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― First love ―

 

 15歳を過ぎた頃から、ずっと思っていた。
 人それぞれに「相応しい環境」というのがあるのだとしたら、わたしは、凄く―――凄く、凄く、もの凄く、相応しくない環境に生まれてきたんじゃないか、と。

 「そうかなぁ。明日美(あすみ)は、ピッタリな環境に生まれてきてると思うけど」
 缶ジュースのプルトップを引きながらあっさり言う友人に、明日美は恨めしそうな目を向けた。
 「…これ以上絶望させないで」
 「あらら、絶望してるの?」
 「してるの。(ゆい)は絶望したこと、ない?」
 「うーん…、あたしと明日美じゃ、立場もタイプも違うからなー。…あ、マドンナ先輩だ」
 明日美と唯が話しこんでいる中庭を、数名の取り巻きに囲まれた「マドンナ先輩」が通りかかった。
 この大学の学生の大半が金持ちのお嬢様だが、「マドンナ先輩」は、その中でも気位の高さと美貌がずば抜けてトップである。なにせ「セレブなお嬢様」ということで、マスコミなどにも度々取り上げられた人物だから、親の資産で優劣をつけがちな世界においても別格扱いなのだ。いつもああして腰ぎんちゃくを大勢連れて歩いているが、あの取り巻き連中も、実は資産家や政治家の「お嬢様」である。
 その時、「マドンナ先輩」の視線がこちらに向いたので、2人はにっこりと微笑み、「ごきげんよう」と挨拶した。それがこのお嬢様大学のしきたりなのだ。
 「ああいう人は、とっても相応しい環境に生まれてると思うわ」
 「…まあ、確かにね」
 明日美の呟きに、唯も同意した。
 「あたしも、同じ“金持ちの娘”でも、マドンナ先輩みたいな立場は嫌だな。大学行くのにロールスロイスで送り迎え、いっつも取り巻きに囲まれて、なんて、もう息苦しくてしょうがないもの。それを楽しめちゃうマドンナ先輩は、まさしく“相応しい環境”に生まれてるよね。でも―――明日美のとこは、そこまで浮世離れしてないでしょ?」
 「…そうなんだけど…」
 曖昧に言葉を濁した明日美は、ようやくミルクティーのプルトップを引き、それに口をつけた。


 (かのう)グループ―――日本ではかなり大きなグループで、海外にも子会社をいくつか持っている。戦前からある筋金入りの財閥とは比較にならないが、叶家は間違いなく、立派な「大金持ち」である。
 明日美の父は、その叶グループの総裁の三男で、グループの子会社を2つ任されている。つまり、明日美は叶総裁の孫娘、ということになる。そう―――明日美は、正真正銘、「お嬢様」なのだ。
 学校は小学校から私学で、中学以降は女子校ばかりで、常に「お嬢様」方に囲まれて生きてきた。お稽古事も習わされてきたし、使用人がいる環境にも疑問を持ったことはない。明日美の生活は、世間がセレブなんて言葉からは想像する生活(あのマドンナ先輩みたいな生活のことだ)ではないものの、まさに絵に描いたようなお嬢様路線だ。
 それでも、中学に上がる頃までは、明日美が自分を「叶の孫娘」だなんて自覚することはなかった。
 いくら叶グループ総裁の孫とはいえ、あまり期待もされていない三男坊の、しかも長男・長女とは随分歳が離れて生まれた末娘だ。親族の集まりなどでも、明日美は一番年下で、従兄弟たちの子供と間違われてばかりいる。自分と同じ「叶の孫」が次々に成人し、グループの一員となったり著名人と結婚していく中で、明日美だけはそういう世界と無縁でいた。
 ところが―――この「1人だけ歳が離れている」ことが、今更、あだになった。

 『末っ子のお前には、わたし達も甘い顔で接してきたが、これからはそうもいかない。明日美も、もう16―――叶家の人間としての自覚を持たなければならないよ。今月のパーティーは、お姉ちゃんじゃなく、明日美がパパに同行しなさい』

 同年代の従兄弟がいれば、まだ良かった。だが、「叶の孫」は、明日美しか残っていなかった。
 慣れない“社交界”で、明日美は「叶の孫娘」と呼ばれ、いろんな男性を紹介された。「祖父は孫には、特に孫娘には甘い」という通説を信じて疑わない連中が、叶グループと繋がることを目論んで、明日美を狙ってきたのだ。


 「社交界なんて―――面白くない人ばっかりだし、15も20も離れたおじさんに“結婚を前提にお付き合いを”なんて言われても、寒気がするだけで全然ときめかないし。だから、大学受験を理由に、ずっと断り続けてたんだけど…」
 「ああ…そうか。明日美、6月に20歳になったもんね」
 明日美の事情を察して、唯が苦笑する。
 そう―――明日美は6月に、20歳になった。
 毎年訪れる誕生日だが、20歳というのは、ちょっと特別……らしい。普段は家族や友人と祝うだけで終わる筈が、何故か“お披露目パーティー”なんてものが開かれ、明日美が大嫌いな“社交界”が戻ってきてしまった。しかも、それは1回では終わらなかった。
 「父が出席するパーティーに、半強制的に同行させられて、行く先々で“20歳になりました”ってお披露目するのよ? もう、うんざり。結婚なんてまだまだ先の話だし、付き合う人なら自分で探してくるわ。第一、わたし、初恋もまだなのよ? 一度も恋愛しないで、そんな風に“家”で結婚を決められてしまうのは、絶対イヤ」
 「でも、出席してる良家のご子息に、運命の人がいるかもしれないじゃない?」
 唯が言うと、明日美はため息をついて首を振った。
 「あり得ないわよ―――あの人達の目には、わたしは札束と株券の山にしか見えないんだもの」
 「…説得力あるわね」
 かく言う唯も、明日美ほどではないが、かなり大きな会社の社長令嬢だ。似たような経験は過去に何度かある。明日美の言う事は、実体験からなんとなく理解できた。同情するような目で唯が見つめる中、明日美はミルクティーをこくん、と飲み、大きなため息をついた。
 「あーあ…一度でいいから、恋がしてみたいなぁ…」
 「…恋、ねぇ…」
 「片想いでもいいの。誰かを好きになって、寝ても覚めてもその人のことばかり考えるような毎日が送れたら、どんなに素敵かしら…」
 届かない憧れのようなその響きに、唯がちょっと吹き出した。
 「片想いでもいいなら、すればいいじゃない、どんどん。人口の半分は男なんだから」
 「…でも、どうやって出会うの?」
 「そりゃあ、今のまんまじゃ無理よ。周りに男のいない生活なのに、明日美ときたら合コンの類に全然参加しないもの」
 「あれは…」
 一度だけ参加した合コンを思い出し、明日美の表情が曇った。
 もの凄く、苦手なノリだった。馴れ馴れしい態度をとる男性、露出過多な服装の女性、体がおかしくなりそうな位のペースで消費されていくアルコール類―――何が面白いのかキャーキャーとバカ騒ぎをし、素性も知らない相手と平気で携帯の番号を交換していた。そんな中で、明日美は明らかに浮いていたし、明日美自身も全く楽しめなかった。参加した複数の男性からしつこくアプローチされたが、唯を電話で呼び出し、途中で一緒に帰らせてもらった。その後、ああしたコンパでは気に入った女性を「お持ち帰り」してしまうケースもある、と唯から聞いて、震え上がったのを覚えている。
 確かに、日頃見ることのない同年代の男性には、たくさん出会えた。でも…あんなバカ騒ぎを見せられたのでは、好きだった人に幻滅することはあっても、初めて会った人を好きになることはない気がする。あれ以来、どんなに誘われても、そうした集まりは全部お断りしている。
 「ああいうのは、ちょっと…」
 「…ま、そうでしょうね。それに明日美は、見た目も問題ありだし」
 唯はそう言って、隣に座る明日美をの頭のてっぺんからつまさきまでを一瞥した。
 「その髪型といい、その服装といい―――もう、見るからに“お嬢様”だもんねぇ…。世間知らずで、いかにも男を知らなそう。コンパなんか出たら、一発で目をつけられちゃうわよ。同じ“金持ちの娘”でも、あたしみたいに庶民的なら、コンパに出てもコンビニで立ち読みしても浮かないけど、明日美は明らかに“場違い”だし」
 「……」

 叶 明日美、20歳。
 恋に恋する彼女の最大かつ唯一のコンプレックスは―――立場も外見も「お嬢様」であることだった。

***

 唯から貰った雑誌の切り抜きと、目の前のガラス扉に描かれた店名とを、何度も見比べる。
 「―――“Studio K.K.”……ここね」
 間違いない。この記事で紹介されている店だ。明日美は、ちょっと緊張したように、ごくんと唾を飲んだ。

 『お嬢様である事実を今更変えることもできないから、まずは一度、イメチェンしてみたら? あ、そう言えば、この前見たファッション雑誌に、面白いお店が紹介してあったわよ。黒川賢治がプロデュースしてるお店でね、美容院でカットを頼むみたいに、メイクを頼めるんだって。読者モデルの普段メイクとの比較が載ってたけど、すんごいイメチェンしてたわよ』

 ―――確かに…メイクひとつで、こんなに印象って変わるのよね。
 手元の記事に載っている写真を見て、ほうっ、とため息をつく。ちょっときつい顔立ちの読者モデルは、この店でメイクを施してもらった写真では、表情の柔らかさが出て愛らしいムードの顔になっている。普段のメイクでは近寄り難いキャリアウーマンっぽい顔だが、こちらの顔ならお見合いなどでもウケの良さそうな、女らしい感じだ。
 顔のムードが変われば、心の持ちようも変わる。そうすれば、普段選ばないような服も選んでみようかという気になるし、いかにも大人しくて世間知らずそうな外見が変われば、コンパなどにも参加しても浮かなくなるかもしれない。
 ―――よ…よしっ、やっぱり、行ってみよう。
 意を決した明日美は、思い切って、店内に足を踏み入れた。
 平日の昼間ということもあってか、店内は思いのほか空いていた。予約を入れず飛び込んだ明日美は、それを見てちょっとホッとした。
 落ち着いた木目とモノトーンを上手く組み合わせた洒落たインテリア。ゆとりを持って設けられた席。そんなものを珍しそうに眺めていたら、店の奥からスタッフらしき人物が出てきた。
 「いらっしゃいませ」
 「……」
 にこやかに応対するそのスタッフを見て―――明日美は、心臓が止まりそうになった。

 ―――なんて…綺麗な人…。
 男の人に使うのは変な言葉だけど、本当に、綺麗。背も凄く高いし、肩幅も広いし、むしろ男っぽい人なんだけど―――そう、美術品を見た時みたいな驚きかもしれないわ、これって。女性的な綺麗さとはまた別の、造形そのものの美しさ。ここまで綺麗だと冷たく見えそうなものだけど、笑顔がとっても人懐こいから、むしろ可愛く見える位かも…。

 「ご予約のお客様でしょうか」
 圧倒されたように明日美がぼーっとしていると、スタッフの方から話を進めてくれた。その声で、明日美はハッと我に返った。
 「…え…っ」
 「あの、ご予約は」
 「い、いえ、あの、予約はしていないんです。…予約なしでは、お願いできなかったんでしょうか…」
 「いえ、大丈夫ですよ。ただ、ご予約いただいていない方は、少しお待ちいただくことになると思いますが―――お時間、大丈夫ですか?」
 彼の目が、カウンター奥の時計をチラリと見る。が、時間を確認するまでもなく、明日美のこの後の予定は白紙だ。明日美は、コクコクと頷いた。
 「では、お名前だけ伺えますか?」
 「……叶、です」
 「カノウ様、ですね。お荷物、お預かりします」
 差し出された手は、背丈に見合った大きさで、指が長く、とてもしなやかに見える手だった。日頃滅多に見ることのない、自分とは明らかに違った大きさの手にドギマギしつつ、明日美はバッグを手渡した。
 少々お待ちを、と言って荷物を客用ロッカーに預けた彼は、明日美を席へと案内した。大きな鏡の中、自分の背後に映る彼の胸には、「一宮」と書かれた名札がついていた。
 ―――“一宮”…それに、流暢な日本語。でも、この顔立ちは、生粋の日本人とは思えない…ハーフかしら?
 それにこの顔、どこかで見たような気がする。どこでだったか―――少し眉を寄せて記憶を辿ってみたが、極最近見た気がするのに、どこで見たかは全く浮かんでこなかった。
 「今日は、メイクでしょうか。それともマッサージの方で?」
 美容院のようなナイロン製のケープを明日美に被せながら、彼が訊ねた。
 「あ、ええと…メイクで」
 「じゃあ、まずは今されているメイクを落とさせていただきます」
 「えっ」
 ―――って、この人が落とすの!?
 まさか、と思ったら、本当だった。明日美があたふたしている間に、彼は手際よくクレンジングクリームを手に取っていた。
 「目に入るといけないので、閉じておいて下さいねー」
 「は、はいっ」
 慌てて、目を閉じる。が、「未体験ゾーン突入」といった感じの緊張に、思わず閉じる瞼に力が入る。
 「…いや、そんなに必死に閉じなくても大丈夫なんで」
 「あっ、すっ、すみませんっ」
 目を閉じて何も見えない中、彼が苦笑する気配を微かに感じた。
 ―――…もう、目、開けたくないかも…。
 店に入ってからずっと、この人には、オタオタしている顔ばかり見られている気がする。明日美は、恥ずかしさで体温が1度ほど上がったような気がした。


 メイクを落とすのには、さほど時間はかからなかった。
 元々薄化粧な明日美なので、素顔になったところで、鏡に映った顔はさきほどまでの顔とほとんど変わらない。
 僅かにブラウンがかった、地毛のままの色のストレート・ロング。唯からは「一度切ってみたら?」と言われているが、この髪型以外したことがないので、不安で踏み切れない。それに、良く言えば清楚で上品だが、いかにも内気な優等生っぽい、この顔だち―――流行の服もGパンも、どうにもこの顔に似合わず、いつも「お嬢様ルック」になってしまう。
 ―――やっぱり、やぼったく見えるなぁ…。
 思わず、鏡を見つめてため息をつく。
 同じお金持ちのお嬢様でも、同じ大学に通う女性たちは、流行の服もどんどん着こなすし、男の人とも当たり前のようにお付き合いしている。なのに―――自分は、恋どころか、男の人と出会うことすらできない。

 普通の女の子が、当たり前のようにしている、恋。
 一度も経験していないから尚更、知りたい。人を好きになる気持ち、その人を求めて苦しむ気持ち。
 誰かを好きになるには、まずは出会わなくては、無理。誰かに出会える自分になるためには―――引っ込み思案で、変化に臆病で、常に守られる立場しか取れない自分を、変えなくては。
 内面を変えることは難しいけれど…せめて、外見が多少でも変われば、心の持ちようも変わってくるだろうか?

 「えー、それで…メイクってことは、今日はこの後、どこかお出かけの予定ですか」
 タオルなどを片付けながら、彼が言う。こうした質問は、美容院でも何度か訊かれたことがあるので、TPOに合わせたメイクを考えるために質問しているのだと想像がついた。
 「…いえ、特には。ただ、ちょっとイメージを変えてみたくて。今後のお化粧の参考にもなれば…」
 「イメージチェンジですね。どういった感じにしましょう?」
 問われて、はたと思考が止まる。
 ―――どういった感じ?
 それは、考えていなかった。「なりたい自分」の理想形を思い浮かべようとするが、明日美の頭には何も浮かばなかった。
 ただ、「なりたくない自分」だけは、はっきりしていた。
 「…具体的には、決めてないんですけど…」
 おずおずと答えつつ、明日美は、ちょっと顔を赤らめて、鏡の中の彼を見上げた。
 「とにかく、お嬢様っぽくない自分に、なりたいんです」
 彼の目が、キョトン、という感じに、丸くなった。
 「え?」
 「…だから、お嬢様っぽくない感じにしたいんです」
 「―――…」
 キョトン、としたまま、暫し唖然としていた彼は―――やがて、周囲の客やスタッフには気づかれない程度に、吹き出した。
 何かおかしなことを言ってしまっただろうか、と、明日美の胸に焦りがせり上がり始める。が肩を揺らしてクスクスと笑った彼は、明日美が何か言う前に、まだ笑いながらも返事を返した。
 「い…いや、ごめん、じゃなくて、すみません。ちょっと、あまりにもタイムリーだったから」
 「え…?」
 「ついさっきまで担当したお客様のご要望が、“お嬢様っぽい感じにしたい”だったんで」
 「……」
 それは―――…。
 まるっきり正反対の希望を連続で聞かされた彼の立場を想像し、思わず明日美も吹き出してしまった。
 「お嬢様っぽいイメージにしたい、っていうオーダーは結構オーソドックスだけど、お嬢様っぽく“ない”感じにしたい、ってのは初めてですね」
 「変でしょうか…」
 「いえ、わかります。すっごく」
 やっと笑いが収まったらしい彼は、そう言ってニコリと笑った。
 ―――…あ…、かわいー…。
 パッとみた瞬間に感じる美貌とはかけ離れた、少年ぽさが色濃く残る笑い方だ。なんだか意外な気がして、胸がドキンと鳴った。
 「オレも、外見がこうで、中身とは全然違ってるんで、時々この外見が恨めしくなるし。この風貌で、実はさけ茶漬けには梅干が合うなぁとか思ってる、って言ったら、引くでしょ、結構」
 「え…っ、す、好きなんですか?」
 「割とね。ピザとバドワイザーの組み合わせの方が上だけど」
 「……」
 確かに、彼の外見には、そぐわないムードかもしれない。でも―――今見た、ちょっと子供っぽい笑顔。あのムードには、フルコースのディナーなどより、そういう食べ物の方が似合っていた気がする。
 「見た目と中身のギャップの場合もあるし、見た目と事実があまりに符合しすぎてイヤな場合もあるし―――ちっとも不思議じゃないですよ。お嬢様っぽく“ない”自分になりたいと思っても」
 素に戻ったせいで、若干くだけた調子になっていた口調が、また接客用の口調に戻る。それが少し寂しかったが、彼が自分のコンプレックスを理解してくれたのがわかって、明日美は嬉しくなった。
 「では、お嬢様っぽく“ない”イメージで、担当者に伝えておきますので―――もう少々、お待ち下さい」
 彼はそう言って、席を離れようとした。えっ、と思い、慌てて明日美は、鏡越しではなく直接彼を見上げた。
 「あ、あの―――あなたが、メイクしてくださるわけじゃ、ないんですか…?」
 その問いに、彼は困ったような苦笑を返した。
 「お客様、うちは初めてですよね」
 「はい」
 「自分はまだ、初めてのお客様は担当できないんです」
 「…そう…なんですか…」
 “まだ”ということは、彼ではキャリアが足りない、ということなのだろうか? でも普通、キャリアのない人間には、逆に大事なお得意様などの担当はさせられないのではないだろうか―――どういうシステムなのか、よくわからない。
 ―――この人が最後まで担当してくれるのかと思ったのに。
 なんだか…ちょっと、残念。
 「もうすぐ終わると思いますので、少しだけお待ち下さい。…雑誌でも持ってきましょうか?」
 少しがっかりした顔をする明日美に、彼がそう言ってくれた。が、明日美は薄く笑みを作り、首を振った。

***

 担当者とやらが来るまで、10分ほどあった。雑誌を断った明日美は、暇を持て余す中、ずっと鏡を見ていた。
 鏡には、明日美の背後、店の入り口からカウンター、ウェイティングソファーの辺りが映っている。
 カウンターでは、今しがたメイクを終えた客の精算を、女性スタッフが行っていた。背が低くて丸い、溌剌とした女の子だ。童顔なタイプだし、明日美とそう変わらない年齢だと思うのに―――笑顔で客を送り出す彼女は、明日美よりずっと大人に見えた。学生と社会人の違いだろうか。アルバイトひとつした経験のない明日美には、その姿は眩しく映った。
 さっきの“一宮”の名札をつけた彼は、マガジンラックに雑誌を戻していた。「ありがとうございましたー」というカウンターの彼女の声に合わせ、彼も笑顔で客を送り出した。
 多分、この店では似たような立場の者同士なのだろう。カウンターを離れた彼女は、彼の所へ行って、からかうような表情で彼に何かを言った。
 それを聞いて、彼の顔が、ムッとしたような表情に変わる。
 冗談半分で彼女の頭を彼が軽く叩くと、彼女はオーバーな位に彼に文句を言う。それを見て、つい1秒前までムッとしていた彼は、実に楽しそうに、無邪気に笑った。
 ―――なんて、表情の豊かな人なんだろう…。
 あんな完璧な美貌を持っているのに―――まるで子供みたいに、表情がクルクル変わる。本来の整った顔より、そうした表情の移り変わりに、明日美は目を奪われていた。
 それに、彼の身のこなし。単なる立ち姿も常に背筋が真っ直ぐになっており、歩き方、手の上げ下ろし、全てがしなやかで、非常に様になっている。どこが普通の人と違っているのか……この短時間では想像がつかないが、何か彼は特別な人間のような気がした。

 今さっき出て行った客を担当していた女性スタッフが、2人に近づき、何か声をかける。すると、彼はすぐに真面目な顔になり、手にしていた紙を見せながら何かを小声で説明していた。どうやら、さっき明日美から聞いた要望などを伝えているらしい。
 案の定、彼から説明を受けた女性スタッフは、2、3度頷くと、明日美の方にやってきた。
 「お待たせしました」
 肩まで髪のある、キリッとした感じの女性だ。彼が担当じゃなかったのはちょっと残念だが、知らない男性に顔を触られるよりは、女性の方が緊張せずに済む。明日美は、ホッとした顔になった。
 「本日メイクさせていただく、星です。えー…、お嬢様っぽいイメージを変えたい、とのことで、よろしかったですか?」
 「あ…、はい。お願いします」
 「そうですね―――お客様の持っている上品さは生かしながら、カジュアルな服なども似合いそうな活動的なイメージに変えていきましょうか。お好きな色など、何かご希望はありますか?」
 「…いいえ。全てお任せします」
 本当はラベンダー・ピンクが好きな色だが、いかにも寂しそうでおとなしい色なので、あえてそれを言うのはやめておいた。

 星の作業は、非常に丁寧で、かつ、速かった。
 たくさんのファンデーションの中から、明日美の肌色に一番近いものを選び、更にそれにコントロールカラーを加え、驚くほど自然に明日美の肌に馴染む色を、あっという間に作り出していく。時折、簡単な説明を加えつつ、みるみるファンデーションが塗られていった。
 続いて、チークやアイメイクへと入っていく。明日美は完全にまな板の鯉状態だ。
 「…一宮が、何か失礼なことでもしましたでしょうか」
 ふいに、星が、そんなことを言った。
 ちょうどアイブロウを描いてもらっているところだった明日美は、思わず目を開け、随分と近い距離にある星の顔を、驚いたように凝視した。
 「え…っ? 何故、ですか?」
 「お待ちになっている間、ずっと一宮の方を見ていらっしゃったので」
 「……」
 ―――そ…そんなにミエミエだった、のかしら…。
 「…ち、違うんです。ただ、ちょっと―――あのスタッフさん、どこかで見たことのある顔だと思ったものですから」
 恥ずかしさに、ちょっと顔を赤らめながら、明日美が答える。すると星は、ああ、と納得したように笑った。
 「それでしたら、多分、ポスターでしょう」
 「ポスター?」
 「今月頭に発売になった、MP3プレーヤーの。黒っぽい背景の男性のポスターと、白っぽいトーンの女性のように見えるポスター、2枚1組で、駅の構内に貼ってあると思いますけど」
 「…あ…っ」
 そうだ。思い出した。あのポスターだ。
 ワイルドな魅力を湛えた男性モデルと、聖女と呼びたくなるような清楚さを持った女性モデル―――唯から「これ、同じ人だと思うよ?」と言われて、もの凄く驚いたのだ。そう、あのポスターの男性の方の顔は、パッと見た印象はかなり違うが、細部のつくりは、確かにさっきの一宮というスタッフと同じだった。
 「一宮は、メイクアップアーティストとモデル、2つの顔を持ってるんです。あれは、モデルとしての彼の仕事ですよ」
 「モデルさん…」
 ―――だから、あんなに身のこなしが美しいのね。
 体の線を美しく見せる訓練のできている人物だったのだ。だから、普段の動作も、普通の人とはどこか違うしなやかさがあったのだ、と納得した。

 続く作業を黙って受けながら、鏡の中、彼の姿を探す。
 時折、鏡の中を掠める彼は、片付けや準備作業をテキパキとこなし、一時もじっとしていなかった。星が使った道具類をさりげなく片付けたり、他のスタッフの手伝いに素早く出向いたり―――そうした動作も、いちいち無駄がなく、ピンとした緊張感を伴った動きだ。
 そして、常に真剣さを持った、真っ直ぐな目……恐らくは下っ端であろう彼は、先輩たちのメイクする手を、一瞬も見逃すものか、という目つきで見つめている。それは、先ほど彼とふざけていたあの女の子も同じで、タオルを片付ける時に背後を通り過ぎながらも、星の手元をしっかり見ていた。
 なんだか―――みんな、カッコイイ。
 誰も彼もが、真剣で、仕事に集中していて、きちんと地に足がついていて…カッコよく見える。その中でも、彼は特別、カッコよく見えた。
 退屈なパーティーで見た良家のご子息とも、コンパで見た下心丸出しの遊ぶことしか知らない学生とも、まるで違う。社会人として、プロとしての自覚を持ってきちんと仕事をしながらも、見た目は華やかで、それでいて子供みたいな無邪気さもあって。
 ―――こんな男の人も、世の中にはいたなんて…全然、知らなかった。
 明日美はいつしか、鏡の中に時々映る彼の姿に、つい見惚れてしまっていた。

 そうして、メイク開始から、20分後。
 「はい。できあがりましたよ」
 「―――…」
 星の言葉に、改めて鏡の中の自分を見つめて―――明日美は、新鮮な驚きに思わず息を呑んだ。
 顔立ちは、確かに明日美だ。いきなり別人になってしまった訳ではない。でも―――なんだろう。目がいつもよりパッチリと明るく開いているように見える。頬も、さほどチークを入れた記憶もないのに、血色も良く健康的に見える。口紅の色も、自然な色合いのローズ色だが、今まで一度も使ったことのないグロスが、いつもより唇を立体的に見せている。
 30分前と、同じ顔。でも…まるで、違う顔。鏡の中の自分は、いつもの自分よりずっと活発で明るく見えた。
 「凄い……」
 「お気に召しました?」
 ふふっ、と笑った星は、明日美に1枚のカードを手渡した。
 「これが今日使ったファンデーションやアイシャドーの一覧です。簡単なポイントも書き加えてありますから、今後の参考にどうぞ」
 「……」
 なんだか、違う自分に変身するためのレシピを手に入れたみたいで―――カードを受け取る明日美の胸は、何年ぶりだろうと思う位、ドキドキと高鳴っていた。

***

 会計は、彼がまた担当してくれた。
 「うちは、日や時間によって店に出ているアーティストが変わりますから、次回は是非電話予約をしてからおいで下さい」
 「…はい…」
 レシートや、今日新しく作ってもらったメンバーズカード、それに星の名刺などをバッグにしまいつつ、明日美はチラリと彼の顔を見上げた。
 「? 何か?」
 「…あの…」
 一瞬、迷う。でも―――変身して、ちょっと活動的な気分になった今を逃しては、二度と訊けない気がした。明日美は、思い切って口を開いた。
 「スタッフとしてじゃなく、個人として、答えていただいてもよろしいですか?」
 「はっ?」
 「今のわたし、どう思われます?」
 唐突な明日美の質問に、彼は驚いたように目を丸くした。
 「どう、って?」
 「その…お嬢様に、見えますか」
 「……」
 そう問われ、彼は、まだちょっと目を丸くしながらも、少し後ろに下がって、明日美の全身を一瞥した。改めてチェックされていると思うと恥ずかしかったが、訊いたのは自分だ。明日美は、バッグのストラップをぎゅっと握り、彼の答えをじっと待った。
 「うーん…その、いかにもお嬢様なワンピースがアレだけど…、一見、どこにでもいる女子大生に見える、かな」
 個人として、と明日美が言ったのを守ってくれているのだろう。彼は、さっき一瞬使ったあのくだけた口調で、そう答えた。が―――続けて、こうも言った。
 「でも、喋ってみた印象は、やっぱりお嬢様だな」
 「…えっ」
 「口調や態度、店員とのやり取りの時の仕草なんかに、日頃から“人にかしずかれる立場”であることや育ちの良さ、社交マナーのレッスンを受けてることが、しっかり表れてる。見た目で“お嬢様っぽい”とは言われないだろうけど、やっぱり話してみれば“生粋のお嬢様”だってわかるよ」
 「……」
 やはり、生まれてから20年間培われたものは、心の持ちよう位では消えないのか―――当然といえば当然な結果に、明日美はちょっとうな垂れた。
 ところが、がっかりする明日美に、彼は思いがけない言葉を付け足した。
 「でも、いいんじゃない? “お嬢様”で」
 ―――お嬢様で、いい?
 驚き、顔を上げる。明日美を見下ろしている彼は、目を丸くしている明日美に、くすっと笑いかけた。
 「君だって、誰にでも丁寧な言葉で話す訳じゃないだろうし―――言葉遣いとか態度は、人間関係が変われば、自然と変わるだろ? それ以外のマナーの良さや上品さは、君の置かれた環境で培われてきた“美点”なんだから、無理に今時ぶって崩したりすることないって」
 「―――…」
 「ま、スタッフとして言うなら―――もしまた変身したくなったら、是非“Studio K.K.”においで下さい」
 まだうまく考えがまとまりきる前に、ニッコリ、と営業スマイルでそう締めくくられ―――明日美も、思わず笑ってしまった。

 ―――不思議な人…。
 わたしのコンプレックスを、こんなに簡単に“美点”なんて言って……それが、皮肉にも嫌味にも無神経にも聞こえないなんて。

 胸が、ドキドキする。
 ドキドキ、しすぎて―――また、顔が熱くなってくる。

 「あ…っ、あのっ、一宮さん、」
 「はい?」
 「…い…一宮さんの名刺も、いただけます…?」
 とても、顔を見ては言えなかった。彼の名札の辺りに視線を落として、一気に言う。
 すると彼は、ポケットから名刺入れを取り出して、あっさり1枚、明日美に差し出してくれた。
 「どうぞ?」
 「……」
 「星さんのメイクには、まだまだ追いつかないけど―――いずれ、指名してもらえる日も来るかもしれないから」
 顔を上げた明日美に、彼はそう言って笑った。
 恐る恐る、受け取る。受け取った瞬間、指先が微かに触れたけれど、それだけで明日美の心臓は壊れそうになった。
 「…また、来ます」
 なんとかそれだけ言い、ペコリ、と頭を下げた明日美は、半ば逃げるようにして“Studio K.K.”を出た。背後で「ありがとうございましたー」というスタッフ数名の声が聞こえたが、誰と誰の声か確認する気にもなれなかった。


 無我夢中で、いつもの1.5倍の速さで、歩く。
 ドキドキが少し落ち着いてきたところで、少しだけ歩く速度を緩めた明日美は、大きく息を吐き出した。
 ちらっ、と、通りかかったファッションビルのショーウィンドウに目をやると、大きな1枚ガラスに、今の自分が映っている。来た時と何ら変わらない、大人しそうなロングヘアに、いかにもお嬢様といったムードのフェミニンなワンピース―――でも、メイクを変えたせいか、それとも頬が紅潮しているせいか、どこかいつもの自分とは違っているような気がした。
 「……」
 ここにきてようやく、受け取った名刺を確認することを思い出した。明日美は、しっかりと胸に押し付けていた名刺に、そっと視線を落とした。

 『一宮 奏 ―Sou Ichimiya―』

 「いちみや…そう…」

 …どうしよう。
 どうしよう、唯。恋を見つけるために、自分を変えようと思って、あの店に行った筈なのに。

 わたし―――もう、見つけちゃったかもしれない。“恋”を。

 鼓動が、速い。改めて名刺を胸に押し付けながら、明日美は、初めて感じる心が震えるような想いに、まだ戸惑うことしかできなかった。


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