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『装う音楽、七変化。』
コピーが大きく入ったポスターを見上げ、由香理は不愉快そうに眉根を寄せた。
「えっ、この人、外国人? それともハーフかな」
「こっちの男の人のやつが素顔だよね? カッコイイ!」
「ええ!? 同一人物なのかよ! 美女だと思ったのに!」
背後にいるサラリーマンとOLが、そんな話をしているのが、嫌でも耳に入る。
―――みんな騙されてるのよっ。普段のこいつは、大口開けてゲラゲラ笑うし、猫に飛びつかれても全然平気だし、こーんな色気なんて微塵もないんだから。それに、この美女バージョンも嫌味よ。男にここまで化けられたら、女の立つ瀬がないじゃないのっ。
やっぱりなんとなく、苦手な奴だ―――ぷい、とそっぽを向き、由香理はポスターの前を離れた。
だが。
ドンッ!
「きゃ……っ!」
後ろから来た誰かに派手にぶつかり、由香理は1歩、前へとよろけてしまった。
でも、それはぶつかった相手の方も同じことで、由香理に跳ね返される形で、後ろへ1歩よろけた。
ぶつかった相手は、男だった。この蒸し暑さの中、通勤ラッシュにもかかわらず、スーツの上着をきっちり着込んでいる。夏物とはいえ、濃紺という色合いが余計暑苦しさに拍車をかけている気がする。
通勤時間に誰かにぶつかる、なんてことは、毎日あちこちで、何十何百と起きていることだ。由香理がちょっと睨んだだけだったのと同様に、男も由香理を軽く睨んだだけで、立ち止まっている暇はないとばかりに歩き去ってしまった。どちらかが「あ、すみません」と言えば済むことなのに―――どうやら、今日の不快指数は相当高いようだ。
「…やーな感じー…」
自分の事を棚に上げて呟いた由香理は、ふとあることに気づき、ちょっと目を丸くした。
―――あれ? 今の人、もしかして、うちのアパートの人じゃない?
どこかで見た顔だ、とは思ったが―――そうだ。思い出した。2階に住んでいる人だ。
以前から頻繁に、由香理と出勤時間帯が重なっていた人。名前は知らないが、階段を下りてくるのを見たことがあるので、2階の住人であることは間違いないだろう。201は歌ばかり歌っている「カフェストックでーす」のあの女だし、202はさっきのポスターだし、203はよく知らないが、隣の大学生の話から“おじさん”といったイメージを由香理は抱いている。となると―――30前後のサラリーマン風の男性は、204号室。
逸話を知らない由香理には通用しない通称だが、他の住人たちが呼ぶところの“ミスター・X”である。
―――へーえ、あの人も丸の内に勤めてたんだ。だから通勤が被ってたのね。
それにしても、堅苦しくて面白くなさそうな男だ。それ以上の興味の持てなかった由香理は、歩き出した数秒後には、“ミスター・X”のことなど綺麗さっぱり忘れていた。
***
「えっ! わ、別れたって!?」
「らしいけど? 由香理、知らなかったの?」
パスタを食べている場合ではない。フォークとスプーンを放り出した由香理は、思わず智絵の方へと身を乗り出した。
「それ、ホントーのホントーに? 単なる噂とか、そういうレベルじゃないでしょうね」
「違うと思うよ。真田さんと付き合ってた本人から聞いたんだもの」
「だ、誰よ、付き合ってた本人って」
真田―――とりあえず現時点で、由香理がターゲットとしている若手エリート社員。交際中の彼女の存在は、例の飲み会の席でほぼ確定してしまったのだが、隠すのが上手いのか、その相手が誰なのかがいまだに判明していなかったのだ。
「終わったことだから、私の口から暴露して回るのも嫌なんで、名前は伏せるけどね。秘書課の美女」
「…やっぱり秘書課か…」
ちっ、と内心舌打ちをする。有望株は、大体エリート美女集団・秘書課に持って行かれる。プライドばかり高くて、貢がれることが当然になっていて、実際に結婚したら贅沢三昧、煮物の1つも作れないダメ主婦になるのは目に見えているのに―――世の男はわかっていない。高学歴・高収入の美人を妻にするのは、悲劇への第一歩の可能性が極めて高い、リスキーな選択だということを。
「それで? それで? どうして別れたの」
「さあ? 本人曰く“面白くない男だし、お互い放任主義だから、付き合ってる意味ないと思って自分から振った”らしいけど―――あの手の女は、たとえ振られても絶対“振った”としか言わないからね」
食後の一服に火をつけながら智絵が呆れたように言った言葉に、由香理も頷く。誰だか知らないが、秘書課の連中はそんなのばっかりだ。
「じゃ、じゃあ…本当に真田さん、フリーなんだ…」
「でしょうねぇ」
「てことは…」
―――今日の飲み会は、千載一遇のチャンス。
途端に、目の前がパーッと拓けたような気がした。
「……ほんと、わかりやすいわね、由香理って」
いきなり目がキラキラしだす由香理を呆れ顔で眺めた智絵は、ぼそりとそう呟いた。が、由香理は、そんな嫌味などものともしない。
今夜は、社内の飲み会がある。久々に、真田も同席する飲み会だ。
彼女がいる、とわかってからも、一応真田の動向には気をつけていた由香理だったが、正直、モチベーションは下がり気味だった。それに、例の飲み会の時、結構脈のありそうだった男性とは、その後も何度か飲み会で一緒になっており、結構話も弾んだりしていた。“Studio K.K.”でやってもらったメイクを真似ているせいか、最近飲み会の誘いも増えていた。もう真田さんじゃなくてもいいかな、なんてちょっと妥協路線に入っていたところに―――この、朗報。
やっぱり、妥協は、良くない。
安易なところで手を打ってしまったら、一生後悔する。神様もそう思うからこそ、こんなチャンスをくれたのかもしれない。
「ありがとう、智絵! 見ててよ、今日が勝負よ!」
「…はいはい」
正直な話―――智絵にとっては、由香理の勝負の行方など、今夜の空模様の10分の1ほども関心がなかった。
***
「ええ、なんでみんな知ってるのかな。ハハハハ」
飲み会の席で、彼女と別れたことをあちこちから指摘されて、真田は困ったように笑った。
由香理だけではなく、参加した女全員が知っていたのを見て、由香理はビールを口に運びながら、誰だかわからない真田の元カノは“振られた”んだな、と判断した。
―――でなけりゃ、真田さん狙いっぽい女の子達に、こんなに吹聴して回る訳ないじゃない。真田さんの口から「俺が振った」って漏れる前に、「こっちが振ってやったのよ」ってポーズを浸透させたがってるのがミエミエ。カッコ悪いなぁ。
誰だったのか、ちょっと確かめてみたい気もしたが、やめておいた。負け犬の遠吠えをする元カノなどをいびったところで、自分に何のメリットもない、と考えられる程度の賢明さは、由香理も持っているのだ。
それにしても…今日の飲み会、少々不利だ。
男性側は営業の男ばかり5人だが、女性側は、秘書課の人間が2人に、営業補佐2人、そして由香理だ。秘書課の2人はルックス面で抜け出てしまっているし、営業補佐は共通する話題が多いから、営業と親密になりやすい。…どう考えても、由香理が一番弱い。
だからといって、めげるような由香理ではない。勝ち誇ったような秘書課の女の視線や、内輪ネタでさも親しそうに振舞ってみせる営業補佐になど負けてなるものか、と密かに闘志を燃やす。
「あれ、友永さん、あんまり飲んでないじゃない」
真田ではない営業の男に指摘され、由香理は遠慮がちな笑みを返した。
「あんまり強くないんで…」
「えー、でも、前回はもっと飲んでただろ?」
「なんか、今日は酔いの回りが早くて。それに、電話1本で足代わりになってくれる男の人が沢山いるような方々とは違って、私は、酔い潰れたら自力で帰るしかないですから…」
―――嘘は言ってないわよ。あんた達には足代わりのキープ男がいっぱいいるけど、私にはいないもん。
秘書課2名から注がれる視線を感じつつ、心の中で言い放つ。
こういう時に化けの皮が剥がれないよう、由香理は、本命と決めた相手以外には家まで送らせるような真似はしないことにしているのだ。食事やお酒止まり。送ろう、と言ってくれる人もいるが、全部断っているので、男性的には「食事の誘いには乗るが、案外身持ちの堅い子」と思われている―――筈だ。
「それなら俺達が送るよ。なぁ?」
同意を求められた同僚も「そうだよ」と口々に言う。これは、受けても拒否してもダメなパターンだろう。曖昧に笑った由香理は、何も答えずビールを口に運んだ。
この日集まった営業の5人は、真田以外は真田とは違う部署の営業マンで、話題も彼らの部署の仕事の話が多かった。由香理にはさっぱりわからない話ばかりだが、それは部署の違う真田も同じことらしく、あまり楽しそうには見えなかった。
真田の隣は、秘書課の女がちゃっかり座っている。何事かを時折話してはいるが、営業4人の話の方が面白いのか、ついついそっちに気を取られがちだ。
―――真田さんの席の傍だったら良かったのになぁ…。
その真向かいに座る形の由香理は、そんな真田の様子を見ながらも、テーブル幅が結構あるせいで真田に話しかけられず、イライラする。ちょうど端の席なのだし、秘書課の女さえ席を移動すれば、自分が代わりに移動して真田の横に居座れるのに―――…。
と思っていたら、奇跡が起きた。
真田の隣、テーブルの一番端に座っていた秘書課の女の携帯電話が、突如鳴りだしたのだ。
「…っ、ちょっと、失礼」
まずい人物からの電話なのか、彼女は顔色を変え、慌てた様子で席を立った。そして、携帯を耳に当てながら、そそくさと店の外へと出てしまった。
今、話題は、真田以外の4人が所属している社内の野球チームの話で盛り上がっており、他の連中は彼女の動きにあまり気を留めていない様子だ。
なんだか―――まるで、由香理のために用意されたかのような、絶好のチャンス。
「真田さん」
他の参加者には聞こえないよう、極力、向かい側の席へと身を乗り出し、小声で話し掛ける。
つまらなそうに野球の話を聞いていた真田は、その小声に気づき、ん? という顔で由香理の方を見た。
「すみません、そっちに移ってもいいですか? ちょっとあぶれちゃって」
「ああ、いいよ、どうぞどうぞ」
由香理の隣の男が、すっかり話に夢中になっていて、由香理そっちのけになっているのがわかったのだろう。真田は、笑顔でそう答えてくれた。とりあえず、第1段階クリア―――自分のグラスを持った由香理は、こっそり向かい側の席へと移動した。
「みんな野球の話で盛り上がってるみたいですけど、私、野球のことは全然で…。真田さんは、野球好きなんですか?」
面白くなさそうにしていたのを知りつつも、腰掛けながら小声で訊ねてみる。返ってきた答えは、予想通りだった。
「いや、大きな声じゃ言えないけど、全然。しゃべりが面白いから一応聞いてたけど、実はさっきから暇で暇で…」
「やっぱりそうですか…。真田さんは、何か他のスポーツされてるんですか?」
「んー、学生時代はテニスやってたけど、今はあんまりなぁ…。今の趣味って言ったら、やっぱり車だな」
出た。車。
自慢の高級外車については、既に情報を入手済みだ。
「なんか、凄い外車に乗ってる、って噂は聞いたんですけど…」
「アハハ、噂になるほど凄くはないんだけどね。本物のマニアなら、1千万とか車にかける奴もザラだけど、俺はそこまでいかないから」
と言いながらも、真田は、車自慢ができるのが嬉しくて仕方ない、といった顔だ。
「なんというかね、イタリア車ってのはこう、日本車にはないスタイリッシュさがあって、いいんだよ。車といえばベンツベンツってうるさいおっさんもいるけど、ドイツ本国じゃ大衆車だよ? それにあの無骨な外観。あれでドライブする気になれる訳ないじゃないか」
「そうですねぇ…。おじさんかヤクザか医者の乗り物、って感じですね」
「だろ? やっぱり車はイタリアの、しかもオープンカーでないと。フルオープンにして海岸沿いの道路なんかをぶっ飛ばすと、そりゃもう最高の気分だよ」
「あー…、いいですねー…」
その光景が頭に浮かび、由香理もホワンとした笑みを浮かべる。まさに「ヤング・エグゼクティブの華麗なる休日」。由香理がイメージするとおりのデートコースだ。それに比べたら、「彼氏が所属する社内野球チームの応援」なんて休日、絶対NGだ。
やっぱり、真田を本命と思ったのは、間違いじゃなかった。この人は、理想とするライフスタイルが私と凄く似ている―――車の話題からそれを確認し、由香理のモチベーションは一気に上がった。
「友永さんは、車は?」
由香理の反応に気を良くしたのか、今度は真田の方から話を振ってきた。
「それが…免許は持ってるけど、ペーパーなんです」
「そうなの? 勿体無いなぁ」
「あ、でも、ドライブとかはすっごい好きなんですよ。好きな音楽聴きながら、流れていく景色を見たりするのは。ただ、運転は……」
「あー、なるほどね。さては、助手席に乗せてくれる優しい男がいるんだな?」
かまをかけるように言われ、由香理はギョッとして、慌てて首を振った。
「そ、そんなことないですっ! もう2年近く、彼氏いないんですよ?」
「彼氏じゃなくたって、ドライブ位行くだろう?」
「まさか! 行かないですよぉ」
と言いつつ、実は1年ほど前に1回、コンパで知り合った他の会社の男に誘われて、行ったことがあるのだが―――理想とはかけ離れた4WDのごつい車に乗せられて、うんざりした。あれはカウントに入れなくていいだろう。
と、そこに、携帯電話を片手に出て行った秘書課の女が戻ってきた。
自分の席に、しっかり由香理が納まっているのを見て、憤慨したように目を剥く。案の定、大人しく向かいの空席に移動する気はないらしく、彼女は抗議しようと口を開きかけた。
だが、ちょうどそのタイミングで、真田が明るい口調で切り出した。
「なんだ、結構ノリ良く合コンや飲み会に参加してるって聞いたから、ドライブに連れてってくれるボーイフレンド位、いくらでもいるかと思ってたよ。友永さんて、案外真面目なんだね」
ああ、なんてグッド・タイミング。
やっぱり今日は、恋愛の神様が自分に味方してくれているとしか思えない。口元が笑ってしまいそうになるのを、由香理は根性で堪えた。
「えー、別に、真面目ってほどじゃないですよぉ。飲み会とか合コンは、社内の人間関係のための“お付き合い”でもありますから、よっぽどのことがない限り参加しなきゃ、って思うタイプなんですけど―――個人的なお付き合いってのは、それとはまた別ですから。思わせぶりな態度を取るのも、男の人に失礼だし…」
はにかんだような笑みを作って答える由香理を見て、秘書課の女の携帯を握る手がプルプルと震える。でも、真田が更に「確かに思わせぶりなのは良くないよ」などと話を続けてしまったので、彼女は諦めたように向かい側の席に移った。
―――勝った。
どうしても抑えることができず、由香理は、真田にだけは見られないよう、ちょっと顔をそむけた上で、ニンマリと勝者の笑みを浮かべた。
***
飲み会が終わると、このままカラオケに流れるか、という話になった。
ところが、真田は意外な行動に出た。
「あー、悪い。俺、明日朝早いし、家帰って資料まとめたいから、ここで離脱するわ」
「えっ」
女性5人が、同時に声をあげた。付き合いの良い真田なら、当然、カラオケにも参加すると考えていたのだ。
「あ、僕らは行くよ。心配しないで」
秘書課の女性が言い出したカラオケなので、今更「真田さんが行かないなら、やめます」とは言えない。乗り気の男性4人を前に、言いだしっぺの女の笑顔は引きつった。
「そ、そうですか。よかったぁ。あなた達も行くわよね」
急遽、女性陣の取りこみ作戦に入る。同僚の秘書課の女性は仕方なさそうに頷き、営業補佐の2人も、男性陣のすぐ隣にいたせいで、今更離脱できるムードにはないらしく「ええ、行きます」と答えた。
「友永さんも行くでしょ?」
最後に由香理が確認を取られたが、はっきり言って、もうこの連中と付き合う気はない。飲み会の間中、あまり話に加われないでいた立場なので、他の女性陣よりは断りやすいと考え、ここは顰蹙覚悟で断る方を選んだ。
「いえ、なんか今日、ちょっと調子悪いみたいで…」
「そう言えば友永さん、随分大人しかったな、今日は」
何度か飲み会で顔を合わせている男が、頼みもしないのにフォローを入れてくれる。やっぱり今日はついている―――内心ほくそえみつつ、顔は済まなそうな笑みを作る。
「無理して参加してくれたのかぁ。悪かったな、友永さん」
「いえ、すみません、ノリ悪くて。体調が万全な時、また誘って下さい」
「でも、1人で大丈夫?」
「駅までは俺も一緒だから、大丈夫だよ」
離脱宣言した真田が、そう言ってくれる。計算外だった展開に、ますます神様の後押しを感じた。
じゃあこれで、と同僚らと別れた由香理と真田は、並んで駅に向かった。
駅まで、徒歩10分ほど。でも、貴重なツーショットだ。何を話そうか―――由香理が思案していると、真田の方が、少し身を屈めるようにしてこっそり話しかけてきた。
「友永さん、ほんとに調子悪い?」
「……」
え? という目で真田を見上げると、真田はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「仮病なら、もう1件、付き合わない?」
「―――…」
それを聞いて、予想外の離脱が、全て真田の計算だったことがわかった。
***
真田が選んだのは、洒落たショット・バーだった。
「あの連中とじゃ、飲んだ気がしなくてねぇ」
やれやれ、という顔で、真田はそう言いながらオン・ザ・ロックを口にした。
「見ただろ? 俺が話に入れなそうな話題ばっかり選んでさ。大して親しくもないのに誘うから、おかしいとは思ってたんだ。俺は客寄せパンダだったんだよ。女の子集めるためのさ」
「…ああ…、それで、ああいうことに…」
秘書課の女性は、彼らレベルの男性から見ると、高嶺の花だ。自分達だけの力では引っ張ってこれないと考え、真田を誘ったのだろう。でも、話題を真田にさらわれては、意味がない。だから真田が入り込めないよう、内輪話でガンガン盛り上げていたらしい。
今頃、真田が離脱してくれて万歳しているに違いない。男の世界も結構姑息なのね、と由香理は苦笑した。
「でも…なんで私を、もう1件誘ってくれたんですか?」
綺麗な色のカクテルの入ったグラスを置きつつ、訊ねる。すると真田は、ニコリと微笑んだ。
「友永さん、聞き上手みたいだからね」
「……えっ」
「いや、もー、ここ半月ほど、イライラすることが多くてさ。彼女と別れたこともそうだけど、仕事でもさ。でも、愚痴るのもカッコ悪いし、ストレス溜めまくりだよ。でも、友永さんなら、愚痴も聞いてくれるかな、と」
「もっ、勿論ですっ!」
思わず、グラスを握る手に力が入る。
男が女相手に愚痴る。これほど理想的シチュエーションはない。女が「病気の時に看病してくれる」に弱いのと同様に、男も「苦しい時に黙って愚痴を聞いてくれる」に弱いのだ。ここで理解を示し、優しく支えてあげると、評価は一気に上がる。
「どんどん愚痴って下さい。私でよければ、いくらでも聞きますから」
「ハハハ、ありがとう。総務の子になら、気楽に愚痴れるよ。秘書課の女じゃ上司の悪口とか言い難いし、営業補佐の子はライバルの補佐だったりするから面倒だしね」
総務課でよかった―――入社して初めて、そう思ったかもしれない。
「お仕事、そんなに大変なんですか?」
「うーん…、仕事そのものは、前と変わらないよ。先月もトップ取ったしね」
「やっぱり凄いんですね、真田さんて」
「まあ、ね。ちゃんと成果は出してるさ。なのに―――1人、厄介なのがいるんだよなぁ…」
真田の眉が、忌々しそうに顰められる。
「今月頭から、子会社から出向で、新しく係長がうちの部に来てさ。そいつがまぁ、嫌な奴なんだよ」
「へーえ…」
由香理の会社は巨大な商社で、子会社も2桁単位存在する。そうした子会社から、出向という形で親会社に人が入ってくるケースは、時々ある。由香理の部署には入ってきたことがないが、同じフロアの営業4部には、由香理の入社当時、子会社の人間が課長待遇で出向してきたことがあった。2年ほどでまた子会社に戻ってしまったので、もういないが。
「こっちは成果出してるんだから文句はないだろうに、細かい所に突っ込み入れて、ネチネチグチグチ説教するんだよ。重箱の隅をつつくみたいにさ」
「うわー…嫌な人ですねぇ」
「だろ? 営業は、契約を取るか取れないか、その違いの筈だろ? 契約を誰よりも多く取ってきて、会社に貢献してるってのに、やれ書類の書き方が雑だの、新人でもあるまいし“報・連・相”をしっかりやれだの―――文句言われる筋合いはないよ、ホント」
くいっ、と水割りをあおった真田は、係長のことを思い出して頭に血が上っているのか、かなり乱暴な手つきでグラスをドン! と置いた。
「俺が思うに、あれは嫉妬だな」
「嫉妬?」
「子会社の連中には、よくあることさ。本家コンプレックス、とでも言うのかな。親会社と子会社じゃ、採用される人間の出身校にも差があるし、給与そのものも差が出る。それに、子会社じゃ課長になってても、こっちに出向する時は係長扱いだしさ。俺に限らず、親会社の人間なら誰でも、嫉妬の対象なんだよ、あいつらにとってはさ」
それは―――わかる気がした。由香理の、秘書課に対する認めたくないコンプレックスと、どこか共通している心理だから。
「自分より年下で、社内評価も高い俺が、そのコンプレックスのターゲットになってるんだろう。全く…迷惑な話だよ」
「…大変ですね…」
「それにさ、今日の飲み会の営業3課の4人にしても、社内じゃ一番の花形である営業1課に対する嫉妬はあるんだよな。客寄せパンダに大きな顔をさせてたまるか、って意味もあるんだろうけど、今日のアレは、1課の俺に対する日頃の腹いせだよ」
「…ああ、そういう意味もあったんですね」
「ま、そんな嫌がらせ、俺は取り合わないけどね」
ニッ、と笑った真田は、やっといい気分に酔ってきたのか、更に口が滑らかになった。
「所詮、負け犬の遠吠えさ。悔しかったら、1課に転属されるだけの器になればいい。腹立たしいんなら、子会社辞めてうちの会社を受けなおせばいいんだよ。それもできずにギャンギャンわめきたてる負け犬だ。学歴を鼻にかけて、仕事もできない癖に威張ってる奴もね。男は最終的には仕事で評価されるんだ。途中でいくら勝ってたって、最後で勝たなきゃ意味がない―――そう思わない?」
「……」
『普通の女は、最後には、自分自身じゃなく“結婚した相手”で評価されるのよ。借金男と結婚した東大卒の才女より、大手商社のやり手のビジネスマンと結婚した短大卒の女の方が、最終的には“勝ち”なの』
自分が智絵に放った言葉と、リンクする。
全くもって、その通りだ。
その、通り―――の筈、だけれど…。
「…じゃあ、総務になっちゃった私も、負け犬なのかしら…」
秘書課に配属されなかったし、秘書課に転属される見込みは限りなくゼロだ。思わず呟くと、慌てたように真田がフォローした。
「いや、女の子は別だよ。女の子の勝ち負けは“愛嬌”と“いい男と結婚できるか”で決まるだろ?」
これまた、以前言った自分の言葉と重なるご意見。由香理は、ちょっとホッとしたように笑った。
「真田さん、慰めるのが上手ですね」
「慰めてる訳じゃないよ。それに、総務だって重要な仕事だろ? 会社をうまく回していくためには、欠かすことのできない部署なんだから」
―――って、本当に思ってるのかな。私自身ですら、そう思ってないのに。
多分、社交辞令なんだろうな―――そう思いながらも、由香理は「ありがとうございます」とニッコリ笑って答えた。
***
真田とは結局、1時間ほど飲んで話した。
「すみません、結局おごってもらっちゃって…」
恐縮したように由香理が言うと、真田は快活に笑って首を振った。
「バカだなぁ、こんな程度でそんなに恐縮するなよ」
「じゃあ―――ごちそうさまでした」
「うん。俺もおかげで、ちょっと気分がスッキリしたよ」
真田はそう言うと、まるで付け足しのように、あっさりした口調で由香理に訊ねた。
「また明日、時間あるかな」
「…えっ」
「今度は飯でも一緒に食おうよ。2人でさ」
「……」
2人っきりで食事―――真田は、あまりそういう真似をしないと聞いた。下心アリでなければ、ツーショットには滅多に持ち込まず、3、4人で食事するようにするのだ、と。
―――つ、つまり、これって……そういうこと?
「あ、えーと、でも変な勘ぐりはしなくていいよ。いきなり送り狼になったりするつもり、ないから。こう見えても紳士なんだよ、俺」
「い、いえっ、そんな疑いをかけてる訳じゃ…」
「でも、友永さんには興味あるな」
サラリと、凄いことを言ってくれる。顔を赤らめつつ、由香理は、ドキドキする胸を押さえて答えた。
「あ、あの……じゃあ、お食事なら、喜んで」
***
―――なんか、展開が急すぎて、夢みたい…。
まさに夢心地で、フワフワ歩く。あと2分駅に近い家なら良かったのに、なんて思いながら歩く道も、今日はまるで別の道みたいだ。
…勝ったわ。
ふふふふふ、秘書課のタカビー女ども、今頃3課の連中にしつこく食い下がられて、イライラしてるだろうなー。日頃男を足代わりやお財布代わりにしてる罰が当たったのよ。最後に勝つのは「健気で聞き上手で家庭的な癒し系の女」なんですからねっ。
まずはお食事から。当面の目標は、スタイリッシュな愛車でドライブよね。いずれは彼の部屋で手料理、なんてこともあるかも。任せなさい。料理だけはばっちり勉強したわよ。男は胃袋で釣るんですからねっ。
目指すは「将来有望な一流商社のヤングエグゼクティブの妻」よ! 絶対がんばるんだからっ!
超ゴキゲンでアパートの入り口をくぐった由香理は、そこに人影を見つけ、ハッとして立ち止まった。
「―――…」
物置の前にうずくまっていたのは、優也だった。
由香理のハイヒールの音を耳にして、優也が顔を上げ、由香理の方を見る。そして、靴音の主の正体に気づくと、途端に顔を赤らめ、慌てたように立ち上がった。
「あっ、お、お帰りなさいっ」
「……何、してたの」
優也がうずくまって覗き込んでいたのは、例の黒い子猫が寝床にしている物置だ。どうせ猫だろうな、と思ったら、案の定そうだった。
「…ちょ、ちょっと、ミルクパンが体調崩して…。急に暑くなったせいかな、と思って、部屋に連れてくか迷ってたんです…」
「ふぅん」
「あっ、勿論、前みたいに友永さんとこに逃げ込むようなことは、絶対させませんから!」
例の大騒動を思い出し、優也が慌てて付け足す。ドキドキという心臓の音まで聞こえそうな、真っ赤な顔―――蒸し暑い夜のせいばかりとは言えない汗が、そのこめかみに浮かんでいた。
―――…気まずい…。
どうしようもなく、気まずい。
「…じゃ、おやすみなさい」
半ば逃げるように、優也の前を立ち去る。カツカツとヒールの音を響かせて廊下を進んだ由香理は、落ち着かない手つきで自分の部屋の鍵を開け、急いで部屋に入った。
隣の大学生が、自分に気があるらしいことは、日々のちょっとしたことから漠然と気づいてはいた。
優也が自分に向ける目は、いつも、少年らしい「恋してます」という目で―――普段はそれを、可愛いわねぇ、初々しいわねぇ、と微笑ましく思うだけだった。
でも―――何故だろう?
今、いつもと同じあの目を見て、由香理が感じたのは……後ろめたさだった。
―――私には、あんなひたむきな目で誰かを見つめたこと、あったかな。
私、本当に真田さんに恋してたんだろうか。
純粋な恋心に触れて、由香理は、自分が今していることが「恋愛」なのか「勝負」なのか、わからなくなった。
わからないまま―――ただ、純粋なるものに対する後ろめたさに、1分前の浮かれた気分は、あっという間にしぼんでいた。
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