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― モノカキの習性

 

 ―――美雪は、暗がりの中、目を凝らした。そしてそこに、まるでボロ雑巾のようになった―――…


 「…ボロ雑巾はないな」
 あまりに主人公のイメージを落としすぎる。却下。
 バックスペースをタタタン、と叩き、消す。でも、考える―――頭の中に浮かんでる図としては、もう、いかにもボロ雑巾って感じで、それを上回る比喩はないんだけどなぁ、と。
 見るも無残な。今にも息絶えそうな。…いやいやいや。違う。ダメだ。ボロ雑巾から頭が離れない。
 「…ううううーん」
 朝は頭の回転がいい筈なのに、どうも調子が出ない。はー、とため息をついた彼女、いや、彼は席を立った。
 やかんをコンロにかけ、昨日のうちに冷凍しておいたご飯をレンジで温める。京野菜の漬物と、味付け海苔、インスタントの味噌汁とお茶を準備し終わる頃、必要最低限だけ沸かしたお湯が沸いた。朝食は、昔から和食と決まっていた。
 いただきます。
 深々と頭を下げたのは、午前7時前。あちこちの家々でも、朝食タイムが始まっていた。

***

 海原真理(まさみち)―――通称・マリリン。
 彼女の、いや、彼の仕事は、小説家である。

 真理(一応ペンネームでは“まり”だが、この場に限っては、本名の“まさみち”と呼ぶべきだろう)の1日は、意外に早い。小説家とか漫画家という職業の人間は、とかく生活リズムが乱れきっているもの、と思われがちだが、真理は少々違う。むしろ、サラリーマンより健康的である。
 起床は朝5時。顔を洗い、牛乳をコップ半分程度飲むと、おもむろに机に向かう。そして、昨晩までに書き上げた連載小説のチェックを行う。途中、ちょこちょこ立ち止まっては読み返すのが、真理のやり方なのだ。
 昔は逆に、夜型だった。夜中の3時4時までうんうん唸りながら書いていた。しかし、学生時代、試験の前に早朝に勉強して結構効率が良かったことを思い出した時を境に、生活を一変させた。最近は12時就寝、5時起床でうまくサイクルが回っている。
 一通り見直しをし、若干の修正や続きの執筆をすると、標準的朝食タイムである午前7時頃、朝食をとる。
 そして、朝食が終わると、歯磨き・洗顔に続き、普通の男性ならあり得ない作業が待っている。そう―――メイクを施す、という作業が。

 真理が初めてメイクをしたのは、いきなり賞を取って、出版社に呼ばれた時だ。
 残念ながら、真理の周りには「何バカなことをしてるの、やめときなさい」と言ってくれる常識的な理解者はいなかった。「面白いじゃない、間違えたのは向こうなんだから、行っちゃえ行っちゃえ」という奴しかいなかった。どうせバレるよな、という軽い気持ちで行ったら―――あっさり、騙されてくれてしまった。
 それでも、「今なら間に合う、謝っちゃえ」と言ってくれる常識人がいてくれれば、まだ事態は変わっていただろう。
 「何言ってるの! 出版社も、あんたを“女”だと思ったから選んだかもしれないじゃない。恋愛小説は女流作家の方が売りやすいもの。小説家は、長年のあんたの夢だったんでしょう!? せっかく取った賞よ、今更逃す手はないわ。貫けっ! そのまま突っ走れっ!」
 理解があるのかないのか、とにかく、そういう無責任な後押しをする奴がすぐ傍にいたせいで、真理は“女流作家”の道を突っ走るしかなくなった。…まあ、勿論、この状況の根底には、真理自身がこの大ペテン劇を楽しんでいる、という事情があるのだが。

 しかし、楽しんでばかりいられる状況でもない。
 真理は、極々普通の、れっきとした男である。何もしなければ、男のまんま―――昔から男にしては肌が綺麗で体毛も薄いタイプだが、所詮、女とは全然レベルが違う。
 そして真理は、女装はするものの、性的嗜好はノーマルである。性的興味の対象は女性オンリーだし、性転換願望なんて微塵もない。よって、ニューハーフになるとか、女性ホルモンを摂取するとか、そういう選択肢はない。第一、こんなのは、肉体改造してまでやるお遊びじゃないだろう。
 なので、女装をしてもおかしくないレベルになるには、女性の数倍、努力が必要である。
 「はい、このパックが夜用、こっちは朝用ね。化粧水と乳液と美容液のつける順番はこの通りで、こっちのサプリメントは―――…」
 無責任な後押しをした奴が、責任を感じたのか、その辺の知恵は授けてくれた。勧めてくれた彼女の倍近い基礎化粧品を、真理は朝晩、決められたとおりに顔に塗りたくっている。サプリメントも飲んでいる。なんかよくわからないマッサージも1日おきにする。もの凄く面倒くさい。
 それに、髭。朝剃ると、翌朝になってようやく「ああ、うっすらわかるかな」という程度なのだが、それでも毎朝剃らない訳にはいかない。女性ならあまり必要のない手間だ。
 こうした手間暇をかけて、真理の美肌は、キープされる。楽しいばかりじゃないのだ。

 昔は、編集が来るとわかっている時と、作家「海原真理(まり)」として外に出る時のみ、女装していた。
 が、ある日突然編集が家に押しかけてきた時から、前述のような美肌習慣だけは身につけるようになった。いつ編集が来ても、咄嗟にメイクができるように、である。
 大スランプに陥り、編集者と都内のホテルに10日間カンヅメにされ「何が何でも書いてもらいますよ、先生」と寝ずの番をされてからは、もういいや、ずっと女装したまんまでいよう、ということになった。そして―――現在に至る。
 いまや、真理の顔は、素顔より女装時の顔の方が広く認知されている。咲夜が、本物の女性と思いこんでしまうほどに。実は時々、素顔にGパンという姿でその辺をうろついているのだが、いまだに誰にもバレたことがない。親しい人が、真理に気づかず通り過ぎるのが快感で、今年に入ってからは結構頻繁にやっている。

 ―――ってことはつまり、「女装が好き」ってより「人を騙すのが好き」なんだな。うん。
 我ながら、悪趣味である。苦笑した真理は、最低限のメイクを施すと、メイク道具一式を机の下に放り込んだ。

***

 毎朝の一仕事を終え、食後のコーヒーが入ると、ちょうど会社員が出勤する時刻辺りだ。
 窓を開けた真理は、マグカップに入ったブラックコーヒーを飲みながら、外を行き交う人々を眺める。実はこの時間が、真理にとって一番楽しい時間である。
 小説家とは、ある種「人間ウォッチング」のプロとも言える仕事だ。
 ご近所の奥様方の井戸端会議、二日酔いらしきサラリーマンの悲哀の表情、遅刻ギリギリでカーラーを外し忘れている女の子―――当たり前の人々の行動が、小説の貴重なネタになる。ああ、こういう奴いるいる、と読者に思わせるキャラクター作りは、日々の「人間ウォッチング」の蓄積がものを言うのだ。
 なので、ぼーっと窓の外を見ている真理の頭の中も、実はフル回転している。

 ―――あー、お向かいの奥さん、今日は水撒き姿に力がないなぁ。
 目が死んでるよ、目が。じーっと1点見つめながら水撒きするのって、どういう裏事情があるんだろう? 病気? 心配事? 危ない、危ない、誰かに絶対水掛けるって。
 あ、これ、“静子”に使えるかも。不倫に悩んでる静子が、心ここにあらずで水撒きしてると、そこにあの嫌味な部長の妻がやってきて、サバーッ! と水を―――うーん、またあの部長の奥さんのネチネチしたイジメを描くのも面倒だなぁ。却下か。
 あれ? あの高校生とセーラー服の女の子……知り合いだったっけ。いつも同じ位の時間にここ通るけど、いつも別々だった気が…。
 そうそう、高校生が大抵、彼女の何メートルか後ろを歩いてたんだ。ははぁ…。前から気があったんだな、あの子に。で、どっちかが告白して、ああして手を繋いで歩いてる、と。ふーん、いいなぁ、青春だなぁ。
 うんうん、結構この路線はいいかもしれない。学校の違う高校生同士、通学の途中でだけ顔を合わせてて、実はお互いちょっとずつ気になってた、って設定。王道っちゃあ王道だけど、味付け次第では面白いことになりそうだな。実は、顔は変わってたけど、幼馴染とか。
 『忘れちゃったの? 幼稚園で一緒だったユミコよ』
 『えっ、あの引越ししちゃった、お隣のユミちゃんっ!?』
 …うーん、ベタか。いまいちだなー。

 とまあ、こんなことを、ぼーっとしながらずっと考えているのだ。小説家のサガである。

 とその時、真理の目の端を、見覚えのある人物が掠めた。
 ハッ、とした真理は、マグカップを置き、窓から少し顔を出した。
 「あ、木戸さーん!」
 真理が声をかけると、203の住人・木戸は、数メートル先でピタリと足を止め、幾分緊張した様子で振り返った。
 「ハ、ハイッ?」
 「? おはようございますー」
 「お、お、お、おはようございまっす」
 何をそんなに緊張するのだろう? 木戸の裏返った声と強張った顔の意味がわからず、思わず眉根を寄せる。
 まあ、いい。出勤途中なのだし、とりあえず用件だけ伝えておこう。
 「あの、壁の件、どうもありがとうございましたー。オーナーさんも喜んでましたよー」
 “壁の件”とは、奏と咲夜の部屋の壁のこと。2階に住む2人が、それぞれ壁に結構な穴をぶち空けたのである。2人から相談を受けた真理は、ちょうどそこに通りかかった木戸に相談した。木戸は建築関係の仕事をしており、こうしたアパートやマンションの建設にも携わった経験があると聞いていたので、修理費用がわかれば、と思ったのだ。
 結果、木戸は、知り合いの内装業者をオーナーに紹介してくれた。そのおかげで、非常に格安で修理してもらえた。あいにく修理当日、木戸自身は不在だったので、奏と咲夜は共同でお礼の品を購入したらしいが、最終的に話を振った形になる真理は、まだ木戸に礼を言ってなかったのだ。
 真理の感謝の言葉に、木戸は一瞬「は?」という顔をした。が、すぐに何のことかわかったのか、
 「い、いやいやいや、とんでもないでっす」
 と言いながら、照れたように頭を掻いた。
 「う、海原さんのお力になれて、良かったですよ。ハハハハハハハハ」
 「あははははは、どうもー。じゃあ、いってらっしゃい」
 真理が手を振ると、木戸はますます照れたように顔を赤くし、ぎこちないけれどヘラヘラしている、という複雑な笑顔を満面に貼り付けたまま、ペコペコと何度かお辞儀した。そして、お辞儀を繰り返しながら、駅の方面へと歩き去った。
 「……」
 ―――“海原さんのお力になれて”?
 …なんとなく、嫌な予感。
 笑顔で木戸を見送りつつも、木戸の「恋する少年」ぽい反応が頭から離れず、背筋が僅かに寒くなる。いや、木戸は妻子持ちだし、なおかつ真理より更に年上なのだから、いくらなんでもそれはないだろうが―――…。
 「…ないよな、うん」
 完全に素の、低い声で、呟く。ないない、絶対ない。マグカップを手に取り、真理は再び「人間ウォッチ」に没頭した。


 “ベルメゾンみそら”の住人は、出勤時間がバラバラである。
 まず最初が、今出て行った木戸。次に顔を見せるのは、大抵の場合、隣の友永由香理、もしくは204の名無し住人・“ミスター・X”だ。
 ―――おや、今日はほぼ同じ時刻か。
 “ミスター・X”と思しきスーツ姿が、颯爽と目の前を横切る。その1分後、やたら前髪を気にしながら、由香理がツカツカと横切った。どうやら前髪のカールが上手くいかなかったらしい。
 ―――ふーん…。ま、確かに、ここって通勤に便利だから、9時始まりの会社に勤めてると、出勤時間って被るよなぁ。でも、あの2人って、結構前後して、ほぼ同じ時間に出て行くことが多いんじゃないかな。お隣さん、どこだっけ? 丸の内? ふーん、じゃあ、“ミスター・X”も丸の内辺りなのかも。

 「…あ、そうだ」
 いい設定、思いついた。
 同じアパートに住む男と女。お互い、顔も名前もよくわからず、それぞれの存在を知らないで、もうそこに2年も暮らしている。
 ところが! なんとこの2人、同じ会社の社員だったのである!
 何故これまで気づかなかったのか、って? それは、丸の内にある大企業だから。全然違う部署に勤めているので、2人は同じ会社に勤めながら顔を合わせる機会がなかった。ところがある日、
 『えっ! な、なんであなたが、ここに!?』
 『君こそ、どうしてここに! まさか、うちの社員だったのか!?』

 「おっはよー、マリリンさん!」
 真理の思考の暴走に割って入るように、元気な声が響いた。
 我に返って視線を移すと、咲夜が真理に手を振っていた。その隣には奏もいた。
 「あらー、おはよう。2人仲良く出勤?」
 「ミルクパン見てて、合流しちゃったんだよね」
 ね、と咲夜が見上げると、奏は笑いを堪えるような目で咲夜を見下ろした。
 「こいつさ、もうちょい早く出ないといけないのに、ミルクパン構いすぎて遅刻しそうになってやんの。バカだろ」
 「私がバカなら、ミルクパンに手から餌やろうとして指食べられてるあんたも、相当バカなんじゃない」
 「うるせーよっ」
 ムッとした顔で互いに小突きあう奏と咲夜を眺め、真理は、微笑ましいなぁ、と目を細めた。恋愛関係ではなくても、こういう楽しそうな関係は見ていて和む。もっとも、この微笑ましい関係と壁に空いた穴との因果関係は、本人達が固く口を閉ざしているので、いまだにさっぱりわからないのだが。
 「まあまあ、いいじゃないの。双方痛み分けってことで。それより、遅刻しそうなら、早く行った方がいいんじゃないの?」
 「うん、行ってきまーす」
 手を振る2人に、行ってらっしゃい、と手を振り、見送る。
 いつ見ても元気そうだなぁ―――まだ奏と何やら言い合っている咲夜の後姿を見送りながら、真理はそう思い、ふと表情を曇らせた。

 『帰らなきゃよかった』

 今年の元日。そう言った咲夜の顔は、その言葉の意味とは裏腹に、勝気な笑顔だった。それは、泣きそうな顔や怒った顔で同じセリフを言う何倍も、なんだか痛々しく感じた。
 あれ以来、真理は、咲夜に非常に興味を持っている。
 それは、小説家的興味、というより、個人的興味だろう。案外―――あの、言葉とは対極にある笑顔の作り方に、自分と同じ「人を騙して生きている人間」の要素を、咲夜の中に感じたのかもしれない。


***


 何故、どうして、こんなことを。
 美雪は、胸の痛みに耐え切れず、口元を手で覆い、静かに涙をこぼした。
 「泣くな。全部、僕が自分で決めたことだ。美雪には関係ない」


 ―――関係ない、って、ちょっと冷たいか。
 バックスペースで、数文字消す。確かにぶっきらぼうな主人公だが、ここまで冷たいのはまずい。この連載のターゲットは高校生から20代前半だ。悪い男に憧れを抱く年齢かもしれないが、「冷酷だがヒロインにだけは優しい」という要素がないと、ウケないのだ。
 「冷たい奴は、誰にでも冷たいんだけどねぇ、実際は」
 下手に冷たい奴に設定してしまって、失敗だったかもしれない。ため息をついた真理は、一気に数行選択し、削除キーをポン、と押した。
 現在、真理が使っている執筆道具は、ノートパソコンと一太郎である。
 2年ほど前までは、ハイテクの波に流されてなるものか、と言わんばかりの頑なさで、愛用の『書院』にしがみつき続けていた。ペーパーレス、ペーパーレス、と編集部がうるさく、また、真理にとって最も影響力のある人物からも「もう21世紀になるのよ、諦めなさい」と呆れられたため、やむなく『書院』に別れを告げた。でも、気のせいだろうか。一太郎になってから、なんだか執筆速度が少々落ちた気がする。
 ああ、『書院』が懐かしい。でも、ワープロ用インクリボンが店頭から次々に消えて行くのを目の当たりにすると、これも時代なのか、とうな垂れるしかない。とにかく、疲れてしまったので、真理は書きかけの文書を保存し、立ち上がった。

 ―――ああ、そう言えば、そろそろ次の連載のプロットも練らないと。
 気分転換にまたコーヒーを飲みながら、抱えていた宿題を思い出し、ちょっとうんざりする。
 今朝頭に浮かびかけた、由香理と“ミスター・X”からヒントを得たネタはどうだろう? 結構いける気がする。もうちょっと掘り下げてみようかな、と、真理は窓を開けた。
 窓の外は、そろそろ日が暮れ始めていた。
 学校帰りだろうか、ランドセルを背負った子供が数人、パタパタと走りながら通り過ぎる。1年生らしき子は、ランドセルが大きすぎてうまく走れない。その様子を眺めながら、危なっかしいなぁ、と、思わず口元をほころばせる。
 恋愛モノもいいけれど、ああいう子供とのふれあいみたいな話も、書いてみたいよなぁ。
 少々、恋愛モノが自分の中で食傷気味になっているのかもしれない。最近、恋愛以外のネタの方が、頻繁に頭に浮かぶ。でも、真理に求められるのは、あくまで恋愛モノだ。ヒューマンドラマなど、編集部は求めていない。頭を切り替えないと―――ため息をつき、コーヒーをくいっ、とあおった。


 ええと。
 男と女は、同じアパートに住んでいる。
 挨拶もしないほど、希薄な関係。でも、同じアパートの住人であることは認識している。そんな2人が、ある日、同じ会社の人間であることが発覚する。
 ここでいきなり恋に落ちるのは、変だ。むしろ最初は、同じアパートの住人だからこそ、いがみ合うような要素があった方がいい。

 『あのっ! 前から言おう言おうと思ってたんです! お願いですから部屋の中で筋トレやるの、やめてくれません!? あの安普請のアパートでバーベル落とすなんて、一体何考えてるんですか!?』
 『そんなことを言う君こそ、夜中に壁を蹴ったり殴ったりするのはやめてくれ! この前なんか、僕の部屋の壁に亀裂が入ったんだぞ! どうやって弁償してくれるんだ!』
 『えーと、いい内装業者、紹介しましょうか? 海原さんのためですよ、ハハハハハ』


 「……そーじゃなくて」
 いきなり木戸の照れ笑いに邪魔され、ガクリとうな垂れる。…駄目だ。アパートをネタにしようとすると、どうも余計な雑念が混じりすぎてしまう。
 うーん、面白い設定だと思ったんだけどなぁ―――栗色の髪をガシガシと掻き毟る真理は、直後、ふと視線を感じ、顔を上げた。
 「―――え? 一宮さん?」
 そこにいたのは、奏だった。
 朝見たのと同じ服装で、真理の部屋から少し離れた路上に、曖昧な表情をして佇んでいる。その顔がしっかり真理の方を向いていることから察するに、何か真理に用事があるのだろう。
 「お帰りなさーい。随分早いのねえ、今日は」
 独り言や考え事は普通の口調だが、女装時に他人と話す時は、自然と女言葉になる。それが考えなくてもできてしまう辺り、我ながら気色悪いな、と思わなくもない。
 声をかけられた奏は、曖昧な笑いを返し、
 「あー…、いや、今日は早番で、3時で上がったんで」
 と答えた。そして、そのまま部屋に向かう様子も見せず、まだ意味ありげに路上に佇んだ。
 そう言えば、2、3日前にも、朝会った時、似たようなことがあった。何か訊きたそうな、何か言いたそうな顔をして、真理の方をチラチラ見る奏に、どうしたんだろう、と不思議に思ったのだ。
 「? 何、どうしたの」
 「……」
 「アタシに話があるの?」
 「……いや、うん、話、っつーか、なんつーか……」
 「???」
 何をそんなに口ごもっているのだろう? 不思議に思って眉をひそめる。
 すると奏は、ごほん、と咳払いを一つして、足早に真理の部屋の窓の下に歩み寄った。そうして、近所には聞こえない程度の小声で。
 「―――あ…あの、さ。マリリンさんに、すげー変なお願い、してもいいかな」
 「変なお願い?」
 「ん。かなり、変」
 「…何?」
 一瞬、躊躇する。が、思い切ったように奏は口に出した。
 「―――ごめん。1回でいいから、マリリンさんのメイク取ったすっぴん顔、見せてもらえない?」
 「…………」

 メイクを取った、すっぴん顔。
 すっぴん顔、って、アレ、ですか。朝起きて顔洗っただけの時の、あの顔ですか。

 「…そ…っ、それ、は、へ、ヘヴィーな要求だわねえぇ」
 無理矢理笑おうとする真理の口元が、微妙に引きつる。
 いや、別に、素顔が呆れるほど酷い、という訳ではない。冷静に考えると、むしろメイクをしたこの顔の方が、総合評価的には低い気がする。こう見えて素顔の時、きちっと髪を後ろに撫で付けてバリッとしたスーツでも着れば、同年代の中ではそれなりに「いい男」の部類に入ったりするのだ。
 だが。
 “マリリン”の顔を知っている人間の前に、その顔を晒すとなると、また別問題。
 「日頃あなた方が見ているあの顔の下は、実はこんな顔なんです」と暴露してしまうのは、かなり、勇気が要る。素顔と“マリリン”の顔をイコールで結ばれることには、やはり抵抗がある。素顔が知られていないから、気楽に“マリリン”の顔をできる、というのが正直なところだ。
 「や…やっぱ、駄目か、な」
 「う、うーん…。というか、なんで急に?」
 今更なんで、という疑問が、どうしても拭えない。とりあえず事情を訊いてみよう、と真理が疑問を口にすると、奏の顔が、ギクリと強張った。
 「えっ。なんで、って」
 「だって、今更でしょうが。もう5ヶ月近く、この顔見てるんだし」
 「…う…、ま、まあ、そう、なんだけど…」
 奏の言葉の語尾が、曖昧に消える。急に気まずそうな顔になった奏は、落ち着かなく視線を彷徨わせ、結局、誤魔化すようにハハハ、とわざとらしく笑った。
 「ま、まー、いいや。ちょっとした好奇心だから、うん」
 ―――ちょっとした好奇心で訊くのに、あんなに口ごもるかな、普通。
 「…まあ、一宮さんがそれでいいなら、いいんだけど」
 「ちなみに、参考程度に訊くけど、かなり特殊なメイクしてる?」
 「特殊?」
 「ドーランで塗り固めてるとか」
 「それはないわねぇ」
 「ふーん…」
 興味津々、という目で、しげしげと顔を凝視される。何がそんなに興味津々なのだろう?
 「まさか、一宮さんも女装がしてみたいとか?」
 冗談で、そう言ったら。
 「―――…」
 奏の表情が、固まった。
 「……」
 「…………」
 ええと。
 この“間”はもしかして、図星??
 と思った刹那、奏の顔が、不自然に笑った。
 「ハ、ハハハハハ、んな訳ないだろー!? やりたくてやる奴なんていないって」
 「いるわよ、ここに」
 サクッ、と指摘すると、奏は笑顔を引きつらせた。
 「…ええと、とりあえずオレは、やりたいとは思ってないから」
 「ふーん…」
 「ほんと、ただの好奇心だから。じゃ、サンキュ。参考になった」
 「…いーえ、お役に立たなくて」
 やや唐突に話を切り上げると、奏はそそくさと窓から離れ、アパートの中へ引っ込んだ。その様子を目で追った真理は、どうにも釈然とせず、ひとり、首を傾げた。

 ―――ただの好奇心なのに「参考になった」って、ちょっと矛盾してない?
 自分がやっておいて何だけど、やめといた方がいいんじゃないかなぁ…。あれだけ綺麗な顔の男が、本気でメイクして女装したら、絶対病みつきになると思うんだけど。特に周りが下手に褒めちゃったり、女と間違えた男にナンパされたりすると、周囲の目を欺いてる快感てのもあるしなぁ。


 同じ会社だった男と女。実は、女と思われていたのは、女装した男だった。
 『なんだとっ! き、君は僕を騙したのかっ!』
 『ひ、酷いわっ。あなただって、アタシを女だと信じたじゃないのっ。美しい男が女装をしたくなるのは当然よ。愛があれば性別なんてっ』


 「……いや、だから、違うって……」
 ネタ元がネタ元なだけに、このアパートに関わるもの全てを、つい新連載のプロットに繋げてしまう。もういい加減、この設定からは足を洗った方がいいのかもしれない。
 もう十分息抜きもしたし、そろそろ執筆に戻るか―――大きく伸びをした真理は、残りのコーヒーを一気に飲み干し、窓を閉めようとした。
 そして、半分ほど閉めた時。
 「……」
 ―――中学生…?
 学生服を着た男の子が1人、アパートの入り口付近をうろついているのを、見つけた。
 彼は、心細そうな顔をしていた。
 階段を下りた所にある郵便受けや、2階の窓、通りの向こうなどをキョロキョロ見ては、不安げに俯く。そんな動作を、何度も繰り返している。
 誰だろう? 全く見覚えのない顔だ。住人の家族だろうか、とも思ったが、そのあどけない顔に、真理の知る住人たちとの共通項はあまり見出せそうになかった。
 声をかけた方がいいんだろうか。
 そう思って、真理が口を開きかけた時―――少年の目が、ふいに、真理の方を向いた。
 「……っ、」
 アパートの住人に見られていた、ということに気づき、少年の顔が、慌てたような様子になる。
 「ちょっと、」
 真理が声をかけたが、少年はパッ、と頭を下げると、まるで逃げるように、駅の方へと走り去ってしまった。
 ―――誰だろ…、あの子。
 中学生、中学生……。確か、秋田にいる木戸の息子が、中学1年生だった筈。


 同じ会社だった男と女。実は、女と思われていたのは女装した男で、男の方は実は子持ちだった。
 『あなたが、父の東京の愛人ですか。母が泣いてるんです、今すぐ別れて下さいっ!』
 『えぇ!? い、いえ、アタシはほら、女に見えるけどれっきとした男で…』
 『冗談言わないで下さいっ! 女装なんて、やりたくてやる奴、いる訳ないでしょう!』


 「……あー、もう」
 駄目だ。職業病だ。ちょっとしたことがきっかけで、すぐ頭の中で妙なシーンを組み立ててしまう。
 手近なところで新連載のネタなんかを思いついたのが間違いだった。一瞬浮かんだおかしなストーリーを追い払うべく、真理は頭を2、3度振り、今度こそ窓を閉めた。

 ―――…でも。
 妙に、気になる。さっきの男の子。

 「…誰を訪ねて来たんだろう…」


 それがわかるのは、もう少し先―――紫陽花が見ごろを迎える頃のこと。


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