←BACKFake! TOPNEXT→




― アルカロイド /side. Saya

 

 ―――あ、ここって、佐倉さんの事務所が入ってるビルだったな。

 左斜め前方に見えるビルに目を留めた咲夜は、少し考えた後、左にハンドルを切った。
 路上駐車も考えたが、この辺りは頻繁に駐車違反の取締りがあると会社の連中に聞いている。“カフェストック”のシンボル・黄色のトッポに違反切符など貼らせる訳にはいかない。素直に地下駐車場に入れることにした。
 エレベーターに乗り、名刺に書いてあった階のボタンを押したところで、初めて、佐倉が事務所にいない、という可能性に気づいた。
 ―――ま…、いいか。どのみち私も仕事の途中だから、そうそう長居できないし。直接渡せなくても置いておけばいいし。
 迷う時間など、大してなかった。ほどなくエレベーターのドアが開き、咲夜は、制服のポケットに入っているチケットを指先だけで確認して、エレベーターを下りた。

 佐倉の事務所のドアは、開いていた。
 コンコン、とドア横の壁を叩いて中を覗き込んでみると、佐倉が部屋の中を忙しなく歩き回っていた。ノックの音に振り向いた佐倉は、そこに咲夜の顔を見つけ、目を丸くした。
 「えっ、咲夜ちゃん?」
 「こーんにちは」
 ニッ、と咲夜が笑うと、佐倉は驚いた顔で、ツカツカと咲夜のもとへ歩いてきた。
 「えぇ!? 一体、どうしたの!? それに、その服―――もしかして、仕事中?」
 「うん。普段はこっち方面来ないけど、今日は助っ人で」
 「ふぅん…。それにしても、よく覚えてたわねぇ。名刺渡しただけなのに」
 「ちょうど2、3日前に、偶然、このビルから注文あったから」
 “カフェストック”のお得意さんの社員が独立して、たまたま、このビルにオフィスを構えていたのだ。電話を受けた咲夜は、どこかで見た住所だな、と首を傾げたのだが、家に帰って佐倉の名刺を見て「ああ! これか!」と思った。こんなことでもなければ、今日、近くを通っても思い出すことはなかったかもしれない。
 「そりゃ奇遇ねぇ。それで? 一体どうしたの?」
 「ん、大した用事じゃないんだけど―――これ」
 咲夜は、ポケットから折り畳んだチラシを引っ張り出し、佐倉に差し出した。
 「今週って、“Jonny's Club”が、開店5周年のアニバーサリーをやっててね。明日は土曜日なんで、7時から、ジャズバンド5組で3時間ぶっ通しで演奏するんだ。これ、その宣伝チラシ。割引クーポンついてるから、良かったらどうぞ」
 「あら、ありがと。偉いわね、“Jonny's Club”の営業活動までやっちゃって」
 「ハハ、別にわざわざ来た訳じゃないし。それに、店が儲からないとギャラ貰えないしねー」
 そう言って笑った咲夜は、ちょっと体を動かした弾みで、ドアの横にある家具にぶつかった。
 「……あ、もしかして佐倉さん、出かけるところだった?」
 腰の高さのファイル棚。その上に、佐倉のものと思しきバッグとブリーフケースが無造作に置かれていた。その様子は、これからどこかに出かける用事があって、オフィスを出る時持って行けるようこの場所に置いてある、といった感じだった。
 「そうよ。ああ、でも、大丈夫。まだ時間あるから」
 「どこ? 神宮方面なら、乗っけてってあげるけど」
 「あら、ホント? じゃあお願いしちゃおうかな―――ちょっと待ってて、すぐ用意するから」
 そう言うと、佐倉はさっそくきびすを返し、窓を閉めたり、ブラインドを下げたりと出かける準備を始めた。その様子を眺めつつも、咲夜は、ミーティングテーブルの上に置かれたものが、どうしても気になって仕方なかった。
 「…さて、と。お待たせ。行きましょうか」
 「うん。…あの、佐倉さん」
 「ん?」
 「あの薔薇、あのまんまで大丈夫?」
 テーブルの上に、ポツンと置かれた、真紅の薔薇の花束。
 「ああ―――花瓶とか、ないから。2、3時間でまた戻るから、その位は持つでしょ」
 振り返った佐倉は、そう言って、さっさと荷物を手にオフィスを出てしまった。
 ―――真紅の薔薇、ねぇ…。
 男の人からかもしれないな、と、直感的に思った。


 「うわー、随分沢山ファイルや紙が詰まってんだ」
 エレベーターの中でブリーフケースの中身を確認する佐倉を端から見て、咲夜は思わず感心したような声を上げた。
 「まあね。営業活動は、これまで集めた情報と、それを分析した自分なりのデータが命だから。特に今回は、ちょっと力入ってるからね、あたしも一宮君も」
 「え、奏の営業活動なの?」
 「そ。一宮君を世界で一番魅力的に撮るカメラマンと、仕事できるチャンスが巡ってきたの。成田瑞樹―――咲夜ちゃんも、麻生さんのライブで会ってるでしょ」
 「ああ…」
 脳裏に、あの日会った印象的な人物を思い浮かべる。なかなか魅力的な男だったが、別れ間際のエピソードがまずかったのか、咲夜の記憶の中では、ナンパ女を「エリマキトカゲ」と称した時の涼しい顔ばかりが浮かんでくる。
 「あいつ、あたしの大学の後輩なの。あ、咲夜ちゃんと同じ英語科卒だから、咲夜ちゃんとは同じ科の先輩後輩ってことになるわね」
 佐倉も、咲夜同様、一城大学出身である。でもそれは、偶然ではない。
 元々大学など行く気のなかった咲夜は、受験校に、憧れの人が通っていた大学を選んだ。拓海のピアノに合わせて歌っていた歌姫―――佐倉の親友・多恵子だ。多恵子の行っていた大学を咲夜が選んだのだから、その多恵子の大学時代の友人である佐倉が咲夜と同じ大学出身なのは、至極当然のことだ。
 「へぇ…。うちの卒業生が、そんな凄いカメラマンになってるなんて、なんか、変な感じ」
 「まだプロになって2年だから、凄いかどうかは未知数よ。ただ、一宮君に関しては最高レベル―――相性かしらね。成田が撮った一宮君見ちゃうと、他の仕事がバカらしく見えてくるわ。だから一宮君も、まさに命がけって勢いでこの仕事を取りに行ってるけど―――まあったく、あんな怪我しちゃって」
 「怪我!?」
 突然飛び出した思いがけない単語に、声が裏返る。と同時に、地下駐車場に到着し、エレベーターのドアが開いた。
 「そうよ。右手の、この辺」
 エレベーターを下りながら、佐倉は忌々しげな顔で、空いている右手で拳を作ってみせて、ちょうど咲夜を殴るようにして、揃えた4本の指の背を咲夜に向けた。
 「喧嘩でもしたのか、真ん中3本の指の第二関節と第三関節、見事にテーピングしてるわよ。モデルは体が資本なんだから、大切にしろって言ってるのに、全く……」
 「……」
 今朝、窓越しに挨拶をした時には、全然気づかなかった。いつそんな怪我をしたのだろう―――そう考えた時、火曜日の夜のことが頭を掠めた。
 形容したがたい音と共に、変な衝撃で揺れた壁。
 ―――いや、まさかね。ハハハ。
 一瞬、青春漫画よろしく壁をぶん殴る奏の姿が思い浮かんだが、そんなバカな、と笑い飛ばす。それにしてもあれ、何だったんだろう―――忘れかけていた疑問に首を捻りつつ、咲夜は黄色のトッポに乗り込み、キーを挿し込んだ。
 「後ろの方が広いんだろうけど、商売道具が占拠してるから」
 「いいわよ、助手席で」
 佐倉も助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。仕事以外で車を運転しない咲夜は、そう言えば人を乗せるのって初めてかも、と気づき、ちょっと緊張気味に車を発進させた。

 「けど、面白いわねぇ」
 地下駐車場を出た辺りで、佐倉がふいに、そんな事を言った。
 「え?」
 「一宮君と咲夜ちゃんよ。あたしなんて、今のマンションに何年か住んでるけど、隣の人の顔なんて数えるほどしか見たことないわよ? 街中で会っても、多分気づかないんじゃないかな」
 「ああ…、うちの場合、おせっかいおばさんみたいな人がいるから」
 実際には“おばさん”じゃなく“おじさん”なんだけどさ。
 頭の中でだけ、付け足す。でも、マリリンに“おじさん”という名称は、どうにもミスマッチだ。
 「それに、なんてゆーか、傾向似てるから、話してて気が楽なんだよね」
 咲夜が言うと、前を向いていた佐倉が、運転席の咲夜の方に顔を向け、少し目を丸くした。
 「傾向? って、一宮君と咲夜ちゃんが?」
 「うん。まあ、二足のわらじ履いてるとことか、状況似てる分悩みも被ってることが多い、ってのもあるけど―――性格的傾向、っていうのかな。どっちもよく笑うしよく怒るし、結構喋るしね。単純さとバカさ加減が、割と似てる気がする」
 「……」
 佐倉は、すぐには返事をしなかった。
 そのことを不審に思った咲夜が、チラリと佐倉の方を見ると、佐倉は僅かに眉をひそめ、咲夜の横顔をじっと見つめていた。
 「? 何?」
 「……んー、なんて言ったらいいのかな」
 「?」
 「あたしにはあなた達、似てるどころか、むしろ正反対に見えるんだけど」
 意外な言葉だった。咲夜は目を丸くし、一瞬だけ、佐倉の方に顔を向けた。
 「正反対? どこが?」
 「―――まあ、一宮君は、わかるのよ。屈折した部分も持ってるけど、それを上手に“怒り”とか“悔しさ”として顔に出してるタイプよね。自分の感情の起伏に正直で、落ち込むと本気でうな垂れるし、頭にくるとすぐキレるし、苦しくて悲しいとあの歳でも平気で泣くし、大好きな相手には喜んで尻尾振っちゃうし」
 「ハハハハ」
 それは、なんだかわかる気がした。瑞樹の前にいた奏は、間違いなく「尻尾を振っておすわりしている犬」だった。
 「でも、咲夜ちゃんは、そういうタイプには見えないな」
 「え、そう?」
 「咲夜ちゃんは、その反対。うん……一宮君じゃなく、他の人に似てる」
 「誰?」
 佐倉は、何故か、そこで少し躊躇した。が―――僅かな間を置いて、思い切ったようにその名前を口にした。
 「―――多恵子」
 「……」
 それは、ちょっと、意外。
 多恵子という人は、強烈なキャラクターの持ち主だった。
 そもそも、咲夜のファーストキスを奪ったのは、他ならぬ多恵子だ。「気に入っちゃった」と言っていきなりキスをされ、もしかしてこの人はレズなんだろうか、と疑ったものだ。その後、気に入れば性別構わず親愛のキスをする人なのだ、と知って、ホッと胸を撫で下ろしたのだが。
 ついでに言えば、自殺の常習犯でもあった。リストカットの痕が手首に何重にも残っていたし、救急車で運ばれたという話も何度か聞いた。そして、最終的には―――自宅マンションから飛び降りて、たった23歳でこの世を去った。
 「多恵子って、いっつも楽しそうで、お気楽に見えたのよ。オーバーな位よく笑って、嫌いな奴にはずけずけモノ言って、自分の中身を全部晒してるみたいな顔して生きてた。でも…真相は、違ってた」
 「……」
 「なんで死にたがるのか、その理由を、最後まで誰にも言わなかった。好きな相手の前でも、恋愛感情なんて微塵も見せずに、いっつもバカ言って笑ってた―――肝心な中身なんて、あの子はこれっぽっちも見せなかった。唯一、親友を名乗ってたあたしにすらね」
 「…ふーん…」
 「―――咲夜ちゃんには、中身を曝け出せる相手、いるといいんだけどね」

 中身を曝け出せる相手―――か。

 「曝け出すほどの中身も、大してないからねぇ」
 軽く笑いながら咲夜がそう言うと、佐倉は、仕方ない子ね、という苦笑をし、また前を向いた。

***

 ―――痛いなぁ。
 『アルカロイド』の中盤を読みつつ、咲夜はため息をついた。
 確かに、面白い。主役に感情移入して読めれば。でも…脇役に感情移入すると、痛くて痛くてしょうがない。
 主役の恋をドラマチックに演出するために存在する役割―――脇役の存在のせいで主役たちの恋が上手くいかなくなると、たちまち脇役は悪役扱いだ。主役たちの恋が真剣なのと同様に、脇役の恋だって、胸が張り裂けそうなほどに真剣なのに……その恋は、いつも切り捨てられる。主役たちの恋を実らせるために。
 これだから、恋愛小説は嫌いだ―――後悔しつつ『アルカロイド』を閉じた時、インターホンのベルが鳴った。
 自宅なら玄関まで数歩だが、拓海の家は結構広い。咲夜は、小走りに玄関に向かい、拓海の顔を確認してからドアを開けた。
 「ただいま」
 「お帰りー。お疲れさま」
 少々疲れた様子で入ってきた拓海は、靴を脱いだところで、何かに気づいたように表情を変えた。
 「…もしかして、ビーフシチュー?」
 「うん。拓海、明日の夕方までこっちだから、明日の昼の分まで作っといた」
 「ほんとか! ああー、急激に腹減った。早く食いたい」
 疲れなどどこかへ行ってしまったようなほくほく顔で上がりこむ拓海を見て、咲夜は、読んでしまった恋愛小説のことも忘れてくすっと笑ってしまった。


 東京を皮切りに始まったライブツアーで、拓海はこのところ、日本各地を転々としている。
 昨日「今、東京に戻った。土曜の夕方には出る」と電話をもらうまでは、“Jonny's Club”のあのチラシは、本当は拓海に渡すつもりだった。でも、西日本から九州を回り、これから先は東北・北海道―――東京には、その途中で立ち寄っただけ。そんな拓海には、残念ながら、そんな時間はなかった。
 拓海を取り巻く世界は、いつだってスピードが速くて、どんどん移り変わって行く。
 だから、1つくらい―――自分1人くらい、拓海にとって「変わらないもの」があってもいいんじゃないかと、時々、思う。

 「今日さぁ、佐倉さんに、変なこと言われた」
 サラダをつつきながら咲夜が言うと、拓海は顔を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。
 「佐倉さん、って……今日って金曜日だろ? 一体、どこで会ったんだ?」
 「外回りの途中で、事務所に寄った」
 「真面目に働けよコラ」
 「仕事の合間に女ひっかけてる奴に言われたくないんですけどー」
 「……まあ、いいや。それで? 佐倉ちゃんが、何て?」
 30過ぎた佐倉に“ちゃん”は似合わないのだが―――仕方ない。さして付き合いもないまま来たせいで、初対面時の呼び方のままこの年齢に達してしまったのだ。
 「うん。なんかさぁ、私が、多恵子さんに似てるって」
 「多恵ちゃんに?」
 「お気楽・好き勝手に生きてるように見えて、中身を見せない、ってさ」
 「―――…うーん…」
 その話に、拓海はスプーンを置き、難しい顔で咲夜の顔をじっと凝視した。
 「多恵ちゃんほどじゃないけど、確かに、わかり難い性格ではあるかもなぁ」
 「え? そうかな」
 「本音に忠実に生きてるようで、意外に天邪鬼だからな、咲夜は」
 「んなこと、ないよ」
 「あるある。俺のこと好きなのに、アホ、ボケ、死ね、地獄に落ちろ、散々言ってるだろ、いつも」
 さり気なく紛れ込んでいた部分に、咲夜はヒヤリとして、思わず気色ばんだ。
 「そ…それは、天邪鬼じゃないじゃんっ! 第一、なにその“俺のこと好きなのに”って」
 「事実だろ。親父さんよか、俺の方が好きなくせに」
 ああ、そういう意味。
 紛らわしいこと言うな、と心の中で毒づきつつ、ちょっとホッとする。けれど、そんな安堵は微塵も見せず、咲夜は軽く眉を上げてみせた。
 「それとこれとは、別。拓海の女性関係乱れまくりなところは、アホボケ死ね地獄に落ちろ、って本気で思って口にしてるから」
 「うわ、酷。俺はお前を、そんな薄情な奴に育てた覚えはないぞ」
 「育てられた記憶はございません」
 いや、ある意味育てられてしまったのかもしれないけれど―――この辺り、咲夜と拓海の関係は、説明が難しい。
 「でも、わかり難い奴になった原因は、確かに、拓海かもね」
 「俺?」
 「そ。お気楽で好き勝手生きてるように見える典型例が目の前にいるから、その要素が私にも伝染したんじゃないの」
 「ははは、見える、っていうか、実際お気楽好き勝手に生きてるからなぁ、俺は」
 ―――うわ、腹たつ。はぐらかし方がそっくり。
 うんざり、という目で拓海を軽く睨んだが、拓海はくっくっと笑っただけで、再びビーフシチューを口に運んだ。

 好き勝手生きてる、かぁ―――…。
 向かいの席に座る拓海の顔をチラリと見て、複雑な心境になる。
 多分、多くの人がそう言うだろう。拓海ほど自由気ままに生きている奴はいない、と。それは確かに事実かもしれない。けれど…咲夜には、それだけとは思えなかった。
 …あの人が、原因かな。
 遠い日の記憶が、頭を掠める。
 記憶に残る、1度だけ見た、拓海の「恋人」―――あれは、咲夜が高校1年か2年の頃だっただろうか。同性の咲夜から見ても、その女性はとても美しかった。拓海を意識し出した頃だったので、ちょっとショックで声をかけられなかったけれど……腕を組んで甘える彼女の表情は愛らしかったし、そんな彼女を見る拓海の目は、穏やかで優しかった。
 いずれ、その人を「彼女」として紹介されるんだろうな、と思っていたのに―――その日は、とうとう来なかった。
 ある日突然、「ちょっとニューヨーク行って充電してくるわ」と言い残して旅立った拓海は、半年以上、日本に戻ってこなかった。そして、戻ってきたら―――今の拓海になっていた。ふらふら女を渡り歩く拓海に。
 あの彼女との破局が、拓海を変えたのかもしれない。
 お気楽に、人生を楽しく生きているように見える拓海。でも―――咲夜だけは、感じていた。へらへら笑うその裏に、どこか屈折した、表に出さない顔が潜んでいるのを。

 ―――多分…私と拓海って、元々、似てるんだ。
 似ているから“あの時”、拓海にだけ、本音でぶつかることができたのかもしれない。
 でも、大人になってしまった咲夜は、もう拓海と本音だけで接することはできない。そのことが、咲夜は少しだけ―――寂しかった。

***

 「ご馳走してくれたから、後片付けは任せなサイ」
 食事が終わり、咲夜が食器を片付けようとすると、珍しく拓海がそんなことを言った。
 「へー、珍しい。明日雪降るな」
 咲夜がからかうように口笛を吹くと、腕まくりをした拓海は、ムッとしたような表情で咲夜をしっしっと追い払うゼスチャーをした。好物のビーフシチューが効いたかな―――くすくす笑った咲夜は、食器をシンクに置き、素直に拓海に場所を空け渡した。
 「楽譜見せてもらっていーい?」
 「いいよ」
 洗い物をする水音とカチャカチャという食器の音を聞きながら、楽譜の入っている棚の扉を開ける。とその時、思いがけず、インターホンがピンポーン、と鳴った。
 「?」
 思わず、時計に目をやる。午後9時半―――誰だろう?
 無視しようかな、と思ったが、再度、チャイムが鳴る。
 「悪いー、咲夜、出てくれ」
 食器を洗っている拓海に、そう言われる。いいのかな、と思いつつも、咲夜は棚の扉を閉め、玄関に向かった。
 レンズを覗き込み、外を確認すると、見覚えのない女が1人、立っていた。なんだか不安そうな、おどおどした顔をした、おとなしそうな女性だ。
 外は、咲夜の知らないうちに、雨が降り出しているらしい。彼女の髪は、僅かに雨に濡れていた。そのことが余計、彼女を弱々しく、心細げに見せている。
 ―――誰、これ。
 多分、拓海がらみの女性であることは間違いないだろうが…ドアを開けていいものかどうか、悩む。背後を振り返り、拓海に言うべきか、と迷ったが―――なんだか泣き出しそうな彼女の表情が気の毒で、咲夜はつい、鍵を開けてしまった。
 途端。
 「麻生さんっ!」
 「え……!?」
 咲夜が、ほんの1センチ、ドアを開けただけで、彼女はドアに手を掛け、ぐいっと思い切り引いた。そして、ドアを開けた主が誰かも確認しないまま、いきなり咲夜に抱きついた。
 「麻生さんっ! わたしっ、わたし…っ!」
 ―――ちょ、ちょ、ちょっとー! 何、この女ーっ!
 身長、ほぼ同じ。体重、明らかに彼女の方が上。彼女に抱きつかれた勢いで、咲夜は後ろによろけ、まるで押し倒されるみたいに玄関にしりもちをつく羽目になった。
 「っ、たあぁー…! ス、ストップストップストップ!!」
 ごろん、と玄関に転がった咲夜に覆い被さっていた彼女は、ここで初めて、自分が抱きついた人物の正体に気づいたらしい。ハッ、としたように体を起こすと、転んだ痛みに涙目になっている咲夜を見、つぶらな瞳を更に大きく見開いた。
 「あ―――あなた、誰…っ!?」
 「…そりゃ、こっちのセリフだよ」
 「咲夜ー? どうしたー?」
 玄関の修羅場など知らない拓海が、能天気な声でそう言いながら、リビングに続くドアから顔を出した。そして、玄関に座り込んで対峙している2人を見て、ギョッとして目を丸くした。
 「ちょ…っ、えぇ!? なんで君がここに!?」
 「! あ、麻生さんっ」
 駆け寄ってきた拓海を見上げ、彼女は慌てて、咲夜から離れた。そして、立ち上がったかと思うと、本来抱きつくべきだった相手にいきなり抱きついた。
 「事務所の方に、今東京だって聞いて、わたし…っ。どうして連絡くれなかったんですか?」
 「…ええと…」
 なんで俺が君に連絡しないといけないわけ?
 という目で拓海は彼女を見下ろしているのだが、拓海にしがみついてしまっている彼女に、その視線は感じ取れないらしい。拓海の戸惑いを完全無視で、一人、自己陶酔の世界を突っ走る。
 「麻生さん、言ってくれたじゃないですか。わたしのこと、とっても魅力的だって。前の彼はただ見る目がなかっただけだ、って…っ」
 なるほど、東京のライブの夜にダブルブッキングした女か、と話の中身から推察した咲夜は、玄関にしりもちをついたまま、拓海を冷ややかに見上げた。その視線を感じ、拓海の困り顔が引きつる。
 「麻生さんに女の人がいっぱいいるのは知ってるけど、わたし…っ。そ、それに麻生さんだって、あの夜わたしと、あんなに」
 「あ、ああああ、ちょっと待って待って」
 とても咲夜に聞かせられない中身が続きそうな予感に、拓海は慌てて彼女を自分から引き剥がした。
 だが、引き剥がしたことで、話は別方向に転がった。
 「…っ、麻生さんっ! この子、何なんですか!?」
 「は!?」
 彼女が、咲夜を指差しながら、責めるような目で拓海を見上げた。指差された咲夜は、その指先と拓海の顔を見比べ、理不尽な、という風に眉を寄せた。
 「麻生さん、女の人は家に上げない主義だから、って、あの日、ここには連れてきてくれなかったでしょう…!? なのになんで、女の子がいるんですか!?」
 ―――まあ…、誤解するのも、無理ないけど。
 面倒なタイプだなぁ…。同情して、ドア開けるんじゃなかった―――ため息をついた咲夜は、よいしょ、と立ち上がり、自分を指差す彼女の指を、パン、と手で払いのけた。
 「っ、な、何するのよっ」
 「…あんた、いい大人なんだからさ。人を指差さないでくれるかな、失礼だから」
 「咲夜、」
 挑発するな、と、拓海に目で(いさ)められる。咲夜は肩を竦め、拓海の脇をすり抜けて、玄関を上がった。そんな咲夜をチラリと見た拓海は、ため息をつき、彼女に目を戻した。
 「…誤解してるようだけど、あの子は姪だよ」
 「め…い?」
 「そう、姪。俺には“恋人”はいないし、今後もいらない。この前、そう言っただろう? 恋人はいないけど、作る気はない、って」
 「…でも…っ」
 「…楽しく食事をする位なら、今後も喜んで付き合うよ。でも、そこに何かを期待されるのは、困る。他の女性との交際をとやかく言われるのも、こうやって押しかけられるのも、迷惑だ。君に限らず、誰でもね」
 拓海に「迷惑」とキッパリ言われ、彼女はハッとしたように顔を強張らせた。
 「…う…嘘、だったんですか? わたしのこと、とっても魅力的だ、って言ってくれたのは…」
 「嘘じゃないよ。君は魅力的だ。でも、それと“恋人にしたい”のとは別問題だろう?」
 「……」
 「君なら、新しい男がすぐ見つかるって」
 「…わたし…っ、麻生さんがいいんです…っ」
 そう言って、彼女は、ボロボロ泣き出した。なんだか見ているのも悪い気がして、咲夜はクルリときびすを返し、キッチンへと向かった。
 廊下との境のドアを閉めても、何やら拓海が宥めている声と、彼女の泣き声が聞こえる。何も聞こえなくなるよう、洗い物の続きをしようと思ったが、既に全ての食器が洗い上げられていて、残っているものは何もなかった。
 「……」
 諦めてソファに腰を下ろした咲夜は、はぁ、とため息をついた。

 「―――I'm a fool to want you... 」
 小声で、口ずさんだ。
 歌えば、何も、聞こえない。
 目を閉じ、歌の世界に漂う―――今の気分は、この歌を歌うには、結構悪くない気分かもしれない。
 「I'm a fool to want you... To want a love that can't be true... A love that's there or others too... I'm a fool to hold you......」

 さほど歌わないうちに、ガチャリ、と音がしてドアが開き、拓海が戻って来た。
 「…はー…、まいったなぁ」
 疲れたように愚痴りながら入ってきた拓海は、咲夜の隣にドサリ、と腰を下ろした。
 全ては拓海の自業自得だが、咲夜が不用意にドアを開けてしまったのも悪かった。チクリと胸の痛んだ咲夜は、
 「…ごめん、勝手にドア開けて」
 と控え目に謝っておいた。でも拓海は、そのことはあまり気にしていないらしく、僅かに笑みを返しただけで、何も言わなかった。
 「それにしても―――わかんないなぁ。拓海に群がる女の気持ち」
 「え?」
 「別に驚くほど顔がいい訳でもないし、拓海レベルの金持ちならいくらでもいるし。確かに、女に優しいのかもしれないけどさ、女は遊び、って割り切ってる辺り、結構酷い奴だってバレバレな気するんだけどなぁ」
 「…酷い言われようだなぁ、おい」
 苦笑した拓海は、ぐしゃっと髪を掻き上げつつ、続けた。
 「ま、強いて言うなら、テクニシャンだからじゃない?」
 「……」
 ―――今、何て言った? こいつ。
 唖然、と目を見開く咲夜に、拓海は楽しげに笑い、からかうように咲夜に顔を近づけた。
 「そんなに謎なら、咲夜が身をもって試してみるか?」
 「っ、バッッカじゃないの!?」
 反射的に、両手で力いっぱい拓海を押しのける。それでも頬が熱くなってしまった咲夜を見て、拓海は面白そうに声をあげて笑った。
 「あんたの趣味悪いジョークにはついていけないっ!」
 「ハハハ…、さすが。それでこそ咲夜だ」

 何が「それでこそ咲夜だ」よ。
 あんたは、私のことなんて、なんにもわかってない。

 可笑しそうに笑い転げる拓海を、咲夜は、苛立ちと僅かな痛みを感じながら睨みつけた。

***

 「かなり重いけど、大丈夫か?」
 拓海に渡された手提げ袋は、ズシリと重かった。しっかり持ち直した咲夜は、少々よろけつつも笑顔を返した。
 「な、なんとか、大丈夫。ただ、返す時持ってくるのがきついかも」
 「俺は、1度読んだ本をまた読むことってあんまりないから、咲夜が持っててもいいよ。邪魔になるようなら、宅配ででも送ってくれりゃ、ここ、宅配ボックスあるから留守でも問題ないし」
 「うん。とりあえず、全部読むのに結構かかると思うから」
 中身は、拓海が購入したジャズ大全である。ジャズ発生の歴史から、スタンダードナンバーの細かな解説まで書いてあるという名著らしいが、この重み通り、ボリュームも凄い。毎日少しずつ読んでも1ヶ月はかかりそうだ。
 「じゃ、ライブツアー後半、頑張ってね」
 「ああ。気をつけて帰れよ」
 ぽん、と頭に手を置かれる。髪に微かに感じる温かい掌に、咲夜はふわりと微笑んだ。

 ―――しっかし重いなー、これ。
 雨も降っているようだし、提げるより抱えた方がいいかもしれない。エレベーターの中で、持ち手部分を折り曲げて、胸に抱えてみた。
 ああ、この傘もいつか返さないとな―――などと考えながらエレベーターを降りると。
 「……っ、」
 目に入った人影に、思わず息を呑んだ。
 さっき、拓海の家に乗り込んできた、一見臆病で大人しそうな、彼女。とうの昔に帰ったものと思っていたその彼女が、エレベーターホールの壁に寄りかかって、立っていたのだ。
 彼女は、到着したエレベーターから出てきた咲夜に気づくと、表情を険しくし、咲夜を見据えた。
 そして、つかつかと歩み寄ると―――怒りをこめた表情で、右手を振り上げた。

 パン! と、鋭い音がした。
 左頬に、痛みが走る。平手打ちされた反動で、思わず抱えていた本を落としそうになったが、咲夜は、指先に力をこめることで何とか堪えた。

 「―――卑怯者…!」
 震える声で、彼女は吐き出すようにそう言った。
 「あんな目でわたしを見ておいて、何が姪よ! 無害さを装ってれば麻生さんの傍にいられると思って猫被ってるんでしょ。ずるい女…!」
 「―――…」

 何も、言い返す暇がなかった。
 彼女は、言いたいことだけ言い捨てると、ぷい、とそっぽを向いて、エントランスから出て行ってしまった。

***

 ドアを閉め、鍵をかける。
 自分の部屋に戻って来た事を実感すると、やっと全身の力が抜けた。大きく息を吐き出した咲夜は、よろよろとベッドに向かうと、そのままベッドに倒れこんだ。
 「……あーあ……」
 疲れた。
 肩にかけていたバッグを床に投げ捨て、抱きかかえていた本をベッドの上に放り出す。大の字になって寝転びたかったが、残念ながら、そこまでベッドは広くない。仰向けに寝転び直した咲夜は、目を閉じ、前髪をくしゃりと掻き上げた。

 ―――卑怯者、か。
 …そうなのかもしれない、と、言われて初めて思った。
 時々、あんな風にからかったりするものの、結局、拓海にとっての咲夜は、どこまでいっても“情欲の対象外”だ。だからこそ、平気で部屋に上げるし、他の女には見せない顔も見せる。咲夜は、“対象外”の仮面を被ることで、その特権を手に入れている。本当は、もう拓海と初めて出会った頃の子供ではない、れっきとした大人になっているにもかかわらず。
 彼女の言う通り、自分は、ずるいのかもしれない―――そう考え、無意識のうちに、自嘲の笑みに口元が歪む。

 多分、麻生拓海という男は、酷く(たち)の悪いアルカロイドなのだと思う。
 とびきり素敵な幻覚を見せてくれて、どんな痛みも癒してくれて―――そして、その効果が切れた時、とんでもない禁断症状を与える。どんな麻薬より中毒性のある、最悪のドラッグ。だから、味をしめてしまった女が、ああしてまたやってくる。もう二度と同じ夢は見られないと宣告されてもなお……求めずにはいられなくなる。
 だから、知らない方がいい。
 拓海の見せる夢など、知らない方が幸せだ。
 だから、知る機会のない立場の自分は、彼女たちのような不幸とは無縁だ。ジャンキーのように拓海を求めずに済む。それでいい―――嘘でも強がりでもなく、本当にそう思う。

 思う、けれど。
 それでも、なお―――胸が、痛い。

 拓海が彼女たちをどんな風に抱くのか、想像しただけで、体中が痛い。やめて、誰にも触らないで―――口を開けば、本音を叫びそうになる。そんなことを言う権利などないのに。
 じゃあ、自分も彼女たちのような立場になりたいか、と言われれば、答えはノーだ。拓海にとって、自分だけは別格でありたい。でも、その別格の立場を守るためには、自分は一生、拓海にとっては“女”じゃない存在のままでいるしかない。そのことに、自分の中の“女”が痛みを訴える。
 単純に拓海に憧れていられた子供の頃は、幸せだった。
 大人になると―――恋愛は、汚いことだらけだ。

 「…疲れたなー…」
 口に出したら、余計疲れた。
 気分転換しなくちゃ―――ムクリ、と体を起こした咲夜は、紙袋を手繰り寄せ、中から『ジャズ大全』を引っ張り出した。
 大事に抱えてきたため、本は、雨にも濡れず無事だった。そのことにホッとしたら、さっき、彼女に平手打ちされても、この本を絶対落とすまいと必死に抱きしめていたことを思い出し―――なんだか、一気に怒りがこみ上げてきた。

 ―――そりゃ、あんたから見たら卑怯に思える部分もあるかもしれないよ? でも、私が拓海の姪なのは事実なんだから、しょーがないじゃんっ。第一、猫被ってるって、何…!? あんたの大人しそうなオドオド顔の方がよっぽど猫被りじゃないのっ! なんだか可哀想だと思ったからドア開けてやったのに、その私をいきなりひっぱたくって、どーゆーことよ! え!?

 「…あああああぁ、ムッカつくーーーーっ!!」
 やり場のない怒りをぶつけるように、咲夜は本を両手で振り上げ、ベッドに叩きつけた。

 いや。
 ベッドに叩きつけたつもり、だった。

 ガゴンッ!!
 「!!」

 マットレスに当たったにしては妙な音が響き、本は、咲夜の膝のすぐ手前にバサリと落ちた。
 一瞬前の怒りも忘れ、何があったんだ? とキョトンとした咲夜は、視線を、本の背表紙に沿って移動させていった。
 そして、目の前の壁に視線を移した時―――あまりのことに、思わず悲鳴を上げた。
 「うっわあああああぁぁぁ!!!??」


***


 ピンポンピンポンピンポーン。
 忙しなく呼び鈴を鳴らし、暫し、待つ。
 ほどなくして、玄関のドアが開き、そこから顔を覗かせた咲夜は―――数日前の自分そっくりの顔をしていた。
 「…よ。こんばんは」
 「……どうかしたの、奏」
 「いや、どうした、っつーか…」
 体験したことを、ありのまま説明しようかと思ったが、その内容が数日前に咲夜から聞いたのとほぼ同じ内容であることに気づき―――やめた。
 いっそ、単刀直入に訊いた方がいいのかもしれない。意を決した奏は、少々言い難そうに口を開いた。
 「…あのさ。ちょっと訊くけど―――お前、もしかして、オレの部屋側の壁に、穴、あけた?」
 「―――…」
 咲夜の目が、一瞬、僅かに見開かれる。
 でも、奏のその言葉で、数日前に自分が体験した騒音と衝撃の正体を、ほぼ察することができたのだろう。咲夜は、ガクリ、と力尽きたようにうな垂れると、手振りだけで奏に「入ってきて」と言った。
 初めて咲夜の部屋にお邪魔する用件が、こんな用件になろうとは、予想だにしていなかったが、奏は咲夜に続き、咲夜の部屋に入った。そして、無言のまま咲夜が指差す先を見て―――言葉を失った。

 咲夜がベッドをくっつけている壁、つまり、奏の部屋と接している側の壁。
 その壁の、ほぼど真ん中が―――何故か、三角形のような四角形のような微妙な形に、抉れていた。
 壁を抉ったものの正体がわからず、視線を彷徨わす。と、その抉れた部分からちょっと離れた位置にあるベッドの上に、もの凄く分厚くて重そうなハードカバーの本が1冊、無造作に落ちていた。
 ―――な…なるほど…、あの本を壁に向かってぶん投げて、ああなったのか…。

 ため息をついた奏は、バツの悪そうな顔でぽつねんと立っている咲夜に顔を向け、こっちに来い、と手振りで合図した。
 「?」
 不思議に思いつつも、靴を履いて咲夜の部屋を出る奏に続いて、咲夜も部屋を出た。
 奏が向かった先は、奏の部屋だった。どうぞ、と手招きされたので、お邪魔します、と頭を軽く下げ、部屋に上がった。
 すると奏は、ベッドの横にある壁に、なんだか不自然な位置に貼ってあるカレンダーを、ひょい、と取り除いた。
 そこには―――奏の拳とほぼ同じ大きさの、楕円形にくぼんだ壁があった。

 「……」
 「……」

 暫し、両者とも、無言だったが。

 「……っく…」
 「…ふ…ふふ、あはははは」
 「ハハハハハハ」

 なんだか、可笑しくなって、どちらからともなく大笑いしてしまった。

 可笑しい―――なんだか、酷く滑稽で。笑えて笑えて、しょうがない。
 箍が外れたように、涙さえ浮かべながら、2人はゲラゲラと大笑いした。立っているのさえ苦しくなり、最後の方には、双方、床やベッドに半ば転がるようにして笑い続けた。

 そうして、どの位笑い続けただろうか。笑いすぎて、疲れ果て―――部屋に、静寂が戻ってきた。
 ベッドに転がった奏と、床に転がった咲夜は、それぞれ、大笑いの余韻に浸っていたが、やがて、どちらからともなく起き上がり、それぞれ、大きなため息をついた。
 「―――うまくいかないよな、ホント」
 奏が呟くと。
 「…ほぉんと、うまくいかないねぇ…」
 咲夜も、そう呟いた。

 本当に、うまくいかないものだ。世の中は。
 でも、うまくいかないのは、自分だけじゃないらしい―――顔を見合わせた奏と咲夜は、疲れたように苦笑を交わした。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22