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― Snow White

 

 「…なんか、奏が外出る時いつもサングラスしてる理由、わかった気がする」
 隣を歩く奏を見上げてそう呟く咲夜の顔は、少々困惑気味だった。
 咲夜としてはあまり馴染みのない、サングラスをかけた綺麗な顔が、不思議そうな表情で咲夜を見下ろす。
 「理由?」
 「うん。“視線避け”でしょ」
 さっきから、無遠慮に四方八方から突き刺さる視線。
 一応著名人である拓海と一緒にいる時だって、こんなに注目を浴びることはなかったと思う。もっとも拓海の場合、メディア露出がそれほど頻繁ではないから、ジャズファン以外でその顔を知っている人は少ないと思うが―――奏だって、テレビCMなどは一切やらず雑誌モデルもやらないため、認知度は低い方だろう。だから多分、この視線と奏の仕事には、なんら因果関係はないと思う。
 「よく考えたら、目立つ風貌だもんなぁ…」
 「な…なんだよっ。んな、しげしげ眺めるなよっ」
 「奏の彼女になる人、きっと大変だね。並んで歩いてるだけで注目浴びちゃうのに、手繋いだり肩抱いたりしたら、余計視線が痛いんじゃない」
 「……」
 何の気なしに咲夜が口にした一言に、奏の眉が、少し不安げに歪む。
 「…マジで、そう思う?」
 「うーん。日本では、そうなんじゃない?」
 「…まずいなぁ…」
 新しい恋を探してる最中の奏としては、あまり喜ばしくない意見だったらしい。
 ロンドンなら、こうも視線を集めることはなかっただろう。いっそ日本じゃなく母国で恋人探したらどうなんだろう、と咲夜は思ったが、それを言うのはやめておいた。多分……彼なりの理由で、どうしても「日本で」探したいのだろう、という気がしたから。

 どういう人なら、奏の隣に相応しいのだろう?
 ―――どんな人なのかな。奏がいまだに引きずってる恋の相手って。
 間もなく会える筈のその人の風貌を想像しようとしたが、咲夜の脳裏には、どんな女性の姿も思い浮かばなかった。

***

 撮影当日。外は、晴天だった。
 現場は、六本木にあるスタジオ―――奏の話では、本日のカメラマンである瑞樹が、学生時代にスタッフとしてアルバイトしていたスタジオだという。ポスター撮影の現場など初めての体験の咲夜は、拓海の楽屋などに顔を出す時以上にドキドキした気分を味わっていた。

 「一応咲夜ちゃんは、一宮君の付き人ってことにしてあるから。ラフな格好してない人は、広告主か広告代理店の人だから、頭下げといてね」
 「…ごめん、わがまま言って」
 軽い気持ちで「見学したい」などと言ってしまったが、なんだか色々気を遣わせてしまったらしい。咲夜は、佐倉から関係者用の札を受け取りながら、ちょっと済まなそうに首を竦めた。
 「昔から拓海が、ライブのリハーサルなんかに平気で呼んでくれてたから、見学なんて大したことないと思ってた」
 「ああ、麻生さんは咲夜ちゃんにはベタ甘だったからね」
 まだ中学生の咲夜をジャズ・バーに連れてきた当時を思い出してか、佐倉がそう言って苦笑する。確かに、ベタ甘と言われても仕方ないような扱いだったかもしれないな、と、咲夜も昔のことを思い浮かべて苦笑いした。
 「飲み食いはスタジオの外、ってことになってるから、喉が渇いたら、さっきの休憩コーナーでお願いね」
 そう言いつつ咲夜の肩に手を置いた佐倉は、少し先にあった大きな扉を押し開けた。
 そして、扉の向こう側に広がった世界に―――咲夜は、思わず息を呑んだ。
 扉の向こうは、真っ白だった。
 正面の壁から床まで、境目のない、真っ白な世界。よくよく目を凝らしてみると、どうやら、正面の壁と床は、緩やかなカーブで繋がっているらしい。そう、ちょうど、スノーボードのハーフパイプの壁面みたいに。なんでそんな形になっているのかは、素人の咲夜にはまるで見当がつかないが。
 まばゆい照明が頭上に並び、スタッフらしき人が、周囲にもスタンドタイプのライトを配置している。舞台のセッティング風景と似てなくもないが、やはり咲夜には初めての光景だ。
 あの中に、奏が立つのか。
 スポットライトを浴びる時の緊張と高揚は、咲夜も知っている。週に3日、その真ん中に立って歌っているのだから。でも、これは―――似ているようで、まるで異なる世界だ。あの真っ白な世界の中心に自分が立つことを想像して、咲夜は緊張感にゴクリと唾を飲みこんだ。
 「…まるで、自分がカメラの前に立つような顔、してるわね」
 咲夜の張り詰めた横顔を見て、佐倉がくすっと笑う。
 「想像したら、ちょっと、緊張しちゃって。…なんか、不思議かも。あそこに立っても、目の前にいるのは、観客や聴衆じゃなく、1台のカメラだけだなんて」
 「そうよ。ただし―――そのカメラの向こうには、出来上がった写真を目にする、何万ていう人間の目があるけどね」
 「……」
 「その先には、商材となってる商品に購買層の人々が興味を持ってくれるかどうか、って問題が待ってるし、更には、その商品を実際に買ってくれるかどうか、っていう最終問題が待ってる。主力商品であれば、その売れ行きがそのメーカーの業績をも左右しかねない―――ただのナルシストが、コスプレして喜んでるのとでは、全然意味が違うのよ」
 一見、滑稽とも思えるような話に、本気で頭を抱えて悩んでいた奏を思い出し、認識を新たにする。表現したい、という思いとはまた別の事情があるからこそ、誰からも文句をつけられない完璧なものを作らなくては、と考えたのだろう。
 「プロだなー…」
 思わず咲夜が呟いた時、スタジオの右手奥にあるドアから、佐倉を待つ咲夜より一足早くスタジオに入っていた奏が、他の人と連れ立って出てきた。佐倉と咲夜の姿に気づき、笑って軽く手を挙げた奏は、そのまま、他のスタッフからは離れ、壁際の作業台の方へと向かった。
 ―――あ、成田さんだ。
 奏が向かった先に、見覚えのある後姿があった。
 奏に声をかけられ、瑞樹が顔を上げる。多分、咲夜が来ていることを告げているのだろう、奏が咲夜の方を手で指し示し、瑞樹もちょっとだけ振り返った。一瞬目が合ったので、咲夜が軽く頭を下げると、瑞樹も微かに口の端を上げ、ほんの少しだけ頭を下げる。そして―――隣にいる人物に、何事かを耳打ちした。
 そこで初めて、瑞樹の隣にいた人物に目が行き―――心臓が、小さく跳ねた。

 艶のある、真っ黒で真っ直ぐな、長い髪。
 瑞樹の言葉に耳を傾けるように、彼女が小首を傾げると、その長い髪が肩から滑り落ち、サラリと流れる。そして、咲夜の方を振り返ると、一呼吸置いたように、黒髪もその動きに合わせてフワリとなびいた。
 振り返った女性は、特別美人でもなければ、もの凄く可愛い訳でもなかった。極々平凡―――ただ、黒髪と対照的な、抜けるように白い肌をしていて、そのコントラストに思わず目を奪われた。
 ふと脳裏に思い浮かんだのは、「白雪姫(Snow White)」だった。雪のように白く、黒檀のように黒い髪をした白雪姫―――そう、まさに、そんな感じだ。

 あれが、今も奏が恋して止まない人。
 意外に、普通―――そう思うと同時に、奇妙に納得する部分もあった。ああ、奏が惹かれるのも、なんとなくわかるな、…と。

 瑞樹から咲夜のことを聞いたのか、振り返った彼女は、咲夜と目が合うと、柔らかにニコリと微笑んだ。
 「あたし、ちょっとクライアントと話があるから、咲夜ちゃんはあいつらに挨拶してきたら?」
 ポン、と佐倉が咲夜の背中を叩き、そう言った。魔法が解けたように我に返った咲夜は、佐倉の言葉に頷き、3人のもとへと歩いて行った。
 近づいて見ると、彼女は咲夜より更に小柄で、華奢な人だった。奏の話では、奏より更に2つ年上とのことだから、咲夜から見れば5つ年上の筈だが、あまり歳の差があるようには感じられない。咲夜自身、社会人になっても学生にしか見られないタイプだが、目の前の彼女も多分そうだろう。
 「関係者札、貰えた?」
 奏に問われ、咲夜はニッと笑って佐倉から貰った札を掲げてみせた。ホッとしたような表情を見せた奏は、少し改まった様子で例の彼女の方にチラリと視線を向けた。
 「蕾夏、この子が、隣に住んでる如月咲夜さん」
 「はじめまして」
 咲夜が会釈すると、彼女は再びニコリと笑った。
 「藤井蕾夏です。はじめまして」
 外見より落ち着いた、しっとりした声だった。やはり外見より声にばかり気の行ってしまう咲夜は、瑞樹の声を聞いた時同様、あ、結構いい声じゃん、と感じて、無意識に口元をほころばせた。
 「奏君に話聞いた時から、どんな人かな、って会えるの楽しみにしてたの。まさか撮影現場が初対面になるとは思わなかったけど、いい機会が貰えて良かった」
 「私も、一度会ってみたかったんです。その…成田さんの彼女って、どんな人かな、って」
 思わず「奏の片想いの相手がどんな人か」と言ってしまいそうになったが、まさかそんなことは言う訳にはいかない。咄嗟の機転で誤魔化したが、奏には咲夜の本音がわかっているらしく、隣で微かに苦笑する気配がした。
 でも―――実際に会ってみると、なんとも不思議なカップルだ。
 艶のある独特な黒い瞳をした瑞樹と、“和”をそのまま具現化したかのような蕾夏。2人揃って、目を見張るほどの容姿という訳ではないが、なんというか―――酷く、印象的なカップルだ。神秘的でどことなくセクシーなムードを持つ瑞樹に比べると、蕾夏の方はやたら清楚なイメージで、凛としている。その対比のせいなのか何なのか、2人が並んで立つと、恋人とか友達とかいう関係以上に―――「2人で1セット」であることを、強く感じさせられる。
 ―――うーん…、さすがの奏をもってしても、これは勝ち目がないのかもなぁ…。
 瑞樹1人に会った時は、奏にだって勝ち目あるじゃん、と思った咲夜だったが、1セットで向かってこられると、ちょっと無理かも…と認めざるを得ない。奏の気持ちを想像し、咲夜は微かに胸が痛むのを感じた。
 「そろそろ行くぞ」
 カメラを手にした瑞樹が言うと、蕾夏も軽く頷き、咲夜の方に笑いかけた。
 「撮影終わったら、ゆっくりお茶でもしよう? ジャズの話、聞いてみたいし」
 「あ、はい」
 慌てたように咲夜が返事をすると、瑞樹と蕾夏は、あの白い壁の方へ行ってしまった。何を始めるのかな、と思って見守っていると、瑞樹の方はカメラを三脚に固定し、蕾夏の方はスニーカーを脱いで、あの床と壁が繋がった白い所に立った。四方八方からライトに照らされた中で、彼女は何やら四角い機材を操作している。
 「何してるの、あれって」
 「ああ…、露出測ってんだよ。あの機械で測った値を見て、ライトをどういう風に調節するかを決めるんだ」
 「へーえ…。あの彼女さん、マジでアシスタントだったんだ」
 本職は雑誌のライターだと聞いていたから、アシスタントとは名ばかりで、実態は咲夜の見学とさして変わりないと思っていた。でも、ここから見る瑞樹と蕾夏の様子は、明らかに「アシスタントに指示を出すカメラマンと、それを受けてせっせと動き回るアシスタントの図」だ。
 「成田が叔父貴のアシスタントやってた時、蕾夏も一応、アシスタントだったんだよ。あの頃は初心者でもたついてたけど、成田がカメラマンになってからは、大きな仕事の時には本業休んで撮影に同行したりして随分経験積んだから、今じゃその辺のスタジオマンと変わらないスキルを持ってるんじゃないかな」
 「本業休んで同行してんの? 大丈夫なの? そんなに休んで」
 他人事ながら心配になって咲夜が眉をひそめると、奏は苦笑し、瑞樹と真剣な顔で何やら相談している蕾夏の方に目を向けた。
 「蕾夏は、正社員じゃなく“専属ライター”で、1年契約で出版社と契約してんだ。1年間に働く時間が契約書で決められていて、1ヶ月の最低労働時間は何時間以上何時間以下、てとこまで規約が設けられててさ。残業が続くと、その規約よりも“働きすぎ”になるから、ある程度働いたら“休まなきゃいけない”んだよ。蕾夏はそれを、うまく活用してるって訳」
 「ふぅん…。休みの日も“仕事”かぁ…」
 「蕾夏にとっちゃ、休むよりこっちの方が楽しいんだろうな」
 そう呟く奏の横顔は―――少し、寂しそうだった。
 「…ねえ。時間、大丈夫なの?」
 この場から奏を引き剥がすように咲夜が訊ねると、奏の顔から、一瞬見せた寂しそうな表情が消えた。
 「ああ、そろそろオレも準備しないとな。…もしかして、お前もついて来んの?」
 「だって“付き人”なんでしょ、私は」
 「げ…、マジかよ」
 勘弁してくれ、という顔をする奏に、咲夜は、少しホッとして笑顔を返した。

 なんだか、痛々しくて。
 まるで、拓海の傍にいる時の自分自身を見ているように、痛々しくて―――咲夜は、早くここから奏を連れ出さなくては、と思わずにはいられなかったのだ。

***

 「え…っ、それだけ?」
 メイクの終わった奏の顔を見て、少々、拍子抜けする。
 下地作りは、何やら咲夜には理解不能なことを色々やっていた感じがしたが―――出来上がってみると、その顔は、あっけないほどに「普通」だった。
 日頃の奏の顔より若干白くなった程度にすぎない、肌の色。首から肩にかけてもその色合いに統一しているので、元々この色だったよ、と言われたらそのまま鵜呑みにしてしまいそうなほど、違和感がない。多少眉を整え、目元にうっすらと暖色系の淡いシャドーを入れた程度で、派手なアイメイクは一切ない。チークも入っているようには見えないが、多分、少しは入っているのだろう。そして極めつけは、ルージュ―――柔らかい色合いのルージュに、リップグロスを重ねただけのそれは、日頃マリリンの存在感バツグンの口紅を見慣れている咲夜にとっては、ほんとにこれで女性に化けてんの? と不安になるほど頼りない存在感しかなかった。
 「…なんか、あんまり、普段の奏と劇的に変わってないんだけど…」
 「いーんだよ、これで。な?」
 メイクを担当したメイクさんに奏が目配せすると、メイクさんも鏡越しにニッコリと微笑み返す。
 「そう、いいのよ、これで。一宮君は素材がいいから、これ以上描いたり塗ったりしたら、コテコテになっちゃうもの」
 ちなみにこのメイクさん、どう見ても“男”である。…やはりこの業界、噂通り、おねえ言葉の人が多いのだろうか。
 「気になるところ、ないかしら?」
 「んー、ない。微調整なら、オレ、自分でやるし」
 「そうね。じゃワタシ、衣装さんとこに行ってるから」
 メイク道具をそのままに、メイクさんは控室を出て行った。パタン、とドアが閉まって2人きりになった途端―――耐え切れず、咲夜が吹き出した。
 「? なんだよ」
 「いや、だって……その服着てる奏、結構笑える」
 メイクのために着ていた服は脱いだのか、今、奏が着ているのは、前で襟を重ねるタイプの、膝丈ほどのストンとした服だった。それはちょうど、病院などで検査をする時に着せられるヤツにそっくりだった。
 「そんなに変か? オレ、結構らくちんで好きなんだけどな、この服」
 「まさか、それが衣装ってことじゃないよね?」
 「まさか! こんな検査入院みたいな服でヘッドホンして音楽聴いてたら、どー考えても変だろ」
 じゃあ、衣装の方が多少は女らしいものなのだろうか―――絵コンテを見ていない咲夜には、想像がつかない。とりあえず、いつもとは違う顔にはなったものの、目の前にいる奏は、どこからどう見ても「化粧をしている男」としか思えなかった。
 「…大丈夫、だよね?」
 少々、不安になり、心配げに訊ねてしまう。
 が、奏の方は、いたって能天気な表情であっけらかんと答えた。
 「だーいじょうぶだって。毎朝“Amazing Grace”聴かせてもらって、イメージトレーニングはばっちりだし。酒と煙草を最大限節制したこの成果を、今日発揮しないでどうするよ」
 「だあって……なんかさぁ、あんまり変わって見えないから」
 「なんとかなるって」
 「…奏って、本番に開き直るタイプなんだね」
 まるで、つい2週間前まで頭を抱えて悩んでいたのが嘘だったみたいな、突き抜けた能天気さだ。
 「私なんて、すんごい舞台度胸がいい、みたいなこと言われるけどさ、実は、舞台袖では毎回足が震えてるタイプだよ。舞台に上がっちゃうと、一気に開き直るけどさ」
 「ハハハ、わかるわかる。オレもそうだよ」
 「…嘘ばっか」
 「ホント。まだ撮影まで時間があるから、自分のテンション上げるためにも平然とした顔してんだよ」
 「ふーん…」
 今目の前にあるケロッとした笑顔を見る限り、そんな風には全然思えないが―――でも、自分も人からは「咲夜って全然あがらないよね」と言われ続けているタイプなので、傍目にはわからない緊張が本人の中にはあるのかもしれない、とちょっとだけ思った。
 その時、コンコン、とドアがノックされた。
 ドアが開き、顔を覗かせたのは、衣装担当のスタイリストだった。
 「そろそろ衣装も着けますよ」
 「了解」
 「あ…、じゃあ、出とくから」
 さすがに着替えまで同席するのはまずいだろう。スチール椅子から立ち上がった咲夜は、スタイリストと入れ替わるように、外に出た。
 振り返り、チラリと奏の様子を見ると、さっきより幾分緊張感を伴った顔で、咲夜に向かって軽く手を挙げていた。
 ―――あいつなりに、緊張してんだなぁ、やっぱり。
 くすっと笑った咲夜は、同じように手を挙げてから、ドアをパタンと閉めた。

 手持ち無沙汰になった咲夜は、ちょっとスタジオの方に戻ってみた。
 あの白い壁―――奏の説明では、あれがホリゾントとかいうものらしい―――の周りには、いくつかのライトが置かれ、ホリゾントの中央には、白い箱を積み重ねた階段状のセットが組まれていた。階段といっても2段だけなので、上る訳ではなく、あの上に座ったり上の段にもたれたりすることになっているのだろう。
 瑞樹は、カメラの傍で、手元の資料のようなものを真剣な面持ちで見ていた。が、その傍らに蕾夏の姿はなかった。どこに行ったんだろう―――ぐるりとスタジオ内を見渡すと、蕾夏は、最初にいたあの作業台のところで、フィルムをパッケージから出す作業をしていた。
 咲夜がぶらぶら歩いて行くと、その気配に気づいたのか、蕾夏が顔を上げる。ちょうど作業のキリのいいところだったのか、微かに笑みを浮かべた蕾夏は、机の上に散乱していたパッケージの空き箱などを掻き集め、ゴミ箱に捨てた。
 「奏君のメイク、終わった?」
 「あ…、はい。今、衣装に着替えてます」
 「美女に化けてた?」
 「…うーん、あんまり、日頃と変わってないかも」
 「あはは、そっか。ま、カメラの前に立ってからが、奏君の本領発揮だから」
 心配いらないよ、とでも言うように、蕾夏はそう言って笑い、スタジオの壁にもたれかかった。1人だけかしこまっているのも変だと思い、咲夜もそれに倣って、蕾夏の隣に同じようにもたれかかった。
 「でも、大変ですね。休みの日も、こうやって成田さんの撮影に付き合うなんて」
 咲夜が言うと、蕾夏は、肩にかかった長い髪を手で後ろにはらいながら、苦笑のような笑みを浮かべた。
 「んー、よくそういう風に言われるけど、私は全然苦にならないから。2人とも休みでも、結局、カメラ持ってどっかに撮影に行ってるから、休みでも撮影でもあんまり変わらないしね」
 「へーえ…そうなんだ」
 本当に仲がいいんだな―――いつも一緒にいるらしい2人の様子に、またちょっと胸が痛む。
 ただの恋人同士なら、まだマシかもしれない。こんな風に、仕事上でもタッグを組まれてしまっては、奏が入り込める余地などどこにもない気がする。なんだって奏は、辛い思いしかしない筈なのに、まだこの2人の傍にいようとするのだろう―――奏自身がそう望んでいるにしても、なんだか気の毒になってしまう。
 そんなことを考えつつ、少し落ち込んだような表情をする咲夜を、蕾夏は黙って暫し眺めていた。と、ふいにその視線を瑞樹の方に移し、口を開いた。
 「―――奏君は、大事な友達だと思ってる。私も、瑞樹も」
 「……」
 ドキリ、として、蕾夏の横顔に目を向けた。
 遠く、瑞樹を見つめる蕾夏の表情は、穏やかでありながら、凛としていて、甘さを感じさせないものだった。
 「傷つくことも多いだろうに、それでも慕ってきてくれる奏君を、本当の弟みたいに思ってる。…でも多分、奏君は、私達とは、完全には本音で接してくれないと思うから」
 そこで僅かに言葉を切り、蕾夏は咲夜の方に目を向け、くすっと小さく笑った。
 「あなたみたいに本音ぶつけ合える仲間が、奏君の隣にいてくれて、良かったな、って思う」
 「―――…」

 ああ―――なんだか、納得した。
 この人は、奏をよく理解している。自分達の傍にいることで奏が抱えている苦悩も、見た目とは裏腹に一途に想いを貫くような真っ直ぐな性格であることも、直情的で、あまり無理に自分を抑え込みすぎると、爆発して壁に穴を開けてしまうようなタイプであることも……全部。
 恋愛対象として受け入れることはできなくても、この人はちゃんと奏を理解し、奏のことを考えてくれている。それは多分…彼女の恋人も、同じで。
 だから奏は、苦しくても、この2人の傍にいることを望むんだ。
 捨て去りたい苦しい恋であると同時に―――2人が得難い「理解者」であることを、奏が一番、身を持ってわかっているから。

 「…奏がどれだけ、本音晒してるか、あんまり自信ないけどなぁ」
 咲夜が苦笑してそう言うと、蕾夏はふふっと笑っただけで、それについては何も答えなかった。
 それにしても、見かけとは違って、随分、鋭い人だ―――咲夜の懸念や不満も、こんな僅かな時間で見抜いてしまったのだから。これは侮れないな、と、咲夜は少し気を引き締めた。

 とその時、控室に続くドアが開き、さっき見た衣装担当のスタイリストがスタジオに戻って来た。
 それに続き、姿を現したのは―――衣装を身につけた、奏だった。
 「…えー…、普通じゃん」
 一目見て、思わず呟く。その呟きを聞き取って、隣の蕾夏がちょっと笑った。
 「うん、結構、普通だよね」
 奏の衣装は、メイクがそうだったように、やっぱり「これでホントに女に化けてんの?」という感じだった。
 下は白のゆったりしたロングパンツ。靴が相変わらずスニーカーなのは、多分、撮影時は裸足になる、ということなのだろう。上半身は、どういう仕組みになっているのかわからない、白い布を複雑に巻きつけたような服―――ギリシャ神話とかローマ神話とか、そういう時代の服装みたいなやつで、肩から二の腕の辺りと背中、両脇が覆われているだけで、首から胸元にかけては大半が露わになってしまっていた。アクセサリー類は一切なく、何に使うのか、もう1枚白い布だけを手に持っていた。
 うーん。男にしか見えない。
 大丈夫かいな、と本気で心配になってくる。まあ、ベテランの奏のことだから、カメラの前に立てば別人に化けるのだろうが。
 「さて、と。奏君の準備ができたんなら、こっちも動かないとね」
 よっ、と弾みをつけて体を起こした蕾夏は、そう言い残して、大量のフィルムを抱えて瑞樹の方へと行ってしまった。
 一方、スタジオに入ってきた奏は、キョロキョロしているところを、佐倉に捕まってしまい、何やらからかわれていた。
 ―――喉、渇いたなぁ。
 撮影前に1曲歌う約束をしている身としては、そろそろ何か飲んでおいた方がいいかもしれない。体を起こした咲夜は、そっとスタジオを抜け出した。

***

 「あーあーあーあーあー」
 自販機で買ったペットボトルの緑茶を半分ほど飲み、発声練習をしてみる。
 ―――うん、ま、そこそこいい調子かな。
 撮影開始まで、あと15分ほどだろうか。そろそろ戻らないと―――きゅ、とペットボトルの蓋を閉めた咲夜は、髪を無造作に掻き上げ、スタジオに戻ろうとした。

 「うん、綺麗な衣装なんじゃない? 奏君によく似合ってるよ」
 スタジオに入るドアを僅かに開けたところで、中の話し声が微かに聞こえ―――思わず、手を止めた。
 ―――蕾夏さんの声だ。
 話の内容から察するに、相手は奏だろう。そっと中を覗き込むと、案の定、ドアから少し離れた所に、向かい合って立っている2人の姿が見えた。
 奏の表情は、控室の時とは打って変わって、ピンと張り詰めたような緊張感を伴った顔だった。
 「でも…大丈夫かな。ほんとに」
 「やだ、どうしたの? 珍しい。いつも撮影には自信満々で臨んでるのに」
 「…うん…、そうなんだけど…」
 何事か引っかかる部分があるのか、奏は曖昧な口調で言いよどむ。が…、一度唇をきゅっと弾き結ぶと、意を決したように口を開いた。
 「―――今のオレ、似てないよな?」
 「え?」
 「…“サンドラ・ローズ”に」
 突如出てきた名前に、咲夜はギクリとして肩を強張らせた。
 サンドラ・ローズ―――奏を産み、奏を捨てた女。奏が嫌悪して止まない氷の彫像のような冷たく無機質な笑顔で人々を魅了した、伝説のモデル。
 ―――そ…っか。
 サンドラ・ローズと似た風貌を持つ自分が、“女”を演じる―――奏がやたら悩んでいたのには、そのことに対する不安もあったのだと、今初めて気づいた。
 問われた蕾夏は、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにくすっと笑った。
 「そんなこと、考えてたんだ。奏君は」
 「…ちょっとだけ」
 「大丈夫―――サンドラ・ローズに似てたのは、“Frosty Beauty”であって、“一宮 奏”じゃないでしょ」
 「……」
 「信じて」
 蕾夏の手が、宥めるように、奏の腕を軽く叩く。
 「瑞樹を信じて。…瑞樹が奏君の期待を裏切ったこと、今までに1度だってあった?」
 「……いや」
 「瑞樹は、必ず、奏君の望むとおりの奏君を撮ってくれる。だから―――奏君も、瑞樹の期待に応えるために、本気でカメラの前に立って」
 一見、厳しいようにも聞こえる言葉。けれど、その言葉を聞いて、奏は覚悟を決めたような表情になり、僅かに口元をほころばせた。
 「うん―――サンキュ」
 奏の返事を聞いた蕾夏は、微かに微笑みとともに小さく頷くと、奏の横をすり抜けた。颯爽としたその様子を垣間見て、咲夜はふと、初対面の時連想した白雪姫を思い出した。

 雪のように白く、黒檀のように黒く、血のように赤い白雪姫。でも実は、嫉妬に狂った母親が何度刺客を送っても最後まで死ななかった、不屈のお姫様である。
 お姫様1人に、王子様が2人。…一番強靭な精神の持ち主は、案外、風が吹いたら倒れそうな風貌をした、お姫様なのかもしれない。

 蕾夏が十分遠ざかるのを待って、咲夜はそっとドアを開けた。
 まだその場に立っていた奏が、それに気づき、振り返る。その微妙なタイミングに何かを察したのか、咲夜の顔を見た途端、ちょっと気まずそうな、困ったような笑みを見せた。
 咲夜も、似たような笑みを浮かべたが、今見聞きしたことについては一切、口にはしなかった。
 「スタジオって結構乾燥してるね」
 「え、そう? 歌、大丈夫か?」
 「うん。お茶飲んできたから。…もう始まるよね。ここでいい?」
 「いいよ」
 スタジオ中の注目、浴びちゃうかな―――頭の片隅で一瞬思ったが、1日おきに何十人という客の視線を浴びて歌っているのだから、別にいいや、と思い直す。ドアを閉めた咲夜は、奏と向き合って立ち、背筋をピンと伸ばすと、大きく深呼吸をした。

 奏が目を閉じるのを待って、すぅ、と息を吸い込む。

 咲夜が魂を込めるようにして歌った『Amazing Grace』は、スタジオ中だけじゃなく、スタジオの外を歩いていたスタジオスタッフの視線をも集める結果となった。


***


 まばゆいライトの中、ホリゾントの中央に置かれた白い階段に腰掛ける。
 真っ直ぐに前を見ると、カメラに手を添えた瑞樹と目が合った。多分、さっきの咲夜の歌のせいだろう。瑞樹の表情は、僅かに苦笑を滲ませていた。
 「…ああいう事情で呼んだ訳だ、あの子を」
 「ま、ね。絵コンテからイメージしたもんが、あの歌に凄く近かったから」
 「“Amazing Grace”…か」
 真っ直ぐに奏を見つめた瑞樹は、そう呟いて、ふっと笑った。
 「なるほど。お前らしいな」
 “あの絵コンテから誰を連想したか、バレバレなんだよ”。
 視線でそう指摘され、奏は観念したように笑った。と同時に、どこかでホッとした。瑞樹の微かな笑みから、彼が奏の連想を良しとしていることが、十分わかったから。
 ―――やっぱり成田も、あの絵コンテ見て、蕾夏を連想したんだろうな…。
 そして最初から、奏が蕾夏をイメージすることも、予測していたのに違いない。事前に瑞樹がああ演じろ、こう演じろと一切口にしなかった理由を察し、奏はやっと、完全に安堵することができた。
 もう、大丈夫。
 同じものを求めている同士ならば、信じられる―――望むとおりの写真を、必ず撮ることができる、と。
 「はい、オッケーでーす」
 半分頭に被るような形で、最後の白い布をまとう。その布の流れを綺麗に直していたスタイリストが、準備完了の合図を瑞樹に出し、ホリゾントから退いた。
 ここから先は―――瑞樹と、奏の、1対1の世界だ。

 「じゃあ、始めるか」
 「…いつでもどうぞ」
 瑞樹の目が、一瞬にして、シャッターチャンスを狙うカメラマンのそれに変わる。素早くカメラを構えた瑞樹の視線を、ファインダー越しに感じた。奏も息を吸い込み、一瞬だけ、天上を仰いだ。

 咲夜の歌声を聴き取ろうとするかのように、耳につけたインナータイプのヘッドホンを軽く手で押さえる。聴こえるのは、咲夜が歌う『Amazing Grace』―――慈愛に満ちた、天の調べ。その歌声に、ゆっくりと心をシンクロする。
 瑞樹の傍にいる時、幸せに包まれた蕾夏が見せる、あの柔らかな光に満ちたような、至福の笑顔。あの笑顔を、脳裏に蘇らせる。その幸せが、自分の全身にまで波及する位、鮮明に。
 あんな風に、微笑みたい。
 この体の奥底にあるドロドロとした暗い感情なんて、もう、いらない。この2人の幸せに、自分も幸せだけを感じて生きていきたい―――絶対不可能なそんな望みも、この歌を聴いている間だけは叶う気がした。

 目を閉じた奏は、本当に咲夜の歌に聴き入っているかのように、薄く微笑んだ。

 瞬間―――シャッターを切る音が、どこか遠くから聞こえた。

***

 「奏って、幸せだねぇ」
 控室でメイクを落とす奏を眺めながら、唐突に咲夜が、そう言った。
 温かいタオルで顔を拭いてさっぱりしていた奏は、一瞬、言われた意味がわからず、怪訝そうな顔で鏡の中の咲夜の顔を凝視した。
 「幸せ? オレが?」
 「うん」
 「…なんで?」
 「成田さんと、蕾夏さんがいるから」
 鏡の中、スチール椅子に腰掛けて脚を組んでいる咲夜が、そう言ってくすっと笑う。
 「奏の実力を認めて、奏の長所も短所も理解した上で、奏を応援してくれてる。そういう理解者が2人もいるなんて、幸せだなぁ、と思って」
 「―――…確かに、そうかもなぁ…」
 そんな風に、改めて言葉にしたことはないが―――確かに、咲夜の言う通りかもしれない。
 「その理解者が、玉砕した相手とその彼氏、ってところが、果てしなく不幸でもあるけどな」
 「…うーん、それは、確かに痛いね」
 苦笑して奏が付け加えた言葉を聞いて、咲夜もハハハ、と苦笑いする。そう―――かなり、痛い。いっそ憎むべき相手になってくれた方が、諦める以外どうしようもない立場としてはありがたいのだ。
 「咲夜には、いる?」
 「え?」
 「咲夜の実力を認めて、咲夜の長所も短所も理解して、応援してくれるような理解者」
 「理解者、ねぇ…」
 鏡の中の咲夜の眉が、困ったようにひそめられる。天を仰ぐようにして考えていたが、出てきた答えは、ある意味―――予想通りだった。
 「…拓海、かなぁ」
 「……やっぱりか」
 「唯一の理解者が、自分を絶対に“可愛い姪”扱いしかしない片想い相手、ってのも、奏のケースに負けず劣らず、痛いよね」
 「ハハ、それ、笑えねー」
 「って笑ってんじゃん」
 「笑わないと、やってらんないだろ」
 「…ま、そーだねぇ」
 互いに自虐的な笑いを浮かべ、ちょっとため息をつく。脚を組みなおした咲夜は、残り僅かになったペットボトルのお茶を飲み干し、ポツリと呟いた。
 「でも―――痛くても、必要だから」
 「……」
 「…今日の撮影での奏、凄く綺麗だった。壮絶な位―――性別を超えた次元で、輝いてた。…あんな風に奏が輝くためには、あの2人が必要なんだし。私が心の底から歌を歌い上げるには…やっぱり、拓海が必要なんだし。理解者としても、表現するための力としても、どうしても必要なんだから…しょーがないよ。どんだけ痛くても、断ち切ることは―――二度と会わないとか、切り離した所で生きて行くなんてことは、やっぱりできないよね」
 「……そうだな」
 しみじみと、相槌を打って。奏は、大きく息を吐き出した。
 「そうだよなぁ―――…」

 彼らが一番、自分の全てを理解してくれているから。
 彼らがいることで、自分は、一番望むものを表現することができるから。
 どれほど痛くても、苦しくても―――傍にいたい。だからこそ自分は、日本に来た。傷つくだけだと周囲に反対されても、血を流しながら彼らの傍にいる道を選んだ。

 …咲夜も、そうなのか。
 断ち切れない恋心のためばかりじゃなく、公私ともに今の自分に必要な存在だと思ったからこそ、胸の痛みをじっと堪えて拓海の傍にい続けているのか…。

 「…オレって、マジで、幸せ者かも」
 「え?」
 唐突に戻った話に、咲夜がキョトンとした顔をする。
 振り返った奏は、鏡越しじゃなく直接咲夜の顔を見て、ニッと笑った。
 「究極の理解者が2人もいてくれる上に―――その2人には絶対見せる訳にはいかないもんを晒せる、もう1人の理解者が、隣の部屋に住んでるなんてさ」
 「……」
 思いがけない言葉に、咲夜は、大きく目を見開き、暫し言葉を失っていた。
 が―――やがて、咲夜らしくない柔らかな笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐにいつもの勝気で人をからかうような笑みを作った。
 「じゃあ、私もかなり幸せ者だよね。拓海には見せられないカッコ悪い姿を晒しても、同じ位カッコ悪い姿を晒して自棄酒に付き合ってくれるヤツが、隣に住んでるんだから」


 まだ、それぞれに、決して曝け出すことのできない痛みを、その胸に隠していたけれど。

 多分、この日のこの会話が、2人の関係が変わったきっかけ。
 奏と咲夜は、この日、「気の合うお隣さん」から、「痛みを理解し合える得難い友人」になった。


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