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― 苦手な人種 ―

 

 「いらっしゃいませ」
 自動ドアを抜けた先、微笑を湛えて客を出迎えるスタッフを見て、由香理は一瞬、(たち)の悪い冗談か何かかと思った。

 白いシャツに黒のボトムという、この店の制服らしきシンプルな服装。けれど、この男が着ると、何か特別な服なんじゃないか、と思いたくなるほどに決まって見える。数日前見かけた、休日仕様の洗いざらしの部屋着ですら、最新ストリート・ファッションかと思うほどに様になっていたのだから。
 こいつはあの日、由香理が大嫌いな女と、楽しげにケラケラ笑っていた筈だ。なのに今は、この美形があんなバカ笑いなどする筈がない、と思わせるほど、異様にカッコよさげに見える。接客用の顔なのだろうか。絶対詐欺だ。

 なんで、こいつが、ここに。
 唖然としたまま、目の前の男を見上げる。
 その表情の変化に、彼も、アフター5の時間帯に現れた客の正体に気づいたらしい。美しい微笑が、あっという間にその顔から消え去った。
 「…この時間は、ご予約のお客様しか承っておりませんが」
 ぶっきらぼうに言われ、我に返った由香理は、慌てて胸を反らした。
 「よ…予約なら、したわよ。6時半から」
 「…少々お待ちください」
 “一宮”という名札をつけたスタッフは、そう言って、カウンターの内側を覗き込んだ。
 多分、予約表を確認したのだろう。由香理に背を向けたまま、ため息をつくのがわかる。再びクルリと振り向いた時、彼の顔は、営業用の完璧な笑顔に戻っていた。
 「失礼しました、友永様。お席にご案内します」

***

 ファッション雑誌で、偶然見かけた“Studio K.K.”の記事。
 黒川賢治は、OLの間でも有名なスタイリスト兼メイクアップアーティストだ。国内でも海外でも成功している数少ない例だとも聞く。その黒川がプロデュースする「メイク専門店」と聞けば、興味が湧くのは当然のことだろう。
 今夜の飲み会には、以前から気になっていた1期上の先輩社員が参加する。普段、まるで接触のない部の人なので、今日は貴重なチャンスだ。いい機会なので、噂のメイクアップスタジオのお世話になってみよう、と由香理は思った。
 で、予約して、行ってみたところが―――これだ。


 「担当の者が間もなく参りますので、少々お待ち下さい」
 「…気持ち悪いから、やめてくれない? その笑顔と喋り方」
 鏡越しに由香理が睨むと、奏は、営業用スマイルのまま、いかにも嘘っぽく言った。
 「お客様に失礼なことはできませんので」
 「素に戻ってた時に十分過ぎるほど失礼な扱いを受けたから、今更だって言うのよっ」
 「何のことでしょう?」
 「日曜日のことよっ! そんなことも覚えていられないほど、頭の容量小さいの!?」
 「お客様」
 営業スマイルが消える。
 奏は、少し腰を屈めて、声を落とした。
 「―――声、デカすぎ」
 「……っ」
 「他の客の迷惑になるって。公私混同して、店に迷惑かける気で来たんなら、追い出させてもらうぞ」
 超迷惑、という顔で睨まれ、さすがに由香理も反論の言葉を呑み込んだ。
 「…そんな訳、ないじゃない。あんたがここに勤めてることなんて、全然知らなかったわよ」
 「…なら、いいけど」
 「公私混同して悪かったわよ。…だから、フツーに喋って」
 どうしても怖気が走って仕方ないのだ。本気で身震いする由香理を見て、奏も、しょうがないなぁ、という顔でため息をついた。
 「ま、お客様のご要望なら」
 「そうして。…でも、イメージじゃないから、驚いた。あんたがメイクアップアーティストだなんて」
 「まだ卵だけどな」
 そう言って奏は、傍らに置いたワゴンからビニール製のケープを取り出し、由香理にかけた。服が汚れないためにこういう物をかけるのは、美容院と同じらしい。
 「卵ってことは、見習い?」
 「そう」
 「…あんたって、いくつ?」
 「26」
 「26で、まだ見習い!? 呆れた…、将来設計なんて全然考えてないのね」
 「大きなお世話だよ」
 ムッ、と眉を顰めた奏は、奏を仰ぎ見ていた由香理の頭を軽く押し、鏡の方に顔を向け直させた。
 「そんな訳で、メイクは先輩がやるから、オレは下準備担当。…これからメイク落とすから、顔、動かさないで」
 「えっ!」
 冗談でしょ!?
 と思ったが、冗談ではなかった。由香理の前髪や耳元の髪をヘアクリップであっという間に留めると、早くも奏は、クレンジングクリームを手に取っていた。
 「や、やめてよ。メイクを落とすなんて…!」
 「はぁ? あんた、何しに来たの? 今やってる化粧を取らなきゃ、メイクなんてやれる訳ないだろ」
 「あんたにすっぴんの顔なんて見せたくないってことよっ」
 「はいはいはい。102号室の友永さんの素顔がETでもヒラメでも、誰にも言ったりしませんからご安心を」
 「誰がETよ!」
 「お客様」
 鏡越しに、奏の営業スマイルが復活する。
 ただし、目は、全然笑っていない。ブッコロス、という目で睨まれ、鏡の中の由香理の顔が一瞬にして強張った。
 「メイクを落とさせていただきます」
 「……お願いします」
 もう、どうでもよくなってきた。諦めた由香理が目を閉じると、クレンジングクリームの冷たい感触が頬に乗せられた。
 エステなどにも精力的に通っている由香理なので、人に顔を弄られること自体には慣れている。顔中をクルクルとマッサージされるのも、初心者からするとかなり微妙な感触らしいが、由香理にとってはいつものことだ。エステサロンのお姉さんと比較しつつ、なかなか上手いじゃないの、と、上階の住人を心の中で批評していたら、ちょっと気持ちが落ち着いてきた。
 「―――それで、今日は、どういう感じにする予定?」
 頭上からの問いかけに、由香理は、目を閉じたまま眉を顰めた。
 「あんたは下準備係なんでしょ。なんでそんな話しなきゃいけないの」
 「担当にイメージを伝えるのも、ヘルプの仕事なんだよ」
 「ふぅん…。どういう感じ、って言われても、よくわかんないわよ。より美人で、より可愛くなれれば、それでいいんじゃないの?」
 「目的とかあるだろ。フォーマルなパーティーと友達同士の飲み会じゃ、メイクも変わるんだぞ。お見合い用とナンパ男を引っ掛けるためじゃ、180度違うメイクになるし」
 エステサロンも、行き着けのブティックも、店員は全員女だった。男からメイクや服装の薀蓄(うんちく)を聞かされると、なんとも妙な気分になる。
 「…社内の飲み会よ。日頃接点のない“本命”の先輩社員が参加するから、この機会に印象付けとかないと」
 「ふーん…。となると、いい男引っ掛けて遊びたい、ってよりは、本命狙いか」
 「そうよ。だから、お手軽に遊べる軽い女に見えたら嫌だし、キツそうな女に見えるのもダメ。そうねぇ―――家庭的で、温かくて、優しくて、そういう男がグラッとくるタイプがいいわねぇ…」
 「…よほど猫被らないと無理だな。大変だなぁ、猫嫌いなのに」
 ―――嫌味な奴…。
 こちらからも嫌味の一つも返してやろうかと思ったら、蒸しタオルで顔を覆われた。口にしかけた言葉は、タオルに遮られて「むぐぐぐぐ」という意味のない呻き声になった。
 「熱くないですかー?」
 「んぐぐぐぐ」
 大丈夫、という言葉も、正しい発音にはならなかった。微かに頷いたので、それでわかったのだろう。クレンジングクリームが、蒸しタオルで丁寧に拭い去られていく。
 実は由香理は、この蒸しタオルが大好きである。家でも寝る前に必ずやっているほどに。
 ―――あー、極楽ー…。
 …いやいやいや。まずい。まだこれからが本番なのに、こんな時間からリラックスタイムしててどーするのよ。真田さんをゲットするためには、気合入れないとっ。
 と思い直して眉を上げようとするのだが、いまいち上手くいかない。結果―――メイクが完全に落ちたすっぴんの上に、この上なくぼーっとしている状態の顔を、気に食わない相手の目の前に晒す羽目になった。
 「はい、お疲れ様でした」
 「……」
 はっきり言って、死にたい。
 我ながら、なんて特徴のない、面白くない顔―――マスカラまで取れてしまっているから、目なんて普段よりふた回り位小さく見えるし、眉は短い上に薄いし、鼻は低いし、額が広すぎだし。
 鏡の中の男が、やたら綺麗な顔をしているから余計、こいつにこんなノッペラボウな顔を晒すなんて、という気持ちで落ち込んでくる。思わず恨みがましい目で由香理が睨むと、奏は、何? という顔をした。
 「…色々、言いたいことあるんだろうけど、言わないでよね」
 「は?」
 「落ち込むから」
 キョトン、と目を丸くした奏は、1秒後、可笑しそうに笑った。
 「ハハハ、毎日毎日、何十人て人間の素顔を見てんのに、思うことも言いたいこともないって」
 「……」
 「ていうか―――こっちの方が、いいんじゃない?」
 「え?」
 予想外のことを言われて、今度は由香理の方がキョトンとした顔になった。何か裏のある嫌味かと思ったが、鏡の中で屈託なく笑っている奏の顔は、この前、咲夜とケラケラ笑っていた時みたいな、ガキっぽい、裏のない笑い方だった。
 「あんたが日頃やってるメイク、教科書的には正しいし、素顔より美人にはなってるけど、性格悪そうだよ。本命狙うなら、アレはタブー。あんなメイクする位なら、こっちの方がいいんじゃない。素朴で」
 「…素朴…」
 微妙な表現だ。褒めてるとも取れるし、田舎っぽい、と言われてる気もするし。
 「そのまますっぴんで行ったら、飲み会」
 「冗談でしょっ。死んでもイヤ」
 「冗談だよ。ま…、氷室さんならイメージ通りのメイクしてくれるから」
 どうやら“氷室”というのが、由香理の担当らしい。まだ肩で少し笑いながらそう言った奏は、ふいに優しい笑顔に変わり、思わぬことを付け加えた。
 「でも―――本命なら、外見で釣ろうとしない方が、いいと思うけど」
 「……えっ」
 「遊びや軽い恋愛なら、それでいいだろうけどさ。本当に好きな相手なら、中身で好きになってもらわないと、意味ないし」
 「―――…」
 「一宮」
 その時、奏の肩を、同じような服装の男性がポン、と叩いた。
 どうやら、担当の“氷室”らしい。奏は、少し安堵した笑みを見せると、彼の耳元でなにやら説明をし、「お願いします」と彼に言って、席を離れた。

 「本日はありがとうございます」
 奏と交代した氷室は、奏と同じ位の年頃の、ノホホンとしたムードの男性だった。多分、癒し系っていうタイプだろう。
 「一宮と、お知り合いですか?」
 「え…っ」
 どうやら、様子を見られていたらしい。気まずさに、由香理の笑顔が引きつる。
 「ええ、一応。…まさかこういう仕事で、しかもまだ見習いだとは思わなかったんで、驚きましたけど」
 「ああ―――あいつは、今はまだ、こっちが本業じゃないんで」
 「え?」
 「一宮の本業は、モデルですよ」
 モデル―――…。
 なるほど。それは、もの凄く、奏らしい仕事だ。どのみち不安定な職業ね、と、由香理は心の中で斬って捨てた。
 「ところで、女らしい優しげな、男性がホッとできそうなメイク、と承りましたが、それでよろしいですか」
 「ええ。それでいいです」
 「では、お好みの色の系統だけ、先に確認させていただきますね」
 そう言って彼は、大量のアイシャドウや口紅がセットされたケースを、ガタガタと目の前に並べ始めた。その様子を無言で眺めながら、由香理の頭の中には、さっき奏に言われた言葉ばかりがぐるぐる回っていた。

 ―――中身で好きになってもらわないと……。
 …知った風なことを言う。あれだけ容姿に恵まれておきながら、よくあんなセリフが吐けるものだ。きっと彼は、恋愛で苦労したことなど、ほとんどないだろう。それに、あの素直な笑い方や率直な物言いを見ていても、多分、人に嫌われた経験など皆無に近いのだと推測できる。
 性格のいい奴に「人間は中身だよ」と言われても嫌味だし、美人から「女はルックスよね」と言われたらもっと嫌味だ。奏が言うと、そのどちらもが嫌味に聞こえる。

 チラリと目を上げ、鏡で確認すると、奏はもう他の客の対応に回っていて、にこやかに何かを話しかけていた。
 立ちっ放しの重労働。しかも、まだ見習い。けれど―――その様子は、楽しそうだった。
 華やかな本業を持っているのに、こんな裏方とも言える仕事、彼らしくないのに……先輩の手元をじっと見る目も、ありがとう、と言う客に、是非またどうぞ、と応える笑顔も、楽しそうだった。

 ―――苦手だ。ああいう人って。
 悔しさと妬ましさの入り混じったような不快感に、由香理は僅かに、唇を噛んだ。

***

 「えー? 友永さん、なんか今日、ちょっと雰囲気違ってない?」
 「ほんとだ。なんか女っぽいじゃない」

 氷室に施してもらったメイクは、概ね好評だった。
 淡いピンクを主体とした、普段の由香理よりずっとずっとナチュラルなメイク。目の大きさだけは譲れないのでしっかりマスカラとアイライナーで誤魔化してもらったが、それ以外は、由香理自身が「ほんとにこんなんでいいの?」と不安になるほど、薄化粧に見えた。
 と言っても、実際に薄化粧な訳ではない。普段由香理が3工程位で終えることも、5工程位手間をかけてやっていた。あれほど色々なものを塗ったり叩いたりしたのに、何故こんなに薄化粧に見えるのだろう? 本当に不思議だ。
 やっぱり、プロは違うな―――認めざるを得ない。わざわざ青山まで出向いた上に、たった一晩の命のメイクとしては随分高い技術料かもしれないが、今後の参考にもなるし、悪くない経験だったかもしれない。

 由香理の本日のターゲットである真田は、かなり難しい相手である。
 同じ会社であっても、彼が働いているのは由香理の働くフロアの4階上。しかも外回りが多く、社員食堂も使わないので、社内で顔を合わせることはほぼない。しかも、その噂をチラホラ聞く位、人気は高い。1期上では、抜群の将来性とルックスだろう。
 他の部が彼の部と飲み会を開いた、なんて話を聞くたび、密かにヤキモキしていた。そして、やっとこういう機会が巡ってきた―――今日は、もう二度とあるかどうかわからない、絶対失敗できないチャンスなのだ。
 そういうチャンスに、幸運にも由香理は、真田の隣の席に座ることができた。
 ―――な…なんか、神様が後押ししてくれてるかも。
 無意識のうちに口元が緩みそうになるのを、なんとか堪える。あちこちから真田狙いの女性陣の視線を感じるが、そんなものに怯むほど、由香理の中身は素朴ではない。

 「やっぱり、営業って大変なんでしょうね…。総務の私ではわからない苦労とか、色々ありそう」
 他の男性社員と仕事の愚痴を零していた真田に、ビールを注ぎながら、さり気なくそう言う。
 勿論、計算の上での言葉だ。男性は自分の仕事を「凄いですね、大変な仕事なんですね」と言ってくれる女性を好む。「何言ってんのよその位。あたしの仕事の方が大変よ」なんて言う女性は苦手だし、言うだけじゃなく本当に自分より大きな仕事を手がけている女性なんて、この世に存在して欲しくない、というのが本音な男が大半なのだ。
 案の定、真田もこのセオリー通りだったらしい。酔いが回って少し赤くなった顔に、照れたような笑みを浮かべた。
 「いや、まあねぇ。毎日毎日、嫌なことだらけだよ、仕事なんてさ。上司はガミガミ言うし、客は無茶を言うし―――成績、成績って追い立てられるしね。ほんと、やってらんないと思うよ」
 「大変なんですねぇ…」
 ―――私だって、やってらんないと思ってるわよ、毎日。
 それが本音だが、決して口では言わない。第一、由香理は、自分の仕事が人に話しても面白くない仕事であることを、誰よりもよく理解している。それに比べれば、営業は会社の花形だ。
 「営業の人達がそうやって頑張ってるから、うちの会社も倒産せずになんとか踏みとどまってるんですし、私みたいな下っ端もその恩恵にあやかってるようなもんだけど―――こうやってお酌する位しかお礼が出来なくて、スミマセン」
 「ハハハ、そんな。総務だって大変な仕事だよ。っていうか、仕事なんて、どこもみんな大変で、やってらんねー、って感じのもんばっかだよな」
 「うーん…そうかな」
 「ま、仕事は、食ってくための手段だから。要領よくこなして、あんまりのめり込み過ぎないようにしないと。趣味が仕事、なんて男、カッコ悪いだろ?」
 それには、由香理も同意だ。出世する男は好きだが、仕事以外能のない男なんて、魅力ゼロだと思う。そうですね、という意味を込めて、由香理はニッコリと微笑んだ。
 がしかし、その話題が、思わぬ方向に転がった。
 「ところで、友永さんは、趣味とかあるの」
 「えっ」
 趣味?
 真田の問いに、由香理は、言葉に詰まった。
 ―――ど…どうしよう。特にこれと言って、ないんだけど。
 話の流れ的には、会社を往復してるだけの女も、仕事が趣味な男と同じで、面白くも魅力的でもない、という風になりそうなのに―――何も、思い浮かばない。由香理は無趣味なのだ。
 適当にでっち上げようにも、真田のことは、何も知らない。無難な読書を挙げて、もし真田がアウトドア派だったら? 運動神経悪いのに、テニスです、なんて答えて、もし本当に誘われたりしたら……最悪な展開になってしまう。
 引きつった笑顔を顔に貼り付かせたまま、由香理がもの凄い勢いで考えをめぐらせていると、ふいに、他の男性社員がからかうように茶々を入れて来た。
 「おいおい、真田ぁ。友永さんに接近しすぎだぞ」
 酔っ払っているのか、少々呂律(ろれつ)の回らなくなっているその言葉に、余計な事言いやがって、と由香理の眉がピクリと動く。当の真田は、苦笑しながら、その同僚が回してきた腕を払いのけた。
 「ばーか、そんなんじゃないよ」
 「そうかぁ? いいか、お前は客寄せパンダなんだから、その辺わきまえろよー?」
 客寄せパンダ?
 その意味が一瞬わからず、由香理がキョトンとしていると、真田の同僚の口から、衝撃の事実が飛び出した。
 「あんまり他の女の子にちょっかい出してるようだったら、彼女に報告しちゃうからなー」

 彼女!?
 彼女、って―――誰の!? 真田さんの!?

 唖然、とする由香理の目の前で、真田は、慌てた様子で同僚のその男性社員の頭を叩いた。
 「バ、バカ! こんな場で、そんな興ざめな話するなよっ」
 「ええーっ! 真田さん、彼女いるんですか!?」
 「嘘ぉっ! あの噂って本当だったの!? ほら、秘書課の1つ上の……」
 「信じらんない、ショックーっ!」
 他の女性社員も知らなかった、もしくは、噂程度しか聞いたことがなかったらしい。あちこちから悲鳴が上がる。勿論―――由香理だって、知らなかった。噂すらも。
 「ハ、ハハハハ、まあ、いるにはいるけどね。相手は秘密だけど。でもまあ、おれも相手も、自由主義だから。コンパ位、たまにはいいんじゃない?」
 真田は、焦った様子で、乾いた笑い声を上げた。
 彼女がいてもこういう遊びはオッケー、という真田の言葉に、他の女性陣はホッとし、それで話は終わってしまった。けれど―――由香理は、ショック状態から、なかなか立ち直れなかった。

 ―――そうよ。ショックよ。
 久々に気合入れまくって、あんな恥ずかしい思いまでして勝負メイクを決めて……全部全部、真田さんのためだったのにっ。ひどーい! 彼女いるならいるって、最初に宣言してよーっ!

 …ん? でも、ちょっと待って。
 彼女がいてもコンパ出たり遊び歩いたりしてる、しかもそれが相手も同じ、ってことだと―――真田さんと彼女って、案外、すぐ別れちゃうパターンなんじゃない?
 …うん。なんか、そんな気がしてきた。

 遊び慣れた同士のカップルなんて、壊れるとなったらあっという間だ。
 いつ別れてもいいよう、とりあえず、印象付けだけは、しておかないと―――そう考えを切り替えた由香理は、やっといつもの調子を取り戻し、ホステスよろしく笑顔でお酌を再開した。

***

 深夜、アパートに帰り着いた由香理は、パンプスを脱ぎ捨て、もつれるようにベッドに倒れこんだ。
 ―――あーあ…、疲れた疲れた。
 でも、なかなか、実りある飲み会だったような気がする。真田以外の男性からも「友永さんて、案外癒し系なんだね」なんて言われたし……日頃の由香理を知っている社員だから、きっとメイクが功を奏しているのだろう。真田は彼女もちでがっかりだったが、あの人も悪くはない。キープとして、頭の片隅に入れておいても損はないかも…。
 うーん、でも、やっぱり本命は真田さんだなぁ。
 そう改めて考えた時―――唐突に、奏のあの言葉が、耳の奥に蘇った。

 『遊びや軽い恋愛なら、それでいいだろうけどさ。本当に好きな相手なら、中身で好きになってもらわないと、意味ないし』

 …本当に、好きな相手なら―――…。

 「…そうよ。好き、なのよ」
 好きに、決まってるじゃないの。真田さんが本命なんだから。

 自分自身に確認するように、そう呟く。
 けれど―――由香理は、真田のことを、何も知らなかった。
 何が好きか、日頃どんな生活をしているか、趣味も、癖も、長所も短所も―――彼女がいることすら、知らなかった。知っていたのは、生年月日と血液型と、乗っている車の種類。うちの花形部署でピカイチのエリート社員で、超有名大学出身で、かなりレベルの高い外見で、そして、凄く、モテること―――それだけ。アイドル芸能人のプロフィール欄より少ない。
 何故、真田を好きになったのだろう?
 話したことなど数度しかないし、その数度の会話から、彼の人となりなんて、まるっきり感じ取れなかった。なのに…何故、彼がいい、と思ったのだろう?

 …本当は、理由は、わかっている。
 由香理は、その、僅かにわかっている「彼のプロフィール」が好きなのだ。
 由香理が思い描いたとおりの、理想の男性像―――そこに、性格や趣味なんて要素は、一切含まれていない。だから、彼の人となりなんて知らなくても、恋ができる。エリートで、ハンサムで、お金に余裕があって、高級外車を持っている―――その肩書きに恋ができてしまう。

 「…それの、何がいけないのよ」
 そう呟きながらも、奏のことを思い出すと、なんとも言えない気分に襲われる。
 あの金や権力にあまり執着のなさそうな男は、由香理が言う“本命”を、こんな意味合いとは捉えていなかっただろう。好きで、好きで、堪らない人―――そう思って、あんな、由香理を応援するような笑顔を見せたのに違いない。
 …なんだか、後ろめたい。
 もし、真田より条件のいい男が現れたら、真田なんてどうでも良くなるんだろう―――そういう自分が想像がつくから、少し、後ろめたくなる。その後ろめたさに、由香理は苛立ったように拳でベッドをドン、と叩いた。

 少し飲みすぎたのか、喉がやたら渇いた。ムクリ、と起き上がった由香理は、ふらつく足でキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
 グラスに水を注ぎ、一気に飲んだら、少し落ち着いた。はー…、と息を吐き出して、更にもうグラス半分だけ水を注ぐ。そこで初めて、点滅している留守電ランプに気づいた。
 どうせ、郷里の母からだろう。由香理の部屋の留守番電話は、その大半が母からの電話だ。うんざりした気分になりながらも、由香理は留守電ボタンを押した。
 『メッセージは、1件です』
 グラスを再び手に取りながら、再生ボタンを押す。スピーカーから流れてきたのは、案の定、母の声だった。

 『由香理。お母さんです。この時間でもまだ帰ってないの? 最近は物騒なんだから、ちょっとは考えなさいよ?』

 ―――はいはい、わかってます。
 多分、10時か11時の電話だろう。田舎じゃもう寝る時間だろうが、都会じゃまだまだ「夜はこれから」だ。うるさいな、と思いながらも、いつものセリフなので、流しておいた。

 『ところで、詩織ちゃんのことなんだけど、』

 「……っ」
 グラスを持つ手が、中途半端な位置で止まった。
 一瞬にして、動揺に、瞳がグラつく。由香理は、耳だけが全てになってしまったみたいに耳をすまし、スピーカーからの声に意識を集中した。

 『来月、帰ってくるんだってよ。詩織ちゃんのお母さんから聞いたけど、由香理に会うのを楽しみにしてる、って。忙しいだろうけど、一度帰ってきたらどうなの? あの子も、今後のことで、あんたに相談とかしたいだろうし―――たった1人の親友でしょ。昔はあんなに、』

 バンッ!!

 耐え切れず、停止ボタンを、叩くようにして押した。
 心臓が―――ドキドキ、ドキドキ、早鐘を打つ。肩で息をした由香理は、きつく唇を噛んだ。


 ―――親友…?
 詩織が、私の、親友?

 「…詩織が親友だったことなんて、一度もないわよ…」
 呟いた由香理は、留守番電話の録音を消去した。


 咲夜にしろ、奏にしろ、詩織にしろ。
 由香理にとっては、苦手な人達―――自分とは違う世界に生きている、大嫌いな人種だった。


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