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― 秀才少年の受難 ―

 

 日付も変わろうかという、午後11時45分。

 ガゴーン!!!

 という、天井全体が揺れるような音に、優也はベッドの中で、びくりと体を震わせた。
 「……」
 巨大な音の後に続く、微かな「ごろごろごろ」という音。それが止むと―――再び、静寂が戻って来た。
 「…な……何??」
 上の部屋で、何かあったのだろうか。
 心臓が、バクバクしている。掛け布団を頭まで被って丸まったまま、優也はその夜、なかなか寝つくことができなかった。

***

 「ミルクパン」
 キィ、と物置の扉を開けて、中を覗き込む。すると、フリース素材の毛布を敷いた寝床の中で丸くなっていたミルクパンが、首をもたげて一鳴きした。
 可愛いなぁ、と、つい頬が緩んでしまう。優也は、適度に温めたミルクの入ったお皿をミルクパンの前に置き、よしよし、とその頭を撫でた。

 朝ごはんは、優也の当番。決めている訳ではないが、なんとなくそういうことになっている。忙しいんだからアタシがやるわよ、とマリリンは言うが、冗談ではない。大学へ行く前のひととき、ミルクパンと過ごすこの時間は、優也の心のオアシスなのだ。
 ミルクパンを飼ったことで、随分と心が潤っている優也だが、実は、当初は予想だにしなかった嬉しい影響もあった。
 昨日、いつものように岐阜から母が出てきたのだが、ちょうどミルクパンを部屋に入れて遊んでいた優也を見て、母の笑顔が一気に青褪めたのだ。
 『なっ、なっ、なんなのその猫はっ!』
 優也の家は、ペット厳禁である。その理由は、表向きは父の動物アレルギーということになっているが、実を言えば母の極度の動物嫌いの方が大きな原因となっている気が優也はしている。ちょっと臭いがうつるだけでもイヤ、というタイプで、優也が小学生の時には、学校で飼っているニワトリの世話係に優也が名乗りを上げると、本気で泣いて「お願いだから辞退して」と言ったほどだ。
 ミルクパン可愛さに、月に一度訪ねてくる母のことなど、さっぱり忘れていた。でも、そのおかげで母は、優也の所に泊まるのを諦め、日帰りで岐阜に戻ってくれたのだ。
 ちょっと気の毒な気もしたが―――正直、母と2人でいても何を話していいか分からないし、大学の同期にうっかり母の話をして「いくら親子でも、なんか気持ち悪くない? おしかけ女房みたい」と言われて以来、母の過干渉が、もの凄く気持ち悪いものように思えてきたし。とにかく、最近は、月に一度の母の“お泊り”が苦痛で苦痛でしょうがなかった。
 苦痛なのに、強く言えずにいたところに―――この、予想外の展開。母が動物嫌いでよかったと、優也は生まれて初めて思った。

 ―――それに…昨日の夜、お母さんが泊まってたら、絶対大騒ぎになっただろうし。
 夜中の謎の音を思い出し、優也は眉をひそめた。あんな音がした日には、異常なまでの心配性である母なら、すぐにでも「引越し引越し」と騒いだだろう。本当に母がいなくて良かった。
 それにしても―――なんだったのだろう?
 まるで、隕石が降って来たような音だった。いや、隕石に降られたことなど、生まれて18年、一度もないけれど。

 とその時、どどどど、と音がして、階段を誰かが駆け下りてきた。
 首を伸ばして見てみると、けたたましい音の主は、咲夜だった。
 「あ…、おはようございます」
 「おっはよー!」
 優也の顔も確認せずに、元気に返事をした咲夜は、ジャケットも着てる途中、スニーカーもかかとを踏んづけたままだった。どういうことかは、すぐ予想がついたが、案の定咲夜は、ジャケットをぐい、と引っ張りながら、優也の予想通りのことを叫んだ。
 「ああ、もーっ! 朝寄るとこあるのに、寝過ごしたーっ!」
 「…頑張って下さいね」
 「ありがとーっ」
 嵐のように駆け去って行く咲夜は、それでも一応、振り向かないまま優也に手を振ってくれた。
 ―――いつ見ても元気な人だよなぁ…。
 一瞬、そのエネルギーに圧倒されて、呆然と背中を見送る。優也より5つも年上なのに、優也の倍以上、エネルギーがある気がする。優也にあのエネルギッシュさがあれば、ノーベル賞も夢ではないかもしれない。
 自分にはああいう勢いがイマイチ足りないからなぁ、とため息をついた優也は、ミルクを飲み終えたミルクパンを、よいしょ、と抱き上げた。
 「お前より弱っちいかもしれないなぁ…」
 ミルクパンなら、昨日のあの謎の騒音にも、丸まって震える、なんて反応はしないで、2階を睨んでニャーニャー抗議の声を上げただろう。みーみー、と頬擦りしてくるミルクパンの喉を撫でつつ、またため息をついた。
 すると、また2階から、階段を下りてくる足音がした。
 誰かな、と顔を上げた優也の目に映ったのは、ストリートファッション誌から出てきたようなスタイルの長身でもなければ、現場一筋20年といった感じの作業着姿でもなかった。

 黒っぽい色をしたビジネスコートに、皮製のビジネスバッグ。丁寧に磨かれたビジネスシューズ。
 背は、160センチ台後半の優也より少し高い位。短い髪を嫌味なく、けれど清潔に整えたその人は、顔は見えないが、明らかに優也にとっては初めて見る人だった。

 「―――…」
 コツコツ、と足音をたてて去っていく彼を、優也は、固まったまま見送った。そして、その姿が完全に視界から消えたところで―――ぎゅう、と、ミルクパンを抱きしめた。
 「み…見ちゃったよ、とうとう。ミスター・X……!」

 ミスター・X。
 それは、204号室の住人に、咲夜が勝手につけたあだ名である。
 “ベルメゾンみそら”の住人は、全部で7人。なのに、1階の階段下に8つ並んでいる郵便受けには、6つの名前しか出ていない。空き部屋である104号室が無名なのは当然だが―――人が住んでいる筈の204号室の郵便受けにも、ネームプレートが貼られていないのだ。
 このアパートの主みたいなマリリンですら、204号室の住人については、まるっきり知らない。何故なら、その人物は、マリリンよりも前からここに住んでいるからだ。留守が多く、いつ訪ねても応答がない。「入居から1年間は、あそこは空き部屋だとずっと思ってたのよねぇ」とマリリンは言っていた。
 スーツ姿の男が出入りするのを、他の住人が何度か目撃しているので、彼があそこの住人なんだな、と認識しているが、誰もわざわざ名前を確認するようなことはしていない。郵便受けに名前を出さないほどだから、よほどの偏屈なんだろう、と誰もが考えている。で―――ついた名前が、“ミスター・X”だ。
 マリリンや咲夜から、その存在については聞かされていた優也だが、それらしき人物を見たことは一度もなかった。でも、一度でいいから見てみたいなぁ、と密かに思っていた。というのも、本当か冗談か、咲夜がこんなことを言っていたからだ。

 『ミスター・Xを見た日の翌日って、いいことがあるんだよ』

 何故当日じゃなく翌日なのか、その辺が微妙だが―――見るといいことがある住人、と聞かされれば、是非とも見てみたい、と思うのが自然な反応だ。
 「何か、いいことあるかなぁ」
 苦しい、放せ、というミルクパンの抗議の鳴き声にも気づかず、優也が呟いた時、ガチャリ、とドアの開く音がした。
 はっ、と顔を上げた優也は、それが102号室のドアだとわかると、緊張に顔を強張らせた。
 ―――と…友永さんだ。
 優也の憧れの君・由香理の今日の服装は、高そうなカシミヤコートにツイードのスーツ、エナメルのバッグ、ピンヒールだった。10センチを越してそうなヒールなので、多分、優也と並ぶと由香理の方が背が高いだろう。ああ、あと5センチ、背が高ければ―――いや、それ以前の問題なのだけれど。
 鍵を閉めた由香理は、ふわり、と髪を肩からはらい、ヒールの音をコツコツさせながら、颯爽と歩き出した。そして―――優也の方など一度も見ることなく、歩き去ってしまった。
 「……」
 ―――無視した、んじゃ、ない…、よな。
 無視よりもっと悲惨な「その存在に気づかなかった」である。
 存在感の薄さには、元々、自覚がある。がくっ、とうな垂れた優也だが、それでも、今日は友永さんの出勤風景を見ることができた、と、ちょっとだけ幸せな気分になった。
 やっぱり、綺麗だなぁ、友永さん。
 うっとり、としかけた優也の脳裏に、1ヶ月ほど前、奏が放った一言がぽん、と浮かんだ。

 『あれはメイク美人だぞ』

 「……」
 いや。
 メイク美人の、何が悪い。
 どうせ相手は咲夜以上の「年上の女性」。自分など対象外だ。素顔を見たら幻滅するかもしれないが、そんな機会、そもそもある訳がない。だから、ただ眺めて綺麗だなぁと胸をときめかす分には、メイクしてようがお面を被っていようが、全然問題ない。
 ―――それに、メイクの力であれだけ美人になってるんだとしたら…それはそれで、凄い努力だと、僕は思うけどな…。
 自分も努力すれば、奏ほど、とは言わないまでも、多少は垢抜けた、今時のかっこいい大学生になれるだろうか。
 一瞬、そう考えて―――垢抜けた自分がまるで思い浮かばない優也は、諦めたように首を横に振った。

***

 ガッゴーーーン!!!

 ……ごろごろごろ。

 「―――…」
 時計に目をやると、昨日よりはまだ早い、午後10時半。
 風呂に入るために服を脱ごうとしていた優也は、外したボタンを元に戻し、暫し悩んだ。そして、腕組み状態で1分間悩んだ末―――カーディガンを羽織り、部屋を出た。
 向かった先は、203号室ではなく、101号室だった。
 呼び鈴を鳴らして、少し待つ。やがて、ドアの向こうでゴソゴソ音がしたが、ドアが開くことはなかった。
 「はい。どなた?」
 「あの、優也です」
 「あら。どーしたの、こんな時間に」
 名乗っても、ドアは開かない。が、ドアの向こうから聞こえるマリリンの声は、こんな時間に優也が訪ねて来たことに、何があったのかと心配している感じが色濃く滲んでいた。
 「それが……昨日、今日と、なんか、2階からもの凄い音が聞こえて…」
 「音?」
 「なんか、隕石が落ちてきたみたいな、凄い音が。天井抜けるんじゃないか、って本気で思った位の」
 「えぇ、そうなの? うちでは何も聞こえなかったわねぇ…。木戸さんとこかしら」
 「多分。そ、それで、あの―――僕1人じゃちょっと怖いんで、一緒に苦情言いに行ってもらえないかと…」
 「あらら、そういうことなの」
 途端、やたら困ったような口調になった。
 「行ってあげたいのは山々なんだけど…アタシ、メイク落としちゃったのよねぇ」
 「……」
 それは―――まずいだろう。やっぱり。
 「そ…そう、です、か」
 「あ、そうだわ。一宮さんに頼んでみたら?」
 「一宮さん?」
 「お隣だから、同じ音、聞いてるかもしれないでしょ。留守かもしれないけど、心細いんなら、声かけてみれば?」
 確かに…あれだけの音、隣の部屋なら、気づいていても不思議ではない。それに、奏は背も優也よりずっと高いし、押しも強い。オドオドと自分1人がクレームをつけに行くよりは、奏が一緒に来てくれた方が心強い。
 「そうしてみます」
 「そ。頑張ってね」
 マリリンに礼を言った優也は、その足で、2階に向かった。
 202号室の呼び鈴を、祈るような思いで押す。すると、間もなく、魚眼レンズで来訪者の顔を確認済みなのか、ドアが開いた。
 「優也? どうした?」
 「こ…こんばんは」
 顔を覗かせた奏は、シャワーを浴びた後なのか、スウェットスーツの上下に、肩にスポーツタオルをかけた姿だった。優也がやったら「中学生の部活動後」なその格好も、奏がやると「最新流行ファッション」みたいに見える。
 「あの、今から3分くらい前―――お隣から、凄い音、聞こえませんでしたか?」
 「凄い音? …ああ、こっちじゃなく、そっちの隣だろ」
 心当たりがあるのか、奏は、こっち、と言って咲夜の部屋のドアを見た後、顎でしゃくるようにして隣の203号室を指し示した。
 「音は大してしてないけど、壁が揺れたよ。昨日の、もうちょい遅い時間も揺れたし。ベッド置いてる方じゃない壁だったから、あんまり気にならなかったけど」
 「やっぱり…」
 「もしかして、優也んとこは、もっと凄かったのか?」
 「…天井抜けるかと思いました」
 「そりゃ気の毒に…」
 「それで――― 一緒に、一言言いに行ってもらえませんか? 2夜連続だと、さすがに心臓もたなくて…」
 「いいけど、マリリンさんは?」
 こういう住民トラブルは、管理人を自称しているマリリンが率先して口を出してくるのを、奏も知っているのだ。不思議そうに眉をひそめる奏に、優也は、ちょっと声を落として、答えた。
 「…メイクを落としちゃった後なんだそうです」
 「―――…ああ、」
 納得したように、奏の片方の眉が、僅かに上がった。
 「そりゃ、やばいよな」
 「そんな訳で、お願いします」
 こうして、優也は、奏のバックアップを受けて、203号室に殴りこみに行くこととなった。

***

 ピンポーン。
 呼び鈴を鳴らして、数秒後。ドタドタ、という足音がして、ガチャリとドアが開いた。
 「はいー?」
 そうして出てきた203号室の住人を見て―――奏と優也は、同時に固まった。

 いくら室内とはいえ、真冬だというのにランニングに短パン姿。
 奏同様に首にタオルを掛けているが、奏の場合は髪を拭くため、目の前の住人の場合は汗を拭くため―――実際、ご近所を一周してきたのか、と訊きたくなるほど、彼の額や首には、相当の汗が流れていた。
 一体、何をしていたのだろう―――自分達の部屋と変わらない広さしかない筈なのに。あんな狭い空間でここまで汗だくになれることを想像してみたが、奏も優也も、何も思いつかなかった。

 203号室の住人・木戸は、40代半ば位の、人のよさそうな男性だった。
 背丈はちょうど優也と同じ位だが、ランニングから覗く肩や腕は、ひょろひょろの優也の腕よりふた回り位太く、脚も筋骨隆々―――同じ背丈でも、受ける印象はまるっきり逆だ。
 確か職業は建設業で、現在は現場監督のような仕事だとマリリンから聞いているが―――監督業などより、バリバリ現場主義の大工の方が似合う気がする。謎の住人に“ミスター・X”とつけた咲夜なら、さしづめこの人物には“源さん”と名づけそうだ。
 「…あのー。なんでしょう?」
 不審げな木戸の声に、固まっていた2人は、やっと我に返った。
 慌てふためき、早くも頭が真っ白になりかけている優也に代わって、先に奏が口を開いた。
 「夜遅くに、すみません。オレ、隣の202号室の一宮です。この子は木戸さんとこの下の、103号室の…」
 「あ、秋吉、です」
 あたふたと優也が会釈すると、木戸は「はぁ」と言いながら、まだ不審げな顔でひょこりと頭を下げた。
 「実は、昨日の夜とついさっきの2回、木戸さんのお宅から、もの凄い音がしたもんですから」
 「音?」
 キョトン、とする木戸に、そこまで説明した奏は、焦れたように優也の背中をぐいぐい、と押した。そうだ。騒音被害は、自分の方が大きかったのだ。気を取り直した優也は、ごくん、と唾を飲み込み、拳を強く握り締めた。
 「あ、あのっ―――ドーン! っていう、天井が抜けるんじゃないか、って思う位の、す、凄い音だったんですけどっ」
 「……」
 「そ、その後に、ごろごろごろ…と、何かが転がるような音が…。で、ですから、その…しっ、心臓に、悪いので、」
 「ああ!」
 ポン、と手を叩いた木戸の大きな声に、説明の途中だった優也と、その優也を半ば支えるようにしていた奏は、2人してビクリ、と一歩後退った。
 「そうかそうか、そのことかい! いやー、悪かったなぁ。そんなに凄い音が下に響いてるとは、全然思わんかった。ハハハハ」
 「……」
 「いやぁ、このところ、ちょっと体力が落ちててねぇ。前ならこんなことも無かったんだけど」
 「…一体、何の音だったんですか? あれ」
 眉をひそめて奏が訊ねると、木戸はニコニコ顔で、2人の腕を掴んだ。
 「まあ、ちょっと入って入って」
 「は!?」
 入って、って、あの。
 抵抗する暇もなかった。奏と優也は、呆気にとられている内に、ずるずると木戸宅に引きずりこまれた。
 そして、玄関を抜けた所で―――あまりの衝撃に、言葉を失った。

 壁一面、ポスターだらけ。
 白い部分がほとんど見当たらないほどに、べたべたべたべた、ポスターが貼り付けてある。しかも、アイドル歌手とか映画女優とか、そういう類のポスターではない。全部、むさくるしくてゴツい男のポスター。多分、K−1とかプライドとか、そういう格闘技の有名選手のポスターだろう。
 ポスターは、壁だけでは飽き足らず、天井にまで貼ってあった。右からも左からも上からも、男、男、男―――あまりの男だらけの世界に、この手の趣味がまるでない2人は、プロレスのリングの中にいきなり放り込まれたような恐ろしさを感じた。
 壁に寄せて畳まれた布団の上には、エキスパンダーが放り出されている。その隣に3つほど転がっているのは、ダンベルとか呼ばれるものだろう。その昔流行した“ぶら下がり健康機”まである。家具がカラーボックス1つしかないというのに、筋トレグッズだけは豊富にあるその部屋は、部屋というよりジムだった。
 そして、例の“ドーン! ごろごろごろ”の正体も、間もなく分かった。
 いかにも重たそうなバーベルが、部屋の3分の1位のスペースを塞ぐように置かれていたのだ。

 「ほら。こいつを、こう持ち上げて―――」
 呆然とする2人の前で、木戸はバーベルを両手で握り締めると、くうっ、と言いながら胸まで持ち上げた。木戸の顔が一気に赤くなり、こめかみに血管が浮く。
 「この状態で屈伸を10回するのを、日課としてるんだけど、ねぇ。くっ…、さ、最近、ちょっと疲れてるらしくて、」
 言いながら、本当に屈伸していた木戸の手足が、急にガクガクと震える。
 あ、ヤバイ、と2人が思った次の瞬間、木戸は、もう限界、という感じでバーベルを落とした。

 ガーーーーン!!!!!

 地面が―――いや、床が、揺れる。その衝撃に、飛び上がった優也は、思わず奏の腕に抱きついた。
 カーペットの上で軽く弾んだバーベルは、それだけでは止まらず、ごろごろ、と少し転がった。そして、畳んだ布団の角にぶつかって、止まった。
 カーペットが敷いてあるからまだマシだが、むき出しのフローリングだったらもっと大惨事だっただろう。さすがに床が抜けることはないだろうが、床が削れたり穴があいたりして、それこそ弁償モノになっていた筈だ。
 ―――こ…こんなことを、僕の頭の上でやってたのか…。
 更におもりを増やしたバーベルが、床を突き抜けて自分の頭上に降ってくる図を想像して、奏の腕にしがみついたままの優也は、そのあまりの恐ろしさにブルッと震え上がった。
 「…無理すると、マジで足腰痛めて、筋肉増強どころか病院送りになりますよ」
 声も出ない優也に代わり、奏が呆れたようにそう言うと、木戸は気まずそうに笑いながら、頭を掻いた。
 「ハ、ハハハ…。いや、先週まではギリギリ10回いけてたんだけどなぁ。…ま、まあ、見得張らないで、おもりを減らすようにしますよ」
 「……」
 「け、けど、お隣さんは、一見細く見えるけど、いい筋肉のつき方してますなぁ!」
 嫌な空気を払拭したいのか、木戸はそう言って、奏の体をバシバシ叩いた。
 「何かスポーツでもやっておられるんですか」
 「…昔は、仕事柄、ジム行って一通りのことはしてましたけど…」
 迷惑そうな奏の答えに、優也は、えっ、と意外に思った。
 多分、奏の言う“仕事”は、メイクアップアーティストのことではなく、モデルのことだろう。言われるまで、ああした職業とジム通いを関連付けて考えたことはなかったが―――なるほど、理想的な体型を維持するには、それなりの努力が必要、ということだ。綺麗な人は綺麗な人で、それを維持する努力が必要なんだな、と、優也はモデルという仕事に対する認識を改めた。
 「それに比べて―――君! 君の方は、いかんなぁ」
 「えっ」
 突如、自分に話を向けられて、優也は怯えたように一歩身を退いた。
 「うちの坊主は中1だけど、君よりがっしりしとるぞ。君、今いくつ?」
 「じゅ…18、ですけど」
 「いかんなー!」
 嘆かわしい、という顔でそう叫んだ木戸は、さっき奏にやったみたいに、優也の体型を確かめるかのように、バシバシと体中を叩いた。同じ力でも、奏には耐えられたその力に、優也は耐えられない。叩かれた勢いで、ヨロリ、と足元がふらつく。
 「仕事も勉強も、体力! 体力がないと続かんよ。君はいかにも頭が良さそうだが、勉強ばっかりしとると、いつか体を壊してぜーんぶダメになるぞ」
 「は、はあ…」
 「ちょっと、簡単にできる筋トレの体操を教えるから、やってみなさい」
 「「え!?」」
 奏と優也の叫び声が、重なる。
 何故、騒音に対するクレームが、こんなことに。
 呆気にとられる2人だが、木戸はそんなこと、まるでお構いナシだ。ニコニコと人のよさそうな笑顔で、有無を言わせず、優也の腕をぐい、と引っ張る。
 「なーに、バーベルを落として迷惑かけたお詫びだから、遠慮しないで」
 「い、いえ、あの、」
 「あ、よろしければ、お隣さんもご一緒にどーぞ。はい、じゃあまずは、床に横になってー」

 か…。
 勘弁してください。

 言いたかったけれど、気弱な優也は勿論のこと、呆気にとられ過ぎていた奏も、その一言が最後まで言えなかった。

***

 ―――い…いたたたたー…。
 翌朝。ベッドの上で体を起こした優也は、全身がギシギシと軋むのを堪えながら、目覚まし時計を止めた。
 肩、腕、脚、背中。全部の筋肉が、突然酷使したせいで、熱を持ったような痛みを訴えている。昨晩、部屋に戻った段階ではだるいだけで済んでいたが、一晩寝た結果は、完全な筋肉痛だ。
 呻き声を上げながら、どうにかこうにか着替える。Gパンを穿こうとしたら、太股に激痛が走ってひっくり返ってしまった。
 日常生活が、こんなに筋肉を使うものだったなんて。
 痛めて初めて分かる、人体メカニズム。パンを焼く、顔を洗う、動作の一つ一つに過剰反応する筋肉を感じながら、優也は半分涙目状態で朝の支度を済ませた。
 それにしても―――木戸は、あんなに体を鍛えて、一体どうする気なのだろう? 現場監督に、あれほどの筋肉が必要とも思えないし、第一、健康のために運動をするのと筋肉を鍛えるのは、全然意味が違う気がする。バーベルを持ち上げてるより、その辺を軽くジョギングする方が、健康増進にはいいのではないだろうか。
 ―――まあ…あの部屋の様子だと、格闘技オタクみたいだから、健康云々の目的でやってる訳じゃないと思うけど…。
 優也にはさっぱり分からない選手の顔が四方八方から迫ってきた木戸宅の様子を思い出し、優也は玄関のドアを開けながら、ぶるっと身震いした。

 「…ミルクパンー…」
 ぎこちない動作で扉を開けると、ミルクパンが可愛い仕草で出迎えてくれた。
 ああ、癒される―――だが、ミルクの入った皿を置くため腰を屈めるだけで、全身に激痛が走る。もう、どこが痛いのかもよく分からない。
 せっかくミスター・Xを見られたというのに、いいことがあるどころか、散々な目に遭ってしまった。二度と木戸には関わらないようにしよう―――ミルクを舐めるミルクパンの背中を撫でつつ、優也は固く心に誓った。
 と、背後で、ドアの開く音がした。
 ハッ、と振り返ろうとした優也だったが、瞬間、首筋と脇腹が悲鳴を上げた。声にならない呻きをぐぐぐ、と呑み込む優也をよそに、鍵をかける音に続いて、コツコツというヒールの音が近づいてきた。
 そして。
 何故か、優也のすぐ傍で、その足音が止まった。
 ―――えっ。
 驚いて優也が顔を上げると、そこには、いつもながら文句のつけようがないファッションに身を包んだ由香理が、あまり機嫌の良くなさそうな顔で立っていた。
 「お…っ、おはよう、ございます」
 思わぬ展開に、声が震えそうになる。が、なんとか挨拶だけはできた。
 そんな優也に、由香理は僅かに笑顔を作り、「おはよ」と答えた。が、また若干不機嫌気味な表情に戻り、声をひそめた。
 「あの―――ちょっと訊くけど」
 「は、はい」
 「一昨日・昨日と、なんか、天井が揺れるような大きな衝撃があったんだけど…お隣さんは、なんともなかった?」
 「……」
 どうやら、由香理の部屋にまで被害が及んでいたらしい。筋肉痛に耐えて立ち上がった優也は、ドキドキしてしまう胸を片手で押さえ、答えた。
 「あ、あれは、うちの上に住んでる人が、バーベル落としたせいだったみたいです」
 「バーベル!?」
 「昨日、クレーム言いに行ったら、そう説明されました。な、なんか…ちょっと疲れてて、バーベル持ち上げてる最中に間違って落としちゃった、って」
 「…何よそれ。疲れてるのにバーベル持ち上げてるの? 変な人…」
 綺麗に整えられた由香理の眉が、呆れたように持ち上がる。由香理にそう言われると、なんだか、自分が変な人と言われたような錯覚に陥り、へこみそうになる。
 「あの、でも、気をつけるって約束してくれたんで―――もう、大丈夫だと思います、けど」
 「ふぅん…、そう」
 短く相槌を打った由香理は、小さなため息をひとつつくと、気持ちを切り替えるように笑顔を作った。
 「ありがと。じゃ、それだけだから」
 「……」
 くるり、と踵を返した由香理は、それだけ言って、アパートを出て行った。遠ざかっていくコツコツ、というヒールの音を聞きながら、優也は、暫し呆然としてその場に立ち竦んだ。

 「…どうしよう…」
 呟きながら、頬が緩んでくる。
 全身の痛みも忘れて、優也はバッ、と腰を屈めると、満面の笑みでミルクパンを抱き上げた。
 「どうしよう、ミルクパン! 喋っちゃったよ、友永さんと…っ!」

 喋った、と言っても、話の内容は、あんな内容なのだが。
 それでも、挨拶しかしたことがなく、酷い場合はその存在にすら気づいてもらえなかった自分が、会話と呼べるほどの分量、由香理と話してしまったのだ。それは、優也にとっては、ほとんど奇跡に近い出来事だった。

 やはりこれも、あのミスター・Xのご利益だろうか―――優也は、ミスター・Xと木戸に、心の中で何度もお礼を言っておいた。


 そんなこんなで。
 色々あるけど、結構幸せな、秀才少年のシングル・ライフ。


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