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― long long way ―

 

 お姉ちゃん、という声に顔を上げると、2ヶ月ぶりに見る妹と弟が、こちらに走ってくる姿が見えた。
 咲夜が手を振ると、まだ無邪気な妹の芽衣だけが、ぶんぶんと手を振り返した。そろそろ難しい年頃らしい亘の方は、微かに笑みを見せただけで、さすがに手を振るような子供っぽい仕草はしなかった。
 「遅れてごめんねー」
 芽衣が、肩で息をしながら手を合わせた。いいよ、と笑った咲夜は、亘の方を見て、その頭のてっぺんから爪先までをまじまじと見つめた。
 「うわー…、亘が詰襟着てる」
 「…なんだよ、それっ」
 「だって、学校に見に行って以来だもん、亘の学生服姿。あの時は夏だったしさ。詰襟って、なんか新鮮ー…。亘じゃないみたい」
 「見るなよっ、なんか照れるだろっ」
 物珍しそうに見る姉の視線に、亘は怒ったように顔を赤らめながら、学生鞄で咲夜の脚を軽く叩いた。
 「それより姉ちゃん、会社は?」
 「ん、午後から半休取った」
 「えぇ? いいの? あたしのためにお休みなんて取って。会社をクビになったりしない?」
 心配げな顔をする芽衣の頭をくしゃくしゃと撫でると、咲夜はニッと笑い、ウィンクしてみせた。
 「日頃、真面目に働いてるから、こーゆー時にちゃんと休みが取れるんだよ。…さ、行こ」

***

 呼び鈴を鳴らすと、暫くして、ドアが開いた。
 「おー。久しぶり。よく来たな」
 「わーい、おじさんだー」
 さっそく芽衣が、ランドセルを背負ったまま、拓海に飛びついた。
 成長分、プラス、ランドセル。いくらなんでも、拓海に耐えられる負荷ではなかった。ととと、と後ずさりした拓海は、芽衣の重さに負けて、玄関先にしりもちをつく羽目になった。
 「…っ、め、芽衣ちゃん……1年でデカくなったなぁ…」
 「叔父さん、こんにちは」
 芽衣の暴走を苦笑して見ていた亘が、ぺこりと頭を下げる。芽衣を立ち上がらせていた拓海は、その姿を見て、一瞬ぽかんとした顔をした。
 「―――わ…たる?」
 「うん」
 「…なんか、急に成長したなぁ。昔は、飛びついてきたのは亘の方だったのに」
 「いつの話だよ、それっ」
 膨れた亘の顔を見て、ああ、大きくなったのは体だけか、と拓海は苦笑した。最後に、2人の後ろにいた咲夜に笑いかけた拓海は、
 「まあ、入れよ」
 と3人を促した。


 兄弟、姉妹、叔父、姪、甥。4人揃うのは、去年の正月以来のことだった。
 芽衣も亘も、拓海を「ピアノの叔父さん」と慕っている。実家にある安物のアップライトピアノで、ジャズに限らずいろんな曲を弾いてくれるし、外国の面白い話もしてくれる。2人にとって拓海は、そういう「楽しい叔父さん」なのだ。
 咲夜の父との仲が思わしくないため、如月家に顔を出すのは年に1、2回だが、2人が「ピアノの叔父さん」を忘れることはなかった。まあ、多分…そういうことも、父が拓海を煙たがる原因なのかもしれないが。


 「うわぁ、拓海おじさんのピアノ、すごーい! グランドピアノだ!」
 ピアノを習っている芽衣が、そう言ってピアノに飛びついた。亘の方は音楽はからっきしだが、それでも興味はあるらしく、芽衣の背後からまじまじとピアノを眺めていた。
 「すげー…、古いなぁ、このピアノ。いつ頃作られたんだろう」
 「昭和30年代後半、って聞いたから、ええと―――40年位か。俺が知り合いから譲ってもらった時点で、結構使い込まれてたからなぁ…」
 「叔父さんの知り合いが使ってたの?」
 「いや。俺の知り合いの楽器屋が、結構腕のいい調律師が使ってたピアノを引き取って、店で売ろうとしてたんだ」
 当時を懐かしむように目を細めた拓海は、鍵盤の上のフェルトを取り払い、ポーン、と鍵盤を叩いた。
 「まだ倉庫に保管されてたこいつを偶然見つけて、試しに短い曲を1曲弾いてみたら―――なんかこう、全身に震えがきてね。多分、オーナーだった調律師と俺のフィーリングが合ってたんだろうな。まだ値段もついてなかったけど、頼み込んで譲ってもらったんだ」
 「へえぇ…」
 「紅茶、もうできるよー。早く座って!」
 咲夜が声をかけると、ピアノに群がっていた3人が、一斉にテーブルに移動した。
 芽衣と亘には苺のショートケーキ。咲夜はスフレチーズケーキ。そして拓海の分は苦めのブラウニー。4人分のケーキと紅茶が並んだテーブルを囲み、4人は、平日の午後のティータイムを楽しんだ。


 「でも、おじさんとこに、こーんな素敵なピアノがあるなら、もっと早くこっちに来れば良かったぁ」
 ケーキをパクつきながら、芽衣が、ちょっと口を尖らせながらぼやいた。過去に何度も拓海と会っている亘と芽衣だが、実を言えば、拓海の部屋に招待されたのは、今回が初めてなのだ。
 「ん? なんで?」
 「だぁって―――うちのピアノより、おじさんのピアノの方が音が凄いもん。それに、うちだとパパがうるさいし」
 「芽衣、」
 コラ、とたしなめるように、咲夜が芽衣を軽く睨む。亘もチラリと芽衣の顔を見たが、特に何も言わず、黙々と苺を口に運んだ。
 「でも、お姉ちゃんもお正月、怒ってたじゃない。パパが拓海おじさんの悪口言うから」
 「…そーゆー話は、おいしいケーキ食べながら話さないの。それに芽衣、クリームが口の端っこにくっついてるよ」
 咲夜はそう言って、芽衣の口についたクリームを指で掬った。
 指についたホイップクリームを舐めながら、ちょっと気まずい思いで向かいに座る拓海の顔を見たが、拓海は苦笑を返すだけで、何も言わなかった。「今更だろ」―――その苦笑が、そう言ってるような気がした。
 そう。今更だ。
 父は拓海が大嫌いらしいが、拓海だって父を好きなわけがなく、むしろ嫌っている。好かれたい相手に嫌われるのは悲しく辛いことだが、嫌いな奴に嫌われたって、痛くも痒くもない。ああそう、思う存分嫌ってくれ、という気分になるし、ますます相手を嫌いになる。
 そんな訳で、拓海は、去年より今年の方が、より確実に父が嫌いである。多分、向こうもそうだろう。
 「それより芽衣、それ食べたら、ピアノ聴かせてよ。お正月の時、聴けなかったから」
 「うん」
 「今、何弾いてるんだ? 芽衣は」
 「えーとね…ブルグミュラーの“タランテラ”」
 芽衣が無邪気に口にした曲名に、拓海は眉を寄せ、うーん、と唸った。
 「俺はそういうの、やってきてないからなぁ…」
 「え? おじさん、練習曲ってやらなかったの?」
 「やってないな。ピアノを習ってた訳じゃないし」
 「え!?」
 拓海の答えに、亘も芽衣も、驚いたように目を丸くした。
 「俺が子供の頃は、うち、貧乏だったから。ご近所の友達の家にアップライトのピアノがあって、友達とふざけて“猫ふんじゃった”を弾いたのが最初かな。芽衣くらいの時に、ビートルズの“Let It Be”を聴いて、どうしても弾きたくて、学校の音楽室のピアノで真っ暗になるまで練習して―――まあ、そんな感じで、独学だよ」
 だから拓海は、バイエルもブルグミュラーも知らない。
 唯一、ハノンだけは、指の練習のために楽譜を買って練習したらしいが、いわゆるピアノ教室で習うようなクラシックな音楽とは、一切無縁だ。その代わり、ラジオから流れるジャズやポップスを、耳で聴いて、ピアノに叩きつけてきた。楽譜を読めるようになったのなんて、高校生になってからだという。
 “音楽なんて、習うもんじゃないからね”―――それが、拓海の口癖。
 ―――5歳からピアノのレッスン受けてた一成が聞いたら、絶対嫌な顔するセリフだよなぁ…。
 拓海とは正反対の道を経て、同じジャズピアニストという道を辿りつつある仲間を思い出し、咲夜はこっそり苦笑した。
 「習わなくても、弾けるの? 不思議ー。凄いー。天才ー」
 尊敬、という目で呟く芽衣に、拓海は慌てて咲夜を指さした。
 「天才、って―――咲夜だって、習わなくても歌ってるだろ?」
 「は!? 何言ってんの、歌は習わなくたって誰でも歌えるよ」
 冗談ではない。ピアノと歌を一緒にされては困る。咲夜も大慌てで首を振った。
 「カラオケでも歌ってんじゃん、みんな。芽衣だって亘だって、学校の音楽の時間に歌ってるしさ」
 「うんっ。あたし、ピアノより歌の方が上手だよ」
 芽衣がそう言って胸を張ると、対照的に、亘がフォークを口に入れたまま、ちょっと俯いた。
 「…でも、おれは音痴なんだよな」
 「……」
 「変だよなぁ…。姉ちゃんの弟で、叔父さんの甥なのに、なんで音痴なんだろ」
 「―――言っとくけど、亘。歌は、俺も下手だぞ」
 「そう。拓海の歌、全部音が微妙に外れてるよね」
 亘を慰めるためじゃなく、歴然とした事実だ。なのに拓海は、ちょっとムッとした顔をして、テーブルの下で咲夜の足を蹴飛ばした。脛にジャストミートしたキックに、咲夜は悲鳴を噛み殺し、拓海を睨み返した。
 「ふーん、そうなんだ。ピアノ上手くても歌が下手な人っているんだ」
 拓海も歌が下手だと知って安心したのか、亘は、少しだけ表情を明るくしてそう言い、残りのケーキを一気に頬張った。そして、もぐもぐと口を動かしながら、不明瞭に、こう付け加えた。
 「良かった。3人の中でおれだけ絶望的に歌が下手だなんて、ちょっと不安だったんだ」
 「―――…」

 それが、どういう不安なのか―――咲夜には、ちょっと、わかる気がした。

 亘も、そんなことを考える歳になったのか―――咲夜は、努めて顔色を変えないよう気を張りつつ、無言のままティーカップに口をつけた。

***

 芽衣は、この1年で、随分上達していた。
 「グランドピアノだから、緊張しちゃった…。発表会でしか弾かないんだもん」
 それでも芽衣には不服な出来だったらしく、パチパチと拍手する3人に、ちょっと拗ねたように唇を尖らせてみせた。
 叔父さんも弾いてよ、とねだられた拓海は、『キラキラ星』をジャズ風にアレンジした曲を披露した。
 この曲は元々、如月家を訪れた時に、亘と芽衣を喜ばせようと即興で弾いたのだが、何故か、2年ほど前に発表されたアルバムに、きっちり収録されている。まさか甥と姪のために弾いた即興がCDに納められるなんて思っていなかった咲夜は、初めてそのアルバムを聴いた時、驚きのあまりCD売り場で「あ!」と大声を上げてしまったものだ。

 ―――拓海のジャズは、やっぱり、アメリカの匂いがするなぁ…。
 拓海のピアノを聴きながら、咲夜は、ぼんやりそう考えた。
 誰に習ったでもない、拓海のピアノ。ただ弾きたくて、学校のピアノを、弾いて、弾いて、弾いて―――暮らし向きは良くなっていたけれど、独学があだになって音大受験がままならず、一般大学へ。けれど、どうしても我慢できずに、親と大喧嘩の末、大学を中退してジャズの本場・アメリカへ単身渡ってしまった。今の拓海を育てたのは、アメリカのジャズの土壌だ。
 培われてきた土台が違うせいか、一成のピアノは、都会的で鋭い音がする。一方、拓海のピアノは、酷く感情的で、泥臭い。黒人が生活の苦しさから生み出したゴスペルと、拓海のピアノの音色は、どこか似ている。アウトローな道を歩み、アメリカでは圧倒的マイノリティだった拓海だからこそ、そういう音が出せるのかもしれない。

 憧れる―――そういう音にも、生き方にも。
 …憧れるからこそ、焦る。今の自分に。

 「咲夜」
 拓海の声に、咲夜は、ハッと我に返った。
 いつの間にか『キラキラ星』の変奏曲は終わっていた。まずい―――すっかり考え事に集中していたらしい。
 「えっ、な、何?」
 「久々に何か歌うか、って訊いたんだよ」
 「……え、」
 ―――歌う、って……もしかして、拓海のピアノで?
 ピアノの前から動く気配のない拓海に、ちょっと、胸が高鳴る。いつ以来だろう―――拓海のピアノで歌うなんて。
 「…じゃあ、せっかくだから、歌おうかな」
 チラリと亘と芽衣の方を見ると、2人も笑顔で頷く。叔父のピアノ同様、姉の歌を聴くのも、この2人にとっては今日のメインイベントだ。期待に満ちた目を向けられて、さすがにちょっと緊張した。
 「何がいい?」
 拓海に問われ、少し考える。芽衣向きの、ミュージカルなどに登場したナンバーの方がいいかな、と一瞬思ったが。
 「…“Calling you”、歌ってもいいかな」
 「なるほど。十八番ときたか」
 以前にも何度か、拓海に頼んで歌わせてもらったことのあるナンバーだった。咲夜が大好きな曲なのは、拓海も知っている。ふっと笑った拓海は、最初の音を、ポー…ン、と叩いた。

 目を、閉じる。
 僅かに、ピアノ縁に手を掛け、その温もりを指先に感じる。コツ、コツ、コツ、と拓海が床を3回蹴るのを足で直に感じ、咲夜は、静かに息を吸い込み、そのテンポで歌い出した。

 「―――A desert road from Vegas to nowhere, Someplace better than where you've been...」

 この曲を初めて聴いたのは、映画『バグダッド・カフェ』の中だった。
 拓海の部屋で、借りてきたビデオで見たその映画は、正直、そんなに面白い映画ではなかった。ただ、この歌だけは―――主題歌の『Calling you』だけは、咲夜の耳に酷く焼きついた。
 砂漠にポツンと建つ、さびれたモーテル―――話の筋は忘れても、この歌を歌うと、その閑散とした風景が瞼の裏に蘇る。物語は典型的ハッピーエンドだったけれど、この歌は、どこまでも悲しげで、殺伐として……まるで、魂の悲鳴のように聞こえる。

 「I am calling you ――― can't you hear me, I am calling you......」

 私も、砂漠でも旅をすれば、もっといい歌が―――魂の叫びのような歌が、歌えるんだろうか。

 体が空っぽになる位の声を、体の奥底から放ちながら、咲夜は頭の片隅で、そんなことを考えていた。

***

 3月はじめの午後は、思いのほか、日が短い。
 拓海が『枯葉』を弾き、さっきの拓海の話に触発された亘のリクエストで『Let It Be』を咲夜が歌い終えた頃には、窓の外は随分と陽が傾いてしまっていた。

 「じゃあ、俺は、2人を送って行くから」
 「うん」
 帰り支度を始める亘と芽衣を横に見ながら、咲夜も放り出していた上着を着込んだ。
 拓海も出かける支度をし、車のキーをポケットに突っ込んだが、ふと心配げな顔になり、咲夜の顔を覗き込んだ。
 「大丈夫か?」
 「…えっ?」
 何が? と咲夜が目を丸くすると、拓海は僅かに眉を顰めた。
 「バカ。俺の目が誤魔化される訳ないだろう? …元気ないぞ、今日」
 「……」
 ―――すぐ見抜くんだもんなぁ…拓海は。
 バレるのは、当然かもしれない。仮にも1年以上、寝食を共にした仲なのだから。ため息をついた咲夜は、視線をやや斜めに落としたまま、ポツリと呟いた。
 「…また、拓海んとこのレーベル、落ちた」
 「―――なるほど」
 落ち込みの理由は、ほぼ、予想はしていたのだろう。拓海も小さくため息をついた。

 拓海が契約しているレーベルは、ジャズ専門の国内レーベルで、その専門性故か、新人のデモテープなどには非常に厳しい対応をすることで有名だ。
 咲夜はその音楽製作会社に、18歳の春からずっと、デモテープを送っている。
 最初は2ヶ月に1度、郵便で送っていた。けれど、郵便物で届くデモテープは、開封すらしないでゴミ箱に直行しているらしい、という噂を耳にしてからは、時間をかけてテープを作成し、半年に1度、直接手渡しするようになった。
 以来、5年。咲夜のデモテープに反応があったことは、まだ1度もない。

 いつか、拓海のピアノで、CDデビューしたい―――それが、咲夜の昔からの夢。
 だからこそ、何度落とされても、諦められない。拓海と同じレーベルでなければ、拓海のようなベテランと、咲夜のような新人のセッションなど不可能なのだから。

 「…なんか…今回はちょっと、キツイ。どうしたんだろうなぁ…。落ちるの、慣れてる筈なのに」
 「うーん…、焦ってるのかもな」
 「…かな」
 焦っている―――そうなのかもしれない。単なる落ち込みというより、苛立ちや焦燥感の方が強い気がする。でも、こんなことは初めてだ。
 「諦めるか?」
 拓海が訊ねると、咲夜は、俯いたまま首を横に振った。それを見て、拓海はニヤリと笑い、咲夜の頭をぽんぽん、と撫でた。
 「よしよし。それでこそ、咲夜だ」
 「…ハハ、何それ」
 力なく笑った咲夜は、やっと顔を上げ、いつものような強気な笑みを口元に浮かべてみせた。
 「―――うん、もう、大丈夫。ごめん、心配かけて」
 拓海も微かに笑みを浮かべて頷く。と、封筒を1枚、咲夜の胸に押し付けた。
 「? 何?」
 「今度のライブのチケット。うまい具合に、東京の最終日が日曜日だから。たまには藤堂君やヨッシーを誘って来られるように、3枚取っといたから」
 「え、ほんと?」
 拓海のライブで、咲夜が来られそうな日程のものは、大抵、拓海が先回りしてチケットを確保してくれているのだが―――3枚押さえてくれたのは、これが初めてだ。咲夜の顔が、パッと明るくなった。
 「ありがとー! 一成、絶対喜ぶと思う。ごめん、変な気を遣わせちゃって」
 「いや、いいよ」
 にっこりと笑った拓海は、余計な一言を、最後に付け加えた。
 「そのうち1枚は、この前のインタビュアーに取ってあげたのに、怒って突っ返されちゃったやつだから」
 「……」
 ―――そういう奴だよね、あんたって人は。
 あの後、美人インタビュアーとの間にあったであろう修羅場を想像して、咲夜は呆れたように、眉を片方だけ器用に上げた。

***

 拓海に車で実家まで送ってもらう2人とは、地下の駐車場で別れることになった。
 「また連れてきてね」
 既に車に乗り込んだ芽衣が、窓から顔を出して、笑顔でそう言った。咲夜も笑顔を返し「オッケー」と答えた。
 「お母さんによろしく言っといて」
 まだ車外にいる亘に咲夜がそう言うと、亘も微かに微笑み、小さく頷いた。
 が、次の刹那―――その笑顔が消え、妙に真剣な面持ちになった。
 「―――なあ、姉ちゃん」
 「ん?」
 何? と咲夜が首を傾けると、亘は、少し躊躇するような表情をした。その様子に、咲夜も笑みを消し、僅かに眉をひそめた。
 「どうしたの、亘」
 「…うん…」
 曖昧に返事をした亘は、意を決したのか、やっと真っ直ぐに咲夜を見つめた。
 「…変なこと訊くけど」
 「うん?」
 「…父さんと喧嘩したのって―――ほんとに、音楽だけのせい?」
 「……」

 不意打ちだった。
 まさか亘に、そんなことを訊かれるとは思わなかった。咄嗟に取り繕うことができず、咲夜の顔は強張ってしまった。

 けれど、亘の質問は、それ以上踏み込むことなく、別の方向に流れていった。
 「姉ちゃんが大学入った時って、おれ、何が問題なんだか、あんまりよくわかってなくて……でも、高校卒業したらアメリカ行くって言う姉ちゃんを、父さんがぶん殴ったのだけは覚えてる。…やっぱ…殴られたから、諦めて普通の大学に行ったの?」
 「……ハハ…、そんな訳、ないじゃん」
 苦笑した咲夜は、亘の頭をくしゃっと撫でた。
 「お父さんに反対されただけなら、家の貯金盗んででもアメリカに行ってたよ。ただ…拓海にも反対されたからね」
 「叔父さんが?」
 「うん。拓海は、向こうで結構、いろんな目に遭ったから―――いくら自分が行ったからって、ううん、行ったからこそ、私には行かせられない、って。どうしても行きたいなら、もっと社会勉強してからにしろってさ」
 「…だったら、なんで音大、行かなかったの」
 「ピアノができなかったからね。声楽でも、ピアノの実技があるんだよ」
 「…それだけ?」
 「……」
 「…本音言うと、父さんの叔父さんに対する態度って、ちょっと病的だと思う。それに、姉ちゃんの父さん嫌いも。…なんでそんなにいがみ合ってるのか、おれ、よくわかんないよ。ほんとに、音楽とか仕事のせいだけ?」
 疑いの眼差しが、目の高さの少し下から、じっと咲夜を見つめる。
 喉の奥が、僅かに引きつった。けれど―――咲夜は、比較的冷静に対応できた。
 「そうだよ?」
 「……」
 「何、心配してんの、亘。あんたらしくない」
 ふっと笑った咲夜は、少し膝を屈めて、亘の頬に軽く口づけた。それでもまだ、亘の目は、どこか不安げだった。
 「…ごめん、亘。心配かけて。でも…これは、私とお父さんの問題だから」
 「……」
 「また、帰るから」
 ―――あいつがいない時にね。
 思ったけれど、口には出さなかった。出す必要はないし、出せば、亘を余計心配させるだろうから。
 それが功を奏したのか―――亘は、まだ不安を覗かせながらも、やっと少しだけ笑顔を見せ、車に乗り込んでくれた。

***

 「おーい」
 駅を出たところで、背後から声を掛けられた。
 振り向くと、声の主は奏だった。髪を掻き上げた咲夜は、それまでの感傷を振り切るように僅かに口の端を上げた。
 「奇遇だなぁ。今、帰り?」
 追いついてきた奏が、明るい笑顔で訊ねる。まるっきり裏を感じないその笑顔に、何故か咲夜は、無性にホッとした。
 「うん。あ…、でも、仕事帰りじゃないよ。半休取って、弟と妹と一緒に、叔父さんに会いに行ってたんだ」
 「叔父さん、って、あの―――ええと、佐倉さんの大学時代の友達と、ジャズバンド組んでたっていう?」
 「そ、ジャズピアニストの叔父さん。プロの演奏がタダで聴けてラッキーだよね、うちのきょうだい」
 「ハハ、確かにそうだよな」
 ―――あ、でも、その論理でいくと、奏もプロのカメラマンに気軽に撮ってもらえてラッキーな身分なのか。
 プロカメラマンを叔父に持つ奏の身の上を思いだし、なんだかそんなところも似てるな、と妙な因縁を感じた。
 「奏は? 仕事帰りだよね」
 「まあね。っつっても、今日は、店じゃないけど」
 「じゃ、モデル?」
 「いや」
 そう言うと、何故か奏は、はあぁ、と大きなため息をついた。店でもモデルでもないなら、一体何の仕事だろう?
 「…先輩のメイクアップアーティストが、ちょっと大掛かりなスチール撮影の仕事を請け負ったんで、オレがその助っ人でついてったんだ」
 「へーえ。じゃ、奏もモデルさんのメイクとかしたの」
 「15人もいたからな、モデルが。手分けしないと捌けないから、ま、多少は」
 「良かったじゃん」
 「…いや、へこんだ」
 その言葉に、咲夜はキョトンと目を丸くした。
 「へこんだ?」
 「そ。…その先輩、実はオレと同い年なんだけど、当然、オレよりキャリアがあるんだよ。普段、そんなことは十分わかってたし、オレはオレで信念持ってモデルの仕事してたんだから、別にいいじゃないか、って割り切ってたつもりだけど―――いざ、現場でその差を見せつけられるとなぁ」
 苛立ったように髪を掻き毟った奏は、顔を上げ、大きく息を吐き出した。
 「あー、焦ったって仕方ないよな。普段、サブの仕事がほとんどで、メイクを最初から最後まで1人で手がける機会が圧倒的に少ないんだから。見習い卒業して、実践積んでいく以外しょうがないよなぁ」
 「……」

 なんて、タイムリー。
 ちょうど、咲夜が自分の実力に落ち込んで焦っている時に、奏も似たような焦りに駆られているなんて。
 仕事を2つ持っている件や、片想いの件もそう。何故か奏とは、悩み事がリンクしていることが多い気がする。不思議な偶然もあるものだ。

 「……あ、悪い。勝手に愚痴って」
 咲夜の無言の意味をどう解釈したのか、奏は気まずそうな顔になり、小声でそう謝った。勿論、奏の愚痴を不愉快になど思っていない咲夜は、小さく笑って首を振った。
 「違うよ。なんか、不思議だなぁ、と思って」
 「え?」
 「…私もさ。今日、似たようなことでへこんでたから」
 愚痴に愚痴で応えるなんて、なんかカッコ悪いよな、と、ちょっと思ったけれど―――雲の上にいる拓海よりも、同じ位置にいる奏に、なんだか話を聞いて欲しくなった。咲夜は、少し声を落とし、思いを吐き出すことにした。
 「―――私、ずっと、拓海の……あ、拓海って、ピアニストの叔父さんだけど、拓海が契約してるレーベルと契約したくて、大学1年の時から、ずっとデモテープ送ってるんだ」
 「へぇ…、売り込みか。根性あるな」
 「あはは、音楽業界じゃ普通だよ。…でも、難しいとこでさ。5年間、落ちっぱなし。…昨日も、また駄目で。そんなの、もう何年も繰り返してるから慣れてる筈なんだけど―――なんか、今回は、やたらへこんだんだ。学生の頃は、いいや、また次があるさ、まだまだ先は長いんだから焦らなくてもいいじゃん、って、結構平然としてたのに……なんでだろね」
 「……」
 「…なんか、焦る。早く、もっと大きな舞台を踏まなきゃ、早く、もっといい歌を歌わなきゃ―――ああ、もし大学行かずに拓海みたいにアメリカ行ってたら、今頃もっといい歌を歌えてたかな、とか、一成みたいに音大行けばよかったとか、音大行けるようにピアノをやっときゃよかったとか―――焦りが、時々、後悔になるんだ。…それが、凄くイヤ」
 はーっ、と大きく息をついた咲夜は、顔を上げ、奏を仰ぎ見た。
 「わかる、かな。こんなの」
 真剣な面持ちで聞いていた奏は、その問いかけに、不思議な笑みを浮かべた。なんだか、ちょっとホッとしたような―――話題にそぐわないほど、和やかな笑みを。
 「…すげー、よくわかる。自分のことみたいに」
 「ホント?」
 「ほんと」
 くすっと笑った奏は、ふいに足を止め、電信柱に寄りかかった。ほとんど止まりそうなほど歩く速さが遅くなっていた咲夜も、つられて立ち止まる。

 「そう言えば、この前、ミルクパンが暴れた日があっただろ」
 突如、まるで無関係と思われる話が、奏の口から飛び出した。キョトン、とした咲夜の脳裏に、あの「1人天然ボケ状態」だったショッキングな日のことが蘇った。
 「ああ…、うん」
 「あの日、お前だけ先帰っちゃったから聞いてないだろうけど―――マリリンさんの話が、結構面白かった」
 「マリリンさんの?」
 「あの人、前は、服飾デザイナーだったんだって」
 意外な話に、咲夜の目が丸くなった。
 「え…っ、じゃ、じゃあ、あの女装癖って、その辺りから…」
 「あー…、どうかな。その素質あったから、そういう方向に進んだって可能性もあるよなぁ。女の服に興味あった、って言ってたし」
 なるほど。ちょっと納得かもしれない。マリリンの過去の職業も、奏があえて立ち止まった理由も。このまま歩いていったら、じき、アパートに着いてしまう。さすがにこの話をしながら、マリリンの部屋の横を通るのは気がひけるだろう。
 「マリリンさん、中学生の頃から小説書いてて、何度か賞にも応募したけど、全然駄目だったらしい。服飾専門学校行った時点でほぼ諦めて、それからは趣味で書いたり、書かなかったり―――2年位、1行も書かなかった時期もあったってさ」
 「…へーえ…。なのに、小説家になったんだ」
 「そうなんだよなぁ…。不思議な話だけど、でも、なんか納得できた」
 そう言うと奏は、咲夜に向かって、ニッ、と笑って見せた。
 「マリリンさん曰く、“回り道をしたから、小説家になれた”んだって」
 「……え?」
 「小説家目指してた頃は、まだ自分は人生経験も浅いし、いろんなことを想像で書いてたって。恋愛の素晴らしい部分も醜くて汚い部分も、社会の厳しさも、仕事で得られる達成感も、何も知らなかった―――だから、上っ面な小説しか書けなかったんだってさ。…回り道して、一見、小説家になるには無駄としか思えないようなことも、いっぱい経験したから、あの頃には書けなかった文章が、今なら書ける、って」
 「……」

 回り道をしたからこそ、書ける文章―――…。
 確かに、そうなのかもしれない。
 夢だけを追い求めて、その世界だけで生きている人には見えない、別の世界。マリリンは、そういう世界を知って、新しい文章を手に入れた。回り道をしたからこそ、今の成功があるのだ。
 「いつ」小説家になるかは、さして重要じゃない。若くして傑作を生み出して、それを超えられずに終わる人もいるし、晩年に傑作を生み出す人も、一生日の目を見ないまま終わる人もいる。若い時期に作品を世に出すことは叶わなかったかもしれないけれど、結果的に今、納得のいく作品を発表しているマリリンは、間違いなく幸せな作家だろう。

 では、自分は?
 自分も、この苛立ちや焦燥感を、歌を歌うエネルギーへと変えていけるだろうか。
 回り道をしたからこそ歌える歌を、いつの日か、手に入れられるだろうか―――…。

 「…なんか、気が楽になるね」
 「だろ。オレも今思い出して、気が楽になった」
 2人は顔を見合わせ、それぞれに苦笑した。
 「オレの場合、モデル業は焦ってもいいと思うんだよな。リミット決めてるから、それまでにもっといい仕事を、って思うから。でも…メイクの仕事は、一生の仕事にするつもりでいるからさ」
 「…うん…、そうだよね。一生の仕事なら、焦ることないんだよね」
 咲夜だって、歌は一生歌っていくつもりだ。それがどんな形であれ―――死ぬ間際まで歌っていられたら、それが一番幸せな人生だと思うから。
 「わかってても焦っちゃうのが、“若さ”なのかな」
 「…かもな」

 ―――うん。でも。
 こうして焦ることも、長い人生の中で見れば、無駄なことじゃないんだ。きっと。
 だから、若いうちは、わかってても焦るんだ。そうすることが、今の自分に必要なことだから。

 そう考えたら、なんだか、一気に気が楽になった。
 さっきより幾分ふっきれた笑みを見せた2人は、がんばろうぜ、と互いの拳を1回ぶつけ合うと、また歩き出した。


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