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― 月下美人

 

 駅を出ると、ポツポツと雨が降ってきていた。
 傘を持っていなかった奏は、パーカーシャツの襟を引き上げると、首を竦めるようにして走り出した。
 早番で陽の高いうちに店を出た奏だったが、所用であちらこちらと寄り道をした結果、帰宅は日が暮れてからになってしまっていた。朝出た時には青空もちらほら見えていた空は、今は重たげな雲に覆われている。梅雨本番、つかの間の晴天は、すぐに雨雲に掻き消されてしまう。天気予報では夜中から雨、と言っていたから、若干早めに天気が変わってきているらしい。
 ―――うわ、結構降ってきたな。
 確か、多少の買い置きがあった筈だ。簡単な炒め物位なら作れるだろう。途中でスーパーかコンビニに寄って何か買うか、と思っていたが、どうやら本格的な降りになりそうなので、やめておいた。

 予想通り、アパートの入り口に着く頃には、傘がなくてはずぶ濡れになりそうなほど、雨足が強まっていた。
 「…あーあ…」
 濡れてしまった頭を、野良犬よろしくぶるっと振り、眉を顰める。こりゃ夕飯を食べるよりシャワーを浴びる方が先だな、と内心呟きながら、階段をトントン、と上った。
 そして、その最後の段を上りきり、2階の廊下に1歩踏み出した時―――そこに、見慣れぬ人影を見つけ、思わず足を止めた。
 そこにいたのは、中学生の男の子だった。
 半袖の白い開襟シャツに、黒の学生服のズボン。咲夜の部屋のドアに背中をくっつけて廊下にしゃがみこみ、皮製の学生カバンを膝に置いている。キリッと切れ長の一重瞼をした、涼しげな顔立ちの少年だ。
 奏の足音を聞いたのか、彼は、ハッとしたような表情で階段の方を見ていた。が、上がってきたのが期待した人ではないとわかると、少し落胆したような顔をした。
 ―――咲夜の、知り合いかな。
 気にしつつも、彼が視線を落としてしまったので、奏は彼の前を横切り、自分の部屋に向かった。
 鍵を開けながらチラリと見ると、廊下に吹き込む雨は、彼のスニーカーのつま先にまで迫っていた。いくら6月でも、この天気で、しかも夜に、半袖の開襟シャツだけというのは寒いのだろう。しゃがみこむ彼は、両手で自分の腕を抱き、寒そうに体を丸めている。
 「…あの、もしかして、咲夜の知り合い?」
 見かねて、奏が声をかけると、彼は顔を上げ、少し怪訝そうな顔で奏を見上げた。
 「え?」
 「いや、咲夜の部屋の前にいるから、知り合いかと思って」
 「…如月咲夜と、親しいんですか?」
 どうやら彼は、奏が隣人を「咲夜」と名前で呼び捨てにしたことを不審に思ったらしい。なるほど、そりゃそうだよな、と奏は苦笑した。
 「親しいっていうか、友達だよ」
 「…そう、ですか」
 「君は?」
 奏が訊ねると、彼は、ちょっと瞳を揺らした後、ぼそりと答えた。
 「…弟、です」
 「えっ」
 「如月咲夜の弟の、亘です」
 弟―――…。
 そういえば、咲夜は以前、弟と妹を拓海の家に遊びに連れて行く、と言っていた。名前や年齢は聞いていないが、話の内容から、咲夜とは結構歳が離れている印象を受けていた。
 それにしても、もう夜の7時になる。このまま、咲夜が帰るまで待ち続けるつもりなのだろうか。それに、家族は―――いや、それ以上に咲夜は、弟が訪ねて来ていることを知っているのだろうか?
 ―――見過ごしにする訳にも、いかないよなぁ…。
 迷った末、奏は思いきって、彼に言った。
 「咲夜、いつ帰るかわからないから―――そこじゃ寒いだろ。オレんとこで待ったら?」

***

 咲夜の弟・亘は、落ち着いた雰囲気の、礼儀正しい少年だった。
 奏が紅茶を淹れると、非常に恐縮して丁寧に礼を述べ、奏がシャワーを使っている間も、特に部屋の中をうろついたり、置いてあるものを物色したりせずに、大人しく紅茶を飲み続けていた。

 「いいよ別に、座っててくれれば」
 「そんな訳には、いかないですっ」
 冷蔵庫の残り物でチャーハンを作ろうとする奏に、亘は慌てて立ち上がり、手伝うと言い出した。あまり頑なに拒んでも可哀想なので、2度ほど断ったところで奏の方から折れた。
 「じゃあ、ええと―――このレタス、小さくちぎってくれるかな」
 「ハイ」
 男2人が台所に並び、黙々とレタスをちぎり、たまねぎを刻む。もっとも奏自身も、一人暮らし歴の長さの割にあまり自炊は得意ではなく、刻んだたまねぎは大きさがメチャクチャで、同じく刻んだハムも、一番小さい欠片は一番大きい欠片の4分の1だったりする。でも、まあ…別にいいだろう。
 「今日来ること、咲夜には言ってある?」
 即席ごはんをレンジに放り込みつつ奏が訊ねると、亘はレタスをちぎりながら、力なく首を横に振った。
 「あいつ、今日はライブがないから早いだろうとは思うけど…真っ直ぐ帰って来るとは限らないしさ」
 「……」
 「咲夜の携帯番号は?」
 また、首を振る。…残念。奏だって知らない。隣に住んでいて、用があればピンポーン、で終わりだから、必要がないのだ。
 「家には、断ってきてんのか?」
 この問いには、無反応だった。つまり―――家族に内緒で来ている、ということなのだろう。嘘をついて頷くことだってできるだろうに、そうしないあたり、今時の中学生にしては素直で歪んでいない方かもしれない。
 ―――どーすっかなぁ…。
 小さくため息をついたところで、即席ごはんが温まった。とりあえず飯だけは食うか、と、奏はチャーハン作り以外のことはひとまず置いておくことにした。

 レタスとたまねぎとハム、という不可思議な具のチャーハンは、概ね亘にも好評だったようだ。
 「確か、妹もいるんだよな」
 話すこともないので、チャーハンを食べつつ奏が妹の話を振ると、亘は少し安心した顔になり、頷いた。
 「芽衣、っていうんです。4月に11になったばかりだから、まだチビだけど」
 「へーえ。じゃあ、咲夜とはええと、いくつ違うんだ? あいつ、今年24だから―――うわ、一回り以上かぁ」
 「……」
 明るくなりかけた亘の顔が、一瞬、曇る。が、すぐに微かな笑みを作って「そうですね」と小さく答えた。
 その微妙な反応を不思議に思った奏だったが、突っ込むのもまずい気がしたので、軽く流しておいた。
 「ああ、そういや、亀の話も聞いたな」
 「亀?」
 「このアパートで猫を飼うか、って話をした時。咲夜が、弟が亀を飼ってる、って」
 「ああ」
 今度の話題は好ましいネタだったらしい。亘の顔が、パッと晴れやかになる。
 「ジョンのことですね」
 「じょん?」
 「亀の名前。姉がつけたんです」
 「…亀が、ジョン?」
 「ほら、鶴は千年亀は万年、ていうでしょう? だから姉は、最初は“万次郎”ってつけてたんです。でも、おれが“昔の人みたいな名前で嫌だ”ってごねたんで―――じゃあ、“ジョン万次郎”から名前を貰って“ジョン”にしよう、って」
 「……」
 なるほど―――いかにも咲夜らしいネーミングだ。ミリオンバンブーに百恵・竹彦と名づけただけのことはある。深く納得して、奏は思わず吹き出した。
 「ハハ…、咲夜っぽいなー」
 「…姉は、いろんなものに名前つける癖があるから、おれがつける前につけちゃって、本当はちょっと不満なんだけど…」
 「植物にも名前つける位だからなぁ。あ、そういえば―――あいつが植物に名前つけるのって、お母さんがそうだったから、それが当たり前だと思ってたからなんだって?」
 当然のように奏が言うと、途端―――亘の笑顔が、急速に消えた。
 え? と驚く奏の目の前で、亘は奏の顔を見つめたまま、動揺したように瞳を揺らした。チャーハンを掬おうとしたスプーンが半ば手から離れているのにも、本人は気づいていないらしい。
 「…姉が、そう言ったんですか?」
 「え?」
 「母が、植物に名前をつける、って」
 「? そう聞いたけど…」
 もしかして、家族にも秘密にしていた話だったのだろうか―――言っちゃまずかったのかな、と焦る奏の耳に、その時、階段を上がってくる人の足音が、微かに聞こえた。
 亘もそれに気づいたらしく、視線を玄関の方へと走らせる。そんな亘をチラリと見た奏は、急ぎ立ち上がり、玄関に向かった。

 奏がドアを開けると、ちょうど咲夜が、バッグから鍵を取り出しているところだった。
 待っていたかのようなタイミングで隣のドアが開いたことに、咲夜は驚いたように目を丸くしていた。
 「おかえり」
 「え…っ、奏? どうしたの?」
 「咲夜に、来客。ドアの前でしゃがんでたから、うちで匿ったんだ」
 「来客??」
 心当たりなんてないぞ、という顔の咲夜に、親指で部屋の奥を指し示す。手にした鍵を、使うことなく握り締めた咲夜は、怪訝そうな顔で奏の部屋の玄関を覗き込んだ。
 そしてそこに、緊張した面持ちで座っている弟を見つけ―――大きく目を見開いた。
 「わ…亘!?」
 「…姉ちゃん…」
 心細そうな声で返事をする亘に、咲夜は慌てて靴を脱ぎ、奏の部屋に上がりこんだ。
 「どうしたの、一体! 会いたい時は家に電話くれればいい、って言ったでしょ? 第一……うっわ、もう8時過ぎてるじゃない! あんた、お母さんにはちゃんと言ってきてるの!?」
 「…ヒロキんとこで試験勉強してることになってる。大丈夫、ヒロキんとこにはしょっちゅう行ってるし、大抵遅くなるから、疑われないよ」
 ヒロキ、というのは、多分友達の名前だろう。それにしても、姉の所に遊びに来るのに、「友達の家に行く」と嘘をつかねばならないのだろうか? なんだか変な話だ。
 けれど、何かしらの事情があるのか、その話を聞いた咲夜は、少し安堵したように息を吐き出した。
 「そう…。でも、連絡位はくれないと。たまたま早く帰ったからいいけど…真夜中まで帰ってこなかったらどうする気だったの。え?」
 「…電話したら、来るな、って言われると思って」
 「え?」
 「―――姉ちゃん」
 眉をひそめる咲夜に、亘は、うな垂れていた顔を起こし、何かを決意したように唇をきつく弾き結んだ。そして、思いがけないことを咲夜に訊ねた。
 「おれって、姉ちゃんの、弟?」
 「……え?」
 「おれと姉ちゃん、血が繋がってないって―――本当?」
 「―――…」

 咲夜の表情が、凍りつく。
 無言の反応は―――亘の質問に「Yes」と答えている以外の何物でもなかった。

***

 ―――オレ、ここにいていいのかな。
 っつーか、ここ、オレの部屋なんだけど…。

 改めて3人分の紅茶を淹れ直し、咲夜の前に1つ、亘の前に1つ置く。で、自分はというと―――2人の目には入らない、シンクの隅に立って、マグカップに入れた紅茶を飲む。到底、あの2人の傍らに腰を下ろす気にはなれなかった。
 亘の質問に黙ってしまった咲夜は、部屋に入ってきた時の位置から1ミリも動かず、正座した膝に両手の拳を置いて、黙って俯いている。奏がティーカップを置くと、その時だけは僅かに視線を奏に向け「ありがと」と言ったが、それ以外、全く動かない。まるで、どう動いていいかわからないみたいに。
 一方の亘は、奏がティーカップを置くと、ペコリと頭を下げた。そして、砂糖も入れずにそのまま一口飲み、カチャン、とカップをソーサーに戻した。
 「…誰かに、何か言われたの」
 カップを置く音に重なるように、咲夜がポツリと訊ねる。
 目を上げ、咲夜の少し落ち込んだような顔をチラリと見た亘は、一度唇を噛むと、口を開いた。
 「―――4月に、1級下に、啓太君が入学したんだ。ほら、父さんの妹の子供だって言って、凄く前に一度会っただろ?」
 「…ああ」
 「小学校は別々だったけど、中学は同じ学区だったんだ。だからおれ、啓太君の友達に“啓太の従兄弟だよ”って言ったら―――啓太君が、違う、って」
 「……」
 「姉ちゃんと芽衣は父さんの子供だから従姉妹だけど、おれは父さんの子じゃないから違う、って。…おれは、母さんの前の旦那さんの子供だから…って…」
 「…バッカじゃない。続柄が従兄弟なら、どういう経緯でも従兄弟に決まってんのに。啓太君て無知だね、中1にもなって」
 苦笑したような咲夜のセリフも、いまいち覇気がない。亘も、そうだよね、と流す気にはなれないらしい。
 「父さんと母さんが再婚したのって、おれが生まれた後だったの?」
 亘の眉が、困惑したように歪む。
 「母さんも父さんも、再婚してすぐおれが生まれた、って―――違ってたの? おれだけ父さんの子じゃなかったの?」
 「…やだなぁ」
 俯いたまま、咲夜が、小さく笑う。
 顔を上げた咲夜は、苦笑のような、苦笑じゃないような、微妙な笑みを浮かべた。
 「そんなこと言うなら、私だけ“お母さんの子じゃない”よ」
 そう言われて初めて、咲夜の立場に気づいたのだろう。ハッとしたように目を見開いた亘は、慌てて咲夜に1歩詰め寄った。
 「ご、ごめん、おれ、そんなつもりじゃ」
 「あはは、わかってる。…うん、もう亘も大きくなったんだから、ちゃんと言った方がいいよね」
 穏やかに微笑んだ咲夜は、そこでやっと、奏が淹れてくれた紅茶に手を伸ばした。
 スティックシュガーを入れ、カチャカチャとティースプーンで掻き混ぜ、口に運ぶ。一口飲んで、はーっ、と息をついた咲夜は、ティーカップを置くと、きちんと亘に向き直った。
 「亘の本当のお父さんは、亘が生まれる前に、事故死したんだって」
 「……」
 「お母さんは、1人で亘を産んで育ててて―――お父さんと、出会って。お母さんの妊娠がわかったのを機に、お父さんは小6だった私を連れて、お母さんは2歳だった亘を連れて、再婚したの。で…半年後、生まれたのが、芽衣。だから、本当に“お父さんとお母さんの子供”なのは、芽衣だけだよ」
 「…な…んで、嘘ついてたの? おれも父さんの子だなんて」
 「ん…、大人の勝手な理屈だけどね。亘には、本当のお父さんの記憶がないじゃない? それに、再婚した時には、もうすっかりお父さんに懐いてたし―――なのに今更、実は本当のお父さんじゃない、なんて話になったら、亘が混乱するんじゃないか、って。まだ小さいし、親が再婚したってことも理解してない位だから、いっそ本当の父親だ、ってことにした方がいい、ってことになったんだって。お父さんとお母さんの話し合いでね」
 「そんな…勝手だよ」
 本当に、勝手だ―――マグカップを口に運びながら、奏も思わず頷いた。
 奏の育ての親・一宮夫妻も、あえて養父母であることは明言しなかったが、かといって、本当の親だ、などと言ったこともなかった。奏と累が自然と疑問を覚え、自ら真実を知りたがるまで待っていた。嘘をつかれていなかったから、告げられた真実を受け入れることができたが……もし嘘をつかれていたら、養父母を信じられなくなっていたかもしれない。
 「…実の父親じゃない、ってわかったら、お父さんと上手くやってけそうにない?」
 少し心配そうに咲夜が訊ねると、亘は、神妙な面持ちで暫し考え、それからゆっくり首を振った。
 「ううん―――そんなことは、ないけど」
 「そう。よかった。芽衣や亘には、お父さんと上手くやって欲しいから」
 「でも、」
 亘の目が、急に険しくなる。
 「おれ、啓太君から、もう1つ聞いたんだ」
 「…えっ」
 「姉ちゃんと、拓海叔父さんのこと」
 「……」
 咲夜が息を呑むのが、はっきりわかった。拓海の名前が出て、さすがに奏も、ちょっと眉をひそめる。
 「姉ちゃん、父さんと母さんの再婚を嫌がって、暫く拓海叔父さんが預かってた、って。それで、その―――なんかあって、父さんがもの凄く怒って、拓海叔父さんの所から姉ちゃんを無理矢理連れ帰ったんだ、って」
 「……」
 咲夜の瞳が、グラリと揺れた。
 頬の色が明らかに蒼褪め、視線が動揺のせいで定まらなくなる。いつも余裕の笑顔でいる咲夜とは思えないほどの動揺した様に、奏は、このままこの話を続けさせて大丈夫なんだろうか、と不安になってきた。
 「叔父さんと姉ちゃんと父さんの間に何があったんだ、って啓太君に興味津々で訊かれて、おれ……何も、答えられなかった」
 「……」
 「…なあ、姉ちゃん。本当? ほんとに姉ちゃん、父さんと母さんの再婚が嫌だったの? 一緒に暮らすのが嫌で、拓海叔父さんの所に行ってたの?」
 「…そんなこと、ないよ」
 弱々しく笑った咲夜の声は、僅かに掠れて、抑揚がなかった。それが、言葉とは裏腹な本音を表している気がして、亘は膝の上の拳をぎゅっと握った。
 「じゃあ、拓海叔父さんとこにいた、ってのも、啓太君の…いや、叔母さんの嘘?」
 「亘…」
 「だって、父さんのあの拓海叔父さんに対する異常な態度も、姉ちゃんに対して変に束縛しようとする態度も、啓太君が言ったみたいなことがあったんなら―――何があったかはわからないけど、とにかく、叔父さんと父さんとで姉ちゃんを引っ張り合ってたって考えたら、なんか、急に腑に落ちる気がして」
 「亘!」
 鋭い咲夜の声に、亘が口を噤む。離れて聞いていた奏も、亘と同時に、ごくりと唾を飲み込んだ。

 それは、初めて見る、咲夜の追い詰められた目だった。
 気持ちのいいほど割り切りが良くて、悩む時は眉間に皺を寄せて真剣に悩み、笑う時は大きく口をあけて笑い、怒る時は直情的に怒る。突っ込みやおちょくりが大好きで―――拓海の楽屋外でいきなり歌ったり、テンをノックダウンしたり。ああいう姿が、普段の咲夜だ。
 でも、目の前にある目は、まるで違っていた。
 前向きでアグレッシブで―――そんな咲夜とは対極にある、頑なに殻に閉じこもったままのような、暗くて悲しげな目だった。

 「…おれ、4月にそれ聞いた時、発作的にここに来ちゃったんだけど―――怖くて。姉ちゃんに追い返されたりしたら、もう立ち直れないな、って」
 「…追い返す?」
 「姉ちゃんがうちに帰ってこないのは、“他人”のおれや母さんがいるせい?」
 亘が、辛そうに眉を寄せる。それには、咲夜は即座に首を振った。追い詰められたような色合いを引きずったまま、それでも微かに微笑んで。
 「そんな訳、ないじゃん」
 「でも…大学卒業しても、戻って来なかったし」
 「……」
 「おれも芽衣も、姉ちゃんが帰って来ると思って、楽しみにしてたのに…」
 「……ごめん……」
 唇を噛んだ咲夜は、亘の頭を抱き寄せた。
 「…私が家に戻れないのは、ただ、お父さんが私の歩みたい道を理解してくれないからだよ。一緒にいると、どうしても喧嘩になって、亘にも、芽衣にも、お母さんにも嫌な思いさせるから。…言ったよね? この前。これは、お父さんと私の問題だ、って」
 「…じゃあ、拓海叔父さんは?」
 「―――拓海は、私の味方をしてるから、お父さんに煙たがられてるだけだよ」
 ぽんぽん、と亘の背中を宥めるように叩いた咲夜は、両肩に手を置いて亘を引き離し、その顔を覗き込んだ。
 「でも、お父さんは亘のこと、本当に大事に思ってるよ。…血が繋がらないことがわかっても、それは疑わないで。大嫌いな奴だけど、それだけは私も保証する」
 「……」
 「亘と芽衣は、きょうだいだよね?」
 「うん」
 「私と芽衣も、きょうだいだよね?」
 「…うん」
 「だから、私と亘も、きょうだいだよ。…それでいいじゃん。私、芽衣も亘も好きだよ。勿論―――お母さんも」
 「…うん。わかった」
 「変だよね」
 ポツリと呟き、咲夜はふっと笑った。
 「いろんな繋がりのある家族の中で、一番濃い血の絆で結ばれている筈の人だけ、唯一、好きになれないなんて…ね」

***

 「ほんとに1人で帰れるか?」
 奏が訊ねると、スニーカーを履いた亘は、くるりと振り向き、ニコリと笑った。
 「大丈夫です。まだ9時過ぎだし。友達んとこから帰るのが11時とかになる時もあるから。それに―――さっき、母さんには電話したから、駅着いたら迎えに来てくれるっていうし」
 「…そっか」
 「―――チャーハンと紅茶、ご馳走様でした」
 そう言って奏に頭を下げた亘は、次いで、奏の隣に立つ咲夜に目を向け、形容し難い、力強い笑みを見せた。
 「急に来て、迷惑かけたけど―――来て、良かった」
 「今度は連絡してから遊びにおいで」
 「あはは、うん、そうする。…あ、どうしよう、一宮さんに借りた傘…」
 「返さなくていいって、その位」
 以前、今日のように突然雨に降られた時、やむなくコンビニで買った500円のビニール傘である。1度お世話になったきり、玄関の片隅に放置されていたのだから、あげてしまっても全然問題ない。
 「じゃあ…いただきます」
 ひょこっと軽く頭を下げた亘は、ドアを開け、もう一度2人に向き直って、笑顔で頭を下げた。
 手を振る2人に見送られながら、亘は、奏の部屋を後にした。


 「…食器、片付けるね」
 部屋に戻って、咲夜はおもむろにそう言い、シンクの前に立った。
 「いや、別にいいって、それ位さ」
 「ううん。やたらヘヴィーな話聞かせちゃったお詫びも兼ねて、この位やらせてよ」
 早くもスポンジに洗剤をつけ始める咲夜を、さすがに今更止めることもできなかった。ま、いっか―――観念した奏は、所在なげに床に座り、壁に寄りかかった。

 ヘヴィーな話―――確かに、少々ヘヴィーではあったが、救いようがない話ではなかった。
 離婚率がどんどん高くなっている現代では、再婚だって普通によくある話だろう。亘にとってはショックだった話も、亘に嫌われたくない新しい父親の心理を考えれば、賛成はできないが、まあ理解はできる。実の親である父親と咲夜が音楽を巡って対立してしまうのも、無理からぬことだ。咲夜の言う通り、家に戻らない方が、家庭の平和のためにも―――いや、それ以上に、咲夜のためにもいいことかもしれない。
 ちょっと重たくはあるが、弟が成長した今なら、話して問題ない話だ。
 ただし―――咲夜が語ったことが、全てであるならば、だが。

 「…なあ」
 手際良く食器を洗い上げていく咲夜の後姿を眺めつつ、奏は口を開いた。
 「お前さ、弟に、嘘は言ってないよな?」
 「……」
 「あの子を傷つけたり、家で嫌な思いさせたりしないように、わざと嘘を言ったとか、そういうこと、ないよな?」
 「……嘘は、言ってないよ」
 カチャン、と、洗い上げた食器が音を立てる。最後の1枚を洗い終えた咲夜は、きゅっ、と水道の蛇口を閉めた。
 「言わなかったことなら、あるけど」
 「言わなかったこと?」
 「…私の、母親のこと」

 そういえば―――そうだ。咲夜は、父と現在の母の再婚については語ったし、亘と芽衣の出生についても語った。でも…今いる5人家族のルーツの中で、唯一 ―――咲夜の実母については、一切触れなかった。
 そう考えると、さっき、亘が顔色を変えた件が頭をよぎる。
 “あいつが植物に名前つけるのって、お母さんがそうだったから、それが当たり前だと思ってたからなんだって?”―――あの「お母さん」は、現在の母ではなく、亘も知らない咲夜の実母のことだったのだろう。あの時亘は、それまで意識しなかった「咲夜の本当のお母さん」の一端を垣間見て、ドキリとしたのに違いない。

 僅かな間黙り込んだ咲夜は、ふいにくるりと振り返ると、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
 「奏。“月下美人”ていう植物、知ってる?」
 「え? ええと、名前だけは知ってるけど…」
 奏が答えると、ニッと笑った咲夜は、シンクから離れ、奏の向かい側にペタンと座り込んだ。
 「月下美人は、サボテン科の植物でね。凄く綺麗な花なんだけど、1年にたった一晩しか開花しないんだって」
 「へえ…。面白いな」
 それと母親と、どう関係があるのだろう? 脈絡なく始まった話に、奏はちょっと眉をひそめた。だが、その答えは、間もなくわかった。
 「私の本当のお母さんが、一番好きだった花なんだ」
 「……え、」
 「お母さんさ、子供の頃から心臓が弱くて、生きられて20歳まで、って医者には言われてたんだ。実際には、無事20歳を超えて、結婚することも子供を産むこともできたけど―――毎年、今年が最後の年かもしれないって思いながら生きてきた、って言ってた」
 そう言って、咲夜は、懐かしむような笑みを口元に浮かべた。
 「月下美人は、たった一晩だけ花を咲かせるために、1年、精一杯生きてる―――たった一晩だけの花だから、人の目につかない夜中にもかかわらず、あんなに大輪の美しい花を咲かせて、たくさんの虫を集める甘い香りを放つんだって。…お母さんは、長生きできないって言われながらも、恋をして、私という“花”をつけることができた。だから私にも、たった1度でいい、私らしい綺麗な花を咲かせるための人生を送って欲しい―――そういう願いを込めて、夜に花開く月下美人にちなんで“咲夜”ってつけてくれたの」
 「…そういう、意味だったんだ、“咲夜”って」
 不思議な名前だな、とは思っていたが……そんな裏話があったとは想像していなかった。優しげな話に、奏も知らず口元をほころばせた。
 「私を産んでからも、お母さんの心臓の具合、あんまり良くなくて…時々、入院したり退院したり。小さい頃は、お母さんが入院すると、お父さんがお弁当とか作るから、不恰好なお弁当になって、ちょっと恥ずかしかったりしたなぁ…。小学校入ってからは給食になってホッとしたっけ。でも…家族3人、助け合って、結構幸せだったと思う」
 そこまで話した咲夜の視線が、力を失ったように、僅かに床に落ちた。
 「…最後の1年は、ほとんど入院したまんまだった」
 「…最後…?」
 「私もお父さんも、交代でお見舞いに行ったり、看病したり―――結局、私が6年生の夏、死んじゃった。病院のベッドで」
 「―――…」

 『“さや”って、どういう字?』
 『うん―――花が咲く、の咲く、って字に、夜』
 『へぇ…、いい名前だな』
 『……ありがと』

 あの時、咲夜が一瞬見せた、悲しみを引きずったような、不思議な影のある笑み。その意味が、なんとなく理解できた。
 そうか…“咲夜”という名前は、死別した実の母の形見だったのか―――沈痛の面持ちで俯きかけた奏は、そこで、ふとあることに違和感を覚え、眉を寄せた。
 「…6年生の、夏?」
 「うん」
 「ちょっと、待て。咲夜、さっき亘に、両親が再婚したのは、咲夜が小6の時って…」
 「…うん」
 それって―――どういうことだ?
 確かめるより早く、咲夜が、淡々とした口調で告げた。

 「―――お母さんが亡くなって2ヵ月後、突然、お父さんが言ったんだ。“咲夜、お父さんは、再婚するよ。お前に妹か弟が生まれるんだ。お母さんがいなくなって寂しいけど、新しいお母さんとも仲良くしてくれるね?”」
 「…そ…れ…」
 「…妊娠4ヶ月だってさ」
 咲夜の目が、冷たい光を帯びる。咲夜は、さっき見せたあの暗く悲しげな目で、床の一点を見つめた。
 「信じられる? 最愛の妻が、死の淵を彷徨ってた時―――他の女とセックスしてたなんて」
 「……」
 「…想像しただけで、吐き気がした。再婚は仕方ないって割り切れたけど、あいつがお母さんを裏切って他の女を抱いてたって事実だけは、どうしても割り切れなかった。そんな男と同じ家に住むなんて―――しかも、新しいお母さんのおなかに、その時の子供がいるなんて―――…どうしても…耐えられなかった…」
 唇が、微かに震える。
 唇を噛んだ咲夜は、涙を見せるのを嫌うかのように、視線を逸らし、俯いた。
 「…拒食症になって、口きかなくなって、ボロボロになってた私を、新しいお母さんの弟が“暫く預かる”って言ってくれた。それが…拓海なの。中学入ってすぐ、芽衣が生まれてからは、そりゃもう荒れて荒れて―――情けない真似して、もっと自分を大事にしろ、って拓海にひっぱたかれたこともある。あの頃の顛末…とてもじゃないけど、亘には言えない。でも私は、どうしてもあいつが許せなかった。あいつに思い知らせたかった。自分のやったことの醜さや汚さを」
 「……」
 「…拓海、いなかったら……多分、どん底まで落ちてた。拓海が、とことん付き合ってくれて―――私にジャズを与えてくれたから、這い上がってこれた」
 「…そ…っか…」

 小6といえば、11歳から12歳―――ちょうど思春期の入り口あたりだ。
 コウノトリが赤ちゃんを運んでくる、なんてメルヘン、もう信じることができなくなって、生命の誕生の裏には、生々しい男女の営みがあることを知り始める頃。中学生になれば、子供から急速に少年・少女へと成長し、外見も中身もどんどん変化する。ただの興味の対象だった性の話も、自分の成長に伴い、より生々しさを増す頃かもしれない。
 そういう時期に、死の淵を彷徨っていた母を裏切っての父の不倫の事実をつきつけられれば―――我慢ならないほど憤り、女性として生理的嫌悪感を覚えるのは、当然なのかもしれない。男である奏には、その気持ちをわかることはできないが……男女入れ替えて、母親が他の男の子供を身篭ったことを想像すると、その嫌悪感はわかる気がした。
 そこから、救い出してくれたのが、拓海。
 ―――それじゃあ、特別な存在になるのは、当然だよなぁ…。
 ただの叔父とか、ただの異性という次元を超えた存在なのかもしれない。咲夜の片想いの裏にある別次元の想いを感じ、奏は、なんだか少し胸が痛くなった。

 「…亘や芽衣が懐いてくれたし、何より本当に可愛かったから―――今は、2人を、本当のきょうだいだと思ってる。お母さんもいい人で、気も合うし。でも……お父さんだけは、まだダメ。どうしてもダメ」
 そう言った咲夜は、大きく息を吐き出し、気だるそうに髪を掻き上げた。
 「信じらんない―――なんで? 最期を看取った時、あんなに泣いて、苦しんで、何度も“愛してる”って言ってたじゃない。結婚する時には、病める時も健やかなる時も、って誓い合ったのに……今日死ぬかも、明日死ぬかもわからないお母さんの顔を毎日見ながら、その看病をしながら、どうして他の女とセックスなんてできるの?」
 「…愛した人が死の淵にいたから、苦しかったんじゃないか? いや、別に、擁護する気はないけど」
 思ったことを口にし、慌てて付け足す。本当に、擁護する気はない。でも…人は、弱いから、苦しさから逃れるために、汚い道へと迷い込んでしまうこともあるのではないか―――奏には、そう思えた。
 それは、咲夜にもわかっていたらしい。僅かに顔を上げた咲夜は、赤くなった目を少し細め、微かに笑った。
 「うん…わかってる。そういうこともあるって。理性ではわかってる。でも―――どうしても、感情がついてかないんだ」
 「…それは…無理ないだろ」
 「ん…、ありがと」
 くすっと笑った咲夜は、もう一度髪を掻き上げ、僅かに涙の滲んだ目を手の甲で擦った。

 「…恋愛小説ってさ。いつも、主人公中心に話が進むじゃない? 途中、ヒーローやヒロインを取り巻く脇役たちにだって、主役たちに負けない位、切なくて真剣な恋愛がいくつもあるのに―――主役の恋を実らせるために、みんなあっさり切り捨てられる。それでも読者は文句を言わない。主役がハッピーエンドなら、それでいいから」
 「…うん…」
 「…今、うちの家族、ハッピーエンドの真っ最中だと思う。主役はお父さん、ヒロインは今のお母さん―――途中で死んでしまったお母さんは、お父さんと今のお母さんの恋愛話をドラマチックに演出するための、脇役。…切り捨てられたお母さんのことは、みんなどんどん忘れてくんだ。だから―――恋愛小説は、嫌い」
 「……」
 「だから私は、恋は、一度でいい」
 しっかりと顔を上げた咲夜は、宙を真っ直ぐに見据え、きっぱりとした口調で言い放った。
 「裏切る位なら、最初から誰も愛さない拓海の方がまだマシだと思う。私は……苦しくても辛くても、一生愛するのは1人でいい。永遠に、ヒロインにはなれないかもしれないけど、それでも―――恋は、一生に一度でいい」

 “恋は、一生に一度”。
 ―――そんな想いをこめて、あの言葉を言ってたのか……。

 「…だったら尚更、諦めるなよ」
 思わず、そう口にしていた。
 無意識だった。少し驚いたように目を丸くする咲夜の顔を見て、自分が言ったことを初めて自覚した。
 でも―――それが、咲夜の痛々しいほどの想いを知った奏の、本音だ。奏は、改めて咲夜を見据え、もう一度はっきりと告げた。
 「一生に一度の恋ならさ。…諦めないで、叶えて、ヒロインになってみせろよ」
 「……」
 「正直、会ってみて、なーんでこんな奴を、って思ったけどさ。…今の話聞いて、ただの遊び人て訳じゃないんだな、って素直に思えたから」
 「…アッハ…、なにそれ」
 笑った弾みで、咲夜の目から涙が落ちる。
 「…どんな形でもいいからさ。叶えてみせろよ。一生に一度の恋ってやつを」
 「……うん。そうだね」
 咲夜の指が、頬に伝った涙をはらう。大きく息を吸い込んだ咲夜は、
 「ヒロイン目指すのも、悪くないかもしれないね―――…」
 そう言って、もう一度笑った。
 その笑みを見て―――奏も、やっと、笑えた。


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