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― Change!

 

 その日咲夜は、偶然、奏のポスターを発見した。

 「…ひえー、誰だよこれ」
 腕時計の電池交換を待つ間、壁に貼られたポスターを凝視して、思わず呟く。
 間違いなく、奏だ。でも、奏を知っている咲夜から言わせれば、奏そっくりのアンドロイドだ。完璧な顔の造り、完璧な薄い笑み―――まるで絵に描いたようなその姿からは、「顔が綺麗」ということ以外の奏の魅力など、何ひとつ伝わってこない。
 ―――確かに綺麗だし、凄く上手い写真なんだけど……上手い歌が全部魅力的な訳じゃないのと同じで、綺麗ならいい、ってもんでもないんだよなぁ。奏はお人形さんモデルじゃなく「表現者」としての自負があるから、表現することを禁じられちゃったら、相当ストレスだろうなぁ。私だって、ただ綺麗に、感情込めずに歌え、って言われたら、ふざけるんじゃねぇ、ってキレるよ、きっと。
 これのせいで、真冬の雨の中を彷徨って、風邪ひいて寝込んだ訳か―――ちょっと、納得した咲夜だった。

 日中、そんなことがあったせいか、それとも、壁の修理代のせいで外での飲み食いを自粛している同士の気晴らしのためか、咲夜は帰宅後、バドワイザー2本を携えて、奏の部屋の呼び鈴を鳴らした。
 まだ帰ってないかな、と思いつつ暫し待つと、ドアの向こうで人の動く気配がした。
 「はい?」
 「咲夜ですー」
 返事をすると、すぐにドアが開いて、奏が顔を出した。
 「やっほー。暇だったらちょっと酒盛りでも―――…」
 ビールを掲げて笑顔でそう言いかけた咲夜だったが。
 奏の顔を見て、その言葉は、途中で止まった。

 「…………」
 「? 何?」

 口をポカンと開けている咲夜の様子に、奏は、キョトンとした顔をした。が、直後―――ハッ、として、顔を引きつらせた。
 気まずい空白が、5秒。
 ポカンとしていた咲夜の表情が、動いた。
 「そ…、そ…、」
 「ちょ…っ、ストップ!」
 廊下で叫ばれては敵わない。慌てて奏は、咲夜の腕を引っ張り、部屋の中に引き込んだ。
 バタン! とドアが閉まると同時に、咲夜は、奏を見上げて大きく目を見開いた。
 「奏…っ!? えええ!? あんた、なんつー顔してんの!?」
 夜10時ちょっと前。場所は自宅。でも、奏の顔は、どう考えても素顔ではなかった。つまり…メイクをした顔だった。しかも、男性用メイクとか、そういうのではなく―――柔らかい色のアイシャドーやら口紅やらを使った、明らかに女性用メイク。
 「……うるさい。叫ぶなって」
 「叫ぶよ普通っ!」
 「あああ、チキショー、失敗したなぁ」
 舌打ちして頭を掻き毟る奏は、その表情も仕草も、いつもの奏なのに―――顔だけ、ばっちりメイク。そのギャップが、ちょっと…気持ち悪い。
 と、そこまで考えて、咲夜はハッとして表情を強張らせた。
 「ま、まさか奏も、マリリンさんみたいに“そっちの道”に目覚めちゃったの?」
 「ちーがーうって!! ちょっとメイクの研究してたんだよっ!」
 「自分の顔で?」
 「そーだよっ! 飯食ったし、あとシャワー浴びて寝るだけだからと思って研究に没頭してたのに、お前が変な時間に呼び鈴鳴らしたりするから、どんな顔してんのかも忘れてドア開けちまったんだろーがっ!」
 「…いや、でも―――自分の顔で??」
 どうしても、そこが気になる。
 疑いの眼差しでじーっと咲夜が見上げると、イライラした様子の奏は、ガクリとうな垂れ、大きなため息をついた。
 「―――…ま…、とりあえず、入れよ」
 「ねえ」
 「なんだよ」
 「普通、メイクアップアーティストって、自分の顔でメイクの研究したりするもん?」
 「…っ、てめー、しつこいぞっ」
 ギロリ、と睨む奏の視線にも負けず、咲夜はニンマリと笑った。
 「…ふーん、なんか、訳アリっぽいじゃん。酒の肴に、聞かせてよ。奏が女に化けてた“事情”とやらをさ」


***


 話は、今から2週間ほど前―――4月もあと1週間で終わるという頃に遡る。


 「なんだろな、オレも打ち合わせに出て欲しい、って」
 「さあ…? 何か、本人に確認しなきゃいけない企画の変更があるのかもね」
 とある音楽機器メーカー本社ビルの廊下を進みながら、奏と佐倉は、そんなことを話していた。
 瑞樹がカメラマンを務める、MP3プレーヤーの新商品の仕事。佐倉の地道な根回しも功を奏し、無事、奏がそのモデル役を射止めたのだが―――その後の展開が、ちょっと釈然としないものとなっていた。
 通常、衣装合わせや絵コンテの確認など、最終的な打ち合わせには奏も参加するが、それまでの打ち合わせは、エージェントである佐倉が行う。金銭交渉は勿論のこと、自分がマネージメントするモデルのイメージを損なっていないか、他に契約しているメーカーとの契約内容に抵触していないか、等々、細かな部分をチェックしながら、よりモデルにとってプラスになる仕事へと話を持っていくのが佐倉の仕事だ。
 ところが、今日―――まだ最終打ち合わせではないこの時期の打ち合わせに、何故か奏も呼ばれた。しかもこの打ち合わせは、今週になって急に決まったものだ。
 「どうする? 大幅に一宮君のイメージを損なうような変更だったら」
 「…成田が撮るんだったら、受ける」
 どういう変更があったにしても、カメラマンが瑞樹である以上は、絶対自分のマイナスにはならない―――真っ直ぐ前を見つめたまま、奏は低く答えた。
 「―――確かに、一宮君が蹴りたくなるような変更なら、あいつの方も蹴るでしょうね」
 佐倉が苦笑してそう言ったところで、会議室に着いた。
 「失礼します」
 会釈して中に入る佐倉に続き、奏も会議室に足を踏み入れる。途端―――思いがけない人物の姿をそこに見つけ、奏は、一瞬足が竦みそうになった。
 「……」
 ―――な…、なんで、いるんだよ、今日に限って。
 佐倉に会釈する瑞樹の隣に、ペコリと頭を下げる蕾夏の姿があったのだ。
 少し顔を強張らせている奏と目が合い、当然のように笑みを見せてくれる。そんな蕾夏に、奏はぎこちなく笑みを返し、急激にうるさくなった心臓を宥めながら席に着いた。

 蕾夏と会うのは、あの壁をへこませた日以来だ。
 瑞樹と仕事をする、ということは、当然、蕾夏と顔を合わせる可能性がある、ということだ。でも今日は平日……専属ライターとして、毎日きちんと会社に勤めている蕾夏が、まさかこの場に顔を出しているとは予想していなかった。不意打ちすぎる再会に、どうしても鼓動が乱れる。
 ―――多分…気づいてるよな。
 蕾夏が、奏の気持ちなど一切気づかずに笑顔を見せるような無邪気な女性であるなら、まだ良かった。
 でも、むしろ逆だ。蕾夏は鋭い。どれだけ奏が隠しても、僅かな表情や態度から、奏の中にある蕾夏に対する感情がいまだに以前と変わっていないことを、毎回、敏感に察知している筈だ。察知し、理解した上で、笑顔を見せる―――大丈夫、そういう奏君でも私達は友達でいられる、だから焦らなくていいよ……と。
 そんな人だから、余計、心が離れない。
 自分にその資格があるとは、いまだ、信じきることができないのに―――全てを知った上で、自分に友情を与えてくれる。そういう人だから、ますます惹かれる。蕾夏だけじゃなく……瑞樹にも。

 隣に座る佐倉には気づかれないよう、密かに深呼吸を繰り返す。ふと目が合った瑞樹が、「大変だな」と言いたげな笑みをふっと浮かべたので、奏も苦笑を返しておいた。
 「いや、お待たせしました」
 そこに、クライアントと広告代理店の人間が数名、入ってきた。
 カメラマン側、モデル側、双方挨拶を交わし、全員着席したが、その段になって奏は、本来ならいるべき人々がもう1組いる筈なのに、その姿がどこにも見えないことに気づいた。
 「…なあ。女のモデルって、どうなったの」
 最初の契約の話では、ポスターは、奏が務める男性バージョンと女性バージョン、2種類あるとのことだった。ただ、女性バージョンに起用するモデルの選考が難航しているらしいことは、前から聞いていた。アートディレクターが難しい人で、なかなか首を縦に振らないのだそうだ。
 まだ決まっていないのだろうか―――こっそり佐倉に訊ねると、佐倉も眉をひそめ、小さく首を振った。
 「さあ? 何も連絡入ってないけど……今日も来てないわねぇ」
 ―――大丈夫かよ。もうあと1ヶ月ちょいだろ? 間に合うのか?
 もしかして今日呼ばれたのも、女性モデルが決まらなくて撮影延期とか中止とか、そういう話なんだろうか。少々不安になってくる。
 「えー、お忙しいところお集まりいただき、申し訳ありませんでした」
 どうやら広告代理店の担当者がこの場を仕切るらしい。1人、席を立ち、ひょこひょこと頭を下げる。
 「実は、今回の広告プランに関して、大きな変更が生じることとなりましたので、そのことに関して皆さんのご意見を伺いたく思いまして―――ええ、詳細は、アートディレクターの方から」
 お願いします、と担当者が耳打ちすると、隣に座っていたアートディレクターが、軽く頷いて立ち上がった。30代半ばといった感じだろうか。ちょっと気難しそうな顔をした男だ。
 「アートディレクターの、西です」
 みんな名前は知っているだろうに、西はそう言って、僅かに会釈した。
 「皆さんご承知とは思いますが、新製品は、カバーをチェンジすることで、性別やTPOに合わせてプレーヤーのデザインを変更できる、という点がポイントとなっています。それを表現するため、“動”を表す男性版ポスターと、“静”を表す女性版、それぞれの広告を作成し、それを駅構内などに交互に貼るプランを立てています」
 西の説明に、それぞれ、軽く頷く。確か男女2種類ずつ作成し、4枚1セットで貼るとの説明だった。
 「男性版は、比較的スムーズに一宮さんに決定したんですが―――女性版のモデル選考に、いささか苦労しています。しかし、最悪でも今週中に決定しなくてはまずいため、数日前から、根本的にプランを見直してみたんです。ところが、その過程で、新たな案が浮かびまして…」
 そう言った西の目が、チラリと奏の方を向く。
 ただこちらに視線を流しただけなのに、奏は何故か、ゾクッとした嫌な予感を感じた。
 「“Changeable”(変えられる)という商品コンセプトを、より明確に打ち出すのであれば―――いっそ、女性版も、一宮さんにお願いしようかと」
 「―――はっ?」
 奏の素っ頓狂な声が、会議室に短く響いた。
 佐倉も、向かい側の席に座る瑞樹と蕾夏も、はい? という表情で固まる。それってどういう意味ですか、という4人の脳裏には、ある答えがほぼ同時に浮かんだのだが―――まさかそりゃないだろう、と一瞬で打ち消した。
 だが、西の説明は、その打ち消した答えを裏付けるものだった。
 「つまり。男性版は当初の予定通りのものを一宮さんに、そして女性版も、企画にほぼ近いテイストのものを、一宮さんに演じていただく、ということです」
 「……」

 女性版を、ほぼ企画通り、奏が演じる。
 ということは、つまり―――…。

 「…まさか、女に扮する、ってことじゃあないですよね」
 冗談でしょ? というニュアンスを滲ませて奏が言うと、西はにこやかに答えた。
 「いえ、その通りです。女性を演じていただきます」
 「―――…」
 グラグラグラ。
 なんだか―――急激に、眩暈がしてきた。
 ちらっと目を向かい側に向けると、瑞樹も蕾夏も、真面目な顔をキープしようと努力はしているが、明らかに口元が歪んでいた。笑うのを堪えているのだろう。
 「あの、すみません。その女性版の方、コスチュームはどうなってるんでしょう?」
 やはり笑いを堪えているのか、質問する佐倉の声も、いつもよりちょっと上ずっている。が、マネージャーとしてきっちり確認すべきことは確認しなくてはならない。あくまでも口調は真面目だ。
 「極端な話、特殊メイクで体型まで作りこんだりするような服装ですと、一宮の今後の仕事に影響します。一宮は基本的にファッション系のモデルですし、ショーに重きを置いてますから、“イロモノ”的なイメージが定着するのは…」
 「ああ、その点は大丈夫です。見る者に“もしかして女の人かな”と思わせる程度で、特に女装させるつもりはないので。服装はシンプルに、布を1、2枚羽織ったり被ったりするだけです。むしろ、服装などで“女性”を表すより、表情や陰影で表したいと思っています」
 「表情…、ですか」
 「一宮さんなら、できます」
 妙に確信を持った口調で、西はそう断言した。
 「ポートフォリオにあった写真―――あれを見て、思ったんですよ。一宮さんは、感情さえ伴えば、どんな表情でもできる人だ、ってね。ほら、全く表情のない、素になってる時のが1枚、あったでしょう? あのニュートラルな顔が、あれだけ多種多様な顔を、しかも豊かに表現できている、と実感できたことが、そもそも一宮さんを起用したきっかけなんですよ」
 そう言われ、奏は思わず瑞樹の方に目を向けた。
 撮影の合間に、不意打ち的に撮られた1枚―――瑞樹が何故その1枚を選んだのかわからず、奏が首を傾げた1枚だ。不思議がる奏に、確か瑞樹はこう言った―――商材から来る第六感だ、と。
 「まさに“Changeable”な素材です。だから、一宮さんならできると確信してます。下手に女性モデルを使うより、一宮さん1人を変化させる方が、絶対に企画としては正解ですよ」
 「はあ……」

 そうは言われても……正直、自信がない。
 というより、あまりやりたくない。

 もの凄く気の進まない顔をする奏をよそに、佐倉は乗り気だった。
 「じゃあ、絵コンテを見せていただいて、それと、契約金と制約内容の見直しをさせていただいて―――条件の折り合いがつけば、こちらとしては異存はありません。ね? 一宮君」
 「…オレ、あんまり…」
 「こちらも異存はないですよ」
 消極的な奏の発言を遮るように、瑞樹もサラリとそう告げた。
 冗談だろ? という目で奏が睨むと、瑞樹は口の端だけで微かに笑い、すぐに正面の担当者たちの方に目を向けた。
 「撮影スケジュールに変更がなければ、何ら問題ありません」
 「ええ、スケジュールは同じです。ああ…ただ、一宮さんの方は、もう1日撮影に割いていただかなくてはいけませんので。1日置いた日曜日ですが、大丈夫でしょうか?」
 ―――なんか、だんだん、逃げ道が…。
 平日なら、“Studio K.K.”での仕事を理由に蹴ってやろうかと思ったのに……日曜は、元々、奏の休日だ。観念して、奏は小さくため息をついた。
 「…ええ、大丈夫です」
 「そうですか! では、さっそく細かい打ち合わせを…」


 その後、打ち合わせはサクサクと進んだ。
 絵コンテを見る限り、アートディレクターの言う通り、女装というより「もしかして女?」という感じだ。1枚は肩より上のショット、もう1枚も肘辺りから上の横顔のショット―――とりあえずスカートを穿けとかそういう話ではなさそうなので、ちょっとだけホッとした。
 男性バージョンは、以前見たのとほぼ同じ。ただし、男女演じ分ける関係からか、絵コンテの中の人物は、髪が黒く塗られていた。

 「奏君が髪染めると、どういう感じになるんだろうね」
 打ち合わせ後、近所の喫茶店で4人でお茶を飲みながら、蕾夏がちょっとわくわくした表情で奏の頭を見つめた。金髪ではないものの、茶色と呼ぶには薄い色合いの奏の髪―――真っ黒にしたらどうなるのか、奏自身にも見当がつかなかった。
 「…黒髪になるのなんて、どーってことないよ。それよりオレは、女()る方がプレッシャーだよ」
 奏がウジウジとそう言うと、佐倉がその頭をスパーン! とはたいた。
 「なーに言ってんの! 大丈夫よ、あのアートディレクター、結構“鬼才”で通ってるのよ。その“鬼才”のお墨付きなんだから、自信持ちなさい、自信!」
 「けどさぁ…。そりゃ、今までも“これって性別どっちだよ”って衣装、何度かあったぜ? けど、最初から“女をやれ”って言われたの、これが初めてなんだよなぁ…。いくらキャリアあっても、こればっかりは…」
 「もう受けちゃったんだから、やってもらうわよ。一宮 奏の名に傷がつかないよう、きっちりと」
 ―――バカヤロウ、プレッシャーかけるなっつーの。
 奏が睨んでみせたが、佐倉は知らん顔だ。そりゃあ、事務所的には万々歳だろう。ギャラが倍額になったのだから。
 「…ま、撮影まで時間あるから、存分に研究すりゃいいんじゃない」
 もう1人の当事者である瑞樹は、コーヒーを口に運びつつ、涼しい表情でそう言った。
 「お前、そっちもセミプロだろ」
 「…まあ、確かに、そうなんだけど」
 「美人に化けろよ。“美形な男”と“美女”は、まるで違うからな」
 ニッ、と笑って瑞樹が放ったこの言葉の方が、その難しさを知る分、奏にとっては佐倉の言葉以上にプレッシャーとなった。

***

 その日以来、奏は、いかにして女に化けるか、そのことに頭を悩ますようになった。
 “Studio K.K.”の仲間には、ちょっと相談し難い。というか、相談したくない。知られたくない。ポスターが出来上がればどうせバレるのだが、事前に知られて散々ひやかされるのは嫌だ。なんとか自力で頑張って、どうしても無理なら最後に泣きつこう、と奏は考えた。
 そこで、手っ取り早いところで真っ先に浮かんだのが―――マリリンだった。

 ―――いやー…、見事だよなー…。
 朝、階段下で偶然顔を合わせたマリリンを、これまでとはまた違った思いでじっと見つめる。
 いまだ年齢のわからないマリリンだが、話から想像するに、確実に30は超えているだろう。女性でも、30過ぎれば肌質が随分と変わる。男なんて、そもそもホルモンが女性とは全然違うから、滑らかな肌をキープするのは至難の業だろう。それを―――こうして見る限りは―――ほぼ完璧にやり遂げているマリリンを、奏は尊敬の目で見ずにはいられなかった。
 どういうメイクを施して、あの顔になっているんだろう。
 訊きたくて、うずうずしてくる。
 そして、数日後―――ついに奏は、思い切ってマリリンに頼んでみた。

 「―――ごめん。1回でいいから、マリリンさんのメイク取ったすっぴん顔、見せてもらえない?」
 奏が、ためらいがちにそう頼むと、さすがのマリリンも顔をひきつらせた。
 「…そ…っ、それ、は、へ、ヘヴィーな要求だわねえぇ」
 「や…やっぱ、駄目か、な」
 「う、うーん…。というか、なんで急に?」
 当たり前すぎる反問に、今度は奏の顔がひきつった。
 「えっ。なんで、って」
 「だって、今更でしょうが。もう5ヶ月近く、この顔見てるんだし」
 …全くもって、その通り。でも、本当の理由は、「えぇ!? 一宮さんが女装するの!?」とマリリンが大口を開けて笑う姿が容易に想像できて、ちょっと言えなかった。
 「ま、まー、いいや。ちょっとした好奇心だから、うん」
 結局奏は、そんな風に適当に誤魔化した。
 「ちなみに、参考程度に訊くけど、かなり特殊なメイクしてる?」
 「特殊?」
 「ドーランで塗り固めてるとか」
 「それはないわねぇ」
 ふーん、そうなのか―――更にまじまじと、マリリンの顔を凝視する。撮影ならライトの加減もあるし、撮影時限定のことだから、下地に工夫を凝らせば、マリリンほどの美肌でなくても何とかなるのかも…。
 そんなことを色々考えていたら、不審気な顔をしたマリリンが、ポツリと訊ねた。
 「まさか、一宮さんも女装がしてみたいとか?」
 「―――…」
 奏の表情が、固まる。
 異様な沈黙が、2人の間に流れる。ドキドキする心臓を宥めながら、奏は必死に笑顔を作った。
 「ハ、ハハハハハ、んな訳ないだろー!? やりたくてやる奴なんていないって」
 ―――いや…むしろ、逆だろ。女装してる奴の大半が、そういう趣味でやるんだろ、普通。
 その気がないのに女装せざるを得ない自分の方が特殊な事例なのだ、と再確認した奏は、なんだか一気に疲れた気がした。


 次に奏が思いついたのが、職場で一番信用できそうな人物・氷室だった。
 テンには、絶対言えない。面白がって、客にまで吹聴して回るだろう。星も危ない。内密にしたいのに、ミーティングの時なんかにいきなり手を挙げて「実は一宮君がこんなことで悩んでまして…」と真面目に議題として取り上げたりするタイプだ。まずい。絶対言えない。
 で、無難なところで、氷室である。日頃ほのぼのしている氷室だが、同じ男だから、下手なことは周りに言わないでくれるだろう。
 「うーん…そりゃあ、難しいなぁ」
 奏が休憩時間に詳しく説明すると、氷室は腕組みをして、難しい顔で考え込んだ。
 「男が女に化ける、っていうと、真っ先に歌舞伎の女形(おやま)が浮かぶんだよなぁ。奏、知ってる?」
 「ああ、うん。一応」
 歌舞伎にはまるで精通していないが、玉三郎、とかいう役者が女の役をやっているのは、日本にいた頃にテレビで見た。確か歌舞伎じゃなく、なんとかいう映画で、竜神の化身だか姫君だか、そんな役をやっていた。
 「女形の役者って、みんな、顔が“薄い”んだよなぁ。ツルンとしてる、というか、彫りが浅い、というか。メリハリのはっきりしてる顔じゃなく、優しい顔なんだよ。輪郭もシャープじゃなく、いわゆる“うりざね顔”でさ」
 「…ふーん…」
 「男が化粧すると、どうしてもキツイ感じになるだろ。出し難いんだよ、女性的な“優しさ”が。だから、元々優しい顔つきの男の方が、女装するには向いてるんだ。その点、奏は、ただでさえメリハリがしっかりしすぎな顔だからなぁ…」
 「…だよなぁ」
 このハーフ顔が、ただでさえ難しいことを余計困難にしているのだ。イタリアンレストランのガラス窓に微かに映る自分の顔を、奏は眉根を寄せて忌々しげに見つめた。
 「メイクは、誰が?」
 「あー…、なんか、オレの知らない人。オレの写真は手元に行ってるらしいけど…ぶっつけ本番、怖いだろ? だからオレ自身でも、ある程度できるようにしとこうかな、と」
 「そうか。うううーん…、コンセプト聞く限り、イメージする女性は“淡く優しいイメージ”なんだよなぁ。余計、奏には難しい設定だよなああぁ」
 そうなのだ。同じ女性でも、たとえばアラビアン・ナイトに出てくるようなのとか、いっそハリウッド女優みたいなのだったら、まだ楽だったと思う。なのに―――絵コンテからイメージする女性は、静かな表情で、薄く微笑んでいるような女性。そう―――奏の知る女性の中で言えば、まさに蕾夏が、そのタイプだ。
 「とりあえず、使う色はできる限り淡くて優しい色で、顔の起伏を目立たなくするようにする、ハイライトを多めに入れる、かなぁ…」
 「淡い色で、ね。うーん…」
 「でも、メイクより表情の作り方の方が問題だと、僕個人は思うけど。…あ、煙草の灰、落ちるぞ」
 「うわ」
 考え事にばかり気がいっていたせいで、せっかく火をつけた煙草をほとんど吸っていなかった。慌てて灰皿に灰を落とした奏は、意味がなさそうなので、そのまま煙草を灰皿の中に捨てた。その仕草を眺めながら、氷室はしみじみとした口調で続けた。
 「また女形の話で悪いけどさ。ああいう役者は、日頃の仕草が女っぽいとか、そういう訳じゃないんだよな。衣装を着て、ドーラン塗って、紅をさすと、その“外見”から女の“気持ち”に入っていく、っていうかさ」
 「…外見から…」
 「そう。女だって、日頃がさつな奴が、ウエディングドレス着た途端、まるでお姫様みたいにおしとやかで優雅になるだろ? ああいう部分、男にもあるんだよ。一種の自己暗示と自己陶酔だな。同じ美容学校の卒業生で、女装が趣味な奴が2人もいたけど、あいつらも普段は普通の男で、女装した途端、別人になりきってたし」
 「……」
 それは―――ちょっと、わかる。それにピッタリ当てはまる人物が、身近に1名、いるから。
 なるほど。マリリンが完璧な女に化けられているのは、メイクが上手という以上に、変身した自分に陶酔できてるからかもしれない。いくら綺麗に仕上がっていても、うわー、なんだこれ、恥ずかしいー、と思ってたらああはなれない、ということだ。
 「まあ、メイクのことは、当日の担当者にある程度任せればいいだろうからさ。奏は、理想の女に化けた自分想像して、その気持になりきる努力、してみたら?」
 もの凄く難しいことを、氷室は、もの凄くあっさり口にした。
 あまりにも難しいので―――奏はひたすら、首を捻るしかなかった。


 そして、首を捻り続けた結果。
 「…うーん…うまくいかない…」
 自宅で、ちょっと試しにメイクをしてみたら、陶酔できるどころか「なんだこりゃ」という顔になってしまい、奏は、鏡を凝視して思わず呻いた。
 モデルなんて仕事をしている人間は、多かれ少なかれナルシストの要素がある、と一般的には思われがちだが、正直、奏にはそうした要素はあまりない。自分の顔がやたら綺麗に整いすぎていることに、逆にコンプレックスを感じている位だ。そのコンプレックスが武器になるらしい、と感じて、軽い気持ちでモデルになったのだが、“Frosty Beauty”の仮面をつけさせられていた頃は、そのコンプレックスは余計に酷くなった。もっと個性的で愛嬌のある顔に生まれたかった―――鏡を見て感じるのは、いつもそういうネガティブな感情だ。
 そういう奴が、下手なメイクを施してしまったのだから、自己陶酔どころか自己嫌悪である。
 「才能ないのかも、オレ…」
 我ながら不気味としか思えない鏡の中の自分を見て、ガクリとうな垂れる。メイクをしてみたら、少しは「その気」になって、表情の研究などもできるかと思ったのだが―――大失敗だ。
 とりあえず、1回全部落として、もうちょい薄化粧にしてやり直してみよう。
 そう考え、コットンを手にしたところで、ふいに玄関の呼び鈴が鳴った。
 「?」
 誰だろう? ―――素直にそう思い、そのまま玄関に向かう。

 「はい?」
 「咲夜ですー」
 ああ、なんだ、咲夜か。

 その瞬間―――素に戻りすぎていた奏は、自分がどんな顔をしているか、完全に忘れていたのだった。


***


 「…結構、奏って、天然ボケだよね」
 「…うっさい」
 咲夜がポツリと感想を漏らすと、奏はムッとした表情で、バドワイザーの残りを一気に飲み干した。
 空になった缶をグシャッと握り潰したその様子に、奏自身、自分のボケぶりに愛想が尽きているらしいことがよくわかる。あんまり苛めると後が怖いかな―――笑いすぎて痛くなった脇腹を押さえつつ、咲夜は、つまみのミックスナッツを口に放り込んだ。
 「けど、確かに難しいよね。私に“男心を歌い上げろ”って言ってんのと、ほぼ同じでしょ? それって」
 「あー、そういうことになるのか…。表現者、って意味じゃ、オレも咲夜もおんなじか」
 そう言った奏は、ぽい、と放り投げたナッツを口で器用にキャッチした。もぐもぐ、と口を動かしながら、難しい顔で眉間に皺を寄せる。
 「でも、そんだけ期待されちゃうと、やるしかないんじゃない」
 「…そうなんだよなー…」
 「うーん…。ねぇ、その絵コンテって、どんな感じなの?」
 「どんな感じ、って―――なんていうか、柔らかくて、光に包まれてるみたいで、でも、どことなくミステリアスっていうか…」
 そこまで口にして、奏は、ちょっと躊躇したように言葉を切った。
 視線が、暫し、彷徨う。何? という顔をする咲夜に、奏は、少し気まずそうな表情で、小さく付け足した。
 「……蕾夏に、似てた」
 「らいか…」
 パチパチと目を瞬いた咲夜は、思わず、姿勢を正した。
 「…って、あの、成田さんのカノジョ?」
 「……そ。って言っても、普段の蕾夏がそういう浮世離れした奴だって訳じゃないんだけど―――幸せそうな時の蕾夏に、なんか、似てた。あの絵コンテのイメージ」
 「…ふーん…。じゃあ、その“蕾夏”さんを演じるつもりで、演じてみたら?」
 何の気なしに咲夜が提案すると、奏はギョッとしたように目を見張った。
 「…っ、バ、バカかっ! 本人の目の前でか!?」
 「あ、そっか。その人もいるんだっけ、現場に」
 「そうだよっ。あー…、だから余計、嫌なんだよなー…。よりによって、蕾夏の前で女役をやるなんて…」
 ―――なるほど、そういうことか。
 なんだか極端な位に嫌がってるな、と思ったが、その理由がやっとわかった。女役、というだけでも憂鬱なのだろうが、それをよりによって「好きな女性の目の前で」やるのが、どうしようもない位に憂鬱なのだろう。こういう感情に年齢は関係ないのかもしれないが、可愛いよなぁ、とちょっと笑ってしまう。

 報われないと知りつつも、今もまだ奏が恋して止まない人。…一体、どんな人なのだろう?
 柔らかくて、光に包まれているみたいなムードで―――そして、どことなくミステリアス。さっき奏が言った言葉を頭の中でイメージする。天井を仰いだ咲夜の脳裏に浮かんだのは、何故か……マリア像だった。

 「―――“Amazing Grace”…」
 ポツリと、呟く。
 その小さな呟きを耳にして、奏が、不思議そうに目を丸くした。
 「え?」
 「さっき奏が言ったイメージを、頭の中で浮かべたらさ。…なんか、聴こえた気がした。“Amazing Grace”―――賛美歌の。知ってる?」
 「ああ…、うん。有名な曲だから」
 「私、絵コンテ見てないけどさ。なんか、イメージ似てない? あの歌と」
 「…もう随分聴いてないからなぁ…。いまいち、ピンとこない」
 要領を得ない、という顔で首を傾げる奏に、咲夜はくすっと笑い、『Amazing Grace』のフレーズを口ずさんだ。
 「Amazing grace, How sweet the sound...」
 「あ、ちょい、待って」
 奏の手が、咲夜の歌を遮った。
 目が、急に真剣みを帯びる。奏は、崩していた脚を正座の形に正すと、真っ直ぐに咲夜の方を向いたまま、目を閉じた。
 「いい感じで、イメージが“来た”気、する。…もう1回、歌って」
 何かが、奏の琴線に触れたらしい。咲夜も、もう一度きちんと姿勢を正し、今度は口ずさむ程度ではなく、おなかから声を出して歌った。

 「Amazing grace, How sweet the sound... That saved a wretch like me... I once was lost, But now I'm found... Was blind but now I see.......」
 「…ごめん、もうちょっとだけ」


 咲夜は、結局、『Amazing Grace』をフルコーラス、2回歌った。歌詞は違うが、同じフレーズを8回も歌ったことになる。
 歌を聴いている間、奏は、微動だにせず、ずっと目を閉じていた。何の表情も浮かべず―――多分、瑞樹が選んだ写真と同じ、「ニュートラルな状態の一宮 奏」の顔で。
 けれど、2回目の途中あたりから、その表情が僅かに変わった。
 音楽を楽しむ余裕が出てきたのか―――口元が、微かにほころぶ。きっちり整えていた姿勢が少し崩れ、肩から力が抜ける。
 ―――…あ…。
 アルカイック・スマイルってやつだ。これ。
 仏像などが浮かべる、無償の愛を持った微かな微笑み―――それと似た表情を、奏は浮かべていた。どこかミステリアスで、でも柔らかくて心が和むような……そんな笑みを。それは、奏が口にした絵コンテの内容から、咲夜がイメージした表情とよく似ていた。
 『Amazing Grace』だ―――マリア様をイメージしていた咲夜は、歌をそのまま、表情として表現してもらえた、と思った。


 「―――なんだ。できるじゃん」
 2回目を全て歌い終え、咲夜がそう言うと、目を開けた奏は「は?」という顔をした。
 「できる、って、何が?」
 「ポスターのイメージ通りの表情。今、歌聴きながら、まさしくその通りの顔してたよ」
 「……マジで?」
 本人は、無意識だったらしい。驚いたように目を丸くした奏は、どんな顔をしてたのかわからず、少々慌てふためいた。
 「うわ、チクショー、今の顔、携帯のカメラで撮ってもらえばよかった」
 「あはは、ごめん、さすがにそこまで気ぃ回らなかった」
 「けど―――そっか。元々、商材がMP3プレーヤーなんだから、音楽からイメージを膨らます、って方法はアリなのかもな。女を表現する、っていうより、咲夜が歌った歌からイメージを作った方が、企画に近づけられる気ぃする」
 「……」

 ―――凄いなぁ……奏って。
 前から、表情豊かな人だな、とは思っていた。本人曰く「感情に正直すぎる表情筋」を持っているのだそうだが、その優秀さを、今、初めて実感した。
 歌を聴き、そこに含まれる福音のようなものを感じ取り、それを表情として表すことができる―――アートディレクターの言う通り、そこになんらかの感情さえ伴えば、どんな表情でもできる人なのだろう。それは、訓練すればできるというものではなく、まさに天賦の才能―――奏は、天性の表現者だ。

 自分が歌った『Amazing Grace』に触発されて、奏が演じる、自分とは異なる性。
 なんだか―――それが作り出される瞬間を、この目で見てみたくなった。

 「ねえ、奏」
 咲夜は、膝でちょっとだけ詰め寄り、真正面から奏を見据えた。
 「その撮影、日曜日だって言ったよね」
 「? ああ、日曜だけど」
 「私、見学に行ってもいいかな、それ」
 「は!?」
 なんで、という感情を露骨に表した顔をして、奏は目を見開いた。そんな奏に、咲夜は挑戦的に、ニッと笑った。
 「別に、ひやかしで行くんじゃないよ。同じ表現者として、あんたがどう表現するかを見てみたくなっただけ。ポスターじゃなく、現場で」
 「……」
 「それに―――私が“Amazing Grace”をイメージしたものと似てるらしい、その“蕾夏”さんとやらも、見てみたいし」
 「…お前、実はそっちがメインなんじゃない?」
 苦笑する奏に、咲夜も冗談めかして笑ってみせる。
 「だって、こっちは拓海のあーんな場面を、思いっきり見られちゃってるんだよ? 不公平じゃん」
 「ハハハ、そりゃ、一理あるなぁ」
 降参、というように諸手を挙げてみせた奏は、大きく息を吐き出すと、咲夜に対抗するようにニヤリと笑ってみせた。
 「…了解。じゃあ、当日、オレがカメラの前に立つ前に、1回さっきの曲歌ってくれるのを条件に、見学者パス取ってやるよ」
 「―――うん。任せなさい。あんたがイメージした最高の“Amazing Grace”が表現できるように、さっきよりいい歌、歌ってみせるから」

 契約、成立。
 握りつぶした缶と、まだ半分近く残っているビール缶とをぶつけ合った奏と咲夜は、そう言って同時に笑った。


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