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「―――やっぱり、気は変わらない?」
真意を探るように、瞳を覗き込みながらそっと訊ねられた質問。
一瞬、意味がわからず、ちょっとだけ目を丸くした奏は、直後、幾分不愉快そうに眉をひそめた。
「…そういうつもりならやめよう、って、最初に」
「フフ、冗談よ、ジョーダン」
奏が最後まで言い終わる前に、彼女は悪戯っぽく笑い、スルリとベッドを抜け出した。その、何もまとっていない後姿を見て、ありがちだが、“ミロのヴィーナス”を思い出した。
さすがは、厳しいモデル業界でそこそこの位置をキープし続けているだけのことはあって、プロポーションは完璧だし、よく手入れされた肌は芸術品レベルだと思う。顔も、比較的奏好みのタイプかもしれない。もっとも、自分の「好みのタイプ」が一体どういうタイプなのか、最近は、奏自身の中でも極めて曖昧なのだけれど。
「私ね、後悔するのが一番嫌いなの。何もしなくて後悔するより、ありのまま正直にぶつかって砕けちゃった方がマシ―――砕けるのを怖がってたら、前に進めないわ。気持ちよく砕ければ、昨日までの自分にバイバイできるでしょ」
「…で、後悔してない訳? 今」
奏が訊ねると、ランジェリーだけ身につけ終えた彼女は、クルリと振り向き、嫣然と笑った。そして、膝だけベッドに乗せると、身を乗り出して、半身だけ起こしている奏に軽く口づけた。
『舞台の上のあなたって、凄く男っぽくて、魅力的だった。好き、って感情より先に、抱かれたい、って思った。…一目惚れだったのよ。信じる?』
広告代理店で偶然再会した、去年の“Clump Clan”のショーで同じ舞台に立った、モデル仲間。
誘われるままに飲みに行って、酔いが回り始めた頃、突然告げられた恋心に、奏は、どう応えればいいのかわからなかった。
咄嗟に出てきた言葉は、情けないことに、本来なら奏が一番言いたくない言葉―――「ごめん、好きな人がいるんだ」。…事実だからこそ、言いたくなかった。
そう、じゃあ、しょうがないわね。
じゃ、せめて今夜だけ、一緒に楽しまない?
難しく考えることないわよ。私は今、凄くあなたに魅力を感じるし、あなたから見ても私は、そう悪くない女でしょ? 恋愛感情の話は、これでおしまい―――恋愛とは別次元で、魅力的な異性に興味を覚えるのは、極自然なことよ。違う?
「―――…恋人になりたい、って望みは叶わなくても、あなたと寝てみたい、って望みは叶ったんだから、十分満足よ」
「…そっか」
“嘘つけ”。
言いたかったが、やめておいた。指摘したら、余計彼女が傷つく気がして。そして同時に―――自分の傷口を、抉るような気がして。
彼女は、再びベッドを下り、ソファに掛けておいたワンピースなどを身につけ始めた。ショーの舞台裏では、たった20秒で頭のてっぺんからつま先までフルチェンジ、なんて場合もあるから、これは仕事柄だろうか。奏も普段からそうだが、彼女もやたら着替えが早かった。
「私、残されるのって苦手だから、先に出てもいい?」
「…いいよ」
「良かった」
くすっ、と笑った彼女は、バッグを肩に掛け、奏の方に向き直った。
「ありがとう―――凄く、楽しかったわ」
「うん。オレも楽しかった。……でも、ごめん」
奏の答えに、一瞬、彼女の笑みが崩れる。
ガラス玉を思わせる綺麗な瞳が、僅かに揺れる。そして―――少し寂しげな微笑を浮かべると、彼女はもう一度身を屈めて、軽くキスをした。
「…謝ったりしないで」
「……」
「私、苦しい恋は嫌いなの。…良かった。これで心置きなく、次にいけるわ」
―――やっぱり、オレと似てるんだな。
自分じゃない誰かを想っている人との恋は、苦しくて、苦しくて、耐えられない。だから、ただ一夜、夢を見ることで、ピリオドを打つ。手に入らなくてもいい、その欠片でもこの体に残すことができれば―――その想いに駆られて。
でも、奏は知っている。
欠片でも知ってしまえば、余計、欲しくなる―――さっき、満足だと言った彼女は、嫣然と浮かべた笑みとは対照的に、目は悲しげだった。
同病相哀れむ、というやつだろうか。
恋愛感情など微塵もない彼女に、奏は最後に、自分からそっと口づけた。
***
「アヤのこと、振ったんだってね、一宮君」
「―――…」
いきなり話題を振られ、奏の手から、資料が落ちそうになった。
さすがに、心臓がバクバクする。落ちかけた資料を、できる限りさりげなくキャッチすると、奏は、背後でニヤニヤしている佐倉を振り返った。
「…どこで聞いたんだよ、そんな話」
「やあねぇ、そんなに動揺しちゃって」
いくらさりげなくしてみせても、動揺はバレバレだったらしい。ふっと笑って肩を竦めた佐倉は、指に挟んだバージニアスリムの灰を、灰皿にトントン、と落とした。
「古巣のモデル事務所。午前中、たまたまお邪魔したら彼女がいて。あ、同じ事務所だったのは聞いてるでしょ?」
「…昨日、聞いた」
「あの子、あたしと一宮君がつき合ってると思ってたみたいで、これまでにも何度か一宮君のこと、訊かれてたのよ。そういう経緯があったから、“昨日、玉砕しました。ご心配おかけしました”って向こうから報告してくれたの」
「……ジーザス……」
あまり佐倉には知られたくないネタだったのに―――大体、なんだって佐倉とつき合ってるなんて勘違いをしたのだろう? 頭が痛くなってきて、奏は思わず額を手で押さえた。
「惜しいわねぇ…。はっきり言って、お勧めよ、あの子。度胸はいいし、ルックスもいい、女の変ないやらしさもない。美人だけど、女からも好かれる方だと思うなぁ。全く……彼女募集中の身なのに、なんで振っちゃったの?」
「…ノーコメント」
「即、振らなくても、ちょっとつき合ってみるって手もあっただろうに…」
「ノーコメント!」
回答絶対拒否、の姿勢で、奏はぴしゃりとそう怒鳴り、手にした書類を机の上でトントン、と揃えた。が、苛立ちのせいで手元が乱暴になり、資料の端はまるっきり揃っていなかった。
佐倉も、それ以上突っ込んだ質問はする気がないのだろう。奏を眺めつつ、しょうのない奴、という苦笑を浮かべると、煙草を灰皿でもみ消した。
「さて、と―――それで? 昨日の成果は?」
「あ……うん、イマイチ。色々探りは入れてみたけど、まだ細かい所が決定してないみたいで、鈴村さんでも詳しいことはわからないって」
そう。昨日、奏が訪ねた先は、4月になったら要・注目の広告代理店―――知人である鈴村が出世して、瑞樹をカメラマンとして起用する確率が高い、と言っていたあの代理店である。
奏は4月に入る少し前から、暇を見つけてはこの代理店に顔を出すようにしているのだが、4月に入ってすぐ、いきなりビッグ・ニュースが舞い込んできた。5月下旬に撮影のあるポスターを、さっそく瑞樹が撮るらしいのだ。
勿論、これを狙わない手はない。男性モデルを使うのであれば、なんとしてでも自分が選ばれてみせる。そのための方法を現在探っている最中なのだが―――ポートフォリオ、つまり見本写真を代理店に提出しているモデルの中から、社内選考で起用モデルを決める、という情報以外、まだ詳しいことが流れてこないのだ。
既にポートフォリオは提出済みだが、できれば今度の仕事のイメージに合ったものを追加提出したい奏としては、せめてコンセプトだけでも聞かせてもらえないか、と思っているのだが―――…。
「やっぱり、成田に訊くのが早いんじゃない?」
「ん…、そう思って、今夜、写真選ぶのも兼ねてあいつん
「成田の家?」
その部分に、佐倉が鋭く反応し、面白そうに眉を上げた。その反応を見て、自分がうっかり口を滑らせたことに気づいた奏は、しまった、と慌てて口を閉ざした。
「えぇ、成田たちの家に招待されてるの!? 凄いじゃないの! 元恋敵の愛の巣に招待されちゃうなんて!」
「ち…っ、違うって! 郁の事務所が入ってるビルが補修中で、3日間使えないもんだから、成田は仕方なく家で仕事を…」
郁、というのは、奏の叔父で瑞樹の師匠である写真家・時田郁夫のことで、郁の事務所、というのは、日頃瑞樹がデスクワークをしている「時田事務所」のことだ。その名のとおり、時田の個人的な事務所なのだが、人生の大半をイギリスで生活している時田なので、空き事務所をフリーの仲間や後輩の仕事場として開放しているのだ。
「はいはい。成田もやむを得ず自宅に呼ぶしかなかった、ってことなのね。で、キミも仕方なく行く、ってことね。そうでしょうよ。はいはいはい」
「…なんか、その言い方、もの凄くムカつくんですけど」
「一宮君からかうには、あの2人をネタにすれば、一発だからね」
―――チクショウ、好き放題言いやがって…。
実に愉快気に笑う佐倉をギロリと睨んだ奏は、ごほん、と咳払いをひとつして、手にしていた書類を茶封筒に突っ込んだ。
***
『恋は、アルカロイドに似ている。
モルヒネより痛みを癒し、コカインより甘美な夢を見せ、ドーパミンより興奮させ、トリカブトのアコニチンよりも猛毒。
すぐ傍にいれば、我を失う。でも離れてしまうと、禁断症状に苦しむ。
恋は、どんなアルカロイドより厄介だ。』
―――どんな顔して書いてんだか。
寒気がしてパタン、と本を閉じると同時に、瑞樹が受話器を置く音がした。電話が終わったんだな―――奏は、読んでいた本を、大ぶりなフロアテーブルの隅に置いた。
「なんか、随分深刻そうな話してたな」
「…まあな」
向かい側の床に腰を下ろした瑞樹は、うんざり、という顔で手帳を放り出した。詳細を話す気はなさそうだが、まあ…想像はつく。スケジュール的に無茶な仕事の依頼が入ってしまったのだろう。フットワークの良さを買われて順調に仕事が入ってきているのはいいが、重宝され過ぎるのも困り物だ。
再び写真の選定作業に戻ろうとした時、瑞樹がテーブルの隅の本を見つけ、僅かに眉をひそめた。
「“アルカロイド”? …何だ、それ」
「え? あ、ああ―――言っただろ、1階に小説家が住んでるって。そいつの最新作」
「ふーん。怪しげなタイトルだな」
「…読み始めたばっかで、まだどういう話かわからないから」
前もって聞いた内容が内容なだけに、あまり突っ込まれたくない。奏は引きつった誤魔化し笑いを浮かべると、タイトルが見えないよう、本を裏返してしまった。
揃って「恋愛小説はご勘弁」な奏と咲夜は、それぞれ、マリリンから恋愛もの以外の自信作を借り、一応、読んだ。その感想は、咲夜が「芥川と太宰が共同で谷崎モノ書いたって感じだね」で、奏が「難しかったけどラストが結構感動だった」―――なんとなく、学の違いを感じさせられる結果となった。
で、その後、もう1、2冊普通の小説を借りた後、ついにやってきたのが、最新作『アルカロイド』だった。
マリリン曰く、究極の純愛モノ、だそうだ。つまり、恋愛小説である。
―――でもなぁ…冒頭がいきなり、「恋は、アルカロイドに似ている」だもんなぁ…。
なんだか、幻覚や幻聴の起きそうな純愛モノだ。先を読むのが怖くなってくる。ひとまず、咲夜が読み終わって、その感想を聞いてから読むか―――本を更に端の方へとさりげなく追いやりつつ、奏はそんなことを頭の隅で考えた。
「さて…、と。結局、これが最終候補か」
本にはもう興味がないのか、瑞樹がさっそく、テーブルに置かれた5枚の写真を手で並べ直した。いずれも先日、奏が瑞樹に頼んで撮ってもらった写真だ。
「で? お前のイチオシは?」
「うーん……気に入ってるのはこれだけど、さっき選んだのと似てるよなぁ」
一番気に入っている1枚を指差し、首を捻る。どうしても、表情がより豊かなものを選びたくなってしまう―――今度の仕事がこの路線なら正解だろうが、もし違っていたら、同じ傾向ばかり揃えるのは危険だろう。
「なぁ。あんたんとこに、何か情報、入ってない? 一応、正式依頼来てんだろ?」
奏が訊ねると、瑞樹が眉根を寄せた。
「商材が、カバーが取り替えられるタイプのMP3プレーヤーだってのは聞いてるけど、それ以上は…。男使うか女使うかすら聞いてねーし」
「MP3プレーヤーかぁ…。若年層ターゲットだよな。じゃあ、親しみやすい系統選んだ方がいいかなぁ…」
「―――これは、入れた方がいいと思う」
そう言って、瑞樹が指差したのは、意外な1枚だった。
目を伏せ、俯いた、随分と静かな横顔―――奏の外見のノーブルさも、内面のやんちゃさもない、ニュートラルな顔だ。笑っているような、笑っていないような、中途半端な口元をしていて、奏からすると失敗作に近い。最終候補の5枚のすぐ近くに置いてありはしたが、まさかこれも候補に入っているとは思ってもみなかった。
「これ? なんでまた」
「商材から来る、第六感」
「???」
どういう意味だろう、と奏が首を傾げた時、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。
「…あ、ピザかな」
「蕾夏かもな」
注文したピザがそろそろ届く時刻であると同時に、蕾夏がそろそろ帰宅する時間でもある。玄関に向かう瑞樹の後を追って、奏も席を立った。
「お帰り」
「ただいまー…」
少し疲れた声でそう言いながら、瑞樹が開け放ったドアから玄関に入ってきたのは、蕾夏だった。挨拶しようと、瑞樹の背後から顔を覗かせた奏だったが。
「―――…」
蕾夏のあまりの憔悴ぶりに、思わず後ずさりしてしまった。
いや、極端にやつれたとか、目の下にクッキリくまがあるとか、そういう訳ではない。前に会った時より若干痩せたかもしれないが、顔色もいたって普通だ。ただ―――表情が、酷い。どんよりと落ち込んだような、真っ暗でやる気ゼロの表情。人生終わりました、といったムードの漂う暗さには、いくら相手があの蕾夏だとわかっていても、さすがに引いてしまう。
幽霊のように入ってきた蕾夏は、ふと、瑞樹の背後で固まってしまっている奏に目を向けた。
「…あ、奏君だ。いらっしゃい」
「……」
笑おうとしても、顔の筋肉が、上手く動かない。結果、奏の笑い方は、異様に不自然で引きつった笑いになってしまった。
蕾夏も、一瞬だけ笑おうとした、らしい。が―――無理だったのか、ガクリとうなだれ、呟いた。
「―――…やっぱり、書けない…」
「ふーん。あと2日だな」
同情する様子もなく瑞樹が言うと、蕾夏は落ち込みモードから、一気にボルテージを上げた。がばっ、と顔を上げ、拳を握り締めて叫んだ。
「ああああ、もーっ! 私、1日何してたんだろうっ。23行書いて、全部消して、15行書いて、また全部消して―――それで1日終わりだよ!? なんでっ、なんで文章の神様が降りてこないんだろう!? 神様のいじわるーっ!!」
「…文章の神様?」
って、何?
という奏の疑問の呟きには一切気づかず、蕾夏は大きなため息をつき、瑞樹の胸に頭をくっつけるようにして、またガクリとうな垂れてしまった。もしかして慣れているのか、瑞樹は苦笑し、ぽんぽん、と蕾夏の頭を叩くだけだった。
「気、済んだか」
「……うん。ごめん。着替えてこよっと」
そう言うと蕾夏は、顔を上げ、ふらふらとリビングダイニングの隣にある洋室へと続くドアの向こうへと消えた。奏のことは、完全無視―――もしかしたら、この場にいることも頭から抜け落ちているのかもしれない。
「…オレって、空気…?」
呆然と奏が呟くと、瑞樹は、くっくっ、と肩を僅かに震わせて笑った。
「よほどてんぱってるな、あれは」
「一体、何なんだよ、あれ」
「記事の締め切り迫ってんのに書けない上に、先輩ライターに皮肉言われると、毎回あの状態。面白いだろ」
―――面白い、というか…。
複雑な気分と―――胸の奥の方に感じる、ズキリとした痛み。それを誤魔化すように曖昧に笑った奏は、リビングダイニングに戻る瑞樹の後に続いた。
まるで子供みたいな顔をした蕾夏。落ち込んで瑞樹の胸に額を預けた蕾夏。
ああいう蕾夏の顔を、奏は、ほとんど知らない。
蕾夏は、外見の柔らかさとは対照的に、とても強い女性だ。相手に与える印象も、優しげな人、というより、凛とした女性、という方がしっくりくる。柔らかに微笑みつつも、常に背筋はピンと伸び、巧みに相手との距離を取っている―――勿論、奏に対しても。
泣いている蕾夏も、もっとどん底にいる蕾夏も知っている。でも、あんな蕾夏は、知らない。
無邪気な子供のままの、藤井蕾夏の部分―――それを唯一晒すことができるからこそ、瑞樹は彼女にとって「特別」なのかもしれない。それを実感して、いまだ死に絶える気配のない感情が、胸の奥で燻る。
―――バカか、オレは。今更嫉妬してどうすんだよ…。
軽く頭を振った奏は、瑞樹に気づかれないよう、そっと深呼吸をした。
***
「ねえ、奏君。お隣に住んでる女の子って、結構親しくしてるの?」
「親しい、っつーか…まあ、普通。…なんで?」
「うん。瑞樹が、なんか、奏君とその子の感じが、昔の私達みたいだ、って聞いたから」
サラリと蕾夏が口にしたセリフに、奏は、飲みかけのウーロン茶を吹き出しそうになった。
「ッ、な、な、何だよ、それっ!!!」
ゲホゲホとむせながら奏が怒鳴ると、問題発言の主・瑞樹は、ピザを取り分けながら、何がそんなに変なんだ、という顔をした。
「そう思ったから、そう言っただけだろ」
「どこが、昔のあんた達みたいなんだよっ。タイプが全然違うだろ、どっちもっ」
「バカ。そういう意味じゃねーよ。関係が、だよ」
「いい友達同士になれそう、って意味だよね」
「……」
“いい友達同士”。
蕾夏が発した一言に、奏はちょっと目を丸くした。そして、思い出した。ああ―――こいつら、今はこんなだけど、昔は“いい友達同士”だったんだっけ、と。
「自分が体験してるからかもしれないけど、奏君とその子の雰囲気って、実際に見てはいないけど、なんとなく想像つく。私達も、昔は“異性”って感覚が全然なかったから」
くすっと笑った蕾夏は、ピザを頬張りながら、懐かしそうに目を細めた。
「ビデオ見てるうちに眠くなっちゃって、同じ部屋で雑魚寝してたら、当時の瑞樹の職場の先輩が半分泣き入りながら“蕾夏ちゃんは無防備すぎるわよっ!”なんて怒ったりとかね。仲間が傍にいるのに、お店の外で大喧嘩になったこともあったし」
「喧嘩は結構多かったよな、最初の頃」
「あはは、そうだったよね。でも、怒ってるうちに、喧嘩の原因忘れちゃうんだよね。そういうのでも、よく周りに呆れられてたなぁ…」
確かに―――当時の彼らを奏は知らないが、普段見ている2人の様子から、恋人同士になる前の2人の様子は、容易に想像がつく。
男女を超えた友人関係から始まった2人は、お互いを異性として意識してからも、その友情を保ち続けた。だから今も、人前で見せる姿は、恋人より親友としての顔の方が多い。男と女でありながら、2人の間には変な甘さや色気がないのだ。そう、まるで同性の友達同士みたいに。
「奏君とその子も、多分、そんな感じなんじゃないかなぁ、と思って。気が合ってるっていうか、変に異性だってことを意識しないで付き合えるっていうか」
「なにせ、2人して“レオンが持ってた鉢植えの記憶が、誰かの陰謀ですり変えられた”ってパニック起こしてるんだからな。くっくっ…」
「―――いい加減、それ、忘れろ」
可笑しそうに笑う瑞樹を、ギロリと睨む。あの件は、かなり恥ずかしい話題なのだ。しかも、『レオン』と何ら共通項のないあのサボテンが、咲夜と奏の間では今もまだ“マチルダ”と認識されているあたりが、更に恥ずかしいというか、情けないというか。
「言っとくけど、同じ間違いしたからって“仲良し”扱いされるの、すっげー迷惑だから」
ちょっと不愉快そうに眉を寄せた奏が、ウーロン茶をぐい、とあおり、そう言った、その時。
「あ!!!!!」
突如、蕾夏が、短く叫んでガバッ! と立ち上がった。
あまりにも突然のことに、ギョッとして思い切り仰け反ってしまった奏は、カーペットの上に背中から転がってしまいそうになった。
「そ…そうかー! わかった! そう書けばいいんだー!!!」
唖然とする奏を置き去りに、顔を輝かせた蕾夏はそう叫び、凄い勢いで隣の部屋に駆け込んだ。バタン! とドアが閉まったその後には、嵐が去った後みたいな静けさだけが残った。
「―――…」
「…“文章の神様”が降りてきたらしいな」
少しも動じていない瑞樹が、ピザを頬張りつつ呟いた一言に、奏はがくっ、と肩を落とした。
「…いつもあんな風?」
「結構な。いきなり“あ!”って叫んで、俺突き飛ばしてキーボード叩きだした時は、マジギレしそうになった」
「……」
そのシーンを想像して―――脱力していた奏の肩が、堪えた笑いに、小刻みに震えた。
「…た…楽しそうだな、あんた達の毎日って…」
「…俺の前だと、ガキになるからな、あいつ…」
ふっ、と笑った瑞樹は、ウーロン茶を一口飲み、グラスを置いた。それから一息つき、さり気なく付け加えた。
「お前も、あの子の前だと、精神年齢が更に下がるな」
「え?」
「隣に住む歌姫」
言われたセリフに―――奏は顔を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。
「…いくらあんた達の昔を彷彿させるからって、まさか、同じ道辿って俺達もくっつく、とか期待してんの?」
「ハハ…、それも面白いかもな」
「ありえねー。オレの目には女に映ってないし、第一、あいつにはちゃんと好きな男がいるんだ。そういう女は、咲夜じゃなくても絶対パス。もう、そういう辛い恋愛は―――…」
口にしかけて。
それが、とてつもない大失言であることに気づき―――奏は、ハッと息を呑んだ。
暗黙のうちの、禁句だった。奏の、蕾夏に対する想いのことは。勿論、2人もそのことを知っているけれど、それでも―――口には絶対に出さないようにしてきた。口にすれば、苦い過去の記憶を掘り返すことになるから。
慌てて口を閉ざしたが、遅かったらしい。表情を強張らせる奏を見て、瑞樹は、何とも言えない苦笑を浮かべた。
「お前の顔って、ほんと、面白いほど正直だな」
「…悪かったな、正直すぎる顔で」
反射的に口を尖らせる。でも、大失言には直接触れる気配のない瑞樹に、ほんの少しだけホッと安堵した。
「“楽しそうだ”ってのは、そんな下衆のひやかしみたいな意味で言ったんじゃない。ガキに戻って笑える相手がいて良かったな、って意味だ」
「…それも、なんだかなぁ…。そんなにガキに戻ってるのかよ、オレって」
でも―――言いたいことは、ちょっと、わかる。
子供に戻ってバカ笑いできる相手がいる、というのは、日々が生き易くなるだろう。さっきの蕾夏を見れば、それは一目瞭然だ。自分があそこまで咲夜の前で“素”になってしまっているとは思いたくないが、「良かったな」と言う瑞樹の言葉の意味は、なんとなく理解できた。
「恋人作るより親友作る方が難しい、って、誰かに聞いたぜ」
「…そうかなぁ…。オレは、バカ笑いできる友達より、夢中になれる女を先に見つけたいんだけど」
失言ついでのように、軽くぼやいてみせる。
その言葉に、瑞樹は暫しの間黙っていたが、やがて、静かに答えた。
「―――蕾夏と比較するのだけは、やめとけ」
「……」
心臓が、びくん、といって、跳ねた。
少し、目を鋭くして、瑞樹に視線を向ける。が、正面から奏を見据える瑞樹の目は、至って静かだった。
「言いたいこと、わかるか」
「……ああ」
「二度と、言わない」
だから、そんな追い詰められた目、するな。
目でそう言われ、奏は、軽く唇を噛んで視線を逸らした。
そのまま目を見ていたら、全てを見透かされる気がした。蕾夏に会うたび、瑞樹に会うたび、自分が何を思い、何を感じているか―――それだけじゃなく、昨日、あの彼女との間にあったことの全てまでをも。
その時、ガチャッ、と音がして、ドアが開いた。
「あー…、良かった。締め切り、間に合って」
帰宅時とは別人のように晴れやかな顔をした蕾夏が、全身で安堵しながら、隣の部屋から出てきた。
自宅で書き物をする時の癖なのか、ついさっきまで普段通り下ろしていた黒髪は、今はくるんと1つにまとめられ、大きなヘアクリップで後ろに留められていた。見たことがないスタイルに、ちょっとドキリとした。
「書き終わったら、一気におなか空いちゃった」
「…現金な奴…」
ボソリ、と瑞樹が呟いた一言に、瑞樹の隣に座った蕾夏は、唇を尖らせて、瑞樹を殴るような真似をした。…こういうところは、恋人になる前の2人の日常を思わせる。微笑ましさに、奏もこっそり笑ってしまった。
「あ、そうだ。奏君のポートフォリオって、出来上がったの?」
さっそくピザをパクつきながら、蕾夏が瑞樹と奏の顔を見比べた。やっと今日の本題を思い出したのかよ、と呆れ顔の瑞樹は、奏に目配せした。
「あー、うん、無事選び終わった。…あ、成田が選んだ1枚の理由、まだ聞いてなかった。どういう意味だったんだよ、“商材からくる第六感”って」
蕾夏が帰ってきたせいで、話が中断してしまったままだった。奏が問うと、瑞樹はニッと笑った。
「秘密。無事モデルに起用されたら、教えてやるよ」
「…ちぇ」
「ね、見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
ミニアルバムの形にまとめておいたポートフォリオを手に取り、奏はそれを蕾夏に差し出した。
急いで、手元のおしぼりで手を拭いた蕾夏は、ちょっと嬉しそうな顔でそれを受け取った。そして、その1ページを開くと同時に―――瑞樹のアシスタントとして写真を吟味する時の、真剣な目になった。
その、1秒前とは別人のような目に……釘付けにされた。
「―――……」
目が、離せない。
写真を見つめる真っ直ぐな目からも、引き結ばれた淡いベージュピンクの唇からも、ページをめくる指先からも。
目を逸らしたい……そう思っても、無理だった。何かに魅入られたように、蕾夏の表情から、仕草から、目を離すことができない。
けれど、まとめきらずに下りていた黒髪を指ではらうために、蕾夏が首を軽く傾けた時―――襲ってきた感情に、奏は反射的に、顔を背けた。
―――な…んで…。
心臓が、暴れる。全身が総毛立っていた。まずい。早く、落ち着かなくては―――テーブルの下で拳をきつく握り締め、自分にそう言い聞かせた。
「へーえ…。やっぱり、瑞樹が撮る奏君っていいよね。この前、腕時計のポスター見て、なんだかなぁ、って思ったばっかりだから、余計実感する」
「…そ、そっか」
蕾夏には……いや、それ以上に、瑞樹には、気づかれる訳にはいかなかった。
知られてはいけない、絶対に―――爪の跡が手のひらに残るほど、奏はきつくきつく、自らの拳を握り締め続けた。
***
無事自分の部屋に戻った奏は、疲れ果てたようにベッドに身を投げ出した。
「―――…つ…かれたー…」
思わず、言葉が漏れる。
ぼんやり天井を見ながら、両手の手のひらを目の前にかざしてみた。微かに残る爪の跡が、1ヶ所―――我ながらよくやったな、と苦笑してしまう。
頭を空っぽにしようと、仰向けに寝転がったまま、暫し目を閉じる。
ゼロになりたい。何の感情も感じたくない。何も思い出したくない。たった1人で、こうして目を閉じていると、そうできるような気がしていた。
なのに―――浮かんでくるのは、あの時、無理矢理押さえ込んだ、気が狂いそうなほどの衝動。
手を伸ばせば届く所にあった、僅かに傾けられた、真っ白な細い首筋。
あの瞬間……全身に、震えが走った。
「―――…ッ…!」
ガバッ! と、弾かれたように体を起こした。
蘇ってきた劣情に、奏は、肩で息をしながら、自らのシャツの胸元を掴んだ。さっき抑え込んだ全身の震えが、まだ体中を苛む。
オレは、最低だ。
最低だ、最低だ、最低だ。
昨日、オレは、何を考えてた? 蕾夏とは似ても似つかない美女を腕に抱きながら、一体何を考えた?
蕾夏しか欲しくないのに、あっさり体は反応する、そんな“男”に吐き気がしながら、冷静なままの頭で、ずっと彼女と蕾夏を比較してた―――蕾夏はこんなに媚びた目はしない、蕾夏の肩はこんなに丸くない、そもそも蕾夏は、オレに体を許したりしない。そうやって、蕾夏と彼女を比較してた。少しでも似た要素があれば、気持に応えられるかもしれない、好きになれるかもしれない、そう思いながら。
知って、いるから。
あの唇も、あの指先も、あの白い肌も―――知っているから尚更、たったあれだけの仕草で、バカみたいに蕾夏を欲しがる。
『恋は、どんなアルカロイドより厄介だ』……今頃になってわかった。あの小説の冒頭は、嫌になるほど、真実だ。
ギリ、と唇を噛む。自分に対する怒りを、どこかにぶつけないと、気が狂いそうだった。
「……ち…っきしょ…!!」
拳を固めた奏は、自分自身を痛めつけるかのように、渾身の力で、目の前にある壁を殴りつけた。
途端。
バキィッ!!
「!」
もの凄く、不吉な音がした。
拳の痛みより、殴った壁の予想外の手ごたえに、奏は、コンマ1秒前の怒りと憤りも忘れ、ポカンとした。
「……」
おそるおそる、自らの拳を見下ろした奏は―――あり得ない光景に、思わず、意味不明の悲鳴を上げてしまった。
「えええええぇぇ!!!??」
ピンポンピンポーン。
玄関で忙しなく鳴る呼び鈴に、奏は、ベッドから転がり落ちそうになった。
なんとか態勢を整え、深呼吸する。よし、と気合を入れ、ぎこちない足取りで玄関に向かった。
訪問者は、咲夜だった。なんだか怪訝そうな、少し気味悪そうな顔をしていたが、奏が顔を出すと、社交辞令レベルで一応笑顔を作った。
「ごめん、夜遅くに」
「…よ。どうした?」
「あの、変なこと訊くけどさ。…今さっき、奏の部屋で、何かあった?」
背筋が、ヒヤリとした。
顔が、引きつりそうになる。こういう時、正直すぎるこの顔が恨めしくなる。無表情、無表情―――言い聞かせつつ、そ知らぬふりで訊き返した。
「なんで?」
「や、その…、私のベッド、奏の部屋側の壁にくっつけてるんだけど―――寝転がって本読んでたら、なんか、凄い音が、っていうか、衝撃が、っていうか」
「あ、あー…、もしかして、オレが寝返り打って、壁蹴っちゃったせいかな」
―――んな訳ないだろっ。この部屋越してから、何回壁蹴ってると思ってんだよっ。
自分で自分に突っ込みを入れつつも、顔だけはなんとか笑ってみせる。でも、やっぱり不自然だったのだろうか。咲夜はまだ怪訝そうな顔をしていた。
「私も結構、壁蹴飛ばしてる気ぃするんだけど…、もしかして毎回、奏に迷惑かけてんの?」
「いや、オレは、全然気がつかないけど」
「ふーん…」
やめろって、その疑いの眼差し。
「じゃあ、そっちは何ともないんだね?」
「ああ、特に、何も。…悪かったな、驚かせて」
「ううん、別にそれはいいよ。木戸さんのバーベルの話聞いてたからさ、部屋がぶっ壊れるようなことでも奏がやらかしたのかな、と思って、心配になって見に来ただけだから」
「ハハハ、んな訳ねーじゃん」
―――す、鋭い…。
冷や汗ダラダラ状態で、無理矢理笑う。まだ疑いは晴れていないのかもしれないが、咲夜もそれ以上、突っ込んでくる気がないらしかった。まあ、結構遅い時間だし、そこまで追及するのも面倒なのだろう。
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
手を振る咲夜に笑顔で応え、ドアを閉める。
閉めた途端―――どっと疲れが襲ってきた。
ヨロヨロと部屋に戻る。
そこで出迎えてくれたのは、見事、奏の拳の大きさにへこんだ、ベッド脇の壁。
勿論、いくら奏が体格やスピードに恵まれていても、コンクリートの壁がへこむ訳がない。ベッド脇の壁は、石膏ボード製だったのだ。
そう言えば、住宅情報誌を見て入居した訳でもないので確認していないが、このアパートは、木造だろうか? それとも鉄筋? 鉄骨? 庇はコンクリートのように見えるが、別にコンクリートの打ちっぱなしという訳じゃないから、断言はできない。コスト削減で部屋と部屋の境の壁は別建材になっている鉄筋アパートもあると聞くし。でも、もしこの石膏ボードの下にコンクリート壁があるとしたら、たかだか上に貼ってあるだけの石膏ボードがへこんだからといって、咲夜の部屋にまで衝撃が伝わるのはいかがなものかと思う。
―――なんか構造的な欠陥があるのかもなぁ、ここ…。
いや、そんなことは、どうでもいい。どうも、関係のないことをグダグダ考えることで、肝心のことから逃げようとしている気がする。
目下の最大の問題。それは、このへこんでしまった壁を、どうするかだ。
「どうする、っつってもなぁ…」
…素人じゃ、どうしようもないし。
どっちにしろ、週末までは、時間が全然取れない。
とりあえず明日、何か壁に貼れそうなポスターでも探してきて、暫く誤魔化そう―――チクチク痛む良心を「週末までの辛抱だから」と宥めつつ、奏は、へこんだ壁の前に枕を立てかけておいた。
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