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「えっ、24日?」
「うん。日曜日なんだけど」
咲夜が言うと、一成もヨッシーも、揃って困ったような顔をした。
「よ…よりによって、その日…」
「麻生拓海のライブかぁー…。ああ、惜しいなぁ。行きたいよなぁチクショウ」
「え…っ、ふ、2人とも無理?」
慌てふためく咲夜に、2人は、恨めしそうな目で、それぞれにボソリと答えた。
「…音大の同期の結婚式」
「…義理の父親の3回忌」
「―――…」
どうやら24日は、冠婚葬祭の当たり日らしい―――咲夜の周辺限定で。
***
「…ってな訳でさ。チケット余っちゃったんだ、2枚」
ミリオンバンブーの“百ちゃんと竹坊”に日光浴をさせながら、咲夜が大きなため息をついた。
テーブルの上に置きっぱなしにしていたら、葉の色が悪くなってしまったのだそうだ。それにしても、朝っぱらから観葉植物の活けられたグラスを窓から突き出している図、というのは、事情を知らない人間が見たら、相当異様だろう。
「運が悪かったなぁ…。高いんだろ、叔父さんのライブって」
「1枚7千円だよ、7千円! ギャラが1日4千円の私とじゃ、全然違うんだから。ああ、勿体無い…」
「お、千円値上げしてんじゃん」
「ああ、来月からね。今月はまだ3千円」
上がったところで、1ステージ単価で考えたら、僅か500円のアップである。チケット1枚7千円の世界なんて、雲を突き抜けて成層圏に達しようかという領域だ。
「誰も行く奴いないんなら、オレ行かせてもらおうかな」
なんの気なしに奏が申し出ると、咲夜は、窓から身を乗り出し、目を輝かせた。
「え、ほんとに?」
「7千円するライブにタダで行けるなんて、ラッキーだし。ジャズに詳しくないから、他のジャズ奏者よりは、咲夜の親戚の方が興味持てるし」
「やった、サンキュ。2枚ともお願いしちゃってもいいかな。都合つきそうな奴、思いつかなくて」
いいよ、と奏はあっさり答えた。
一応、誘えそうな相手の当てがあったのだ。
『麻生拓海―――ああ…、咲夜ちゃんの叔父さん?』
「そう。佐倉さん、一応面識あるだろ? それにジャズ聴いてるし」
昼の休憩時間に、奏は佐倉に電話して、ライブの件を話した。
佐倉と咲夜の出会いが、佐倉の親友である歌姫が歌っていたジャズ・バーであるならば、歌姫の仲間としてピアノを弾いていた咲夜の叔父とも面識があって当然だ。それに佐倉は、“Jonny's Club”にも時々行っているし、ジャズのCDなども持っているから、奏よりはジャズに詳しいだろう。咲夜も初対面の人間相手よりはいいだろうし、誘うにはもってこいだと奏は思った。
だが、電話の向こうの声は、あまり乗り気そうではなかった。
『面識ったって、多恵子の歌聴きに行くついでに、挨拶した程度だしねぇ…。それに―――あんまりいい噂聞かないし』
「うわさ?」
『一部じゃ結構、有名よ。麻生拓海と仕事をした女は、1度は“日替わりランチ”にされてるって』
「……」
日替わりランチ―――…。
つまり、ホイホイと「食われて」しまう訳だ。しかも「日替わり」だから、その場限りのお付き合いで。
―――うーん…。咲夜や、咲夜のきょうだいを家に呼んだりしてるから、気さくなおっさんを想像してたんだけどなぁ…。
『ま、その“一部”ってのは“遊んでる業界人”のことで、つまりは女の方も麻生さんを“日替わりランチ”にしてる訳だから、どっちもどっちだけど。あたしはそういうの苦手だから、噂を聞いちゃってる分、素直に演奏に集中できなそう』
「…その噂を聞かされたオレの立場はどーなんの」
『あら、ごめんね。一宮君には華々しい過去があるらしいから、平気かと思ったんだけど』
しらっと言われ、思わずガクリときた。華々しいなんて言われるほど、節操なしだった覚えは全くないのに―――まあ確かに、褒められたもんじゃない過去の1つや2つは、あるけれど。
『どっちにしろ、前日までが結構ハードスケジュールだから、できればパスしたいわ、あたしは』
「そっか。…あー…、誰を誘うかなぁ。佐倉さん以外念頭になかったからなぁ」
携帯片手に、困ったように髪を掻き毟る奏に、佐倉は、予想だにしなかった名前を挙げてきた。
『じゃあ、成田を誘ったら?』
「えっ」
知らず、携帯を握る手に、力がこもる。
『大学時代、あいつも“ジャズ同好会”の一員だったし―――駄目もとで声かけてみれば?』
「―――…って言われたんだけど」
『……』
絶句した瑞樹は、数秒後、大きな大きなため息をついた。
『あの女……そんな有名無実な同好会の名前を持ち出しやがって…』
「有名無実?」
『先輩が、強引に名簿に記入させたんだよ。佐倉さんもほぼ同じ。実体なんてほとんどねーよ』
「…なんだ。そうだったのか」
瑞樹がジャズを聴くなんて話はまるっきり聞いたことがなかったので、おかしいとは思ったのだ。落胆した奏だったが、既に氷室やテンに「ジャズ? 渋すぎて退屈で眠りそう」と言われてしまっている立場としては、もうちょっとだけ食い下がらない訳にはいかない。
「でも、名ばかりとはいえ、少しは聴いたことあるんだろ? ジャズ。だったら、ちょっと行ってみない?」
『……』
「あ…、えーと、なんならオレ、遠慮するからさ。蕾夏と2人で、とか」
『24日はあいつ、休日出勤なんだ』
「…あ、そう」
『―――そうか。休日出勤なんだよな』
ふと、今そのことを思い出した、というように呟いた瑞樹は、
『一緒に行く奴、隣の部屋の奴だよな』
「え? あ、ああ、うん。例の朝から歌ってる奴」
『ふーん』
暫し考え込んだ末、答えた。
『…わかった。麻生拓海には興味ねーけど、隣の歌うたいの顔を拝みに、付き合ってやる』
***
―――うわ、おもしろーい。
奏が連れてきた「友達」を見た咲夜の、それが、第一印象だった。
あらゆる意味で色素の薄い奏と「友達」を並べると、面白いほどに対照的。
光の具合でアッシュグレイのような色合いになる髪も目も、少し日陰に入ると、深い闇色に見える。たまたま着ている服も、奏が明るい色合いなのと対をなすように、彼の方は全体にダークだ。背は奏の方が幾分高いようだが、長身で細身という点では一致しているので、2人並べると「白黒セット」という感じがして、笑ってしまう。
「彼女が、隣の部屋に住んでる、如月咲夜さん。で、彼は、成田瑞樹さん」
「こんにちは」
奏の紹介を受けて咲夜が軽く頭を下げると、無表情だった彼も僅かながら微笑のようなものを浮かべ、会釈した。
「成田です」
あ、結構、いい声かも―――つい、外見より声で人を判断してしまう咲夜は、にっこり笑みを返しながら、そんなことを思った。
「前、言っただろ? オレの叔父さんがプロのカメラマンだって。成田は、その叔父さんのアシスタントだったんだ」
「え、そうなの?」
「そう。で、オレの実家に下宿してて、それで知り合ったって訳。今は成田もプロになって独立してる」
「へーえ」
言われてみれば、カメラマン、というのは、目の前の彼のイメージになんとなく似合う気がした。奏の友達、と事前に聞いてモデル仲間を連れてくるのかと思っていたのだが、この人物がモデルだと言われたら、相当違和感がある。
「あ、そうそう。“マチルダ”くれたのも、成田だよ」
「えっ」
その名前に、咲夜は目を丸くして、2人の顔を忙しなく交互に見比べた。
「え…、えー!? ほんとに?」
「? 嘘言ってもしょーがないだろ」
「いや、だってさ。奏があんまり大事そうにしてるから、てっきり、あれは女の人からのプレゼントかと…。えぇー、まさか男の人からだったなんて…」
まだ2人の顔を見比べながら咲夜がそう言うと、奏はギョッとしたように目を見開いた。
「バ…ッ…! そ、そんなこと考えたのかよっ。あ、あれは大体、成田と成田の彼女から、」
「ちょっと待て」
それまで、僅かに眉をひそめて2人のやりとりを聞いていた瑞樹が、弁解しようとした奏を片手で制した。
「何の話だ? “マチルダ”って」
瑞樹にそう言われて、奏は初めて、ああそうか成田には意味わからないか、と気づいた。
「ほら、あんたと蕾夏に貰った、あのサボテンの鉢植え」
「…あれが、“マチルダ”?」
「そう。“レオン”って映画で、主人公がサボテン持って旅してたじゃん。オレが、黒川さんとこ追い出された時、あの鉢植え持って彷徨ってた話をしてた時、オレも咲夜も、“レオン”のその場面思い出したから」
「……」
「で、男の名前は嫌だ、っつったら、咲夜が“マチルダ”って」
「――― 一言、言っていいか」
瑞樹は、眉根を寄せて、奏と咲夜の顔を見比べた。
「お前ら、ちゃんと見てねーだろ、あの映画」
「え?」
「レオンが持ち歩いてたのは、サボテンじゃねーよ」
「え!?」
「レオンと同じ“根無し草”の、アグラオネマ。サボテンとは似ても似つかない、でかい葉っぱの観葉植物」
「…マジで?」
「冗談言ってる顔に見えるか?」
2人同時に、記憶を辿る。
なのに何故か、がらっ、と窓を開けたレオンが無言のまま外に突き出す植物は、2人の頭の中では、いかにも多肉植物、といった風情の、濃い緑色をした小ぶりなサボテンだった。
「ええぇ!? なんでサボテンになってんの!?」
「別の映画と間違えた!? いや、そんな筈は…」
サボテンと信じて疑わなかった奏と咲夜は、半ばパニック状態で、いつ、どういう理由でサボテンになったのか、必死に思い出そうとした。が、説明のつきそうなきっかけは、何ひとつ思いつかなかった。
「2人揃ってって、怖くない!? うわー、誰かのインプリンティング!?」
「バカ、誰が何のためにやるんだよ。宇宙人か? っつーか、違うんだったら、“マチルダ”って名前、却下だからなっ」
「なんでっ。いいじゃん、可愛い名前で」
そこで、とうとう、瑞樹が吹き出した。
ピタリ、と言いあいをやめた2人が、ハッとして瑞樹の方を見ると、彼は、ライブハウスの壁に寄りかかって、口元に拳を当てて、肩を震わせて笑っていた。爆笑したいのを辛うじて堪えている、といった感じのその様子に、パニックより恥ずかしさが勝ってくる。
「お…面白れー…」
くっくっ、と笑った瑞樹は、前髪を無造作に掻き上げると、少しだけ目を上げて2人の顔を眺めた。
「宇宙人の陰謀で、いいんじゃねーの。良かったな、同じ方向に天然ボケしてる奴が、隣にいて」
「―――…」
チラリと互いの顔を見た奏と咲夜は、気まずさに、ふい、とそっぽを向いた。
***
本格的な拓海のライブを見るのは、結構久しぶりのことだった。
ピアノ、アルトサックス、ドラムス、ベース、というカルテットだが、以前見た時とはドラムスが代わっているようだ。
「え、歌、ないんだ?」
隣に座る奏が、パンフレットを見て意外そうな顔をした。奏はジャズ初心者で、ジャズに関することは咲夜を通してしか知らないので、ジャズは必ず歌があるもの、とどこかで思い込んでいたのだ。
「ヴォーカルがいる時もあるけどね。今日のライブは“拓海の”ライブだから、ピアノが中心なんだ。私が歌ってた“Blue skies”なんかも、ジャズピアノで演奏されるよ、今日は」
「へーえ。オレ、こういうの初めてで、よくわかんねーなぁ…。成田は、ジャズライブとか行ったこと、あんの?」
「大昔に、2回ほどな」
奏の向こう側に座る瑞樹が、短く答える。
さっきから聞いていると、2人の会話は、奏が3くらい喋って瑞樹が1返すようなテンポだ。でも奏は、結構楽しげに瑞樹に話しかけていた。
『ほら、あんたと蕾夏に貰った、あのサボテンの鉢植え』
『傷つくために会うようなもんなのに―――見てるだけで、幸せでさ。幸せだけど……隣にいるのが自分じゃないことに、ボロボロになるほど傷ついてさ』
―――なるほど…ね。
奏は路頭に迷った時、他の物より優先して、瑞樹と瑞樹の彼女から貰ったというサボテンを持ち出したという。あのサボテンを、奏は「大事な人から貰った」と言っていた。
瑞樹を見る、奏の目。憧れの先輩を見るようなその真っ直ぐな目は、恋敵に対して向ける目とはちょっと思い難いけれど―――「大事な人」が瑞樹の恋人1人の代名詞ではないと考えれば、なんとなく納得できる。
なんとなく、見えた気がした。奏と、瑞樹と、その恋人の関係が。
―――うーん…。確かに魅力的な人だけど、別に奏が負けてるとも思えないよなぁ…。
奏のあの切なそうな悲痛な笑い方を知っている咲夜としては、つい、奏を応援してしまいたくなる。新しい恋を探すのもいいけれど、あんな目をするほどに恋して止まない人ならば、なんとかして手に入れて欲しいよなぁ、と願わずにはいられない。
結局はそうやって、奏に、叶う見込みのない恋をひたすら貫いてる自分を投影してるのかもしれない―――そう思い至り、咲夜は自嘲気味に苦笑した。
やがて、客電が落ち、ステージをライトが煌々と照らした。
歓声が上がる中、奏でられた最初の演奏は、『Moanin'』―――拓海が一番得意な、スタンダード・ナンバーだった。
―――…ああ……拓海の音だ。
奏も、瑞樹も、その他の観客も消えた。
咲夜は目を閉じると、拓海の奏でるピアノの音色に身を委ね始めた。
***
正直、奏には、ピアノの上手下手はよくわからない。
前に、咲夜の仲間である一成のピアノを聴いた時、ただ漠然と「上手いな、さすがプロ」と思った。そう思いはしたけれど、それで終わりだった。それ以上に何かを考えることはなかった。
でも―――…。
「…すげ…」
無意識のうちに、口に出して、そう呟いていた。
麻生拓海のピアノは、なんだか、凄まじかった。
何が、違うのだろう? テクニックとかそういう違いではないように、奏には思えた。テクニックならむしろ、前に聴いた一成の方が上手いかもしれない。そう思うのは単に、あの時一成が弾いていた曲が、アップテンポな上に目一杯指を酷使する曲だったせいかもしれないが。
短調は、どこか物悲しげに。長調は、あくまでもメロウに、まるで空を突き抜けるみたいに―――麻生拓海のピアノは、まるで歌うようなピアノだった。楽器が奏でているのではなく、生きた人間が発する声みたいに、酷く感情的で、酷く叙情的で……奏のような素人にも、「魂」を感じさせた。
そして、あることに気づいた。
気のせいかもしれないが、なんとなく―――アップテンポな曲の時の、その突き抜けたメロウさが、咲夜が歌うアップテンポの歌と、妙に似ていることに。
―――やっぱり、血縁だからかな。
隣に座る咲夜の横顔を盗み見、そんなことを思う。
いや、DNAなど関係ないのかもしれない。咲夜のジャズの感性を育てたのが麻生拓海のピアノだとしたら、似通った部分が出てくるのは当然だろう。中学生から拓海が演奏する店に出入りしていた咲夜にとっては、拓海は、叔父というより「師匠」なのかもしれない。
「どう思う? あの人のピアノ」
咲夜には気づかれないよう、こっそり、瑞樹に訊いてみた。
下手をしたらすぐに居眠りするかもしれない、と思われていた瑞樹は、意外にもきちんと演奏を聴いていた。深くシートにもたれかかり、腕組みをしたまま、目だけを奏の方に向けた。
「俺が寝ないんだから、相当いい演奏なんだろ、多分」
「…そういう判断基準なのかよ」
「プロでも、2分で眠る演奏もあるぞ」
「…確かに、一理あるなぁ…」
そういえば以前、友人に誘われてお義理でお供したロックコンサートは、人気グループで激しい曲だったにもかかわらず、途中で眠りこけてしまったっけ―――上手い、下手、という次元じゃない何かの過不足で、いまいち没頭できない演奏と、ファンでもないのにのめり込んでしまう演奏に分かれるのかもしれない。
こんな凄い演奏をするのに。
―――“日替わりランチ”、なのか。
人間性で演奏する訳じゃないのかな―――ソウルフルな演奏をするステージ上の男を眺めながら、奏は、なんとも複雑な気分になった。
***
ライブ終了後、咲夜が「せっかくだから、紹介しよっか」と言って、2人を楽屋に案内した。
「え…、いいのかよ、咲夜だってスタッフじゃないだろ?」
「ふふーん、姪の特権。何度かお邪魔してるから、スタッフに顔覚えてもらってるんだよん」
実際、バックステージに入るドアの前にいたスタッフ―――後で咲夜に聞いたら、拓海のマネージャーだったらしい―――は、あっさり咲夜を顔パスさせた。瑞樹と奏のことは「友達」と説明し、無事通してもらえたが、さすがにこちらはちょっと不審の目で見られてしまった。
「俺は別に興味ねーけど…」
「…まあ、いいじゃん。あんたを眠らせなかった貴重なプレーヤーなんだから」
いまいち乗り気じゃない瑞樹に小声でそう言いつつ、咲夜の後について、廊下を進む。途中、スタッフらしき人物や、さっき舞台の上にいたドラムスの男とすれ違ったりした。雑然としたムード漂う舞台裏の様子に、奏は、ライブの裏側もファッションショーの裏側とやっぱりどこか似てるな、と思った。
拓海の楽屋は、ドアが僅かに開いていた。
それでも一応ノックをしようと、咲夜が手を上げたが―――その手が止まった。
「? ど―――…」
どうしたんだ、と奏が言いかけると、咲夜が振り返り、しーっ、と人差し指を唇の前に立ててみせた。その時、眉をひそめる奏の耳にも、楽屋の中の会話が漏れ聞こえてきた。
「酷いわ。最終日の夜はアタシに付き合うって言ってたのに」
拗ねたような、女の声。それに続いて聞こえたのは、低い男の声だった。
「ああー…、そう言えば、そうだったっけ」
「ねぇ、断ってよ。アタシが先に約束したのよ?」
「うーん、でもなぁ。彼女、東京限定の参加だし。キミ、大阪にも福岡にもついてくるでしょ」
「いやよ、そんなのっ。麻生さんとデートするからと思って、アタシ、他の人の誘いも断ったのにっ」
げっ。「麻生さん」って―――この男、麻生拓海かよ!?
しかも何、ダブル・ブッキング!? おいおいおい……駄目だろ、それは。
冷や汗が、背中を伝う。チラリと瑞樹の方を見ると、瑞樹も奏の方を見ていた。その眉は、片側だけ皮肉っぽく上げられていた。
咲夜の表情はというと、ムッとしたように眉根を寄せ、ドアの真ん中辺りをじっと睨み据えていた。血管が切れる寸前のようなその表情に、奏の冷や汗が余計酷くなる。
「ディナーだけなら手を打てるんだけどなぁ」
「ええぇ、そんなの意味ないじゃない」
「まあ、ねぇ。でも―――キミも知ってるでしょ。俺、基本的に1人とは1度きりなんだよな。面倒だからねぇ…、恋愛だの恋人だのと勘違いされちゃうと」
「あら。アタシは勘違いしないわよ? というか、麻生さんと遊ぶ人の中では、勘違いする子の方が稀なんじゃない」
「ハハハ、確かにね」
「―――救いようがねーな」
無表情のまま、瑞樹がぼそりと呟いた。…まあ、反論の余地はないかもしれない。
「とにかく、ごめん。彼女、彼と別れたばかりで精神的に参ってるようだし、気を許して愚痴れる相手がいないんだよ。キミだって、自分を優先した結果、彼女が自暴自棄になったり心を病んじゃったりしたら、後味悪いだろう?」
「……まあ…それはちょっと、あるわね。あの子って思いつめやすいし」
口から出まかせではなく、一応思い当たる節があったらしく、女の方も渋々といった感じでそう相槌を打った。
「しょーがないわねぇ、もぉ。じゃ、大阪初日の夜こそは、絶対アタシ優先ね? 今度こそ約束忘れないように、キスして」
「そんなことしなくても、忘れないって」
「イヤ。ね、ちょっとだけ―――…」
「えん、だああぁーーーーーぃあぁーーー、うぃるおーるうぇい、らぁぶ、っゆーふうぅーーーーーー」
突如、鼓膜が破れそうな大きな歌声がその場に割って入った。
当然ながら、歌声の主は、咲夜である。奏も、そしてさすがの瑞樹も、揃ってギョッとして咲夜に目を向けた。
憮然、という表情をした咲夜は、1フレーズでは終わらせる気はないらしい。息継ぎを挟み、腹筋を手で押さえるようにして、更に声を張り上げた。
「ああああああぁーーーぃあああーーー、うぃる、おーるぇい、」
次の瞬間、ドアが内側からバッ! と開かれた。
般若面のような形相で顔を出したのは、拓海ではなく、女の方だった。多分、30前後。いかにも業界人、といったムードの、派手なメイクの女だ。
「な…っ、なんなの、あんた!」
息巻く女の背後からヒョイと顔を覗かせた拓海は、咲夜の姿を見つけ、困ったような苦笑いを浮かべた。
「なんだ、咲夜。来てくれてたのか」
「そ。来てたの。ステージお疲れ様でした―――“叔父さん”」
叔父さん、を強調して咲夜が冷ややかにそう言うと、途端、拓海の笑顔が僅かに引きつった。
「いや、来てくれて嬉しいよ」
「ってゆーか拓海、」
そう言って咲夜は、息巻いたはいいが、どうやら拓海の親族らしいとわかって硬直している女の顔を、チラリと流し見た。
「このレベルの女にそこまで気ぃ遣うなんて、労力の無駄遣いじゃん。やり捨てる女なら、もうちょい扱いやすい人、選んだら?」
「……」
身も蓋もない―――…。
咲夜の斜め前で女が凍りつき、斜め後ろでは瑞樹が吹き出した。ああ、いかにも成田が嫌いそうな女だよな、確かに―――そう思いつつ、奏は軽い眩暈にこめかみを押さえた。
当の拓海の方は、咲夜の毒舌にさしたる反応は見せなかった。慣れているのか、それとも、実は咲夜のセリフこそが拓海自身の本音なのか―――まいったなぁ、などと言って笑っている拓海の顔から、その辺は読み取れなかった。
「友達連れてきたんだ。紹介していい?」
「ん? ああ、どうぞどうぞ、入って」
もう帰りたい、と思ったが、ここで引き返すのは余計気まずそうだ。諦めた奏は、咲夜が促すのに従って、楽屋に足を踏み入れた。
もう自分の出番はない、と悟ったのか、女は、瑞樹とすれ違うようにして、少々乱暴な足取りで楽屋を出て行った。そんな女の背中に、咲夜がこっそりあかんべーをしているのを見て、奏は場違いにも笑ってしまいそうになった。
改めて近くで見た麻生拓海は、案外、普通の人だった。
しかし、38、という年齢を聞いて、今時の38は「おじさん」なんて呼んじゃいけないな、と思った。
中肉中背、バランスのとれたスタイルの彼は、モデルでありスタイリストの修行も一時期していた奏から見ても、かなりオシャレだ。ハイネックシャツにツイードジャケット、恐らくはビンテージものであろう渋い色合いのジーンズ、いかにも高そうな革靴。決して華美な服装ではないが、本当に上質なものを着ている、といった風情が全体に漂っている。
特別ハンサムではないが、無精ひげ風に生やしたひげにしろ、一見人が良さそうな笑顔にしろ―――なるほど、この年代だとこういう男が女にモテるんだな、と、なんとなく納得できる気がした。
「咲夜がお世話になってます」
隣人だと咲夜が紹介すると、拓海はそう言って、奏に頭を下げた。
「いえ、とんでもない。オレの方がお世話になってる位で」
―――実際、風邪で餓死しそうになってた時にも、世話になったし。
瑞樹に関する説明は「隣人の友人」だった。タダで聴かせてもらってどうも、という瑞樹と、無理に咲夜に付き合ってもらって悪かったね、という拓海の間の空気は、なんだか異様に冷ややかだった。…あまり、相性のいい組み合わせではないのかもしれない。
「来週は大阪だよ。あちこち回って、4月いっぱいはあんまり東京に戻れないなぁ」
「そっか…。相変わらず忙しいね」
「ま、それでも何回かこっち戻るから、その時は連絡するよ」
ぽん、と頭に手を置いて拓海が言うと、咲夜は口元をほころばせて「わかった」と答えた。
そこで、タイムアウト。マネージャーが入ってきてしまい、ものの5分程度で、紹介は終わった。慌しく挨拶をし、3人は楽屋を後にした。
お邪魔しました、と頭を下げながら、奏は、拓海に手を振っている咲夜の横顔をそっと見遣った。
―――…なんとなく、わかったかも。
咲夜が長いこと、片想いを続けている相手が、誰なのか。
日本の法律では、叔父と姪って、どうなんだっけ―――っていうか、それより、あんな女関係乱れまくりの男で、ほんとにいいのかよ?
「ねぇ」
パタン、とドアを閉めた途端、あらぬ方向から聞き覚えのある声が飛んできて、3人は驚いて振り向いた。
あのまま帰ってしまったと思っていた例の女が、廊下の壁に寄りかかり、腕組みして待っていた。毒舌の主である咲夜は顔を引きつらせ、トラブルは勘弁して欲しい奏はうんざりした顔になり、嫌いな女にはとことん冷徹な瑞樹は冷ややかに女の顔を見た。
咲夜に文句を言うのだろう、と思っていたが、女の行動は予想外だった。
暫し、値踏みするように奏と瑞樹の顔を見比べ、最終的には瑞樹の方に目を向け、ニッコリと笑ったのだ。
「ね。聞いてのとおり、アタシ、今夜暇になっちゃったの」
はぁ? という風に、瑞樹の眉がひそめられた。
「向こうの彼も美形だけど、あなたも結構いいじゃない。どう? これから一緒に飲みに行かない?」
「……」
「ああ、なんなら、そっちの2人も一緒に。4人でパーッと遊びましょうよ」
―――こっちも救いようがないな。
奏と咲夜の目が、呆れたような目に変わる。つい5分前、拓海相手にじゃれつきまくっていた癖に、ドア1枚隔てた廊下で早くもナンパとは。節操がないにもほどがある。
「ねぇ、どう?」
媚を売るようにしなを作る女を、瑞樹は、無言で見下ろしていたが。
「―――思い出した」
唐突に口を開いた瑞樹は、意味不明なことを口にした。
「え?」
「あんたの顔、どっかで見たな、と思ってたけど―――…」
そう言うと瑞樹は、悪意など微塵もございません、という涼しい表情で、こうのたまった。
「やっと思い出した。昔流行った、エリマキトカゲだ」
***
「ねえ、あのまま帰ってもらっちゃって、良かったの?」
隣を歩く咲夜が、ちょっと心配そうに言う。
救いようのない女を怒らせて撃退した瑞樹は、咲夜と奏に礼を言うと、さっさと帰ってしまった。夕飯に誘えばよかった、と咲夜は思ったのだが、奏は苦笑し、肩を竦めた。
「彼女が待ってるからさ」
「……」
「成田の彼女、最近仕事がハードみたいで、今日も休日出勤なんだから、成田も早く帰ってやりたいんだと思う。ああいう奴だけど、彼女にだけは嘘みたいに優しい男だから」
「…ふーん…」
3人の構図が見えてるだけに、ちょっと、切ない。咲夜は、落ち込んだように足元に視線を落とした。
そんな咲夜を横目で見た奏は、少し心配げな顔になり、咲夜の顔を覗き込んだ。
「…お前こそ、良かったの?」
「え?」
「その……拓海、さんの、今夜の予定」
咲夜の目が、丸くなる。顔を上げた咲夜は、驚いたように奏を見上げた。
「気がついてたの?」
「あー…、うん。なんとなく」
「…やだな、そうなんだ」
今まで誰にも言ってないのに―――少し顔を赤らめた咲夜は、気まずさに目を逸らし、意味もなく額にかかった髪を掻き上げたりした。
そんな咲夜を見てくすっと笑った奏だったが―――今夜、時折咲夜が奏に向けていた意味深な視線を思い出し、同じように気まずい気分になった。
「…でも、オレの方も、気づかれちゃったみたいだし」
「……うん」
隠していたつもりの人間関係に気づいてしまったのは、お互い様だ。
そう思ったら、ちょっと気が楽になった。2人は目を合わせ、同時に苦笑した。
「上手くいかないねぇ、お互い」
「ほんと、上手くいかないなぁ」
―――1度ぶつかっただけで諦めちゃうの? あの人から奪っちゃおうとか思わないの? まだ恋は終わってないのに、なんでそこまで恋敵に懐いていられるの? ―――とか。
―――あんな問題ありすぎな男でほんとにいいのか? 第一歳が離れすぎてないか? そんなに長い間想い続けるほど、あの男のどこがそんなにいいんだ? ―――とか。
本当はお互い、色々、訊いてみたいことはあったけれど。
「何食べよっか」
「寿司食いたいなぁ」
「えぇっ、高いよ」
「年上の分だけ、オレが援助してやるから。寿司にしよ」
「え、ホント? じゃ、遠慮なく」
「…現金な奴…。あ、咲夜んとこって、ビデオある?」
「ビデオ? ないよ、そんな贅沢品」
「うーん、そうかぁ…。あるんなら今から“レオン”借りて、サボテンじゃない植物、確認すんのになぁ…」
「試写室とか行く? あ、でも、あーゆーとこって、アダルトしか駄目なのかな」
「…とりあえず、オレら2人で行くようなとこじゃないだろうなぁ」
なんてことを言いながら、2人はライブハウスを後にした。
そこまで立ち入って訊くほどの関係じゃない―――それが、今の奏と咲夜の“距離”だった。
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