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― メタルフレーム ―

 

 「It don’t mean a thing if it ain’t got that swing...」
 歌いながら、トーストにマーガリンを塗る。
 「Do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a, do-a」
 最後の音に被るように、チーン、と、レンジが鳴った。
 レンジの扉を開け、できたてのホットミルクを取り出す。そこに、インスタントコーヒーをひとさじと、角砂糖1個を放り込めば、カフェオレのできあがり。猫舌気味の咲夜は、ふーっ、とカフェオレに息をかけて冷ましてから、コクン、と一口飲んだ。

 せっかく朝イチで『Blue Skies』を歌ったのに、昨日は結局、1日中雨だった。今朝もまだ曇り空で、スカッとした青空には程遠い。早く春にならないかなぁ、と、トーストを齧りながら咲夜は背後の窓を振り返った。
 ―――あれ?
 さっきカーテンを開けた時は、まだ寝ぼけ眼で気づかなかったものに、ふと気づく。トーストとマグカップを置いた咲夜は、立ち上がり、曇っていた窓ガラスを指先で拭った。
 「うわー…!」
 窓の外の景色は、うっすらと白く雪化粧していた。
 昨晩、咲夜が“Jonny's Club”を出た時は、まだ雨だった。気温もそこまで冷え込んでおらず、雪になる気配はなかったのだが―――明け方になって、一気に冷え込んだのだろう。
 思い切って窓を開けてみたら、予想外なほどの寒さに思わず身震いする。でも咲夜は、久々に見た雪景色に、首を竦めて両手に息を吹きかけながらも暫し見惚れた。
 あんまり開けてると風邪ひくな、と思い、窓を閉めようとした時。
 隣の窓が、ガタン、と音をたてた。
 奏が顔を出すのかと思ってそちらに目をやるが、窓はすぐには開かなかった。なんだろう、と暫し見ていると―――窓は、もの凄くノロノロと、ちょっとずつ、ちょっとずつ、開いた。
 「……?」
 どうしたのだろう? 身を乗り出して、隣の窓を覗き込む。が、奏の姿は見えなかった。なんだかホラー映画じみてるな、と、気温のせいばかりじゃない身震いをひとつすると同時に、隣の窓の窓枠を、奏らしき手が掴んだ。
 「奏?」
 「……おー…」
 なんだか異様に、しわがれた声。
 窓枠にすがりつくようにして顔を出した奏は―――見るからに、「病人」だった。
 顔には、まるっきり精彩がない。目の下には、隈までできている。頬がいつもより染まって見えるのは熱のせいだろうか。汗を結構かいているらしく、前髪が額に張り付いてしまっていた。
 「ど…っ、どーしたの!?」
 「……風邪、ひいた」
 完全な鼻声で答えた奏は、窓枠にぐったりと頭をもたせかけた。
 「…昨日の帰り、傘忘れてさ。仕事で頭もカッカきてたから、そのまま雨に打たれて帰ったんだけど―――こっちの駅ついたら、なんか、異様な冷え込みで…。雨もみぞれ混じりになってるし、北風吹いてくるし、もう最悪」
 「…大バカ…」
 「…どうせ大バカだよ」
 機嫌を損ねたように奏が咲夜を睨むが、ずずっ、と鼻をすすりながらなので、あまり迫力がない。さすがに気の毒になって、咲夜は心配げに眉をひそめた。
 「なんか…すっごい顔だよ、今の顔。鏡見た?」
 「…見てない。てゆか、見たくない」
 「大丈夫? 朝ごはんとか食べた?」
 「…それが…ハ…ハ…」
 言いかけて、盛大にくしゃみする。くしゃみと同時に、奏の体が一層沈み込み、届く訳がないのに、つい咲夜は支えようと慌てて手を伸ばしてしまった。
 「む、無理しない方が…」
 もう引っ込め、と咲夜は思ったが、奏は「大丈夫」とでも言うように手を挙げた。
 「……それが。パンなんかの常備食を帰りに買って来ようと思ってたのに、それを忘れて帰ってきたから、即食べられるようなもんが、ほとんどない」
 「うーん…、食欲は?」
 「…それも、あんまり、ない」
 「困ったなぁ…。あ、ちょっと待ってて」
 奏にそう言い残し、咲夜は素早く顔を引っ込め、ダッシュでキッチンに向かった。そして、昨日買ったばかりのバナナを1房抱えて、また窓際に戻って来た。
 「奏! そーうー!」
 咲夜が声をかけると、ぐったりうな垂れていた奏が、ノロノロと顔を上げた。
 「…何」
 「あのさ、タオルか何か、その辺にある?」
 「…ああ、うん、ある。スポーツタオルだけど」
 「それ、柵のちょい下位の高さに広げて持ってくれる? こーんな感じで」
 タオルの両端を持って両腕を前に出すような仕草を咲夜がすると、奏は、怪訝そうな顔をしながらも、どこかからスポーツタオルを拾い上げ、咲夜に言われたとおり、窓の外の柵の内側に広げた。
 「こう?」
 「そう。上手くキャッチしてね」
 パキン、と、バナナの房の半分をもぎ取った咲夜は、柵に手をついて身を大きく乗り出すと、そのバナナを、奏が広げるタオル目がけて投げた。
 綺麗な弧を描いて、バナナは、スポーツタオルのほぼ中央に落ちた。反動でタオルがたわんだが、慌てて奏がタオルごとバナナを抱きかかえたので、変な場所にぶつかって下に落ちたり、窓枠に激突して打ち身だらけのバナナになることだけは避けられた。
 「ハハ、ナイスキャッチ」
 「へーえ。お前、頭いいなぁ」
 「とりあえずそれ食べて、薬飲みなよ。寒いから、早く窓閉めた方がいいよ」
 「…サンキュ。助かった」
 力なく笑う奏は、もう限界らしく、窓枠に支えられて立っている感じだ。ヒラヒラと咲夜に手を振ると、また焦れるような速度で窓を閉め、部屋の中に引っ込んだ。

 ―――大丈夫かな…。
 この寒さじゃ、肺炎になったっておかしくないよ。無理してでも病院行った方がいいんじゃないかなぁ…。あ、外国人って、長期滞在するなら健康保険に入るんだよな。奏、ちゃんと入ってんのかな。

 忘れていたが、奏は外国人なのだ。
 もし、自分が、遠く離れた異国の地で病に倒れたら―――きっと、普段の病気の何倍も心細いだろうな、と、咲夜は思った。


***


 『そんなに酷い風邪なのか…。大丈夫か?』
 「…まあ、なんとか」
 店に電話すると、都合よく氷室が出た。奏は、毛布を耳が隠れそうなほどに引き上げながら、携帯をしっかり握りなおした。
 「でも、さすがに店には行けそうにないから、1日だけ休む」
 『そうか…。わかった』
 「…ごめん。星さんもインフルエンザで休んでるのに…」
 『ま、気にするなよ。星さんが抜けてるほどには影響ないから』
 ハハハ、と笑いながら放たれた一言に、ちょっとだけへこむ。…そりゃ、そうだろう。メイン技術者の星と自分では、抜けた穴の大きさはまるで違うのは当然だ。
 『でも、今日中に治せよー。テンが、隣でニコニコ顔で喜んでるから』
 「喜んでる?」
 『ちょっと、代わるから』
 氷室の声が遠ざかる。暫しの沈黙の後、携帯電話から、テンの元気すぎる声が飛び出してきた。
 『いっちゃん? お疲れ様ー』
 「…おー」
 『あー、けど、星さんおらん時に、氷室さんのサブが休むなんて―――これもきっと、神様がウチの頑張りを認めてくれたからやなー。この機会にバンバン手伝いして、氷室さんのミラクルメイク、盗ましてもらうわ!』
 「……」
 ―――貴様……許さん。
 奏の眉間に、深い皺が寄る。
 一応、星の名誉のために言っておくなら、メイクアップアーティストとしてのキャリアも評価も、氷室より星の方が若干上である。忙しい時は、氷室らメイン技術者が星のサブにつくことすらあるほどに。テンは、そういう人に優先してつけてもらっているのだから、本来ならもっと感謝しなくてはいけないのに―――星がこのセリフを聞いたら、冷たく「明日から一宮君についてもらうから」とバッサリ斬り捨てるだろう。温厚そうな星だが、怒ると一番怖いのだ。
 『―――…という訳だから、明日には出てこいよ。な?』
 テンから電話を取り上げたらしい氷室が、苦笑混じりにそう言う。それから、僅かに声をひそめて。
 『それに、正直な話、テンがサブだと、疲れるし』
 星位のクールさでないと、テンのハイテンションを制御するのは難しいのだ。氷室のうんざり顔を思い浮かべて、奏も苦笑した。
 「…わかった。何が何でも1日で治すから」


 電話を終え、すぐに眠りついた奏が、次に目を覚ましたのは昼過ぎだった。
 咲夜から貰ったバナナは全部で4本。朝1本食べたので、3本残っていた。幾分気分の良くなっていた奏は、そのうち2本を食べ、もう一度風邪薬を飲んだ。
 風邪なんて、滅多にひかないのに―――多分、精神的にまいっていたせいで、免疫力も低下していたのだろう。そんな時に、自棄になって雨の中を歩くなんて……全く、馬鹿な真似をしたものだ。
 ―――久しぶりだったな…。雨に打たれるなんて。
 熱っぽい頭を枕に沈めながら、ぼんやり考える。
 そう―――久しぶり、だった。
 最後に降りしきる雨に打たれた日のことを、奏は、嫌になるほどよく覚えている。あの日も、元凶となったのは、“サンドラ・ローズ”だった。彼女の存在に苛立ち、彼女のことを隠している人に憤り、部屋を飛び出して……雨の中、どこに向かって走っているのかもわからず、闇雲に走って―――…。
 「……ッ」
 思考が、そこで、止まる。
 その先は―――考えたく、なかった。
 頭まで布団の中に潜り込み、体を丸めて、奏は必死に、思い出してしまいそうになる光景を頭から追い払った。熱のせいばかりじゃない震えに耐えながら、ひたすら、全てが去るのを、待った。

 思い出したくないのに、考えたくないのに、熱に浮かされて見る夢は決まって……蕾夏の、夢だった。
 浅い眠りを、何度も何度も繰り返して―――それに疲れ果てた頃、奏は、やっと深く眠ることができた。


 次に目が覚めた時、部屋の中は、真っ暗になっていた。
 熱が下がったのか、だるさが、少しマシになっていた。その代わり、全身が汗だくだ。サウナから上がったような疲労感を覚えながら、奏は起き上がり、カーテンを閉めて電気をつけた。
 「……腹、減った……」
 現金なもので、少し体調が戻ると、早くも空腹感が襲ってくる。
 汗がベタついて、気持ち悪い。でも、シャワーを浴びるのが億劫だし、食べる物を買いに出る力はまだないし―――最後の1本であるバナナを前に、どうしようかな、と迷っていたら、ふいに、呼び鈴が軽やかに鳴った。
 ―――誰だろ。
 ヨロヨロしながら、玄関に向かう。魚眼レンズから外を覗いた奏は、視界に映った人物を確認して、驚いて目を丸くした。
 慌てて鍵を開け、ドアを開くと、あらぬ方向を見ていた目が奏の方を向き、ニッ、と笑った。
 「咲夜…?」
 「良かった、玄関に出て来れる位には回復したんだ」
 「…なんで…」
 「バナナ4本じゃ、いくら何でも1日持たないだろうと思ってさ」
 そう言うと、咲夜は、手にしていたコンビニの袋を軽く掲げて見せた。
 その瞬間、奏の目には、目の前の見慣れた顔が、天使か女神様のように映った。


***


 「…よっぽどお腹空いてたんだね」
 猛烈な勢いでおかゆをかき込む奏を眺めて、咲夜は、呆れたように呟いた。
 レンジで温めれば炊きたてご飯のできあがり、という白米と、卵とみつばだけを使った、シンプルなおかゆ。イギリス生まれの奏の口に合うんだろうか、と思ったが、奏は大喜びで「あー、美味いー」を繰り返し、梅干まで頬張った。ハーフと言うからには半分は日本人だし、かつては日本に住んだこともあるらしいから、日本の食文化にも思いのほか慣れているのかもしれない。
 「あー、やっぱ、食わないと体力って蘇らないんだなー…。たかがシャワーを浴びるだけのことが、あんなにキツイとは思わなかった」
 「そりゃそうだよ。昨日の夕飯以降、バナナ3本と水だけだったんじゃ。…おかわり、いる?」
 「…お願いシマス」
 苦笑した咲夜は、空になった茶碗代わりの丸みを帯びた器を受け取り、おかゆをよそった。部屋から持ってきた自分の茶碗にも半分位よそいながら、そう言えば、家族以外とこうやって家でご飯を食べるのはもの凄く久しぶりだな、と思った。

 「けどお前、なんでここまで親切にしてくれるんだよ」
 不思議そうに奏に問われ、咲夜は、梅干を1つ取りながらくすっと笑った。
 「私が風邪ひいた時のお礼、かな」
 「え? でも、それは…」
 「ああ、うん、貰ったのど飴のお返しは、もうしたけどさ。あの時、結構へこんでたんだ」
 「へこんでた?」
 「うん。あんな酷い風邪ひいたの、久しぶりでさ。でも、意地でもライブは休みたくなくて、喋るのがやっとなのに、無理して歌っちゃって―――結果は、最悪。一成には叱られるし、ヨッシーには呆れられるし。結局、次のライブは休むって決められちゃって、思い切り落ち込んで帰ってきたら……あののど飴が、あったんだ。…自分がバカやったせいなのはわかってるけど…なんか、みんなに責められる中で、初めて慰めてもらえた気して、随分救われた。だから、これはそのお礼」
 「…ふーん…」
 少し照れたような顔をして相槌を打った奏は、それ以上何も訊かず、黙々とおかゆを食べ続けた。咲夜もそれ以上言う事がないので、黙っておかゆを食べた。

 食べながら、なんとなく部屋のあちこちを眺める。
 初めて入った奏の部屋は、思いのほか、すっきりしていた。でも、奏が綺麗好きで神経質とは、あまり思えない。モデルという仕事をしていて、しかもこんなノーブルな顔をしているのに、擦り切れたジーンズやスニーカーでも平然としているタイプだから。すっきりして見えるのは、まだ物があまりないせいだろう。
 「…あれっ、サボテンなんて置いてある。へー、意外」
 殺風景な部屋に唯一彩を添えている、愛らしい形をしたサボテンの鉢植えを窓際に見つけ、咲夜はちょっと嬉しそうな声を上げた。
 「奏って、もしかして植物好き?」
 「…そういう訳じゃ、ないけど」
 チラリとサボテンを見遣った奏は、なんだか歯切れの悪い口調でそう言い、またおかゆを口に運んだ。
 「でも、男の人で植物を部屋に置く人って、そんなに多い訳じゃないんじゃない?」
 「…貰いもんだから、あれは」
 「え?」
 「貰ったんだよ、ここ入るはるか前に。大事な知り合いから」
 「あ、そうなんだ」
 「師匠の家追い出された時なんて、かなり異様だったよなぁ。バッグ1個と、あのサボテン抱えて、真夜中の街に放り出されて」
 でも、緊急事態にも持って出てきてしまうほど、大事なサボテンだったのだろう。というより…それだけ大事な人からの、プレゼントなのだろう。
 「そう言えば、“レオン”って映画の主人公も、人殺し稼業なんてやってる癖に、ずっとサボテンの鉢植え持って宿を転々としてたなぁ」
 ふと、昔見た映画を思い出して咲夜が言うと、奏は、一瞬目を丸くし、それから驚いたように笑った。
 「すっげー奇遇。オレも、サボテン抱えて、同じシーン思い出した」
 「え、ホント?」
 「ほんと。あの映画、非情そうな殺し屋が、宿に着く度、窓開けてサボテンを日光浴させてんのがツボだったから、よく覚えてる」
 「そうなんだ。確か最後って、あの女の子……マチルダ、だっけ。あの子が学校の庭に植え替えるんだよね」
 「そうそう、マチルダ。レオンが死んじまった後で植えてた」
 「そう考えると、あの映画の重要アイテムだったんだなぁ、サボテンって。…ところで、あのサボテン、何て名前?」
 窓際のサボテンを指差して咲夜が当然のようにそう訊くと、奏の顔が、笑い顔から「はっ?」という顔に変わった。
 「名前?」
 「? つけてないの?」
 「つけないだろ、普通」
 「えぇ? つけるでしょ、普通」
 「つけないって」
 「つけるって。私、ミリオンバンブーを2本、コップ栽培してるけど、ちゃんと1本ずつ名前つけてるよ?」
 「…そんなの、咲夜ぐらいのもんだろ。日本でもイギリスでも、そんな奴、一度も見たことないし」
 「嘘っ!!!!!」
 ガーン、と頭を殴られたようなショック。
 知らなかった―――ペットを飼ったら名前をつけるように、植物を購入しても名前をつけるものだと思っていた。母が、ずっとそうしていたから。でも、まさかそっちが非常識で、つけないのが常識だったとは。
 ―――だ…だから、お客さんとこで「あそこのゴムの木って、なんて名前なんですか?」って訊いて、怪訝そうな顔されたのか…。
 思い出したら、汗がダラダラ出てきた。また今月もあのオフィスにコーヒー豆の補充に行かなくてはいけないが、変な奴、と思われているかもしれないと考えると、行くのがちょっと怖い。
 「ふーん。へーえ。お前って、観葉植物に名前つけて喜んでるようなタイプだったんだ。へー、意外」
 顔を赤くして動揺している咲夜を見て、奏は、病気のことなど忘れたように面白そうに笑った。
 「それで? 咲夜んとこのミリオンバンブーとやらは、何ちゃんと何ちゃん?」
 「…い…1本は男の子だから、“ちゃん”じゃなくて“君”だよっ」
 「は? 性別まであるのかよ」
 「どーせ“百恵ちゃん”と“竹彦君”だよっ! 百万(ミリオン)(バンブー)だから、それでいーじゃんっ」
 「うははははは、センスねぇーっ!!」
 自棄になった咲夜の暴露に、奏はとうとう吹き出し、お腹を抱えて笑い転げた。
 ―――むっかつくーっ。どうせセンスないよ。自覚ありますよ。悪かったですねっ。
 色々反論したかったが、やればやるほど、墓穴を掘りそうな気がした。咲夜は黙ったまま、梅干の入ったケースの蓋を奏に投げつけ、「とっとと食べろ」とだけ幾分八つ当たり気味に怒鳴った。

***

 “百恵”と“竹彦”を笑った罪滅ぼしではないだろうが、食後、奏が紅茶を淹れてくれた。
 「いいって。病人にそんなことさせられないよ」
 「随分楽になったから平気だって。それにオレ、紅茶にはちょっとうるさいから」
 仕方なく黙って見ていると、食にこだわりのなさそうな奏にしては珍しく、出てきたのはティーバッグではなく紅茶の葉が入った缶だった。英国人は紅茶にうるさいイメージが何となくあるが、奏もその口なのだろうか。
 「親父が紅茶通で、メチャクチャうるさいんだよ。オレはそんなのどーでも良かったんだけど、慣らされたせいか、ティーバッグで淹れたやつ飲んだらイマイチで」
 「へーえ、そうなんだ」
 なんだかハイソなお父さんだな、なんて考えた咲夜は、ふと、窓際に置かれたカラーボックスの中段にあるものに、目を留めた。
 「……」
 「お待たせ」
 カタン、と、テーブルの上にティーカップを置かれ、我に返る。
 見ると、ティーカップは咲夜の分だけで、奏自身はマグカップだった。どうやら、ティーセットは1人分しか揃えていないらしい。
 「あ…、ありがと」
 「? どうかした?」
 咲夜の表情が、ちょっといつもと違うことに気づき、奏が不思議そうな顔をする。紅茶の中に角砂糖を1つ落としつつ、咲夜は、チラリとだけ視線をカラーボックスの方に向けた。
 「うん、その―――あれって、家族写真かな、と思って」
 「え?」
 奏も、咲夜の視線を辿り、カラーボックスの中段に飾られた写真立てに目をやる。そして、ああ、と言って口元をほころばせた。
 「そ。オレの家族。今年の正月に帰った時、家族4人揃ったところを、叔父貴に撮ってもらったんだ」
 「へえ…。見てみていい?」
 「どうぞ?」
 奏の両親については特に何も思わないが、奏と同じ顔だという双子の弟というのには、ちょっと興味があった。咲夜は、膝歩きでカラーボックスににじり寄り、銀色のフレームに収まった家族写真を手に取った。
 家族写真は、全部で4人だった。
 前に、50歳前後の男女。多分これが、奏の両親だろう。その後ろに、奏と―――奏の弟。それを見て、咲夜は思わず吹き出した。
 「うわ、ほんとにそっくりだー。あ、でも、弟は眼鏡かけてるんだね」
 「ああ…、あいつは本の虫で、昔っから細かい文字ばっか読んでたせいで、目が悪くなったんだよ。今もライターなんて仕事してるから、目を酷使しっぱなしだし」
 「へーえ…。でも、眼鏡取ったら同じ顔なんだろうけど……なんか、どっか違うね、やっぱり。持ってるムードっていうか、表情っていうか。弟の方が優しくて気弱そう」
 「その通り、オレより優しくて気弱な奴だよ。ああ…、そういや、優也って昔の累に近いな。だから変に親近感湧くのかもな、あいつ」
 「あはは、そうなんだ。…それにしても、なんか、プロが撮ったみたいな、いい写真だね。写真館かどっかで撮ったの?」
 別に写真に詳しい訳ではないが、なんとなく、プロっぽい写真だと思った。親戚の叔父さんがパチリと撮った、というムードとは思えなくて、咲夜は思わずそう訊ねた。
 すると、返って来た答えは、驚愕の事実だった。
 「ああ、それ撮った叔父貴って、プロのカメラマンだから」
 「え?」
 「知ってるかな。時田郁夫ってカメラマン」
 「えぇ!?」
 カメラマンの名前なんて全然知らない咲夜だが、その名前は、偶然知っていた。
 以前、ニュースの中の特集コーナーか何かで、海外で活躍している日本人写真家、ということで時田郁夫が紹介された。なんてことはないその番組を咲夜が覚えていたのは、その番組の中で、時田郁夫がジャズ・バーで有名なジャズ・シンガーのジャケット撮影をやっていたからだ。
 「知ってる、知ってる! えーっ、奏の叔父さんって、時田郁夫なの!? うわーっ」
 「いや、うわーっ、てほどでもないんだけど―――母さんの弟が、たまたま、有名になっちゃったカメラマンなだけで」
 「あ、そうか、お母さん側の叔父さんなんだ。そうだよね、一宮と時田じゃ、苗字違うもんね。へーえ…」
 改めて、写真の中の奏の母をまじまじと見つめる。これが時田郁夫の姉かぁ、と。
 ふくよかな女性だ。肩も胸も丸く、いかにも「母」という感じ。けれど、真っ直ぐにカメラを見つめているその目は、ただ優しいばかりではなく、意志のはっきりした、テキパキした女性という印象を与える。いいお母さんそうだな、と、なんとなく思った。
 そんな奏の母の肩に腕を回した男性は、かなりのハンサムだった。
 ロマンスグレーという言葉がピッタリな、白髪の混じったブラウンの髪。同じ色の眉。高い鼻に落ち窪んだ目―――それは、咲夜の想像する「英国紳士」っぽい印象で、なるほどな、と思った。
 思って―――ふと、あることに気づき、眉をひそめた。

 母の旧姓は、時田。
 父の名前は、一宮。

 …イギリス人が一宮という苗字でも、おかしい訳ではない。咲夜がイギリスに行ってイギリス国籍を取れば、“如月咲夜”のままイギリス人になるのだから。
 おかしいのは、この写真。
 時田という旧姓を持つ奏の母は、どこから見ても、白人の血が混じっているとは思えないアジアンチックな顔をしている。テレビで見た時田郁夫も明らかにアジア顔だったから、多分、奏の母は生粋のアジア人―――まあ、順当に考えて、日本人だろう。
 そして、一宮という苗字を持つ奏の父は、一見、白人のようにも見える。
 見える、けれど……100パーセント白人には、どうしても、見えなかった。
 ブラウンの髪、ブラウンの目の白人も、勿論いる。けれど、一宮氏の顔立ちは、そうした白人とは微妙に異なっている。そう……ちょうど、日本人と白人のハーフだとこんな感じになるんじゃないか、というような顔立ちだ。そして、一宮、という、どう考えても日本から来たとしか思えない苗字を考えると―――…。

 ならば。
 もし、一宮氏が日英のハーフであるなら―――奏と、その弟のこの顔を、どう説明すればいいのだろう?
 この2人から生まれたとは思えない、明らかに西洋寄りなこの顔が、クウォーターのものとは、到底思えない。

 混乱したまま写真を見つめ続ける咲夜の様子に、奏は、少し目を丸くした。
 「? 何?」
 「…えっ、あ、いや、その」
 慌てて目を上げた咲夜だったが、胸の奥に浮かんだ疑問は、簡単には拭い去れない。動揺したように視線を彷徨わせた挙句、また写真に目を落としてしまった。
 「そ、その…」
 「うん?」
 「…奏って、ハーフなんだよね?」
 良い訊ね方が思いつかず、そんな、曖昧な訊き方になってしまった。
 ちょっと目を上げて、遠慮がちに訊ねる咲夜に、奏はその問いの意味を理解し、苦笑のような笑みを漏らした。
 「あー…、そっか。それ見たら不思議に思うよなぁ、やっぱ」
 「……」
 「見てのとおり、そこに写ってる両親は、オレの本当の両親じゃないよ」
 あっさり告げられた一言に、咲夜は、驚きに目を大きく見開いた。
 「え……っ」
 「うちの両親は、オレと累を引き取って育ててくれた“育ての親”」
 「……」
 話の内容とは正反対の、奏のさばさばした明るい表情が、信じられなかった。言葉も紡げず、眉を寄せて奏を見つめていると、奏は困ったように笑い、
 「ま…、とりあえず、飲めよ。冷めるとまずくなるし」
 と咲夜に紅茶を勧めた。
 病み上がりの体で、わざわざ茶葉から淹れてくれた紅茶なのだ。奏の言葉ももっともだな、と思い、咲夜は写真立てを元に戻して、まだ膝歩きでテーブルの席に戻った。

 父親の影響だという紅茶は、確かに美味しかった。味はさほど差を感じなかったが、香りの良さがティーバッグとはまるで違う。紅茶よりはコーヒー派の咲夜も、その香りに「たまには紅茶もいいなぁ」と思うほどに。
 「…あのさ、奏」
 半分ほど飲んだところで、咲夜は、ためらいつつも口を開いた。
 「訊いても、いいかな。…奏の本当の両親、って…」
 曖昧に誤魔化した部分も、多分、伝わったのだろう。奏は、ふっと笑うと、口にしていたマグカップを両手で包んだ。
 「―――オレ達を捨てたのは、母親の方。生まれてまだ数日のオレと累を、病院に残して、逃げたんだ」
 「……」
 「異国の地で、しかもまだ学生なのに、いきなり双子をたった一人で抱えちまった日本人の父親は、途方に暮れた。で……救いの手を差し伸べたのが、一宮夫妻。並んで寝てるオレと累を見て、運命を感じたんだってさ。大喜びで引き取って、以来26年間、当たり前のようにオレ達を育ててくれた」
 「…奏は、その…知ってた、の? 実の親じゃないってこと」
 「知ってた。っていうか、教えてもらった。それなりの歳になった時、さっき咲夜が不思議に思ったみたいに、オレや累も不思議に思ったんだよ。で、訊いたら、教えてくれた。血の繋がりなんて意味ない、オレと累は自分達の息子として神様が授けてくれたんだから、って―――そう言われて、オレ達もそう思った」
 「…そ…、なん、だ」
 どう、言っていいかわからなかった。
 でも、育ててくれた両親の話をする奏の目は、家族を想う息子の目だった。ああ、この人は、本当に両親が好きなんだな―――それが実感できるから、奏は育ての親のもとでずっと幸せだったのだ、と信じられた。
 「いいご両親なんだね」
 口元をほころばせ、咲夜が言うと、奏も微笑を浮かべた。
 「…息子のオレが言うのもなんだけど、マジでいい親だよ、2人とも。この世で一番尊敬してる」
 「…そっか」
 「―――2年前、実の親のことが、わかったんだ」
 突如切り出された話に、咲夜の心臓が、ドキン、と鳴った。奏の表情も、幾分険しくなる。
 「父親の方は、もうちょい前から知ってたけど…母親については、まるっきり謎のまんまだったから。どういう奴だったか知って、正直…ショック、受けた」
 「…なんで…?」
 奏の口元に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。
 「モデル、だったんだ。オレ達の母親」
 「…えっ」
 「無名のモデルで、妊娠中に、有名なカメラマンの目に留まって―――オレと累と恋人を捨てて、モデルとして成功する道を選んだんだよ。“サンドラ・ローズ”っていう偽名で、アメリカで大ブレイクしたんだってさ。たった2年で、カメラマンの興味が失せると同時に使い捨てられたけど」
 「……」
 酷い―――…。
 たった2年の、仮初の名声。そのために、生まれたばかりの我が子と愛する人を捨てたなんて……酷い。酷すぎる。思わず咲夜は、唇を噛み、テーブルの上に置いた両手をぎゅっと握り締めた。
 「オレさ。イギリスにいた頃、“Frosty Beauty”って呼ばれてたんだ」
 唐突に、奏が目を上げ、そう言った。
 「“Frosty Beauty”…?」
 「そ。“Cool Beauty”の上を行く“Frosty Beauty”―――氷の美貌って意味だよ。今思うと男に“Beauty”もないだろ、って思うけどな。息遣いすら感じさせない、完璧に綺麗なオブジェになりきるのが、オレの仕事だったんだ」
 「…奏のキャラじゃないと思うけど」
 奏は、喜怒哀楽の激しいタイプだと思う。見た目は二枚目だが、中身は二枚目半だ。朝の寝ぼけ眼の顔なんて、これで本当にモデルなんてできるのか、と心配になるほど、ぼーっとしていて情けないし。
 「ハハ…、オレも、そう思う。でも実際、オレは、それで売ってたんだ。面白いように仕事来るし、周りもちやほやするから、それでいいと思ってた。面白いとは思わなかったけど、そのつまらなさを我慢するのがプロだと思ったし」
 「…まあ、一理、あるかも」
 「でも―――“サンドラ・ローズ”の写真見て、嫌になった」
 途端。
 奏の目が、暗く翳った。
 「…そっくりだったんだよ。オレ達を捨てて母親が演じてた“サンドラ・ローズ”の目が、“Frosty Beauty”を演じてる、自分の目に」
 「……」
 「…気づいたら…吐きそうになった」

 奏―――…。

 この世で一番嫌悪する女と、今自分が演じているものが、同じだったら―――咲夜には、その気持ちは、正確にはわからない。でも、想像はできる。
 昨日まで褒めそやされていた美貌が、吐き気がするほど醜悪なものに変わる。世界中の人が賞賛しようとも、奏にとっては、この世で一番醜い顔だろう。富と名声に目が眩んで、我が子と恋人を捨ててた女の、打算と欲望の果てにある仮初の顔なのだから。
 だから、奏は。
 だから―――自国での十分すぎる評価をあっさり捨て、日本に来たのかもしれない。
 それほどの売れっ子が、客の求める顔をかなぐり捨てたらどうなるか、咲夜にだって想像はつく。イギリスで所属していたモデル事務所とも大喧嘩をしたと聞いたし、そのせいで恨みを買い、仕事を妨害されたとも聞いている。それほどの窮地に陥っても、奏はもう“Frosty Beauty”には戻れなかったのだ。
 “Frosyt Beauty”から逃れるために―――もっと言うなら、“サンドラ・ローズ”から逃れるために、日本に来た。他にも理由がありそうな気がしたが、多分…それも、日本に来た理由の1つのような気がする。

 「…もしかして奏、昨日の仕事って…」
 昨日の朝の奏との会話を思い出し、咲夜がそう訊ねる。苦々しい表情をした奏は、鋭いな、という目をして僅かに口の端を上げた。
 「…そ。二度とやりたくなかったけどな。受けちまったからには、カメラの前に立つしかない―――わかっちゃいたけど、さすがに荒れたよなぁ…」
 「そりゃ…仕方ないよ。私でも荒れると思う」
 「ハハ、サンキュ」
 気の抜けたような笑い方をした奏は、はーっ、と大きなため息をついて、壁にもたれかかった。
 「あー、なんか、喋ったらスッキリした。改めて誰かに話すような話でもないけど、口に出して説明すると、頭が整理ついていいよな」
 「私なんかに話しちゃって、良かったの?」
 「いいんじゃない? お前、口固そうだし」
 あっさりそう言われ、咲夜は安心させるよう、奏に向かってニッ、と笑ってみせた。
 「その自信はあるよ。誰にも言わないし、言いたいとも思わない」
 「…ん。吹聴して回る話でもないしな」
 そう言いつつも、奏も少し安堵の表情を見せた。やっぱり他人に言われたくない話なのだろう。

 沢山喋りすぎたせいか、奏は、少し疲れたようだった。
 また熱が上がっては意味がない。咲夜が水を汲んできて、風邪薬を飲ませた。
 「…ねえ、奏」
 「ん?」
 「“サンドラ・ローズ”を、今も、憎んでる?」
 咲夜が訊ねると、奏は、グラスを口に運ぶ手を、一瞬止めた。
 複雑な表情で、咲夜を見上げた奏は、視線を逸らし、残りの水を一気にあおった。そして、グラスをテーブルの上に置くと、小さくため息をついた。
 「―――恨んでるつもりも、憎んでるつもりもないけど……ここまで“Frosty Beauty”に嫌悪感持つってことは、どっかで憎んでる部分があったのかな、って、昨日初めて思った」
 「…恨むのは、当然だと思うよ、私」
 「でも、恨むのは裏切り行為のような気がする」
 「え?」
 裏切り行為?
 意味がわからず咲夜が眉根を寄せると、奏が顔を上げ、きっぱりとした口調で言った。
 「あんな無茶苦茶な女に育てられたら、多分オレ、完全にグレてたと思うから。だから、捨ててくれて良かったと本気で思ってる。そういう意味では、あの女に感謝してる。“捨ててくれてありがとう”ってさ」
 「……」
 「そう思える位、オレは、あの両親に育てられて良かったと思ってんだよ。なのに、恨むなんて―――なんか、捨てられて不幸になったみたいだろ? 捨てられて幸せなのに、捨てた奴恨んだりしたら、幸せにしてくれた人達への裏切り行為のような気がする」

 ―――まさに、目から鱗。
 そういう考え方もあるのか―――驚くとともに、羨ましくなった。
 そう言いきれるほど、一宮夫妻のもとで育った奏は、幸せだったのだろう。血の繋がりなんて関係なく、実際に生活を共にし、泣いたり笑ったりして長い長い時間を過ごしてきた―――“真実の親子”として。

 「…羨ましいなぁ…」
 口をついて、本音が出てきていた。
 咲夜は、少し寂しげな笑みを浮かべ、目を細めた。
 「奏みたいに、言えたらいいのに。…私は、許せないことが多すぎて、そんな風に言えない」
 「え……?」
 奏が、怪訝そうに眉をひそめる。
 けれど、咲夜は、何も言えなかった。言うことすら―――許せなかった。


 実の、親なのに。
 血の繋がった親で、生まれた時から一緒にいたのに―――許せなくて、わかり合えない。

 なんだか、悲しかった。
 “サンドラ・ローズ”が許せなくて、でも、血の繋がりなんかなくても心からわかり合える“家族”のいる奏が、羨ましくて―――父を理解できない、父に理解してもらえない自分が、とても、悲しかった。


***


 目を覚ますと、咲夜が、床に転がって眠っていた。
 壁に寄りかかったままうたた寝していた奏には、毛布がしっかり掛けられていた。テーブルの上には、空になったティーカップとマグカップが置きっ放しになっていた。
 ―――何時だろ。
 目覚まし時計に目をやると、深夜0時を過ぎたところだった。奏は、毛布を払いのけると、ずるずると咲夜の傍に這って行き、その肩を揺すった。
 「おい、咲夜」
 「―――…うー…ん」
 「日付変わったぞ」
 「…え、ホント?」
 まだあまり眠りが深くなかったらしく、咲夜はすぐに起き上がり、時計を確認した。そして、奏の言う通り0時を過ぎているのを見て、慌てふためいた顔になった。
 「うっわ、本当だ! うーわー…、まずいなー。うら若き乙女が独身男性の部屋で居眠りしてる時間じゃないじゃん」
 「…誰がうら若き乙女だよ」
 「ていうか、風邪はどーなの? 病人がうたた寝なんかしちゃダメだって言ったのに、いくら起こしても起きないから、帰るに帰れなかったじゃない」
 口をヘの字にした咲夜は、そう言って奏の額に手を当てた。
 「―――ん、とりあえず、熱は完全に下がったかな」
 「喉がまだイガイガしてるけど、鼻は苦しくなくなった。きちんと寝たら、明日にはほぼ完治だと思う」
 「そう。良かった。…じゃ、私、帰るから」
 立ち上がった咲夜に続いて、奏も立ち上がる。玄関まで咲夜を見送って、考えてみれば、眠っている自分を放置して咲夜が帰ってしまったら玄関の鍵がかけられなかったんだよな、と気づいた。なるほど、だから咲夜が帰るに帰れなかった訳だ。
 「ほんと、助かった。サンキュ」
 奏が礼を述べると、ドアを開けた咲夜は、振り返ってニコリと笑った。
 「どういたしまして。…ねえ、あのサボテンの名前、どーしても“レオン”じゃダメ?」
 「…却下。男の部屋に、男なんていらん」
 「ちぇー…。じゃあね」
 不服そうに唇を尖らせた咲夜は、そうして帰って行った。

 ―――何で名前をつけたがるんだか…。
 ブツブツ言いながら部屋に戻った奏は、何気なく窓際のサボテンに目をやった。
 そして―――あるものを見つけ、固まった。

 サボテンの鉢に、手帳か何かを破り取ったような紙が、鉢のカーブに合わせてセロテープで貼り付けてあった。
 そこには、恐らくは咲夜の手で、こう書かれていた。

 『命名:マチルダ』

 「…ほんっと、センスねぇー…」
 呟いて、思わず吹き出してしまった。


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