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ポスターに使用する写真を奏が確認できたのは、撮影から1週間ほど経った頃だった。
「で、どうだった?」
「…とりあえず、なんじゃこりゃ、という出来ではなかったから、ホッとした」
そっけない口調で奏が答えると、訊ねた氷室は、ちょっと不満そうな顔をした。
「“とりあえず”って何だよ? 曖昧だなぁ」
「…そう言うけどさ。これでオレが、“いやー、すっげー綺麗に撮れてた。オレ自身でもホレボレする位だった”とか言ったら、相当あぶないだろ」
「そりゃまあ、そうだけど…」
「あ、このトレー、22番が残り少ないじゃん。補充補充」
ポスターの事をあまり訊かれたくなくて、奏は、半ば逃げるように備品庫へ向かった。
で、本音は、というと―――自分でも、かなりびっくりした。
写真の中の「その人」は、確かに自分と同じ顔のパーツをしているのに、自分ではなかった。いや、まるっきり別人に化けてしまっている訳でも、明らかに女性になってしまっている訳でもないが、なんというか……同じ顔した別人格、という感じだ。オレってこんな表情もできるんだ、と、一瞬ポカンとしてしまった。
自分の中には絶対ないと思っていた、癒しの表情―――その顔を見て思い出したのは、何故か蕾夏ではなく、母・千里だった。
子供の頃に日本に移り住んで間もない頃、奏は、「ガイジン」と言って弟を苛めるガキ大将と、よく取っ組み合いの大喧嘩をしていた。あちこち擦り剥きながら、わんわん泣く累と手を繋いで家に帰ると、決まって千里のカミナリが落ちた。
「そういうのは、相手がバカなんだから、放っておけばいいの!」と言いながら傷を手当てする千里に、奏は、憤懣やるかたない、といった様子で、いかに悔しかったか、いかに相手が乱暴だったかを延々とまくしたてた。そして傷の手当てが終わると―――ぽんぽん、と頭を叩いた千里は、いつも、どこかあのポスターの奏を彷彿させるような微笑を浮かべて、奏を見下ろしていた。
―――良かった。“サンドラ・ローズ”じゃなく、母さんに似てくれて。
蕾夏の言ったとおりだ。やっぱり瑞樹を信じて良かった―――備品のファンデーションを棚から取り出しながら、奏は、ちょっとだけ満たされた気分で口元をほころばせた。
「あら、誕生日なの?」
「そーなんですー」
備品庫から出ると、そのすぐ傍で、テンと星が何やら話をしていた。
「誰の誕生日って?」
何の話だ、と奏が何気なく口を出すと、テンは奏を仰ぎ見、ニカッと笑った。
「ウチの!」
「へーえ。おめでとさん」
何の感慨もなく奏が言うと、途端、テンの顔が不服そうになる。
「言葉だけぇ? 誕生日祝いとか、してくれへんの?」
「なんでテンの誕生日だけ祝うんだよ。オレや氷室さんの時は、誰も何もしてくれなかったのに」
「だってー、女の子やもん」
とテンが言うと、傍らにいた星の眉がピクリと動いた。
「あら。私の時も、誰も見向きもしなかったわよ」
「―――…」
…大失言。
ひきつった顔で固まるテンと、冷ややかな無表情で佇む星に挟まれて、奏はひとり、その場を取り繕うような笑いを無理矢理作った。
「あ…あー、そ、そんならさ! “全員の”誕生日祝い、っつーことで、いーんじゃない? 店のオープンから数えて、4人の中で最後に来たのがテンの誕生日だったから、そこで4人分まとめてHappy Birthday、ってことでさ」
「…そうね。それもいいわね」
ニコリ、と星が微笑んで同意してくれたので、奏はホッと胸を撫で下ろした。が、星の言葉は、そこで終わらなかった。
「じゃあ、一宮君が言い出したことだから、一宮君が責任持ってセッティングしてね」
「……」
こうして―――奏は、「4人分の誕生日祝い」の責任者をやらざるを得ない状況に陥った。
***
いつもなら、底なしのテンがいることを考えて、飲み放題コースのある居酒屋が飲みに行く定番なのだが、これには星が反対した。
「今日はダメ! せっかくのお祝いなのよ。普段行かないような店にして頂戴」
じゃあ、どうせならレストランでコース料理でも食べるか、と提案すると、今度はテンが反対した。
「いややー。ああいう店って、ワインしかないやん。ウチ、ワイン苦手やねん」
じゃあ、飲むことを主体として、日頃行かないようなシャレた飲み屋にするか、と言ったが、今度は氷室が異論を唱えた。
「飲むのが主体なのは、まるでテン“だけ”の誕生日祝いみたいで、いやだ」
……わがままな奴らめ。
で、話がまとまらないので、奏が独断と偏見で決めたのは―――…。
「へーっ、シャレた店じゃないの」
「ふーん、ここでカナリアちゃんが歌ってるんやぁ」
「どうりで奏っぽくないよなぁ。奏の性格からすると、絶対“ハードロック・カフェ”だろ」
「ハハハ、まー、否定はしないけど」
落とした照明、渋い木目の丸テーブル、流れてくるBGMは落ち着いたジャズ―――奏が3人を連れてきた“Jonny's Club”は、第一印象は悪くはなかったようだ。実は飲食代10パーセント割引チケットを貰っていたから、という事情が裏にはあったりするのだが、お得感を抜きにしても、そう悪くない選択だったらしい。
「酒の種類は結構豊富だけど、居酒屋みたいな値段じゃないから、ちっとはセーブしろよ」
勿論、このセリフはテンにのみ向けられたものなのだが、本人は全然わかっていない。
「飲みすぎたらダメですよ、氷室さん」
「……テメーのことだよ」
氷室と奏、2人から頭に拳をグリグリとめり込ませられて、テンは椅子から落っこちそうになった。そこに店員がオーダーを取りに来たので、それぞれに飲み物を注文し、ついでに食事もいくつか頼んだ。
運ばれてきた飲み物で乾杯し、食事に多少手をつけた頃になって、BGMが止んだ。
「? どうしたの?」
訝る星に、奏はステージの方を指差した。それまで無人だったピアノやウッドベースの傍らに、まだ影になっているとはいえ人影が見え隠れしているのがわかり、全員、手にしていた箸やフォークを置いて、ステージに注目した。
やがて、ステージがライトに照らされ、客からパラパラと拍手が起きた。
スポットライトの中、ピアノとウッドベースに挟まれるように立つ咲夜は、いつも同様の飾らない服装だ。マイクスタンドに手を置き、拍手に応えるように頭を下げるその姿は、ほぼ毎朝見ている人物と同じようで―――やっぱり、どこか違った。
「こんばんは―――ようこそ“Jonny's Club”へ」
笑顔で挨拶をする咲夜の目が、一瞬、奏の姿を捉えて僅かに微笑む。事前に一応連絡を入れたので、探してくれたらしい。奏も軽く手を挙げ、合図しておいた。
ベースのヨッシーが、ウッドベースの脇腹を叩いて、カウントを取る。4カウントで始まったのは―――今朝、咲夜が歌っていたのと同じ曲だった。
「If you have planned to motor west, Travel my way, Take the highway, That's the best, Get your kicks on Route 66」
『なんだそりゃ、国道66号線の歌?』
『そう、アメリカを横断する国道なんだって。面白いよ、この歌。歌の中に、66号線沿線の町並みがいーっぱい出てくんの』
今朝の会話を思い出し、ひとり、思い出し笑いをしてしまう。
シカゴからロスまで2千マイル、旅をするならルート66―――セントルイスをぬけミズリー州ジョプリン、オクラホマ・シティーは素敵な街、アマリロを望み、ニュー・メキシコ州ギャラップ、アリゾナ州フラッグスタッフ、そうそう、ウィノナも忘れずに。…本当に、まるで国道66号線をドライブしているような歌だ。よほど66号線に思い入れのある人物が作ったのだろう。
アップテンポなジャズは、ジャズ初心者の3人にもウケがいいようで、3人とも結構楽しそうな表情で聴いている。その表情にホッとした奏は、グラスを手に取り、再びステージに目を向けた。
―――やっぱ、上手いなぁ…。
毎朝に近い頻度で聴いている歌声は、咲夜の100パーセントの力ではない。単なる発声練習だ。騒音問題をとっぱらって、なおかつ、ライトを浴びたシチュエーションで歌う咲夜の声は、明るく澄み切った声で、ジャズに明るくない奏でも心地よく聴くことができる。
咲夜の夢は、拓海と同じ音楽レーベルから認められ、拓海のピアノに合わせて歌うCDを出すことだという。姪であることを出すとか、拓海から口添えするとか、そういうことをすれば話題性もあるから簡単に通るんじゃないか、とも思うが、それは絶対に嫌だと咲夜は言う。その気持ちは、奏にもわかる。瑞樹に撮って欲しい、といくら望んでも、あえて瑞樹から推薦されたいとは思わない。そんな形で夢を実現するのは、なんだか基本的な部分で間違っている気がするから。
オレなら一発で採用するけどなぁ―――咲夜の歌声に惹き込まれながら、奏は小さくため息をついた。実力1本で拓海の傍に追いつこうとしている咲夜の潔さを考えると、なんとか夢が叶ってくれればなぁ、と思わずにはいられない。自分が瑞樹との仕事で充実感を得たばかりだから、余計に。
「やっぱり上手いな、隣人のカナリア嬢」
1曲目が終わり、拍手をしながら、氷室がこっそり奏に耳打ちした。
「ジャズって、こう、しぶーいダミ声の黒人が歌ってるイメージがあったから、こんな澄んだ声でも歌えるのか、って、ちょっと驚いた」
「だろ。オレも軽いカルチャーショックだったんだ」
「癒し系ジャズ、ってところか?」
「ハハ、そうかもな」
そんなことを氷室と話していると、2曲目が始まった。
―――…あ。
その歌い出しの旋律を聴いて、奏は、思わず表情を変えた。
それは、奏にとっては、いまや特別な曲となりつつある歌―――『Amazing Grace』を、ジャズ調にアレンジしたものだったのだ。
***
「え…っ、咲夜の友達?」
ステージを終えた控室で、一成は思いがけない話を耳にして、少し目を丸くした。
「うん。隣に住んでる奴が、仕事の同僚と4人で来てるんだ。ほら、左奥の席に、目立つのが1人いたの、気づかなかった?」
「…ああ…」
曖昧に相槌を打ちながら、知らず、眉が不愉快そうに歪んでしまう。
左奥の席に座る4人組の1人は、確かに目立っていた。しかも、一度見た覚えのある顔だった。去年の終わり頃、咲夜の知人だという女性と一緒に来ていた、やたら見目麗しい男―――ただの隣人だと聞いていたのに、今咲夜が口にした単語は“友達”だ。
「いつの間に、隣の奴が“友達”になったんだ?」
「えー? いつの間に、っていうか……うーん、なんとなく?」
「ふぅん…」
「もうステージ終わったし、せっかくだから今から合流してちょっと飲むんだけどさ。一成とヨッシーも、どぉ?」
「ああー、妻帯者は、ちょっとパス」
咲夜の誘いに、ヨッシーはあっさりそう答えた。愛妻家の彼は、ステージが終わったら真っ直ぐ家に直行、がポリシーなのだ。予想通りの答えに、咲夜も一成も苦笑した。
「一成は?」
「…俺は…」
正直、あの連中と話をしたいとは、あまり思わない。けれど―――…。
「うん、行くよ」
「ほんと? じゃ、行こ」
パッと明るい顔になる咲夜に、一成は、嬉しいような苦々しいような、複雑な心境になった。
その笑顔にどういう意味があるのか―――知り合って2年近くなるというのに、まだ一成には読みきれない。そのもどかしさが、時折、一成をこんな心境に陥らせるのだった。
咲夜の友人らが集うテーブルで、咲夜と一成は、いたく歓迎された。
「いやー、ピアノさんのあのピアノ、めっちゃ感動しましたー!」
「は、はぁ…」
小柄で丸っこい女の子が、バリバリ関西弁で、感動を訴えてくる。その勢いに押されつつも、一成はなんとか笑顔を返して席に着いた。
既に4人が座って満席状態のテーブルに、隣の空きテーブルをくっつけて、咲夜と向かい合って座る。流れ上仕方ないとはいえ、このハイテンションな女の子の隣になってしまったのは、まずかったんじゃなかろうか―――席に着きながら、一成はなんとなく嫌な予感を覚えた。
一成の向かい側に座った咲夜は、家同様、隣人氏の隣、ということになった。短く何か声を掛け合っている姿を見て、一成はまた複雑な心境になった。
「皆さん、ジャズは初めてでしょ? 退屈しなかった?」
飲み物を頼み終えた咲夜が訊ねると、隣人氏の同僚らは笑顔で首を振った。
「いえ、全然。奏から聞いてはいたけど、上手いですねぇ、歌」
眼鏡をかけた長髪の男が、感心したようにそう言う。隣人氏より小柄だが、優しげな、親しみの持てそうな男だ。
「ありがとうございますー。えっと……あなたが、テンさん、かな?」
笑顔で咲夜が口にした名前に、一成と咲夜を除く4人が、え、と一斉に固まった。その反応を見て、どうやら自分の勘違いらしいと察した咲夜は、慌てて訂正した。
「あ、ご、ごめんっ! なんか、日頃奏の口から出てくる名前で、唯一記憶してたのが“テン”さんだけなんで―――変わった名前だなぁ、と思ってたから」
「…テンは、そいつだよ、そいつ」
苦笑した隣人氏が、一成の隣に座るゴムまりみたいな女の子を指差す。改めて“テン”の顔を凝視した咲夜は、途端、驚いたように目を丸くした。
「え…っ、“テン”さんって女の子だったんだ!?」
「? いっちゃん、ウチのこと、どーゆー風に説明してたん?」
「い、いや、ハハハ」
隣人氏の顔が、軽く引きつる。…多分、本人に明かせるような内容ではないのだろう。それは説明を受けている咲夜にとっても同じらしく、隣人氏をフォローするが如く、慌てたように口を挟んだ。
「て、テンさんて、本名じゃないよね? なんで“テン”って呼ばれてるの?」
言われてみれば、確かに。もっともな疑問をぶつけられたテンは、一瞬過ぎった疑問も忘れ、へらっと笑って答えた。
「ああー、ウチ、ほんとの名前は“まいこ”ていうんです。天の衣の子、って書いて、まいこ。でも、一発で読まれへん名前らしくて、“てんいこ”やら“ていこ”やら、好き勝手呼ばれるもんやから、もう自分から“ウチはテンでええわ”って言うようになって―――そやから、中学の頃から、あだ名は決まって“テン”なんです」
「へーえ…。わかるなぁ。私もなかなか一発で“サヤ”って呼んでもらえないから」
「へー、サヤさんは、どういう字書くんですか」
「花が咲く、の咲くに、夜。だから最初は“サクヤ”って呼ぶ人が多いんだよなぁ」
「確かに珍しい名前ね」
眼鏡の男の向かいに座る女性が、そう言って目を細める。ちょっと冷たい感じのする、なかなかの美女である。でも、それ故に、キャラクターチックなテンと彼女が並んでいると、なんとも妙なコンビに見えて仕方ない。
その後の紹介で、眼鏡の癒し系青年が「氷室」、クールビューティーが「星」だとわかった。で…、問題の隣人氏は、「一宮 奏」という名前だった。
「で、ピアノ弾いてた彼は?」
「ああ、こいつは、藤堂一成。数字の一と成功の成で、一成」
「…どうも」
一成が会釈すると、咲夜の名前にも突っ込みを入れた星が、
「藤堂さんの名前も珍しいわねぇ。かずなり、って読まれることが多いんじゃない?」
と指摘した。実際、星の言う通りだ。一成は苦笑し、「そうですね」と短く答えた。
そこに、咲夜と一成が頼んだ飲み物が運ばれてきた。ちょうど飲み物が切れていた面々も一緒に頼んでいたので、それぞれの手にほぼ満杯のグラスが渡った。
「じゃあ、改めて乾杯しますか」
氷室がそう言うので、6人揃ってグラスを手にし、氷室の音頭で乾杯をした。ビールを頼んだ一成は、ライブ後の体に冷たいビールが沁みていく心地よさに、暫し酔った。
そして、一気に3分の1ほどを飲んだ時。
「あーーっ、おいしー!」
ドン! と隣で音がして、テンのご満悦な声が聞こえた。
えっ、と思って隣を見ると、かなりアルコール度数が高いと思われるカクテルが入っていた筈のテンのグラスは、見事、空っぽになっていた。それを見て、一成とテン以外の全員の顔が、一気に強張った。
カクテルを一気飲みしたテンは、まるでジュースでも飲み干したかのように、ケロッとしていた。そして、傍らにいる一成のグラスに目をやり、オーバーな位に目を丸くした。
「えーっ、何やってるんですか、とーどーさん! 遠慮しないで飲んで飲んで」
「…いや、遠慮しているつもりは…」
「ウチ、すぐ次頼みますからっ。とーどーさんも一緒に頼みましょっ」
「え?」
君一人で頼めばいいんじゃないか、と思うものの、テンが一成のグラスを持って、ぐいぐい、と押し付けてくるので、やむなくグラスに口をつけた。しかし、さほど酒に強いタイプではない一成からすれば、こんなハイペースでビールを飲むのは、はっきり言って不可能だ。
「おい、テン…、やめろって。藤堂さん、困ってるだろ」
向かいに座る奏がたしなめたが、それは墓穴を掘る結果となった。テンの目が、一成から奏に移ってしまったのだ。
「えー、なにー、いっちゃんも全然飲んでへんやん」
「オレはゆっくり飲みたいんだっつーの!」
「あーかーんー! ウチ、1人だけオーダーするのってイヤやねん。あー、早く次の飲みたいなー。いっちゃん、はよ飲んで飲んで」
―――な…なるほど。こいつが咲夜に“テン”をどう説明してたのか、なんとなくわかった気ぃする…。
つまり、もの凄い酒豪である上に、酒癖の悪い奴だったのだ。飲ませるターゲットを、今度は奏からその隣に座る氷室に移すテンを眺め、とりあえずターゲットから自分が外れたことに、一成は密かに感謝した。
ところが、である。
「あっ、すみませーん! ここに“レッド・アイ”と“ニコラシカ”1つずつ!」
突如、それまでテンのターゲットから外れていた咲夜が、店員を呼び止めて勝手にオーダーした。
レッド・アイは、アルコール2度という体に優しいカクテルで、しかも結構小さなグラスで出てくる。最初にもほぼ同じ度数のカクテルを頼んだ咲夜のグラスは、既に空になっていた。
比べて、ニコラシカは、砂糖を挟んだレモンをかじりながら飲む、というちょっと変わったカクテルで―――レッド・アイの20倍のアルコール度数、だった筈。
「仲間内、あんまりお酒強いヤツ、いなくてさ。面白いカクテルだって聞いたけど、飲んでるの見たことないから、一度見てみたかったんだ。テンちゃん、お酒強いみたいだから、是非飲んでよ」
「あ、ウチ飲んだことないねん、アレ。一度試してみたかったんやー」
勝手に注文されたのに、テンはさほど気を悪くしていないようだ。多分、オーダー品目の物珍しさのせいだろう。テンの攻撃から逃れた他の4人は、これ幸いとグラスを置き、そそくさとテーブルの上の食べ物に手を伸ばした。
ほどなく、可愛らしい入れ物のレッド・アイと、見た目からして威圧感のあるニコラシカが運ばれてきた。
「はい、じゃー、かんぱーい」
ニコニコ笑顔の咲夜につられて、テンも乾杯する。えー、どうやって飲むん? などと言いながらレモンに砂糖を挟んで口に含むテンをチラリと見た咲夜は、グラスを口に運びながら、気づかれないほど僅かにニヤリと笑った。
レッド・アイを一口飲むと、その飲み口を指で軽く拭い、グラスを一成に差し出す。
「あー、結構これ、おいしい。一成も一口どお?」
「え? あ、ああ」
咲夜の飲んだものを飲む、というシチュエーションに、ちょっとドキリとさせられたが、その裏にある意図がある程度読めたので、一成も大人しくグラスを受け取り、一口飲んだ。
「どお?」
「ああ、結構うまいかも」
「奏も飲んでみてよ」
一成が返したグラスは、そのまま奏に渡り、更には氷室に、そして星へと渡された。再び咲夜の手元に返ってきた時には、グラスの縁スレスレ近くまであったレッド・アイは、半分以上減っていた。
「うっわー、これ、おいしい!」
一方のテンは、レッド・アイが半分になる間に、ニコラシカを大半飲み干していた。なにせ、レモンと砂糖以外の部分はブランデーのみなので、いいブランデーであれば、うまいのは当然である。
「飲むのが手間やけど、これ、癖になるわー。もう1杯頼もーっと。あ、咲夜さん、飲んで飲んで」
「はいはい」
素直に残り半分ほどのレッド・アイを一気に飲み干した咲夜は、「すみませーん! 同じの、もう1つずつ!」と店員に頼んだ。
その後も、事態は、咲夜のペースで進む。
「おおっ、テンちゃん、いい飲みっぷり!」
「えへへ、それほどでもぉー」
「2杯続けると、飽きちゃうんじゃない? あ、“マンハッタン”とか、どーお? えーと、私は今度は“ミモザ”かなぁ」
ちなみに、マンハッタンも、アルコール度数32度となかなかの破壊力である。比べてミモザは、7度。
「そろそろ基本に戻ってマティーニだよね。すみませーん、マティーニ1つと、シンデレラ1つ」
ちなみに、マティーニはアルコール度数34度、シンデレラはノンアルコールカクテルである。まさか酒好きのテンがこの罠に気づかない筈はないだろう、と思われたが、要するに一緒にオーダーする仲間がいればそれでいいのか、シンデレラという名前が出てきても、テンは一向に反応しなかった。もっとも……この段階で既に、かなり酔いが回っていて、気づけなかっただけなのかもしれないが。
とにかく―――咲夜は、度数の低いカクテルを、時には人に飲ませ、時には自分で一気飲みして、あっという間に平らげた。テンはそのペースに巻き込まれる形で、度数30度を超すカクテルばかりを、結構なペースで平らげていった。
そうして、30分後。
「よっしゃあー。いっちょ上がり」
椅子にズルリと寄りかかり、気持ち良さそうに寝息を立て始めたテンを確認して、咲夜がガッツポーズを決めた。
テンの同僚3人は、熟睡中のテンを呆然と眺め、暫し言葉も出ない様子だった。
「…す…っげー…。オレ、テンが酔いつぶれたの、初めて見た」
「私なんて、テンちゃんと飲みに行って最後まで記憶が保てたの、これが初めてよ」
「素晴らしすぎる…! 咲夜ちゃん、師匠って呼んでいいですか!?」
3人からよってたかって褒め称えられた咲夜は、一気に上機嫌である。
「まー、ねぇ。実は、大学ん時の仲間に酒癖悪い奴がいて、酔うと人に絡みまくって、店壊したり他の客に迷惑かけたりしてたんだよね。で、そういう奴に限って、中途半端な度数の酒をながーく飲んでたりするから、どうせなら早いとこ酔わせて寝かしちゃえ、ってんで、考えた方法がこれなんだ」
―――ああ…、航太郎のために考案した技だったんだ、これって。
咲夜の言う「酒癖の悪い仲間」に心当たりのある一成は、心の中でそう呟き、深く納得した。何故なら、航太郎と2人で飲みに行った時、一成自身が彼の「絡み癖」の犠牲になったからだ。
今飲ませたカクテルの名前をもう1回教えてくれ、などと師匠扱いされている咲夜を眺めつつ、一成は、今のセリフのある一部分が引っかかり、また複雑な気分に陥った。
―――“仲間”…、か。
そう言えば、いつもそう言ってたよな、咲夜は。航太郎は“仲間”だって。
過去に一度も、咲夜から“友達”の話を聞いたことがない。
だから余計―――咲夜が初めて使った“友達”という言葉が、どうにも気になって仕方なかった。
***
テンが潰れたことで、その場はやっと、普通の飲み会らしいムードになった。
とはいえ、一成は元来、口下手な人間である。大半は、周囲の人々の話を、グラスを傾けながら聞いてばかりいた。一成が咲夜と組むようになったきっかけなども訊かれたが、一成が「ええ、まぁ」と答えるのを、咲夜が補足するように言葉を付け足す、といった感じがほとんどだった。
咲夜は、元は化粧品メーカーの専属メイクアップアーティストだったという星の話に興味を持ったらしく、途中で奏と席を入れ替わった。寝ているとはいえ、星との間にテンが入っているせいで、一成はそちらの話には加わり難い。自然、向かいの席に移動してきた奏と話をする羽目になった。
が、フォロー役の咲夜がいなくなると、途端、話は弾まなくなる。奏も一成も、当たり障りのない仕事の話を2、3しただけで、あとは食事や飲むことにばかり集中した。
そんな空気に、慣れ始めた頃。
「…あの、一宮さん」
唐突に、一成が口を開いた。
カクテルを口に運んでいた奏は、その手を止め、少し驚いたように一成の方に目を向けた。
「はい?」
「ヘンなこと訊くかもしれないけど、その…」
僅かに言いよどんだ一成は、咲夜が向こうの話に集中しているらしいことを確認し、少しだけ声を落とした。
「一宮さんと咲夜との関係って、何、なんですか」
我ながら身も蓋もない質問だな、と思いつつ、それ以外のいい表現が思いつかなかった。一成が、少々の気まずさを感じつつもそう訊ねると、奏は怪訝そうに眉をひそめた。
「関係?」
「咲夜は、友達って言ってるけど」
その言葉に、返ってきた答えは、非常にシンプルだった。
「オレも、そう思ってるけど」
「……」
「…え…っ、まさか、変な想像とかしてるんじゃ」
どうやら、一成が奏と咲夜の仲を勘ぐっていると勘違いしたらしい。途端、慌てたような表情になった奏に、一成は苦笑して首を振った。
「いや、そういう訳じゃ…。ただ、ちょっと不思議に思ったから」
「不思議?」
「共通の知り合いがいるとはいえ、ただ隣に住んでただけなのに―――しかも、趣味なんかもあまり似通ってないように思えるのに、一体どういうきっかけで“友達”になったんだろうな、って」
「きっかけ、ねぇ…」
うーん、と眉を顰めた奏は、暫し天を仰ぐようにして考え込んだ。
「これ、っていう決め手はないけど―――なんつーか、日頃顔合わせた時話すことが、ちょっと自分の身の回りと被ってたりして、共感覚えることが多かったせい、かな」
「共感…」
「オレも咲夜も、本業を持ちながら“将来の夢”を追いかけてもう1つ仕事をやってる立場だし。他にも…まあ、色々。咲夜と話すと、あー、こんなことで悩んだり迷ったりしてんのはオレだけじゃないんだな、とか思うことが多いから」
そこでちょっと言葉を切った奏は、整った顔を柔和にほころばせた。
「だから―――弱みを見せられる大事な友達、って感じかな」
「……そう、ですか」
襲ってくる、形容しがたい気持に、一成の笑みが僅かに歪んだ。
勿論、一成だって、咲夜の悩みを聞くことは度々ある。仕事とこの店でのライブの両立についてとか、歌の歌い方についてとか―――共に「兼業じゃないジャズ・プレーヤー」を目指す者同士、悩みや迷いを話し合ったことが何度もある。
でも―――それは、全て、音楽に直結した問題ばかりだ。
音楽を離れた部分での「人間・如月咲夜」を、一成はあまりよく知らない。
叔父の麻生拓海にしろ、大学の同期生である航太郎にしろ、いずれも「音楽」と関係している存在だ。普通の大学生としての咲夜、企業のいち社員としての咲夜、誰かの娘としての咲夜―――そんな咲夜は、見当もつかないし、そんな一面を一成に見せてくれることはほとんどない。
―――だから俺は、こいつの出現に、焦ったような気分になったのか…。
向かい側の席に座る男の顔を眺め、自分の中に芽生えた嫉妬に似た感情の理由を、ようやく見つける。
咲夜の日常の隣に住む彼は、一成が初めて接する、音楽とは一切かけ離れた「人間・如月咲夜」の一部だったのだ。
***
結局、テンは最後まで目を覚まさなかった。
「こら、テンちゃん! 帰るわよ!」
星が揺さぶっても起きず、「金払え」と迫る奏には、バッグから財布を取り出し、そのまま丸投げした。
「…知らねーからな、飲んだ量より多く支払っても」
ぶつぶつ言いつつも、奏はその財布からテンが飲み食いした額分だけを抜き取り、きちんとバッグに返してやった。同じ見習いという立場のせいか、他の2人以上にテンに対する態度がぞんざいな奏だが、案外こういう部分ではきっちりしていて、テンを蔑ろにするような真似はしないらしい。
「私、家が同じ方向だから、テンちゃん乗せてタクシーで帰るわ。一宮君、悪いけど運んであげて」
「…はいはい。ほら、テン! おぶされ!」
「…うーー…」
おがくずの入った麻袋のような状態のテンは、奏に言われてズルズルと立ち上がった。が、すぐにフラリと倒れそうになり、両脇から咲夜と氷室に抱えられる羽目になった。
氷室と咲夜とで、なんとかテンを奏の背中に乗せ、無理矢理背負わせる。
「テメ…、そんだけしか身長ない癖に、なんでこんなに重たいんだよっ」
「テンは明日からダイエットだな」
「ちょうど良かったわ。私もダイエットする予定なの。テンちゃーん、明日から2人で絶食しましょーね」
そんなことを口々に言いながら、“Studio K.K.”の面々は、店を出て行った。もう仕事も終わった一成と咲夜も、それに続いて店を出た。
―――なんだかんだ言って、あのテンって子とも親しそうだよな…あいつ。
ためらいもなくテンを背負ったり、止めたタクシーの中にグテングテンの体を押し込む奏を眺めつつ、そんなことを思う。酔っ払いのテンは、奏に抱きついて「いっちゃんも一緒に帰るのー」などと騒いでいるが、迷惑がってはいるものの、はいはいはい、といった感じの慣れた様子であしらっている。
整いすぎたルックスのせいで、一見クールに見える奏だが、話してみると随分フレンドリーで、あっけらかんとした性格らしい。それに、モデル業界という女性の多い世界に身を置いているから、女性の扱いにも慣れているのだろう。案外、咲夜やテンに対してだけじゃなく、誰に対してでもああいう気さくな態度を取る奴なのかもしれない―――そう思うと、何故か少しだけホッとした気分になった。
じゃあ、咲夜の方は、どうなんだろう?
少々気になり、一成は、タクシーの周りでバタバタしている連中を眺めている咲夜の横顔に目を向けた。その横顔からは、目の前の光景に苦笑しているムード以外、特に何も感じられなかった。
「…ちょっと位は、妬けたりする?」
こっそり、咲夜に訊ねる。
すると咲夜は、キョトンと丸くした目を一成の方に向けた。
「妬ける、って―――なんで?」
「いや、あのテンちゃんとお隣さん、随分親しそうだから」
「あー、そうだよね、親しそうだよね」
その答えには、その言葉以上の意味は、欠片もなさそうだった。が、そう言った直後、咲夜は、何故か気難しげに眉を寄せ、少し首を傾げた。
「でも……うーん、テンちゃんは、奏の彼女にするには、イマイチか」
「は?」
「好みからかけ離れ過ぎだもんなぁ…。惜しいなぁ、相性良さそうなんだけど」
「……」
―――お前、いつからお見合いを世話するのが趣味のご近所のオバサンみたいな奴になったんだ??
咲夜らしからぬ言動に、一成の方が唖然としてしまう。咲夜にとって“友達”というのは、彼女の心配までするような間柄なのだろうか―――どうもよくわからない。
…でも。
嫉妬どころか、こんなセリフが出てくる、ということは―――咲夜にとって奏は、恋愛対象外なのか。
それをなんとなく理解して、一成は、やっと安堵した。
何故そのことに自分が安堵するのか、その理由もよくわからないまま―――ただ、ホッと胸を撫で下ろしていた。
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