Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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はっきり言って、朝から、かなりブルーな気分だった。
ほんの少しだけ窓を開け、窓枠に寄りかかるようにして煙草に火をつける。
窓の外は、雨―――奏は、煙を吐き出しながら、コンクリートの庇から落ちる雨の雫を、ぼんやりと眺めた。
天気が悪いと、憂鬱な予定が、余計に憂鬱になってくる。こんな日に限って、FMラジオから聴こえる歌は、奏の好みからは大きく外れた正体不明なJ−POPだ。せめて隣からアップテンポのジャズでも聴こえてくればいいのに―――小雨とは呼べないこの雨では、隣の窓が開くことはないだろう。
2月だというのに雪にならず雨になったのだから、むしろ今日は暖かい位なのだろうが、窓際のカラーボックスの上に置いたサボテンが、ちょっと寒そうに見えた。灰皿に灰を落とし、煙草をくわえた奏は、サボテンをカラーボックスから下ろし、床に置いてやった。
屈めていた体を起こすのとほぼ同時に、思いがけず、隣の窓が開く音がした。
意外に思いながら窓をもう少し開け、顔を出してみると、少し遅れて咲夜も顔を覗かせた。
「あれっ、おはよ」
咲夜の方も、奏が顔を出したのが意外だったらしい。少し驚いたような顔で、寝癖のついた髪をヘアクリップで留めながら笑顔を返した。
「…おはよ。珍しいな、雨なのに」
「んー、最近、空気が乾燥してたから、たまには雨もいいなぁ、と思って」
「ふーん…」
「―――なんか、元気ないね。どしたの」
「え、元気、ないか?」
「ないよ。っていうか、いかにも“ブルーです”って感じ」
「…実際、ブルーだからなぁ…」
大きなため息をついた奏は、僅かに眉を顰めて、半分ほどの長さになった煙草を灰皿に押し付けた。
「今日はちょっと、嫌な仕事があるんだよ」
「仕事? 今日って平日だよね。店で、何かあるの?」
「いや、店は午前中だけ。午後からのモデルの仕事の方が、かなーり気分悪い仕事になりそうなんだよな」
「何の仕事なの」
「…時計のポスター」
苦々しい口調で、奏は、吐き捨てるようにそう言った。
奏が気乗りしない時計のポスターの仕事とは、以前、奏を起用したい、と佐倉のもとに打診があったあの仕事である。
現行モデルのポスターを見て「オレとは相性悪そうなカメラマンだな」と感じた奏は、念のため、担当カメラマンについて瑞樹に訊ねてみた。そして、返って来た答えは、奏の直感を裏付けるものだった。
『ああ、ついこの前、撮り方めぐって大物モデルと現場で大喧嘩になって、ちょっとした話題になったぜ。偏屈で傲慢だけど、売れてるし、一流なんじゃねーの。“業界的には”』
…絶対、パス。
よほど大幅な方向転換がない限り絶対断ろう、と思っていたし、実際佐倉も、奏の意向に沿って一度は断った。なのに、こうして引き受ける羽目になったのには……実は、ちょっとした裏事情がある。
奏をかなり気に入ってくれたらしい時計メーカー側が、突如、佐倉が断り難い筋を仲介者として立ててきたのだ。
総合ファッションブランド“YANAGI”のオーナー・柳社長―――佐倉の、ビジネスパートナーである。
「“YANAGI”と佐倉さんが、何の関係があるの?」
「…佐倉さんのモデル事務所に、資金協力してるんだよ。前に所属してた事務所から、売れっ子のモデルを引き抜きするのに、結構資金が必要だったからさ。その子を“YANAGI”の専属として1年間確保するのを条件に、何百万単位で協力してもらってる。もち、佐倉さんのことだから、その子の専属契約が切れるまでには全額柳さんに突っ返して、完全に自分1人の事務所にしてみせるつもりだけど」
「やっぱり大変なんだね、起業するのって」
起業などまるっきり別世界の話、という咲夜は、商売人の思惑が渦巻いていそうなビジネス界の話に、思わずため息をついた。
「でもまあ、嫌な仕事もばっちりこなすのがプロだしね」
「う…っ、痛いこと言うなぁ、お前」
ニヤリ、と笑って咲夜が放った一言に、奏は顔を顰めてよろけた。
でも、咲夜の言う通りだ。求められる自分を演じてこそ、プロのモデル―――ついこの前までそのセリフを吐いていたのは、実を言えば、奏本人だったのだから。
自分の思う通りにカメラの前に立った結果、まるで仕事をさせてもらえなかった、新人時代。「自分のウリが何なのかをよく考えろ」とマネージャーに言われ、言われるがままに、求められるがままに演じた、自分とはまるで逆のキャラクター ―――“Frosty Beauty”。それは、驚くほど、カメラマンにもクライアントにもウケた。面白い位に仕事が来て、せっかく通っていたビジネスカレッジも、途中からは通うことが出来なくなったほどに。
それがクライアントの求める“自分”なら、それを見せてこそのプロだ。その意見は、今も変わらない。
でも……その一言では割り切れない思いが、今の奏にはある。だから、今日の撮影は、昔の自分ならなんでもない撮影でも、今の自分には苦行になるだろう、と想像がつくのだ。
「それに、どんな動機であれ、奏を名指しで必要としてくれてんでしょ? まだマシじゃん、誰からも声かかんないより」
「…まあ、それは、そうだけど」
「私なんかさぁ、たまーに酷い客いると、“下手くそ、引っ込めー!”とかヤジられて、本気でマイク投げつけたくなるよ? コーヒーデリバリーでも、“この程度のコーヒーならうちのコーヒーメーカーと変わらない”とか言われてさ。だったら自分で淹れろよ、って怒鳴りたくなるよ、ほんと」
「け…結構苦労してんなぁ、お前」
ぐぐぐ、と拳に力を込めて力説する咲夜に、奏もさすがに顔を引き攣らせた。
「けどな。コーヒーデリバリーに例えるなら、オレとしては“お前んとこのコーヒーが美味いから”って理由で注文受けたいのに、“運んでくるおねえちゃんが美人だから”って理由なのがほぼ見えてる状態の注文だと、結構へこむんだよ」
「…なるほど。なんか、それはちょっとわかるなぁ。何、どういう理由で、奏にオファーがあったの?」
「よくわかんねーけど……とりあえず、オレが望んでるような理由じゃないのは、なんとなくわかる」
はあぁ、とため息をついた奏は、がくりとうな垂れ、億劫そうに髪を掻き上げた。
「あー、憂鬱。…なあ、なんか、気分がスカッと晴れる歌、ない?」
「気分が晴れる歌、ねぇ…。んじゃ、“Blue Skies”なんて、どぉ?」
「…どぉ、って言われても、知らないし」
奏が唇を尖らせるようにしてそう言うと、咲夜は声をたてて笑い、窓枠を叩いてリズムをとりながら、歌い出した。
「Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see. Blue birds, singing a song, Nothing but blue birds, all day long...」
軽快な、アップテンポのスウィング・ジャズ。奏は、窓枠に頭を預けて、灰色の空を見上げた。
目を瞑ると―――瞼の裏には、咲夜の歌声通りの澄み切った青空が広がった。
***
けれど、青空は、そう長くは続かなかった。
「ちょっと待った!」
白いホリゾントの前、鋭く上がった声に、現場に一気に緊張が走った。
前髪から、雫がポタリ、と落ちる。ライトの熱で水分が蒸発するので、すぐにヘアメイクが飛んできて、奏の髪を霧吹きでまた濡らした。
三脚に固定したカメラをそのままに、カメラマンがつかつかと奏に歩み寄る。瑞樹曰く「偏屈で傲慢」なカメラマンは、半分以上が髭で覆われた厳めしい顔を、更に険しい表情にして奏を見据えた。
「いいか。撮影が始まったら、君は、おれが“動け”と言うまでは一切動くな」
「……」
「このポーズ、この角度、この影の配置―――全て計算し尽して決めたものだ。動かれては困る。さっきもそう言っただろう?」
「…すみません」
抑揚なく答えた奏は、それでも言わずにはいられなかった。
「絵的には美しいけれど、あまりに不自然な腕の角度で、キープが難しいんです。なるべく早く撮って下さい」
壁際で、佐倉がこめかみを押さえるのが一瞬見えた。
けれど、実際、カメラマンの撮影は遅かった。奏にポーズをつけて以降も、やれライトをあと2度傾けろだの、袖をあと1ミリずらせだの、ごちゃごちゃ文句を言っては、納得がいかないとシャッターを切らないのだ。袖が1ミリ長かろうが短かろうが、ポスターの出来にどれだけの影響があるんだ、と全員が思うのだが、シャッターを切る本人が納得いかないのだからしょうがない。
ある程度、本人も自覚があるのだろう。カメラマンは、大人気なく言い返したりはしなかった。
「…わかった。さっさと撮ろう。君も、一発で完璧なポーズを取って欲しい。コンテ通りに」
「わかりました」
いいから早く撮れ。
本当に、苦行以外の何物でもない―――奏は、一刻も早く、この撮影を終わらせたくて仕方なかった。
このカメラマンの撮影は、ちょっと独特だった。
普通は、ラフな絵コンテをもとにセットを組んだりポーズをとったりはするが、現場である程度モデルを動かして、様々な写真を撮るのが一般的だ。勿論、まるっきり予定と違う写真になったりはしないが、もう少し顔を上げてみようか、とか、じゃあこっちからのアングルも撮ってみるか、とか、そんな感じで「予定より良いアングル」を模索しながら、現場で作品が作られていく。
ところがこのカメラマンからは、そんなセリフは一切出てこない。
絵コンテとは呼べないほど、緻密な絵―――影の出方から体を倒す角度、視線の向きまで、その全てが数字で表せるんじゃないか、という位に、作りこまれた撮影原案。現場は、ただそのアートボードに描かれた二次元の静止画を、“実写”で再現するだけだ。
前もって計算し尽くした絵なので、カメラマンは、ちょっとでも狂いが生じることを許さない。だから、奏は、ポーズが決まったら1ミリだって動いてはいけない。
―――だったら人形でも撮れよ。人形なら息もしないし動きもしないだろ。
笑うに笑えない言葉を、心の中でだけ、カメラマンにぶつける。無意識のうちに出てきた愚痴は、皮肉なことに、聞き覚えのある言葉だった。
思い出す。2年前、瑞樹に初めてカメラを向けられた時のことを。
『おい。真面目にやってんのかよ。俺はマネキンを撮りに来た訳じゃねーんだよ』
『オレを起用するクライアントは、こういうオレを求めてるんだ。無機質で、生身の人間を感じさせない、性別も国籍もはっきりしない感じの風貌―――ソウ・イチミヤをこれだけ売れるモデルにしたのは、そういうコンセプトだよ』
『だったら、お前そっくりのマネキンかロボットでも作って服着せりゃ済む話だろ。生身の人間がいらねぇんだったら、お前撮る意味なんてあるか?』
「ストップ!」
シャッターを切っていたカメラマンの突然の声に、奏は、ハッと我に返った。
カメラを真っ直ぐに見据えるポーズ―――腕に嵌めた時計の見せ方も、首を傾ける角度も、一切がコンテ通りに完璧に出来ていた筈だ。何故止められたのかわからず奏が眉をひそめると、ファインダーから目を離したカメラマンは、想像だにしなかったことを言った。
「もっと、目に表れる感情を抑えろ」
「え?」
「目に、力がありすぎる。感情を目に出しすぎだ。もっと無機質にカメラを見るんだ」
「……」
「いいか? おれのプランの中では、君は商品の一部だ。腕時計と同化した、メタルで出来た美術品の一部なんだよ。美術品に、金属に、感情などあってはならん。君の目は、生身の人間の目だ。もっと無機質になれ」
―――吐き気が、する。
もう一度、戻れと言うのか。あの頃の自分に。
二度と戻りたくないと思った、“Frosty Beauty”―――瑞樹に「撮る意味のないマネキン」と一蹴された、ただクライアントが追い求める“カタチ”でしかない自分に、また戻れと言うのか。
本気で、その場に倒れこみそうだった。それを何とか堪えたのは、ひとえに、奏のプロ根性のなせる業だ。
「…わかりました」
低く答えた奏は、一度、目を閉じた。
感情に忠実すぎる、自分の顔―――でも、その感情を全て、封印する。頭をからっぽにして、ただカメラの前に立っているだけの“物体”になりきる。カメラの前でだけは、そうできる。何年もやってきたことだから。
再び目を開けた奏は、その奥には感情の欠片もない、と思えるような無機質な目で、カメラを見据えた。
全ての表情が、一瞬で消える。僅かに持ち上げた口の端が、美しい笑みを作る。本当の“笑い”など微塵も入っていない、カタチだけの笑みを。まるで―――精巧に出来た、美しい氷の彫像のように。
馬鹿馬鹿しかった。
けれど、それを見たカメラマンは、実に満足したように頷き、即座にシャッターを切ったのだった。
***
撮影の後半は、驚くほどスムーズに終わった。
現場における試行錯誤がないから、決まったアングルが撮れれば、それで終わり。有機物であることをやめてしまった奏に、カメラマンはあれ以降、一切の文句を言わなかった。
「…いつも、こんな撮影をしてるんですか」
全コマ撮影が終了し、現場が後片付けに入り出したところで、奏はカメラマンに歩み寄ってそう訊ねた。
カメラを三脚から外していたカメラマンは、奏の質問に、僅かながら非難めいたニュアンスを感じ取ったのだろう。軽く眉を上げ、そっけない口調で答えた。
「おれは、造形美を追い求めることだけに集中しているんだ」
「造形美……」
「モデルにあれこれやらせると、モデルの思惑や私生活が表に出てきて、あざとくなる。媚びた笑いや、商品より自分を目立たせたがるポーズにはうんざりだ。おれの仕事は、モデルを撮ることじゃなく商品を撮ることだ、と考えれば、モデルは美しい“モノ”であってくれた方がいい」
「…だったら、人形に腕時計嵌めさせて撮ればいいんじゃないですか」
皮肉っぽい口調で奏が言うと、カメラマンは豪快な笑い方をした。
「ハハハ、言うね。…ま、そういう考え方もあるさ。けれど―――不思議なもんでね。人間の作った“美”は、所詮、神が創りたもうた“美”には敵わないと、太古の昔から相場が決まってるのさ」
「……」
「君そっくりの人形を、君そっくりの笑い方で作っても、君を超えることは出来ないんだ。不思議なことにね。マネキン人形は、そのまま見ている分にはなんともないが、写真に撮ると不自然で不気味だろう? でも、君が無機質になりきって浮かべた笑みは、非常に美しい―――幸せな気分になる美しさじゃなく、その冷たさに魅入られるような美しさだ」
「…でも…クライアントも、あなたも、オレの“Clump Clan”でのポスターを見て、オレの起用を決めたと聞いたんですが」
それが、どうしても納得がいかない点だ。
奏が、日本に来るきっかけとなった、“Clump Clan”のポスター。あれを撮ったのは、ほかでもない、瑞樹だ。そこに写る自分は、無機質どころか、皮膚の下を流れる赤い血や、全身で跳ねる筋肉をはっきりと感じさせるほどに、“人間”だった。笑ってる顔、カメラを睨みつけている顔、ふともの思いに耽る顔―――どれも、一宮 奏という人間のキャラクターを存分に生かしていて、それでいて……絵としても、美しかった。間違いなく。
あれを見て、奏を使おう、と思ったのなら、格好ばかりじゃない人間味のある奏を求めるのが普通だと思うのに―――造形美だけを求めるなら、人形じみたモデルが、他にいくらでもいるだろうに。
「ああ、“Clump Clan”のポスターね。あれはあれで、面白いと思うよ。あそこは服のメーカーだから、服を着た君を動かすことで、色々見せられる部分もあるしね。でも、おれの趣味じゃない」
「…じゃあ、なんで選んだんですか、オレを」
「君がどんな動きをしてたか、どんな表情をしてたか、なんてことは、これっぽっちも問題じゃあないのさ」
カメラマンはそう言うと、ニヤリと笑い、自分より背の高い奏の頬を軽く叩いた。
「この顔だよ、顔」
「……」
「生粋の白人では軽すぎる、完全な東洋人では重すぎる―――バランスのとれた顔立ちと、それに加えて、まさに芸術クラスの美貌。さすが、イギリスでも重宝されただけのことはある。君がこの顔で作る計算通りの笑顔は、まさしく生きた芸術だよ」
―――褒めてんのかよ、それ。
また、吐き気が襲ってくる。けれど奏は、それを、僅かに眉を歪めるだけに留めて、なんとか押さえつけた。
「そうそう、かなり昔だが、君に似たモデルがいたなぁ」
再びカメラを片付ける作業を始めながら、カメラマンは、まるで付け足すように続けた。
「活動期間があまりにも短くて、正体不明のまま表舞台から姿を消したから、今じゃすっかり伝説扱いだ。ありゃあ凄いモデルだったよ。おれはまだ若造で手の届かない存在だったけど、一度でいいから撮りたかったなあ」
「伝説……」
嫌な予感に、心臓が、ビクリと痙攣した。
けれど、奏のそんな反応には一切気づかず、カメラマンは、懐かしそうな笑みすら浮かべて、とどめを刺した。
「“サンドラ・ローズ”、っていうモデルだよ。もう25年位前だから、君の世代は知らないかもしれないな」
***
佐倉に、何度も心配された。
何も知らない佐倉は、多分、奏が今日の撮影が思うようではなかったことに苛立っているのだと思っているのだろう。勿論、それも確かにある。でも、最終的に引き受けたのは自分だ。自分のしがらみのせいで、こんな撮影につき合わせてしまって―――と珍しく恐縮する佐倉に、奏は何度も「別にいいよ」と笑顔で言った。
ただ、絶対に譲れないことだけは、きっちり伝えた。
『どんな経緯でも、オレ、あのカメラマンとは二度と仕事しないから』
呼び出し音が3回鳴り、4回目が鳴りかけたところで、電話が繋がった。
『奏?』
着信画面で、名前を確認したのだろう。奏が名乗るより先に、電話の向こうの瑞樹が、不審気な声で奏の名を口にした。
「…うん、オレ」
『どうした。今日、例の撮影だろ』
「ああ。さっき終わった。打ち上げやってるけど、気乗りしなくて抜け出したとこ。…成田は、今、どこにいる? 家?」
『まだ事務所』
時刻は、まもなく午後11時だ。今頃蕾夏は、家で一人、瑞樹の帰りを待っているだろうか―――そう思うと、ちょっと胸が痛んだ。
「早く帰ってやれよ」
『バカ。余計なお世話だ』
「…だよな」
『第一、今日は蕾夏も取材で留守だ』
「なんだ…そうだったのか」
案外瑞樹も、一人きりの家に帰るのが嫌で、事務所で仕事を続けているのかもしれない。そう考えて、奏の口元が僅かにほころんだ。
店の軒先で、雨宿りよろしく体を縮めて電話している奏の横を、客とおぼしきカップルが通り過ぎる。2人がドアを開けて店内に入ると、店の中のBGMが僅かに漏れてきた。まだ打ち上げの飲み会は続いているだろうが、佐倉も早々に帰ってしまったし、もう戻る気にはなれなかった。
『―――で? どうだった、撮影は』
奏の暗い声に、用件がなんとなく察せられたのだろう。瑞樹が、促すように訊ねた。
「……最悪」
『…そうか』
「モデルを“物体”扱いするカメラマンは、何も今日が初めてじゃないけど―――あれは、極端すぎるって。自分の頭の中にある図から1ミリずれてもダメ、現場での方針転換もなければ、絵コンテより上を目指す姿勢もゼロ。オレを選んだ理由も、顔だってさ。目と鼻と口の配置が、“美術品”として出来が良かったからだよ」
『ま…、実際、外見は必須条件だからな』
「でも、それ“だけ”だ」
声が、掠れる。憤りで、携帯を握る手が僅かに震えた。
「オレの個性も、オレの表現力も、これっぽっちも要らなかったんだよ。オレは何も表現できなかった―――今日の撮影には、商品を巡るストーリーもなければ、伝えたいコンセプトもなかった。オレはただ、商品を飾る見映えのいいディスプレイ台になって、カメラの前に立ってただけだ。…意味、あるのかよ、こんなの。こんなのが本当に“いい写真”か!? いくらクライアントの意向でも、こんなの納得できねーよっ!」
今、ここに店の中からスタッフが酔いを醒ましに出てきたら、大変なことになるだろう。その位の大声で怒鳴っていたが、この憤りを抑えきれなかった。
瑞樹の答えは、すぐには返ってこなかった。
雨の音と、表通りを走り抜ける車の音だけが、暫く続く。激情に上がってしまった奏の息が、なんとか整った頃―――やっと返事が返ってきた。
『…俺も、納得いかなかった。お前を最初に撮った時』
最初に、瑞樹が奏を撮った時。
それは、今から2年あまり前―――ある服飾メーカーのポスターだった。ホリゾントの前で冷たい微笑を湛える奏にカメラを向け、瑞樹は苛立ったように言ったのだ。「こんなものを撮る意味があるのか」と。
『社長室の壁に飾られた大判ポスターを見た時は、俺はカメラマンにはなれない、と思った。プロに求められるのがこんなもんなら、写真は趣味で終わらせた方がいい、ってな』
「……」
『認めたくないけど、今でもたまにあるぜ、ああいう仕事。…でも、受けたからには、ムカつきながらでも求められたもんを撮るしかない』
「…プロだもんな」
『ああ。お前もな』
「……」
『…今回に限って、何そこまで熱くなってるんだ?』
鋭い―――奏がナーバスになっている理由が、単に、求めて欲しい自分を求めてもらえなかったせいではないことを、瑞樹は既に見抜いている。
目を伏せた奏は、やりきれない思いに、苛立ったように前髪を掻き上げた。その手で、そのまま額を押さえ、手のひらに目元を押し付けるようにして、なんとか声を絞り出した。
「…カメラマンに、褒められたよ。感情を排除した時のオレの微笑は、まるで氷でできた薔薇みたいに、クールで、完璧な美だ、って」
『……』
「まるであの、伝説の“サンドラ・ローズ”みたいだ―――あれが理想のモデルだ、オレはその理想のモデルを思い出させる、って」
電話の向こうで、瑞樹が僅かに息を呑むのを感じた。
暫し、互いに無言になる。やがて、小さくため息をついた瑞樹が、納得したように答えた。
『―――…また、随分と懐かしい名前が出てきたもんだな』
「……」
『なるほど。それでショックを受けてる訳だ』
「…ショック、って訳じゃ…」
でも―――いい言葉が、思い浮かばない。
怒り? 悲しみ? 恨み? …なんだろう。サンドラ・ローズに対する奏の感情は、結構複雑だ。自分でも、上手く説明がつかない。ただ、「サンドラ・ローズに似ている」という言葉が、奏にとって、モデルとして一番言われたくない言葉なのは確かだ。
『今でも憎んでるのか。あの女を』
「…いや。それは、ないと思う。でも―――…」
説明しようとしたが、言葉が出てこなかった。苦笑した奏は、額を押さえていた手を下ろし、はーっ、と息をつきながら、天を仰いだ。
「…ハハ、やっぱ、わかんねー。ただ―――オレは“サンドラ・ローズ”なんて認めない。あんなモデルが理想だなんて」
『……』
「誰が褒めようが、誰が理想として崇めようが、オレだけは、認めない」
それに、奏は知っている。かつて“サンドラ・ローズ”と呼ばれた女が、今、そのことを後悔していることを。
沢山の大切なものを捨てて選んだ、“サンドラ・ローズ”としての道。確かに彼女は成功した。望んでいた栄光を手に入れた。けれど、奏と同じジレンマを感じられるほど、モデルとしての可能性を深く考えることもないまま―――あっという間に、使い捨てられた。自分が手にした世界が、ただの虚構に過ぎないと気づいたのは、全てを失った後だ。
自分はまだ、モデルとして生きているうちに、この虚構だらけの世界に気づくことができて、幸いだったと思う。人気や金に目が眩んだままモデル人生を終えていたら、きっと後悔しただろう。
あんな風には、自分はならない。
自分だけは、認めない。このジレンマを知る自分だからこそ、絶対に―――サンドラ・ローズの成功を、認める訳にはいかない。
「ごめん―――何言いたくて電話したか、よくわかんなくなってきた」
もう一度、小さく息をついた奏は、やっと前を向いた。
「でも、あんたに電話したら、ちょっと落ち着いた。…今回は、運がなかっただけなんだよな。あのカメラマンとは、もう二度と仕事しないって宣言したし……忘れるようにする。できる限り」
『そう、か』
「仕事、邪魔してごめん。…じゃあ、切るから」
『奏、』
電話を切りかけた時、瑞樹が電話の向こうから呼び止めた。
『俺から見ると、お前ら、そんなに似てねーよ』
「……えっ」
『そのカメラマン、目が悪かったんだろ。…ま、所詮そんな程度だろ、DNAなんて』
「……」
―――…成田…。
瑞樹には、バレているのだ。奏が認めたくないのは、サンドラ・ローズのモデルとしての姿勢だけではない、と。
彼女が、栄光のために捨てたもの―――それよりも、彼女が手にしたものの方が大きいとは、絶対に認められない。それが、奏の偽らざる本音だ。
「…サンキュ」
苦笑混じりに奏が言うと、電話の向こうの瑞樹が、ふっと笑った。
『じゃあな』
短い言葉を残し、電話は、向こうから切れた。ツー、ツー、という無機質な音を聞いた奏は、ノロノロと携帯を耳から外し、パチン、と閉じた。
雨は、一向に止む気配がない。
―――あ…、しまった。傘、スタジオに忘れてきた。
スタジオからここまで、タクシーで集団移動してしまったので、すっかり忘れていた。携帯をポケットに突っ込んだ奏は、なんだかどうでもよくなって、そのまま店の軒先を出て、雨の中に歩き出した。
冬にしては、幾分暖かく感じる雨。ものの2分で、髪はしっとりと濡れ、視界が曇り始める。
でも、奏には、好都合だった。
雨に濡れていれば―――もし、不覚にも泣いてしまっても、それを誰にも悟られずに済むから。
今日初めて強く自覚したことが、1つだけある。
自分が、“Frosty Beauty”と呼ばれていた自分を捨てたくて捨てたくて仕方がない、その理由。
それは、その頃の自分の微笑が、あまりにも―――自分達を捨てたあの女の微笑と、似すぎているからだ。
―――恨みなんか、これっぽっちもないのに…。
それともオレ、心のどこかで、恨んでたのかな。あの人を。
なんだか、悲しかった。
でも、何が悲しいのか―――雨に打たれながら歩く奏には、よく、わからなかった。
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