←BACKFake! TOPNEXT→




― songbird

 

 次の世でまた出会っても、きっとまた一緒になろう、と父は言った。
 短くても、あなたと咲夜がいてくれて、私の人生は幸せだった、と母は言った。

 誰か、教えて。
 それが本心なら―――「これ」を、どう理解すればいいの?

 僅かに膨らみ始めたおなかを撫で、幸せそうに微笑む、知らない女性。その彼女を気遣うように寄り添う、あの男。実の父ではない彼に、まるで本当の父親のようにじゃれつく、可愛い男の子。
 幸せそうな、一組の家族。
 絵に描いたような、ハッピー・エンド。
 …じゃあ、私のお母さんは?
 私のお母さんは、一体、何だったの?
 お母さんの娘である私は―――あなたにとって、一体、何なの……?

 誰か、教えて下さい。
 ラブ・ストーリーは、「最後に結ばれた者の勝ち」しか、あり得ないんですか―――…?


***


 咲夜が拓海と出会ったのは、6年生の冬休みだった。

 咲夜の父は、再婚にあたり、それまで住んでいた賃貸マンションから10分ほど離れた所に、中古の家を購入した。亡くなった母の実家が「いくらなんでもあんまりだ」と言って、娘の暮らした家に別の女を入れることに反対したのだ。
 新しい母は明るく優しい人で、どこか実の母と似たムードを持つ女性だったから、彼女と仲良くなるのは難しいことではないと思った。彼女の連れ子である亘も、やんちゃながら可愛い性格で、早くも咲夜を「おねーちゃん」と呼んで慕っている。亘と仲良くなるのも簡単だな、と思った。
 でも―――父だけが、どうしても、駄目だった。
 父がいるだけで、胃がムカムカしてきて、食べられなくなる。無理矢理押し込んだ食べ物を、直後、こっそり全部吐き出してしまう日々が続いた。最終的には、箸をつけることもできなくなり、宥めすかす父がただのずるい人間にしか見えなくなり、口もきかなくなった。
 父はそれを、新しい母への咲夜の反発だと解釈したらしい。僅か1ヶ月ほどの間に、宥める言葉は、怒鳴り声に変わっていく。けれど、咲夜は、自分の気持ちを口にできなくなっていた。まだ、母の死から4ヶ月―――この急激な環境の変化に、12歳の咲夜の心も体もついていけなくなっていたのだ。
 そんな地獄のような日々に―――突如現れたのが、拓海だった。


 再婚騒ぎの前後、ちょうど仕事で海外に行っていた拓海は、冬休みに如月家に挨拶に来たのが、初対面だった。
 「名前は?」
 「―――…サヤ」
 「サヤ、か。どんな字書くの」
 「…花が咲く、の咲くに、夜」
 「へーえ。由来は月見草かな」
 「…ううん。月下美人」
 母がくれた名前に、真っ先に興味を持ってくれたことが、一番の原因かもしれない。
 咲夜は、突如現れた「新しいお母さんの弟」に、何故か初対面の時から親近感を覚えた。
 「俺は、拓海。開拓の拓に、海。海を切り拓くチャレンジャーであれ、って親父がつけた名前だけど、実際に切り拓いたら、一番反対して怒ったのも、その親父なんだ。矛盾してるよなぁ」

 いつの時代も、親は子供に無理解だよな。
 そう言って笑った拓海に―――咲夜は、父の再婚以来初めて、微かな笑みを浮かべることができた。


 ジャズピアニストという得体の知れない職業に就いている拓海を、父はあまり好ましく思わなかったようだ。でも、「咲夜ちゃんが落ち着くまで、うちで預かりますよ」という拓海の申し出を、父は渋々ではあるが、承知した。
 「…拓海さん、後悔するよ。お父さんきっと、ずっと私を迎えになんて来ないから」
 助手席の咲夜が言うと、運転席の拓海は、ちょっと不思議そうに目を丸くした。
 「なんで?」
 「私が邪魔だから」
 「そんなこともないんじゃない? 俺に渡すの、すんげぇ嫌そうだったし。なんでそう思うの」
 「…私、お母さんに似てるから」
 「……」

 早く忘れてしまいたいんだ、お母さんのことを。
 心にやましい部分がある人間は、後ろめたいことを、一刻も早く記憶から消そうとする。いいんだ、あれはもう過去のことなんだ、今幸せだからそれでいいじゃないか―――そうしたいのに、目の前に、口もきかなくなった、お母さんそっくりの私がいる。
 …ずるい奴。
 納得させる努力もしないで、ごめんの一言も言わないで、まるで、子供が親に従うのは当然だった風に、自分勝手に新しい家族作りなんて始めちゃって。気持ちが悪いって言ってるのに、無理矢理食べ物突っ込んで……私の体より、新しい家族の反応の方ばっかり気にして。
 思惑通りにいかないから、都合のいい存在にならないから、これ幸いと拓海さんに押し付けたんだ。きっと。

 「…まあ、別にいいけど? ずっと迎えに来なくても」
 窓を薄く開けた拓海は、そう言いながら、口にくわえた煙草に火をつけた。
 「俺、年に何度か、長期間家を空けるけど、その間は咲夜ちゃんの好きに部屋を使ってくれりゃあいいし。咲夜ちゃん、おふくろさんの代わりに家事もこなしてたっていうから、俺の夕飯作ってくれると助かるしさ」
 「……」
 「時々1人になるからその点が心配なのと、学校通うのが大変なのが難点だけど、親父の顔見て食いもん吐きまくってるよりはマシなんじゃない」
 「―――…うん」
 ありがと、と小さく咲夜が言うと、拓海は、煙草をくわえたまま、僅かに口の端を上げて笑った。


 こうして、その後1年あまりに及ぶ、2人の奇妙な共同生活が始まった。

***

 2人は、いきなり親しくなった訳ではなかった。

 拓海は、いくつものライブハウスやジャズ・バーを掛け持ちしていて、地方に演奏しに行くこともあったので、いない日の方が圧倒的に多かった。日付が変わる頃帰ってきて、朝しか顔を見ない、なんて日も多かった。でも、父と同じ家に暮らす居心地の悪さからすれば、1人きりでいられる方が何十倍も楽だった。
 拓海がいる日は、少しぎこちない。
 でも、拓海は、食の進まない咲夜に無理に食べさせることもしないし、あれこれ訊ねたりもしない。テレビを見ながら一緒にご飯を食べ、それ以外の時間は各自自由に過ごす。微妙なぎこちなさがありつつも、それはそれで、咲夜には居心地のいい空間だった。
 それに、ピアノ。
 拓海はよく、家でピアノを弾く。咲夜は、特別音楽に関心がある方ではないが、小学校の教科で一番好きなのが音楽だった。拓海の弾く曲は難しすぎて、咲夜が楽しむような域にはなかったが、聴いていると、ささくれた心が撫でられるような、不思議な心地よさがあった。
 「その曲、なんていう曲?」
 拓海がよく弾く曲を耳にして、そう訊ねたのは、2月も終わる頃だろうか。
 「ああ―――これは、“Moanin'”。今度のステージで弾くんだ」
 「ふぅん…」
 そんな会話をきっかけに―――咲夜は時々、ピアノの傍らに立って、拓海の演奏を聴くようになった。

 僅かばかりのぎこちなさを残しつつ、日々が過ぎる。
 表面上、咲夜は落ち着きつつあった。食欲が少しずつ戻り始め、学校でも友人との会話に微笑む程度にはなった。
 けれど―――咲夜は、心の中に巣食った父に対する嫌悪感を、まだ誰にも吐き出してはいなかった。父本人には勿論のこと、友達にも……拓海にも。咲夜の中に沈んだ暗い感情は、吐き出されることのないまま、増殖を続け、咲夜を蝕み続けていた。


 入学式で、久々に、父の顔を見た。
 拓海が来てくれるから必要ない、と言った筈なのに―――どういうつもりか、臨月を迎えた“母”も、一緒に連れてきていた。
 その姿を、体育館の後ろの方に見つけた瞬間、ゾッとした。
 以前より若返り、生き生きとして見える父。身重の妻を気遣い腰に手を回す父。その姿は、もう咲夜の目には、“父”ではなくただの“男”にしか映らなかった。自分の親として無条件に信頼できる存在ではなく、その辺にいる見知らぬ異性以上におぞましく、信用できない人間でしかなかった。
 ―――気持ち…悪い…。
 思わず、セーラー服の胸元を掻き抱く。
 まるで、痴漢を働く男や風俗に通い詰める男に感じるのと同じような、嫌悪感。そんな奴と、去年の今頃は、まだ一緒に母の看病をし、寂しい日には添い寝までしてもらっていたなんて―――思い出すだけで、吐き気がしてきた。

 「入学おめでとう、咲夜ちゃん」
 入学式の帰り、父ではなく、“母”の方が声をかけてきた。
 母のことを思えば受け入れられない部分もまだあるが、亘を1人で育ててけなげに生きてきたこの人を、咲夜は決して嫌いではなかった。呼び止められた咲夜は、微かな笑みを返し、足を止めた。
 「ありがとう。おなか大きいんだから、無理しなくて良かったのに」
 「そんな…咲夜ちゃんが心配しなくてもいいのよ?」
 無理に体裁を繕わないで―――“母”の目が、そう言っている。
 でも、体裁を繕った訳ではなかった。生まれてくる子供に罪はない―――せっかく宿った命なら、無事に生まれてきて欲しい、と咲夜は思っている。祖母の妊娠中のトラブルから心臓にハンデキャップを背負ってしまった母のことを思えばこそ、無事であって欲しいというのは、咲夜の偽らざる本音だ。
 「ううん。無事に生まれるといいね。できれば女の子がいいな」
 「…そう。ありがとう」
 「咲夜、帰るぞ」
 少し離れて見ていた拓海に声をかけられ、咲夜は、“母”にペコリと頭を下げ、拓海のもとへ走って行った。明らかに親子には見えない拓海と咲夜を、幾人かの生徒が奇異の目で見ていたが、そんなことはどうでも良かった。

 結局―――咲夜は、最後まで、父とは目を合わせなかった。

***

 「ねーえ、芦原先輩って、カッコ良くないー?」
 咲夜が何気なく窓の外を見ていたのを、サッカー部の練習を見ているものと勘違いしたのだろうか。由希子が、そんなことを言った。
 由希子は小学校からのクラスメイトで、偶然、咲夜と同じクラスになった。母を亡くした咲夜に同情してか、最近、母が亡くなる前以上に、やたら明るさを装って咲夜に接してくる。正直、それが重たい部分もあるが、自分のことを心配してくれているらしいので、咲夜も「放っといて」なんて言わないようにしていた。
 「どれ、アシハラセンパイって」
 「ええ? 咲夜、芦原先輩知らないの? うちの学校じゃ一番人気ある先輩なのに」
 「…キョーミないもん」
 「またぁ…。咲夜ってば、すぐそれだもん」
 「ユッコぉ、無理だよぉ。如月さんは、そういうの疎いタイプみたいだもん」
 他の友達が、苦笑混じりに由希子にそんなことを言う。「そういうのに疎い」とは、どういう意味だろう―――皮肉混じりにそんなことを思ったが、面倒なので咲夜は何も言わなかった。
 実際には、咲夜は、かなり早熟な少女だった。
 中1の今、クラスの女子では背は比較的高い方で、160センチ近くある。手足が長く首も細いせいか、私服でいると実年齢より年上に見られることが多い。街中を1人で歩いていて、大学生らしき男に声をかけられた経験も1度あった。後姿だけでナンパしてきたその男は、咲夜が振り向くと、慌てて「なんだ、まだ子供じゃん」と言って去って行ったが。
 でも、外見以上に―――中身は、周囲の評価とは裏腹な早熟さだった。
 一番多感な時期に、あんな父親の醜態を目の当たりにしてしまったのだ。周囲の女の子がキャーキャー騒いでいる「初キス」だの「彼氏」だのという単語にも、冷めた目でしか応じられなくなっていた。けれど、周囲は、そんな咲夜とは逆に、中学生になると余計、そうした男女の話に興味津々になり、話題も恋愛話が多くなってきていた。
 「実はさぁ…、この前、彼氏の部屋に遊びに行ったんだけど―――結構ヤバいムードになっちゃってー」
 「えーっ、ウソ、どうなっちゃったの!?」
 「うん、まだ一線は越えてないんだけどさぁ、夏休みとかになったら、ちょっと危ないかも」
 「やだー、仲間内第1号じゃなーい!」

 ―――ついこの前まで小学生だったくせに、いきなり大人のフリして…バカみたい。
 わかってんの? あんた達が嬉しそうに話してるそれって、子供作る行為だよ? 手を繋ぐのとか一緒にカラオケいくのとかとは、次元が違うんだよ?

 入学式での再会は、咲夜を蝕む病を、少々悪化させていたらしい。咲夜は、父だけではなく、愛や恋とセックスを混同して、興味本位で騒ぐ少女たちにも、だんだん嫌悪を覚えるようになった。
 表面上、話を黙って聞いているフリはしたけれど、そうした考えが、口調や表情にも出てしまうのだろう。
 夏休みが始まる頃には、友人らは、咲夜の前ではそうした話を一切しなくなり―――自然、彼女らとの交流は減っていった。

***

 「如月さん…?」
 夏休みの図書館で、突然、知らない少年に声をかけられた。
 TシャツにGパン姿の彼は、背が高く、日焼けした顔をしていた。誰だろう、と眉をひそめる咲夜に、彼はやたら爽やかな笑みを見せた。
 「あ、いや、君の方は僕のこと、知らないかな。3年の芦原だけど」
 「芦原…」
 ああ、思い出した。「カッコイイ芦原センパイ」だ。
 由希子たちが騒いでいた時、視線の先に、確かこんなのがいた筈だ。遠目だから細かい造作までわからなかったが、パッと見た印象は確かに目の前の少年と同じだったと思う。
 「今日は、1人? いつも、背の低い女の子が一緒にくっついてるのに」
 「…由希子のことかな…」
 由希子は、一緒に図書館に夏休みの課題をやりに来たのだが、塾があるからと言って15分ほど前に帰ってしまったのだ。ああ、由希子狙いだったのか―――結構可愛い部類に入る由希子なので、芦原が声をかけてきた理由を、咲夜はそんな風に思った。
 「由希子なら、塾あるってもう帰りましたけど」
 「あ、じゃあ、ほんとに1人なんだ」
 咲夜の返答に、芦原は特にがっかりした様子は見せなかった。由希子狙いじゃなかったんだろうか―――咲夜がそう思った時、芦原は、周囲に聞かれるのを気にしたように、咲夜の耳元に口を近づけた。
 「…ちょっと、時間あるかな。前から話してみたかったんだ」
 「話?」
 「うん。それに―――噂のことも、直接訊いてみたいし」
 「……」
 ―――…噂…?

 芦原の爽やかな笑顔に、騙された訳ではない。
 思わせぶりな芦原の言葉に、何かあるのを感じて―――その「何か」を確かめなくてはいけないと、咲夜はそう思ったのだ。

 

 その夜、拓海のマンションに戻り、合鍵でドアを開けた咲夜は、留守中なら消えている筈の玄関の照明が点いているのに気づき、顔を強張らせた。
 「咲夜かー?」
 奥から、拓海の声がする。なんだって今日に限って―――動揺してはいけない、と思うのに、咲夜の心臓はうるさいほどに鳴った。
 参考書の入った帆布製のバッグを抱きしめた咲夜は、努めていつも通りの顔で靴を脱いだ。玄関を上がり、自分の部屋に向かおうとしたところで、出てきた拓海とはち合わせになった。
 「遅かったな、今日は。俺より後に帰ってくるなんて」
 「…う、うん、ごめん」
 拓海の視線を避けるように、廊下ですれ違う。が、何かに気づいたのか、拓海の手が咲夜の腕を掴んだ。
 「! な、何!?」
 「咲夜、お前―――…」
 仰ぎ見た拓海の目が、咲夜の肩の辺りに釘付けになっている。驚いたようなその目に、咲夜はハッとして、慌ててTシャツの襟を引っ張った。
 途端―――拓海の目が、険しくなった。
 「おい、一体どこに行ってたんだ?」
 「…っ、な、なんでもないっ」
 「なんでもない訳がないだろ! 何もないなら、もう一度見せてみろ!」
 「い……っ!!」
 ぐい、と拓海に腕を引かれ、体がぐらついた瞬間、体が軋むように痛んだ。ガクン、と膝から力の抜けた咲夜は、廊下の冷たい床の上に崩れ落ちてしまった。
 「…い…たいよ、拓海…」
 「……」
 「―――…心配、しないで。無理矢理じゃないから」
 「…バ…カ、か、お前は…っ!」
 「そうだよ、バカだよ」
 怒りを押し殺したような拓海の声に、咲夜は顔を上げ、拓海を睨み上げた。
 「…大笑いだったよ、由希子たちの憧れの先輩。年上の彼女しか女知らないもんだから、初めてってわかってオロオロ土下座してやんの。…何、あれ。あんなことに夢中になってるなんて、男ってサイテー。私がバカなら、先輩はもっとバカだよ。お父さんなんて―――病気のお母さんを裏切って他の女とセックスしたあいつは、もっともっと大馬鹿野郎だよっ!!」
 言いたい事をぶちまけ終えると同時に、拓海の右手が、咲夜の頬を叩いていた。
 鋭い音が、頬の上で、弾ける。その弾みで、堪えていた涙が、咲夜の目に滲んできた。
 「泣くな、バカ!」
 「……っ…」
 「―――…ったく…!!」
 舌打ちした拓海は、咲夜の腕をぐい、と引き上げ、そのままズルズルと引きずるようにして、咲夜をバスルームへと連れて行った。
 「今すぐ着てるもん全部脱いで、頭のてっぺんからつま先まで、徹底的に洗い流せ! それしないうちは、バスルーム以外立ち入り禁止だからな!」
 有無を言わせずバスルームに突っ込まれ、ドアを閉められる。咲夜は、唇を噛んで泣くのを堪えながら、汗だくになったTシャツをノロノロと脱ぎ始めた。ドアの外にはまだ拓海の気配があったけれど、バカなことをしたのは自分なのだから、一刻も早く拓海の言う通りにしなくては、と、ただそれだけを考えて。
 「…本当は、何があったんだ?」
 「……」
 「興味本位でフラフラついていくような奴じゃないだろ、咲夜は」

 『君って今、若い男の人と2人きりで暮らしてるんだって?』
 『お父さんの再婚相手の親戚とか…。それって、君にとっては他人だよね?』
 『いや、別に僕は、変な想像をしてる訳じゃないけどさ。…前から君のこと興味があって、君の周りにいる子たちに“如月さんて彼氏とかいるの?”って訊いたら、そういう噂を聞かされて…』
 『勿論、だからって君を軽い子だとか思う訳じゃないよ。でも―――そういう大人の人と付き合ってるんだったら、彼氏になるのは無理だけど、“友達”にはなれるかな、と思って。…僕にも今、彼女いるしね』

 学校では、家庭のことは一切、言っていない。
 通学の関係上、教師にだけは拓海から事情を説明してあるが、それ以外は―――母が死んだことも、父が再婚したことも、父と上手くいかなくなったことも、拓海の所に身を寄せていることも、一切口にしてはいない。
 ただ1人―――由希子を除いては。

 「……っ……う…っ…」
 急激に、涙が、こみあげてきた。
 ズルズルと、脱衣所の床に座り込んだ咲夜は、脱いだTシャツに目を押し付けて、しゃくりあげながら泣き出した。


 悔しかった。
 信じてた。鬱陶しい、なんてどこかで思いながらも、それでも、母が亡くなった経緯から父の再婚まで、全てを知った上で同情してくれる由希子を、優しい人だと、友達だと思っていた。
 まさか―――同情した顔の裏で、咲夜の心の傷を、面白おかしく噂話として流していたなんて…想像すらしたことがなかった。
 芦原にしたって、口では「変な想像をしている訳じゃない」なんて言っていたが、その後咲夜にしたことを考えれば、結局は、咲夜と噂の男の間を「そういう関係」だと思っていたということだろう。浅ましい―――なんて汚い考えをするんだろう。あまりに汚い話すぎて、拓海にはとても言えない。
 由希子や芦原を見ていると、理解できなくなる。自分は、世間の12歳より、子供なのか、大人なのか。

 芦原に押し倒されても、抵抗しなかった。
 どうせなら、あいつが、病気の妻と娘を愛する良き夫・良き父の仮面を被った裏で、どんなことをしていたのか、この目で見てやる―――そう考えて覗いた世界は…ただの、拷問だった。
 多少大人びてみえても、結局咲夜だって子供だし、芦原にしたって子供も同然だ。子供同士の無茶な行為は、芦原にとってはどうだか知らないが、咲夜にとってはひたすらに辛いだけだった。唇を噛んで痛みに耐えながら、咲夜は、いいからさっさと終われ、と、そればかり祈っていた。そんな咲夜にも気づかず、やたら嬉しそうにしている芦原の顔が、世界一のマヌケ面に見えた。
 そのマヌケ面と、父が重なった瞬間―――僅かに残っていた「かつての父」の面影が、木っ端微塵に砕けた。

 キスすら忘れて、一方的にことに及んでいた芦原は、最後の最後、思い出したように唇を求めた。
 冷ややかな目で芦原を見上げた咲夜は、芦原を平手打ちして、そのキスを拒絶した。そこで初めて、咲夜の軽蔑しきったような目に気づいた芦原は、更には咲夜が初めてだったことにも気づき―――多分、12歳という年齢もこの時点まで忘却の彼方だったのだろう―――気の毒になるほど必死に土下座した。
 女子生徒の憧れの的のその姿は、滑稽だった。
 滑稽すぎて―――笑う気も起きないほどに、滑稽だった。


 カチャッ、と音がして、ドアが開いた。
 Tシャツだけ脱いで、床にうずくまって泣いている咲夜を見下ろした拓海は、そのショートヘアの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
 「…み…みんなが、なんでこんなのを、あんな嬉しそうに話すのか、全、然、わかんない…っ」
 「―――お前はさ。その辺の12歳より大人の汚さを知ってるけど、その辺の12歳より無垢なまんまなんだよ」
 「…っ…こ…ども、だ、ってこと…っ?」
 「…どっちも。大人だし、子供。でも―――体は、どうがんばったって、12歳なんだから」
 「……」
 「頼むから、もっと自分を大事にしろよ。…俺はもう、アメリカで悪いことを散々やり尽くしちまったから、今更どうすることもできないけどさ。咲夜は、これからだろ? 大事にしろよ―――死んだおふくろさんがくれた体なんだから」
 「―――…」

 …そうだった。
 この体は、母がくれた体だ。一夜だけ咲く月下美人からついた名前と共に、母が与えてくれたものだった。
 それを実感して―――咲夜はやっと、怒りではなく、後悔の涙を流すことができた。

 

 芦原の件から1週間後、母の死から1年ということで、母の実家で一周忌が執り行われた。
 母方からすれば、父には参加などして欲しくない、というのが本音だっただろう。それでも、結婚から13年あまりの時間、父が病弱な母を支え続けたのは事実なので、その功績に免じて家に上がることを許した、という感じだった。
 勿論、咲夜も、一周忌の席で父に会った。が、芦原との行為の記憶がまだ生々しい咲夜は、父の顔を見た途端、過呼吸の発作を起こして、一周忌の席から逃げ出した。
 無我夢中で電車に乗り、拓海の部屋に帰り着くと、やっとホッとできた。誰もいない部屋で―――咲夜は、たった1人きりで、母の死を悼んだ。
 その日を境に、拒食症の症状が若干ぶり返した咲夜は、夏痩せも手伝って、夏前より幾分痩せ細ってしまった。

 

 9月の新学期。
 あの日以来、なんだかんだ理由をつけて、由希子には会わないようにしていた。芦原との件があってから、由希子の顔を見るのはこれが初めてだった。
 「あ、おはよう、咲夜」
 教室で笑顔で出迎えた由希子に、咲夜は、にっこりと笑顔を返した。
 そして、つかつかと歩み寄り―――笑顔のまま、そのやわらかそうな頬を、平手打ちした。

 咲夜は、友達を「切った」。
 誰とも群れず、興味がない奴はほったらかしにし、興味を持てば「友達」の肩書きなしに声をかけ、楽しみだけを彼らと共有することにした。そのうちの何人かとは、共有する時間が増え、親しくなった。周囲はそんな関係を「友達」と呼び、咲夜もそれに異論は唱えなかった。
 けれど―――咲夜はあれ以来、自分からは誰のことも「友達」とは呼ばなくなった。

***

 拓海が咲夜を初めてジャズ・バーに連れて行ってくれたのは、ちょうどそんな頃だった。
 夏休み以来、いまいち体調が戻らず気分も塞ぎがちになる咲夜を、多分拓海も気遣ったのだろう。「大人の世界も、ちょっとは覗いてみたいだろ」とたくらむような笑みを浮かべ、咲夜を、ジャズ・バーの扉の内側へと押し込んだ。
 初めて訪れたジャズ・バーは、内装といい、照明といい、いかにも「大人の世界」だった。ピアノやウッドベースといった楽器と、そしてマイクスタンド―――そこには、ベリーショートの髪を紫色に染め分けた歌姫が立っていた。
 それが、多恵子だった。

 「えぇ、何お子様連れてきてんの、タクさん」
 背丈はそれなりにあるものの、幼い顔立ちと以前以上に痩せ細った体で、年齢がバレてしまったのだろう。歌姫は驚いたように、その大きな目を一層大きく見開いていた。
 「俺の姪っ子なんだ。ちょっと、色々あってね。歌聴かせてやってよ、多恵ちゃん」
 「タクさんの姪っ子? へぇ…似てないねぇ」
 興味あり気な視線が、咲夜の顔に注がれる。ちょっと緊張する咲夜に、ピアノの前に座った拓海は、困ったような笑みを浮かべた。
 「血は繋がってないからね」
 「おや。訳アリ?」
 「ま、それなりに」
 「…ふぅん」
 それ以上、何も訊く気はないのか、彼女は紫色の前髪を掻き上げると、咲夜の顔を覗き込んだ。
 「おじょーちゃん、名前は?」
 「…サヤ」
 「サヤ? 綺麗な名前じゃん。いいなぁ。そういうカッコイイ名前に生まれたかったよなぁ」
 ちょっと笑った彼女は、そのまま自分は名乗らず、
 「じゃあ、サヤちゃんのために、1曲―――…」
 と言って、マイクを握った。歌姫の合図で、拓海のピアノと、仲間のウッドベースが奏でられ始める。そして歌姫は、魂を込めるように歌い出した。

 「Summertime and the livin' is easy... Fish are jumpin' and the cotton is high...」

 初めて耳にした、多恵子が歌う『Summertime』に―――咲夜は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
 思わず、両腕を自ら抱き、ぶるっと震える。
 ちょっとハスキーな多恵子の声が、拓海の弾くピアノと響きあって、切ない音色となって空気を震わす。歌詞の意味なんてわからないけれど―――そこに、押し殺された魂の、呻き声とも言える叫びがあるように、咲夜は感じられた。
 気づかないうちに、涙が溢れてきていた。
 体の奥底で凝っていた感情が、多恵子の歌に揺さぶられ、涙になって溢れ出る。それは、母が死んだ時より、父の告白に絶望した時より―――感情が、激しく揺さぶられた瞬間だった。

 歌いたい。
 私も、こんな風に歌いたい。

 難しい理屈など、必要なかった。
 歌いたい―――ただそれだけの思いから、咲夜は、決意した。いつか必ず、多恵子のように歌う―――ジャズ・ヴォーカリストになるのだ、と。


 拓海に相談すると、拓海は「面白い」と言って、喜んで協力してくれた。
 咲夜が声楽の基礎練習の楽譜を手に入れてくると、暇を見てはピアノを弾き、咲夜の練習に付き合ってくれた。声楽にはまるっきり素人の拓海だが、長く音楽界にいるので、ある程度の基本はわかる。そこは喉で出すな、そこは顎を引いた方が出しやすい―――単調な練習の中でも、そんな細々したアドバイスをくれた。
 拓海との同居生活の後半は、そんな風にジャズ中心の生活だった。歌を知った咲夜は、将来の目標を見つけた分、父や母に関する暗い感情からある程度解放され、かなりのスピードで元気になっていった。

 どれだけ痛くたって、いいんだ。
 父親を憎むなんて、情けないことだ、ってどこかで思っていたけど―――そういう汚い感情も、歌を歌うためのエネルギーになる。歌があれば、私は生きていける。どんな苦しさも、歌うことで昇華できる―――…。

 頻繁にジャズ・バーに顔を出したし、拓海のライブにも連れて行ってもらい、多恵子とは別のヴォーカリストの歌も聴いた。冬休みも、正月に1日実家に顔を出しただけで、それ以外の時間の全てを歌に費やした。
 新学期が始まり、拓海も少し忙しくなると、CDショップに出入りして、試聴できるジャズのCDを片っ端から試聴したりもした。
 母の死から1年半―――咲夜はやっと、生きている手応えを感じていた。

 そんな、3月。
 拓海と咲夜が引き離される日は、唐突に、やってきた。

***

 突如、拓海の家に上がりこんだ父は、何の挨拶もなく、いきなり拓海を殴った。
 「貴様――― 一体、咲夜と、どういう暮らしをしてたんだ…!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る父の言葉を、拓海も、そして咲夜も、全く理解できなかった。
 あなた、お願いだからやめて、と半ば泣き出しそうになりながら、“母”が父を止めていた。そして、興奮する父の言葉と、宥めすかす“母”の言葉から、2人は信じられない事実を知ることになった。

 今日、父は、学校から呼び出しを食らった。
 咲夜の事情を考慮した学校側は、夏に行った家庭訪問では、実家ではなく拓海の家を訪問した。が、1年生も終わる今、改めてこの正常ではない家族関係を修復すべく、父とその再婚相手を学校に呼び、咲夜の最近の様子や成績のことなどをじかに話すことにしたのだ。
 成績は、そこそこ問題ないレベルだった。協調性に欠けるとの評価もあったが、問題児というほどではない。遅刻早退もないし、欠席も極稀にしかない―――そうした報告に安堵した父だったが、付け足すように副担任が口にした言葉に、耳を疑った。
 「ただ―――生徒の間では、如月さんと麻生さんの関係を怪しんでいる者もいます。一時はその…男女の関係にあるような噂も流れましたし。難しい年齢ですし、生徒たちも多感な時期ですから、やはりご両親揃った家庭に戻っていただいた方が…」

 「お父さん…そんな噂を、信じたの…?」
 震える声で、そう訊ねるだけで精一杯だった。
 すると、父は激昂に顔を紅潮させたまま、咲夜の顔を睨み据えた。
 「信じる信じないの問題じゃあないだろう! 火のない所に煙はたたない、と昔から言うんだ! 大体な、お父さんは、30近くなって結婚もせず派手な業界でフラフラ生きてるような男、最初から信用できなかったんだ! 周りがそういう目で見るのも当然だ…!」
 「―――…」

 芦原から聞いた時も、憤った。
 何も知らないで面白おかしく噂した由希子を、笑顔で平手打ちするほどに、腹が立った。その面白おかしい噂を鵜呑みにした芦原を軽蔑した。噂が大嘘であったと身を持って知り、ひれ伏す芦原を、足蹴にしてやりたい衝動に駆られた。
 でも―――これは、それ以上の憤りだ。
 父親なのに―――咲夜は、実の娘なのに。そして拓海は、今自分が「妻」と呼んでいる女性の、弟なのに。しかも、咲夜はまだ13歳で、拓海は28歳の立派な大人なのに。
 何故、娘より、そんな馬鹿げた噂の方に、耳を傾けるのだろう? そんなことがあり得ると、ほんの少しでも考える、その頭の構造が咲夜には理解できなかった。

 ぎりっ、と奥歯を噛み締める。
 殴り飛ばされ、ソファに半ば倒れている拓海の方を見ると、拓海も、明らかに頭にきたという表情で父を睨み上げていた。当然だ。立場を考えれば、拓海の方がより心外なことだっただろう。
 キレる、というのは、こういう状態を言うのかもしれない―――咲夜は、キッ、と父を睨み上げると、生まれて初めて父に手を上げた。
 細身の咲夜が叩いたところで、父にとっては、痛くも痒くもなかっただろう。それでも父は、咲夜に頬を叩かれ、驚いたような顔をしていた。
 「…サイッテー…」
 「……」
 「やっぱり、あんたって最低…! 入院中の妻がいるのに他の女とセックスした上に、相手の体を気遣うことも忘れて避妊すらしないような最低な男だから、そんな下世話な話を信じたりするんだ! あんた自身に品性がないから、品性のない噂に左右されるんだよっ!」
 「―――…っ!!」

 次の瞬間には、今度は父の平手が飛んでいた。
 その後は、誰が誰を殴っているのやらさっぱりわからない、大乱闘―――その場が一応収まった時には、拓海も父も咲夜もヘトヘトになり、“母”が空っぽになった洗面器を持って仁王立ちしていた。
 “母”がぶっかけた水で、3人揃ってずぶ濡れ状態だった。そんな中、“母”は咲夜にだけ、優しく告げた。
 「…とにかく、帰りましょう。咲夜ちゃんと拓海が潔白なのはわかってるけど…そういう“品性のない噂”を、これ以上広めるのも面倒でしょう? 信じてしまう“バカな人”も、意外に世の中には多いから」
 「……」
 「拓海の所には、これからも好きなだけ遊びに来ればいいじゃない?」
 床に散らばった、大量の楽譜―――明らかに拓海とは違う筆跡で、たくさんの書き込みがされたそれを見て、“母”には、咲夜が見つけた希望がわかったらしい。
 理解してくれている人が、あの家にもいる―――それを感じて、心が動いた。
 「俺は、いつでも歓迎だよ。鍵は返さなくていいからな」
 拓海も、そう言ってくれた。

 咲夜は、1年と3ヶ月ぶりに、家に戻った。


***


 それからの日々は、やはり、父との確執の日々だった。

 高校を卒業したら、かつての拓海のようにアメリカに行く、という咲夜に、父は猛反対。アメリカに行くなら金は1銭も出さん、と言う父に、咲夜は、そんなことは予想済みとばかりに言い放った。
 「いいよ。バイトして100万貯めたら、自力でアメリカ行くから」
 絶対に駄目だとヒステリックになる父に、咲夜は貸す耳を持たなかった。しかし、拓海の助言もあり、この年齢での単独での渡米は無理なのかもしれない、と思い直した。
 「…じゃあ、いい。就職して、この家出て一人暮らしする」
 「就職だと!? 駄目だ! ちゃんと大学に行きなさい!」
 「行ってどーすんの? 何勉強すんの? 歌を歌うのに、大学卒の肩書きなんて必要ないよ」
 「まだそんな寝ぼけたことを言ってるのか…! いいか、大学にだけは絶対に行け! お前の下には、亘や芽衣がいるんだ。弟や妹は大学にいったのに、前妻の娘のお前だけが行ってなかったら、世間がどう言うと思う!?」
 「……」
 ああ、そうですか。
 あんたは結局、世間の目が怖いのね。小さい奴。
 「―――だったら、一人暮らしを認めて」
 それが、咲夜が出した唯一の条件だった。
 「一人暮らしはダメだ、って言うなら、一切受験はしないから。私を何がなんでも大学に行かせたいんなら、一人暮らしを認めて」
 結局―――父は、この条件を飲んだ。
 ジャズを歌うには英語は必須だ、と考えた咲夜は、一城の英語科に合格し、如月の家を出た。
 勿論……もう二度と、戻らないつもりで。

 ところが―――戦争は、4年後、再度勃発した。

 「どういうつもり!? 住んでる私に断りもなく、勝手に賃貸契約打ち切るなんて…!」
 就職先も決まり、あとは卒業するばかりとなった、冬休み。突如、大家から「如月さんとこの契約は、3月末までですからね」と言われた咲夜は、怒り心頭という面持ちで実家に殴りこみに行った。父が勝手に、咲夜の部屋の契約を打ち切ってしまったのだ。
 「大学を卒業するなら、大学進学の際の約束は終わりということだろう? 家に戻ってきてもらう。ここからでも通勤には一切問題ないんだからな」
 「今までだって家賃の半分は払ってきたし、これからは全部自分でやってくって言ったじゃない…!」
 「そんな必要はない。新人の薄給で、一人暮らしは大変なんだぞ。お前は世間の厳しさをわかっていないんだ。大人しく家に戻れ」
 「……」

 拓海は、「また俺の所に来ればいい」と言ってくれた。
 「海外も多いし、地方回りも多いしなー。どうせお前、しょっちゅう留守宅に上がりこんで歌ってるだろ。そのまま住んじゃえよ」
 「…それだけはヤダ。お父さんにギャーギャー言わせるネタ増やすだけじゃん」
 というのは表向きのことで―――本音では、咲夜にとっての拓海の存在が、同居してた頃と今では全然違っているせいだった。それに…自分のせいで拓海を酷く言われるのは、二度と嫌だった。

 冬休み明けから、咲夜は、必死に新しい部屋を探した。
 その最中に、偶然“Jonny's Club”で佐倉と再会できたのは、神様が咲夜を応援してくれている証なのかもしれない。咲夜は、父には一切行き先を告げず、元住んでいたアパートを契約が切れる1ヶ月も前に引き払った。
 “あんたの指図は、もう二度と受けない”。
 そのことを態度で示した咲夜に―――父も、それ以上追ってくることはなかった。

 

 

 「そろそろ行くぞ」
 「…ラジャー」
 一成に肩を叩かれた咲夜は、大きく深呼吸をし、“STAFF ONLY”のドアをくぐった。
 舞台へと向かいつつ、軽く店内に視線を巡らす。そして、そこに、約束通り拓海の姿があるのを見つけ―――微笑んだ。「暇だから行くよ」と気まぐれに言ったとしても、その言葉通り拓海が店に現れるのは、5回に1回がいいところだから。


 当時、大人びてると言われた外見は、実年齢が外見を追い越し、逆に「いつまで学生やってんだよ」と言われるようになった。身長も体重も、当時とあまり変わらない。それと比例するかのように―――父に対する感情も、13歳のあの日から、1歩も動いていない気がする。
 勿論、成長するにつれ、次第に理解できるようになった部分も、多少ある。
 病弱で、いよいよ死期が迫りつつある妻。そんな妻を日々看病し―――多分、父も、怖かったのだろう。
 人は、弱い生き物だ。ひとりでは決して生きていけない。最愛の妻に置いていかれる自分を考えた時、父は、耐えられなかった。耐えられなくて……“母”に、救いを求めた。…多分、そんな経緯だったのだろう。人との出会いと別れを繰り返し、それなりに成長した今、頑なだった咲夜も、そのくらいは理解できるようになった。
 そういう弱さを理解してもなお、咲夜は、父を許すことができない。
 根強く残る、“男”としての父への、生理的嫌悪感。そして、結局は「置いていかれる自分」のことしか考えていなかった―――同じく「置いていかれる」咲夜の気持ちは考えてはくれなかったのだ、という虚しさ。そして、拓海を巡る行き違いと、音楽への無理解―――そんなものが、複雑に絡まり、もう解けないレベルになってしまっている。

 父のことを考えると、腹立たしくて、悔しくて、仕方ないけれど。
 たった1人の、血を分けた実の父を、これほどまでに憎むことしかできない自分が―――咲夜は、悲しかった。


 そんな、憎しみも、悔しさも、悲しさも。
 長い時間をかけて育ててきた、この憧れも、焦がれるほどの切望も、届かない想いの切なさも。
 咲夜は、その体の中に眠る溢れるほどの思いを、全て、歌にこめる。
 誰かの魂を震わせることができる瞬間を求めて―――あの日聴いた奇跡の歌声を、いつの日か、自分も歌い上げることだけを夢見て。


 ライトに舞台が照らされ、店内のあちこちから、拍手が起こる。
 眩しいライトの中、静かに頭を下げ、顔を上げると同時に微笑んだ。ここで歌える幸せを噛み締めるような、幸福そうな目をして。

 「こんばんは―――ようこそ“Jonny's Club”へ」


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22