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― fellows ―

 

 ―――なんか、どれもピンとこないよなー…。
 ハードロック・ヘヴィメタルのコーナーでCDを漁りながら、奏は、うーん、と唸った。
 久々に店を早く上がったので、たまには新しいCDでも仕入れようかと思ったのだが―――いまいち。既に持ってはいるがロンドンに置いてきてしまったものは、二重に買う気がしない。最近出た目ぼしいものは、既に購入して、自室で聴き倒している。新しく出たロックバンドなども、ラジオでそれなりに聴いてはいるのだが、MDに録って通勤時に聴きたいほどではない。これ、という決め手のある1枚が、どうにも見つからないのだ。
 ―――あ、モトリー・クルーのベスト盤が出てる。うーん…いまいち。それに、今はメタルってより、ポスト・パンクの気分かなぁ…。U2とかポリスとか。
 他のジャンルも見てみるかな、と、貼りついていた一角から抜け出る。そして、何気なく新譜コーナーに目をやった時―――見覚えのある人物を見かけて、あれ? と足を止めた。

 ―――あれって、咲夜と一緒にピアノ弾いてる奴じゃなかったっけ?

 本日発売分のCDの販促物なのか、宣伝文句がポップ調に手書きされたプレートを慎重に飾り付けているのは、間違いなく彼―――藤堂一成だった。
 多分、このCDショップの制服だろう、涼しげなブルーのストライプが入った半袖シャツを着て、胸には名札をつけている。そう言えば、昼間は大手のCDショップで働いていると聞いた。どうやら偶然、ここが彼の勤め先だったらしい。
 飾り付けが終わり、ちょっと息をついた一成が、目を上げる。
 数メートル先にいる奏には、すぐ気づいたらしい。その顔が「あ、」という表情に変わった。向こうも気づいたなら、挨拶をした方がいいだろう。サングラスを外した奏は、一成の方へと歩いて行った。
 「こんにちは」
 「…どうも」
 にこやかな奏とは対照的に、客商売である筈の一成の顔に笑みはない。会いたくない人に会っちゃったな、といったムードを隠しきれない様子で、それでもヒョコッと頭を軽く下げた。
 藤堂一成の風貌は、奏の中では、ピアニストというよりボクサーに近いイメージだ。体全体のバランスもあるが、パーツもシャープで引き締まった感じ―――染めていない短い髪も、すっきりとした切れ長の一重の目も、彼を涼やかで俊敏な印象に見せている。背は170センチ台半ばといった感じだが、そうしたパーツの引き締まった印象のせいか、実際の背丈より若干小柄に見えた。
 奏が高校時代に熱中していたバスケで、この一成に似たタイプのチームメイトがいた。一成より小柄な選手だったが、非常にフットワークが良く、あっという間に敵の間を潜り抜け、ゴール下の選手に素早くパスする名選手だった。そんな過去もあって、奏は結構、一成の第一印象は良かったのだが―――…。
 ―――こっちの印象は、あんまり良くなかったらしいなぁ…。
 一成のぎこちなさにそれを感じ、奏は内心、困ったな、と思った。咲夜の仲間には、これからも何度か顔を合わせる機会があるだろうから、できれば良い印象を持って欲しかった。
 「ここだったんだ、い―――藤堂、さんの勤め先」
 つい、咲夜の呼び方の「一成」と口にしてしまいそうになった。一成にもわかったらしく、僅かに苦笑した。
 「…“一成”でいいですよ。俺は慣れないから、苗字で“一宮”って呼ばせてもらうけど」
 「だったらオレも、苗字で。一成と一宮だと、“一”同士で変な感じだし」
 「ああ…そういえば」
 漢字に直した時の字面を想像し、一成も苦笑する。そのことで、やたらぎこちなかった空気も少し和んだ。
 「ここの店員は、ええと…アルバイト? 正社員?」
 「いや、入社当時は正社員だったけど、ステージを優先するために、シフト制のとれる契約に切り替えてもらったんで―――今は、契約社員」
 「へえ…、いい職場だなぁ」
 「うちは、楽器メーカーでもあるし、社名を冠したコンテストまであるから。音楽の道に足突っ込んでる社員がチラホラいて、そういうのの支援の意味もあって、ある程度は考慮してくれるんですよ」
 なるほど―――さして詳しくない奏でも、ここのピアノやキーボードは知っている。ロンドンの学校にあったピアノにも、この会社のロゴが入っていたほどだ。そういう優遇制度があってもおかしくはないだろう。
 奏の店も、アーティストが他の仕事を入れるのが当たり前になっているので、シフト制をとっている。だから奏もモデルをやることができる。咲夜の会社も、社長自身が会社員をしながら立ち上げた会社ということで、社内規定で兼業を堂々と認めていて、時間をやりくりできるようフレックスタイムを採用しているという。やはり、二足のわらじを履いて生きていこうとするならば、こういう特殊な職場環境の所に勤めるかフリーター、ということになるのだろう。
 「でも、音大出てて、しかもあれだけ上手いなら、とっくにプロになってそうだけど…厳しいんだなぁ、音楽の世界って」
 複雑な旋律をいとも軽やかに弾きこなしていた一成を思い出し、小さくため息をつく。その言葉に、一成はふっと笑った。
 「美大を出た奴の大半が、絵で食っていけないのと同じでしょう」
 「専門教育受けた奴でも大変な世界で、ずぶの素人の咲夜がやっていこうとしてんだから、もっと大変だよなぁ…」
 「……」
 途端、何故か、和んだ空気がまたぎこちなくなった。
 あれ? と、奏が少し怪訝な顔をすると、一成は、僅かに笑みを作った。が、相槌らしい相槌は打たなかった。
 「…あ…、ええと、この前訊き忘れたけど、」
 軽く咳払いし、奏は、館内冷房以上に寒く感じる空気を払拭するように、再度話しかけた。
 「咲夜と組むようになったのは、一体、どういうきっかけで?」
 「……」
 また、空気の温度が下がった気がした。
 なんか、まずいこと訊いたかな―――顔が引きつりかける奏に、今度は一成もきちんと答えを返した。
 「―――ストリート・ライブで」
 「ストリート・ライブ?」
 「咲夜の大学の仲間がギターを弾いて、それに合わせて咲夜が歌う―――フォークやロックに比べて認知度の低いジャズで、どの程度、道行く人の足を止められるかの武者修行だ、って言ってたな…」
 そう言うと、一成は、どこか当時を懐かしむような笑みを浮かべた。
 「初めて聴いた時―――衝撃的だった」
 「……」
 「ピアノにしか興味がなかったけど…咲夜の歌を聴いて初めて、一緒にやっていきたいって思った。咲夜の声には、ギターよりピアノが合っている―――咲夜の声なら、俺のピアノの足りない部分を補ってくれるし、俺のピアノなら、咲夜をもっと上手く歌わせてやれる。…そう思って、俺は…」
 「…もしかして、好きなのか?」
 思わず、そんな質問が、口をついて出てきていた。
 どこかうっとりしたような目をしていた一成は、その質問に我に返り、不思議そうな目で奏を見つめた。
 「好き?」
 「咲夜のことが」
 だって、そんな目、してるし。
 それに―――さっきから、奏が咲夜の名を出すたびに、より冷ややかになっていく空気。それほど反感を持たれる態度をとった覚えがないのに、あからさまに「嫌な奴に会っちゃったな」といった感じだった、さっきの一成の態度。…それも、一成が咲夜を好きなのだとしたら、なんとなく理解できる。
 けれど、奏の言葉の意味は、一成に正しく伝わらなかったようだ。何言ってるんだ、という目で、一成は答えた。
 「嫌いな奴と組もうとする奴は、いないと思うけど」
 「あ、いや、そーゆー意味じゃなくて―――…」
 「え?」
 「……」
 「…………」

 意味が、伝わったと思ったら。
 一成の切れ長の目が丸くなり―――唐突に、その顔が僅かに紅潮した。

 ―――あ…あれ?
 なんだか嫌な予感に、背筋がヒヤリとする。が、奏の不安などそっちのけで、一成はぷい、と顔を背け、さっき自分が飾り付けたプレートの位置を無意味に直した。
 「そ……そういう意味では、考えたことがないな」
 「……」
 「1年位前までは、付き合ってる子もいたから」
 「…あ、そう、ですか」
 「…すみませんが、まだ仕事があるんで」
 顔を背けたまま、会話打ち切り、といった感じで放たれた言葉に、奏は慌てて笑顔で謝った。
 「あっ、ご、ごめん。そうだよな。じゃあ―――また“Jonny's Club”で」
 「……」
 来るのか、という目で、一成が振り返る。また背筋がヒヤリとしたが、奏はなんとか笑顔をキープした。
 「…藤堂さんのピアノ、結構好きなんで」
 「―――…」
 半信半疑、という目で奏をじっと見た一成は、それでも最後には、「どうも」と言って不器用に会釈した。


 一成から離れ、一番縁遠そうなJ−POPのコーナーにさりげなく回り込みながら、奏は再びサングラスをかけた。薄暗くなった視界の中、離れた所に見える一成は、どこか心あらずの表情で、上下逆に戻されてしまったCDなどを黙々と直している。
 ―――うーん…、まずかったかな…。
 あの時の、一成の表情の変化。
 考えてもみなかった可能性を目の前に突きつけられて―――自ら、驚いている顔だった。
 「…ヤバイなぁ…」
 本人も知らなかった核ボタンを、どうやら奏が押してしまったらしい。
 奏は、咲夜の気持ちがどこにあるかを、1ヶ月前よりもずっとよく知っている。だから…自覚させてしまったものに、一成がこの先苦しむような気がして、心臓がズキリと痛んだ。

 気づくべきじゃなかった―――奏自身も、あの時、そう思ったから。

 瑞樹を見つめる蕾夏の瞳に、死にそうなほどの痛みを覚えた時―――自分の中の想いに気づいてしまったことを、心から呪ったのは、他でもない奏自身だったのだから。


***


 「お邪魔しましたー」
 一礼して、ドアを閉める。
 バタン、という音と同時に、咲夜の顔から笑顔が消えた。
 ―――うー…、だるいなー。
 今日はちょっと、体調が悪い。いつもなら5階位なら体力づくりのために階段で上り下りするのに、今日は挫折して2階からエレベーターに乗ってしまったし―――今から5階も階段で下りることを考えると、憂鬱になってしまう。今日がライブのない水曜日だったのはラッキーだったかもしれない。
 よいしょ、とコーヒーやメンテナンス機材の入った大きなバッグを肩に掛け直し、咲夜はエレベーターのボタンを押した。ちょうど6階まで下りてきている途中だったエレベーターは、間もなく5階に着き、咲夜の目の前でドアが開いた。
 午後の中途半端な時間帯。誰も乗っていないと思われたエレベーターには、事務服姿の女性が1人だけ乗っていた。
 そして、咲夜が入ってくるなり、その彼女の目が、びっくりしたように大きく見開かれた。

 「―――…如月、さん…」

 突如名を呼ばれ、驚いて彼女の顔を確認すると―――そこには、見覚えのある顔があった。
 「え…っ、嶋崎…?」
 「……」
 「えーっ! 嶋崎さんじゃん!」
 嶋崎―――咲夜命名・シマリス。
 大学の同期で、学科も同じ英語科だった彼女は、顔が小動物系である。『ぼのぼの』という漫画に出てくるシマリスに、小首を傾げる仕草がよく似ているので、「シマリス」と咲夜に名づけられた。
 と言っても、本人をそう呼んでいた訳ではない。本人を呼ぶ時は「嶋崎さん」か「嶋崎ちゃん」だ。「シマリス」という呼び名は、主に嶋崎の彼氏に―――咲夜の音楽仲間に向かって、彼女のことを言う時に、からかい半分で使っていたのだ。
 嶋崎の顔は、明らかに狼狽し、少し迷惑そうだった。が、注意力散漫になっていた体調不良の咲夜は、日頃なら気づけるその空気に気づかなかった。
 「うっわー、久しぶり。卒業以来だよね。元気だった?」
 「…ええ。如月さんは相変わらず元気そうね」
 大学時代より、随分ツンケンとした口調に、ちょっと違和感を感じる。まあ―――卒業から1年以上経つ。社会人を経験して、可愛い癒し系小動物も、バリバリ働くOLになったのかもしれない。
 「嶋崎ちゃん、このビルに勤めてたんだ。何の会社だっけ」
 「…食品会社よ」
 「ふーん。私はコーヒーのデリバリー、っていうのかな。オフィスに据付の」
 「カフェストック、でしょ」
 咲夜の言葉を、嶋崎が奪い取るように遮った。
 面倒そうな、あからさますぎるほど、刺々しい声―――さすがに、咲夜も眉をひそめた。
 「…う…ん、よく、知ってるね。この制服、よく見かけるのかな」
 「…いいえ。今日初めて見た」
 「あ、そうか。航太郎に聞いたんだね」
 航太郎―――嶋崎の、彼氏。
 学部は違うが、咲夜や嶋崎とは同期で、「あいつ、大学にギターを弾きに来てるんじゃないか?」と言われる位、いつもギターばかり弾いていた。長いこと関西に住んでいたので、言葉は標準語でもイントネーションが微妙に関西なのが面白かったが、見た目は結構今時の流行のタイプで、キュートな嶋崎とはお似合いだった。
 当然のように、咲夜がその名前を出した途端―――嶋崎の顔が、目に見えて険しくなった。
 ―――あ…あれ?
 「…えーと、航太郎と、なんかあったの?」
 何故急に険悪になったのかわからないが、どうやら航太郎がキーなのは間違いなさそうだ。恐る恐る咲夜が訊ねると、嶋崎は、怒ったような呆れたような目で咲夜を睨んだ。
 「知らないの?」
 「えっ」
 「別れたのよ。航太郎とは」
 「えっ!!!」
 ―――し…しまった。思いっきり、地雷。
 「ご…ごめん。卒業してから、ほとんど連絡取ってないからさ。ほら、あいつ忙しいとこ就職したから…」
 慌てて謝る咲夜に、嶋崎の目はますます冷ややかになった。
 「…何言ってるのよ。別れたのは、4年になってすぐよ」
 「―――…」

 …はい?
 それは、ないでしょ、いくらなんでも。だって、航太郎からそんな話は―――…。

 予想外な展開に、咲夜が唖然としているうちに、エレベーターは1階に到着した。
 がくん、という揺れに、それぞれ我に返る。開いたドアから先に出て行ったのは、嶋崎の方だった。
 「…っ、ちょ、ちょっと、待って」
 本当は地下の駐車場で下りる予定だったが、それどころではない。咲夜も、嶋崎の後を追うように、エレベーターを下りた。
 「それ、本当? 私、何にも聞いてないんだけど、航太郎から」
 「……」
 「4年の時だって、嶋崎さんのこと航太郎に話せば、航太郎、普通に返してたよ?」
 「―――そりゃあ、そうでしょ」
 抑揚のない声でそう言うと、嶋崎は立ち止まった。
 クルリと振り向いた嶋崎は、もう憤りを隠すこともなかった。積年の恨みを晴らすみたいに、鋭い目で咲夜を睨み据えた。
 「航太郎は、あなたに余計な心配をかけたくなかったんだもの」
 「…え?」
 「わたし達が別れた理由が自分だなんてこと知ったら、如月さんが責任感じてコンビを解消すると思ったのよ。航太郎はそういう奴だった―――だから、別れたの」
 「……」
 「…如月さんて、肝心なことは何も見えてないのね。大学時代、わたしが周りからどう思われてたか、全然知らないでしょ? 可哀想って―――航太郎にとっては結局は二番手、一番大事なのはあなたで、わたしは、ちょっと顔が可愛いからキープされてるだけだ、って……そう陰口叩かれてたのよ?」
 「ちょ…っ、ま、ってよ、」
 頭が―――クラクラする。
 冗談じゃない。航太郎とはそんな仲じゃないし、ああ見えて航太郎は女性関係は真面目だ。傍にいる時間の多かった咲夜の目から見ても、航太郎は嶋崎一筋だった。ノロケすぎな航太郎に「ノロケてんな」と蹴りを入れることはあっても、嶋崎を大事にしろ、なんて説教をする必要などまるっきりなかった。
 「あ…あの、さ。航太郎、マジで嶋崎さんのこと」
 「知ってるわよ! そんなこと!」
 誤解を晴らそうと咲夜が口を開くと、嶋崎は、ヒステリックにそれを遮った。
 「知ってるわよ! 航太郎とあなたが、そんな関係じゃなかったことも、航太郎が本当は真面目な人なのも、全部わかってる! 当たり前でしょ!? わたしが“彼女”だったのよ! 航太郎のこと一番理解してて当然じゃないっ!」
 「……」
 「でも…ダメなのよ。デートとライブが重なれば、航太郎は絶対ライブを優先する。講義の終わった後の時間も、夜は確かにわたしと一緒にいるけど、それ以外の大半の時間は軽音の部室か路上かCDショップ―――結局はあなたと一緒の時間の方が多いのよ」
 「…そ、それは、私がどうこうじゃなく、航太郎はただ音楽を、」
 「それでも、ダメなのよっ! あんた、バカじゃないの!? 男同士なら誰も何とも思わないことでも、航太郎が男であんたが女なら、周りは色々噂するの! ううん、周りだけじゃない―――どんなに航太郎を信じてても、航太郎に愛されてても、いつも一緒にいる2人を見せつけられるたび、わたしが…わたし自身が、もう普通の目では見られなくなるのよっ! そんなことが、同じ“女”なのに、なんでわからないの!?」
 「―――…」

 なんにも、言葉が出てこない。
 出てこないで、どうしていいかわからず立ち竦んでいるうちに、別のエレベーターが1階に到着し、背後から人がゾロゾロと降りてきた。泣きそうな顔を他人に見られるのを嫌ってか、嶋崎は赤くなった目を手の甲で一度擦り、顔を背けた。
 「…ごめんなさい…」
 顔を背けたまま、嶋崎が、消え入りそうな声で呟く。
 「今更な話なのに…あなたに八つ当たりしても、仕方ないんだけど…。ちょっと、今の彼氏とも、うまくいってなくて…」
 「…そうなんだ」
 こんなに感情的になるほど、まだ航太郎が心に巣食っているのに―――今は、別の彼氏がいるのか。…人間って、不思議だ。
 「如月さんは? 彼氏とか、いるの?」
 「いないよ」
 咲夜は即答し、ふっと笑った。
 「私の恋人は、ジャズだから」
 「……」
 「…私は、嶋崎さんにやましい部分は、何もない。だから、航太郎と組んでジャズをやっていたことについては、嶋崎さんには一切、謝らないよ」
 「……」
 「でも―――気づいてやれなくて、ごめん」
 咲夜の言葉に、嶋崎は、驚いたように咲夜の方に顔を向けた。
 ニックネームのとおり、リスみたいなくるんとした嶋崎の目を見て、咲夜はニコリと笑ってみせた。まるで、1分前のカミソリみたいな空気などなかったみたいに。
 「気づいてれば、航太郎がどんだけシマリスちゃんのノロケ話を暴露しまくってたかとか、シマリスと経済のなんとか君と映画に行ったって噂聞いて落ち込んでたこととか、色々、教えてやれたのにな。鈍感だったせいで、2人をひやかすチャンス、随分逃してたんだよなぁ…惜しいことした」
 「…相変わらず、変な人ね」
 「うん。よく言われるから、もう慣れた」
 咲夜が言うと、嶋崎も、巻き込まれて降参したように、僅かな苦笑を漏らした。

 でも―――嶋崎に向ける笑顔とは裏腹に、咲夜の胸の内は、引き絞られるような痛みに耐えていた。

***

 “航太郎”
 電話帳から、久々にその名前を呼び出し、ボタンを押す。
 暫く呼び出し音が続き、そろそろ留守番電話になるかな―――と思ったところで、電話が繋がった。
 『はい?』
 「航太郎? おひさ」
 咲夜の声に、電話の向こうの航太郎が息を呑む気配を感じた。
 『え…っ、さ、咲夜ちゃん!? うわー、おひさおひさ!』
 「ハハハ、相変わらずなリアクション」
 『去年の大学祭以来だろ? どうしたの、急に』
 ―――そっか…、大学祭以来か。
 秋に、母校の大学祭に、軽音楽部の後輩のライブを見に行ったのが最後だったのだと思い出した。ベッドに寝転がり天井を見上げながら、そんなに経つんだな、と改めて思う。
 「んー、別に用事ってほどでもないけど―――今日、大学の近く通ったから、ちょっと思い出してさ」
 『ひっでー。咲夜ちゃんが僕のこと思い出すのって、そういう時だけ?』
 「ごめんごめん。…で、どう? 最近、弾いてる?」
 『あー…、うーん、あんまり』
 電話の向こうで、航太郎が力なく笑う。
 『仕事、忙しいしさ。全然時間なくて。余ってる時間あるなら、彼女のご機嫌取りしないとまずいし…』
 「あ、そういえば、シマリス嬢と別れてたんだってね、航太郎」
 『……』
 出すつもりはなかったが、航太郎の方から“彼女”に触れてきたのでは、仕方ない。咲夜が嶋崎のことを持ち出すと、一瞬、航太郎が絶句した。
 『え…、誰から聞いたの、それ』
 「さあ? 誰だったかな、大学時代の同期か後輩か誰か。4年の時に別れてたって聞いて、すんごい驚いたよ」
 『…うん、まあ。なんか、言い出しにくくてさ、ハハ。まー、いーじゃん、そんな古い話』
 やっぱり、触れたくない話題だろう。咲夜だって触れたくない。苦笑した咲夜は、すぐに話を嶋崎から引き剥がした。
 「今の彼女は? やっぱり小動物系?」
 『えー、どうかな。けど、スッゲー可愛いよ。料理上手いし。寂しがりでちょっと嫉妬深いのが難点だけど』
 「そっか」
 ―――寂しがりで、嫉妬深い……か。
 じゃあ、余計、無理なんだろうな―――航太郎には気づかれないよう、小さくため息をついた。
 『あ、そういえば、咲夜って今年の大学祭、行くの?』
 「ううん。もう知ってる後輩もほとんどいないし」
 『やっぱ、そうだよなぁ』
 そう相槌を打つ航太郎の声は、少しホッとしている。咲夜は目を閉じ、唇を噛んだ。


 ―――あんたが、4年になってから、路上ライブ以外の活動を一切やめちゃった理由が、よくわかった。
 それだけ…辛かったんだね。航太郎。あんなに好きだった人に、私が原因で……ううん、ギターが原因で去られてしまって、あれほど好きだったギターを続けられない位……苦しかったんだね。
 それでも、一成とコンビ組む直前まで、私の夢に付き合ってくれたのは―――あんたが、優しすぎるから。
 いつも通り、ヘラヘラ笑いながらシマリスのノロケ話するあんたを、私はうかつにも一度も疑うことができなかった。

 去年の大学祭のライブの時、航太郎は、辛そうだった。「もうギターやってる暇なんてないよ」と言いながらも、後輩の弾くギターを見つめて、今すぐにでも戻りたいという目をしていた。だから私も―――いつか時間ができたら、また航太郎とセッションできたらいいな、と思ってたんだ。
 …でも。今の反応で、わかった。
 この1年で、あんたは、本当にギターを捨ててしまったんだって。
 せっかく折り合いをつけて捨てた夢を、ライブなどに誘って揺さぶるのはやめてくれ、と本気で思っている―――だから、大学祭に行かないと聞いて、ホッと胸を撫で下ろしている。
 ううん…それだけじゃない。音楽に繋がる私の存在も、もう切り捨てている。だって、昔は、電話に出た第一声は「咲夜?」だった。携帯に名前が出るから、電話に出る前から私からの電話だとわかっていたから。―――携帯のメモリから消されたんだな、って、この電話の最初に、もうわかってしまった。
 …もう、駄目なんだね。
 仕方ないよ―――航太郎には、もう、ギターより音楽より大事なものがあるんだもの。


 ふっ、と笑った咲夜は、再び目を開け、携帯を握り直した。
 「…ま、学祭行く暇あったら、彼女と旅行のひとつやふたつ、してやんないとね」
 『あはは、ご心配どうも』
 「じゃあ―――特に用事もないから、そろそろ切るよ」
 『うん。電話くれてサンキュ。久々で懐かしかった』
 「じゃ、おやすみ」
 『おやすみー』
 航太郎の返事を聞いて、咲夜は、静かに電話を切った。


 もし、私が“女”であることがシマリスを傷つけている、って気づいていれば。
 2人の仲が決定的に壊れる前に、私が航太郎から距離を置いていれば……2人は別れずに済んだかもしれない。
 2人が別れることなく、シマリスが航太郎のギターを認め、穏やかに支え続けることができていれば―――航太郎は、今もギターを続けていたかもしれない。

 「―――男と女が“仲間”を続けるのって……難しいね、航太郎」

 そう呟いた咲夜は、携帯のメモリーから、“航太郎”の名前を削除した。


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