夜は思う。
 彼の心がここになくても、ただ会えるだけでいい。そんな主人公の気持ちが、咲夜にはなんとなく分かる。
 分かるから―――胸の裏側を抉り出すように、“魂”だけで歌う。そこにテクニックなんていらない。ただ口を開ければ、声を上げれば、“魂”が歌わせてくれる。歌いたい歌を、歌いたい形で。

 『歌を歌うコツ? …んー、難しいなー。考えたこともないよ。なんか知らないけど、気がついたら歌ってた、って感じだからねぇ。サヤちゃんは? あ、おんなじ? なら、それでいいんだよ。多分さ、歌を歌う最大のコツは、“無になる”だから』

 咲夜の憧れの歌姫・多恵子は、まだ中学生の咲夜に、そんなことを言った。
 けれど、同じ口で、こうも言った。「人間は無にはなれない」と。矛盾した話だと思ったが、その後に続く説明を聞いて納得した―――「無になろうとすれば、その歌とシンクロする“自分”だけが、浮かんでくる」。

 シンクロしきった、と感じられたところで、歌は終わった。
 今日一番の拍手に、咲夜は笑顔を作って、深々と頭を下げた。

***

 「咲夜」
 “STAFF ONLY”のドアが開き、誰かがひょいと顔を覗かせた。
 まだ廊下にいた咲夜が振り返ると、そこに、2ヶ月ぶりに会う拓海が立っていた。途端―――単純にも、笑顔になってしまう。
 「拓海…! お帰り」
 「ハハ、ただいま」
 いつものように、ハグを交わす。コートを脱いだ、ツイードのジャケットとシャツだけの拓海の背中に腕を回した咲夜は、その違和感に少し眉をひそめた。
 「…もしかして、痩せたんじゃない?」
 腕を解き、少し心配げに咲夜が訊ねると、拓海はバツが悪そうに苦笑した。
 「向こうで風邪ひいちゃってね。テロの後ってこともあって、列車でアメリカ中移動したから、疲れで食欲出なかったし」
 「やだなぁ。大丈夫なの」
 「もう大丈夫だよ」
 その言葉通り、拓海は元気そうだった。
 人懐こそうな柔らかい笑顔も、いつも通り。2年ほど前から生やすようになった“無精髭風”の髭も、本物の無精髭にならないように、ちゃんと手入れしている。それだけの余裕が、今はある、ということだろう。ロスを拠点にアメリカの主要都市を5ヶ所も回るツアーだと聞いていたが、どうやら無事乗り切れたようで、咲夜はホッとした。
 「でも、まさかここに来るとは思わなかった。どうしたの、珍しい」
 「ん? ああ、なんとなく、そういう気分でね。咲夜の歌が、早く聴きたかったし」
 「おもてなしする相手を連れて行く、適当な店が見つからなかったから―――じゃないの」
 軽く眉を上げ、咲夜はチラリと、拓海の背後にあるドアに視線を流した。
 「今度は、何者? 帰国早々、どこで拾ってきちゃったの」
 「人聞き悪いなぁ…。雑誌のインタビュアーだよ。祖国の土を踏んだと思ったら、空港のラウンジで取材を受けたんだぞ。我ながら働き者だよ、ほんとに」
 「同情しかねますネ。良かったじゃん、美人インタビュアーで」
 「…冷たいなぁ、咲夜は」
 「今日は、部屋に戻らないんでしょ」
 ため息混じりに咲夜が言うと、拓海は背後に一瞬目をやり、困ったように眉を少し下げた。
 「ま…、そうだろうね」
 「―――あのさ、亘と芽衣が、拓海のピアノ聴きたいって」
 ぽん、と話をすっ飛ばす。その流れについていけないのか、拓海はちょっと目を丸くしたが、すぐに意味を理解したらしく、ああ、と笑った。
 「そうか。俺も芽衣のピアノ聴きたい、って言っといて」
 「行くの? うちに」
 「いや―――無理だろ」
 「…だよね」
 父の強烈な拒否反応を思い出し、ため息をつく。咲夜が“ベルメゾンみそら”に移った去年の始め以来、父の拓海嫌いに拍車がかかった気がする。拓海とは関係ない話なのだが、咲夜との溝が深まれば深まるほど、咲夜に味方する拓海との溝も深まる、という理屈なのだろう。
 「後でスケジュール確認して、電話するよ。咲夜の方に」
 「ん…、分かった」
 「咲夜」
 背後の控え室のドアが開き、一成が顔を出した。咲夜がなかなか来ないので、心配したらしい。
 が、咲夜の向こうに拓海の姿を見つけて、なかなか来ない理由はすぐに分かったようだ。
 「あ…、麻生さん」
 「や、久しぶり」
 「ど、どうも」
 笑顔で手を挙げる拓海に、一成は焦った様子で、ひょこりと頭を下げた。
 普段、クールで冷静な一成らしくない態度だが、それは無理もない。一成から見れば、麻生拓海は、咲夜の親族という以上に、直接会って話をすることになるなんて夢にも思わなかった、憧れのピアニストだ。初めて会った時など、ガチガチに固まって、まともに喋ることができなかった位に。
 「藤堂君の弾く“What's New”も、久々に聴かせてもらったよ。腕を上げたね」
 「…恐縮です」
 「咲夜も上手くなったな」
 くしゃっ、と咲夜の髪を掻き混ぜ、目を細める。
 「まだ、憧れのヘレン・メリルには及ばないけど―――咲夜らしい、一途でしっとりした“What's New”だった」
 「…ありがと」
 拓海は、お世辞は言わない。だから、本当に少しは進歩したのだろう―――咲夜は、頭の上にある拓海の手に居心地の悪さを感じながらも、素直に笑顔を見せた。
 「さて…と。そろそろ戻るかな」
 手を引っ込めながら拓海が言うと、咲夜もじき戻ると察したのか、一成は控え室の中に引っ込んでしまった。パタン、とドアが閉まる音を聞きながら、咲夜は、くしゃくしゃになってしまった髪をさり気なく直した。
 「あ、そうだ。拓海んとこの冷蔵庫、ミネラルウォーターとアンチョビの缶詰が1個しか入ってないからね」
 「え。ブルーチーズは?」
 「いつまであると思ってんの? お正月に見たら、干からびてたから捨てたよ」
 「そうか…。やっぱり、もらい物はすぐ食べないとまずいなぁ。仕方ないな…コンビニででも、何か買って帰ろう」
 「…帰りに寄るから、ビターチョコだけは放り込んどく」
 「ホント? 助かるな」
 「40男が、コンビニでビターチョコ買ってる姿は、かなり寂しいもんがあるから」
 「…容赦ないね…」
 それにまだ38だぞ、と拓海は不服そうに付け足したが、咲夜は肩を竦めるだけだった。
 「ほら、美人インタビュアーが、イライラして待ってんでしょ。さっさと戻ったら」
 「はいはい。…あ、そうだ」
 一瞬、ドアの向こうに戻りかけた拓海だったが。
 何かを思い出したように、咲夜の肩に手を置いた。
 え? と思った刹那―――唇に、拓海の唇が、軽く触れた。
 「―――…」
 「…“ただいま”のキスを、うっかり忘れてた」
 目の前の、拓海の深いブラウンの瞳が、そう言って面白がるように細められた。

 どんな顔を、しろというのだろう。
 こんな場所で、こんなことをされて、どうリアクションすればいいのか分からない。バカじゃないの、と怒ってみせるべきなのか、ニコニコ笑顔を返すべきなのか―――今、自分がどんな顔すべきで、実際にはどんな顔をしているのか、さっぱり分からない。

 「これ忘れると、日本に帰ってきた気がしなくてね」
 「…何それ。変なの」
 憎まれ口とともに力なく咲夜が笑うと、拓海はくっくっと喉で笑い、軽く手を振った。そして、今度こそドアを開けて、店内へと戻って行った。

 閉まりかけたドアを手で押さえ、拓海の後姿を目で追う。
 拓海が座っていた席では、高そうなスーツを着た美女が、退屈そうにお酒を飲んでいた。全然知らない顔―――多分、拓海だって今日初めて会ったのだろう。いつだってそうだ。拓海の隣にいる女が、前回と同じ顔だったことなど、ほとんどない。
 拓海が戻ると、彼女は、なにやら拗ねた様子で文句を言いながら、長い髪の先をしきりに弄っていた。何がどういう風に纏まったのかは知れないが、やがて2人して席を立つと、レジの方へと消えてしまった。
 多分初対面である筈の彼女は、当然とでもいうように、拓海の腕に両腕を絡めていた。
 それも、いつものこと―――小さくため息をついた咲夜は、パタン、とドアを閉じた。

***

 2回のステージを終えていた咲夜は、一成に「これから店で飲まないか」と誘われた。
 「いいよ。ヨッシーは?」
 「奥さんが待ってるから」
 ニンマリ、と笑うベースのヨッシーは、3人の中で唯一、所帯持ちだ。歳も唯一30代で、体格通り、トリオの中の頼れるお兄さん、といった存在である。
 ヨッシーを見送った2人は、改めて店に戻り、それぞれのアルコールを注文した。
 「麻生さん、ジャッキーか誰かのアメリカツアーで、アメリカ行ってたんだっけ?」
 「うん。前にもやった五重奏(クインテット)だって。なにせ香港だのイギリスだのに散らばってる連中が集まるから、なかなか予定合わないみたいで、凄く久しぶりだったみたい」
 「へーえ…、凄いよな、やっぱり」
 はあぁ、と息を吐き出しながらそう言って、一成は、グラスの中の氷をカラン、と鳴らした。
 「咲夜に、あの人のピアノと密かに比べられてると思うと、ちょっと怖いもんがあるな…」
 「あはは、比べてなんかいないよ」
 一成らしくない自信なさげな言葉に、咲夜はくすくす笑った。
 「一成のピアノは、一成のピアノじゃん。拓海と違って当たり前だよ」
 「そりゃそうだけど―――歴然とした腕の差があるだろ」
 「キャリアの差じゃない? 今の一成と拓海を比較しても意味ないよ。12年後の一成と比較しないとさ」
 「…慰めてくれて、どうも」
 キャリアの差だけ腕の差がある、と認められたも同然だ。肩を竦めた一成は、少し不貞腐れたような様子でシーバスリーガルをくいっとあおった。
 でも実際、拓海と比べたらまだ一歩及ばない感はあるものの、一成のピアノは、かなり上手いと思う。
 しっかりした基礎の上に築かれた、確かなタッチのピアノ―――単純にピアノを弾く技術、ということなら、拓海より一成の方が上手いかもしれない。独学でやってきた拓海とは違い、一成はなかなかにアカデミックな道を歩んできたから。だから、足りないものがあるとしたら、それは多分、人生経験―――感情を指先に込めて弾く技術だ。
 「一成も、ヨッシーみたいに、もっと大きなライブハウスと契約したらいいのに」
 この店には勿体無いよ、という意味を込めて咲夜が言うと、一成は、そうだなぁ、と言いつつ曖昧に笑った。
 「無名のピアニストが、ピンでやってくのは、結構大変だからな。ヨッシーには既に活動してるクインテットがあるし―――まあ、咲夜とコンビで出させてもらえるんなら、悪くないか」
 「ピアノとヴォーカルだけで?」
 「咲夜だって、大学生の時は、ギターとヴォーカルの2人で路上ライブやってただろ?」
 「うーん…」
 「…ま、咲夜と組んで1年になるし、そろそろ活動範囲を広げることも考える時期かもな」
 人に勧める割に、自分自身に関してはあまり欲がなさそうな咲夜の様子に、一成はそれ以上押しては来なかった。最近伸ばし加減になっている前髪を掻き上げ、また黙ってグラスを口に運んだ。

 大手のレコード販売店に就職し、昼はショップで店員として働きながら、夜はこの店でピアノを弾く―――咲夜と同じ道を歩んでいる一成は、あまり口数の多い方ではない。自分の将来なんかについても、ほとんど喋らない。たまにこうして一緒に飲んでも、喋ってる時間より飲んでる時間の方が長い。
 ――― 一成も、いずれは、ピアノ1本で生きていこう、って思ってるのかな…。
 言葉にして聞いたことは、あまりない。でも、ピアノに向かう時の一成の真剣な目を見て、ただの趣味の延長でやっているとは、到底思えなかった。
 ピンでは―――1人では大変だ、という話は、今日初めて聞いた。でも、一成とはまるでキャリアの違う自分では、かえって一成の足枷になってしまいそうだ。ピンで挑戦してみればいいのに、と咲夜は思うが、一成のように自分の世界を持っている人に、自分の価値観を押し付けるような意見はなんだか言い難かった。

 もっと、上手くなりたい。
 自分自身のためもあるけれど―――周りの人達のためにも。

 シーバスをジンジャエールで割ったスパークリングカクテルをちびちび飲みながら、咲夜は、店の隅にひっそりと佇むピアノをぼんやり眺めた。

***

 合鍵でドアを開けた咲夜は、すぐに部屋の電気を点けた。
 コンビニの袋をガサガサいわせながら、部屋にあがる。咲夜の部屋が軽く5つは入りそうな広い部屋に、咲夜以外の気配は全くなかった。
 ―――ま、当たり前か。
 チャリン、と、カウンターの上に合鍵を放り出し、キッチンに向かう。買ってきた拓海の指定銘柄のビターチョコを冷蔵庫に放り込んだ咲夜は、グラスを1つ取り、水を1杯、喉に流し込んだ。
 拓海は、女をここに連れてくるような面倒な真似は、絶対にしない。
 1人の女とは、1度きりの関係―――それが、拓海の流儀だ。下手に部屋になど連れ込めば、勘違いした女が恋人面しかねない。同じ理屈で、女の部屋に上がりこむことも極力避けているらしい。そんな訳で―――今、拓海がいるのは、恐らくは洒落たシティホテルかどこかだろう。

 …それでも、昔は。
 ずっと昔は―――あんな風じゃなかった。
 何が、拓海を変えたのか。それは、咲夜ですら分からない。ピアニストとして成功するにつれ、次第に変わっていたのかもしれないし―――何か、恋愛に幻滅するような事があったのかもしれないし。とにかく、拓海は、いつの間にか、変わってしまった。ピアノも、仕草も、表情も変わらないのに、ただ1点……恋愛に関してだけ。
 まるでゲームでもするみたいに、繰り返される“擬似恋愛”―――本気の恋なんて、1度でもあっただろうか? いつ来ても女の気配が微塵もないこの部屋が、その答えのようなものだ。そのことに、咲夜は密かに安堵しつつ……胸を痛める。

 拓海は、誰も愛せなくなってしまったのかもしれない。
 誰かが、何かが、拓海の中の何かを壊してしまったから―――拓海は、もう誰も愛せない。
 勿論―――咲夜のことも。

 「…バカ」
 グラスから唇を離し、呟く。
 きゅっ、と唇を噛んだ咲夜は、何かを振り払おうとするかのように、一気に蛇口を捻った。
 無言のまま、使ったグラスを少々乱暴な手つきで洗う。冷たい水が、指先を容赦なく刺す。けれど、その冷たさに、ささくれ立つ気持ちが冷やされて、少しずつ冷静になれる気がした。

 いつだろう―――拓海に対する気持ちが、恋だと気づいたのは。
 15歳も年上の、手の届かないほど大人の、叔父。拓海から見れば、咲夜はただの「可愛い姪」だ。実る筈もない恋に気づいた時は、その絶望感から、拓海から距離を置いたりもした。泣いて、後悔して、もう歌も辞めてしまおうか、なんて思ったりもした。そうやって、あがいてあがいて―――諦めた。
 だって、他の人を好きになることは、結局できなかったから。
 もっと拓海を好きになることはあっても、その逆は、なかったから。
 拓海の乱れまくった私生活を垣間見ても、幻滅して目が覚める、なんてことはなかった。嫉妬に狂いそうにはなったけれど、そんな風にしか生きられない拓海を、むしろ可哀想に思った。
 嫉妬に胸を痛めるのにも、もう随分慣れた。
 そして―――ただの快楽の相手として使い捨てられない分、自分はまだマシだ、と思えるまでになった。

 想いは、咲夜の自由だ。
 拓海に想われなくたって、ただ拓海を想い続けることはできる。だったら―――拓海を想い続ければいい。相思相愛になるだけが“恋”じゃない。一方的に想うことが、全て無駄だとは、咲夜には思えなかった。
 想う相手は、拓海だけでいい。
 見返りがあろうと、なかろうと―――恋は、拓海だけでいい。
 報われない恋が苦しいからって、別の恋に逃げることはしたくない。こんなに、命を削るようにして想える相手が、そうそういる筈がないのだから。
 苦しさから、これほどの想いを捨てる位なら―――この想いを大事に抱きながら、この恋だけに生きていく方がいい。

 グラスを洗い上げ終えた咲夜は、窓際に置かれたグランドピアノに歩み寄った。
 蓋を開け、掛けられていたフェルト地を取り払う。使い込まれた鍵盤は、磨いても磨いても、何度も叩いた跡がもう消えなくなっていた。
 ポ―――…ン。
 Aのキーを、人差し指で叩く。
 完全防音のこの部屋だからこそ、こんな真夜中でも、音を出すことができる。目を閉じた咲夜は、すぅ、と息を吸い込んだ。

 歌い出す。
 無になる―――けれど、無になりきれず、浮かんでくる“自分”がいる。

 もっと……もっと、浮かんでくればいい。
 たった1度の恋に、体中が焼き尽くされる位に。もっと、もっと、もっと―――“魂”の声を。

 咲夜は、一晩中、歌い続けた。
 思いつく歌を、何も考えずに、自由に―――窓の外がうっすらと明るくなり、その声が嗄れる寸前まで。


***


 「おーい」
 誰もいないと思っていたのに、突如かけられた声に、咲夜は足を止めて振り返った。
 日曜早朝の、駅のホーム。ダウンジャケットに片手を突っ込み、もう片手をメガホンのようにしている奏が、そこに立っていた。
 「―――…あれ? 奏?」
 「やっぱり、咲夜だったのか」
 ちょっと笑った奏は、ぶらぶらと咲夜の方へ歩いてきた。奏と並んだところで、咲夜も再び歩きだし、2人して改札へと向かった。
 「びっくりした。朝帰り?」
 こんな時間に下り電車に乗っていたのだから、仕事で徹夜か、でなければ夜通し遊んでいたか、だろう。咲夜が訊ねると、奏は少し気まずそうに空を仰いだ。
 「あー…、まーね。いろいろ」
 その反応が、いかにも後ろ暗い部分がありそうだったので、咲夜は軽く片方の眉を上げてみせた。
 「…ははーん。女んとこだったんだ」
 「……さーね」
 肯定も否定もしないその言い方に、少し、好奇心が疼いた。が、そう答えた奏の横顔が、どこか暗いムードを滲ませていたので、咲夜は追及をやめて、わざと茶化す方を選んだ。
 「そっかそっか。家を訪ねてくる女もいなそうだし、せっかく恵まれたルックスで生まれたのについてないなぁ、って心配してたんだけど、遊ぶ相手位はいたのか。ふーん」
 「…そんなんじゃねーって。大体、そういう咲夜は、何だよ。そっちこそ朝帰りだろ」
 むっ、としたように眉を顰めた奏が言うと、咲夜もちょっと空を仰いで、乾いた笑い声を立てた。
 「ハハ…、私のは、そんな楽しい話じゃないよ」
 「仕事? そういや、声が嗄れてんな。大丈夫か?」
 「ん、大丈夫。ちょっと久々に、羽目外して歌いまくっちゃった」
 カラオケにでも行ったんだろうか、と奏は密かに思ったが、咲夜のリアクションが、あまりその話に触れたくなさそうな感じだったので、あえて突っ込みを入れるのはやめておいた。

 改札を抜け、駅を出ても、人影はほとんどない。
 1月末の早朝は、空気が凍ってしまったみたいに冷たく、頬や耳がその冷たさに晒されてすぐに悲鳴を上げる。咲夜は、両手にはあっ、と息を吹きかけ、奏はジャケットの襟をゴソゴソと引き上げた。
 「寒いよなぁ…」
 「ほんとだねぇ…。なんか、寒い季節って、ひとり身のわびしさが、余計身に沁みるよなぁ…」
 咲夜の愚痴るような言葉に、奏は少し目を丸くして、咲夜を見下ろした。
 「彼氏、いるのかと思ってた、オレ」
 「え、なんで? あ、もしかして、男が放っておく筈がない位に、チョー美人だから?」
 「面白い冗談言うなぁ、ハハハハハ」
 「勿論冗談だよ、ハハハハハハ。…で、何で?」
 「いや、なんとなく。仕事柄、周りに女が多いからさ、彼氏持ちとそうじゃない女って、持ってる雰囲気でなんとなく分かるようになった、っつーか」
 「ふーん…、そんな雰囲気って、あるんだ」
 そう相槌を打った咲夜は、少し考え込むように首を傾げた。それから、ポツリと、呟くように言った。
 「―――長いこと、1人の男にだけ、ずーっと片想いしてるせいかなぁ…」
 「え?」
 一瞬、自分と被る話に、ドキリとした。が、咲夜は、自分のことについてはそれ以上言わず、反撃とばかりに奏を見上げた。
 「奏の方こそ、意外だよ。そんだけのルックス持ってるんだから、彼女もいるだろうし、いなくてももっと遊びまくってると思ったのに」
 「…言いたい放題だな、おい」
 眉を顰めた奏だったが、すぐに苦笑のような笑みを浮かべた。
 「ま、そんな時代もあったけどさ。…“本気”を知っちまうと、“遊び”なんて虚しいばっかりだよな」
 「え?」
 拓海のことが頭をよぎり、咲夜も、ドキリとする。が、拓海のことなど知らない奏は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぶるっと身震いをひとつして首を竦めた。
 「オレも、片想い。しかも、既に玉砕済みでさ。…でも、引きずってる。気を紛らすために遊ぶこともできない位に」
 「……」
 「傷つくために会うようなもんなのに―――見てるだけで、幸せでさ。幸せだけど……隣にいるのが自分じゃないことに、ボロボロになるほど傷ついてさ。挙句に、逃げ出して、荒れて―――馬鹿だよな、ほんと」
 「…そう、なんだ…」
 奏が、そんな苦しそうな恋を引きずってるなんて、まるで予想していなかった。なんだか自分と被らなくもない話に、咲夜は落ち込んだように視線を落とした。
 「…でも私は、馬鹿だなんて、思わないけどな」
 少し間を置いて、咲夜がそう呟くと、今度は奏が不思議そうな目を咲夜に向けた。
 「…苦しくてもなんでもさ。好きなもんは、しょーがないじゃん」
 「……」
 「それほどまでに好きになれる人なんて、きっと、一生に1人だよ。運命の人が、そんなにゴロゴロいたら、おかしいもん。…私は、痛くても、苦しくても、好きだって気持ちがあるうちは、その想いを大事にしていたい」
 「…他の奴を探そう、とかは、思わないのかよ」
 「うん」
 コツン、と、落ちていた石を蹴って、咲夜は顔を上げ、前を見据えた。
 「私は―――恋は、一生に一度でいい」
 「……」
 「たとえ、痛い恋でも…死ぬまで貫くことができれば、それで本望だと思う。実らせるだけが、恋じゃないもの」

 ―――強いなぁ…。
 決然と、前を見てそう言い放つ咲夜の横顔を眺めて、奏は心の中で、そう呟いた。
 実らなくてもいい、この恋を貫いて生き抜く―――それは、一種の滅びの美学なのかもしれない。そう思えるほどの恋なのだろう。けれど……そう思うしかないほどに、叶う見込みが限りなくゼロに近い恋でもあるのだろう。奏の恋が、そうであるように。
 「…オレには、無理だな、きっと」
 苦笑した奏は、そう言って、空を仰いだ。
 夜が明け始めた空は、不思議な色をしている。その微妙なグラデーションに一瞬目を奪われながら、奏は大きく息を吐き出した。
 「男と女の違い、かな。よく言うだろ? 女は“一緒にいるだけで幸せ”って。でも、男は…ダメ、なんだよな。一緒にいるだけじゃ、見つめてるだけじゃ…辛すぎるんだよ」
 「……」
 「気ぃ狂いそうなほど欲しいのに、絶対に手に入らない女が、オレにとって一生に1人の女だったら―――悲しすぎて、耐えられない」
 「…でも、苦しくても、まだ好きなんでしょ?」
 咲夜が眉をひそめると、奏は、はあっ、とため息をつき、咲夜を見下ろした。そして、どこか悲壮感のある笑みを、口元に浮かべた。
 「うん。…だから、オレは信じてる―――本物の恋は、一度きりじゃない、って」
 「……」
 「信じなけりゃ…生きられない」

 ―――なんて笑い方、するんだろう。
 どう、表現していいか分からない、大きすぎる悲しみを抱え込んだ微笑だ。こんな悲痛な表情をするほどに、奏の恋は、救いのない恋なのだろうか―――ただ「報われない」という以上の苦しさがあるような気がして、見ているだけで胸が痛くなる。
 だからこそ、恋は一度ではない、と信じたいのだろう。
 恋は一度きりだ、と、自分では思っている咲夜だが―――奏には“次”があると、信じたかった。こんな痛みを抱えたまま、この恋だけに生きるのは、あまりにも酷だから。
 多分、奏は、とても正直な人間なのだ。
 抱えた痛みも、切望も―――嫉妬、欲望、後悔、涙、本当なら人には見せたくないものも、正直に表してしまう。一見クールに見える外見なので、誤解されることもあるのだろうけれど…綺麗な感情も醜い感情も、素直に顔に出てしまう人なのだろう。
 新しい恋を探す奏と、嫉妬を押し殺してでも恋を貫く自分と、どちらがマシな人間だろう―――そんなことをふと思い、咲夜は、自嘲的な気分になった。
 「…正直だね、奏は」
 ふっ、と力なく笑った咲夜だったが、奏を見上げ、今度はきちんと口の端を上げて笑った。
 「きっと奏には、次の恋があるよ」
 「…ハハ、“恋は一生に一度”って言った奴が、そういう励まし方するか?」
 苦笑する奏に、咲夜も「ほんとだよね」と言って笑った。
 「でも―――神様が、そこまで無慈悲だとは、思わないから。だから、奏にはきっと、現れるよ。今好きな人よりも、もっと好きになれる“誰か”が」
 「……サンキュ」
 奏は、少し目を細め、咲夜の頭をポン、と叩いた。
 「じゃ、オレも咲夜の応援しとくかな」
 「応援?」
 「“一生に一度の恋”なら、できれば叶った方がいいだろ?」
 ニッ、と笑って言われた言葉に、咲夜はキョトン、としたように目を丸くして―――それから、負けたなぁ、という風に肩を揺らして笑った。
 「ありがと。…でも、叶わない恋でも、悲惨な恋だとは思わないけどね。私には歌があるから」
 「歌?」
 「うん。辛い恋もさ、歌うためのエネルギーになるなら、それでいいんだ。幸せな恋にどっぷり浸ってる人間には歌えないような、苦しくて、辛くて、胸とか掻き毟りたくなるような恋の歌が歌えるとしたら……無駄じゃないよ。苦しい恋も」
 「ふーん…」
 真っ直ぐな視線でそう言う咲夜の笑みが、決して強がりではないと、本能的に分かるから。
 「そういうのも、悪くないかもな」
 想いを別の形に昇華できる咲夜が―――奏は、ちょっとだけ、羨ましかった。


 それから。
 他愛もない話をしながら、のんびりした足取りでアパートまで歩いた奏と咲夜は、早朝には似つかわしくない「おやすみー」という挨拶を交わして、それぞれの部屋に帰った。
 ほぼ同時にベッドに倒れこんだ2人は、数秒後には寝息をたて始めた。そして、そのまま、ひたすら眠り続けた。深く深く―――素敵な夢も、悪い夢も見ずに。


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