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優也にとって4月は、昔から憂鬱な季節だった。
入学、進学、クラス替え―――優也の苦手なイベントの季節。桜が開花すると、世間は浮かれるが、優也は沈む。
「あ、優也君だ。おっはよ」
背後から近づいてきた軽快な足音が、優也に声をかけた。
いつ見ても元気なご近所さん、咲夜だった。いまいち生気のない目で振り返った優也は、リュックが肩からずり落ちそうになるのを押さえながら、ペコリと頭を下げた。
「おはようございます」
「なんかいつもより登校早くない? 私が出てく時、大抵まだミルクパンに朝ごはんあげてるじゃん」
確かに咲夜の言う通りだ。不思議そうな顔で優也に並んで歩き出す咲夜に、優也は曖昧な笑みで答えた。
「今日、入学式なんです」
「入学式?」
「新入生の。その準備作業班に入っちゃったんで、早めに行って、入学式とかガイダンスとかの準備をしないと」
「へーえ、そんなのやるんだ、先輩達が」
「咲夜さんの大学は、なかったんですか?」
「どうだろ。そういうのにぜんっぜん関心ない学生だったからなぁ」
ハハハ、と笑う咲夜の笑顔を見て、少々気鬱気味の優也も、力なくアハハ、と笑い返した。
優也は常日頃、咲夜のことを「上手に生きている人」と思っている。
陽気に笑い、真っ赤になって怒り、目をまんまるにして驚き、もの凄く嬉しそうに喜ぶ。いつも楽しそうに歌っている彼女の印象は、さしずめ、童話のキャラクターで言うなら「アリとキリギリス」のキリギリスだ。ただし、よく働くキリギリス。らららーん、と歌いながら、さくさく仕事をこなすのだ。地味で陰気で真面目さしかとりえのないアリタイプの優也としては、ひたすら羨ましい存在である。
―――いいなぁ、悩みがなさそうで。落ち込んだりしても復活早そうだし。他人と自分を比較して卑屈になったり、自分に嘘ついたりすることなんて、全然なさそうだもんなぁ…。
「あ、でも、入学してくるのって、ほんとは優也君の同級生なんだよね」
優也の勝手な羨望などつゆ知らず、咲夜は思い出したようにそう言った。
「ヘンな感じしない?」
「どうかなぁ…。でも、1年と2年って、あんまり接触ない気がするし…。うちの高校からも、2年の時のクラスメイトが入学してくるらしいんだけど…」
「へぇ、良かったじゃん」
「…逆に、ちょっと、怖い…かな」
優也が呟くと、咲夜は不思議そうに目を丸くした。
「なんで?」
「…僕、昔から、クラス替えとかが苦手で。新しい環境で、また、一から人間関係を作らなきゃならないから。今度は仲良くなれる人がいるかもしれない、って期待もするけど、その―――期待する分、馴染めなかった時のこと考えると、怖くて」
「ははぁ…、なるほどねぇ」
難しい顔になった咲夜は、そう言って何度か頷いた。理解できないなぁ、という表情ではないから、多分理解はできたのだろう。
「咲夜さんは、クラス替えとか平気だったんですか?」
「んー? まぁ、好きではなかったよ。面倒だからさ」
「面倒?」
「優也君が、友達できるかな、って不安に思うのって、寂しいから?」
咲夜は質問に答えず、逆に、そう問い返してきた。
―――寂しい、から…?
そりゃあ、そうだろう。友達が1人もいないのは、寂しい。でも、寂しいから怖いんです、とは、何故か答えられなかった。
優也が黙っていると、咲夜は、その答えを待たずに続けた。
「人間は、猿だった頃から群れを形成して生きてきたから、群れから外れて置き去りにされることに対する恐怖が、進化した今も脳に残ってるんだってさ。猿だった頃は、群れから外れるのは、ほぼ死を意味してたからね。でも、ここは、熱帯雨林の中でも、サバンナでもないからさ。人間は、群れから外れても死なない―――でも、頭ん中に残ってる“群れから外れる恐怖”に駆られて、群れたがるんだって」
「……」
「1人になることを怖がるのは、猿時代の本能だなんてさ。よく考えると、アホらしくない?」
咲夜は、そう言って、ニッと笑った。
「私は、相手が誰であれ、誘いたくなったら誘うし、面白そうなら首突っ込むし、そんな気分にならなけりゃ誘いにも乗らないし、どーでもいい話は放置する。友達だから誘うとか、友達じゃないから断る、とかじゃなくさ。気が合う奴なら、自然、一緒にいる時間が増えるだろうし、気が合わない奴とは永遠に口もきかないだろうし。一緒にいる時間が抜群に多くなれば、それが“友達”なんじゃない?」
「…誰も興味湧く人が周りにいなかったり、咲夜さんが誘っても相手が無視したりして、結局、誰とも仲良くなれなかったら…?」
「ま、その時は、1人でいるし」
「……」
「気の合わない奴と無理して仲良しごっこしてまで、猿時代の本能に振り回されることもないっしょ」
目から、ウロコ。
唖然、と咲夜の顔を凝視した優也は、思わず、
「…咲夜さんて、悩んだりすることって、あるんですか?」
と訊いてしまった。
すると咲夜は、キョトン、と一瞬目を丸くし、それから面白そうにケラケラと笑った。
「バカだから、悩むほどの頭がないのかも。ハハハハハ」
…本物のバカは、人類の祖先のことに思いを馳せたりしないんじゃないかなぁ…。
でも、咲夜が悩んでる姿など想像できない優也は、咲夜のお気軽そうな笑いを聞きながら、やっぱり羨ましいと思ってしまった。
多少の悩みなら、こんな風に笑い飛ばせてしまう―――やっぱり咲夜は、自分とは対極にある、人生を上手に生きている人だと思った。
***
「あれ…っ、もしかして、秋吉?」
講堂の入り口でプリントを配っていた優也は、名前を呼ばれて顔を上げた。
明るい色の、洒落た髪をしたその人物は、確かに見覚えがあった。いや、こんな感じではなかった筈だが、確かにどこかで見覚えが―――…。
「ほら、俺だよ俺! 河村!」
「…えっ」
優也が思い出す前に、向こうから名乗ってくれた。
そして、それが高校時代の同級生であり、なおかつ、優也の記憶の中の姿とはかなり変わってしまっていることがわかった優也は、眼鏡の奥の目を驚きに大きく見開いた。
「か…、河村君!? ほ、ほんとに!?」
「そうだよ。うわー、お前、全然変わんないなー」
人懐こそうな顔いっぱいに笑みを湛えて、河村はそう言い、優也の肩をバンバン、と叩いた。
「か、河村君は、その…随分、変わったね…」
「ああ、コンタクトにしたから、大分変わって見えるかな」
―――それだけじゃない気がするけど…。
優也が通っていた高校は、名古屋にある私立の名門高校だった。優也は中学時代の友達のいる地元・岐阜の高校がいい、と思っていたのだが、親と教師の意向で、超難関校であるそこを受験させられ、受かってしまったのだ。
一流大学の合格率を誇る高校だけあって、生徒は誰もかれも、頭が良かった。校則が「カラーリングやブリーチは禁止」だったので、生徒はみんな黒髪だった。勿論、河村も。
なのに―――派手にブリーチした、アイドル歌手を意識してるようなカットの髪は、河村をまるで別人のように仕立てている。にきびだらけだった顔も、よほど徹底して洗顔したのか、妙にツルンと綺麗になっていて、眉まで細くなっている。もしかしたら、女の人のように「お肌のお手入れ」とか「眉のお手入れ」なんてのをしているのかもしれない。
「うちの大学入ったのって、河村君だけ?」
「いや、他にも3人いるけど、秋吉の知らない奴かも。俺も話したことない奴、1人いるし」
「そうか…」
「あ、行かないと。じゃーなー」
他の学生がどんどん講堂に入っていくのを見て、河村は慌てたように優也に手を振り、会場内に入った。河村のオシャレな茶髪は、似たような頭の中に紛れてしまい、すぐに、どれが河村かわからなくなった。
その後も、優也たち学生ボランティアは、新入生たちにプリントを配ったり、道に迷っている新入生を誘導したり、学生課の職員を呼びに行ったり、と慌しく仕事を続けた。
優也同様、学生ボランティアで入学式の手伝いをしている学生の中には、さっきの優也みたいに、新入生と親しげに話している者も何人かいた。1浪、2浪して入ってきた、かつての同級生なのだろう。そうか、そういうケースもあるんだよな、と気づいた優也は、同級生が後輩になるという奇妙さを体験しているのは自分だけじゃないとわかり、ちょっと安堵した。
目の前を通り過ぎていく、顔、顔、顔―――多種多様な顔は、どの人も、とても輝いて見えた。
―――なんでなのかなぁ…。
気後れする。
なんだか、周りの人間ばかりがキラキラしてて、自分とは別世界の人たちに見えて、いつも気後れしてしまう。1つ年上の同期生たちだけじゃなく、同い年も大量にいる筈の、新入生相手でも。
やがて、講堂でガイダンスが始まり、迷子捜索係の学生以外は暇になった。新入生が出てくるのは1時間半後―――それまで、時間がある。
「よーし、今のうちに昼飯食っとけよー」
取りまとめ役の4年生に言われ、その場にいた数名がはーい、と返事をした。
「秋吉」
講堂の入り口に置いていた荷物を取りに行こうとしたら、一番近くにいた学生に肩を叩かれた。五十音順の関係上、必修科目の講義がよく一緒になる、同期の相澤だった。
相澤は、同期の中でも華やかな存在―――リーダーシップのある奴で、学祭でも実行委員をやったりしている、本当の意味での優等生である。気配りのできるタイプで、いまいち浮き気味の優也にも、時々声をかけてくれる。ありがたいけれど、自分とはタイプが違いすぎて、優也にとっては好きなような、苦手なような、微妙な位置にいる存在だ。
「昼、学食だろ」
「え? あ、うん」
「なら、一緒に行こうぜ。ここ、2年はおれ達だけだから」
「……」
ドキン、と心臓が鳴る。
優也は、こういう誘いが、本来は苦手だ。口下手なので、2人きりじゃ話が持たないと思うし、かといって沈黙を無視して黙々と食べられるほど、心臓が強くないし。
でも―――…。
『誘いたくなったら誘うし、面白そうなら首突っ込むし、そんな気分にならなけりゃ誘いにも乗らないし、どーでもいい話は放置する。気の合わない奴と無理して仲良しごっこしてまで、猿時代の本能に振り回されることもないっしょ』
―――ちょっとでも気が向いたんなら、付き合ってみないと、気が合うか合わないかもわからない、ってことだよな…。
少なくとも、相澤は親切で、優也をバカにしたり、スローテンポな優也にイライラしたりはしない。
「う…うん、じゃあ、一緒に行こうか」
なんとか笑顔を作り、優也は初めて、そう答えていた。
***
昼食ラッシュが終わってしまった学食は、空いていた。
食券を買い、それぞれの昼食をトレーに乗せた優也と相澤は、窓際の席に座り、向かい合わせで昼食をとった。
―――な…、何話せばいいのかな。
相澤の趣味も好みも、何もわからない。困っていたら、相澤の方から話しかけてくれた。
「秋吉って、サークルにも同好会にも入ってないみたいだけど、何が趣味なの?」
「趣味?」
「好きなもの、ってこと」
「うーん…」
優也が相澤の趣味がわからないのと同じで、相澤だって優也の趣味がわからないのだ。そうか、わからないなら訊けばいいんだよな、と納得したが、下手な趣味を言って「つまらない趣味しかない奴」と言われるのが、ちょっと怖い。
「本を読むのは、好きだけど」
おそるおそる優也が言うと、相澤が明るく笑った。
「ああ、本ならおれも好きだよ。何系読むの?」
「雑読なんだ。なんでも読むから」
「へぇ。最近はまってるのって、何?」
「うーん…恋愛小説、かな」
つい、素のままでそう答えてしまった。
途端、きんぴらごぼうを口に運びかけていた相澤の顔が、「えっ」という表情で固まった。
「…? あの、どうかした?」
「―――い、いや、その」
我に返り、ごほん、と咳払いをした相澤は、誤魔化すようにハハハ、と笑った。
「意外だったからさ。秋吉が、恋愛小説にはまってるなんて」
「えっ、そう?」
「なんか、もっと難しい本を夢中で読んでそうなイメージだから。相対性理論の本とか、ソクラテスとか」
「…そういうのは、授業で読むだけで十分だと思うけど…」
「なんだ。意外に普通のもん読んでるんだなぁ」
何故か相澤は、そう言ってホッとしたような表情を浮かべた。まさか、そんな物ばかり読んでいると思われていたなんて想像だにしなかった優也は、結構ショックだった。
勿論、そういう本もたまには読むが、優也が読む本は、ほのぼの温かいタッチの小説が多い。評論や実用本は、むしろ苦手だ。現実的すぎて、空想の余地がないから。
「秋吉お勧めの恋愛小説とか、ある?」
さっきより幾分気が楽そうな表情になった相澤が、そんなことを訊ねる。優也は、一瞬迷ったが、今ちょうど読んでいる小説の作家の名前を出すことにした。
「海原真理かな」
相澤は恋愛小説なんて読まないかもしれないから、マリリンの名前も知らないかな、と思いつつ、答える。
だが、相澤の返事は、意外なものだった。
「えっ。おれもあの作家、ファンだよ」
「え!?」
「へーっ、秋吉、海原真理の小説も読むんだ。あの人の、いいよなぁ。情景描写が抜群で」
「う、うん。心の移り変わりの表現も、緻密でリアルで、凄いと思う」
その筆者が自分の部屋の隣に住んでいる、という件は、さすがに言えなかった。言うとどんな弊害があるかわからないが、とにかく、ファンに軽々しく喋るような内容ではない気がする。
でも―――相澤がマリリンのファン、というのも、ちょっと意外だ。
快活でスポーツマンタイプの相澤は、本ならSFを、むしろ少年漫画などをよく読むタイプに見える。叙情的な恋愛小説を読んでいるなんて、まるで想像しなかった。優也もかなり誤解されていたが、相澤もそうなのかもしれない。
優也の相澤に対する苦手意識が、少しだけ変わった。
それから昼食の間、優也と相澤は、マリリンの小説のことを中心に、ぽつぽつと話し合った。
もの凄く楽しい会話、という訳ではなかったが、自分も知る小説の話だから、気まずくなることも、戸惑うこともほとんどない。一番の傑作は去年の春に出た書き下ろしの作品だ、という点で2人の意見が一致したことに、優也も相澤も、それぞれに満足した表情を浮かべた。
その、2人が挙げた傑作の中に、真っ白な子猫が出てくることから、初めて優也の方から、ミルクパンの話題も出したりした。すると相澤は、中1まで猫を飼っていて、今は柴犬を飼っている、と答えてくれた。学食の自販機で買ったコーヒーを飲み終える頃の話題は、主にペットの話になっていた。
「あ、そろそろ戻らないとまずいな」
時計を見て言う相澤に、優也も頷く。2人はトレーを手に席を立ち、学食のカウンターに食器を返した。
すると、学食の奥にいた学生の1人が、そんな2人の姿を見つけ、声をかけてきた。
「あれぇ? 相澤じゃん」
振り返ると、優也の知らない学生だった。相澤の友達らしい。
「あれ、いたんだ」
「いたんだ、じゃねーよ。どこで食ってたんだよ」
「窓際だよ。秋吉と一緒に」
「ふーん。お前さ、この前貸したビデオって…」
「あ、ちょっと、待って」
友人の言葉を遮った相澤は、顔だけ優也の方に向け、ちょっと気まずそうな顔をした。
「ごめん、おれ、ちょっと行ってくるから」
先、行っててくれるかな。
続く部分を感じ取り、優也は、相澤に気を遣わせないよう、笑顔を作った。
「うん、じゃ、また」
「うん、また」
軽く手を挙げ、相澤は、友達の席へ走って行った。その背中を見送った優也は、踵を返し、学食を後にした。
―――友達、かぁ…。
自分は、相澤の友達ではないけれど、相澤と一緒に食事はしたし、話もできた。そこそこ楽しく。
また相澤とこうして話す機会が、あるのか、ないのか、まだわからない。でも……それが積み重なっていったら、いつか、相澤と友達になったりするんだろうか?
―――でも、相澤は、面倒見のいい優等生だからなぁ。
なんとなく、感じる。
相澤は、サークルにも同好会にも所属せず、いつも一人っきりでいる優也に気を遣って、声をかけたのだろう、と。そして、あの友達に優也を紹介したり、あの輪の中に優也も入れたりとかする気は、1時間近く楽しく会話した今でもないのだろう、と。
そのことに、優也は、ちょっと寂しいな、と思いながら、どこかでホッとしている。何故なら―――相澤に声をかけたあの友人は、外見も遊んでる感じで表情も怖くて無愛想で、ちょっと苦手なタイプだったから。
「難しいなぁ…」
呟いた優也は、講堂への道を歩きながら、小さなため息を一つついた。
***
優也が戻って間もなく、ガイダンスが終わった。
ガヤガヤと講堂から出てくる新入生には、事前にアンケートが配られていた。その回収をするのが、優也たちの仕事である。出し忘れてしまう新入生を必死に捕まえつつ、学生ボランティアは、ひたすら回収作業に追われた。
元クラスメイトの河村も、講堂から出てきた。そして、わざわざ優也の姿を探し、優也のところにアンケートを持ってきた。
「ほい、アンケート」
「あ、ありがとう」
振り返り、河村からアンケートを受け取った優也は、河村の背後に3人も女の子がいることにギョッとして、一瞬、アンケートを落としてしまいそうになった。
―――う、うわ、何、この人たち。
多分、同じ新入生だろう。“晴れの門出”仕様な服に身を包んだ3人は、好奇心一杯の目で優也を見ていた。
「はい、アンケート」
「どうぞー」
後ろの3人も、それぞれにアンケートを差し出す。おどおどしつつも、仕事なので、優也はなんとかその3枚のアンケートを受け取った。
「こいつが、秋吉だよ」
河村が、何故か自慢げにそう言う。話が読めない優也は、河村をチラリと見、それから軽く頭を下げた。すると、女の子達が、鈴みたいな笑い声を立てた。
「うわぁ、ほんと、いかにも頭良さそう」
「秀才君って感じだよねー」
「―――…」
いくら鈍い優也でも、事態は、なんとなく理解できた。
多分河村は、ガイダンスの中で親しくなったこの女の子達に「同級生で1年早くこの大学に合格した奴がいてね」なんて話をしたのだろう。同じ学校の卒業生としての、自慢話として。で、それは是非見てみたい、と言う女の子に、優也を見せに来た訳だ。1年スキップで、日本でもトップクラスのこの大学に合格した“天才少年”とは、一体どんな顔をしているのか、それを確認させるために。
「凄いですね、2年で高校課程終わっちゃうなんて」
「やっぱり子供の頃から、英才教育とかやってたんですか?」
「私も名古屋なんです。どこの塾だったんですか?」
「え、ええと…」
矢継ぎ早に質問され、優也が困っていると、河村が苦笑して助けてくれた。
「そんなにいっぺんに訊いても、秋吉、口下手だからさ」
「あ…、ごめんなさい」
「いえ…」
上手いこと対応できない自分が恥ずかしい。気まずくて赤面する優也を見て、女の子達はまたコロコロと笑った。
「かわいー、赤くなってる」
「純情なんだぁ。1年先に大学生やってるのに、高校生より可愛いよね」
―――大学生やってれば、誰でも高校時代より世間ずれして可愛くなくなる、と思ってるのかなぁ…。それとも、そうなるのが普通なのかな。
褒められてるのか、バカにされてるのかすら、よくわからない。困った優也は、ますます俯いた。
「あっ、あの、私達、これから飲み会やるんですよ。河村君の他にも2、3人誘って。秋吉さんも来ませんか?」
「えっ」
女の子の1人にそう言われ、優也は、ぱっと顔を上げた。
「あ、それいいよねー」
「うんうん、是非一緒にどうぞ」
―――の…飲み会!?
まだ未成年だろ、という問題はさておいて―――優也は、酒に弱い。もの凄く弱い。飲み会の後の定番・カラオケも、優也にとっては拷問だ。人前で歌うなんて絶対に無理。それに、河村とだってそんなに親しくない上に、それ以外は全員初顔合わせ―――いやだ、行きたくない、という思いが先に来てしまう。
その拒否感が、河村にも伝わったのだろうか。優也も一緒に、と一方的に盛り上がる女の子達に、河村がすかさず言った。
「ま、まあさ、あんまり君らが盛り上がると、秋吉、断りにくくなるから」
「えー、行きますよねぇ?」
女の子の視線に、ちょっとたじろぐ。が、河村も察しているとおり、優也の答えは決まっていた。
「…ごめん。今日は、ちょっと…」
「えー…、そうなんですか?」
―――ほんとは、明日でも明後日でも、同じなんだけど。
飲み会が嫌だ、と断るよりはマシだろう。用事なんてないけれど、優也は当たり障りのない断り方を選んだ。
「なんだぁ、残念。じゃ、また今度」
「都合つく時にでも行こうぜ、秋吉」
口々に言われ、優也は微かな笑みを作って「うん」と答えておいた。
「じゃ、またな」
「うん、また」
挨拶を交わす優也と河村の傍らで、女の子達もペコリペコリとバラバラにお辞儀した。やっぱり女の子には、どうにも慣れない―――ギクシャクと頭を下げ返すと、また小さな笑い声が起きた。
4人が去っていき、優也はまた、アンケート回収の作業に戻ったのだが。
「河村君、酷くない? 秋吉君が断るって決め付けて」
「んー、でもあいつ、俺に言われてホッとした顔してたよ?」
「そういうの苦手そうな顔してたもんね」
「昔から、女の子とか遊びとか興味ない奴だったから。そんな時間あるなら、ちょっとでも勉強した方が有意義だと思ってるんじゃないかな」
「まあ、あそこまで頭いい人だと、私達とは感覚ちょっと違うのかも…」
微かに聞こえた会話に―――胸の奥が、ヒヤリとした。
***
入学式の後片付けが終わり帰路に着いたのは、結局、午後3時を回ってからだった。
疲れたなぁ、と首を回しながら、何気なく空を見上げた優也は、ふと足を止め、真上にある雲を眺めた。
―――あの雲…わたあめに似てる…。
わたあめ、食べたいなぁ。
最後に食べたの、いつだっけ。
そんな事を思ったら―――何故か、涙が出てきた。
優也は、記憶力がいい。最後にわたあめを食べたのは、6つの時だ。
近所に住む同い年の友達と、夏祭りの夜店で買った、大きなわたあめ。それは、甘いものは虫歯になるからダメ、という母には内緒で買った、秘密のわたあめだった。
やんちゃで暴れん坊で、優也とは正反対な性格だった友達は、最後に残った一口を、優也にくれた。
『オレ、明日も家族で夏祭り来るからさ。ゆうちゃんは、次いつ食べられるかわからないんだろ? もうちょっと食べとけよ』
そう言って渡してくれた最後の一口は、最初の一口よりももっとおいしかった。あれ以来―――わたあめは、食べていない。
遊びや女の子に興味がない?
そんなものより勉強に時間を使ったほうが有意義だと思ってる?
お前が、一体、僕の何を知ってるっていうんだ。たかが2年間、同じクラスにいただけで、大して話もしてないし、一緒に遊んだことだってなかったのに。
優也だって、極当たり前の、何の変哲もない18歳だ。女の子にだって興味はある。ないなら、年上の隣人に見惚れたりする筈がないだろう。咲夜や奏やマリリンと一緒に過ごした去年の誕生日は楽しかったし、苦手なお酒も一口だけ飲んで、ちょっぴり大人になった気分も味わった。そういうことを、全然楽しくないと思ってる訳じゃないのだ。
ちょっと、勉強が好きだっただけ。
ちょっと、親が厳しかっただけ。
たまたま1年早く、大学に行けてしまっただけ。
ただ、それだけのことなのに―――…。
この程度のことで泣くなんて、情けない。優也は眼鏡を外し、目をごしごしと擦った。
やっぱり、4月は嫌いだ―――大きく息を吐き出した優也は、前を向き、また歩き出した。
アパートに着くと、優也はその足で、ミルクパンのいる物置を覗き込んだ。
「……あれ」
いない。
どこへ行ったのだろう―――外に遊びに行ってしまったんだろうか。がっかりしてうな垂れると、直後、マリリンの部屋のドアが開いた。
「おや、お帰り」
「―――あ…」
ひょい、と顔を出したマリリンの腕に、ミルクパンが抱かれていた。優也の顔を見つけてか、にゃあ、と甘えるような鳴き声をあげる。
「た…ただいま。なんだ、マリリンさんの部屋にいたんだ、ミルクパン」
「そう。ちょっとアイディアに詰まってねぇ。暇つぶしに、ミルクパンと遊んでたのよ」
「あはは、そうなんだ」
「あ、そうそう。編集さんに面白いもの貰ったんだけど、優也、食べる?」
「面白いもの?」
食べ物で面白いものとは、なんだろう? 首を傾げる優也に、マリリンはミルクパンを預け、一旦奥に引っ込んだ。
そうして、再び戻って来たマリリンが差し出したものを見て―――優也は、思わず目を見張った。
「ほら。なんでも、出版社の近所にある神社が、今日、お祭りだったんですって。懐かしいでしょ、わたあめ」
「―――…」
「? どうかした?」
「……ううん」
どこか心あらずの様子でそう言った優也は、ビニールのかかったわたあめを見下ろし、うっすらと微笑んだ。
「さっき、空見上げたら、わたあめそっくりな雲があって―――あー、わたあめ食べたいな、と思ったもんだから」
「おやまあ、奇遇ねぇ」
目を丸くして笑ったマリリンは、ちょっと端に寄り、優也のための場所を空けた。
「せっかくだから、紅茶も淹れましょうか。さ、どうぞ」
「お邪魔します」
ふわりと笑った優也は、ミルクパンを抱いたまま、玄関に入った。
12年ぶりに食べたわたあめは、記憶よりもっと、甘かった。
でも、記憶よりもっと、融けるのが早くて―――とっても儚い、淡い味がした。
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