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― So What? ―

 

 窓を開けると、今日は少しばかり、春めいている陽気のようだった。
 穏やかな日曜日の午後。ふわあぁ、とあくびをした奏は、ふと、窓際のサボテンに目をやった。
 ―――あ、そろそろ、マチルダにも水やった方がいいかな。
 春はまだ遠いが、植物はそろそろ活動開始の季節かもしれない。これからは水やりの回数を増やした方がいいかもな、と、奏はキッチンに舞い戻り、コップに水を汲んできた。
 …それにしても。
 このサボテンの名前が、なし崩し的に“マチルダ”で定着してしまったのは、少々不本意だ。
 植物に名前をつける趣味など全くないし、「なぁマチルダ、聞いてくれよ」なんてサボテンに話し掛けるタイプでもないから、実際にサボテンの名を呼ぶことはないのだが―――咲夜が名づけて以来、気づけば頭の中で、サボテンを“マチルダ”と認識してしまっている。咲夜も「マチルダ元気ぃ?」などと窓越しに訊いてくるので、余計名前が刷り込まれていく。別におかしな名前じゃないから構わないが……なんとなく、面白くない。

 ラジオから流れる80年代のロックを聴くとはなしに聴きながら、床に放り出してあった箱を取り上げ、中から、高級そうなチョコを1つ摘み上げ、口に放り込む。
 バレンタイン・デーからもう1週間以上経つのに、店の客達や仲間から貰ったチョコが、まだかなり残っている。バレンタインの風習は他の国にもあるが、普通は花やお菓子やちょっとしたプレゼントなのに、なんで日本ではチョコ限定なのだろう? 今年、初めてデパートのバレンタインコーナーを見て、あまりの凄まじさに仰天した。この日本の風習には、昔からどうにも馴染めない。
 あの瑞樹などは、奏以上にチョコを押し付けられていそうだが、根っからのチョコ嫌いである。貰った大量のチョコを一体どうしているのだろう? と思い、先日、ちょっと訊いてみた。
 『ああ…、今年は事務所でデスクワークの日だったから、1個しか貰わずに済んだ。で、蕾夏が食った。会社勤めの頃は、毎日、確実に会社に出るから、色々あったけど』
 じゃあ会社勤めの頃はどうしていたんだ、と訊いたが、曖昧に誤魔化されてしまった。まあ……瑞樹のことだから、全部ゴミ箱に捨てたとか、屋上からバラ撒いたとか、その類の「酷い仕打ち」をしたのだろう。
 ―――でも、オレもあんまり好きじゃないんだよなぁ。しかも全部、いわゆる義理チョコだろ? 客からなんだから。
 本命以外から貰ったチョコなんて、見栄っ張りとチョコ好き以外には、苦痛だ。オレも屋上からバラ撒こうかなぁ、なんて、半分本気で思った時。

 「きゃーーーーっ!!!」

 穏やかな休日に似つかわしくない、絹を裂くような悲鳴が、階下から聞こえた。
 ギョッとして、窓から下を覗き込む。が、庇が邪魔で、下の部屋は全く見えなかった。
 「きゃーっ! いやっ、最低ーっ! 早くどっか行ってーーーっ!!!」
 「……」
 どう考えても、この部屋の下―――102号室からの、悲鳴。
 一体何があったのだろう? 行って確認すべきだろうか―――迷っていると、咲夜の部屋の窓が開いた。
 「なんだ、いたのか」
 せっかくの休日なのに、というニュアンスを滲ませて奏が言うと、咲夜も軽く眉を上げて、同じ意味合いを込めた視線を奏に送った。
 「そっちこそ。…それより、今、悲鳴聞こえなかった?」
 咲夜の言葉の最後の部分に被さるように、また、階下から大声が響いた。
 「もーいやあああぁ! だーれーかー!!!」
 「―――…」
 眉をひそめ、顔を見合わせる。意を決した2人は、同時に窓を閉め、玄関に向かっていた。

***

 奏と咲夜が1階に下りると、そこは、既に大騒ぎになっていた。
 「ちょ…、ちょっと、友永さん、落ち着いて。ね、ね、ね?」
 「ああ、もう、最低…っ!」
 友永由香理の部屋のドアは、180度完全に開けられ、消火器で固定されていた。その部屋の主である由香理は、これから出かけます、といった感じの気合の入った服装とメイクで、廊下で頭を抱えている。そんな由香理を、マリリンが困ったような顔で宥めていた。
 「なんか、あったの?」
 咲夜が声をかけると、振り返ったマリリンが、ちょっとホッとしたような顔をした。
 「ああ、咲夜ちゃんと一宮さんも来てくれたの」
 「どうしたんだよ。すげー悲鳴聞こえたけど」
 「大したことじゃないのよ。もー、この人ってば、猫1匹に殺されそうな悲鳴上げるから」
 「はっ? 猫?」
 「マリリンさーん…」
 奏の疑問の声に、由香理の部屋から出てきた優也の疲れた声が重なった。
 優也は、眼鏡が完全にずれて、日頃以上に情けない格好になっている。一体、何が、どうなっているのか―――後から来た奏と咲夜には、さっぱり想像がつかない。
 「…あ、一宮さん達も来ちゃったんですか」
 眼鏡を直した優也が、2人に気づいて力なく笑う。が、またすぐに困った顔になり、マリリンの方に目を向けた。
 「あの…色々試してみたけど、なんか、追い回したせいですっかり怯えちゃってるみたいで…」
 「出て来ないの? あらら…困ったわねぇ」
 「困ってないで、早く追い出してよっ!」
 由香理が、ヒステリックに叫ぶ。冬だというのに大胆に開いた襟元から覗くその首には、寒さのせいばかりではない鳥肌が立っていた。


 由香理がぎゃーぎゃーわめく内容と、優也のしどろもどろの訴えと、マリリンの冷静な解説を総合すると、事態は、こういうことらしい。

 今日の昼食を、優也は、マリリン宅でご馳走になっていた。
 食べ終えたところで、優也は、ミルクの入った器を持って、物置に行った。そしていつものように、ミルクパンにミルクをあげた。
 ちょうどミルクを飲み終えた頃、食器を片付け終えたマリリンが顔を出し、「果物でも食べるー?」と優也に訊いた。
 ミルクパンを抱っこしていた優也は、「あ、いただきます」と言って、ミルクパンを抱いたまま、マリリンの部屋に戻ろうとした。
 そして、優也がマリリンの部屋に入る直前―――隣の、友永由香理の部屋のドアが、開いた。

 そこから先は、神様の悪戯としか、言いようがない。
 日頃大人しいミルクパンが、この時に限って何故暴れたのか、わからないし。
 たかが由香理の部屋のドアが開いた位のことに、何故優也がびっくりしてしまい、しかも何故暴れたミルクパンを放してしまったのかも、わからないし。
 そして、優也の腕を逃れたミルクパンが、なんだってよりによって、半開きになっていた由香理の部屋のドアの中へと逃げ込んでしまったのかも、誰にもわからない。ミルクパン自身にだってわからないだろう。永遠の謎だ。
 とにかく―――ドアが開いて5秒後には、「ずうずうしい猫」が大嫌いな由香理の部屋に、ミルクパンという名の子猫が入り込んでしまったのだった。

 悲鳴を上げた由香理が、最初にしたことは、ドアを開け放つことだった。
 消火器でドアを押さえ、ぎゃーぎゃー喚きながら優也を自分の部屋の中に突っ込み、「とにかくまず窓開けてっ!」と怒鳴った。自分で開ければいいのに、そうしないのは、中に猫がいるからだ。半分カーテンを引いてしまっている薄暗い部屋では、うっかり猫を踏みつけないとも限らない。そんなシーン、想像するだけで、由香理には耐え難い恐怖だった。
 言われたとおり、由香理の部屋の窓を開け放った優也は、狭い部屋中を逃げ回るミルクパンを、必死に追い回した。
 子供と言えども、相手は猫である。所詮野生からは遠く離れてしまった人間の、しかも鈍い部類に入る優也では、太刀打ちできない。棚の上へ、冷蔵庫の裏へ、と自由自在に逃げ回るミルクパンに翻弄され、すぐフラフラになった。
 「ちょっと! まだ捕まらないの!?」と、痺れを切らして由香理が部屋の中に入ってきた時―――運悪く、ミルクパンが冷蔵庫を飛び降り、由香理の背中にダイブした。
 奏が最初に聞いた、あの絹を裂くような悲鳴は、この時のものである。

 由香理の悲鳴に驚いたミルクパンは、すっかり怯えてしまい、クローゼットの中へ逃げ込んだまま動かなくなった。
 優也は、そんなミルクパンを色々と宥めすかして誘き出そうとするが、無理だった。
 由香理は、猫に乗っかられた、という事実に、パニック気味である。
 そしてマリリンは、たった5分弱の間に起こった出来事に呆気にとられ―――とりあえず今は、由香理を落ち着かせることに専念しているのだった。


 「僕が呼んでも、出て来ないんです。小さいから、手の届かない奥まった所に入り込んじゃってて―――どうしましょう?」
 「そうねぇ…。咲夜ちゃんの美声に誘われて、出てきたりしないかしらねぇ」
 「よし、1曲歌おっか?」
 「バカじゃないの。イソップ物語じゃあるまいし、歌声に釣られて猫がついて来たりする訳ないじゃないっ」
 由香理が苛立ったようにそう言うと、咲夜は、ムッとしたように眉を上げ、由香理の方を流し見た。
 「…言いたかないけど、それ、イソップ物語じゃなく“ハーメルンの笛吹き男”だと思うよ。ついでに、おびき寄せたのは、猫じゃなく、ネズミ」
 「…なんだっていいじゃないのよ。とにかく、早く追い出してっ」
 一瞬うろたえつつも、由香理が高飛車な様子で咲夜に怒鳴る。さすがに咲夜も本格的に気分を害した。大体、日頃から理由もなく睨まれたり無視されたりして、由香理のことは嫌いだったのだ。
 「そんなに言うなら、友永さんが、“天の岩戸”よろしく裸踊りでも踊ってみたら? ミルクパンってオスだし、喜んで出てくるかもよ」
 「な―――…」
 目を見開き、ワナワナ震え出す由香理に、奏のポイント外れな突っ込みが拍車をかけた。
 「バーカ。ミルクパンはまだガキだから、裸踊りなんて面白くもなんともねーって。エサで釣った方が早いだろ」
 「あ、そっか。そーだよね」
 「……」
 マリリンがこめかみを押さえ、優也が少し顔を赤らめて俯く。和やかに、ははははは、と笑い合う奏と咲夜だけが別世界だ。
 「つーかさ。暫く待ってりゃ、出てくるんじゃない? ま、気長に待ってようぜ」
 「私は今から出かけるのよっ! あんた、この格好見ても、そんなことすらわかんないの!?」
 由香理に噛み付かれ、奏も思わず、1歩後退る。…確かに。時間を気にしているということは、相手のいる外出なのだろう。今回ばかりは、由香理に一理ある。
 「うーん…。とりあえず、見てみるか。優也じゃ届かないとこも、オレなら届くかもしれないし。入っていい?」
 「…どうぞ」
 むすっ、としつつも、背に腹は変えられない。由香理はそう言って、目で中に入るよう奏を促した。それを見届け、奏と優也が由香理の部屋に入った。
 「じゃあアタシは、念のため、ミルク持って来てみるわ」
 エサで釣る作戦を実践するつもりらしく、マリリンも一旦自分の部屋に戻った。廊下には、由香理と咲夜という、どうにも険悪な組み合わせのみが残された。
 「―――…」
 なんとも言えない空気が、2人の間に漂う。
 由香理は、ツン、とした表情を崩さず、咲夜からわざと顔を背けて、マリリンの部屋の方を睨んでいる。ここまで来ると、もう勘違いとか被害妄想と考えるのは、無理がある。
 「―――前から、訊きたかったんだけど」
 ため息混じりに、咲夜が口を開いた。
 「なんでそう、私に敵意むき出しにするかな。なんかしたっけ? 私」
 「…別に」
 「別に、って割には、いっつも睨んだりツンケンしたりされてるんだけど」
 「…なんでもないわよ。ただ、私はあなたみたいな人、大嫌いなだけ」
 “大嫌い”。
 ほとんど知らない相手から放たれた単語に、さすがの咲夜も、言葉を失う。
 少し気まずそうに咲夜の顔を盗み見た由香理は、唖然としている咲夜の顔を見て、また視線を逸らした。
 「私は自分に才能があるなんてこれっぽっちも思わないし、人と違ったことをして優越感に浸りたいとも思わない。だから、夢とか才能とかを盾に、平凡な人間を見下してる連中が大嫌いなの」
 「…ふーん」
 本当は、色々、反論したかった。
 けれど、咲夜は、面白くなさそうにそう相槌を打った後、ついでのように、一言だけ付け足した。
 「なんか、話聞いてると、見下して優越感に浸ろうとしてるのは、友永さんの方のような気がするけど」
 「―――…」
 由香理の目が、再び、咲夜に向く。その表情が、一気に険しくなっていた。よくわからないが、どうやら、何かまずい部分に触れてしまったらしい。
 「わ…っ、私が、いつ―――…!」
 僅かに頬を紅潮させた由香理が、咲夜に向かってくってかかりそうになった時。

 「うわっ! ゆ、優也! 押さえろ押さえろ押さえろーっ!」
 「わあああああ、ミルクパン、待ってーーっ!!!」

 部屋の中から、奏と優也の叫び声が聞こえて、黒い影が飛び出してきた。
 「きゃああああ!!」
 「えっ、どうなったの?」
 足を掠めたミルクパンに由香理が絶叫するのと、ミルクを持ってきたマリリンがドアを開けたのは、ほぼ同時だった。
 「…あ、」
 やばい。
 と咲夜が思った時には―――ミルクパンは、まっしぐらにマリリンの方へと走って行き、その足元をすり抜けて、マリリンの部屋の中に逃げ込んでいた。

***

 「ミ…ミルクパンちゃーん。ご飯だよー。出てこないかなー?」

 猫とは、恐ろしく体が柔らかい生き物である。
 どうしてそんな狭い所に入れるんだ、と、不思議でしょうがない場所にでも、平気で入って行くし、途中で引っかかることなく出て来られる。見た目は哺乳類だが、特徴は軟体動物だ。
 マリリンのベッドと、壁の隙間。一番手の小さい咲夜ですら、指を突っ込むだけで精一杯なその場所に、何故かミルクパンが入り込んでいた。一番奥の、部屋の角とベッドの角の隙間にいるのだが、上から手を突っ込んで引き上げることもできない狭さだ。
 由香理は、自分の部屋からミルクパンが出て行ってくれれば、後はどうでもいいらしい。即座に窓を閉め、玄関に鍵を掛けて、出かけてしまった。
 結局―――残った4人が、マリリンの部屋で、ミルクパンとの持久戦に突入している。

 「ミルクには、釣られないかなぁ…。ミルク飲ませたばっかりだし」
 責任を一番感じているらしい優也が、諦めることなくミルクパンに話しかけながら、困ったようにため息をついた。
 「そのうち出てくるって。優也もグレープフルーツ食えよ」
 「そうそう。咲夜ちゃんもどうぞ?」
 マリリン宅なら、別にミルクパンが居座ってもノープロブレム、という姿勢の奏とマリリンがそんな風に声をかけるが、優也と、ミルクの入った器を持った咲夜は、なかなかベッド脇から離れようとしない。
 「ねえ、これってもしかして、出て“こない”んじゃなく、出て“こられない”んじゃない? いくら猫でも、ここ、狭すぎるよ」
 「そうかなぁ…。あ、一応頭は動いてる」
 ベッドの上と下で正座して苦悩している2人を放置して、デザートタイムの2人は、全然違う話をしていた。
 「よっぽど猫が嫌いなのねぇ、友永さんて」
 「けど、猫飼っていいか、って住民投票では、OK出したんだろ? そこまで嫌いなら、反対すりゃ良かったのに」
 「アタシが責任持って面倒見る、って部分だけ読んで、あまり考えずに賛成しちゃったのかもしれないわねぇ。よく考えたら、1階だし、色々問題ある、って気づいて、今頃後悔してるのかも」
 「204号室の人は?」
 「ポストにアンケート用紙は入れておいたけど、返事がなかったのよね」
 「謎だなぁ…」
 「木戸さんは、秋田のお宅が犬飼ってるそうだから、動物は全般的に好きみたいだけど……あれだけ猫を毛嫌いする人が1階にいるとなると、ちょっと考えないとまずいかしらねぇ…」

 「「あ!!」」

 咲夜と優也の叫び声が、ハモった。
 グレープフルーツをすくっていた奏とマリリンが驚いて目を向けると、ちょうど、ベッドと壁の隙間をミルクパンがよじ登ってきて、ベッドの上に正座していた優也めがけて突進しかかっているところだった。
 「わあぁ!」
 慌てて抱きとめようとした優也だったが、顔めがけて飛び掛られてしまったのでは、いくら猫好きでもさすがに仰け反ってしまう。あえなくゴロリと転がる優也をよそに、ミルクパンは、今度は咲夜の方に突進してきた。
 咲夜に目がけて、というよりは、咲夜が持っているミルク入りの器目がけて。
 「え…っ、ちょ、ちょっと、待って―――…!」
 焦った咲夜が、器を床に置こうとしたが、遅かった。

 軽やかにジャンプしたミルクパンが、器に衝突した、次の瞬間。
 バシャッ! という音がしそうな勢いで、咲夜は、思い切り、器の中身を被ってしまっていた。

 「ぎゃーっ!」
 器を持っていた位置も、まずかったのかもしれない。咲夜の着ているざっくり編みの白いセーターのお腹の辺りと、ジーンズの太股の辺りが、ものの見事に牛乳浸しになっていた。
 「タ、タオル! タオル!」
 「あっ、こら、待て!」
 また逃げそうになったミルクパンを、奏が取り押さえる。マリリンが急いでタオルを持ってきた時には、ミルクパンはようやく、奏の腕の中で大人しくなっていた。
 「大丈夫? 咲夜ちゃん」
 「ひーえー…、つ、冷たいー」
 タオルでトントンと叩くようにして拭いてはみたものの、短時間で、思いのほか染み込んでしまったらしい。大した効果はなかった。
 「うわ、ジーパンが悲惨ね。セーターの方は?」
 「セーターはよくわかんないけど、中のTシャツが冷たい…。編み目から入り込んじゃったみたい」
 「うーん…、そのまま部屋に帰るのもアレだわねぇ。アタシの服、貸しましょうか」
 「でも、体格が全然違うんだけど…」
 マリリンの頭のてっぺんから爪先までを一瞥して、咲夜が恨めしそうに言う。背丈も肩幅も、まるっきり咲夜とはスケールが違う。
 「だぁいじょうぶよ。ちょうど咲夜ちゃんならワンピースになりそうな、大きめのセーターがあるのよ。部屋まで一時的に着るだけなら、それで十分でしょ」
 「…じゃあ、お借りします」
 遠慮がちに咲夜が言うと、マリリンは早速立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。その間に、やっとベッドの上から這いずるようにして下りた優也は、奏からミルクパンを受け取った。
 「なんで急に暴れたりしたのかなぁ…。日頃は大人しいのに」
 「隣のメイク美人の猫嫌いオーラを感じて、ムカついたんだろ、きっと」
 ミルクパンを渡しながら奏が言うと、優也は、憧れの人を侮辱されたことを抗議するように、拗ねた顔で奏を軽く睨んだ。
 「はい、これ着て」
 「あ、ありがとう」
 マリリンが咲夜に差し出したのは、黒の大きなセーターだった。確かに、これだけ大きいと、咲夜が着たら膝が隠れる位のワンピースになりそうだ。ただし、肩が相当落ち、袖が長すぎて指先まで隠れてしまいそうだが。
 「早く着替えた方がいいわよ」
 「うん、ありがと」
 言われなくとも、セーターの中に着たTシャツが肌に貼り付いて、気持ち悪くて仕方なかった。咲夜は、受け取ったセーターをベッドの端に置き、着ているセーターの裾に手を掛けた。
 と、そこで、はたと気づく。

 「―――…」

 セーターの裾を胸の下辺りまで持ち上げたまま、クルリと後ろを見る。
 するとそこには、ミルクパンを抱いた優也と、ミルクパンの喉の辺りを撫でていたらしい奏が、並んでこちらをぼーっと見ていた。
 「……ちょっと」
 咲夜が低く言うと、魔法が解けたみたいに、2人同時に我に返った。
 「…着替えたいんですけど。何2人して見学してんの?」
 「え…っ」
 「い、いや、別にオレはっ、」
 まだフリーズ気味の優也と、別にやましい気持ちで見てた訳じゃないぞ、と弁解しようとする奏に、慌ててマリリンが割って入った。
 「あ、あらららら、ほんとねぇ。いやだわ、ホホホ、ごめんなさいね咲夜ちゃん。女の子の着替えシーンなんて、滅多に見られないから、つい見惚れちゃったのよねぇ」
 「違げーよっ!」
 「ぼ、僕も違いますからっ!」
 奏と優也が、揃ってぶんぶん首を振るが、着替えるとわかっていて見ていたのだから、何分にも不利すぎる立場だ。はいはいはい、わかってますわかってます、と言いながら、マリリンは2人の肩をポン、と叩いて立たせた。
 「さーさー、男は遠慮させていただきましょ。全員撤退撤退」
 「…咲夜が脱衣所で着替えりゃ済む話なのに…」
 「洗濯物が放り出してあるから、ちょっとお通しできないのよ。さ、文句言わずに行きましょ」
 ぶつぶつ言う奏と、顔を赤らめる優也の背中を押して、マリリンは引き攣った笑顔で咲夜を振り返った。
 「じゃあ咲夜ちゃん、アタシ達、外で待ってるから、着替え終わったら呼んでねー」
 「え?」
 既に靴まで履こうとしているマリリンに、咲夜はセーターから手を放し、キョトンと目を丸くした。
 「なんで? マリリンさんは別に、いていいよ?」

 当然のように放った、一言。
 の、筈だった。

 なのに―――その一言に、咲夜以外の3人が、固まった。

 「……」
 奏と優也も、咲夜を振り返る。驚愕、という顔で。
 そして、マリリン本人も、えっ、という文字をそのまま顔にしたみたいな表情で、唖然として咲夜を見下ろしていた。
 「え?」
 何故3人が、それほど驚くのか、意味がわからない。咲夜は、キョトンとした顔のまま、フリーズ状態の3人の言葉を待った。しかし、声が出ないほど驚いてしまったのか、3人からはなかなか、返事が返ってこなかった。

 咲夜も、3人も、目を丸くしたまま、奇妙な沈黙が流れる。
 「……」
 「…………」
 ―――まさか。
 咲夜の眉が、僅かに、歪む。
 なんだか、嫌な、予感。そう―――この前、観葉植物に名前をつける習慣を、奏に指摘された時と同じような、自分だけがあり得ない勘違いをしていた時のような、胃の奥がぐにゃりと捩れるような、いやーな感じ。
 まさか。
 いや、それはないだろう。
 …でも、もしかして。

 その予感は、2秒後、マリリン本人が口にした言葉で、決定的になった。

 「―――…まさか咲夜ちゃん、アタシのこと、女だと思ってたの?」

***

 「笑うなーっ! 笑うな笑うな笑うなっっ!!!!」
 顔を真っ赤にした咲夜は、元々着ていた白いセーターを、腹も捩れんばかりに笑い転げている奏に向かって投げつけた。
 その隣では、ミルクパンを抱いた優也がテーブルに頭をくっつけて必死に笑いを堪えているし、更にその隣では、マリリンまでもが半ば突っ伏した状態で笑っている。膨れた咲夜は、大きなセーターから覗く膝小僧を隠すように、セーターの裾をぐいっと引き、ぷい、とそっぽを向いた。
 「そ…そりゃ、編集さんは元々騙すつもりで応対してるから騙されるのもわかるけど……驚いたわねぇ。素のアタシと接してて、本物の女だと勘違いする人がいるなんて」
 そう言うマリリンの声は、笑いすぎたせいで、日頃のハスキー・ボイスが更に掠れていた。確かに―――女性の声にしてはアルトすぎるし、いわゆるニューハーフとかおかまと呼ばれる人達の声に近い…ような、気もするが。
 「…そ…そんなこと、言うけどね! お化粧して、髪伸ばしてて、女性用の服着てたら、普通は“女”と認識するでしょうが!」
 「うんうん、そうよね、ごめんごめん。……っくくくく…」
 ―――謝りながら、笑ってるし。
 「それに―――奏だって、一度も教えてくれなかったじゃんっ。一体いつ気づいたのよ」
 「えー、オレ? オレは、初対面の次の時。ベッドが届いたんで、借りてた布団を返しに行った時、もう1回マリリンさんの顔見て、声聞いて、ああ、なんか妙な感じがしたのはそのせいか、って」
 「そんな最初から!? 酷ーい!」
 「酷い、って…、まさか咲夜が気づいてないとは思わなかったんだよ。なぁ、優也」
 笑いが止まらないせいで、肩を震わせながら、奏が優也に目配せする。優也も、笑いすぎて痛くなってきたお腹を押さえながら頷いた。
 「僕も、2度目で気づいた。でも、僕はちゃんと気づいた時点でマリリンさんに確認しましたよ。一宮さんは、確認はしてなかったんでしょう?」
 「まぁ、事情あるんだろうな、と思ってたし―――それに、単なる女装趣味じゃなくホモとかバイだったらヤバイな、と、ちょっとだけ思ってたから」
 「なーんーでーすってー?」
 聞き捨てならん、とマリリンが眉を上げると、奏はしまった、という顔になって、慌てて誤魔化し笑いをした。
 「い…いや、オレ自身、過去に何度か、その筋の人に声かけられた経験があるから…」
 「まあ、それだけ綺麗なら、そんなこともあるでしょうよ。でも、言っておくけど、アタシはノーマルよ。極々普通に女の子が好きなんですからね。男相手なんて、気持ち悪いこと言わないでちょうだいっ」
 普通に女の子が―――…。
 マリリンが女の子相手に恋愛している図を想像してしまい、咲夜は、その映像を大慌てで頭から追い出した。
 ―――どっちが気持ち悪いか、よくわかんないじゃん。
 「でも―――なんで? 普通に女の子が好きなら、なんでそんな格好してんの?」
 やっと気を取り直した咲夜が訊ねると、同じく事情を知らないらしい奏も、興味津々の顔で体を起こした。
 「そう言えばマリリンさん、表札も“海原真理”だよな。ペンネームだとしたら、本名はどうなってるんだ?」
 「…まあ、待ちなさい。順を追って説明するから」
 コホン、と咳払いしたマリリンは、随分前に淹れて冷め切ってしまっていたお茶を、一口、口に運んだ。

 「まあ―――元々、ヒョロッとした痩せ型で、目もパッチリしてるし、髭も薄いし、お世辞にも男らしいタイプではなかったのよね。子供の頃にも、女の子の服を親が着せちゃったりしたし、学生時代は、外見が理由で苛められたりもしたし…。あ、でも、大学では逆にかなりモテたのよ? 薄幸の美形の文学青年、てな路線で人気があったんだから」
 「……はあ……」
 自己主張しまくりな現在のマリリンでは、「薄幸の美形の文学青年」ぶりがどうにも想像し難いが、なんとなく、わからないでもない。
 「とにかく、アタシは常にノーマルだったし、フツーに女の子と恋愛してたの。そっちの気はゼロよ。ただ、親に女ものの服を着せられた頃の影響か、女ものの服には、そこそこ興味があったの。でも、さすがに着ようとまでは思わなかったのよ。それが―――着る羽目になっちゃって」
 「着る羽目?」
 「さっきの一宮さんの質問だけど。アタシの本名、表札のとおりなのよね」
 さすがに、奏も咲夜も、目を丸くした。
 「“海原真理”?」
 「そう。ただし、読み方は“うみはらまり”じゃなく、“うみはらまさみち”」
 まさみち。
 確かに―――そう、読めなくもない。思わぬ種明かしに、2人は思わず同時に「へーえ」と感心したような声を上げた。
 「でね。まだ素人だった時代に、久々に書いた長編小説を、とある出版社のコンテストに出したら、それが大賞を取って、本誌に掲載されることになった訳。ところが、その受賞を知らせる電話が、大笑い―――“夜分失礼いたします、うみはらまりさん、いらっしゃいますか”ときたわよ」
 「……」
 「応募フォーマットに、性別欄もなかったし、フリガナも振ってなかったのよね」
 つまり、応募原稿に書かれた名前を、編集部は“うみはらまり”と読んだのだ。
 「言い出しにくくなったのね、男だとは。電話だと男女の区別がつき難かったらしくて、先方はすっかり女だと決めてかかっちゃってるし。その時はまさか本当にプロになるとは思ってなかったから、どうせ今回限りのことだから、と思って、面白半分で女装して打ち合わせに行ったら、編集さん、コロッと騙されちゃって」
 「……」
 「しかも、本誌掲載になった受賞作が、結構評判良くて、見出しには“新進気鋭女流恋愛小説家”なんて書かれちゃって―――あれよあれよと、“女流作家”の道へ」
 「…それで、ずーっと、女装のまんま?」
 「やってみたら、嵌っちゃってね。ハハハ」
 「―――…」
 女装マニアになったきっかけが、名前の誤読とは。あまりの展開に、2人は、がくっと肩を落とした。

 「…そうかぁ…。はー…、でも、良かった」
 疲れ果てたように髪を掻き上げつつ顔を上げた咲夜は、ずっと黙っていた優也の方を、チラリと見た。
 「あんまりマリリンさんが優也君の面倒を甲斐甲斐しく見てるから、もしかしてジャニーズに入れ込んじゃうおねーさんと同類で、マリリンさんも優也狙いなのかな、とか、ちょっと思ってたんだ」
 「じょ…っ、じょーだんでしょう!?」
 とんでもない咲夜の想像に、マリリン本人より、優也が素っ頓狂な声を上げた。当のマリリンと奏は、ウケてしまったらしく、また吹き出して盛大に笑った。
 「やだわぁ、そんなこと考えてたの。優也は何ていうか、息子っていうか、弟っていうか、そういう感じで放っておけないのよ。もしアタシが女でも、ここまで年下には興味ないわよ。アハハハハ」
 「…ごめん」
 ―――で、結局、マリリンさんていくつなの?
 という疑問が、実は初めて会った時からずーっとあるのだが―――男なのに、編集者や咲夜が女と信じて疑わない位に化けきっているのだ。実年齢は、聞かない方が身のためかもしれない。


 改めてお茶を淹れ直し、みんなで大人しくなったミルクパンなどを構っていたら、30分ばかり経ってしまった。
 まだ暫くいる、という優也と奏を残し、咲夜だけ先に部屋に戻ることにした。
 「じゃあ、お邪魔しました」
 着替えた服の入った紙袋を抱きかかえ、咲夜が軽く頭を下げると、マリリンは、ニッコリ笑みを返しながらも、ふと心配そうな表情になり、小声で咲夜に訊ねた。
 「あの―――咲夜ちゃん。アタシの趣味がこんな風でも、引いたりしないかな?」
 「えっ」
 どうだろう? 確かに最初は、もの凄く驚いたけれど―――それは、マリリンの趣味が少々アブノーマルだから、というより、女と信じていた人が男だったから、である。女装趣味自体をどう思うか、と言われると…正直、微妙だ。でも、女装趣味の奴とは口もききたくない、というほどの拒絶感はない。
 「えーと…、結構、平気な方かも」
 「あら、ホント?」
 「叔父の知り合いでも、服装も性的嗜好もノーマルなのに何故かおネエ言葉の男の人とかいるし。男の格好でおネエ言葉よりは、マリリンさんの方が違和感なくて平気かかもしれない。実際、服もメイクも似合ってるし」
 「良かったぁ。アリガト」
 「…でも、心配」
 じっ、とマリリンを見据えて咲夜が呟いた言葉に、マリリンは、え? と目を丸くした。
 「何が?」
 「正直に言わせてもらえばさ。いくらマリリンさんが女の子を好きでも、その風貌じゃ、そういうつもりで寄って来る女の子、いないと思うよ? 女友達として寄って来た子に、マリリンさんがそのまんまで告白とかしたら、思いっきり引かれそう。好きな子出来たら、辛くても止めた方がいいよ、その格好もメイクも」
 「あらら…、結構鋭いとこ、ついてくるわねぇ」
 苦笑したマリリンは、ちょいちょい、と指を動かして、咲夜に「耳貸して」と合図した。
 「?」
 不思議に思いつつ、耳を傾ける。するとマリリンは、思いがけない一言を囁いた。
 「―――心配ご無用。アタシにはちゃーんと、お相手がいるから」
 「……」

 お相手がいる―――…。
 ってことは、つまり、マリリンは彼氏、じゃない、彼女持ち?

 目が点になっている咲夜に、フフフ、と笑ったマリリンは、
 「じゃあ、またね」
 と言って、ドアを閉めた。
 廊下に一人、取り残された咲夜は、閉まったドアを呆然と見つめ、暫く動けなかった。

 あのマリリンと、付き合ってる女の子が、この世にいる。

 「―――…チャレンジャーだなー…」

 呟いた咲夜は、ノロノロと2階へ上がりながら、人ってわからないもんだな、と首を傾げた。


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